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2025年1月24日金曜日

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史

  加藤知子句集『情死一擲』について私が書こうとすることの骨子は、あらかた既に、今年惜しくも亡くなった竹岡一郎の跋文に描き出されてしまっている気もする。また加藤知子自身のあとがきにも、神風連の変や西南の役を情死と見る視座、およびそれら軍事的敗死者へのみずからの共鳴を「浪花節」と云いとめる自覚が示されているところから、この句集に収められた作品群のよって来たるところ、方法的土台についてはことさらあらためて語り直す必要もなさそうなのだが、それにしても個々の句がその方法の受肉の結果として得た身体はさまざまに荒れ、破れ、綻び、濁ったものだ。題材を俳句に落しこむ手際の上手い下手や、そのレトリックの適不適を云々することがおよそ意味を持たない句集がわれわれの前に姿を見せることになったといえる。

 粘土で塑像をつくるとき、または木材や石材で彫像をつくるとき、さらには投棄された廃材の類を組み合わせてジャンクアートを組み上げるとき、作り手の手は粘土、木、石、廃棄物といった質料の抵抗を受け、明晰に言語化することができないやり取りをそれらと交わしつつ、作業を進めていることになる。その闘争的とも弁証法的とも云えるやり取りを経て立ち上がった作品は、制作者の意志やメッセージを示す記号ではなく、物自体としての不可知性をその身に残す。

 加藤知子の句の場合、題材を作品化していく過程で、作者の意見やメッセージといったものは、そもそも明確なものとしては介在してはいないことが多い。むしろ激発と呼ぶ方がふさわしい反応によって、その題材は句として受肉する。

  街の通りの汚れた壁の百の耳朶

  甲虫に雨ぞうぞうと銀の匙

 こういった句は、喩のあり方が、作者の言説や欲望を担った寓喩と、題材たる質料からの抵抗のせめぎ合いの渦中でそのまま放り出されたようである。佳句であるかどうかといった評価基準があまり意味をなさないものだが、あえていえば〈街の通りの~〉はかつての前衛俳句風の、気分的な不協和のみを担う暗喩性に終始してしまっていると見え、〈甲虫に~〉は寓意にいたる寸前で手を放されてしまったかのような「甲虫」と「銀の匙」の取り合わせならぬ取り合わせが、異物感を愉快に立ち上がらせたトルソーのようでもある。鋭い緊張が自我のなかではなく、自己と題材とのはざまに得体の知れないイメージを立ち上がらせるというのが、加藤知子の句が或る達成に至る際のすじ道であるとひとまず取れる。メッセージを伝える《看板》と、単なる《廃棄物》とのはざまの領域に組み上げられ(かけ)ては、その都度遺物として放置されるイメージの相克の百態。ここに加藤知子の俳句的な沃野がある。

 「情死」を表現行為として見たとき、加藤知子におけるそれは、既に何らかの――戦争等の――痛ましい事態の発生により熱狂や惑乱のうちに命を落としてしまった他者たちに対する、遅ればせの追い腹のような行為としてある。それは第三者には何も説明することがない、破綻をも共にする切羽詰まった追認である。

  波打って光る渇望とは青葉

  火だるまでころがるどんぐりの快楽

  名はさくら大量無差別殺人罪

 そうした意味では、過不足ない象徴性ゆえに読者に迎え入れられやすいであろうこの三句などは、句集『情死一擲』から撰してみせるにはかえってふさわしくないのだろう。

  雷に打たるる鬱も水の音

  虹彩交歓始まる虹の境界線

 この二句などは「雷」や「虹」など気象に関する題材にまで作者が共鳴して、というより情死的にその身を迫らせていくことにより、「鬱」や「交歓」といった気分的なものを、心のうちと同時に、世界に物として放置しているさまが作者の特長を示していると取れる。

 気象と気分を連続的・象徴的に捉える作者はいくらでもいようが、「水の音」や「虹の境界線」という自然自身の身体性を不意に叩き出して着地させる方法は独自のものと云えるのではないか。

