2025年1月24日金曜日

【連載】現代評論研究:第1回・戦後俳句史を読む【総合座談会】  北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井(司会)

 ●―3,7,10:戦後俳句史を読む/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井(司会)


音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢         兜子

汝が胸の谷間の汗や巴里祭         憲吉

ゆびさして寒星一つづつ生かす       五千石

古里 石も眠い              圭之介

妻をころしてゆらりゆらりと訪ね来よ    新子

歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に       きくの

肉体を水洗ひして芹になる         寿美子

空蝉の脚のつめたきこのさみしさ      千空

おのおのの紅つらならず曼珠沙華      玄

山茶花やいくさに敗れたる国の       草城

ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒  葦男

日にいちど入る日は沈み信天翁       敏雄

 

筑紫磐井:いよいよ、「戦後俳句を読む」が始まったが、第1回目の1句鑑賞を読み終わったところ(今回は山田真砂年は原稿未到着)で、いささか気が早いが「戦後俳句とは何なのか」を語ってもらいたい。

北村虻曳:俳句について人と話し始めた頃、自分の句を披露したところ、「これはどういう意味か。もし貴男自身が句の主体だったりしたら最悪だ」と言われた。私はその最悪を意図していたのだが。これで自身を直接的に出すことは、ある種の俳人のタブーに近いことを悟った。俳句は、基本的に事物を詠み、場合によってはそれに自己が投影されるという方式である

 一方近年出席している歌会では、とくに断らないかぎり主体はほぼ作者とみなすと言う意見をよく耳にする。作者の登場は普通のことなのである。作者でないとしてもほぼ人は登場する。すると表される事柄に時代性の差や個性はあっても、多くの人の腑に落ちるのである。川柳はそういう意味では短歌よりも徹底している。人の行動原理を確認したり、発見したりすることが主流である。これに飽き足らなくて抵抗する柳人も存在するが

 そこで選ばれた句を作者との距離ということで、直裁に自己を投影しているものから、象徴性の高くして、自己を離れた抽象に至っているものといった感じで並べて見た。


憲吉・新子・きくの・寿美子・五千石

千空・玄・草城

圭之介・敏雄・兜子・葦男


とでもなろうか。

 しからば、これらの句の「戦後性」はどうであろうか。普通に考えると前に並べたものが時代を越えた普遍性があるということになろうが。案外、新子や寿美子のような句は戦前には詠まれにくかったという気がする。女性は時代には正直というべきか。一方後に並べた句は前衛的なのであるが、戦前のダダイスト詩人などとの親近性を感じる。抽象的な一種の前衛性は必ずしも新しさと比例するものではないのだ

 でも題材から見ると、兜子・葦男の句は、映像や音楽の時代を感じさせる点で、戦後の社会のものであると感じる。兜子の「音楽」から私が聞くのはジャズのジミー・スミスである。また葦男の詠んだものは、堺谷が実際に作者から聞いたように、御堂筋であってもよいし、工場、あるいは通勤の群衆の風景でもよい。戦後の工業社会の風景を想起させる

この二人と巴里祭という時代の言葉が入っている憲吉の句をのぞけば、題材は「世は変われど人性は変わらず」と言った姿を描いている。それぞれ表現の仕方に新しい発見と独自性があるから皆さんが取り上げられたのであろう

堀本吟:今回の鑑賞でうかがえる戦後俳句の特徴のひとつは《開放感》である。風俗、ジェンダー、文化の全てに浸透する変化に応じている。混沌、流動の時代の「実感」「写生」「日常」「想像力」とは何か、と考えさせる。戦時の抑圧からの解放は自国の敗北という痛みをともなう。そういう伝統への反省としての「前衛俳句」の登場があろう。またそれぞれ方法を自由に模索できる時代になって、創作の姿勢がのびのびしている

 次は《男女、性にかかわる表現の自由》だが、西東三鬼と楠本憲吉は。風俗や日常に潜む欲望への果敢な俳句化が興味深い。自由律と川柳については後で述べたい

 三番目が《抒情表現、「星」にシンボリックな希望を託するありかた》に注目した。特に青春は、今を詠うことが未来への指標だ。戦後出発の時期に重なり、五千石の句にその典型的表現をみいだす

