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2025年6月13日金曜日

【連載】現代評論研究:第9回総論・戦後俳句史を読む(私性④)

(投稿日:2011年08月27日)


堀本:「固有のモチーフー私性」という言い方について補足する。「私性」とか「社会性」とか「詩性」等という、モチーフの一つと言う意味である。

 私は、じつは俳句でも川柳でも「存在の詩」として役割を思うので、通俗になったり自己目的化されるのは困るが、「私」と言う時空が、依然として詩の坩堝である、という考えを捨てきれないのである。波郷の境涯俳句なんか、いいなあ、と思う。川柳がそれを捨てとしたら、・・どうなるのか。

「川柳の先端では、私性の絶対性(言いかえれば、川柳の近代的個)が相対化されるという過程にさしかかりつつあるというのが現状である。」(吉澤)

 この辺りの展開の切実さは大変よくわかる。吉澤たちの真摯さを感じる詩、問題意識は正当であろう。言語世界総体のどこに切りこみ表現へ転換するか、と言うところから考えれば、本人の選択と追究の方法は自由なのである。近代文学に大きな意義をもたらした「私」追究の方法、も極限に来ている、と言うことだろうか?


筑紫:私性をめぐっては4回目に及んだ。そろそろ結び(そんなものがあるのか不明?)に近づいたようだ。議論の手順であるが、何かアプリオリに「私性」があるというと形而上学に陥りそうな気がする。社会性俳句が発生し、前衛俳句が発生し、風土俳句が発生したように、私性が川柳ではいつ発生し、俳句ではいつ発生したか、それがどのように変成したかからスタートしたほうがよいように思われる。吉澤の3段階説はそれはそれでなるほどと思えるが、俳句にはそうした段階はなかったように思われる。そもそも「私性」などという意識そのものがなかったのかもしれない。手じかな俳句用語辞典を見ても「私性」は見当たらない。「私性」を意識した俳人もいなかったのではないか。変な例になるが、前衛俳句が存在しない場合の前衛俳句とは何なのかはきわめて奇妙な質問となるであろうがこれに近いかもしれない。「私性」も同様である。「私性」のまがい物として境涯やエロスがあるのかもしれない、「反私性」の超越として安井浩司があるのかもしれない。川柳で生まれた私性を、あまり無批判に俳句に導入しないで、俳人(前回の私も含めて)は何に翻訳して私性として理解したのか、反省してみることの方が早道のような気がする。


吉澤:川柳における「私性」が俳句にそのまま当てはまらないのは当然だろう。「私性」というものを〈作者が自分のことを語ること〉あるいは〈作者と作中主体との関係〉という見方でとらえると、俳句についてこんなことを思う。

 たれ付けて串カツ重し夏の暮れ        榮猿丸

 フライドポテトの尖にケチャップ草萌ゆる

 紫陽花や流離にとほき靴の艶         小川軽舟

 岩山の岩押しあへる朧かな

 この二人の句を比べた場合、榮の句では、たれの付いた串カツを見ている具体的な主体(これが作者であるか、作中主体であるかはとりあえず保留)の存在が鮮明に感じられるのに対して、小川の句には見ている主体の存在がほとんど感じられないのである。榮の句に対するさいばら天気の小論の題が「外部から『俳句』の内部へ」ということであり、小川の句に対する関悦史の小論の題が「型に依る醒めた物狂い」であることは、何か示唆的ではないだろうか。いわば〈中心と周縁〉という対比に見えるのである(「中心」と「周縁」は方法の差であって、価値の優劣ではない)。榮と小川は、俳句という形式と歴史の集積に対して、今ここに生きている一人の作者として対峙している点では同じなのだが、見ている主体(あるいは見ている作者)の扱い方の差が、はからずも二人の評者の小論に対照的に表れているように思える。


筑紫:吉澤の言うところは確かに感じなくはない。しかし、季語「夏の暮れ」「草萌ゆる」「紫陽花」「朧」によって多かれ少なかれ主体性は剥がされているのではなかろうか。この二人と対比するには、栄の師であり、小川の兄貴分にあたる(いわゆる俳人の好きな師系に属する)小澤實を見てみるのも面白い。

 ゆたんぽのぶりきのなみのあはれかな

 夏芝居監物某出てすぐ死

 ふはふはのふくろふの子のふかれをり

 いのししのこども三匹いつもいつしよ

 小沢の流儀は、「私」を消去して、境涯もなく、季語の調和によって逆に「主体性」を主張していることだ。ここであえてこの句を取り上げたのは、吉澤のあげた、榮、小川の句は後世に残るかどうかは全く不明であるのに対し、小澤のこれらの句は既に現代の古典としての位置づけを得ていると考えられるからである。何れにしても、ここの俳句ではばらついているように見える方向性が、全体から見たときに現代俳句にあっては、反私性へ、反私性へと向かっているように見えるのである。


堀本:話は戻るが、現代俳句で、前近代の結社の制度や主宰の添削法が崩れつつあるからといっても、やはりすぐれた先輩を中心にした私塾のようなグループが出来てくるのは従来とおなじである。同人誌でも、作品を中心に、また気のあった者同士、広く組織力編集力を中心にする・・かの違いはあるが、いずれも、私性とか個性の標準は一般社会の常識のセンに従っていると思う。つまり現代俳句では、改めて私性を標榜する必要はないのであり、言語領域と生活の領域が地続きになっている、そういう事態なのだと思う。「私」も、ここではモチーフとしてはひとつの仮構なのである。 

 筑紫磐井が「私は読者を意識した女性俳句を劇場型俳句と呼んでみた」と言っている。これは面白い指摘だ。

 俳句には短歌のような自己言及性がない、俳句で自分を語ることは不可能だ、と言ったのは「京大俳句」時代の上野ちづこであるが、それはある意味で正しい。言う必要がない、とも言いうるのだが、しかるになぜ女性だけが女性性(私性)を注目され、その周辺で毀誉褒貶の評価を受けてきたのだろう。

 時実新子はもちろん、俳句の若い女性、柴田千晶や、田中亜美の作風にもでているようなエロスは今後も断続的に追究されるはずだ。また、男性からの母性や女性性という全人的なものへの幻想がある限り、女性俳句に於ける「私性」という劇場のテーマはなくなることはないだろう。


筑紫:短歌では、「おんなうた」が盛んに喧伝されたが、俳句ではこうしたことはなかった。女流俳人の時代というのは、俳句の担い手が女性になってきたということであり、俳句の本質に女性的なものが提言されたわけではないだろう。

 私性俳句はないと思うが、劇場型俳句はあり得ると思う。もし堀本に賛同してもらえるなら、私性俳句・川柳を劇場型俳句・川柳と言い換えられれば、主体の問題も新しい見方を加えられるのではないか。劇場のなかでは、女優個人、役柄上の(生身の)主人公、脚本上の(抽象的な)主人公はそれぞれに違っている。

 さらに劇評(このような評論がそれに当たろう)で批判される女優や演じられた主人公もまた異なる。役柄に興奮して女優に恋したり、舞台の役者に憎たらしさのあまり切りつけたりする勘違いはいつの時代にでもあることなのだ。だから時実新子を演じている大野恵美子が、時折役柄に不満を感じることは十分ありえると思う。それは劇場型川柳の宿命だ。しかし、鈴木六林男を演じている鈴木次郎がいて役柄に不満を感じる、ということは考えにくい。六林男俳句は劇場型俳句ではなく、全人格俳句であるからだ。


堀本 :「私性」は戦後文学の重要な規範であるが、必ずしも現在の凡ての表現者やすべてのジャンルの主要なカテゴリーではない。俳句で女性性の問題を対象化する時も、橋本多佳子や三橋鷹女のエロス性もでも「劇的」と考える方がわかりやすいかも。いちど試行してみてもいい。しかし、これは、過渡的な分析用語だとも思う。

 「私性俳句」「女性俳句」というのも、たしかに、便宜的に出てきている。むしろ存在不可能な俳句だ。本質的ではないにもかかわらず、それについての強烈な関心があると、いくつか次元の錯覚をおこるときがある、それ自体が人性の面白さであり、文学的テーマになりうる。


