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2021年4月23日金曜日

【ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい】11 『眠たい羊』の笑い  小西昭夫

 ふけとしこさんの『眠たい羊』はさまざまな読み方ができる楽しい句集だが、今回ぼくが注目したのはふけさんの滑稽句、ユーモアにあふれた句の多さである。『眠たい羊』は笑いの宝庫なのだ。

指先で穴開けてゆく春の土

 指先で春の土に穴を開けて何をするのだろう。普通に考えれば、花の種や作物の種を蒔くのだろう。しかし、穴を開けるだけで何もしないことだってありうる。純粋に穴を開けることを楽しんでいるのだ。しかし、そんな人はいないかと思うと急に可笑しくなる。

六月を風のきれいな須磨にゐる

 明治二十八年、日清戦争に従軍して帰路喀血した子規は、神戸病院に入院後須磨で療養した。ふけさんのこの句は「須磨」という前書きのある子規の「六月を奇麗な風の吹くことよ」を踏まえた句である。子規の回復を促した須磨と六月のきれいな風へのふけさんからのオマージュであるが、子規とふけさんが同化しているところが可笑しい。

播磨国一宮より蟻の列

黒光りとはこの蟻の尻のこと

 蟻の列は一宮からどこまで続くのだろう。例えば前句の須磨であってもいいだろうが、一宮よりとあるのだから、かなり長い列である。つまりはあり得ない話なのだがそれが面白い。

 黒光りが蟻の尻だという断定もいいな。尻という言葉に少しエロティックに反応する自分にも笑ってしまう。

箱庭の二人心中でもしさう

 この句も可笑しい。箱庭に置かれた二つの人形。男と女なのだろう。その人形にどこか幸薄い印象を持ったのだろうか。その人形が「心中しそう」と言われても、ではご勝手にと笑うしかない。

山近く暮らし秋刀魚を焦がしけり

 ただ、秋刀魚を焦がしたというだけの俳句だが、その人が山近く暮らす人だというだけで笑いが生まれる。事実に基づくのかもしれないが秋刀魚がいい効果を出している。これがふけさんの笑いのセンスだ。

蛤になる気の失せて浜雀

 この句は可笑しくしすぎたかもしれない。「雀蛤となる」という荒唐無稽な季語を逆手にとって季語で遊んだ句であるが、浜雀はもう蛤になる気はないのだ。雀は雀なのだ。そこにふけさんのリアリズムをみることもできる。

白鳥が進む私も歩き出す

 白鳥と私を対比させた対句表現であり、私も前へ進もうというのだ。こんな真面目な句が何でこんなに可笑しいんだろう。私は白鳥だと言っているように感じるからだろうか。そうなのだ、ふけさんは白鳥なのだ。

義士の日の混み合うてゐる足湯かな

 赤穂浪士の討ち入りの日は十二月十四日。そんな討ち入りの日も足湯は込み合っているのだ。もちろん、足湯の人たちに誰かの仇討ちをしようなどという思いはない。それをさりげなく表現して笑いを誘うのである。


この他『眠たい羊』はユーモアのある句に溢れている。それが意図的に感じらっれるものには触れなかったが、『眠たい羊』は笑いの宝庫である。

2021年1月29日金曜日

【ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい 】10 手紙  橋本小たか

 先日はたいへんお世話になり、ありがとうございました。『眠たい羊』もいただき、申し訳ないかぎりです。

 で、この『眠たい羊』が、いいなと思う句がとめどなく飛び出してくる句集で…。

春寒やぎつしぎつしとゆく翼
指先で穴開けてゆく春の土
花の夜の骨煎餅をほきと折り
桃咲いて柩の中といふところ
海老の尾の膨れて揚がる花疲れ
擂粉木をつるりと洗ひ夕長し
クロワッサン緑雨籠りの椅子を引き
水光る腹を細めてくる蛭に
黒光りとはこの蟻の尻のこと
水鉄砲ぐらぐらの歯を見せにくる
ごきぶりの髭振る夜も明けにけり
鷹の眼の正面にあり我を見ず
ふるさとは狐火遊ぶ頃なるか
星へ向く狼星を見てをらず
悪相といふべき榾のよく燃ゆる


