加藤知子句集『情死一擲』について私が書こうとすることの骨子は、あらかた既に、今年惜しくも亡くなった竹岡一郎の跋文に描き出されてしまっている気もする。また加藤知子自身のあとがきにも、神風連の変や西南の役を情死と見る視座、およびそれら軍事的敗死者へのみずからの共鳴を「浪花節」と云いとめる自覚が示されているところから、この句集に収められた作品群のよって来たるところ、方法的土台についてはことさらあらためて語り直す必要もなさそうなのだが、それにしても個々の句がその方法の受肉の結果として得た身体はさまざまに荒れ、破れ、綻び、濁ったものだ。題材を俳句に落しこむ手際の上手い下手や、そのレトリックの適不適を云々することがおよそ意味を持たない句集がわれわれの前に姿を見せることになったといえる。
粘土で塑像をつくるとき、または木材や石材で彫像をつくるとき、さらには投棄された廃材の類を組み合わせてジャンクアートを組み上げるとき、作り手の手は粘土、木、石、廃棄物といった質料の抵抗を受け、明晰に言語化することができないやり取りをそれらと交わしつつ、作業を進めていることになる。その闘争的とも弁証法的とも云えるやり取りを経て立ち上がった作品は、制作者の意志やメッセージを示す記号ではなく、物自体としての不可知性をその身に残す。
加藤知子の句の場合、題材を作品化していく過程で、作者の意見やメッセージといったものは、そもそも明確なものとしては介在してはいないことが多い。むしろ激発と呼ぶ方がふさわしい反応によって、その題材は句として受肉する。
街の通りの汚れた壁の百の耳朶
甲虫に雨ぞうぞうと銀の匙
こういった句は、喩のあり方が、作者の言説や欲望を担った寓喩と、題材たる質料からの抵抗のせめぎ合いの渦中でそのまま放り出されたようである。佳句であるかどうかといった評価基準があまり意味をなさないものだが、あえていえば〈街の通りの~〉はかつての前衛俳句風の、気分的な不協和のみを担う暗喩性に終始してしまっていると見え、〈甲虫に~〉は寓意にいたる寸前で手を放されてしまったかのような「甲虫」と「銀の匙」の取り合わせならぬ取り合わせが、異物感を愉快に立ち上がらせたトルソーのようでもある。鋭い緊張が自我のなかではなく、自己と題材とのはざまに得体の知れないイメージを立ち上がらせるというのが、加藤知子の句が或る達成に至る際のすじ道であるとひとまず取れる。メッセージを伝える《看板》と、単なる《廃棄物》とのはざまの領域に組み上げられ(かけ)ては、その都度遺物として放置されるイメージの相克の百態。ここに加藤知子の俳句的な沃野がある。
「情死」を表現行為として見たとき、加藤知子におけるそれは、既に何らかの――戦争等の――痛ましい事態の発生により熱狂や惑乱のうちに命を落としてしまった他者たちに対する、遅ればせの追い腹のような行為としてある。それは第三者には何も説明することがない、破綻をも共にする切羽詰まった追認である。
波打って光る渇望とは青葉
火だるまでころがるどんぐりの快楽
名はさくら大量無差別殺人罪
そうした意味では、過不足ない象徴性ゆえに読者に迎え入れられやすいであろうこの三句などは、句集『情死一擲』から撰してみせるにはかえってふさわしくないのだろう。
雷に打たるる鬱も水の音
虹彩交歓始まる虹の境界線
この二句などは「雷」や「虹」など気象に関する題材にまで作者が共鳴して、というより情死的にその身を迫らせていくことにより、「鬱」や「交歓」といった気分的なものを、心のうちと同時に、世界に物として放置しているさまが作者の特長を示していると取れる。
気象と気分を連続的・象徴的に捉える作者はいくらでもいようが、「水の音」や「虹の境界線」という自然自身の身体性を不意に叩き出して着地させる方法は独自のものと云えるのではないか。
以下、私の身心が反応した、何らかの突発感を帯びた句を幾つか拾う。
滝壺に蛇を投げれば花群るる
角曲がり肉屋がないと叫ぶ男
帰り来てトランペットは夏へ無垢
婆なれば万引きマントに神宿る
「正直の頭」ならぬ「万引きマント」に神宿るアイロニーによって殺伐たる「婆」の「万引き」が花と化す妙手は他の時事的・社会的俳句にも見られる。
カフカの「橋」を異常気象に拉致しさった〈ゲリラ豪雨橋はよろこび裏返る〉や、食物なき不毛がそのままカーニバル性を成す〈人が皿喰い皿が人喰う豊の秋〉、可憐にして無垢なものから戦争の悲惨を逆照射する当たり前の句に見えて奇妙な道化性を帯びる〈雪兎戦車の砲の中にあり〉、角の生々しさが寓意性を突き破った物自体をもたらす〈人類に一角生えていく前夜〉等々がそれにあたる。
穏やかな博愛や、俯瞰による歴史の抽象化や、円満具足の相からはほど遠い、押しかけ情死ともいうべきものへと向かう疾駆からこぼれ落ちた奇果としての句の数々は、破局と瓦礫ばかりの過去を見ながら吹き飛ばされていくヴァルター・ベンヤミンの歴史の天使に、それと知らぬまま見守られているのかもしれない。