(投稿日:2011年11月18日)
●―1近木圭之介の句/藤田踏青
青の蝶 無作為の余白とび去り
「層雲自由律・101号」(注①)の圭之介追悼号に掲載の平成14年の作品である。この句の場合、何故「青い蝶」ではなく「青の蝶」であるのか。それは「青の」が指定するものが場所であり、時であり、対象であり、所属等の重層したものを示唆しているからではないのか。その事によって蝶は己自身とも他者ともみなされうるし、無作為という偶然性が支配する「余白」はそれぞれの「生」そのものを示していると共に、そこからの飛翔が意思的な一面を打ち出しているとも考えられる。また画家としての圭之介は当然、青と白との色のコントラストを表現手法に用いており、そうした傾向は既出の「自画像 青い絵の具で蝶は塗りこめておく」(注②)の句などにも表れている。
蝶に関連した句はその他にも数多くみられる。
心にはいつも一匹の蝶と空間 昭和39年作 (注③)
蝶の一匹が吹かれているゆえに断崖 昭和39年作 (注③)
蝶そうして花である 昭和48年作 (注③)
蝶 羽の色をひらく 昭和48年作
失イツクシ。蝶残ル 平成6年作
上記の様に蝶は常に作者と同一体にあり、その視点と思惟はその交感上に存している。そしてその儚さと一過性故の孤独感が、空間への埋没や断崖での切迫感、相対性としての個の存在感や浮遊感、更には絶望の残滓感へと連なってゆくようである。
人員と春においてある椅子 昭和29年作 (注③)
春です。思想なくした街もいい 平成19年作 (注①)
春というものはその膨張感と共に内部的には空虚感を抱え込んでいるようである。それ故に人員と椅子という数的無機的表情や、茫漠とした無思想の表情がよく似合うのかもしれない。思想というものが直観の立場を超えて論理的反省を加えた思考内容、体系的なものである限り、上記の駘蕩たる春とは相いれないものである事は明らかであろう。特に最晩年の作者は、春の空虚感にゆったりと浸っているかの如くに。
例によってテーマにそった圭之介の詩を1篇を掲げよう。
「宇宙とラムネ玉」 昭和27年作 (注④)
春はあらゆるものが光を生み
ブロンズの裸婦の乳房に屈折し
公園のベンチを明るくした
私の喉はからからとかわく
茶店ではラムネ玉が
宇宙の一さいを包含していた
宇宙とラムネの逆不等合を春はキラキラと媒体しているかの如き、趣のある詩となっている。
(注)①「層雲自由律」101号 平成21年7月 層雲自由律の会発行
② 第6回テーマ「色」掲載
③「ケイノスケ句抄」 近木圭之介 層雲社 昭和61年刊
④「近木圭之介詩抄」 近木圭之介 私家版 昭和60年刊
●―2稲垣きくのの句/土肥あき子
春の夜のこころもてあそばれしかな 『榧の実』
春の夜の触れてさだかにをとこの手 『冬濤』
春の夜の夢にもひとの泣くばかり 「俳句研究」昭和55年5月号
きくのの最初の師、大場白水郎の「春蘭」(〜1940年)、「春蘭」の復刊ともいえる「縷紅」(1940〜1944年)が終刊したのち、1946年白水郎の親友であった久保田万太郎が「春燈」を創刊したことを知り、入会する。この時、きくの40歳である。「春燈」には文章も頻繁に発表し、まとめたものを句集よりひと足早く随筆集『古日傘』(1959年)として上梓した。『古日傘』の巻頭には万太郎の序句「春ショールはるをうれひてまとひけ里」が置かれている。
この随筆集のなかで、万太郎が登場する一話がある。1939年のできごとというから、同じ「春蘭」のなかの兄妹弟子という関係のなかの思い出として描かれている。
万太郎がお座敷遊びの最中に一句を書き付けた紙片を、隣に座ったきくのに渡した。
秋の夜、と始まるその句に「これ、春の夜ではいけませんか」と言うと、万太郎は言下に「いけない、春の夜じゃいけない」ときつい調子で応えた。紙片をさらにじっと見つめた万太郎は「なつのよ…、ふゆのよ…」とつぶやいたのち、はっきりと「うん、冬の夜がいい」と断言したという。
抒情が勝り春の夜がふさわしいと思ったきくの。
小説家として冬の夜が最適とした万太郎。その句とは
冬の夜の大鼓(かわ)の緒のひざにたれ 万太郎
鮮やかな朱の緒とともに芸の意気まで表しているような演出に、きくのはため息とともに深く納得する。
このほんのわずかなふたりのやりとりのなかに、きくのの抒情と、万太郎の選り抜かれた演出が見てとれる。そして、言外に漂う信頼関係も。