 なかでも、つぎの句はとりわけ好きでした。

龍天に登るセロリに強き筋
買ふ気になつてもう一度柿の前


 一二を争うのは、この二句。

嘴の痕ある椿ひらきけり
蟻の穴西瓜の種のつつかへて


 充実としか言いようのない一冊。
 ちょっと馬鹿ばかしい脱力系の句、五七五にすることで笑える句が魅力でした。

2020年9月25日金曜日

【ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい】9 ~生きる限りを~  髙橋白崔

 ふけとしこさんに初めてお会いしたのは何時だったか・・・思い出してみると、筆者が所属する椋俳句会の吟行旅行の折だったと記憶している。
 既に関西俳壇の重鎮として名を成しておられたが、お会いしてみると大変気さくなお人柄で、常に周りには人が集まって朗らかな気分にさせてくれる正に“難波のおばちゃん”そのもの。しかし一旦吟行に移ると、植物に、昆虫に素晴らしい知識を持たれていて“歩く植物図鑑&昆虫図鑑”となる。愛情をもって接するふけさんのお姿に、小さな生命に対する慈しみを感じたものだった。<青蛙連れてどこまでふけとしこ>はそんな姿を拝見した折の筆者の即吟。
 しかし、命を見つめるふけさんの確かな目は人間観察にも向けられており、人間の営為の機微に触れる秀吟を読者は拝見することになる。

 では第五句集となる『眠たい羊』についていくつかの句を引いてみたい。

  嘴の痕ある椿ひらきけり

 細やかな観察が行き届いた句である。普通なら見事に開いた椿を詠みたいところを「嘴の痕」に着目して、植物と鳥との関わりに心を寄せている。どちらの生命も肯定してあるがままを詠む姿勢こそが写生の真髄だと知らされる一句。

  脚を病む蟻かも知れず日の落つる

 観察の眼は更に小さな蟻のうごめく姿にまで向けられる。脚を病むと推察することの背景にある、この小さな命に起こった只ならぬ出来事が一句の隠し味になっているではないか。落日が迫るということは命の儚さの象徴でもあるだろう。

  鹿若し風踏んで四肢浮かせたる

 まだ怖れを知らぬ若鹿の躍動感。見えぬ風を踏んで四肢が浮いているとは確かに実体験のない者にも分る景であり、生命の捉え方の妙が感じられる。そして「鹿若し」と突き放して詠むことにより、いずれ知るであろう生きることの大変さに作者の思いが込められている。

  春の水とは子供の手待つてゐる

 通常、「〇〇とは」という認識を示す句は高踏的になりやすいので、筆者などは極力避けるのだが、「子供の手待つている」には逆転の発想が見事に決まって子供らの活動的な姿が春の水に映しだされている錯覚に陥る。春の水の象徴性が嫌味なく表現されるところに作者のポジティヴな立ち位置が見えてくる。

  早引けに連れのできたる花石榴

 体調不良か、それとも家庭の事情か、早引けという行為はどこか後ろめたいもの。
それに連れができたというのは背徳感を少しだけ分け合った気分だろうか。石榴の花の朱色が気持ちを少しだけ軽くしてくれたのかもしれない。

  蟻地獄暴いてよりを気の合うて

 蟻を善き労働者に例えるとすると、その天敵蟻地獄という“悪の奈落”を暴くことを正当化しつつも、作者とその連れは小さな生命の営みを崩すという行為において共犯者となったのだ。この句も微かな背徳感の共有かもしれぬと筆者は読んだのだが。

  冬深し生きる限りを皿汚し

 食物連鎖の頂点にあるホモサピエンスは、生きている限りにおいて他の生物の命の収奪を免れない。「皿汚し」とは正に命を頂いた結果に他ならず、ヒトはそれを恥じつつ、感謝しつつ生きるしかないのだと作者は言っているのだ。その深い感慨が感じられる秀句である。

 生きる限り人間は何かを汚し続ける。その背徳感の裏返しが小さき生命への関心であり哀れみ、慈しみとなって、ふけとしこという俳句作家を贖罪としての作句に駆り立てるのではないだろうか。そのひとつの結実が『眠たい羊』であるのだと思う。

 

2020年8月28日金曜日

【 ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい】 8 無題/岡村潤一

 数年前に東京から関西に引越しをした際にとしこさんにお声をかけていただき、それから 定期的にご自宅での句会に参加させていただくようになった。句会は、鋭いつっこみと笑いが溢れており大変賑やかであるが、句に対する評価もとても直接的でわかりやすい。
 さっそくとしこさんの句集「眠たい羊」から私の好きな句、気になった句をあげてみたい。


 銀杏散るノート買ふにも橋越えて
 松竹座裏を濡らして春の月
 戎橋新戎橋鳩の恋

 なんばの松竹座、戎橋、銀杏並木という繁華街でのささやかな季節の変化を句にされている。銀杏散る頃に、橋を越えて買われたノートはツバメノートか?松竹座裏路地の路面が濡れ、空には春の月という艶やかな情景。戎橋新戎橋の句は橋はまさに恋の象徴と存在しているように感じた。

