ロンドンの美術展に寄せたエッセイ
ロンドンで開催のhaikuをテーマとした美術展に、俳句作品で参加したことは前回にも触れた。その美術展にあたってのエッセイを英国のオンライン雑誌に寄稿したので、和文の要約を採録する。
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英語俳句の世界では「写真を見てそれに呼応する俳句を作ってください」と言われることがよくある。しかし、日本の俳句では、提示された言葉から俳句を作る季題・兼題というやり方が一般的だ。
この展覧会では、まず「俳句の精神」をテーマに現代アート作家たちが作品を作り、その作品に呼応して詩人・俳人が俳句を作る、という制作過程が採られ、僕には新鮮かつ難しい作業となった。俳句は何かの具体性を通常は出発点とする。だから、季題・兼題という具体的な言葉を使った方法が機能する。ただし、その具体性の中に結果として微かな抽象性をまとわせる。それが俳句の美学だ。
今回の作業はそれとは違った。現代アートの作品の多くは抽象的だ。その作品に向き合って俳句を作るには、まず作品の持つ抽象性を的確に掴み、次にその抽象性を俳句という具体性に落とし込む順番となる。つまり僕にとっては、具体性と抽象性の順序が通常とは逆になった。なので、非常に作りにくかった半面、結果としてできた俳句は抽象性の純度が非常に高いものになったと感じる。
本展ではそのような俳句とアートとの出会いを愉しむことができたが、アートと俳句の関係は複雑な側面を持つ。特に、西洋のアートとの関係はそうだ。
俳句史上に有名な「第二芸術論」は、西洋の崇高で壮大な芸術に比べれば、俳句は芸術と呼ぶに値しないとの主張であった。あるいは俳句史上の重要な契機となった「写生」「前衛俳句」といった概念も西洋美術由来でもたらされた。
その一方で興味深いのは、ときに西洋の偉大な芸術家が俳句への関心を示すことだ。米国の音楽家ジョン・ケージには「haiku」と題された楽曲やアート作品があり、著作の中でこんな言及もする。
「山を心地よく照らす火は、遠くは照らさない。同様に、美しい形式は短い瞬間を照らすだけで充分だ。(中略)そう考えれば、ブライスが著書『俳句』で書いた〈芸術家の最高の責任は美を隠すことだ〉という言葉が納得できるだろう」
俳句とアートとの関係は複雑に錯綜する。ひとつ言えるのは、美が成立するのが具体性と抽象性との関係やバランスの中だとすれば、その三つの相関は西洋美術と俳句では何かが違う。それゆえ、崇高な西洋美術に比べて俳句は価値がないと非難した日本の学者もいる一方で、西洋美術にはない美の考え方を俳句に見出して着目した西洋の芸術家もいた。それは、同じコインの両面なのだと思う。
※本美術展「SPLASH ! The Haiku Show」はロンドンのWhite Conduit Projects ギャラリーにて2023年10〜11月に開催された。
原文掲載のウェブサイト https://www.soanywaymagazine.org/issue-sixteen
(『海原』2024年1-2月号より転載)