1963年5月6日の万太郎の死は、誤嚥性の窒息という誰もが思いもよらない唐突なものだった。悼句の
薔薇紅き嘆きは人に頒たれず 『冬濤』
には「久保田先生逝く、直前、薔薇を賜ふ」の前書がある。薔薇の御礼も言えぬままの別れだったことだろう。
そして、掲句に並べた春の夜3句はすべてお座敷の一件以降の作品である。きくのの春の夜は、相変わらずしっとりと濡れるような抒情に縁取られていた。
●―4齋藤玄の句/飯田冬眞
糸遊を見てゐて何も見てゐずや
昭和50年作。第4句集『狩眼』(*1)所収。句集巻末の句。
〈糸遊〉は「いという」で、「陽炎」の傍題季語。『わくかせわ』(宝暦三年1753)に「陽炎・糸遊、同物二名なり。春気地より昇るを陽炎あるいはかげろふもゆるともいひ、空にちらつき、また降るを糸遊といふなり」とある。
『角川 合本俳句歳時記 第四版』では、陽炎を「日差しが強く風の弱い日に、遠くのものがゆらゆら揺らいで見える現象」と定義する。つまりは、晴れ渡った春の日の空にちりちりと針のように見えるものが「糸遊」である。
〈見てゐて何も見てゐずや〉は自身の感覚に対する不信感の吐露でありながら、〈糸遊〉のもつ神秘的で儚い自然現象の本意と見事に響き合っている。「見ること」に重心を置いて作句をしてきた齋藤玄にとって、自然現象を写生することの難しさを表明した句と言えるだろう。それは玄個人の内面吐露のように見えて、実は、俳人を含めた我々人間全般の「視覚」のあやふやさを鋭く突いた言葉としても受け止められる。
自註を読むとさらにその思いを強くする。
ぼんやりして、何も見ていない。しかし実際はかげろうの伸縮を見ていたのだった。それが、いつの間にか何も見ていなくなっていた。(*2)
要するに、この句は、眼前にした自然現象を言語化することの困難を主題としているのだが、句集の末尾にすえられていることで、齋藤玄という作家の特質を考える上で、重要な意味をはらんでいるように思う。
つまり、俳人たちの多くは俳句の表現手法である写生に徹することで、俳句表現は成立すると思い込んでいるが、玄は〈糸遊〉の句を通して、写生の限界を感じたことを端無くも表明しているのである。自然現象である〈糸遊〉を前にして、〈見てゐて何も見てゐずや〉と表白することは、とりもなおさず、人間は自然現象に対峙するものではなく、その一部であることを直感的に認識したことを暗示している。大げさに言うならば〈糸遊を見てゐて何も見てゐずや〉は、近代的自我のゆらぎを吐露した句であり、それが『狩眼』という句集の末尾にすえられたことは、齋藤玄という俳人が、その時点で到達していた自然現象に対する認識力の高さを表している。
それが次の句集、『雁道』への橋渡し的役割を担っているように思う。
『雁道』の冒頭の句をあげる。
青き踏むより踏みたきは川の艶 昭和50年作 (*3)
この句は、「色」の一句の項目で触れたが、〈青き踏む〉という中国に起源を持つ季語を用いながら、季語に寄りかかるのではなく、むしろ季語の情趣を打ち破ろうとした意欲作である。それは、〈青き踏むより踏みたきは〉と句またがりにして韻律を崩している点からも読み取ることができる。また、春の陽光に反射した川面の光沢を〈川の艶〉と捉えた措辞のうまさにも既成の俳句表現にとらわれない進取の精神性を感じるのである。
『狩眼』巻末句の〈糸遊を見てゐて何も見てゐずや〉と『雁道』冒頭句の〈青き踏むより踏みたきは川の艶〉は、ともに春の陽光をモチーフとしながら「写生」と「季語」という俳句の根幹に揺さぶりをかけようとした齋藤玄の意欲作であったことを確認しておきたい。
*1 第4句集『狩眼』 昭和50年牧羊社刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊
*3 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
●―5堀葦男の句/堺谷真人
さふらんのもたぐる蕾愛ぞ愛ぞ
『火づくり』(1962年)所収の句。「昭和二十九年三月十六日福竜丸水爆実験の犠牲と
なる一句」という長い前書きを持つ。初出は1954年5月1日発行の「十七音詩」第3号。初出時点の前書きは「三月十六日水爆の暴威報ぜらる 一句」であり、作品自体も中七の直後に1字分の余白を置いた