 春の水とはこどもの手待つてゐる
 指先で穴開けてゆく春の土
 漱石全集一冊抜いて日焼の手

 としこさんには小さい頃、土や草花、虫に触れて思いっきり遊んだ経験があると伺ったことがある。これらの句の手や指はとしこさん自身の手や指ではないだろうか。春の水や春の土に触れる前のわくわくとする感覚、そして自然に触れて遊びきったという充実感、豊かさがこれらの句から伺える。野山での原体験と文学作品を繰り返し味わうことで、としこさんの内に自然を詠う喜びと力が育まれてきたように思う。


 連結の強き一揺れ冬紅葉
 遠き船もつと遠くへ梅白し
 向日葵の首打つ雨となりにけり

 連結時の一揺れに紅葉の赤が、遠くの船を見た後の目先の白梅、そして雨に打たれている向日葵の黄と日常の中の色が鮮やかに浮き上がってくる。

 セーターの脱がれて走り出す形
 早春を雲もタオルも飛びたがる
 春の雲ちぎる役なら引き受ける

 読めばとなるほどと思うが、なかなかこのような発想、表現はできない。これらの豊かな発想力とスピード感あふれる表現力から生まれてくる句には、気負いがない。それはとしこさんの等身大の日常から飛び出してきたものだからに違いない。

 以下の句からはとしこさんの生きることへの思いが伺える。

 消印の地をまだ知らず青葉騒

 人が一生に訪れることができる地は限られる。知らない土地に人は憧れをもち、そのことが旅する力、生きる力につながる。青葉騒は未知への憧れを象徴している。

 冬深し生きる限りを皿汚し

 「生きる限りを皿汚し」は、実に飾り気がなく、生々しい表現である。冬深しと言い切られたことで、人は、野菜や動物を食べ続けていかないと生きていけないという事実と、生きることは死に向かって歩んでいくという生の儚さを感じさせられた。

 白鳥が進む私も歩き出す


 厳しい寒さの中、凛とした品格をもつ白鳥。その白鳥の姿をなぞりながらとしこさんは
これからも凛とした姿勢で力強く進んでいかれるに違いない。

2020年7月24日金曜日

【ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい】7 鳥のさまざまな表現に注目 小枝恵美子

 「船団」の心斎橋句会にずっと参加させていただいた。ふけとしこさんの草花に対する情熱に魅かれたことと、実作者としての柔軟な言葉選びを、もっと身近で学びたいと思ったからだ。句会では、時間の許す限り席題や袋回しなどにも付き合ってくださった。そして「船団」の集大成である『船団の俳句』(二〇一八年刊)の編集も、ふけさんたちと共に作り上げたことなど、「船団」が散在した今では、いい思い出として残っている。
 今回の第五句集『眠たい羊』では、鳥のさまざまな生態の表現が強く印象に残った。

嘴で争うて二羽天高し

 空気が澄んで真っ青な大空の中、二羽の鳥が争っている姿を捉えた。その生々しさを「嘴で争うて」と表現したことにより、嘴の鋭さがアップされ、そのぶつかり合う音まで聞こえてきそうな迫力が生まれた。「天高し」は爽快感のある季語だが、取り合わせに争いを持ってきたことに意外性があると思う。

嘴の痕ある椿ひらきけり

 この句も「嘴」がポイントとなるが、「嘴の痕ある椿」は、見過ごして通り過ぎる人がほとんどではないだろうか。俳人の眼がきらりと光った句である。赤い椿に嘴の傷跡がちょっと痛々しいが、下句の「ひらきけり」の平仮名表記がやさしく、椿の艶やかさが伝わる。そして作者の植物に対する愛情が滲んでいるようでもある。

黒く来て黒く去る鳥春浅し

 何の鳥とも言わず「黒く」のリフレインで、鳥をシンプルに捉えた。「春浅し」は、「春色ととのわず」と歳時記にあるが、鳥の飛ぶ様子をモノクロとしたことにより、春が立ってまだ日の浅いころの光景が映像としてくっきり浮かんでくる。黒く去っていく鳥を「春浅し」の季語を用いたことにより、情緒的な余韻が残る。

春寒やぎつしぎつしとゆく翼

 春とはいえ、まだ肌寒い日の空を鳥が飛んで行く。その鳥の翼の様子をクローズアップした。鳥の翼が風に逆らい大きく羽ばたきながら「ぎつしぎつしと」行くのだ。このオノマトペがとても印象的である。「春寒」のほのかな明るさの中、大空をゆく翼にみずみずしい生命力が感じられる。