 最後に《多様な方法の模索、だが全く「新しい」言語風景はない》という感じだ。かろうじて兜子の内部意識世界の幻景が独創的なぐらいだ。しかし、一句一句は面白かった。作られた時代には気がつかなかった視点からの発見があり、それによって句が甦っている、という爽やかな快感にとらわれた

筑紫:「戦後俳句を読む」を企画した段階では、いささか軽い俳句鑑賞的読み物になるのではないかと思ったが、メンバーは十分事前研究もし、本格的な戦後作家論を執筆するという態度で望まれているので驚いた。戦後俳句史研究会が発足したと見ても良いかもしれない。しかし、ひとつ言っておけば膨大な資料が全てではないような気もする。私の書いたもので恐縮だが、楠本憲吉の「巴里祭」の句には憲吉の自句自解があり、これによれば銀座のキャバレーのホステス(ご丁寧に店の名前、女の名前まで入れている)の胸の汗だととくとくとして書いているのだが、こんなものは不要である。触発のメカニズムは分かっても、「読む」ではないからだ。時代文脈を読み取ることができるかどうかが大切だろう。お二人の指摘もそういった点にあると思う

 さて、おそらく今回の「戦後俳句を読む」の最も大きな特徴のひとつは、少ないながらも、川柳、自由律俳句作家を含めて戦後俳句をまとめて読もうとしたことだと思う。圭之介、新子という顔ぶれは、詩歌梁山泊の詩人、歌人以上に、俳人にとって衝撃的なのではないか。(種田スガル、清水かおりの参加した)『超新撰21』で狙ったところを「戦後俳句を読む」でいっそう明確にしたということになろう。今回は戦後俳句史論の初回なので特にこの点に絞って論じてもらいたい。まず、時実新子からお願いする

北村:私は最初新子の掲出句を「自分の中の妻を押し殺して俺のところにやってこい」と詠んでいた。しかし彼女はやはり吉澤氏の読みを期待しているのだろう。新子は誰かに成り代わって詠むことは得意ではなく、まっすぐ詠むだろうから。ところで吉澤氏の指摘するように、新子の作中人物はフェイク新子なのである。新子の自由の象徴である。この仮構の主体は新子以上に新子であり、純化された姿であるという逆説も成立する。川柳人が意識的に「実際の自分に近い仮構の作中主体を作り上げた」(吉澤)ことは画期的であったのではないだろうか

堀本(新子川柳の虚構性)

「〈心の真実〉ではなく作中主体の仮構性にこそ、この句の現代的な価値があるのではないか。そのような読み方をすることによって、この句は一個人の〈心の真実〉という呪縛からもっと広い読みの世界に向かって解放されると私は思う。」(吉澤久良)

 時実新子は、ジェンダーの面から理解や誤解がなされる作家であるが、吉澤がそれを技法的に読み解いたのはすぐれている

 しかし、新子が、べたな私生活暴露ではないフェイク新子を創造した言葉の天才であるとしても、いくつか問題点がでてくる

 時実新子の川柳も、プラスマイナスいずれも時代の価値観の枠内であるから、内容は殆ど自己追求、自分をまるごと作品世界にいれこむいわば私小説空間である、近代以後の文芸全般、自身の内面をうちだし虚構化する、その方法を採っていたから。そのことが創作倫理の根幹にあった。だから、新子は、全く新しいことをしたわけではない、自身も読者もその全てが自己告白だとは思っていなかったはずだ

 なぜ、『有夫恋』は大衆にうけたかである。これがベストセラーになったのは、当時の女性観の中で、不倫の恋も辞さない悪女ぶりが、女性の秘める欲望を表したもの。新子の心の中の「自由の象徴」(虻曳)に私小説に近い大衆小説風だからこそ安心して感情移入できた