さふらんのもたぐる蕾 愛ぞ愛ぞ
という分かち書き形式であった。
静岡県の焼津を母港とするマグロ漁船・第五福竜丸がビキニ環礁で米国の水爆実験に遭遇したのは1954年3月1日早朝のことである。同月14日、焼津に帰港。読売新聞同月16日付朝刊社会面が大きく報じて世論は騒然となった。葦男はこの記事を読んだのである。
ここでいう「さふらん」とは、晩秋に咲き、乾燥させた雌蘂が薬用・染料・香料に使用される秋サフランではない。同属で早春に咲くクロッカスのことを指すと思われる。観賞用のみに栽培され、春サフラン、花サフランなどと呼ばれる花である。クロッカスは地面すれすれに花をつける。だから「もたぐる蕾」といってもそれはごく低い所にあるのだ。
問題はその形状である。短い茎の先端に蕾を生じたクロッカスを、葦男は水爆のキノコ雲に見立てたのかもしれない。もしそうだとすれば、葦男眼前のクロッカスは早春の景物であると同時に禍々しい原子兵器(当時は核兵器よりも原子兵器の呼称が一般的だった)の喩でもあったわけだ。この句は核軍拡時代の到来を端的に告げる作品であり、核実験のもたらす惨害という現実を同時代的に引き受けようとする葦男の作家精神を素朴かつ明快に示す作例と言える。
それにしても「愛ぞ愛ぞ」という俳句らしからぬ反復強調表現は何であろう。字余りの措辞は取って付けたようであり、稚拙な印象すら与える。これは水爆の暴威への憤りから思わず発した人類愛渇望の叫びなのであろうか。勿論そう解釈することも可能だ。しかし、筆者はこの「愛」は久保山愛吉への呼びかけではないかと思う。ビキニ環礁で放射性降下物を浴びて重態に陥り、同年9月23日に不帰の客となった第五福竜丸無線長である。
「愛」の文字を冠する名を持ち、兄貴分として乗組員たちに慕われた人物が、およそ「愛」とは正反対の酷薄なる冷戦の犠牲となった皮肉。この句の発表当時、久保山はなお存命中だったが、同時代の悲劇を体現した人物へのオマージュを以て葦男は一句を締めくくったのではないか。
因みに、「十七音詩」創刊号および第2号の題言は無署名である。第3号の題言に至って初めて(葦)という署名が入る。
友だちはみな人間の危機をひしひしと感じてゐる。LOYALTYがHUMANITYをすでに圧迫してゐるのだ。叡智と愛が擦り減ってゆく世界。
葦男筆とおぼしき題言の一節は抽象的な表現をとるが、これが水爆の恐怖に支配された世界の非人間性を念頭に置いたものであることは言うまでもない。葦男の受けた衝撃は深甚であった。「さふらん」の句にはその衝撃の痕跡が生々しく残っている。
以下補足だが、上述の「十七音詩」は1953年10月に、金子明彦、林田紀音夫とともに葦男が創刊した同人誌である。俳句を十七音詩として把握し直すことにより新しい俳句の誕生を期するという、清新なエスプリに満ちた試みであった。
中世的文学理念のつき纏ふ俳と季の束縛を断ち切つても、なほそこに俳句の骨格を形成する特性は失はれず、むしろそれによつてこそ現代民衆の詩精神を盛るに相応しい新しい俳句の誕生が可能であると確信するにある。(創刊号 題言)
「十七音詩」はその後、前衛俳句運動の火種のひとつとなってゆくのである。
●―8青玄系作家の句/岡村知昭
昼なかのニュース声高蝶みな消ゆ 中川浩文
掲出句の引用は1962年(昭和37)6月刊行の第一句集『貝殻祭』から。初出はいまのところ未見。作者である中川浩文氏は1923年(大正12年)生まれ、1983年に亡くなるまで「青玄」同人、無鑑査同人として所属。また日本文学者として京都女子大学、龍谷大学などで教鞭を執り、「竹取物語」「源氏物語」研究の著書がある。
春の真昼、いよいよ緊迫の度を増しつつある状況を伝えるアナウンサーの声は、世情の空気に呑みこまれているかのようにますます甲高さを増しつつある。今ここにいる自分自身の周囲からは、どうしたことか一斉に蝶の姿を見えなくなってしまった。もしかしたらそれは、ひたすら声の甲高さを増しつつあるアナウンサー、すなわち世情の緊迫した雰囲気からなんとか逃れようとしているのだろうか、それともアナウンサーによってさらに声高に伝えられる状況へ対して一層の危機感を募らせて、蝶たち自らが世情へとまっすぐに突き進もうとしているのだろうか。そのような疑問と不安の数々を募らせながらも、すっかり蝶のいなくなった空間に響きわたるアナウンサーの緊迫感溢れた甲高い声を聞いているだけの自分がいる、いまはただ、世情のうごめきの真っ只中にいるであろう蝶たちの行く末を思うことしかできない自分自身がここにいる。
