2016年2月19日金曜日

第37号

-豈創刊35周年記念-  第3回攝津幸彦記念賞発表
※受賞作品及び佳作は、「豈」第59号に、作品及び選評を含めて発表の予定
各賞発表プレスリリース
攝津幸彦賞(関悦史 生駒大祐 「甍」
筑紫磐井奨励賞          生駒大祐「甍」
大井恒行奨励賞  夏木久「呟きTwitterクロニクル」
募集詳細




  • 3月の更新第38号3月4日第39号3月18日



  • 平成二十年 俳句帖毎金00:00更新予定) 》読む

    (2/26更新)歳旦帖、第六下坂速穂・岬光世・依光正樹
    依光陽子・竹岡一郎・陽 美保子


    (2/19更新)歳旦帖、第五神谷 波・早瀬恵子
    望月士郎・山本 敏倖
    (2/12更新)歳旦帖、第四浅沼 璞・坂間恒子・網野月を
    近恵・前北かおる・内村恭子
    (2/5更新)歳旦帖、第三青木百舌鳥・しなだしん・五島高資
    仲寒蟬・佐藤りえ・石童庵
    (1/29更新)歳旦帖、第二堀本 吟・渡邉美保・林雅樹
    小野裕三・ふけとしこ・木村オサム
    (1/22更新)歳旦帖、第一もてきまり・小林かんな・堀田季何
    杉山久子・曾根 毅・夏木久

    (2/19更新)冬興帖、追補…北川美美
    (1/22更新)冬興帖、第九竹岡一郎・田中葉月


    【毎金連載】  

    曾根毅『花修』を読む毎金00:00更新予定) 》読む  
      …筑紫磐井 》読む

    曾根毅『花修』を読む インデックス 》読む

    • ♯ 37   絶景の絶景 …  黒岩徳将  》読む
    • ♯ 38   変遷の果てとこれから … 宇田川寛之  》読む
    • ♯39  凶暴とセシウム  ・・・    佐々木貴子 》読む 
    • ♯40  曾根毅句集『花修』を読む  … わたなべじゅんこ  》読む
          【対談・書簡】

          字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ
          その2 中西夕紀×筑紫磐井  》読む
          (「字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ」過去の掲載は、こちら )
          評論・批評・時評とは何か?
          その14 new!!)堀下翔×筑紫磐井  》読む 
          ( 「評論・批評・時評とは何か?」 過去の掲載は、こちら
          芸術から俳句
          その4 …仮屋賢一×筑紫磐井  》読む  
          ( 「芸術から俳句へ」過去の掲載は、こちら



          およそ日刊「俳句空間」  》読む
            …(主な執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
            •  2月の執筆者 (黒岩徳将, 佐藤りえ, 竹岡一郎, 柳本々々) 

             大井恒行の日々彼是(俳句にまつわる日々のこと)  》読む 

            【鑑賞・時評・エッセイ】
              朝日俳壇鑑賞】 ~登頂回望~ (九十七・九十八・九十九)
            …網野月を  》読む 
            【短詩時評 十三形】久保田紺と吉田知子 
            -わたしに手を合わせるおまえは誰だよ-
            柳本々々  》読む 



            <前号より継続掲載>
             【俳句時評】 『草の王』の厳しい定型感 -石田郷子私観 -
             (後編) …堀下翔  》読む               (前編)  》読む
            【句集評】 『天使の涎』を捏ねてみた -北大路翼句集論ー
            (びーぐる29号から転載)  …竹岡一郎   》読む     序論 》読む 

            【特別連載】  散文篇  和田悟朗という謎 2-1
            …堀本 吟 》読む 

            リンク de 詩客 短歌時評   》読む
            ・リンク de 詩客 俳句時評   》読む
            ・リンク de 詩客 自由詩時評   》読む 





                【アーカイブコーナー】

                週刊俳句『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会再読する 》読む



                    あとがき  》読む


                    【告知】

                    冊子「俳句新空間」第5号発刊予定!(2016.02)








                    筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                    <辞の詩学と詞の詩学>
                    川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史! 



                    筑紫磐井「俳壇観測」連載執筆










                    特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                    執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士


                    特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                    執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                    評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・その14…筑紫磐井



                    筑紫:

                    ①山頭火的手法

                    話が花尻氏から離れて行きますが、ご質問の前半について言えば、私は、山頭火の言葉の処理の仕方に興味を持ったという方が適切でしょう。その意味では、「沈黙」でも、「音」でも、余り変わりはないと思っています。

                    正直に言えば、注目したかったのは、「古池や」を切り、「蛙」を切り、「とびこむ」を切り、「水の」を切ることであり、「音」が残るかどうかはあまり関心がありませんでした。この方式でやれば「音」が消えてもおかしくはないかもしれません(「沈黙」の一歩手前が「音」ですから)。これは私の創造だと思います。ちょっと屁理屈めいて聞こえるかもしれませんが、正直、山頭火の結論が正しいとは思っていないからなのです。

                    そもそも、山頭火が「音」の句と言ったとして、あるいは私が理解した「沈黙」と言っても、芭蕉自身がそれらに納得するとも思えません。両方とも、それぞれが描く芭蕉のイメージに合わせた仮説に過ぎませんから。

                    私が思うのに、山頭火が、芭蕉の句(古池や蛙とびこむ水の音)を「音」の句と言ったとしても、偶然この句を取りあげたから音の句になったようにも思えますが、別の句を取り上げれば、また別の「?」の句になるわけです。例えば、


                    白扇やあるかなきかの水の色  長谷川櫂

                    長谷川櫂氏の最新句集『沖縄』(2015年9月16日青磁社刊)の一句ですが、なかなかいい句です。この句の分析を山頭火の処理方式でやることは不可能ではないと思います。


                    白扇やあるかなきかの水の色 
                    ―――あるかなきかの水の色 
                    ――――――――――水の色 
                    ――――――――――――色

