出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉 コメント:北村虻曳、筑紫磐井
(2011年11月18日)
はじめに 仲寒蝉
2011年1月に刊行された『相馬遷子―佐久の星』はインターネット上のブログ、「―俳句空間―豈weekly」で展開された5人の共同研究を元に書き下ろしの論文を加えて1冊の本にまとめたものである。相馬遷子と言えば「馬酔木の貴公子」「高原派の旗手」とのイメージのみが先行し現在ではほとんど読まれることのない俳人であった。それを謂わばこの5人が再評価しようとした。遷子の研究書としては現在のところ唯一無二と言っていいこの本はいま静かな注目を浴びつつある。既に1ヵ月余で初版は絶版となり、大幅改訂を加えて『改訂版 相馬遷子 佐久の星』が刊行されようとしている(10月15日邑書林刊)。今後さらに多くの人々に遷子が愛されることを期待したい。また遷子研究と同じ手法を用いて、現在「詩客」というブログで18人が自分の選んだ俳人・柳人を論ずる「戦後俳句を読む」が連載中である。
そこでこの「戦後俳句を読む」の場を借りて折角研究した相馬遷子の戦後俳句史における位置付けを行おうということになった。つまり共同研究に参加した5人で「遷子という窓を通せば戦後俳句史がどう見えるか」を考える試みである。具体的には司会が準備した10の質問に『相馬遷子―佐久の星』を踏まえ、Eメールを通して各人に答えて頂き、それを司会がまとめるという方法を取った。以下がそのまとめた原稿である。
なお、戦後俳句の範囲は一応終戦から昭和の終わりまでとするが、戦前(15年戦争のはじめ頃)までを含めるという説もあることを申し添える。
1.遷子の俳句の特色についてどう考えるか?(題材、文体など)
筑紫は題材として〈風景俳句(戦後の馬酔木高原派も含め)、生活詠、行軍俳句、開業医俳句、そして療養俳句〉があるとし、〈最も関心を持ったのは開業医俳句であった〉と述べる。その理由は、独自の地域医療が見られた長野県佐久地方に住んでその地域医療を題材としたという意味で独自の俳句だからと言う。
〈遷子の開業医俳句を引き継いだ者はいなかったし、独自の地域医療の問題が解消した時代からは遷子自身の開業医俳句も消えてゆく。期限限定、地域限定の俳句であった。しかしこうした限定された(言ってみれば極限の)俳句であったからこそ、独自の俳句が生まれ、それは普遍的価値を持った文学へと昇華している〉と述べている。
『相馬遷子―佐久の星』は注目され新訂版の発刊まで企画されている。これは相馬遷子という一俳人の歴史に埋もれた俳句を世に知らしめるよい機会となろう。
原は〈句集を通読しての第一印象は、ずいぶんさっぱりした文体〉であったと言う。つまり散文的と指摘される一方、〈短詩型の大きな武器になる連想作用や技巧的表現による膨らみといったことに凭れかからない句作だった〉と考える。このことは〈想像の領域ひいては夢まぼろしを詠まない〉という態度に通じ、〈風景句においては輪郭のくっきりした描写〉となり、そして〈社会的題材を詠んだ場合、世の「社会性俳句」の散文化と一見似通った相貌をも見せた〉と指摘する。
最後に〈遷子は題材によって詠みぶりを変えるというような器用な俳人ではなかった〉と結論付けている。
中西は〈俳句の姿に人柄が反映されて、古武士のような風合いがある〉と言う。
俳句では気持ちを直接には表現しないのが一般的だが、遷子は風景句以外、特に『雪嶺』では「憎む」「怒る」という直情的な言葉が使われおり〈思ったことを散文に近いまま句形にして、きちっと納めてしまう技がある〉と指摘する。
時代を追ってみると揺籃時代は〈秋桜子を真似た馬酔木の人らしい優美な作品〉、〈戦争中から社会に目が向き〉、ことに『雪嶺』の時代は独自の視座から医師俳句を展開、『山河』では〈病気と死というより万人に共感されるテーマ〉を描くように変化している、と言う。
深谷は以下の3点に分けて述べる。
(1)ヒューマニズム
遷子作品に一貫して流れるヒューマニズムの発露は他の作家にも見られるものの彼ほどそれを透徹した作家はいないと言う。〈一歩間違うと、あざとさ、押し付けがましさ、あるいは臆面のなさなどが前面に立ってしまいがち〉なテーマを扱い、〈気恥ずかしい気分が先に立ってしまう〉のを乗り越え、〈そうした心情を中心に据えた作品を多くなしたのは、遷子の生真面目さだ〉と考える。
(2)地域性(地方色)
〈佐久帰郷後、専らその土地での生活(含む医療行為)を句作の対象とし、そのことにこだわり抜いた〉ことにより〈佐久の地やそこに居住する人々への愛憎半ばする心情が生まれた〉と指摘する。