北村:私性というのは私にも慣れない言葉だが、これを私のなじんでいる(つまりかなり昔から活躍している)現代詩人で考えると、まず伊藤比呂美、彼女の詩の場合は、機関車のように進行する私があって、その体当たりで次々発見されていく世界は、彼女が作り出したもののように私的である。作者と作中人物に加えて世界までも彼女のものである。筑紫の言葉で言う全人格詩の極端な例であろう。

 粕谷栄市の詩では、一見作中人物は作者とも読者ともまったく異なる時代と環境に虫けらのように住み、画然と分離しているように見える。しかしその世界は、まさしく作者の世界の実感であり、彼の日常なのであると見られる。作者と作中主体は浸透し合っており、全人格の詩というよりも、作者の人格自体のシフトがなされている感がある。

俳句では

 裸体なる夫婦がわれを捌くが見え  関悦史(セレクション俳人 プラス 新撰21)

など、そうした自己を異界に移す要素を感じさせるが、一句単作で読み取ることはやや困難である。永田耕衣の作を続けて読めば、彼の主体の東洋的楽土への拡大・溶融が感じられるだろうか。

 いずれにしても「私」というものを、そう単純なものに留めたくないものだ。

 ところで、吉澤が第七回の2で挙げた先端の川柳では、言語はばらばらで文意は不明である 。したがって、そもそもの作中主体なるものが不明である。すると逆にそれを作品として押し出した作者が強く意識されることになる。

 これらに対して筑紫は、俳句では「技巧・技法万能主義」が最近のトレンドであるとする。(このことに対する筑紫の価値判断はアンビヴァレントで単純・直裁ではない。第六回の2参照のこと。)この俳句の姿勢は言語の伝統を駆使するものであり、言語の歴史的共同性に依拠する。また主題性よりもニュアンスが重視される。第七回の2で堀本の述べるように、俳句においては破壊的な試みの時代は一段落しているということか。

 吉澤の言う、大会で「抜ける」ことが目標の川柳と、結社雑誌の中で主宰の価値に沿おうとする俳句、両分野のこれまでの歴史の差も重要なポイントだね。。


吉澤:大会で「抜ける」ことを目指さない川柳人が、ごくわずかであるが現れ始めている。「23ページのメロン図について(森茂俊)」と「カモメ笑うもっともっと鴎外(小池正博)」は大会の特選吟であるが、「ララランリリリンララルラ曲がり切りなさい(兵頭全郎)」は同人誌の雑詠欄の投句である。どの句も言語実験的ニュアンスが濃厚であるが、大会で上記のような句が抜けるかどうかは、ひとえに選者が誰であるかによる。「言語はばらばらで文意は不明である」(北村)ような句を拾える選者は、残念ながら川柳界に多くはない。そういう事情が、「抜ける」ことを目指さない川柳人を生んだのではないかと思われる。


堀本:その人達がなぜ、それなのに、「川柳大会」という発表形式にこだわっていることについて、もうすこし、吉澤の意見を聞きたい。(「川柳大会」の古めかしいしかし愉しい演劇性、様式性はなかなか見ものであり、この雰囲気にはまるといきいきしてくる川柳人の遊び方は愉しい。でも、このトポスは、こういう形で継続するのだろうか?)


吉澤:理由は楽しいからだ。大会は一種のお祭りである。久しぶりの人とも出会えるし。もちろん研鑽の場でもあるが。あの楽しさがある限り、大会は続くだろう。ただ、句会大会を好まない川柳人もいる。


堀本:わりあい趣味で動いているのか。


吉澤:趣味という言葉でくくってしまうと語弊がある。研鑽や勉強の場と考えて参加している人もたくさんいるし、例えば亡くなった定金冬二は句会は戦いだと言っていたらしい。


堀本: 俳句では、実験作は、句集形式それもかなり私家版的意味合いをこめた少部数、少人数の同人誌を基盤としてきた。作品の方法は普遍をめざしむろん世に問うものであるが、作家の態度は、私性というか個の独在に賭けるとことがあった。だから、ある時期が過ぎれば、句集を出し、欲を言えば作家として生活がなりたつ市場も欲している。これも俳句の特性ではなく、時代的な特性だと思う。俳句史は、(川柳史も)表現史を中心として構成されるべきであるとともに、作家の生活史、それを流通させる流通の場が検証が可能にもなる。

 俳句表現の転換の兆しは1970以後の俳句ニューウエーブのころから目立ってきた。

 30年前、攝津幸彦は、早くから前衛実験に手をそめ、最も早い時期に伝統的な俳諧性を取り入れて、むしろ大成功した。坪内稔典は、俳句の文学的完結性を自己否定した。前世紀末ニューウエーブの異端中の異端上野ちづこは、私性の問題を思想的に突き詰めて、俳句の外に出て行き、江里明彦は批評性を盛り込んだ社会性(意味世界の構築)を取り入れることで、かろうじて俳句の側から境界に接している。「第三期京大俳句」の幕を閉じたこの二人の文学的な軌跡は、現在の川柳のモダニズム運動の行方と重ね合わせて私から見れば示唆に富んでいるような気がする。夏石番矢は、ある意味ではもっとも詩に近い言語領域を俳句の方法で渉猟した。

 川柳の現段階をあまり離れると議論が混乱するので、これはこの位にしておく。

 現在では、俳句甲子園の台頭が若者達の古典帰りを目立たせている。形は一般的な俳句形式を踏襲しながら、先端性を誇っている理由は、対象世界を摑む感性のあり方によるのだろうけれど、これが表現の現段階でに意義付けのむづかしいところである。

 川柳のもっとも若手が、脱川柳=と見まがう、意味の攪乱をめざしている方向とはすこし違うような気がする。俳句の新世代はじつに体制的なのである。


北村:私性をもう少し私の土俵に近づけて考えてみる。「作者」は自明として、そもそも「作中主体」とは何か。一応作品の中の主語のことであろう。日常詠に終止する人生・生活短歌や、風刺・滑稽を旨とする古典的あるいは時事川柳等はいざ知らず、人は他人に、悪人に、死者に、動物に、ものに、と何にでも自己を仮託できる。

 さらに難儀なことは、自己と世界の境界が定かでないというポストモダン的考え方も成立する。個というものは、便宜的なフレームとして形成される概念なのではないか。(私は実は強固な個人主義者であったのだが、このシリーズで俳句を勉強するうちに、呆けが進行して個人概念にメルトダウンの兆候が見られる。)

 吉澤が「川柳の一部では、このように「直接的に」何かに結び付けにくい句も書かれている。仮にこれらが喩であるとしたら、狭い意味の喩ではなく、世界そのもののありようの喩とでもいうべきだろう」として挙げている石部明や清水かおりも、自己と世界の境界を取払うことにより、川柳の従来の狭かった私性の論議を抜け出している。

 第3回の2で触れた後期の齋藤玄の句には、作中主体は風景であろうか。それを見る死者のまなざしが感じられるが、それは作者と作中主体の中間物とも言える。

 安井浩司の句においては、原初的で崇高さを感じさせる行為を纏う作中主体。それを見る視点は超越的にも見える。「こまめに近距離のもののみを撃つ(中略)昨今の俳句」を不幸とし、「射るべき魂は遙かに遠いところに在る」(『海辺のアポリア』「渇仰のはて」)とする。これは筑紫の指摘する技巧・技法の句の時代に対するアンチテーゼである。

 月光射して水霧となれる厠妻         『句篇』

 老農ひとり男糞女糞を混ぜる春    安井浩司『句篇』

 TOTO、INAXの時代の人が厠妻の句を受けとめうるのか不明だが、母屋から離れて野山に向かって立つ厠の記憶を持つ私には、実在を越えた絶景となる。後者、

 見渡せば柳桜をこき混ぜて都ぞ春の錦なりける  素性法師『古今和歌集』

を連想するが、はるかに啓示的である。主体は自然の点景に回収されて聖性を帯びるのである。

 河原枇杷男においても、私性は一筋縄ではない。「私」は宇宙なのである。純粋培養されている点で、浩司との違いがあるが。

 枇杷男忌や色もて余しゐる桃も    河原枇杷男『蝶座』  (色=しき)