                    その結果は、「色」となるわけです。もちろん、作者が言ってもいないことを演繹するのはおかしいという批判もあるでしょうが、成り立たない論理ではないからです。そして、こちらの方が少しましだと思うのは、山頭火に、

                    ――――――――――音

                    という句はありませんが、「色」には、歴とした、


                    いろ   青木此君楼

                    という句があるからです。これはすでに前回述べていますね(「BLOG俳句新空間」2015年9月18日「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・その12」筑紫磐井、11月27日「字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ(その1)」中西夕紀・筑紫磐井)。

                    だから花尻万博氏の句を取りあげて言いたかった点は、何かが残ったというよりは、山頭火と逆のプロセスでありますが、追加削除を繰り返すことによる俳句の分析法があり、自由律という考え方さえ許容すれば、その過程で生まれる作品の価値を無視できないということなのです。


                    ②消費的傾向

                    『関西俳句なう』について、「消費的」と言う批評が余り批判を受けなかったのは幸いでした。どうも的確に表現できているかどうか分からなかったからです。まあ、ただ、堀下さんとの対談ではしばらくこの言葉を使っておくことにしましょう。問題があればまた新しい言葉を考えます。

                    問題は、「消費的傾向」と対比した「自己規律的表現」が判らないと指摘されています。これも適切かどうかはありますが頭の中にはこんな考えがあります。これは現状と言うよりは、比喩的ではありますが過去の例から見て頂くと多少意味するところも分かるでしょうか。

                    昔、内藤鳴雪と言う俳人がいました。松山藩士で子規が東京の松山藩の寮に在籍したときの寮監を勤めていたのです、当然子規よりはるかに年上ですが、その後子規に俳句入門し高弟として遇されました。古風な作家で、句会で俳句に「武者一騎」と入れると必ず取ってくれたということを水原秋桜子が語っています。

                    これほどはっきりはしていませんが、能村登四郎も言葉の偏りがあり、特に「白地」などという季語は、自ら好んで使うだけでなく、登四郎が主宰をしていた「沖」の句会や雑詠で頻繁に登場していました。作った若い会員が、白地を着たり、知っていたとも思えないのですが、盛んに登場していました。

                    単に作者の言葉の趣味が、結社に乗り移っただけのようにも思いますが、結社と言う共同体が存在することによって生まれる独特の表現であると思っています。これを「規律的表現」と考えました。結社によりけりですが、求心力の強い、つまり優れた作家が主宰する結社ではこうした「規律的表現」が発達します。規律的表現を習得して行くことが俳句修行の一つになって行くことさえあります。「沖」や「鷹」ではそうした傾向が強かったのではないかと一方的に思っていますが、案外俳句結社全体に共通していることかもしれません。

                    規律的表現は結社に由来するものですが、これを是とし、俳句全般の方法論として深める場合、「自己規律的表現」となって行くと思います。結社を超越して、作家自身がある理念や価値判断のもとで求心力を持って作品を発展させる際の特徴です。その特徴は、排他的表現となることであり、むしろ求道的な傾向を帯びてきます。言っておきますが、これは傾向と言うより態度だといった方が正しいかもしれません。

                    こうなってくると、「自己規律的表現」は「消費的傾向」と明らかに違ったものとなってくるように思います。私が、前の論で言ったのはこんなことでした。

                    私は戦後生まれ作家の多くは、「自己規律的表現」を持っていたか、そこを通過した作家ではないかと言う気がしているのです。もちろん、様々ですからこれに当てはまらない作家もたくさんいます。しかし、私の同世代を見るとこうした人たちがたくさんいて(隣で私と対談している中西夕紀さんなどもそうで)、私自身もある時期は、「自己規律的」であったことは間違いないと思います。

                    これに対して、『関西俳句なう』はこうした「自己規律的」な感じをあまり受けませんでした。あるいは、旧世代の「自己規律」とは別種の新しい「自己規律」を持っているのかもしれませんが、それならばそれで比較対照するのに有効な材料だと思います。

                    私は、「自己規律的表現」の由来するものは、結社と言う存在ではないか(結社にいる人が必ずしもすべて自己規律的になり、そうでないとならないというわけではありませんが)と言う気がするので、それはそれで社会学的にも面白い現象だと思います。

                    余計なことを言いますが、私と対談している堀下さん自身は、どちらかと言えば新世代でありながら「自己規律的」なのではないかと思っていますが、ご本人がそうでないと言われればそれはそれで再考致します。

                         *

                    話を展開するために一言言うと、「時代の空気感」はいいですね。「クプラス」の座談会よりはるかに本質をついている言葉だと思います。社会性俳句は社会性俳句時代の「時代の空気感」、前衛俳句時代は前衛俳句時代の「時代の空気感」、龍太や澄雄により復活し始めた伝統俳句復活の時代はその時代の「時代の空気感」があったと思います。それは、読まれた作品の内容や意味とは少し違うものであると思います。私が俳句を始めたころの意識は、龍太、草間時彦、能村登四郎などが匂わせた「時代の空気感」を感じ、その結果、「沖」という結社に入ってみたのですが、3人は共通の「時代の空気感」を漂わせていたように思います。

                    よく喫茶店でボーっとしていることがありますが、頭の後ろで、いろいろな会話が飛び交っています。若い男女が長い話の中で少しとげとげしくなり、女性が「キライ!」と言ったりします。これは決して「I hate you!」ではないと思います。「好きなのに・・・」という一種の空気感が漂っていることを感じないと状況は理解できません。だからこそ、仲良く喫茶店を出て行くのです。残された私も、少し幸福感に包まれています。

                    これが何なのかは難しいところがありますが、空気感は論理ではないだろうと思います。ある単語への関心、論理矛盾や韜晦、ナンセンスさまざまなものがないまぜになっています。こうしたものを感じ取ることが、とりわけ消費的傾向の鑑賞には必要に思えます。