 以下、私の身心が反応した、何らかの突発感を帯びた句を幾つか拾う。


  滝壺に蛇を投げれば花群るる

  角曲がり肉屋がないと叫ぶ男

  帰り来てトランペットは夏へ無垢

  婆なれば万引きマントに神宿る


 「正直の頭」ならぬ「万引きマント」に神宿るアイロニーによって殺伐たる「婆」の「万引き」が花と化す妙手は他の時事的・社会的俳句にも見られる。

 カフカの「橋」を異常気象に拉致しさった〈ゲリラ豪雨橋はよろこび裏返る〉や、食物なき不毛がそのままカーニバル性を成す〈人が皿喰い皿が人喰う豊の秋〉、可憐にして無垢なものから戦争の悲惨を逆照射する当たり前の句に見えて奇妙な道化性を帯びる〈雪兎戦車の砲の中にあり〉、角の生々しさが寓意性を突き破った物自体をもたらす〈人類に一角生えていく前夜〉等々がそれにあたる。

 穏やかな博愛や、俯瞰による歴史の抽象化や、円満具足の相からはほど遠い、押しかけ情死ともいうべきものへと向かう疾駆からこぼれ落ちた奇果としての句の数々は、破局と瓦礫ばかりの過去を見ながら吹き飛ばされていくヴァルター・ベンヤミンの歴史の天使に、それと知らぬまま見守られているのかもしれない。