 昼深し身に飼ふ梟また啼くも          『鳥宙論』

 これらの俳人は、素朴な意味での私性の埒外で世界に共振し、黙示録を目指すかに見える。かくして、時代の趨勢には背くが、「私性」というテーマには歴史的な意味しか無く、そこから踏み出さないと私には面白い話は始まらないと考える。


吉澤:この鼎談を通じて思ったことをいくつかあげて、締めくくりとしたい。

 川柳と俳句では、結社や句集、大会のあり方などは違っているが、共通点もたくさんあった。堀本があげたように、俳句でも川柳でも言葉の意味を霍乱するような試行がなされていること、時実新子と女流俳人との書き方が同じ質のものであること、などである。筑紫の「劇場型俳句・川柳」という整理の仕方は、川柳の「私性」を考える時に有効なヒントになる。

 相違点に戻るが、川柳と俳句の違いはやはり季語だと再確認したことである。「私性」との関連で言うと、筑紫の「季語「夏の暮れ」「草萌ゆる」「紫陽花」「朧」によって多かれ少なかれ主体性は剥がされているのではなかろうか」という指摘は示唆的だった。どのような方法で(例えば、主体性を剥がす、劇場型であることを意識して書く)書いたり読んだりするのか。これは技巧・技術の問題であるとともに、川柳観・俳句観の問題でもある。そういう二面性を持っている。

 私性川柳・俳句でも二種類ある。作者の個人的な事情に還元されて閉じてしまう句と、作者の個人的な事情に根ざしていながら読者個人個人の問題になってくる句とがある。北村の「河原枇杷男においても、私性は一筋縄ではない。『私』は宇宙なのである」という意見はそのことと関連していると思う。ここには、一句の授受はどのようになされるのかという重要な問題がある。

 他のジャンル(?)を知ることは、自分のジャンルについて考えることでもある。四回の鼎談を通じて、多くの刺激をもらったことを感謝している。

(今回をもって吉澤良久さんは、一身上の都合で退会されます。短い期間ではありましたが、濃密なご協力に感謝申し上げます。)

2025年5月23日金曜日

【連載】現代評論研究:第8回総論・戦後俳句史を読む(私性➂) 

堀本: 私性と言うことに関連して、想い出すことがある。

 川柳と俳句など短詩型超ジャンルの「北の句会」をはじめたころ、連句に長けた人が来ていて、全く無知の段階から手ほどきを受けたことがある。

 その時、一緒に連句を巻いた川柳人が怒ってしまった。自分の句を勝手になおした、と言うのだ。でも私には怒る理由が解る気がした。自分のかつての俳句の結社への反発によく似ていたからだ。初心者だから、連句のルールをまだ知らぬこともあったが、同時に、その人の川柳の作り方が自分一個の内面の表現をめざしたもの、共同製作するとか、付ける付けられるというルールを受け入れにくいのであった。連句ではその場に合わぬ「私性」は捨てられるのである。川柳人の立場では、いな、俳句にあっても、自分のモチーフを大事にする作者が消されることは認めがたい。これは、今でも根強く残っている。

 しかし、私は、先ず連句での捌きの権限がひじょうに強いことに驚いた。それはルールであること、と納得したので私の場合はそのまますすんでいるが、自由詩を書いていたころは「下手でもいいから自分の思いを自分の言葉で」、と考えていたからだ、しかし、歌仙の仕組みにしたがってその共同製作に参加する過程で、自分の個性と署名性の自覚が消えてゆくこと、文台下りれば即ち反古なり、と言うその歌仙を巻く時間の平等が保証されているーこれも一種の舞台装置であること、その場の仮構性自体が連句のひとつの面白みであることも理解できる。詩の構造そのものが、このように、個も包みこんだ世界像を象徴的に完結させている。こういうのも、詩のあり方としてはめずらしいのではないだろうか。

 俳句、もちろん一句独立の詩であると言う宣言自体が近代の作家主体の権利をもとめる反映と見てもいいのだが、連句との葛藤は常にある。だが、結社の殆どのところが添削の権限を主宰にゆだねているのは、近代の作家意識と、この座の文芸としての俳諧連歌のを結合しているからだ。こういう形で俳句はだんだん短くなりながら、俳諧の制度をまだのこしているのだ、ともいえる。いまや、川柳でも急速に川柳のアイデンティティや連句俳句の詩形の相互理解は深まっている(はずだ)。

 「私性川柳」の押しつけに自家中毒するあまり、川柳人が(吉澤やその同行者のように)、作品にあって私性を表現する必要がない(たとえ虚構化しても)、と感じはじめたのではないのか?もしそうであっても、その選択自体は止めるわけには行かない。それはそれで一つの立場だ。また、作者という自覚を得てゆくにつれて、句集を欲し、署名性を欲する、という個人の創作家=作家的志向が主張が強くなるのも当然ではないか。近代川柳の固有のモチーフ「私性」は、作品内容にではなくむしろ作家の方法の自由の主張として現れているのが川柳の時代的な現段階であろう。

 そして、その姿勢は、従来のパフォーマンス的な川柳の共同性とどのように折り合い、改善させてゆくのか興味がある。

吉澤:川柳が一句屹立を目指しているのはその通りだが、「句集を欲し、署名性を欲する」ということには違和感がある。連句との関係で言えば、川柳も俳句も一句屹立を目指す文芸であるので、俳人でも主宰以外の人に自分の句を変えられるのは嫌がるだろう。要は、連句の場でのルールを受け入れるかどうかの問題であって、川柳の特質という問題ではないと思う。

 さらに、「固有のモチーフ「私性」はむしろ作家の方法の自由の主張として現れているのが川柳の現段階であろう」という意見にも違和感がある。私性は川柳の固有のモチーフではなく、近代的個の確立とともに現れた。「私の思いを書く」のが川柳であると一般的に考えられてきて、90年あたりからそれを不自由に感じる川柳人が出てきた。多くの川柳にとって私性は固定観念であり、ごく一部の川柳人にとって、私性は自由ではなく桎梏であった。虚構やイメージや音韻による句は、思いが書かれていないという理由で否定されていたのである。川柳の先端では、私性の絶対性(言いかえれば、川柳の近代的個)が相対化されるという過程にさしかかりつつあるというのが現状である。

堀本:この意味は、川柳に於ける近代固有のモチーフとして言われている「私性」と理解してほしい。本格川柳、ひいては詩性川柳といわれる文学性追求の核は、「私」性の追究ということではなかったのだろうか?むろん、「私性」のみが川柳の表現としての特質とか本質ではないと私も思うのだが、しかし、目下の克服課題は、近代川柳の重要な特質として、「思いを述べること」が自己目的視されていることであったのだと、吉澤は言っているようだが。作り方もそうだし、読み方もそうだ。じつはそのことは、俳句でも、似てくるところがある。(特に女性の書き方など、私の評文のデビューもそうだったが、「女性俳句」という特殊なテーマがまずある。)。川柳人でも女性の「情念川柳」というようなもの。自己のモチーフにこだわっている。これは私にはひじょうに印象つよい。これも私性、あるいは自我追究のひとつのあらわれのように思ってきたのだが。

 それから、作者の現在の条件が創作動機や方法を大きく規定することがある。俳句でも問題は同じだ。それは立ち位置のちがいもあるし。個人差もあるかと思う。いっぽう、近代文学や戦後文学は、私小説が主流であるし、川柳でも俳句でも詩でも、むろん短歌でも、「作中主体=作者」とされてきた。

吉澤:近代文学や戦後文学で「作中主体=作者」となされていたという堀本発言については、疑義がある。作中主体が作者の体験や思想に色濃く染められているとしても、「作中主体=作者」とは言えないのではないか。

 志賀直哉を私小説作家と言えても、第三の新人の安岡章太郎や内向の世代の古井由吉を私小説作家とは分類しない。詩で言っても、鮎川信夫の「繋船ホテルの朝の歌」や田村隆一の「幻を見る人」には、作者にとっての戦後の空虚感が反映されているが、ノンフィクションではない。作中主体は作者自身を背負っていても、何らかのデフォルメが施されているはずであり、厳密な意味では作中主体は作者ではない。読者は書かれていることが作者の実感や実体験に裏付けられているのだろうと予想しながらも、幾分かは虚構が混ざりこんでいるはずだと想像している。そのデフォルメのされ方に作者の思考があると読み、作中の描写が本当の事実ではないと怒ったりはしない。