                    関西俳句なうで注目した人に手嶋まりやがいますが、

                    炎天に傾くボトルシップかな
                    春コート着て淋しいと誰に言おう
                    白椿人は静かに会釈をし

                    などには、私は他の作家に比べて「時代の空気感」を強く感じてしまったものです。ただ堀下さんの論を読んでいると、これは私が感じた「時代の空気感」であって――例えば私が30年以上前に龍太や登四郎、時彦に感じた時代の空気感であって――現代の「時代の空気感」ではないのかな、等と迷ってきます。ご意見をいただければありがたいです。



                    第37号 あとがき


                    (北川美美記)

                    早くも、2月最終更新。 曾根さんの「花修」を読むなんと!38稿目まできました。そして網野さんの「時壇」は、九十九!! 九十九は「つくも」という読み方もありますね。

                    「伊勢物語」の63段

                    百年(ももとせ)に一年(ひととせ)たらぬつくも髪  我を恋ふらし面影に見ゆ

                    百まであと一です…。

                    柳本さんは、先日亡くなられた久保田紺さんの句集を取り上げていらっしゃいます。久保田紺さんのブログに,ご家族に託されたご本人からのメッセージが書きこまれています。http://kon575.jugem.jp/

                    関連して大井さんのブログの昨年5月に久保田紺さん句集『大阪のかたち』についての記事がありました。http://ooikomon.blogspot.jp/2015/05/blog-post_22.html


                    冊子「俳句新空間」No.5が近々刊行します。(おそらく三月初旬ごろ)
                    前号比20頁増。特集は攝津幸彦記念賞について(執筆:筑紫磐井、夏木久)、作品は、俳句帖での掲載句、新春帖として作品詠。そして前号掲載句の鑑賞に多くのご寄稿を頂き、頁数が大幅に増えました。A5版にぎっしり詰まって定期刊行続行中。小さな文字が並びルーペが必要な方もいらっしゃることでしょう…。(付録をお付けしたいところです…ユーミンの3Dメガネのように)


                    俳句雑誌「俳句新空間No.5」、一冊500円。
                    No.5 販売方法については、追って告知予定。



                    ***

                    以下は個人的なお薦め展覧会…

                    親交のあった、元岩波出版編集者の方を偲ぶ会(一周忌)へ。(夏目漱石の研究と、漱石全集刊行ご尽力された秋山豊さんとおっしゃいます。)ここ6年ほど続いている小さな句会での仲間でもあり漱石を逆にして「石草」と名乗られていました。2011年の武蔵野吟行ではこんな句を詠まれていました。 


                     みんなして墓地からのぞく冬の富士  秋山石草



                    秋山さんの漱石のナマ原稿蒐集魂は、古書店の方も驚くほどで、近々、新宿区に漱石記念館(「漱石山房記念館」(仮称))が誕生するそうですが、秋山コレクションのコーナーができることを区の学芸員の方が語っていました。この先、その蔵書コーナーが実現し、ご覧になられることがあれば、この書き込みのことを思い出していただければ幸いです。




                    漱石繋がりで、日比谷図書記念館の「祖父江慎+コズフィッシュ展:ブックデザイ」を観覧。祖父江慎さんの今までの装丁された書籍にまつわる展覧会ですが、漱石自身の装丁のための原画、自筆校正も展示され、興味津々。 観覧したのは前期展示でしたが、後期が会期中です。お薦めの展覧会です。

                    • 「祖父江慎+コズフィッシュ展:ブックデザイ」
                    会 期: 2016年1月23日(土)~3月23日(水)
                    観覧時間: 平日10:00~20:00、土10:00~19:00、日祝10:00~17:00(入室は閉室30分前まで)
                    会 場: 日比谷図書文化館 1階特別展示室
                    観 覧 料: 一般300円、大学・高校生200円
                    》詳しくはこちら



                    文字繋がりで、京都では、 タイポグラフィ、トンパ文字研究の浅葉克己さんの個展開催中の模様です。

                    • 浅葉克己個展「アサバの血肉化」

                    京都dddギャラリー
                    〒616–8533 京都府京都市右京区太秦上刑部町10
                    TEL:075-871-1480 FAX:075-871-1267
                    11:00-19:00(土曜は18:00まで)
                    日曜・祝日休館 入場無料
                    》詳しくはこちら



                    二月ももう終わりというはやさ…インフルエンザ大流行中です。皆さまご自愛ください。










                    【短詩時評 十三形】久保田紺と吉田知子-わたしに手を合わせるおまえは誰だよ- /  柳本々々



                     私が道へ出ると人々がざわめいた。知っている人も知らない人もいる。私は彼らにちょっと頭をさげてから歩き出した。人々は自然に私の進路を空けてくれる。肩を軽く触られた。いや、投げられた硬貨が私の体に当ったのだった。前からも後からもお金がとんでくる。私は歩き続けた。次第に人が多くなり、硬貨の数も増す。近くの人は柔らかく投げあげるが、遠い人は力をこめてぶつける。頭にゴツンと強い衝撃があった。硬貨ではない。顎に当った石が足もとに落ちる。
                      (吉田知子「お供え」『お供え』福武書店、1993年)

                      転がりやすいかたちに産んであげましょう  久保田紺
                      (『大阪のかたち』川柳カード、2015年)

                    久保田紺さんの句集『大阪のかたち(川柳カード叢書③)』(川柳カード、2015年)は、序文を樋口由紀子さん、跋文を小池正博さんが書かれているんですが、樋口さん小池さんお二人のそれぞれの言葉から久保田紺さんの川柳の或る〈イメージのかたち〉が浮かび上がってくるように思うんです。そこからきょうは始めてみようと思うので、ちょっとお二人のことばを引用してみます。

                     生きていくうちにはどうしようもないものが必ずある。なんだかわけのわからない事象にも出会う。最後まで割り切れないものが残ったり、どういえばいいのかわからない感情だってある。それらをああだからこうだからととやかく言うのではなく、てのひらをそっと広げるように、さりげなく見せる。
                      (樋口由紀子「てのひらをそっと広げる」『大阪のかたち』)