2024年12月13日金曜日

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】3 『群青一滴』 田中目八

  縁あって句集を贈って頂いたこともそうではあったが、重ねて句集評のご依頼まで頂いたときには更に驚いたものである。

 私のような無名かつ若輩の身には得難い挑戦の場を提供して頂いたことに感謝しつつ、しかしさて、句集評をどう書いたらよいものか、それがわからない。

 とはいえ、わからないことはよいことだ、ということにしてわからないまま書き始めてみる。

 旅は散歩から始まり、また旅は単なる移動ではないはずだから。


 まず読者(評者)のわがままで自分に引き寄せて、私自身のテーマでもある「青」に焦点を当てて句を取り上げ鑑賞を試みたい。

 折よく句集の章立ての始めも「群青へ」である。

  暗きより青きへそそるチューリップ

 閉じた蕾の内側は暗闇の世界である。

 その暗き世界よりも外にあるという青き世界への憧憬がある。

 開花してまたチューリップが生まれるわけではないが、暗き胎内より天空の青きへとまた何かが生まれるような、生の多重性とでも言うような感じがある。

  青の世界蝶と小鳥とくちなわと

 青の世界とは何か。

 まず空や海を想像はするだろう。

 沖縄では青とは暗黒の世界でもなく明るい世界でもない淡い世界のことだという。

 古事記における黄泉に通じる世界で、古代沖縄人は死後は青の世界へ行くのだと。

 蝶と、それを捕食する小鳥とそれを捕食する蛇と……その先もすべて青の世界へと通じている。

  波打って光る渇望とは青葉

 古代では青色と緑色の区別がなかったという。

 現代において青葉とは青色の葉ではなく緑色の葉であるのは言うまでもない。

 波打つのは風によってか、葉の隙間から木漏れ日が光る。

 雨上がりの雨滴を湛えて木の葉雨の景もあるかもしれない。

 青葉は光を生をもっともっとと渇望する。

 そしてまた渇望こそが光であり生なのだろう。

  葡萄樹を囲む群青かつ完熟

 群青が青空であれば囲むと言うには高すぎる気がする。

 樹(幹)を囲むように葡萄の房が生っている景にも見えるがどうだろう。

 群青は紫がかった、もっと濃く深い青で、日の出前日の入り後の所謂ブルーモーメントのイメージが近い。

 完熟は生の頂点であり、未熟、成熟、完熟と来て次に訪れるのは過熟である。

 とすればやはり夕方、群青の元を辿ればラピスラズリは夜と星。

 あとは過熟して夜闇が落ちてくるのだろう。

  姉さまは手紙葉書魔青かえで

 青楓は秋の紅葉した楓に勝るとも劣らないと言われてきた。

 楓は蛙の手に似ていることからだが、そこからは手紙を書く手も想像するだろう。

 そしてそこからは更に異界の香りを嗅ぎとってしまうのだ。

 永遠に青いままの姉さまからの手紙葉書が青かえでなのである。

  炎天にからまれる地図あおみどろ

 炎天がどこにもゆかずしつこくまといつく、近年の夏はまさにそんな感じだろう。

 からまれるのは地図だが、実際には地図に記された現実の土地、空間もからまれているのだろう。

 あおみどろ自体、水草やめだかなどに絡まることもあるが、あおみどろの水面に生えている様子は地図のようにも見える。

 それは水界の地図、或いは彼岸、浄土なのかもしれない。

  春群青の夕空の死の際よ

 春の群青の空ではあるが、春で軽く切れてあるようにも感じる。

 春の夕は暮れきらず、ゆったりとしているので昼と夜の境界がそれだけに広いと言えるだろう。

 死の際とはまた生の際である、つまりこの際に青の世界が顕現しているのだ。

 この群青とは所謂ブルーモーメント、上掲の「葡萄樹」句に通じるのではないか。

  妣の国にてアオキのとむらいするだろう

 アオキは人名ではなくミズキ科の青木のことだろう。

 青木を弔うのか、青木を以て弔うのか、それはわからないが、弔いとは普通現世の我々が行うものである。

 妣の国にてであるから現世では弔えないということなのか。

 青木の名は常緑で冬でも青々としているところからであるが、常緑とは常盤木とも言うことを踏まえれば妣の国でなければ弔えないものなのかもしれない。

  青葉闇鴉つがいの麗しき

 木下闇ではなく青葉闇であるところにやはり青の世界を顕そうという意志を感じる。

 あまり歓迎されない鴉、その番を麗しいと感じるのは鴉が青の世界を往来するものであるからではないだろうか。

 そしてつがい(番)に伊弉冉伊弉諾をも想起するのは読みすぎだろうか。

  この空の青なら自来也来たるべし

 何故自来也なのか。

 読み解く必要はないのかもしれないが気にはなる。

 自来也の名前の由来は中国宋代の実在した盗賊「我来也」からだと言う。

 盗みに入った家の壁に「我、来たるなり」と記したとされている。