最初にこの1句を見て、自分自身が立ち尽くしているかのような空間に響きわたるニュースは何かと考え、思わず2011年3月の大震災とその後の顛末を想起してしまったものである。林田紀音夫が1970年代に書いた「執拗なヘリコプター死者の広場があり」(句集『幻燈』所収)もそうだが、災害や戦火といった大惨事を伝えるメディアに対するシニカルな目線というのは、いつの頃にあっても変わらないものかと思ったのだが、もちろんこれは私の漠然とした印象に過ぎない。この1句はある決定的な日付をもって刻印された作品である、その日付は1960年(昭和35)6月15日。以下に引用する2句と合わせ、次のような前書が付されている、「安保条約反対デモにて樺美智子なる学生死す」。
足裏に舗装路絶えぬ暮色の泥 中川浩文
安保反抗デモで鳥肌立つポロシャツ
いわゆる「60年安保闘争」の盛り上がりの中、国会前での機動隊とデモ隊の衝突によって引き起こされた、女子学生樺美智子の死。戦後15年を経て、再び若い命が国を二分する争いの真っ只中で失われてしまった事態が、ニュースを通じて日本中に与えた衝撃の大きさは計りしれないものがあったのだろう(としか今の私には言えない)。当時京都女子大の助教授として学生たちの前にいた作者にしても、学生たちと同世代のひとりが突然に命を断たれたことからもたらされた怒りや哀しみは、即座に言葉としようにも複雑極まりない感情にとらわれたであろうことは想像がつく。俳人としての中川氏はそのような自分自身の感情のありようを見据えながら、だからこそますます甲高い響きを帯びて自らの前に立ち現れる声々と、それらに即座に呼応して立ち上がろうとする学生たちの姿に対しても、さまざまな感情にとらわれながらも、若者たちに生きていてほしい、このような世情の真っ只中にあって、なんとか無事であってほしいとの祈りをもって向き合おうとしていたのだろう。それは「蝶みな消ゆ」の結句に蝶の不在への切迫感だけではなく、いつか蝶が再びこの空間で羽ばたくことを願う気持ちが強く感じられるからである。だが、その願いは「蝶」たちに届いていたのだろうか。「60年安保」とそれ以降の「政治の季節」に「蝶」たちが負った傷の深さを、大学の教員たる中川氏は見届けなくてはならなかったのだから。
遺影への礼ならば問え犠牲死と言いうるほどに果たしたる何 岸上大作
あの6月15日にデモの真っ只中にいたこの学生歌人は、この年の12月にまるで闘争に殉じようとするかのような自死を遂げる。その後「60年安保」のモニュメントとしても読まれ続けていった岸上の短歌は、ジャンルは違えど定型詩に関わる中川氏のもとにも届いていたはずである。果たして傷つき倒れた「蝶」の残した短歌に一俳人としてどんな感想を持ったのかは、今からは到底計りしれないことである。
●―9上田五千石の句/しなだしん
風船を手放すここが空の岸 五千石
第四句集『琥珀』所収。昭和五十九年作。
『琥珀』は、昭和五十七年より平成三年まで、四十九歳から五十八歳までの作品三九二句を収録する第四句集。
*
掲句、センチメンタルな句である。「風船を手放す」はすでにセンチメンタルで、「ここが空の岸」というロマンティックさをも加えている。五千石は元来センチメンタルな句風であるが、素材の硬質さがバランスを保っている作品が多く、この句のように素材までセンチメンタルな句は珍しいかもしれない。
五千石の代表句である、第一句集『田園』の〈渡り鳥みるみるわれの小さくなり〉に、目線や離脱感に通ずるものがあるが、掲句の方が現実にとどまっている感が強いように思う。それが斬新さに欠けるという感想にも成り得るところ。
ところで「空の岸」とはどこを指すのだろうか。岸からは岸壁が想像され、その先には海が見えてくる。だがこの句はその先は「空」なのだ。空を主眼に置くと、岸はそこでもよく、まさに「ここ」が岸になるのだろう。ちなみに「風船」には「船」という字が使われていて、それも「岸」「海」を喚起させる一因になっているのかもしれない。
いずれにしても掲句は「空の岸」という表現に加え、「ここが」という限定が有効に働いていて、この辺りが初期作の「渡り鳥」とは違う、言葉は悪いが「てだれ」的なうまさがあると思う。