                      人は天使でも悪魔でもなく善悪のグレーゾーンで生きている。どうでもいいことはどうでもいいのであり、しかし本質的なことだけで生きていけるかというと、そうでもない。人さまざまの姿に応じて紺の川柳も千変万化する。
                      (小池正博「人間というグレーゾーン-久保田紺の川柳」前掲)

                    お二人の言葉からあえて紺さんの川柳の共通のイメージを抽出してみるならばそれは、《アバウトなものはアバウトにしておけ》という《Let it be》=《アバウトはなすがままにしろ》ということだと思うんです。それが久保田紺さんの川柳なんだと。樋口さんの「ああだからこうだからととやかく言うのではなく」や、小池さんの「グレーゾーンで生きている」っていうのがそれを示している。性急な〈かたち〉を取らずに、〈アバウトさ〉のなかを〈どう〉生きてゆくか。それを紺さんの川柳は問いかけている。言語で裁断するのではない、価値に白黒つけるのでもない。〈グレー〉というかたち化できないかたちのなかでどう言葉にならない〈さりげない〉言葉を紡いでゆくのか。

                    この句集のタイトルは『大阪のかたち』です。そこには「かたち」とついている。だけれども、タイトルに《かたち》と記し、その《かたち》をたえず志向しながらも、その《かたち》を《かたち》化させないこと、それが久保田紺さんの川柳の風景なんじゃないかと思うんです。〈かたち〉をたえず追いかけながらもその〈かたち〉を手に入れられない場所に〈あえて〉ふみとどまること。

                    たとえばこんな句をあげてみます。


                      見覚えのない人に手を合わされる  久保田紺


                    「手を合わされて」いるので、そこには《かたち》があります。たとえばそれは「お祈り」という〈形〉式になるかもしれない。でもそれが「見覚えのない人」によって形象化されることにより、わたしが所持できる《かたち》にはならない。

                    ここには《かたち》をめぐる問題があると同時に、《誰が》その《かたち》を所有するのかという《かたちの所属/所有》の問題がある(その意味で句集に『大阪《の》かたち』と所属・所有の助詞「の」が使われていることは象徴的です)。

                    それはいったい《だれの》かたちなのか。《わたしのかたち》にならない《かたち》。


                      キリンでいるキリン閉園時間まで  久保田紺

                      ショッカーのおうちの前の三輪車  〃

                      どこの子やと言われたときに泣くつもり  〃

                      貸したままの傘は私を忘れない  〃


                    ここには《かたち》をめぐる所属と所有の問題があります。「キリン」というかたちは誰のものなのか。ショッカーのおうちの前の三輪車は誰が所有しているものなのか。「どこの子や」と所属をきかれたときに私のかたちはどうなるのか。傘の所有者が変わるとき、記憶のかたちはどうなるのか。


                    問題はそれらが《どうしたって》わたしのかたちにならないところにある。それは《大阪のかたち》のように、《誰か/何か/どこかのかたち》にしかならないのです。しかしその《Xのかたち》にどうしたって《わたし》は関わってしまう。それが久保田紺さんの川柳です。そしてそれが「見覚えのない人に手を合わされる」かたちなのです。だから「手を合わ」せる人間は「X」でなければならない。その所有/所属を問いかけるためには「見覚え」があってはならない。


                    こうした《私のものにならないかたち》と関わってしまう《わたし》を描きつづけた作家に吉田知子がいます。吉田知子は短篇のなかでたえず突然投げ込まれた不条理な空間を設定し、そのなかでいったい《わたしが手にできるものはなんなのか》を問いかけていました。

                     毎日お花をあげるのに、毎日誰かが全部捨ててしまって、と言う声がする。 
                     背中に大きな石が当って私は前のめりに転びかけた。 
                     小さな子供が走ってきて私のまんまえで私の顔めがけて石を投げる。ふりむくと私の後にも横にも人間の壁ができていた。私の周囲だけが丸くあいている。手を合わせている人、石を投げる人、私に触ろうとする人。皆、口々に何か言っている。ようやく「お供え」と言っているのだとわかった。
                      (吉田知子「お供え」前掲)

                    わけもわからないうちにわけもわからない人間たちから「手を合わせ」られ、〈かたち〉としていつの間にか自らが〈お供えもの〉=神様になってしまう吉田知子の「お供え」。ここには〈かたち〉が先行してしまえば〈わたしのかたち〉が〈だれかのかたち〉へ脱-所有化されてしまう恐怖がある。所有・所属の助詞「の」は、形式化のありようによってすぐに簒奪されてしまうのです。だれかに〈暴力的に〉手をあわせられ、祈られることによって。〈お供え〉とは対象そのものを〈神様化〉することによってその対象を所有化しようとする〈暴力性〉も秘めている。お祈りすることは、ときに、暴力でもあるのです。


                    さりげない日常的な行為と、非日常的な暴力行為のアクセスポイントが久保田紺と吉田知子の表現にはある。


                      おばちゃーんと手を振るライフルを提げて  久保田紺 


                    じゃあ、〈かたち〉に奪われない〈かたち〉はないのでしょうか。〈かたち〉はいつも誰かに奪われてしまうのか。紺さんの川柳はそれに対してなにか応答を投げかけてはいないのか。


                      ポップコーンになれず残っているひとつ  久保田紺


                    破裂することによりさまざまなかたちの位相をみせる「ポップコーン」。でもその「ポップコーン」にさえもなれない「残っているひとつ」としての〈かたち未満のかたち〉がここにある。それがどんな〈かたち〉かはわからない。わからないけれど、どこにも回収されない「ひとつ」の〈かたち〉です。「ポップコーン」という名詞に所有されない、集合的表象にも所属しえない「ひとつ」の〈かたち〉なのです。