 私が「戦後俳句を読む」で担当している時実新子の場合、その微妙な違いが重要だった。

堀本:「作中主体が作者の体験や思想に色濃く染められているとしても、「作中主体=作者」とは言えないのではないか。」《吉澤の疑義より》

 うーん、ここは微妙に認識がずれる。戦後の表現意識は体験をはなれようとしても、「戦争」という私事にして普遍的な体験があった、「私」も自己の内面深く潜らざるをえない、言葉の外がわからそういうモチーフをとらせられる、と言う意味で、この時代の問題作や代表作家を、方法や姿勢を含めて「存在」の文学であり、「作家」であると称びたい気持ちがある。ほんとうの主役は「実際の私=作者主体」で、その実存探求に即して思想や方法の違いがでてきている。「作品の主語=作者」ではなくとも作者の思いを投影したものが殆どではないのだろうか?仁平勝はたしか、作品と作者の人生観を結びつける書きかたや読みかたについて、「人文主義」という言い方をしていた。日本では、「私性」は、知識人の実存追究の核のように考えられてきて、狭い意味での身辺告白もそこに含まれているはずだ。伝奇小説家や。泉鏡花のようなファンタジックな様式性を持つ人以外は、「私」やそれを抽象化した「個」の実存意識から出発しているのではないだろうか。「私」は仮構されることでひとつのカテゴリーとして自由に追究されはじめた、ともいえる。

 そして、戦後文学、戦後詩、短歌。俳句の共通したテーマは、前代の国家主義全体性の強圧が個の表現の芽を容赦なく奪っていったところから急に解放された地点から始まっている。急に西欧的自由の観念が出てきたために、彼らはむしろ、与えられた外的な自由と自分の内面の統合に創作のテーマを集中したのではないだろうか?

 詩で言うならば、彼らの戦後体験は鮎川信夫のように現在の自己の存在証明の為に。戦争の追憶を仮構していった、「橋上の人」、とか。「イシュメール」。「繋船ホテルの朝の歌」などは。ノンフィクションではないが、完全なフィクションではない。

 しかし。戦後詩はその実在性を離れようとして、「喩」という仮構空間を切り開いた、これが詩や俳句に及んでいると考える。

 もちろん、「私」に膠着しすぎることの弊害はある。でも私は、一概に私性を否定できない。詩で1960年代の鈴木志郎康のように「極私的」という独自のスタイルを開いた詩人もいるし、「私性」というカテゴリーの上でひらかれた言葉の領域は、戦後詩の必然的テーマだった。

 川柳では、渡部可奈子は、わたしが知る限り「私性」それを普遍化し抽象化して「個」の領土を極めようとする作家であった。私性をおいつめて、かなり深い場面で内面世界を対象化している。

 連句を受け入れるかどうか、というのは、言葉足らずで誤解されたのなら残念なので、個人差とか興味の問題であるとして。別の切り口を見つけよう。

 連句と川柳の詩形の特質についていえば、個人差もあろうが、「私の存在証明」という立場が強烈だと、捌きが大幅に添削したり、点々と場面が変わる運行のルールには入りにくいだろう。私性川柳の立場で、作中主体=作者という理念が内面化している人では特にそうである。もちろん、だからといって私の立場からは、当時のそういう川柳的立場を否定しているつもりはない。また、連句のルールをもっと知れば、それをうけいれて、興味をもつかも知れないことだ。ただ、俳句でも、一作者による一句屹立の独立性を求める余り、連句を拒む人たちはいる。連句をやったら俳句が下手になる、とよく言われた。いずれも、やるやらないは本人の意志である。私などは。数人のレンキストの友人から、道をつけてもらったことは幸運だと思っている。

 しかしながら、一つ、訊きたいことがあるのは、川柳ジャンルが、前句付けから独立する過程で、自己の詩形の近くに連句を置かなかったのは歴史的な事実であろうが、その影響をどう考えるか?俳句では、正岡子規が俳諧(連俳)否定したが、鈴木漠の力説しているのだが、子規は晩年はまた連句に関心を持ったそうだ。ともかく、高濱虛子が「連句」という言葉をつくったほど、連句と俳句とは相手を意識している。むしろ不即不離である。

吉澤:俳句は連句の発句から独立したものだから、連句を意識するのはある意味当然のことと言える。しかし、川柳は前句付けから発展したものだから、短歌や詩より連句を特別視しなければならない必然性がない。また、季語を中心に進行していく連句と俳句が近いのは当然だろう。

堀本:「しかし、川柳は前句付けから発展したものだから、短歌や詩より連句を特別視しなければならない必然性がない。」(吉澤)・・そういうものなのか?

【この間沈黙】

堀本:結社で師弟関係を結ぶと言うことは、添削されるのはいやなときもあるが、修行途中である以上そちらの方が句としてできが良くなればアドバイスとして受け入れる場合もある。強烈なモチーフを持ったときにはその限りではない。破門されても主宰の言うことを拒否する。この自由はあるが、ふつうすぐれた主宰は、引き受けた弟子を育てるためには、撰や添削に骨身を削っているはずだ。それが結社主宰の権限でもあり、自負、誇りでもあるのだ、実際のところ、近代俳句のスターは、そのような契約された私塾での修行を経て大成して名句をのこしているのだから、それを否定してなお自立しようとするならば、相当な覚悟をして別の「場」、別の構想を持つ必要があるのである。川柳大会での選者は、庶民的で好感が持てるが、撰の基準は、川柳の通念に照らして厳しい判断をしている、と思う。違うのかな?

 座の文芸で、作家として立つと言うことの琴線に触れてくる話になってしまったが・・。

吉澤:信頼できる川柳の先輩によると、川柳大会の成否は選者で決まる、とのことだ。選者であるから一所懸命選をしているのは間違いない。ただ、照らすべき「川柳の通念」にかなり大きな差がある。

 選者は様々な基準を設定して選をする。破調は取らないとか、この題でこういう言葉を使ったら取らないとか。この春に岡山で行なわれた「バックストローク岡山大会」(川柳大会)の選者の関悦史の基準は、季語がある句は取らないということだった。俳人として、川柳人の季語の使い方に違和感があったのだろう。そういった選者なりの基準は、選者に任されている。投句者は「……という句は取らない」と被講(川柳大会で選んだ句を選者が読み上げること)の際に言われれば、やむなしということになる。しかし、そのように選の基準だからしかたない、と思える場合はまだいいのだが…。

筑紫:少し戻って言うが、堀本の連句の体験を読んで、半ば笑いつつ納得した。私の体験(連歌であったが)からしても、36句の歌仙はさばき手の作品であり、参加者は単に補助的参加者でしかないであろうと思う(それくらい別格に知識と経験を持った人にさばき手を頼むのでなければフラストレーションが残るばかりである。本格的連歌では私の「言葉」のなにひとつも残らなかったぐらい手直しを受けるし、それも数箇月後に手紙で連絡が来たりする。これは現代俳句・川柳の前提としている文学ではないだろうという気がする)。それに不満であれば参加しなければ良いわけである。その意味で「詩客」で今後開始が予想されている連詩がどのような顛末になるか興味津々というところである(「戦後俳句を読む」のメンバーが既に参加を登録済みである)。彼らの感想を聞いてみたい。おそらく連句と最も相容れない詩型が川柳であるのだろう。

 句会について言えば、俳句の句会、川柳の句会、雑俳の句会と膨大な「種類」の句会があり、それぞれの句会がそれぞれの短詩型のジャンルの理念を作っているのではないかと思う。理念が先にあって、それの実践の場が句会としてあるのではない。俳句でさえ更にいくつかの句会の種類があり、例えば典型的にいえば、題詠句会と雑詠句会がある。そして「題詠句会」で真摯に作品を極めれば極めるほど花鳥諷詠になるに決まっているし、「雑詠句会」は必ずその中に無季俳句を萌芽しないでは置かない。これは作者の思想とは関係なく、おかれた制度が花鳥諷詠と無季を作り出すということなのだ。俳句や川柳が純粋な文学や詩に徹したいなら、句会とは縁を切らなければいけないかもしれない(それがいいことか悪いことかは別である)。