*
この句の作句年、昭和五十九年は五千石五十一歳、主宰誌「畦」が月刊になって八年目、充実期といっていいだろう。「畦」への発表句も当初七句程度だったものが、この時期には倍増している。いわば脂ののった時期、といえるかもしれない。
「空の岸」というようなフレーズは、他にないわけではないと思うが、この詩的表現は一歩抜け出ていると私は思う。
*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊
●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井
見るからに呪縛の女 マルクス忌
今までことさら取り上げてこなかった憲吉の第1句集『隠花植物』(昭和26年刊)より取り上げた。これからも取り上げる機会がないから一度ぐらいは取り上げておこうと思ったのである。『隠花植物』は昭和20年から25年までの作品を含んでいるから、制作時期はこれから推測するしかない。
この句の季語にあたる「マルクス忌」は季語ではない。しかしマルクスの忌日(1983年3月14日)はある。草田男の「燭の灯を煙草火としつチエホフ忌」 のチエホフ忌は季語になくともチェホフの忌日(1904年7月15日)があるのと同様である。
『隠花植物』は、昭和26年に<なだ万隠花植物刊行会>から限定120部の豪華本で世に出された句集だそうで(筆者未見)、後、31年に大雅洞より95部限定で刊行された(さらに53年に深夜叢書社から、これは部数の限定なく復刊された)。5章、わずか84句からなる句集である。ほとんど人に読ませないための句集であったのではないかと思えてならない。例えば、
オルゴール亡母の秘密の子か僕は
酒場やがて蝋涙と化し誰か歔欷
汝が胸の谷間の汗や巴里祭
妻よわが死後読め貴種流離譚
などの一応人口に膾炙した憲吉の句は、『楠本憲吉集』(昭和42年刊)になって出てくるから、『隠花植物』は句集の名前のみ有名でほとんど句は知られていないと言ってよいのだ。のみならず、<なだ万隠花植物刊行会>刊の『隠花植物』は表題が『陰花植物』となっているのも不思議である。ほとんど句集『隠花植物』は、『隠花植物』という題名のためにだけ存在する句集といっても良いかもしれない(詩人菱山修三も序文でこの句集名を褒めている)。
また、この句からもわかるように『隠花植物』は収録句の半ばが無季の句である。季語のように見えながら季語ではない言葉も多い。この句で言えば、ただ、マルクスの忌日だから春だろうと推測するばかりなのだ。おそらく師の草城から受けた新興俳句の匂いを最も濃く残していた時期であったろう。
有季から無季へ、難解な句から平明通俗な句へと変わったが、「見るからに呪縛の女」で分かるとおり女性に対する見方は少しも変わらない(マルクスには愛人がいたというから存外無縁な忌日ではないかもしれない)。
ちなみに、『隠花植物』時代に柴山節子と結婚する。昭和22年25歳のことである。
光る靴踏むや瓦礫のわが華燭
これ以後、憲吉の句集は妻との葛藤に満ちた俳句が満載される。虚々実々の妻との駆け引き、騙し合い、憎み合い、自己憐憫、軽蔑、畏怖、愛情と、まさに圧巻の句集となっているのである。夫婦の機微をこれほどあからさまに述べた句集は例を見ないだろう。これが全て事実とは思えないが、これから結婚を考える人に是非勧めたい句集なのである。しかし結婚する気がなくなっても当方は責任を負わないからそのつもりで。(女性の専門家とみられていた憲吉は、前号に載せた本『女ひとりの幸はあるか』『結婚読本』『女が美的に見えるとき』以外にも、『それでも女房はコワイ』『メオトロジー』『悪女のすすめ』『女性と趣味』『花嫁を走らせないで・・・楠本憲吉結婚読本』『かあちゃん教育』『産報版・源氏物語』『現代ママ気質』『娘たちに与える本』『女色・酒色・旅色』などを出している)。
●―12三橋敏雄の句/北川美美
釘買って出る百貨店西東忌
世の中には常識外の行動で美談となる人がいる。敏雄の先師・西東三鬼もそのひとりだろう。「自由奔放」「放浪者」「モダニスト」「エトランゼ」「ニヒリスト」など三鬼を表現する言葉は限りない。生前の三鬼と敏雄の関わりは、渡邊白泉の斡旋によりはじまり敏雄18から41歳、三鬼が鬼籍に入るまで続いた。西東忌は、四月一日である。