(3)文体
〈自身の心情を平明に述べた作品が多く、あまり捻った詠み方はしなかった〉と述べる。
仲は題材については『山国』までは自然を対象とした俳句が多く(戦争詠や医業に材を取った句も混じるが)、『雪嶺』の時代になって〈医業や病人を題材にした医師俳句、同じ地平上にある社会を詠った俳句が目立つように〉なり、家族を詠んだ俳句が数を増してくるが、『山河』では「わが故郷」としての山河をいつくしむように詠む俳句と家族の老・病・死、自身の病気(或いは病気の自分自身)を題材にした俳句が大半を占めるようになる、と指摘。
文体については以下の特徴を挙げる。
1)「かな」「けり」の使用頻度が「や」に比べてかなり少ないこと。
2)『雪嶺』では「や」が頻用されていること。しかし『山河』の入院以後にはまたほとんど見られなくなること。代って「よ」「か(疑問)」が目立つようになる。
3)動詞で終わる句がとりわけ『雪嶺』以後に多くなること。
4)万葉調の「も」は『山国』に顕著であること。
これに基づき、〈波郷(「鶴」)の唱えた「古典に還れ」よりも秋桜子(「馬酔木」)の万葉調の影響の方が少なくとも『山国』の時代には強かった〉と言う。
また〈句末を動詞で終える句が『草枕』25.0%、『山国』22.9%、『雪嶺』30.9%、『山河』26.9%と平均4分の1もあり、とりわけ『雪嶺』以後に多い〉ことから散文的な印象が強くなったと指摘。
まとめ
この問に関しては各人注目する所が異なりバラエティに富んだ回答集となった。
筑紫は遷子の俳句を風景俳句、生活詠、行軍俳句、開業医俳句、療養俳句と分類し、中でも全く独自のものとして開業医俳句を評価する。それは期限限定、地域限定であるが故に却って普遍的価値を持った文学へと昇華しているためであると言う。
原は文体に関して遷子を器用な作家ではなかったと言い、連想作用や技巧的表現に凭れかからないため対象が風景の場合はくっきりと、社会的題材の場合は散文化しやすい傾向のあることを指摘しつつ、態度において夢まぼろしを詠まないという特徴を挙げる。
中西は初期の優美な作品から社会に目を向けるようになり、晩年の万人に共感される病気と死というテーマを扱うに到ると概観。思ったことを散文用にそのまま述べながら句としてまとめてしまう力量があったと指摘。遷子の俳句を〈句の姿に人柄が反映されて古武士のような風合い〉があったとまとめている。
深谷は〈作品に一貫して流れるヒューマニズムの発露〉に注目、地方での生活に拘った(後の回答から所謂「風土俳句」作家とは異なると指摘)俳句を詠んだが文体としては平明であったと述べる。
仲は題材については年を追って自然→医業、家族→故郷の山河、老・病・死と変遷したことを指摘。文体については切字の使い方、動詞で終わる文体、万葉調の「も」などに特徴を見出している。
以上のように各人焦点の当て方は異なるが、やはり医師としての生活を詠んだ句(医師俳句)と晩年の療養俳句に遷子の魅力が表れていると考えるのが大勢の意見であったようだ。
【コメント】
北村虻曳:相馬遷子という俳人の名はまったく私の知らないものであった。この座談「遷子を通して戦後俳句史を読む」の議論と『相馬遷子―佐久の星』を読むことによって得た知識のみで述べさせていただく。
詩は、何か他人(ひと)の見ないものや、無意識で見ていても言葉に上(のぼ)せていないものを定着するわけであるが、対象によって便宜的に次のような区別して考えて見る。
1.己を消して周りのもの、あるいはそれらの関係を描き、写す。
2.作者の内なるものを述べる。
3.言葉の自己展開を記し、あるいは言語の新しい用い方自体を示す。
近代的な俳句では1の写生が意識され重視されてきた。そこから2のように表に出されていない、内なるものを読み取ることが鑑賞の作業となった。
2は、はっきりと感慨、批判や志を述べようとするものである。しかし内的なものといっても、それだけを展開することは難しい。外のものを契機とし、見えるものを媒介とする、すなわち1を用いなければ理解を呼びにくい。しかし5・7・5に盛り込むことは難しいし、実際2は伝統的にはあまり推奨されてこなかったようだ。(7・7を加えるだけで、様子はずいぶん違うのであるが。)むろん境涯句や社会性俳句などを代表として、試みは多くある。
3は加藤郁乎の言葉遊びやオートマティズムをはじめとして、現代俳句ではいろいろな手法が工夫が成されている。