私は、あまり我々の伝統が古くからあったと思わないほうがいいと思っている。俳句の句会は明治25年から始まったにすぎない。川柳の句会は前句付の「取次」に由来しているとみるべきなのだろうが、現在のような句会の歴史はそんなに古くはないのではないか。もっとも由来の古いのは雑俳で、雑俳の興行形態から現代の句会は生まれてきたことを知っておくべきだ(明治時代の句会用語の多くは雑俳から借用していた)。

2025年5月9日金曜日

【連載】現代評論研究 戦後俳句史を読む(第7回)・戦後俳句史を読む(私性②)

吉澤・北村・堀本


吉澤:前回の問題に戻ってみて、一部では《作中主体=作者》という構図から抜け出る動きも目立ちつつある。

 23ページのメロン図について       森茂俊

 カモメ笑うもっともっと鴎外        小池正博

 ララランリリリンララルラ曲がり切りなさい 兵頭全郎

 これらの句は日常的な意味や経験にも結びつかないし、作中主体が作者ではないのは明らかである。

北村:まあ音で言えば、70年代後半のロック、パンク・ミュージックみたいなものだ。パンクの場合は、以後に最も影響を与えたジョニー・ロットンなどは、髪を緑に染めているのを見込まれてセックス・ピストルズというグループにスカウトされたという伝説があるぐらいで、壮大な技巧主義に陥っていたロック界に対する反逆となっていた。だから音は直線的で非調和だけども、歌詞は(モーレツ否定的な)メッセージに満ちている。

 上の吉澤の挙げる川柳は、自己の確立とか、主題主義といったものからの訣別を目指すものであって、文章として意味を結ばない。茂俊の句など、文脈もないから当然作中主体どころではない。川柳ばなれしたクールなデザインがメリットだろうか。

 このような句も、変わりたいという志を持つ川柳人の空気に置いて読むと、意味の外で作者の志向が見えてくる。それが推察できれば、全郎の句の「曲がりき」ることを勧めている意味さえ現れてくる。でもそれは深読みで、作品の独立性という点では弱い。明るさが取り柄であることは言うまでもないが。私の古い知己である正博の場合は、この句は鴎のくすぐりでナンセンスをつないでいるが、本来周到な技巧派と見る。パンクのメッセージのようなものも浮いてしまう時代、詠み方も読み方も難しいね。

 ところで、このような文脈をたどれない句は、当然俳句にもあったと思うんだけど、どうなんだろうか。「未定」なんかではどうですか。

堀本:意図的に方法として、意味の攪乱を試みているのは、古いところでは、

 島津亮(意味の攪乱句の宝庫)、晩年に到るまで、前衛俳句時代の痕跡を残す。

 ひかる乳房へ棒状の黴もつ目 (『紅葉寺境内』昭26)       島津亮

 皇居・むらさきの陰茎の苔を刺繍する(昭34〜5)   

 いつか来るキャベツ畑にジェノサイド  (平成7〜8遺遺構)

  ※出典 死後家族編集になる「島津亮の世界」より

 さすがに、亮も晩年はだんだんわかりやすくなっているが、初期の感性を最後まで貫いている。加藤郁乎が、彼らの同人誌に、本来的な意味で前衛のなにふさわしい、といったことがある。


 赤尾兜子(仲寒蟬の鑑賞に注意していてほしい。)

 広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み   赤尾兜子 

 髪の毛ほどの掏摸消え赤い蛭かたまる  赤尾兜子


 堀葦男(堺谷真人の鑑賞に注意していてほしい)

 ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒  堀葦男『火づくり』


 彼らこそ、前衛俳句の中心になったひとたちで「旗艦」から「靑玄」、「天狼」から「雷光」、「梟」、「夜盗派」「縄」、と言うように転成したり解体したり別れたりして、おもに、同人誌に拠って彼らの句は発表の場を得ている。そういう前衛俳句時代の雰囲気の影響下に攝津幸彦、坪内稔典、大本義幸、らが、「日時計」「黄金海岸」という戦後世代の同人誌をだしはじめ、これもいくつか変転して現在の表現につながってきている。

 それから、重要な戦後作家として、加藤郁乎、阿部完市の二人の存在は忘れられない。

 ふらここでのむあみだぶつはちにんこ 加藤郁乎『形而情学』

 豊旗雲の上にでてよりすろうりい 阿部完市『軽のやまめ』

 郁乎については仁平勝が言葉あそびとしての俳句、完市については川名大が『現代俳句』などの熱心な解説で多少理解できるようになった。次に述べる、攝津幸彦などは、明らかに先代の彼ら前衛俳句から刺激を受けて色々な言葉遊びやシュールリアリズムの試行を重ねている。


坪内稔典、攝津幸彦、大本義幸等の同人誌「日時計」

 「発行所尼崎市南塚口町1−26−27坪内方」。頒価200円。同人には、1971年坪内稔典、攝津幸彦、ほか、澤好摩。矢上新八、鶴田(三宅)博子、糸山由紀子、馬場善樹など。見ていると隔世の感有り。

攝津幸彦「日時計」8号【攝津幸彦作品特集】より

《流体力学上、中、下》

 自殺系空中きりんうるむなり 《流体力学 下》。

 ゆふりらべのむどぼくりのゆふりらべ 《宙毒》

 やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ 《宙毒》

  (と、以下17字の文字1行で21行の構成となっている。)


 これらは、ある種の身体感覚をくすぐる、ので、そういうところで読者に意味をつむいでほしかったのかもしれない。要は、この実験意識を是とする青春期の詩と俳句への関わり方が、現在へ導いている。

 お断りしておきたいことは、この例示は、当時の薄っぺらな同人誌「日時計」本誌の引き写しである。後に出される『鳥子』や『全句集』では、旧仮名文語文法に改められており。捨てられた句も多いが、原点という意味で発表当時のまま挙げている。攝津や坪内稔典らはこういう風に初期の実験俳句を通ってきている。この例示した「句」配列に、一貫したルールがあるのか、でたらめなのかどうかは不明。意味がとれそうなところがあるので、あるいは島津亮の句にあるような〈パズル解く檻と縞馬しばしば換え・亮〉、のたぐいの種明かしがあるのかも知れないが、暇な人は考えてみてほしい。ただ、これではとても大向こうの一般的な俳句の観念や俳句史の常識に拘る人たちの共感は得られない。しかしながら、狭い範囲であっても、既成の文学観へのアンチテーゼをもとめるその姿勢を共有したであろう、と推察する。現在だってあり得ることだ。

 「京大俳句」の上野ちづこが《意味からの遁走》という評文で、文化的価値観(パラダイム)が変わってきていることを主張した、そういう二十世紀末の時代思潮を反映している。

 攝津幸彦がとある日の雑談でいっていたことでは、赤尾兜子の「第三イメージ」という考えを、第五第六イメージあたりまで降りていきたかった、そうだ。だから、彼には、意味をまとめようとする志向はあるのだ。ただこの頃の「日時計」など同人誌は、それぞれが自分の方法を模索し自己決定しているのだから、「新しい俳句」と言う場合の幅や方法意識の多様性も、考えに入れておかねばならない。吉澤が挙げた川柳人達の言葉の配列のしかたや構想には、言葉遊び、ライトバースと言う意味で、前衛俳句の作家や戦後世代俳句青年の表現解体のあり方と似ている。川柳の今、と相通じる状況であると思うのだが、如何?