掲句は三鬼への先師追慕であるとともに愛憎と客観がある。三鬼を言い当てるような「百貨店」、「西」と「東」に距離を置く「西東忌」、何故「釘」を買って飄々としているのか、そこに心情が伺える。
掲句から直ちに連想したのは、映画『復習するは我にあり』(公開:1979年、監督:今村昌平、原作:佐木隆三)である。殺人鬼・榎津巌(緒形拳)が雑司ヶ谷の薄暗いアパートの洋ダンスに、老弁護士(加藤嘉)の屍体を閉じ込め、自分の頸をネクタイで絞めるしぐさをする。そして、タンスを封じるための釘と金槌を商店街に買いに行く。どこか清々しい顏をしている。『復習するは我にあり』はキリスト教の言葉である。新約聖書の「悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう」という意味であるらしい。
『まぼろしの鱶』後記
当時、傍目には華麗な三鬼の、それ故に無慙な実生活振りは、具体性をもって、私の魂の避難港として在った。
三鬼が商売に失敗したり、突然神戸へ移転したり、俳句以外のさまざまな武勇伝(例えば神戸の遊郭をツケ払いで遊ぶなど)が本当の悪だったかは、敏雄自身にしかわからないが、三鬼作品が「悪意に満ちた美」であることはわかる。「釘」は、少なくとも三鬼作品を表現するに的を射ているし、そこにキリスト教的暗喩が感じられるのは確かである。更に、釘を買ってどうするのかということになれば、書かれてない「金槌」は、既にあると読め(神が金槌を振り降ろすのかもしれない)、没後の西東三鬼の行く末を自ら背負おうという所作に読める。
故に、敏雄が大工ヨゼフになろうと決意の上、バーニーズニューヨークから出てきた、という光景である。百貨店ならば、例え五寸釘、犬釘であろうとも取り寄せ可能である。
聖燭祭工人ヨゼフ我が愛す 西東三鬼
上掲句対する敏雄のシニカルな呼応でもあるだろう。弟子になりたいと訪ねた白泉に三鬼のところへ行くよう薦められ、そのまま三鬼の身辺に渡る関係がはじまった。敏雄の才能、人格、存在の全てを真っ先に三鬼から愛されたのである。男同志のドラマ(私淑の白泉との三角関係も含め)がある。掲句は、西東忌四月一日はエイプリルフールであることも不思議な句である。
掲句は第一句集『まぼろしの鱶』に収められ、三鬼の祥月命日、1965(昭和四一)年四月一日に上梓された。敏雄は、三鬼没後十年に『西東三鬼全句集』(*1)の刊行に尽力した。まさに釘の集大成かもしれない。
*1)『西東三鬼全句集』(1971年・都市出版社、編集:三橋敏雄・鈴木六林男・大高弘達、監修:平畑静塔・三谷昭)、更に補強版の『西東三鬼全句集』(1983年・沖積舎、編集:三橋敏雄)を敏雄単独で編集。
●―13成田千空の句/深谷義紀
妻の眉目春の竃は火を得たり
第1句集「地霊」所収。
昭和26年、千空は石塚市子と結婚する。その折のことを、後に千空は次のように述懐する。
従弟と暮らした、鍋釜があるだけの所に来てくれた妻でした。めんこくてどうしようもありませんでした。
(「俳句は歓びの文学」成田千空著・角川学芸出版刊 より)
前年、千空は帰農生活を切り上げて、五所川原市内に移り、従弟と小さな書店を開いた。これは、千空自身が開墾地での孤独な生活状況から脱却する必要を感じたからでもあった。店の経営自体は繁盛するまでには至らなかったものの、市内の文学青年や若い絵描きなどが集まり、さながら文化サロンのような状況を呈したというから、その意味では所期の目的を達したと言えるだろう。上記の千空の述懐にある「従弟と暮らした、鍋釜があるだけの所」とは、この書店兼住居をさす。
掲句は、新婚直後の作品である。折りしも季節は春。まさに妻を娶った喜びが率直に現れている。
実はこの結婚後間もない時期に、千空が生涯の師と仰ぐ中村草田男が地元新聞社の招きで青森を訪れている。千空は草田男に一週間同行し、その謦咳に接した。その折、互いの妻のことに話が及び、千空が「新婚なのに時々諍いをしてしまう」とこぼしたところ、草田男は「喧嘩をしない夫婦は夫婦ではない」と強い口調で語ったという。次に掲げるのは、千空がその草田男を詠んだ句である。
妻を語る秋栗色の大きな眼 「地霊」