この図式で行くと、座談の皆さんの意見はおおむね、相馬遷子は1にとどまらず2に踏み込んだが、3の要素は見いだしていないということになるだろう。このことは私が今回『相馬遷子―佐久の星』で代表作を読んだかぎりでは納得できる。ある時期、遷子は「『憎む』『怒る』という直情的な言葉」(中西夕紀)を使うこともあった。一方で、原雅子は「想像の領域ひいては夢まぼろしを詠まない」とし、また中西夕紀は「風景句において」は「輪郭のくっきりした描写」を行い、「思ったことを散文のまま句形にして、きちっと納めてしまう技がある」とする。「夢まぼろしを詠む」ことは、1と2の間にあるものだろうが、遷子はこれをとらず潔癖な描写を選んだのである。
この潔癖さとつながるのか、私には遷子の孤独な相貌が印象に残った。内なるものを述べるとしても誰かに向かってうったえるメッセージではない。そこにはいわゆる「社会性俳句」とは反対に、性格としてのペシミズムが覗いている。医師としての社会意識はあるが、言葉の生み出す共同性は希薄である。したがって、ユーモア・諧謔・アイロニーなどをもって虚の空間における共生を目指す3などは、まったく相容れないわけだ。
遷子は明治41年生、昭和51年没である。戦後といっても昭和半ばを境に人々の意識は非常に変わったが、それ以前の知識人は、庶民の中に「先生」や「インテリ」と呼ばれ、敬されて立つ少数者であった。特に「地方」では同様の存在は数が少なく、自分の使命をつねに意識させられ、つきあいはあっても精神的な孤立感は強かったであろう。そういう人の生活を感性を含めて描くことは小説などには見られるものの、俳句として詠んだ人は、遷子以外にあまり知られていないようだ。彼の誠実で飾らない性格の故に、極小短詩のかたちでもユニークで記録が残ることになった。正直・実直な姿には身に詰まされる、そう感じる人が多くいるということである。
筑紫磐井:既に遷子については十分論じたつもりだが、共同研究の終わったあと、共同研究者の作業を改めて読み直してみるとまだ言い足りない部分がある、いやさらに強調したい部分があるという思いがある。特に、平成23年という特殊な時間がそれを感じさせるということもあるのだ。なにしろ、俳人がほとんど花鳥諷詠に等しかった創作環境に突然社会的な要素が加わり、震災を詠まねばならない、震災を詠んだ作品を評価しなければならないという脅迫意識が生じたからだ。なぜ、我々は震災以前の社会的事件に無関心であったのか、それがなくて何故震災俳句が詠めるのだろうか。かれらは、今日以後、社会的意識派に悔い改めるのであろうか。とりわけ奇異な感じがするのが、震災以前に社会的意識のなかった作家たちがにわかな着け焼刃で詠み出した作品に社会的意識の核心が見えてこないことである。俳人というと、あまり実感がわかないので詩人と言っておくが、以下は全て俳人と読み替えて欲しい。
詩人は何に関心を持つかは自己の責任で決定する。その詩型に責任を負わせることはできない。社会と没交渉の自然に関心を持つことも立派な詩的作業であるが、その瞬間に(逆の意味の)社会的責任を生じている。おそらく、花鳥諷詠という思想は、とんでもないアナーキーさを持つのである。現代社会において人類が関心を持つべきとされる社会活動を拒否せよと呼びかけるからだ。もちろん社会的意識をもったからといって、俳人という詩人のもつアナーキーさが薄まるものではないかもしれない。それでも地震とか、地域医療に関心を持つということは悪いことではない。自らの詩型によって、社会的意識に対する告白をすることになるからだ。
しかし、詩人は作品においてのみ責任を持つ。社会的意識、例えば「社会性俳句」におけるイデオロギー論者(沢木欣一)のような態度をとれば、それは詩あるいは俳句という爆弾(もちろん大した破壊力があるわけではないが)を使った職業革命家でしかない。詩人が作品において責任を持つということは、社会的意識の中に自分の新しい活動の指針を持つということであろう。果たしてどれだけそうした覚悟を震災俳句を詠む彼らがしているのであろうか。言行乖離していた説明責任を取るということが、彼らのまず責任であるべきなのだ。
相馬遷子は、確かに自然讃歌の俳句から、地域医療を詠むという隘路に落ち込んだ。しかしそれはそれで遷子の必然であったことは間違いないし、尊敬すべき迷路である。また作品も、凡百の社会性俳句に比べて劣るとも思えない。師である水原秋桜子からは批判され、敬愛する飯田龍太からはほとんど見るべき作品がないと酷評されたが、秋桜子や龍太も実はアナーキストなのであり、彼らの評価も割り引いて考えるべきなのである。秋桜子や龍太の目から解き放たれて遷子を読む(何も遷子を第一等の作家だと言っているわけではない)ーーーそうした作業が『相馬遷子』という本であったということである。