                    わたしはこう思うんです。この句集はタイトルに「かたち」とふりながらも、ついに〈かたち〉を手に入れようとはしなかった。しかし、そのようにして〈しか〉たどりつけない〈かたち〉で、〈かたち〉を手に入れようとしたんだと。その意味でこの句集はずっとあなたに〈Xのかたち〉を問いかけているのです。

                    〈かたち〉はいったい誰が所持しているのかを。「X《の》かたち」の《の》を浮き彫りにすること。

                    ひとはどれだけおびただしい〈かたち〉を奪われようと、最後までたったひとつだけ残る《かたちにならないかたち》がある。誰にも手渡すことも明け渡すこともできない「わたしの(かたち)」の《の》がある。その《の》こそが、久保田紺さんがこの句集を通して手にいれた《かたち》なんじゃないかと、おもう。

                      その大阪はわたしのと違います  久保田紺

                     私は石段を降りた。人々が何かを待っていた朽ちかけた神社を通り過ぎる。もう薄暗かった。小さな滝へさしかかった。暗い。道はあるが、いつまでも同じような林の中の道である。完全に日が暮れたら何も見えなくなるだろう。私はあせった。自分のせわしない息づかいばかり聞こえる。この道をどれだけ歩いたらいいのか。どこからあのワラビのはえている傾斜地へ曲ればいいのか。あそこには目印になるようなものは何もなかった。この暗さでは上の方の人家も見えないだろう。もう行き過ぎたのかも知れない。いや、もっと道のりがあった。こうやってわけもわからずに百年歩いている、と思う。
                      (吉田知子「迷蕨」『お供え』前掲)




                     【時壇】 登頂回望その九十七、九十八、九十九 /  網野月を

                    その九十七(朝日俳壇平成27年12月13日から)

                                              
                    ◆雨だけが冬田癒してをりにけり (豊中市)堀江信彦

                    稲畑汀子の選である。例年に比べて雨が多い年の暮れである。句意は上五中七に集中して語られている。座五の「をりにけり」は俳句としての尾っぽ(音楽で言うところのコーダ)のようなものである。ドラゴンの尾のように先っぽが鈎になっているものもある。カンガルーのようにその生態に不可欠のものもある。中七を「冬田を癒す」というように短く言い切って、座五を別に展開する仕様もあるかと思う。尾っぽの有無は句作りの趣味が演出されるところでもある。

                    ◆折からの夕筒を眼に穴惑ひ (洲本市)高田菲路

                    金子兜太の選である。評には「高田氏。「夕筒を眼に」蛇穴に入るとは、洒落すぎるほど。過ぎたるも及ぶことあり。」と記されている。輝く星影を瞼に焼き付けて「穴惑ひ」が眠りに入ろうとしている。語彙としての「夕筒」は評の言う通り洒落ているが、冬眠を迎える蛇と宵の明星の取合せは着き過ぎているかも知れない。

                    ◆パソコンのゴミ箱無限大掃除 (富士市)蒲康裕

                    長谷川櫂の選である。評には「一席。パソコンにはゴミ箱なるものがある。宇宙に通じているかのような無限のゴミ箱。」と記されている。現代の大掃除の有り様だ。「パソコンのごみ箱」へ捨てる意なのか?それとも「無限」の「ゴミ箱」の中をきれいにしようと言うのか?どちらであろうか。
                    最近の作家はパソコンを使用する機会が多いだろう。掃除したはずのゴミが後の世に回収されて、偉大な芸術家の創作過程が解明されたりすることを想像するのは楽しい。が政治家のパソコンから隠蔽されたその政治家の裏舞台が再現されて具合の悪いことにならないようにしたいものだ。



                    その九十八(朝日俳壇平成27年12月21日から)
                                              
                    ◆狩人の獲物担げるしじまかな (ドイツ)ハルツォーク洋子

                    金子兜太の選である。評には「洋子氏。まだ生きものの臭いもある。妙に静かな一とき。」と記されている。何とも出来過ぎの感がある句である。山中で獲った獲物は担ぐしかないのである。実際に担ぐのは狩人であり、しじまがその景を蔽っている。掲句のような表現、ロジックの方向性は許されているのが俳句である。

                    ◆北風や地球まるごと宇宙船 (松戸市)吉田正男

                    長谷川櫂の選である。評には「一席。北風の季節になると、いよいよ実感。地球は一つ。」と記されている。誇張の旨味が発揮されている。無論地球の反対側は夏であり、「北風」ではないのだが、それほどに「北風」の吹きっぷりが凄まじいということである。中七の「地球」を「まるごと」に把握するのは俳句の世界ならではの叙法であろう。

                    ◆湯豆腐の光の中へ沈みけり (静岡市)松村史基

                    長谷川櫂の選である。評には「二席。アルミの打ち出し鍋ですると、室内の明かりが光の玉となって鍋の中に沈む。その中で揺らめく豆腐。」と記されている。上五の「・・の」は主語を表す「の」か?所有の意味の「の」か?主語を表すのなら評のようにアルミ製の鍋へ豆腐を投入したのであろう。が、所有の意味の「の」であれば土鍋へ投入したのであろう。所有の意味の場合は、何が「沈」んだのか判然としない。やはりアルミ製の鍋であろうか。それにしても「光の中へ」が抽象的に過ぎる感がある。

                    ◆日に干せし布団の中の日向ぼこ (八王子市)間渕昭次

                    長谷川櫂の選である。筆者には経験がある。これは実に温かいものだ。日向の匂い、お日様の匂いがして、堪らなく懐かしい感じがする。昨今は寝具がベットになって上掛けは干すのだが、なかなかマットは干す機会が少ない。上五の「・・し」は別の叙法もあるだろうか。



                    その九十九(朝日俳壇平成28年1月4日から)
                                              