万緑や鳥に鳥の子蚊に蚊の子

 この句は「鳥の子」を題材としているが、夏の緑一色を詠嘆し、その緑の木々に鳥の子がいることを認識して、そこから畳みかけるように「蚊に蚊の子」ときた。この展開に誰もが「えっ?」と驚くだろう。「蚊」も季語だが、この句では「万緑」が強い。鳥の子を先に出すことにより、蚊も飛ぶことができる仲間のような感覚に陥る。誰にでも出来る技法ではないと思う。ほわっとしたユーモアも感じられるし、子が育つ時が万緑だ。

2020年4月24日金曜日

【ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい】6 桃の花下照る道に出で立つをとめの頃からずっとふけとしこ  嵯峨根鈴子

 それでは早速眠たい羊に付き合って夢の遠近を彷徨ってみたいと思います。

 意地悪のふつと愉しき辛夷の芽 
 蟻地獄暴いてよりを気の合うて 


 こういうのはたまりません。人間の本質に必然的に在る部分です。それを認めたくない人もいるようですが、私だけじゃなくてyouもねという目配せに、さもありなんです。意地悪の内容は言うほどのことでもない。蟻地獄だって一人で暴くより二人の方が二倍楽しい。そして全ては忘れ去られてしまうけれど、また何時でもこの感覚は戻ってくる。こんなところをさりげなく見せてくれるふけとしこ俳句に魅かれます。

 桃咲いて柩の中といふところ   

 柩のなかに入ったことはありませんが、桃の花咲いてとあらば、花盛りのシャングリラを連想させるところが皮肉っぽくて面白い。<百姓に今夜も桃の花盛り・永田耕衣>が浮かびます。ふけさんの俳句とエッセイそして、ふけさんの弟さんの詩的な写真とのコラボによる『草あそび』と言う一集が手元にあります。「桃の花」の章に大伴家持の一首<春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ>を挙げて、初めて詩歌の桃の花に出会った小学生のころを回想しています。それから幾星霜、<桃の花死んでいることもう忘れ・鳴戸奈菜><人間へ塩振るあそび桃の花・あざ蓉子>を挙げて、あちら側の人の句とも読めるとか、だんだん桃が不思議な花に思えてきたとしています。エッセイにもあるように、桃の実ともなれば、曰く因縁付きの壮大な物語を伴うことにもなる
ろうし、それらがないまぜとなっての「桃咲いて柩の中といふところ」なのでしょう。なかなか真髄を突いているではありませんか。

 桃の雫泉下覗いてきたやうに  
 桃の夜の遠縁といふ苦きもの 
 

 桃の実にも触れておきたいです。西東三鬼の「夜の桃」にも通ずるエロスと、タナトス(伊邪那岐命が黄泉の国から逃げ帰る際に投げつけたのが桃の実)、の絡みが味わい深いです。子孫繁栄の象徴である桃の実にも拘らず、家族の延長にある遠縁との関係は微妙で複雑なものです。桃の実の甘美さを「苦きもの」とは言い得ているではありませんか。家族、絆と迫られるほど引いてしまいそうです私。

 向日葵の首打つ雨となりにけり  
 電池消耗ひまはりの沈むとき  


 <ロダンの首泰山木は花えたり・角川源義>を思い起こさせる「向日葵の首打つ」と言う措辞に、ダイナミックな向日葵を思い描きます。一方、「ひまはり」に対しては電池消耗という静けさを伴ってゆっくりと日の沈んでゆく様を描いています。漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字、古語に口語と日本語の奥行の深さと広さに思いを致すところです。

 黒蟻の死よ首折つて腰折つて  

 黒蟻の亡骸を克明に描写してをり、「首折つて腰折つて」はすごみさえ感じさせます。前句集『インコに肩を』の中に<ぎくしやくと死んでゐたりし冬の蜂>があり、これとても死骸を間近に凝視しています。村上鬼城の有名句<冬蜂の死に所なく歩きけり>について、ふけさんは、「死に所なく」の措辞がこの句の眼目であり、一番嫌いなのもこの措辞だとしているのを目にしたことがあり、とても衝撃を受けたのを覚えています。「首折つて腰折つて」「ぎくしやくと死んで」がふけさんのものへの迫り方、捉え方なんだと納得いたしました。

 春昼のひんやりとある眼の模型  
 枕からことばぞろぞろ春の夜  


 子規さんの<毎年よ彼岸の入りに寒いのは>に通ずるようです。「眼の模型」と言う言葉にドキッとさせられます。地球儀ほどのバカでかい「眼の模型」に射すくめられて、自分が小人のようにも思えてきます。心もとないひんやりした春昼の気分を独特な表現を用いて一句にしてあります。第二句集『真鍮』には<歯の模型並べて春の過ぎゆけり>と言う句もあります。春埃を被った模型に何となく眼がゆくのが春と言う季節でしょう。眠ろうと布団に入ったとたんに、言葉がつぎつぎと頭に浮かんでくることがたまにあります。言葉たちが枕から出て来るなどと気付く人はいないでしょう。眠たい羊から借りた枕かも知れませんね。