北村:私の考えでは、大衆は私小説を事実の告白と受け止めていたのではないか。また「大衆の憧れ」と言っても複雑だ。反感に裏打ちされた憧れだから。女性の人気者の人気とはそういうことが多いのだ。私の内に大衆が住んでいるから分かるのだけれど

堀本:読者は、時実新子を悪女に見立てることで遊んでいた、とは言えないか。半分ぐらいはほんとかな、とかおもって。一見川柳の中では新しくみえる新子の自己像の古さ(それが悪いというわけではない)が見えてくるのではないだろうか

 それから、自己像(=アイデンティティ。私性もその一部)は、完全に描きうるものではない。だから、表現の仮構(虚構化)がもとめられる。「ゆらりゆらりと妻を殺して」は、夫である男に、関係の解体をせまっているのであるけれど、「妻」である自分と自分の「夫」との関係も両方こわれる。これは、自分も含めた女性一般の抱く「愛」の理想像(?)ともいえる。新子の面白さは、古い恋愛観の中で、一番悪女の面を強調した自己像を創造し、こういう自己解体まで表現してしまった、と言うことだと思う

筑紫:世の常、「俳句」と「川柳」があるように言われているが、たしかにそうかもしれないがそれ以前に「俳句の読み」と「川柳の読み」があり、それを踏まえて「俳句として詠まれた作品」「川柳として詠まれた作品」、その結果としての「俳句」と「川柳」が存在していると見ることができるということだ。吉澤(今回不参加)の鑑賞は時実の読みを既製の読みから開放しようとしているようである。説得力があると共に、既製のジャンルからは危険視される試みになるかもしれない。とはいえそれは、五七五形式に「俳句の読み」があると思っていたものが実はそれが極めてローカルなものに過ぎず、パラレルワールドとしての「短歌の読み」「詩の読み」もあることを失念していたことに気づかせてくれる意味で貴重な提言かもしれない。いずれにしても、こうした契機は時実だからこそ生まれるのであろう。時実については俳句の側こそ学ぶことが多そうだ。いい連載を期待している

 次は近木圭之介についてであるが、川柳以上に自由律俳句についてはよく知らなかったことに我ながら愕然としている。たぶん、論者のお二人についても同様だと思うが。思うに、時実新子の場合と違って、圭之介については埋もれた作家を再発見するやり方で鑑賞が進むのだろう。

北村:具体的な作品に早速入りたい。「古里 石も眠い」を見ると、いつか私の不確かな記憶に染み込んでいるトリスタン・ツァラ?の詩の一節「村の根元で石垣が倦怠を編んでいた」を思い出す。このような発想は昔へさかのぼれるだろう。圭之介は実際にも明治生れであるが。独自性はやはり含蓄に賭けた型式にあるのだろうか。

堀本:圭之介「古里」の句は草城句の世界とおなじ自然にいるはずだが、「石も眠い」という表現は「眠い」のに緊張感を与える喩(メタファー)である。永遠のハイマート、かつちいさな存在の悠々たる自由など存在全体(古里)の「喩」だ。

 詩形の特徴については、藤田踏青の解説が丁寧で啓発された。短律の世界では、極小字数をあまる大きな意味世界のイメージは、「喩」のふくらみに預ける面が強い。でも、これに成功すると「自由律俳句」の一見律にならない律がふわっと立ち上がってくれる。自由律俳句のこの繊細かつ悠々たるタッチは戦前戦後をつうじて変わらない魅力だ。一句一律という考え方は定型俳句にはない。思考と律を媒介する要素として「喩」との関係を考えると、ここから学ぶところが大きい。

筑紫:この第1回目の感想は?

北村:川柳、自由律俳句は、独自の課題と魅力があるのに、とかく等閑視されてきたので、この二人の鑑賞者の起用は適切かつ画期的。俳句にとっては自己の詩形をみなおす絶好のチャンスである。カリスマ新子と自由律の戦後作家が登場して興味深い。

堀本:同感。

筑紫:ありがとう。一応今回はここで終わりたい

(「戦後俳句を読む」(第1回)了)※。