                    ◆まだ夢を見つづけてゐる枯木かな (廿日市市)伊藤ぽとむ

                    長谷川櫂の選である。評には「三席。花の夢、緑の若葉の夢。一切を枯れ木の心のうちに秘めて。」と記されている。中七の「・・ゐる」は終止形として捉えるのか、連体形としてとらえるのかで意味が動いてくる。この「枯木」は春になって芽吹く木である。つまり今眠っているのであって、夢を見るのである。評は中七の後の切れを優先して「夢を見つづけ」る作者が「枯木」を視界に収めて、より夢の思いを深くした、ということになろうか。この場合は作者の夢は決して眠っている時の夢にかぎらないことになるであろう。

                    ◆蝶も蛾もみな冬籠り山の息 (酒田市)伊藤志郎

                    長谷川櫂の選である。上五の「蝶も蛾も」はいささか技巧的なのであるが、「冬籠り」している生きものたちが実は息していて、それを山全体の気息として感じている作者の感性は余ほど深い。春を待つものたちの息づかいが山に籠っているのである。

                    ◆風邪ひかぬやうにやうにとひきにけり (川西市)上村敏夫

                    稲畑汀子の選である。評には「二句目。風邪をひくときはそんなものであろう。実感が描けた。」と記されている。実感というよりも実態である。うがい、手洗いなどを励行して着衣も寒くないように考え抜いていたのである。用心に用心を重ねたのに引いてしまった。・・つまりインフルエンザである。俳句的表現が引き出した実際であろうか。

                    まあ、引いてしまえば同じであるが。

                    ◆また何か探しはじめし湯ざめかな(大阪市)西尾澄子

                    稲畑汀子の選である。このとぼけた言い回しに諧謔を感じる。中七の「・・し」の意味するところは何であろう。探し始めるという意味と「し」の意味合いと「湯ざめ」してしまった現実の時制がどのように時間軸に配列されるのか?難しいように感じる。



                    (「朝日俳壇」の記事閲覧は有料コンテンツとなります。)

                    2016年2月5日金曜日

                    第36号

                    -豈創刊35周年記念-  第3回攝津幸彦記念賞発表
                    ※受賞作品及び佳作は、「豈」第59号に、作品及び選評を含めて発表の予定
                    各賞発表プレスリリース
                    攝津幸彦賞(関悦史 生駒大祐 「甍」
                    筑紫磐井奨励賞          生駒大祐「甍」
                    大井恒行奨励賞  夏木久「呟きTwitterクロニクル」
                    募集詳細



                  • 2月の更新第37号2月19日



                  • 平成二十年 俳句帖毎金00:00更新予定) 》読む

                    (2/12更新)歳旦帖、第四浅沼 璞・坂間恒子・網野月を
                    近恵・前北かおる・内村恭子

                    (2/5更新)歳旦帖、第三青木百舌鳥・しなだしん・五島高資
                    仲寒蟬・佐藤りえ・石童庵
                    (1/29更新)歳旦帖、第二堀本 吟・渡邉美保・林雅樹
                    小野裕三・ふけとしこ・木村オサム
                    (1/22更新)歳旦帖、第一もてきまり・小林かんな・堀田季何
                    杉山久子・曾根 毅・夏木久

                    (1/22更新)冬興帖、第九竹岡一郎・田中葉月


                    【毎金連載】  

                    曾根毅『花修』を読む毎金00:00更新予定) 》読む  
                      …筑紫磐井 》読む

                    曾根毅『花修』を読む インデックス 》読む

                    • ♯ 33   現状と心との距離感 … 山下舞子  》読む
                    • ♯ 34   ソリッドステートリレー … 橋本 直  》読む
                    • ♯35    還元/換言   …    久留島元  》読む
                    • ♯36   虚の中にこそ  … キム・チャンヒ  》読む

                        【対談・書簡】

                        字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ
                        その2 中西夕紀×筑紫磐井  》読む
                        (「字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ」過去の掲載は、こちら )
                        評論・批評・時評とは何か?
                        その13 …堀下翔×筑紫磐井  》読む 
                        ( 「評論・批評・時評とは何か?」 過去の掲載は、こちら
                        芸術から俳句
                        その4 new!!)…仮屋賢一×筑紫磐井  》読む  
                        ( 「芸術から俳句へ」過去の掲載は、こちら



                        およそ日刊「俳句空間」  》読む
                          …(主な執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
                          •  2月の執筆者 (黒岩徳将, 佐藤りえ, 竹岡一郎, 柳本々々, and more…) 

                           大井恒行の日々彼是(俳句にまつわる日々のこと)  》読む 

                          【鑑賞・時評・エッセイ】
                            朝日俳壇鑑賞】 ~登頂回望~ (九十五・九十六)
                          …網野月を  》読む 

                          【短詩時評 十二時限目】〈遭遇〉するための現代川柳入門  
                          -きょう川柳を始めたいあなたの為に-
                          飯島章友×柳本々々  》読む 



                          <前号より継続掲載>
                           【俳句時評】 『草の王』の厳しい定型感 -石田郷子私観 -
                           (後編) …堀下翔  》読む               (前編)  》読む
                          【句集評】 『天使の涎』を捏ねてみた -北大路翼句集論ー
                          (びーぐる29号から転載)  …竹岡一郎   》読む     序論 》読む 

                          【短詩時評 十席目】新春一首徹底対談-柳谷あゆみを、今、連打する-
                           …法橋ひらく×柳本々々  》読む  
                          【短詩時評 第11巻】Welcome to the Hotel Nejimaki  
                          『川柳ねじまき』第2号を読む- 
                          …柳本々々  》読む 
                          【特別連載】  散文篇  和田悟朗という謎 2-1
                          …堀本 吟 》読む 



                          リンク de 詩客 短歌時評   》読む
                          ・リンク de 詩客 俳句時評   》読む
                          ・リンク de 詩客 自由詩時評   》読む 





                              【アーカイブコーナー】

                              赤い新撰御中虫と西村麒麟 》読む

                              週刊俳句『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会再読する 》読む



                                  あとがき  》読む


                                  【告知】

                                  冊子「俳句新空間」第5号発刊予定!(2016.02)
                                  購入ご希望の方はこちら ≫読む







                                  筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                                  <辞の詩学と詞の詩学>
                                  川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史! 