 若布刈鎌やつてみるかと渡さるる  
 夏はじめ研ぎより戻る裁鋏   
 海の日の海より青き布を裁ち  
 船中に使ふ俎板冬かもめ  


 「毛虫のふけ」とは周知のことで充分納得していますが、私はもう一つ献上したい渾名があります。「刃物のふけ」です。<刈り捨ててあり黄菖蒲もぎしぎしも 『インコに肩を』><和紙裁つて夜を長きと思ひけり・疲れたるペーパーナイフ春の雷・鎌の刃も菖蒲も雫してをりぬ 『鎌の刃』より>第一句集からずっとふけさんは「切れ者」だったのです。

 敗戦日吊られて動くものばかり     
 冬深し生きる限りを皿汚し  


「吊られて動く」は「釣られて動く」であり、「連られて動く」でしょう。戦時中は吊られている者ばかりだったのだろうなあ。今はどうか?「生きる限りを皿汚し」て生き続けるしかありません。人類の普遍的原罪を云い留めてあり、仕方ないねぇ、でも「冬深し」には待春の思いがありそうです。「冬深し」と言う季語のぼんやりとした輪郭が実体をもって現れた瞬間ではなかったでしょうか。

 襖外すおそらく父の指紋だらけ  
 万華鏡へ入れてみようかこの金魚  
 箱庭の二人心中でもしさう  
 蛤になる気の失せて浜雀    
 木の芽寒箸を入れれば濁るもの 


 最後に、付箋を付けた句をランダムに挙げておきます。父の指紋だらけの襖、そうでしょうとも。母の指紋なんぞ一つもないのです。「おそらく」が効果的で、リアリティが増します。万華鏡に金魚を入れるなんて、是非是非やってみたい。きっと見たこともないほど豪奢な絵になるでしょう。箱庭とは一種の異界です。わざわざ箱庭で心中でもしそうな二人にクエスチョンマーク10個付けたい。「心中でもしさう」と少し離れた表現に真実味があります。「雀蛤になる」と言う季語に対して、その気も失せてしまった浜辺の元気な雀だそうです。諧謔ですね。

 感染症に恐れおののく日々です。身を小さく小さくしているうちに気持ちまで小さく固まってしまいそうです。『眠たい羊』に導かれて山野や郊外を散策させてもらえたことに深謝いたします。

2020年3月13日金曜日

【ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい】5 温かい視線  衛藤夏子

 ふけとしこさんとの付き合いは、2013年秋、船団の琵琶湖吟行句会があり、その帰りに心斎橋句会に誘われてからでした。船団心斎橋句会は、毎月第一日曜日に、ふけさんのご自宅で10名弱が集まって行われていました。毎回、ささやかなお菓子を持ち寄って、船団以外の結社の方も参加して、わきあいあいと行われています。この句会も今年5月、船団の散在と同時になくなり、寂しくなります。そんな中、去年、ふけとしこさんが第五句集「眠たい羊」を上梓されました。ふけさんは、博識です。草花だけでなく、動植物、そして俳句の基礎知識など、教えていただいたことに感謝しながら、俳句を鑑賞していきたいと思います。

 薄氷つついて猫に嗅がす指
 
 薄氷が張った日、うれしくてとった行動でしょうか。それとも猫が薄氷に興味を抱いたのを戒める意味もあって、冷たいよ、とさしだしたのでしょうか。なんとなく猫への温かい視線を感じる一句です。
心斎橋句会では、ふけさんから「ほたる通信」という、俳句とエッセイを書いたハガキを毎月いただけました。ほたる通信という名前が、ふけさんの亡くなった飼猫「ほたる」からとったものだと聞かされたのは、「ほたる通信」の配布が終わった早春の句会でのことでした。

 戎橋新戎橋鳩の恋

 ミナミの戎橋というのは、繁華街のド真ん中です。戎橋を一緒に渡れば恋愛成就などいう都市伝説もあります。大阪市内は、橋が多いことでも有名ですが、中でも戎橋、新戎橋は歩行者の多い橋として知られています。
 戎橋だけでなく、新戎橋と反復させ、季語に鳩の恋をもってきたところ、都市伝説を知っていて読めばなおさら、橋を行きかう男女と小さな鳩が相まって、リズムよくキュートです。