 空の青を盗みに来るのだろうか、それとも「この空の青」は今青の世界が顕現していて、その向こうから自来也の訪れを願っているのかもしれない。

 自来也は義賊である。

  朧月マリアを青き目印に

 曖昧な朧月と目印というはっきりとしたものが対比的に置かれてある。

 しかしマリアとは、青き目印とは何かは曖昧であると言えるだろう。

 朧月の夜は、その朧の世界は幽明界のようである。

 その中に目印として立つマリアなる存在は人か、かの聖母なのか、マリア観音なのか。

 青は聖母マリアのイメージカラーだという。

 朧の中をゆく者に青きマリアは灯台のようである。

  幾柱立つ地祇神の青写真

 地祇は国津神、地の神であり、天孫降臨以前から国土を治めていた土着の神である。

 地祇神の青写真とは別にブロマイドではなく、恐らくただ山河の風景が写っているだけのものではないか。

 その青写真の山河もかつての姿を留めているものはいかほどか。

 青写真というノスタルジー、山河というノスタルジー。

 だが、ノスタルジーへ葬ってよいわけではないだろう。

  腐る日の扉をぬけて青嵐

 日(太陽)が腐るとも読めるが肉体が腐るその一日のこととも読めるだろう。

 扉を抜ける、からは肉体という檻からという感じがする。

 日が腐るとしてもそれはこの世のことではないだろう。

 その扉を抜けて、青嵐が来る。

 或いは抜けると青嵐の荒ぶ世界なのか。

 どちらにせよ、青嵐は扉の向こうに属するものなのではないだろうか。

  青き踏むソニー・ロリンズの管響き

 ソニー・ロリンズはモダンジャズのサックス奏者、ちなみにまだご存命だ。

 歴史的名盤と言われる『サキソフォン・コロッサス』のジャケットは緑がかった青だ。

 その青のイメージの結びつきがあるのかはわからないが、ロリンズの太い息が管を震わせ響きへと変えるたびに草が生い、青むかのようで、それはまさに息吹というものだろう。

 この青き命を踏むのはやはり巨人ではないか。

  今年竹青き怒涛と和む耳

 今年竹は若竹のことで、その葉を竹の若緑などと言う。

 若竹の林を風が戦がせる、それが青き怒涛だろう。

 しかし竹の葉擦れの音は耳を和ませもするだろう、青き怒涛に和むのではない。

 竹の命の奔流のごとき青き怒涛があり、そしてそれを和みと捉える、捉えてしまう耳とがあるのだ。

  春満月青の故郷は裏面かな

 古代、色には赤、黒、白、青しかなく緑、黄などは青に含まれていたという。

 地球から見る月の色は黄色味を帯びている。

 黄はつまり黄泉であり、かつて沖縄では黄色い死者の世界を青と呼んだことは先に書いた。

 朧な、水を湛えたような春満月はまさに黄泉であろう。

 しかし地球からは見えないその裏面こそが青の故郷なのだという。

 もし仮に月の表が黄泉ならば、それは帰るところではなく逝くところだろう。

 青は地球へ仮初の肉体を得てまたやがて故郷である月の裏面へ帰るのだろうか。

 思えば地球は青い星と呼ばれている。

  冬青空プロパガンダの染み渡る

 キンと冴え渡った冬の青空を心地よく感じる人は少なくないだろう。

 しかし染み渡るのは寒さや冷えではなくプロパガンダだという。

 冬青空に染み渡るのか、それとも別の、冬青空の下生きる我々に染み渡るのか。

 冬は冬将軍の支配する死の季節であると言ってしまえば、寒さも冷えも死のプロパガンダと言えるだろう。

 冬青空にプロパガンダが染み渡れば次は我々の番である。

  梅雨の鬱親しき穴は空の色

 梅雨に鬱々と塞ぎ込むと青空が恋しくなる、梅雨によって空が塞がれているとも取れるだろう。

 鬱とは本来草木が茂っている様であることを思えば緑=青の世界が現れる。

 空の色が青に属するものだとすれば親しき穴とは黄泉へ通ずるものではないか。

  全地球戒厳令を蒼々と

 戒厳令とは簡単に大雑把に言ってしまうと国の統治を軍の支配下に置くということである。

 しかしもはや事態はそれどころではなく、地球の全てに戒厳令が敷かれてしまう。

 蒼々と、草木が生い茂るように地球は戒厳令に覆われてしまう。

 蒼々はまた葬送でもあるのではないだろうか。

  パガニーニ蒼き従者に虎の斑を

 パガニーニは言わずとしれたヴァイオリニストであり作曲家である。

 この従者とは実在したウルバーニのことだろうと思われるが、そうでなくともよいし、ウルバーニを食らって従者に成りすました虎であるかもしれない。

 悪魔のヴァイオリニストとまで呼ばれたパガニーニが虎の斑を与えたのかもしれないが、蒼きという言葉からは蒼白な面の、死者の姿を思いもするのだ。

  雨を洗う桜山神社の青楓

 桜山神社は盛岡、下関、熊本とあるようだが、作者や神風連を考慮に入れると熊本のそれであるかと思われる。

 雨に洗われるのではなく雨を洗う。