愛情ある家庭を共に築く妻と信頼しうる師。その双方を得た千空の作品は、この時期以降、さらに充実の度を増していく。そして昭和28年には第1回萬緑賞を受賞し、青森俳壇を大いに勇気付けた。わけても当時青森高校の生徒だった寺山修司は大いに衝撃を受け、それを越えなければならないと語り、さらに熱心に俳句に打ち込んだと言う。
●ー14中村苑子の句 【『水妖詞館』―― あの世とこの世の近代女性精神詩】33.34.35.36/吉村毬子
2014年8月29日
33 翔びすぎて墳墓の森を見失ふ
苑子の眠る冨士霊園に二つの墓碑が並んでいる。
わが尽忠は 俳句かな (重信)
わが墓を止り木とせよ春の鳥 (苑子)
この墓の購入手続きをしたのは『水妖詞館』が刊行された昭和50年の後の昭和56年頃であるから、冨士霊園のことを踏まえた句ではないだろう。
墳墓は先祖代々の墓、またはその土地に当たるが、苑子の生まれ育った伊豆から望む天城山や箱根連山などの森を思い浮かべることもできるし、父方は、蝦夷地の出身らしいので、その遠い北の森を詠んでいるとも解釈することができるだろう。
いずれにしても「翔びすぎて」「見失ふ」のだ。大空を飛翔する姿があり、「森を見失ふ」くらいな飛翔の高さが描かれ、鳥瞰図的な視点から一句を仕立てている。青く拡がる大空と緑の森の色彩感の美しさに心を奪われるけれども、天空から見降ろすかけがえのない遠祖の魂の息衝く故郷を「見失ふ」。より高く、より速く翔ぶ自身の加速は止められなくなってしまったのだ。
苑子が故郷伊豆へは、ほとんど帰らずに俳句の世界に骨を埋める覚悟で切磋琢磨していた頃の作品であろう。俳句というよりも、肺病、戦争、夫の戦死、二人の子を持つ寡婦としての戦後、俳句評論発行所の運営、作句行為と、駈け足で生き抜いた人生に、ある日ふと過(よぎ)った思いとも考えられる。
しかし、「墳墓の森」、それは俳句そのものを指しているようでもある。
『水妖詞館』に収められた生と死を往来する、詩的飛躍を昇りつめていくことは、その当時の苑子の希いではある筈だけれども、ふと静謐な抒情を求めていた頃を思い出したりすることもあったのではないか――。
最後の句集『花隠れ』の前半に初期編を入れ、後半は来し方や余命への落ち着いた句が並べられていること。そして、生前のある日、「俳句は文芸です。文学ではありません。」と静かに語った一言を、私は思い出したりすることがある。
34 鈴が鳴るいつも日暮れの水の中
もう20年も前になるだろうか。英文の小冊子を苑子が取り出して、掲句が英訳されて載っているのだが、句意と合っているか見て欲しいと言った。私は、英語が不得手であったが、私にも理解できそうであったため、「だいたい合っています。」と答えたのだが……。
掲句は、人口に膾炙した句であり、苑子も気に入っていたようだ。英訳されたことが嬉しそうであった。
この句について、「十句自註」の中で書いている文章がある。(『現代女流俳句全集第4卷』昭和56年、講談社)
ある初秋の日、印旛沼で舟遊びをしていた。舟べりから冷たい水の中に掌を入れて心を澄ましていると、沼の水と自分の胎内の水とが呼応するのか、指先がりんりんと鳴って痺れるような感じがした。なおもその儘にしていると、あたかも水底に沈んでいる鈴のひびきが、何ごとかを指先から私に伝えているのではないかと思った。身を乗り出して深い沼の中を覗いてみると、秋の真昼なのに、水の中は日暮れのような昏ら((ママ))さにしんしんと静もっており、私はこのまま水の中に吸われてもいいような気持ちになった。(昭和四十八年作)
この文章によると「いつも」は〈日暮れになるといつも〉ではなく、〈真昼なのに、水の中は日暮れのような昏さ〉なので、何時(なんどき)でもの「いつも」の表記ということが解る。要するに、〈水の中は、いつも日暮れのようである〉という自解である。この文章を読むまでは〈日暮れになるといつも水の中で鈴が鳴る〉と理解していたので例の英訳が、本当に良い訳であったのか、申し訳ない気持がする。
面妖な句ではあるが、しんとした透明感が一句を包むのは、水の中の夜の暗闇ではない「日暮れ」という哀愁が持つ色とイメージによるものであろう。また、鈴の奏でる純粋な高音が水中に揺れ震えているためでもある。こういった、誰にでも聴こえるものでは無い音(ある者は、夜明け前に聴く物の怪の遠吠えであるし、またある者には深夜の葉擦れの隙間に聴く声)が、苑子には聴こえるのである。