 彼らが、おとなしく結社で勉強していたなら、けっしてこういうかたちでは出てこられなかったはずだ。

 旧来の制度が古くなれば、同人誌などで、現況を撃革新の砦という使命感が強くでてくる。その意味で自由でありポレミークである、と言う無私の爽やかさがある。

 私性という問題への切り込み方は、これも時代に拠って重点が違ってくるのではないだろうか。

 戦後の前半の「前衛俳句」には、私=自我の統合主張を強く感じ、ニューウエーブには自我解体のいわば「私捜し」の迷いを見る。

 現在の川柳の新人達がどういう意味で作る「私」を構想し、そのもとに作品世界に虚構の「私」を入れ込んでいるのか。吉澤さんの分析などですこしづつあきらかになるだろう。

吉澤:上野ちづこの《意味からの遁走》という評文のことは知らなかったが、《意味からの遁走》という言葉で言っていることは何となくわかるような気がする。川柳では「意味」という言葉がそもそもきちんと定義されていないと私は思っている。ある言葉がある意味内容を表すという、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の日常的な関係の範囲の中で「意味」という言葉が使われているように思う。極端な言い方になるが、前衛とはこの日常的関係を壊すことから始まったのではないか。摂津の「流体力学」の句を見るとそのように思える。よくは知らないが、堀本のあげる攝津の「やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ」という句は評価されているのか?

 現代詩でも70年あたり以降のシュールレアリズムは、はっきり言って私にはついていけない。川柳でも表現解体が試行錯誤されているのだが、「やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ」という形にはならない。誰も読んでくれないからだ。川柳の試みはさまざまにあるだろうが、とりあえず一つあげると、日常的な意味からの離脱という形がある。

 オルガンとすすきになって殴りあう   石部明

 びっしりと毛が生えている壷の中

 縊死の木か猫かしばらくわからない

 桜山らんぷは逆さ吊りがよい      清水かおり

 エリジウム踵を削る音がする

 果実を食べると海越えてくる蛇

 おそらくこれらの句は、日常的な言葉の意味に着地しない。「オルガン」や「すすき」が何を意味しているのか、「毛が生えている壷」とは何の象徴か、「逆さ吊りがよい」のはなぜか、などと考えても、あまり意味はないのではないか。無理やり解釈しようとすればこじつけられないこともないだろうが、無理やりの解釈では肝心なものがこぼれてしまいそうな気がする。しかし、コトバとコトバのつながり方によってもたらされる、ある感じがある。それを説明するのに、日常的な論理や意味では無理なのだ。堀本が(第6回)で「何かを喩えていたとしても、俳句からというより「詩」としては物足りないと感じることが多い」と言っていて、ほとんどの川柳はその通りなのだが、川柳の一部では、このように「直接的に」何かに結び付けにくい句も書かれている。仮にこれらが喩であるとしたら、狭い意味の喩ではなく、世界そのもののありようの喩とでもいうべきだろう。

堀本:吉澤の「よくは知らないが、堀本のあげる攝津の〈やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ〉という句は評価されているのか?」という疑問について。

 このフレーズが「句」なのか、詩の一部なのか、もはやよくわからない。当時の批評も見あたらない。

 ただ、私は、攝津幸彦が、戦後世代の前衛俳人と言われる理由を了解するのは、こういう『鳥子』以前の模索の事例をみるからである。私がであったときには、彼はすでに、『鸚母集』のころで、すでに、形式という観念を受け入れていた。その時期からの彼に前衛性を認めるとしたら「しずかなる壇林」をめざす、俳諧師に足を突っ込んでいる立ち位置であった。しかし、若い日にこのような、チョー現代詩的な逸脱を試みた、ということがやはり、攝津幸彦に、転向と気づかせないハイレベルの転向を可能にさせたのである。それが前世紀末(昭和時代後半に成熟した団塊の世代のー「俳句ニューウエーブ」の存在理由だ。この軌跡と私性がどう絡むか、次の回で意見交換しよう。

2025年4月25日金曜日

【連載】現代評論研究:第6回総論・戦後俳句史を読む(私性)

吉澤・筑紫・堀本鼎談

吉澤:川柳ではもともと私性というものは追求されていなかった。発生的に自分の思いを相手に伝える手段として発達してきた和歌と違って、古川柳は作者個人の名前が必要ではなかった。「母親はもつたいないがだましよい」という古川柳の書き方と、現在のサラリーマン川柳の書き方とは、読者が作者名を気にしなくてよいという点で同じである。サラリーマン川柳だけでなく、大結社の句の多くもそうである。新聞の見出しレベルのものとか、道徳的な教訓とか、そういう句が多い。

筑紫:俳句では、客観写生句と主観句がかなり早くから分化していた(大正初期)。難聴の村上鬼城、吉野に隠棲していた原石鼎、絵師の渡辺水巴などは後者の代表であるし、療養俳句や生活苦を詠み続けた石田波郷系統の作家もこれに次ぐ作家たちである。私小説の影響を受けていた波郷系統の作家は境涯俳句と呼ばれており、たぶん川柳で言う「私性」が強いと思われる。しかし、戦後の俳句はこうした傾向はほとんど無くなっている。私俳句というと、古い境涯俳句と誤解される可能性がある。

 春寒やぶつかり歩く盲犬       村上鬼城

 生きかはり死にかはりして打つ田かな

 冬蜂の死にどころなく歩きけり

 桔梗や男も汚れてはならず      石田波郷

 綿虫やそこは屍の出で行く門

 現代ではこういう境涯性を詠む作家は極めて少ないのではないか。今の関心は、うまさやテクニックである。

 秋の淡海かすみ誰にもたよりせず 森澄雄

 寒晴やあはれ舞妓の背の高き 飯島晴子

 うつくしきあぎととあへり能登時雨 飴山実

 ほとんどそこに私性がないであろう。

吉澤:川柳では古川柳や狂句から脱して近代的個を獲得するために、明治以降多くの努力がなされてきた。現在でも川柳人は「自分の思いを吐け」と教えられている場合が多いようだ。他の誰でもない、かけがえのない自分自身を確立するためである。しかし、そのことは《作中主体=作者》という構図を強固なものにした。川柳人の読みでは、書かれているのは作者自身の経験であり、思いであると理解されることがほとんどである。句は、その背後の作者の実体験や思いによって保証される。だから、何が書かれているかが関心の大きな部分を占める。その意味で、時実新子は私性川柳として読まれたと想像している(もちろん、新子の評価はそれ以外の面を含めてなされるべきだが)。境涯句ももちろん私性川柳である。

 悲しみは遠く遠くに桃をむく   時実新子

 別れねばならない人と象を見る

 一束の手紙を焼いて軽くなる   

 灯台の届かぬ海に置く心

 あかつきの梟よりも深く泣く

 真夜中の玩具の猿が止まらない

 これらの句を、多くの読者は時実新子の体験に裏付けられた時実新子自身の心理と読み、その個人的な悲しみに共感したのだろうと想像している。

筑紫:読者を意識した女性俳句を私は劇場型俳句と呼んでみた(「俳句」7月号大特集<女性俳句のこれから>より「劇場型から深慮まで」)。短歌で言えば与謝野晶子のような初期型の女性俳句に多い。これらは、時実に匹敵する女としての私性(境涯性)があると言ってよいだろうか。

 短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてちまおか) 竹下しづの女

 汗臭き鈍(のろ)の男の群れに伍す

 足袋つぐやノラともならず教師妻         杉田久女

 たてとほす男嫌ひの単帯

 月光にいのち死にゆく人と寝る          橋本多佳子

 雄鹿の前吾もあらあらしき息す

 雪はげし抱かれて息のつまりしこと

 体内に君が血流る星座に耐ふ           鈴木しづ子

 まぐはひのしづかなるあめ居とりまく

 コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ

吉澤:印象としては前掲の時実の句と同じと感じる。

 社会性や女性性という主題主義は、川柳の質の変化というより、《大きな物語の崩壊》という時代の変化によって有効性を失っていった。主題主義が有効性を失ったからといって、川柳では技巧万能主義にはなっていない。大きな主題の代わりに、個々の思いに共感してもらいたい、あるいは共感したいということをポイントにして、書かれたり読まれたりしているからだろう。

筑紫:俳句も、社会性俳句、風土俳句、前衛俳句と主題性をもった俳句が続いたが、昭和年代を持って終焉した。俳句は角川書店の秋山実の戦略により、「結社の時代」(実際は、俳句上達法の時代)に突入し、ほとんどの結社主宰者がこれを受け入れたため、川柳とは違い、技巧・技法万能主義に陥っている(つまり文学性の忌避)。ただし、俳句の本質が実は技巧・技法ではないかという気も多少はしなくはないのである。最も目先の利く俳人楠本健吉は俳句はレトリックであるとも言っている。これは俳句本質論として、慎重に考察してみないといけない問題である。