 向日葵の首打つ雨となりにけり

 向日葵の首、おそらく長い茎のところでしょう。そこに雨があたる。夏の暑い日の恵みの雨であり喜んでいるのか、それとも夕立など不意の雨のことなのか。どちらにしろ、首打つという言葉がとても印象的な一句です。

 コピー紙を置けば平らにくる冬日

 平らにくる冬日、になんともいえない温かさを感じました。
 平ら、というのは実写として、水平に窓から光が入ってくることでもよいし、心象として心に入ってくる光としても鑑賞できると思います。
 寒い日が続くなかの冬日の温かさはうれしいものだし、コピー紙を前にコピーする仕事をこれからがんばろう、とやわらなか冬日の元で思ったり。いろんな場面を想像し、不思議と少し温かい気持ちになった一句です。 

2020年2月29日土曜日

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス


1 ~多くの虫・動物が登場~   内田 茂  》読む
2 眠たくない句集    杉山久子  》読む
3 自画像   曾根 毅  》読む
4 =きれいな額=   谷さやん  》読む
5 温かい視線   衛藤夏子  》読む
6 桃の花下照る道に出で立つをとめの頃からずっとふけとしこ   嵯峨根鈴子  》読む
7 鳥のさまざまな表現に注目   小枝恵美子  》読む
8 無題   岡村潤一 》読む
9 ~生きる限りを~   髙橋白崔 》読む
10 手紙   橋本小たか 》読む
11 『眠たい羊』の笑い   小西昭夫 》読む

2020年2月28日金曜日

【ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい】4 =きれいな額=  谷さやん

 ふけとしこさんは、私も所属する「船団の会」の船団賞の審査委員を務められている。何年前だったか、ご自身も選ばれていた候補作品の題名について苦言を呈していた記憶がある。密かにだが、私はこんなときに見せるふけさんの難しそうな表情が好きでしょうがない。

 梨を剝くむかし額をほめられし


 何かを剥くときは、額に意識が集中している気がする。私はきっと、難し気なときのその「ひたい」が好きなのだ、と今気付いた。前髪に垣間見える、知的な額が。
 題名にも砕心して『眠たい羊』は、何気なくして魅力的だ。そこで一応「眠たい」を国語辞典で引いてみると<「ねむい」のくだけた言い方。>とあり、その「眠い」の項に目をやると、<ねむりに引き込まれそうな感じだ。>と書いてある。
 「眠たい」とくだけて、それは「羊」でふわふわで、構えて句集を開こうとする人の肩の力を抜いてくれる。そのうち〈雪の日を眠たい羊眠い山羊〉という題名に因む句に出合うのだが。
 
 山の日の丸テーブルを三つ寄せ

 この句は、葉書による個人誌「蛍通信Ⅱ」2017・9《61》で覚えていた句。昨年2019・1《88》で終刊された。「めでたく八十八になったところで終わりにしたい」と、淡々と書かれていた。とても寂しかった。俳句六句とエッセイが書かれている通信が届くと、部屋にたどり着くまで我慢できずにエレベーターの壁にもたれて読んだ。俳句を犯しがちな古臭い表現を避けているようで、新鮮な言葉が必ずあった。「山の日」は新しい季語だし、難しい言葉を使わずに「山の日」と「丸テーブル」の二つの言葉を寄せて、賑やかな楽しい雰囲気を出している。ふけさんは、表に出ようとする言葉の意味の手綱を締めたり緩めたりする加減が、とても上手いのではないかと思う。
 そんなことに感心しながら、句集の次のような作品に惹かれている。
  
 早春を雲もタオルも飛びたがる

 早春の少し強い風に、空に留まっている雲も、この手に掴んでいるタオルも飛びたがっているに違いない。早春のただ中に立って、自分が一番飛んで行きたい気分なのだから。

 木の芽寒箸を入れれば濁るもの

 芽吹く頃の、ちょっとした憂鬱感が、普段はお構いなしなことに敏感になってしまうような。どんな食べ物も、箸を入れれば濁ってしまうのだという自明を突き付けられた気がした。「木の芽冷」ではなく「木の芽寒」が箸の先を際立たせているのだと思う。
   
 針伏せて寝るヤマアラシ花の昼

 桜咲く午後には、ヤマアラシも針を休ませて寝ている。ここでは「眠る」ではない。「寝る」は針そのものの様子でもあるだろう。花の昼には、ヤマアラシがこんなにも柔らかい。名句<まるまるとゆさゆさといて毛虫かな>を思い出した。

 水鉄砲ぐらぐらの歯を見せにくる

 水鉄砲していた子が、にたにた笑いながらやって来た。ぐらぐらになった歯は、子どもの自慢なのだ。大人になった今では、何でそんなに嬉しかったのか忘れてしまったが、誰もがきっと一度は見たあるいは見せた光景が懐かしくも楽しい。