                                  筑紫磐井「俳壇観測」連載執筆














                                  特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                                  執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士


                                  特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                                  執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                                  36号 あとがき


                                  二月となりました。
                                  そして昨日は立春大吉。 
                                  皆さまの御多幸をお祈りいたします。






                                   佳い句・詩・歌と巡り合いますように…
                                  これから一年無事に更新できますように…

                                  「芸術から俳句へ」(仮屋、筑紫そして…) その4 …筑紫磐井・仮屋賢一 



                                  7.筑紫磐井から仮屋賢一へ(仮屋賢一←筑紫磐井)
                                  the letter rom Bansei Tsukushi to Kenichi Kariya

                                  感じとして仮屋さんのお考えはかなり私の考えと近いと思っていますが、あまり鼻からそう思い込むと議論にもなりませんし、むしろ微妙な感覚のずれ、論理の運びの差があるほうが生産的だし、今後の勉強にもなるだろうと思います。

                                  お互いに寛容の一線は譲れないと思いますが、「社会性俳句は俳句か」なんてどうでもいいはずという点について考えてみたいと思います。

                                  たぶん聖人君子、御釈迦様の目から見れば全くそうだと思いますが、こうした論争をしているのは賛成派も反対派も、私も含めて小人ばかりですから、そうした大きな立場に立てない人が論争していると思った方がいいかもしれません。

                                  とはいえ、寛容でない人達の考えも、頭から度し難い因循姑息な人達ばかりではなくて、それぞれの理屈があるのでしょう。せめて善意で考えてみたいと思います。たぶん社会性俳句に否定的な人は、「俳句は美しくあるべきだ」と思っているのではないでしょうか。そこから美しくないものは俳句に入れておきたくないという、至極もっともな考え方であろうと思います。問題は、その「美しい」は主観的な判断ですから、主観的判断から俳句であるかないかを決めていることになります。美しいとは、美の黄金律にかなっているという基準もあるでしょうが、力強いもの、激しいもの、真実をついているもの、情緒ではなくて激情をあたえるもの、あるいは都会的なもの(反田園的なもの)、宗教的なもの、反宗教的なものと拡散して行きます。自己の基準を確立することは作者として大事なことですし、自己の基準で他の作品を批判することも適切なことです。批評行為とはそこに尽きていると思います。「社会性俳句は俳句ではない」と言っても主張としては分かります。問題はかっての俳人協会有志のように、「無季俳句は俳句ではない」と言って教科書出版社に掲載を中止しろと言うようなことが、本当の寛容ではない行為だということです。

                                  私自身、「社会性俳句は俳句ではない」と言っている人達が心から嫌いかと言えばそうではありません。いろいろからかってみたくはなりますが、真面目な態度だからです。

                                  逆説的ですが、むしろ問題は「俳句は何でもアリだ」と言う態度かもしれません。一見真実のようにも思えますし、又私の寛容論にかなっているように見えますが、実は何も語っていないことになります。話し合うべきコアが何も見つからないわけです。若干似ているのが、「俳句って楽しい」と言う言葉です。もちろん楽しくて悪いわけはないですし、大半の人はそう思っているわけですが、しかしそんなことを言われてもどうしようもありません。

                                  本当は、「社会性俳句は俳句ではない」ではなくて、あなたにとって俳句とは何なのかを積極的に語ってもらいたいものです。くれぐれも、「俳句は有季定型の切れ字の入った詩である」なんていう公式見解は言わないでほしいものです(私としては公式ではないと思っていますが)。

                                  各自の独断と偏見の入った俳句観を語ってもらえれば、俳句はもっと面白くも楽しくもなるものだと思います。社会性も独断です、前衛も独断です、新傾向も独断です、子規が行った新俳句(俳句改良、月並批判)さえ独断です、虚子の伝統も間違いなく独断です、客観写生も独断です、抒情派も独断でしょう、芭蕉のわびもさびも明らかに独断です。山本健吉の挨拶も独断です。巨大な俳句と言うジャンルはその中に納まりきれませんから。逆にすべてを飲み込んでいます。だから楽しいのです。

                                  もっとも、俳句は技術を伴いますから、どんな立派な俳句観を持っていても、全然見当違いな作品を提示する人は別の意味で批判されるでしょうが。

                                     *    *

                                  等と思っていますが、さて、音楽やその他芸術に比べるとどうでしょうか。


                                  8.仮屋賢一から筑紫磐井へ(筑紫磐井←仮屋賢一)
                                  the Letter from Kenichi Kariya  to Bansei Tsukushi 

                                  筑紫さま

                                  「俳句とはこうあるべきもの」という枠組みを先に定めるのではなく、あくまで個々の独断と偏見の集合として(≠最大公約数)俳句は規定されるべきなのでしょうね。俳句に限らず創作活動をする目的にはその対象を規定したいということもあるのでしょう。しかし実作者としては何か規準がほしいわけで、これは独断と偏見でしか選択できないものなのでしょう。

                                  「各自の独断と偏見の入った俳句観を語ってもらえれば、俳句はもっと面白くも楽しくもなる」ということに関してですが、同感です。様々な俳句観が飛び交っていても、俳句という枠があるから秩序が保たれているのでしょう。俳句とは何なのか、実際にはよく分からないけれども、俳句という枠組(名前)があることに甘んじていればよいのです。

                                   藝術の発展は、それぞれの枠組みの危うさというところから生ずるような気がします。破壊しようとすればすぐに崩れ落ちてしまう。俳句だってそうでしょう。そういった状況下で、積極的に破壊しようとする人がいてもいい、一方で、枠組みが崩れないようにいろいろな方策を打ち出す人もいる。もちろん、保守の人もいたらいい。