 現世の汚れてしまった雨を洗えるのは他でもないこの桜山神社のこの青楓に他ならないのだろう。

 ここには藤原為家「散はてし桜が枝にさしまぜて盛りとみするわかかへでかな」が下敷としてあるように思われる。

  青葉若葉詩に漂うは死ねの声

 青葉も若葉も生命力に満ち溢れているものだ。

 死ねの声は果たして誰に向けてのものか。

 その声が詩に漂うとしても詩が死ねと言っているとは、死ねと書かれているわけではないはずだ。

 そもそも詩とは死者へ向けて書かれるものでもあり、言うまでもなく詩は死に通じる。

 しかし死は=詩ではない。

 死を詩によって悼むことはできたとしてもその死そのものを詩とすることはできないのではないか。

 人間であるならば死ねの声を聴きながら若い時分を生きた経験のある人は多いと思われる。

 しかし青葉若葉は人間ではない。

 死に抗うこともなく枯れては芽吹く。

 果たして死ねの声はただ死を望む声なのか。

 漂うのが死ねの声であるならば、その詩に書かれているのは生きよ、かもしれない。

  泰山木の実青々と忠烈死

 泰山木も常緑であるが、実は11月頃熟して赤い種が飛び出るのだとか。

 白い花を咲かせたあと、その真中の蕊の部分が育って実になる。

 忠烈死からは花が散ったことと、熟すことなく青いまま果てたことを想像する。

 しかし実は熟し種は残り、いつかは泰山のごとき大木となるのである。

  けさのあき浅葱に染めてより出奔

 浅葱はあさつきではなく浅葱色のことで、薄い藍色、明るい青緑色、つまり青の属性である。

 浅葱と出奔とくればやはり新選組をイメージするだろうが、そもそもは武士の死に装束が本義だという。

 ならばこれは死に支度、立秋から立冬までの間を死の準備期間としてのことではないだろうか。

  バイク爆音紺碧に山痺れさせ

 峠を走る単車のエグゾーストノート。

 紺碧からは真夏の炎天を思うが、紺碧が山を痺れさせているのではなく、バイクが紺碧にそうさせている。

 単車の排気熱、炎天に焼ける路面から立ち昇る熱気、それらは炎天の紺碧の一部でもあり、山はその機能を停止する。

 かつて異界であった山は今や鉄の馬に、それに跨る生者によって蹂躙され尽くす。

 異界というベールを剥ぎ取り紺碧のもとに曝されたとも言えるだろうか。


 以上、強引に青に寄せて一句鑑賞をしてきたが、補遺として青に含まれる緑と黄の句を挙げておく。

  軽き脳分け合って喰らう緑陰

  水銀の行方まるまるみどりの夜

  身代わりの樹肌みどりをてにかけ

  昂るけもの地祇のみどりへ華を産む

  さりさりと死者が耳擦る銀杏黄葉

  ミサイルも戦車も溶けずされど緑雨

 加藤知子という人について、実は私は何も知らない。

 縁があって、としか言えないわけだが、前句集である『たかざれき』に併録された石牟礼道子論を思えば、やはりこの一連の青は有明海、不知火海に連なる青であり、他界の青でもあるのではないかと思われる。

 作者が意図的に置いたと思われる青もあればもちろんそうではないものもあるだろう。

 鑑賞で取りあげた25句に補遺の6句を加えても31句、それは収録数392句のうち取り立てて多いとは言えないかもしれない。

 だが敢えて一面を取りあげることによって作者の無意識、無意図が浮かびあがることもあるように思うし、読みの可能性は多面的に開かれて然るべきだろうと考える。

 願わくばこの句集評とは言えない何かに、僅かながらも作者の思惑を越えたものがあればと思う。

2024年10月25日金曜日

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】2 『情死一擲』の幻視的リアリズム  櫻井天上火

 ある賽のひと振りの幸運によってご縁を頂戴し、加藤知子氏よりご高著『情死一擲』をご恵贈いただいた。若輩の自分がこの著作を読み切れているなどとは到底思わないが、エロスとタナトスの裏に物質的な恐怖を見え隠れさせる作品群のなかから、いくつか句をピックアップしてその恐るべき引力について紹介できればと思う。

 本書のなかでは幻視やシュルレアリスムに属するような句が多く出てくる。たとえば以下のような句。


  ニッポンが股間にあるも昼寝覚

  太腿に金の雨降る野のあそび

  春の馬超えて女に脚六本

  水銀の行方まるまるみどりの夜

  無防備にまなこを写す夕焼かな

  火柱を舐め合う夏野漆黒の


 特に〈火柱〉の句の倒置は妙技と言わざるをえない。倒置された〈漆黒の〉は単純に考えれば〈夏野〉にかかる語だろう。であればこの句を「火柱を舐め合う漆黒の夏野」としてもよかったはずだ。しかしこう並べ替えてみると掲句がもっていた妙味は無くなっている。この句の面白さは〈火柱を舐め合う夏野〉と倒置された〈漆黒の〉にある。