 しまなみ海道レモンゼリーへ寄り道す

 四国に住んでいる者としては、しまなみ海道へのとても素敵な挨拶句に思えた。生口島だろうか。黄色い「レモンゼリー」の中に、長いしまなみ海道が揺れる。

 春の近づく馬鈴薯の芽のまはり

 私の眼の周りを触られている気分になった。こんなふうに見据えられたら、馬鈴薯もタジタジになっていそう。

 そして、次の句には笑ってしまった。ふけさんの大好きな額を思い出したのだ。

 今何をせむと立ちしか小鳥くる


 「今何をせむと立ちしか」という大仰な言い回しが可笑しい。でも、季語「小鳥くる」が一気に、こわばった心身をほぐしてくれる。

2020年2月7日金曜日

【ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい】3 自画像  曾根 毅


自画像の頬に青足す桜どき  ふけとしこ

 先日、ノルウェーのオスロ国立美術館所蔵のゴッホの自画像が、本物であることが確認されたというニュースを見た。自画像は1889年8月頃に描かれたもの。ゴッホが南フランスに移り、精神的な障害に苦しんでいた時期の唯一の作品だという。作品の真贋について、色合いや主題の表現が当時のゴッホの画風とは合致しないという指摘が出ていたようだ。2014年に、オスロ国立美術館とオランダ・アムステルダムにあるゴッホ美術館が共同で調査を行うことで合意し、広範な調査を行った結果、本物であることが確認されたというもの。ゴッホは、パリに出て来た1886年の春から、サン・レミの病院に入院していた1889年秋にかけて、40点近くの自画像を描いている。それらは、同一人物とは思えないほど多彩なニュアンスで描かれた。
 他人の顔や風景を比較的客観的に捉えることが出来たとしても、自分自身を客観的に描くことは難しい。どこかで自分を理想化し、自己の内面や存在を主観で表現してしまうのかもしれない。それに、人は物事を見つめながら、その物事を通じて自分の経験を見ていることが多いような気がする。人間や世界を捉えようとしたときに、その多面的で複雑なありようを一つの場面に留めるのでなく、描く度に異なる表情や色彩で変化を表したほうが、自然であるということも考えられる。
 今回本物だと確認されたゴッホの自画像は、幻想的な青のなかに、狂気的で異様な画家の内面を感じさせるものだった。精神性の象徴ともいえる青に、ゴッホの意志を読み取ることもできそうだ。掲句の青色について、ふけさんはこの絵の青と同じような意味合いで、自画像に青を描き足しただろうか。もしかすると、桜の頃の澄んだ空の冷たさや輝きを表すような、日本の伝統色としての藍を配したのかもしれない。『眠たい羊』は、ふけさんの様々な表情を見せてくれる句集だ。同時に、読者の多様な心を映し出す句集でもある。

2020年1月24日金曜日

【新連載】ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい2 「眠たくない句集」杉山久子

 ふけさんの句は、いつも裏切られつつ裏切られない。予想を超える面白さで裏切られ、読めば必ず面白いという点で裏切られない。

 虻の眼のきれいな緑休暇果つ
 馬の眼に映つた順に寒くなる
 猫の眼草杉の暗さに目を開き
 春昼のひんやりとある眼の模型
 台風も布目も少しづつ逸れる


 羊や山羊はいつも眠たそうな表情をしているように私の目には見えて、本当に眠たいのか実はしゃっきっとしているのか判断がつかないのだが、この句集は眠たくない。むしろ目を覚まされる、見開かされる気分だ。
 そんなことを考えていたからか(?)眼(目)を詠んだ句が目に付いた。1句目、「きれいな」という形容詞がさらりと使われ、十分楽しんだであろう休暇の時間の煌めきが思われる。2句目は一転、しんしんとした静けさの中に或る種の怖れが迫ってくる。3句目は植物の中に動物的な感覚を見出した生々しい繊細さが魅力。動植物にとりわけ詳しい作者ならではの句だろう。4句目の明るさの中に感知する無機物の持つ冷たさ、5句目の思わず「あるある」と言いたくなる可笑しさなど多彩だ。

 秋の蚊の大きな縞を着てゐたり
 黒蟻の死よ首折つて腰折つて
 刻かけて蛇が呑むもの三室戸寺
 嘴の痕ある椿ひらきけり


 生きものの生きている姿も死んでいる姿もそれらが同時にある姿も淡々としながら生き生きとしている。

 萍の陣や背鰭に割り込まれ

 どこかの池で鯉などが萍の間を縫って泳ぐ場面だろうが、萍主体のクローズアップで詠まれて接触の密度が濃くユーモラスな気配も漂う。

 雨の字に雫が四つレモン切る
 囀りの散つて隅々まで青空
 早春を雲もタオルも飛びたがる
 木の芽寒箸を入れれば濁るもの
 消印の地をまだ知らず青葉騒
 しまなみ海道レモンゼリーへ寄り道す