吉澤:実は、戦後川柳を牽引した中村富二も「川柳に残されたものは技術だけだ」という意味のことを言っている。短詩にとって興味深い問題だと思う。

 話を共感に戻すと、この共感というものが曲者である。共感しにくい句(例えば、イメージの句、虚構の句、コトバ自体のつながりや連想などによる句)は、受け入れられにくい。実生活のどこの部分に落とし込めばいいか、わからないからである。多くの場合、難解句として無視される。実生活のどこかに基盤を持たない(あるいは基盤が見つけにくい)、非日常の感覚を題材にした句は共感を得にくい。

筑紫:ここではあえて深く触れないが、季語を入れてしまうとなんとか共感が成り立ってしまうという効果が俳句にあるのは事実だ。全詩歌分野で、最も激しく喧嘩している割には、もっともお互いの共感が近いところにいるのが俳人たちである。季語を使う使わないを問わず、伝統派であっても前衛派であっても芭蕉をはじめとする作家の名句についてはほとんど共感し合っている。

吉澤:さらに、川柳が句会大会を中心として回ってきたという事情がある。選者に取り上げられることを「抜ける」というが、抜けるか抜けないかというオールオアナシングの世界である(選評を言う句会大会はごく一部である。ほとんどは句を読み上げるだけである)。選者の共感を得られない句は日の目を見ることがない。となると、選者にわかってもらえることが優先されるだろう。俳句と比較して、川柳では読者論がより必要ではないかと思われる。句会大会中心主義には一長一短があるが、短所を挙げると、川柳評の発達を促さなかったことと、句集を出すという発想を育てなかったことである。

筑紫:俳句は、結社雑誌の雑詠俳句欄を中心に回っている。句会は、雑詠を補完する修練のための場であり、ここで提出した句も雑詠の主宰選を経ないと認知されない。更に雑詠に投句された句をまとめて最終的に主宰の最終選を経て、句集名を頂いて、序文を賜って、角川の何とかシリーズに入れてもらって、はじめて句集が出来上がる。およそ句集に収録されない名句は存在しない。「戦後俳句を読む」でも必ず句集名が載っているのはこうした理由である。

 主宰は1回の句会で句の価値を決定するのではなくて、雑詠欄の長い投句傾向の中で人格的評価も含めて行うので吉澤のいう(大会で)「選者に分かって貰える」という感覚はわかりにくい。選者に(自分の人格を含めて)分かってもらえるから弟子になるのである。あるいは、選者に人格的に没入してその価値観に所属するから所属結社が決まるのである。その意味で結社内でしかわからない句もしばしばある。

吉澤:俳句の句集がそういう経緯でできるとは驚きだった。主宰ということの意味が川柳とは全然違うようだ。先輩に聞くと、30年ほど前は主宰にかなりの力があったようだが、現在では、川柳の結社の主宰にはそういう力はない。自分の句集を出すのに誰かの許可が要るという発想は、川柳にはない。評価にしても、川柳誌で同人作品の選評を外部の人に依頼するということはよくある。「雑詠欄の長い投句傾向の中で人格的評価も含めて行う」ということは、優れた評者を抱えている一部の誌では可能だが、多くの川柳誌では難しくなっているのではないか。また、大会で「抜ける」ことが一つの評価になるが、投句は無記名であり、選は作者名がわからない状態で行なわれるので、一句一句の単独の評価になる。

筑紫:話をもどして女性作家の私性を論ずる際に、時実と対比したく思うのは、「戦後俳句を読む」の中で土肥あき子が取り上げている稲垣きくのである。女優として、20代には東亜キネマ、松竹映画に出演。1937年、大場白水郎の下で投句を開始、戦争で一時中断後、戦後久保田万太郎を師としたという経歴自身、戦後の劇場型女性俳人の代表と言えるかもしれない。土肥あき子の力作鑑賞のおかげで、鈴木真砂女よりはるかに面白い作家として浮かび上がってきている。今まで取り上げられて来た句を見ても、

 夏帯やをんなの盛りいつか過ぎ

 つひに子を生まざりし月仰ぐかな

 バレンタインデーか中年は傷だらけ

 まゆ玉やときにをんなの軽はづみ

 牡丹もをんなも玉のいのち張る

 先立たる唇きりきりと噛みて寒

 噴水涸れをんなの欠片そこに佇つ

 かなかなや生れ直して濃き血欲し

 私性(境涯性)は濃厚に現れていると思うが、やはり俳句としての特性ゆえか、季語との配合を配慮し、それによるぎりぎりの抑制を図っていることであろう。俳句にあっては、私性(境涯性)はBGMであり、本質は表現の巧緻さを競っているのである。

 例えば、冒頭句の「をんなの盛りいつか過ぎ」では全く昼のメロドラマに堕してしまう内容を、「夏帯や」という季語と切字を配することで芸として昇華させていると見るべきだろう。多くの俳人であれば「をんなの盛りいつか過ぎ」の手柄を20点、「夏帯や」という配合を80点と評価するのではなかろうか。

吉澤:川柳人は「夏帯や」にあまり点を配分しない。ほとんどの川柳人にとっては、どんな思いが書かれているかが関心事であるため、「をんなの盛りいつか過ぎ」という作中主体の感慨に焦点をあてて鑑賞し、評価するだろう。「夏帯や」は、「夏帯をした時の」ぐらいの情況背景と理解する。「夏帯や」の80点がないわけであるから、この句は川柳では平凡な感慨の句となり、評価は高くないだろう。さらに、現代の生活で帯をする女性、しかもそれをただの帯ではなく「夏帯」と感じられるほど和服を着ている女性がどれほどいるだろうかと、一句を鑑賞する前に思ってしまう。私個人に「夏帯」というものの実感がない。それも「夏帯や」を評価の対象にできない理由だろう。

 あるいは、前掲の「真夜中の玩具の猿が止まらない」の句で、止まらない玩具の猿を心理状態の喩と読むように、「夏帯」とは何の喩であり、何を象徴しているのだろうと考える川柳人は多いかもしれない。

 「俳句としての特性ゆえか、季語との配合を配慮し、それによるぎりぎりの抑制を図っていることであろう」という季語による抑制は、もちろん川柳では不可能である。ではどうなるかというと、「一束の手紙を焼いて軽くなる」「灯台の届かぬ海に置く心」「あかつきの梟よりも深く泣く」などのように、一句を私性でストレートに充満させるか、「悲しみは遠く遠くに桃をむく」「別れねばならない人と象を見る」などのように、「桃をむく」「象を見る」のように落としどころを作るか、ということになる。この落としどころとは、問答体の書き方での答えに当たる。こう考えてみると、あまりに当たり前すぎる感想だが、季語の機能の違いだなと改めて感じる。

筑紫:20点、80点の話は私の誇張もあるが、私の言いたいことを典型的に言うとこのようになるのではないかということで書いた。

 例えば俳句においては100年も前にこんな議論が行われたことがある。正岡子規の唱道した写生法は、その結果、印象明瞭の句を多く生むようになった。あたかも眼前に実物・実景を見るように感じさせるもので、これを「直叙法」の句と名づけた。直接叙述する、いきいきと表現すると言うことだ。一方、直叙法の反対の描写法を「暗示法」と名づけたが、これは本体を彷彿とさせ、輪廓を描かずして色を出そうとする方法と言えた。暗示法の句は余情余韻に富むと言う。

 「直叙法」の句はすでに(子規没後10年ほどで)複雜・精緻に進んで俳句表現において限界にきているが、「暗示法」はまだ複雜にも精緻にも進む余地がある。「暗示法」は特性を指示して本体を彷彿させるから、連想の範囲が広くかつ自由である。我々の心動かされる性格美を直接に叙述しようとすれば多くは「暗示法」になるのである。

これは大須賀乙字という俳人の主張であり、彼は、

 赤い椿白い椿と落ちにけり   碧梧桐

 若鮎の二手になりて上りけり  子規

の二句を「直叙法」の代表とし、この傾向はもう限界に来ていると判断した。そして

 思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇 碧梧桐

を「暗示法」とした。ヒヨコと冬薔薇は直接関係ないが、あえかに生まれるヒヨコの可憐さは冬薔薇と対比するとひときわよく浮かび上がる。少なくとも何が何したという「活現法」とは句のふくらみが全く違う。