 〈舐め合う〉と言っているのだから、少なくとも〈火柱〉の立つ〈夏野〉が複数あり、それらが絡み合っているというのがこの句の景だ。〈夏野〉と書かれると、広大な一つの野が想起されるが、〈舐め合う〉によってその唯一性は突き崩され広大な空間がもう一つ(以上)産まれてくる。一つの〈夏野〉であれば私たちはどこかに終わりがあるということを想像でき、その無限らしさを楽しむこともできよう。しかしそれが唯一ではないとすれば空間的な広がりが単純に倍、あるいはそれ以上になってしまう。立ち昇る〈火柱〉からくる生物の死滅させられているような印象も相まって、宇宙のなかにたった一人のような永遠の孤独、そんなものが想起される。

 そして倒置された〈漆黒の〉が与えてくる終わりのない恐怖。〈夏野〉という広大な空間がさらに広大さをもつものであったと明かされた後に、さらにその先の茫漠たる闇を示すかのような〈漆黒の〉の投げ出し方は、宇宙的な恐怖を惹起するにはもっとも適した形だろう。

 このように日常世界とは離れた、しかしその裏にベットリと張り付いた「黒いもの」が見えてくると、次の句にも異常ななにかを見ようとしてしまう。


  葡萄樹を囲む群青かつ完熟


 端的に〈群青〉とは空のことだろう。「葡萄の木を下から見上げ、そのなかに売れた果実を見出す」というのがまず読み取ることのできる景だ。しかし、先ほどの倒置と同様〈かつ〉がこの句にただならぬ読解を可能としている。

 はたしてこの〈完熟〉は果実のことを指しているのだろうか。そもそもこの句には果実など一切出てこない。それでも〈完熟〉を果実のことだと考えてしまうのは、最初の〈葡萄樹〉のせいだろう。この単純な読解に対して〈かつ〉は距離を導入する。つまり〈完熟〉しているのは〈群青〉、ひいては世界の方なのではないか、という思考を芽生えさせる。〈完熟〉し今にも落下して終わってしまいそうなほどの〈群青〉の世界、それははじめに読み取られた牧歌的景との落差によって黙示録的な恐怖の光景を私たちに提示してくる。根強い常識的読解から距離を取らせ、幻視的光景を口寄せるこの〈かつ〉という一語の配置は驚異的だ。

 こうして、著者はわたしたちの日常的で論理的な世界を「一擲un coup」によって突き崩し、エロスとタナトスが悠々と闊歩する世界へと変容させてしまう。


  春の野に出でて大地にゆるされず

  花つぶて乾きの底に黙示たり

  妣の国にてアオキのとむらいするだろう

  すいかずら諸手をあげて椅子を捨つ

  民族てふ小さき繭の重さかな

  ほと深きところに卍春は傷


 この世界は幻視的ではあっても、幻視そのものではない。幻視的なリアリズムとでもいうべき強度をもってこの世界は読者に迫ってくる。わたしがこの句群を読み、ユンガーのマジック・リアリズムやブルトン的な堅固なシュルレアリスムを想起したのも故ないことではないのだろう。

 一句一句だけではロゴスある世界は破られない。しかしこれだけの量と切れ味あるナイフでそのような世界を突き刺せば、たちどころに世界は姿を変え、その裏にあった押し込まれていた恐怖らが湧き出してくる。そして心ある読者は、この恐怖が避けるべきものなどではなく、神話-詩的なものの泉であると知っているはずだ。一人でも多くのそのような読者のもとに本書が届くことを、一読者として願ってやまない。