自註によれば、「初秋の」「秋の真昼」ではあるが、その後、日暮れになると「印旛沼」の水中で感じたあの鈴の音を聴いているように思われる。前句「翔びすぎて墳墓の森を見失ふ」の自嘲にも似た呟きが、さらに心の深奧にひたひたと水を張り、今日という一日が暮れゆく時、原始の水が本当の自分を呼び覚まし、彼女を包容していたのではないか。
苑子は、ただ、鈴の音を淡々と聴いているだけであるが、水底に棲むもの達との交感の儀式のようでもある。自註文にも書かれているように、いつしか、自身も静かに水中へ溶け入ってしまいそうになる予兆を感じさせる、生死の境界が揺曳する句である。
35 一ト日より二タ日に継ぐは白眼ばかり
『水妖詞館』全139句の中で此の句が一番難解な句であるかも知れない。初見では、訳の解らぬ怖さに怯えるだけであった。(倉阪鬼一郎氏の著書『怖い俳句』には揚げられていなかったが……)下五の「白眼ばかり」の表記から、上五中七へと円環されるほど、「白眼」のことのみを詠っているような妖気を感じるばかりであり、白眼がクローズアップされる絵画や映像が浮かんでくるのであった。
しかし、ある日、〈白眼で見る〉という言葉に思い至ったのである。冷たい眼で見る、という軽蔑が表われている意味であるが、広辞苑を引くと、晋の国の阮(げん)籍(せき)と云う人が気に入らない人を見る時は上目使いをして、白眼を見せたことから、この語ができたらしく、〈白眼〉は〈にらみ〉とも読む。隠語大辞典には〈月影=月の姿〉という意味もあるが、軽蔑を含む冷たい眼で見られるという句意だとしたら、絵画や映像の怖さどころではない。「一ト日」終日から「二タ日」次の日へと続く冷たい眼ばかりに囲まれて毎日を過ごすということである。
生きるという事、俳句を書くという事、その継続のためには、それらの冷ややかな視線から逃がれられないということか……。
33「墳墓の森を見失ふ」まで懸命に歳月を重ねる蔭には、あらゆる困難に毅然とした態度でいなければならないのだが、痩身が悪風に吹き飛ばされ、身を晒されることもあるだろう。かつて台所俳句と呼ばれた社会的、俳壇的に煙たがられない女流句を脱いで、杉田久女や、橋本多佳子、三橋鷹女らが、男性陣の中で鍛錬し、新しい女流俳句を書き続けてきたことは、現在の俳句界からは考えられない苦難があったであろう。苑子が三橋鷹女を師と仰いだのは周知であるが、久女を尊敬し、長野県松本市に分骨された墓へも参っている。(私は、久女も勉強しなさいと言われていた。)
女流俳句が近代まで創造的進化を遂げてきたことは、先達の女流俳人達の努力であることを語っていた苑子もまた、現代の女流俳句を形作った俳人の一人であることを、此の句を読む度に痛感せざるを得ないのである。
36 つひに碑となる田舎紳士と野菊佇ち
碑とは句碑であろうか。徳富蘇峰の奨励したイギリスの地方郷神である「田舎紳士」などを思い浮かべ、その「田舎紳士」なる俳人の句碑が建立され、傍らに野菊が咲いている、という解釈にも成り得るのだが……。
前句の難解さとは逆に、解りやすい表記で書かれているだけに、表面的に言葉を理解して納得するには物足りなさを感じる句である。まして1頁に前句〈一ト日より二タ日に継ぐは白眼ばかり〉と並べられている意味を思考すれば、そのような解釈に結論付けるのはあまりに短絡的すぎる。
25年間の句業を書きまとめた句集の編集、構成には苑子なりの思惑がある筈である。
「つひに」は、〈とうとう、しまいには、結局〉の一般的な意味だけではなく〈ツユヒ=衰える、潰れる〉と同源の意の一説もある。そうすると「碑となる」は、長逝してしまったことのようにも思えるし、「碑」が死後も故郷に錦を飾るひとつの証であるとすれば、「田舎紳士」が華やかに名を馳せた都会を離れて、隠遁したかの如く故郷に帰ったともとれる。
没したのか、戻ったのか、どちらにしても「田舎紳士」の里へ行ってしまったきりもう逢うこともなくなったのだと推察される。
「野菊佇ち」から「野菊」も花ではなく、伊藤左千夫の『野菊の墓』のような、素朴で可憐な「田舎紳士」とよくお似合いの女人と思われる。
やはり冒頭の解釈から発展のない主旨に落ち着いてしまうのだが、試みにロマン的イロニーの効いた句だと鑑賞しながら、「田舎紳士」が前句の「白眼ばかり」の一人だとしたら此の句もまた怖い句と言えるかも知れない。