 一読して分かるように、これは必ずしも新しい文学運動の提唱ではなく、正岡子規以降の俳句の変質に関する観察だったが、同時代の人はこれを新傾向運動とよんだのである。

 前述のきくのの句で言えば「夏帯や」は季語夏帯の暗示法的利用である。夏帯が何々であるからとは言っていないから「直叙法」ではない。ただ、一句全体をある雰囲気で盛り上げているだろう。

 吉澤の議論の中で特に面白いと思ったのは、<現代の生活で帯をする女性、しかもそれをただの帯ではなく「夏帯」と感じられるほど和服を着ている女性がどれほどいるだろうかと、一句を鑑賞する前に思ってしまう。私個人に「夏帯」というものの実感がない。>といっているところである。俳人の大半も「夏帯」に川柳作家と同じ実感のなさを感じている(「戦後俳句を読む」を読んでいる人は夏帯を締めたことのない人ばかりだ)が、だからこそ頭の中の幻想として(あるいは歳時記の中の知識として)季感や過去の伝統を感じてしまうのだ。

堀本:筑紫&吉澤の両者の議論に触れて、触発されるものがあった。

 川柳で言う「喩」とは、俳句が季語を詩語としてみようとする方法の開拓とはすこし違うようだ。

 全般に、現代俳句は一句全体の喩的効果(詩語化)をもとめて現代詩に近づいている。川柳の「喩」はそう言う意味で現代詩に近くなるのかどうか、そこは未だよくわからない。

 上の両者の応答に即して言うなら、季語論の進み方を見ると、たとえば「夏帯」、この言葉それ自体を独立した言語空間(共感の場)として定式化しようとする志向がある。「季感」もある意味では実感そのものではない、さらに季語の共同性を土台にして「喩性」「象徴性」を季語の概念に加え、そこに架空の関係を想定して行くのである。「夏帯」を季感で見るか、喩的に読むか、どちらに重点を置くか、など、一つの言葉に様々な喩の広がりの機能を与えようとする。その季語空間に取り合わせる(関係づける)別の世界がまた取り合わされてゆく。・・「季語」の言葉として生かし切るならば、季節感を越えた詩的空間を作る方向が出てくる。「季語」という言い方がすでにふさわしくないのかも知れないが、季感のみの概念ではない。筑紫もいうように、このことは昔から反省もされ新しい試みもなされていることである。今では。詩語としての季語という考え方は一般的に受け入れられており。随分柔軟になっている。

 川柳では、「喩」と言う場合、それ以外の言葉や情景に直接的に結びつける用いかたなのだろうか?それとも独自な「川柳喩」というべき詩的言語空間を構想するのだろうか?

 川柳の読み方からして、季語の配分を重くしないという理由は分かる。しかし。逆に、夏に用いる絽とか紗の「帯」だけだと即物的指示性の強いものから引き出す「夏の帯」の日常的イメージばかりでは、色っぽいとか、涼しい、から転じて、例えばエロス性という形にしかおさまらない。でもこれではかえって「夏の帯」が存在感、イメージや意味が固定されてしまう。俳句が「季語」の呪縛を逆手にとって想像世界をふくらませようと試行錯誤しているところを、ともに楽しむ必然性がないのだから、面白くないのは当然である、(もっとも、俳人の中にも、そこまでは季語に固執しない傾向もでてきている。)。俳句では、一物仕立ての俳句にあっても、二句一章の場合ほどは極端にあらわれないが、それでも。「夏帯」が句の中にあるとないとでは、ちがうなあ、というところがあるはずだ。筑紫の例を再見すれが、「暗示法」の発見は俳句の技法に大きな影響があるのではないだろうか?

 吉澤が言うような「川柳の喩」をこれから注意して見てみたいが、他の言葉との喩的な結びつき方、はまだわたしには上手く見えてこない。何かを喩えていたとしても、俳句からというより「詩」としては物足りないと感じることが多い 一応のまとめをしてみると、川柳が「夏帯」を「喩」として考えるあり方と、俳句で季語「夏帯」を「喩」であると概念化する考え方とでは、微妙な違いが出てくるようだ。

 これは、逆に、俳人が川柳の「うがち」とか「滑稽」を、川柳固有の味わいとして取りるときに、川柳固有の歴史性がなかなか摑みにくいゆえに、誉めていても相手は誉められた気がしないらしいことと、よく似てくる。双方の、隣の芝生を誉めたり批評したりする場合に、詩形の性格についての無知無理解が多少とも克服される必要がある。歴史的に積み重ねられてきた川柳の良さを損ねないで。より深遠な世界を表現する技巧の開発をいまなそうとしている、ということなのだろう、と思いたい。

筑紫:俳句が求めているのは明らかに「俳句らしさ」である。俳句が何であるかを決めないで「俳句らしさ」と定義するのもひどいものだが、俳句はそうしたメタ的な定義しかできないものである。季語とか切字はそうした「俳句らしさ」を保証するものであり、無季俳人は季語を使わないで「俳句らしさ」を獲得しようとする特殊な(お茶目な)一派である。堀本説に関連して言えば、何れにしても「季語」は西洋詩学的な「喩」ではなくて、俳句らしくする道具であるのだろう。「亀鳴く」は絶対比喩にはならない(もちろん、妻の横暴に夫が泣くのは「喩」であるが)。昔からの俳句の道具なのだ。単なる道具だからこそ、その自由さから「暗示法」が成り立つのだろう。

 そうすると、川柳は非俳句であるとすれば、「俳句らしさ」を求めない575詩型と定義されることになるだろうか。つまり、詩、短歌と同様詩的論理に従って解釈されるべきものではなかろうか。

 だから俳句から川柳を考えるより、詩→川柳→俳句と遠心方的に考えたほうが間違いが少ないように思う。虚子は俳句を「後方文学」としている。俳句はあらゆる文学の中で最も後ろから出てゆく文学なのである。詩、川柳、短歌のように前方にあってはならないという戒めである。

吉澤:堀本の「言葉それ自体を独立した言語空間(共同観念)として定式化への志向があるという気がする」という発言は同感である。俳句には季語という共有財産があって、俳句を書くということは、言い方は悪いが、季語とどう付き合うかということであるような気がする。それは筑紫の「季語とか切字はそうした「俳句らしさ」を保証するものであり」という意見と通底していると感じる。

 季語という共有財産を巡って、肯定であれ、否定であれ(無季自由律がそうなのかと思うが)、それに何を付け加えていくか、という発想が俳句にはあるのではないかという気がする。季語という伝統装置を典型的に象徴するのが歳時記ではないだろうか。一つの季語に対してどう爪跡をつけてきたかという集積が一冊の書物になっている。個々の俳人にとって壁でもあり、スプリングボードでもあったのが季語ではないかと思われる。壁であっても、スプリングボードであっても、俳人は季語と対峙することで多くの佳句を産み出してきたのではないかと思う。自明の壁(もしくはスプリングボード)を持たない川柳人からすると、それが川柳と俳句の違いの最も大きな点の一つかなと思う。

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ    定家

 定家は「花」も「紅葉」も書かないことで、逆に鮮烈に「花」と「紅葉」を書いた。「花」と「紅葉」の不在は、読者に強烈に「花」と「紅葉」についての想像を刺激することがわかっていたからだ。どのような「活現法」もこのような効果を持つことはできないだろう。ただし、その前提として、「花」と「紅葉」の重要性とイメージが読者に共有されていることが必要である。定家のその仕掛けと、筑紫の「俳人の大半も「夏帯」に川柳作家と同じ実感のなさを感じている(これを読んでいる人は夏帯を占めたことのない人ばかりだ)が、だからこそ頭の中の幻想として(あるいは歳時記の中の知識として)季感や過去の伝統を感じてしまうのだ。」という意見とは、同じ心理構造を言っているのではないか。和歌では季語とは言わないが、季語のような伝統装置が作句の際に働いているのは同じである。そうであれば、その俳句と和歌(短歌といえるかどうか)との類縁性から、川柳は少し離れている。