2024年9月27日金曜日

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】➀ エロスとタナトスとの狂想曲  藤田踏青

  句集の跋文にて竹岡一郎氏が真摯に正攻法で作品に対峙され、「此の世と彼の世を、・・・あるがままに・・・」と解明されたことで総てが言い尽くされていると思われると共に、それが氏の作者への遺言であるかのようにも思われる。

 私としては作者の〈あとがき〉から逆算的に句集を眺めてみたいと考えた。つまり句集名の『情死一擲』が、映画「華の乱」に触発された〈首筋に情死一擲の白百合〉に拠るという自解からである。此の映画の主人公は波乱に満ちた与謝野晶子であるので、白百合は彼女を暗示していると共に、有島武郎・波多野秋子との情死も重ね合わせていると思う。

 そこにエロスとタナトスとの狂想が認められる。

 エロスを象徴する句としては


   太腿に金の雨降る野のあそび

   引き籠もるとは貞操帯の冷まじき

   生殖器春泥こびりついてをり

   ほと深きところに卍春は傷


 肉体に関する「太腿・生殖器・ほと」などの性の直截的な語彙や、それに関連する「貞操帯」などの語彙への嗜好は作品に頻出している。それらの性・エロスは生への欲動であり、絵画や音楽のように感覚そのものが作品となっているかに。

 生の欲動であるエロスに対して、死の欲動であるタナトスは対立して存在しているのではなく、ここではお互いに抱き合った存在となっている。それは、肉体という概念が人間性全体を覆えない限り、生・エロスと死・タナトスは意識界の外に存在するからであろう。タナトスを象徴する句としては


   冬銀河輪投げのように逝くことも

   華よ血の香りよ虹に髪浸らしめ

   丹塗矢を受け立つ椿流れ着け

   首筋に情死一擲の白百合


 日常的な意識層をかき回すだけの詩への否定が、非日常のタナトスへと色彩的な視線を投げかけているのであろう。


   宇気比にかけ志士冴え返る水鏡

   鏡像は花咲く森の死のむこう

   青葉若葉詩にただようは死ねの声


 神風連への言挙げの作品であるが、作者はそこに西南の役との通底として、文学的な情死・心中を認めている。私はそこに更に秋月の乱を加えたい。というのも、肥後・薩摩・福岡といった九州の〈場〉というものの共通項を考えるからである。それを位置づけるには、存在根拠を述語=場所と無のうちに見出した西田幾太郎の〈場所の論理〉が最適であろう。西田は次の様に述べている。


 「ふつうわれというも物と同じく、種々の性質を含んだ主語的統一と考えられているが、われとは主語的統一ではなくて述語的統一である。一つの点ではなくて、一つの円である。物ではなくて場所である。」(『場所』)


 そしてこの場所が無の場所と呼ばれるのは、それが存在=有の反対の極にあらわれるものだからである、と。つまり、九州の反乱の各場所は主語的な存在感をもち、各反乱の主体はそれによって喚起された述語的存在である、と。また、存在=有への反対の極には「死=無」が当て嵌まるであろう。その九州の歴史意識の流れは、終戦時にマレーシアのジョホールバルで自決した〈日本浪漫派〉の蓮田善明にも受け継がれていたようである。蓮田の詩碑が田原坂に建立されているのも何かの因縁であろうか。

 また、宇気比=祭祈と受取れば、三島由紀夫の恋闕にも連なるものがあろう。

 句集で他に印象に残った作品


   青の世界蝶と小鳥とくちなわと

   黒鍵に触れればほたる舞いあがり

   腿深く螺鈿蒔くようほうたる来い

   向日葵の立ち枯れ仮面舞踏会

   こしょろよこしょろどうしょろか

   夕薄暑どの風向きも異教なる

   白黒の虹なら屋根を飾る猫

   月とるにあばらの骨をそぎ落とす

   DADAや冬瓜つるりと向きを変え

   荒ぶるや我に背もたれ瀑布欲し

   一色ずつ虹をはがせば火傷痕

   この自販機でんでらりゅうばででむしで

   お百度を踏むほど尖る夏薊


 ここまで書いてきて、新聞で神風連資料館の閉鎖を知った。