 動植物を仔細に観察するふけさんの目は、日常生活においてはどこかふわっと見るセンサーも働くようで、明るさを伴う肯定感は読んでいて軽やかに背中を押される心地になる。
 「消印」の句は、これから知るかもしれない地への期待を思わせつつはっきりとはしない永めの時間を内包している。それは未来へのかがやくばかりの祈りが感じられる、とても簡単な言葉で書かれた次の句にも表れているように思う。

 春の水とはこどもの手待つてゐる

2020年1月10日金曜日

【新連載】ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい1 ~多くの虫・動物が登場~ 内田 茂

雪の日を眠たい羊眠い山羊

『眠たい羊』変わったタイトルの句集だが、二年くらい前にこの句が出来たときから、次の句集のタイトルにしようと決めていたそうだ。<雪の日>のような寒いときに、羊や山羊は眠たくなるのだろうか、という疑問が湧いたが、「毛虫のふけ」(坪内稔典氏によって付けられたふけさんのあだ名)と言われるだけに、ふけさんは、動物や昆虫に対して人一倍、ぴんと来る感覚を持ち合わせているのだろう。眠たいも眠いも「眠ってしまいそう」という意味で、まだ寝ている訳ではなく、「微睡む」の前のステージだろうが、どこを見ているのか分からないような彼らの目を見ていると、そう思えたのかも知れない。<眠たい>、<眠い>というリフレインが良く効いているし、何よりもメルヘンチックで、読者を俳句や詩の世界へ誘う。

幻住庵の初蚊といふに刺されけり
蝶ひとつ埴輪の列を統べにけり
父とゐし時間の中に鴉の巣
蟻地獄暴いてよりを気の合うて
水光る腹を細めてくる蛭に
脚を病む蟻かも知れず日の落つる
ごきぶりの髭振る夜も明けにけり
ありんこと砂を払うて坐る椅子
ががんぼに三面鏡を貸したまま
刑死とや蜻蛉ひとつが沼を飛び
梟を泊めて樹影の重くなる
綿虫や地図を読み間違へたかも


 選句していくうちにはっきりと見えてきたものがある。ふけさんの句の中には、季語分類上の「動物」が実に多いということだ。興味を引いたので調べてみると、季語として動物が読み込まれている句は、実に78句に及んだ。虫37、鳥29、魚7、その他5という内訳だ。また、タイトルの<眠たい羊眠い山羊>のように、季語として使われていない動物が詠まれている句が別途45句あり、トータルで123句、句集全体328句の4割近くが動物ということになる。(独自の調査なので、誤りがあるかも知れません)一般的には時候・天文や植物の句が多く詠まれる中、この動物の割合は突出しており、正に「毛虫のふけ」の面目躍如だ。

宿り木も宿したる木も芽を立てて

 宿り木が芽吹いていることは詠めたとしても、宿り木が寄生している木のことを<宿したる木>と修辞し、その木も芽吹いているという、一見しただけではどちらか一方の芽吹きと見落としがちな景を鋭く観察して詠み込んでいる。さすがに「草を知る会」代表を務めているだけはある。一緒に歩いていると、知らない植物を次々教えてくれるし、その大半が初めて聞く植物で、単に名前を知っているだけでなく、その植生、種子から花、葉、実に至るまで、植物学者のように博識だ。

猫の目草杉の暗さに目を開き
畦道の昔へ続く仏の座
蘖を打つて白杖止まりけり
ジャガランダ濡れれば梅雨のむらさきに
スズメノチャヒキウシノシッペイ芒種なる
萍の陣背鰭に割り込まれ
切り口が乳噴く秋の野芥子かな
ハンカチの木の実こんなに硬いのか
穂草満つ待兼鰐のゐたところ


 ふけさんとは、ふけさんが講師をしていた夜間の俳句講座に生徒として受講させていただいて以来のお付き合いになるので、すでに16年にもなる。これほど長い間句座を共にさせていただいていると、一読して、ふけさんの句らしいというのが、なんとなくわかるようになってきた。

風鈴や酢へ放つべく魚を切り
新藁の強き匂ひを跨ぎけり
買ふ気になつてもう一度柿の前
連結の強き一揺れ冬紅葉
雪達磨だつたかもこの塊は
冬深し生きる限りを皿汚し