                                   ただ、日本人には破壊というものにあまり馴染みがないのかもしれません。音楽の発展だって、幕末期から明治期にかけて西洋の音楽が入ってくるまでは、枝分かれはあるにせよ、過去の否定から新しいものを生むという流れはなく、今に至る流れをそのまま順方向に発展・展開させてゆくというようなものであったはずです。そもそも、音楽は独立して存在しておらず、宗教的なものあるいはある芸能を形成する一要素としてのものでありました。だから、時代が変われば、新たな芸能が生まれ、それに付随して音楽の需要が変わる。変わったとしても、過去の否定や肯定ということではなく、新たに出現した芸能に対して、音楽の部分部分が相応・不相応という点で判断され、結果的に新たな音楽ができたり展開されたりしてゆくということになったのでしょう。

                                   西洋のものが流入してきて、ようやく価値観も変わり、堂々と否定することもするようになりましたが、やはり性格上、怖さを拭い去れないのかもしれません。音楽や絵画であれば、取り組む人口も世界規模で多く、言語上の障壁を気にしなくてよい部分も多々あるので(とは言いつつ、「音楽は世界共通語」などという主張は大反対ですが)、自分が破壊しても、誰かが枠組みを守ってくれるだろうという部分があるのでしょう。だから、思い切って破壊できる。一方で、俳句はそういう安心をしづらい部分があるのではないかと思います。本気で破壊しようとしたら、本当に崩れ落ちてしまうのではないか、と。

                                   杞憂だとは頭でわかっていても、なかなかできないのでしょう。こう言っていて、本当に杞憂なのかな、なんて不安がよぎりもしてしまいますし。そして、そういう不安を蹴散らして破壊をしようとする人がいても、今度は周りが臆病だから、必要以上に批判したり、あるいは無視したり、俳句の枠組みの外に出そうとしたりしてしまうのかもしれません。そういう原因としては、俳句に携わる絶対的な人数が少ない、などといったことが挙げられるのでしょうか。

                                   俳句は藝術であるくせに、自らの枠組みの危うさを怯えてしまっている。そういう部分があるのかもしれませんね。そして、それが藝術としての弱さにつながっているのではないかな、なんて思ったりもします。弱さ、というのは、展開・発展の可能性を、自ら狭めてしまっているのではないか、というようなところでしょうか。

                                   もっと、様々な独断と偏見が、いま現在の俳句界に存在するであろう「俳句の評価」という枠組みとは関係ないところで堂々と林立すべきなのです。じゃないと、藝術としての面白さを俳句は捨ててしまうことになるのではないでしょうか。




                                  【短詩時評 十二時限目】〈遭遇〉するための現代川柳入門 飯島章友×柳本々々-きょう川柳を始めたいあなたの為に-


                                  【「これは17音の短歌だ」】

                                  柳本々々(以下、Y) どうもこんばんは、やぎもともともとです。前回、なかはられいこさん及びねじまき句会が発行している川柳誌『川柳ねじまき』を取り 上げたんですが、そもそも現代川柳の〈輪郭〉にはじめてわかりやすく・魅力的にふれることができたのが川柳を知り始めて間もない頃に手にとったなかはられいこさんの句集『脱衣場のアリス』(北冬舎、2001年)だったんですね。

                                  で、今でも現代川柳に〈遭遇〉するためのというか、ひとつの〈輪郭〉を知る際にこのなかはらさんの句集はとてもよいテキストになっているのではないかと思うんです。

                                  なかはらさんは『川柳ねじまき』第2号で自分は「川柳という言葉は知ってても実体は知らないひと」を「ぼんやりとだけど」読者として「想定している」と書かれていました。

                                  で、実際、なかはらさんの川柳って読むと川柳の〈実体〉のようなところが伝わってくる部分があるのかなって思うんです。それはどういうことかっていうと、 川柳の経験値がなくても、あれなんかこの表現おもしろいな、へんだな、なんだろうこれは、とある〈つまずき〉を与えてくれる。その〈つまずき〉が現代川柳 への誘い水というか、導入になるのではないかと思うんです。

                                  で、歌人及び川柳作家で評論も書かれている「かばん」の飯島章友さんが川柳誌『杜人』(第248号・2015年12月)の「短歌人格 vs 川柳人格」という記事においてこんなふうに書かれているんです(ちなみにこの記事は飯島さんが〈ひとり〉で〈対話〉する擬似対談記事になっている理由から 文体がくだけた口語体になっています)。

                                    二〇〇三年当時、東さん(引用者注:東直子)がマラリー(引用者注:マラソンリーディング)に出演するってん で、何人かのぷらむ会員で観にいったわけよ。そのとき、出演者のほとんどが歌人というなか、なかはられいこさんと倉富洋子さんが川柳ユニット「WE ARE !」として出演していて、川柳を朗読してたんだ。正直いうと、オレもそれまではご多分に漏れず、「川柳なんて定型を利用したダジャレだろ?」くらいに思っ ていたんだなぁ。ところが、二人の川柳は違っていた。「これは十七音の短歌だ」と直感したね。落差が大きかったぶん驚きもハンパなくて、それでまあ、作句 するかしないかはともかく、川柳って文芸を知りたくなったわけだ。
                                    (飯島章友「短歌人格 vs 川柳人格」『杜人』第248号・2015年12月)
                                  で、私も川柳に出会ったときって飯島さんのこの質感に近いんですが、つまり現代川柳に出会うまでは〈川柳なんて定型を利用したダジャレだろ?〉と思っていたわけなんですが、でも実際の現代川柳をみて、たとえばなかはらさんの句集を読んで、えっ、川柳でこんなこともしていいの!?  とショックを受けたりしたわけです。私は《17音の短歌》とは思わないで、なんだか寺山修司の不気味な俳句を《やりやすくしたかたち》が現代川柳だと 思ったんです。つまり《ぶきみでおいしいぶぶん》を抽出したというか。

                                  それでですね、きょうは飯島章友さんをゲストにお招きして、たとえば〈きょう〉こんなふうに〈いきなり〉現代川柳に〈遭遇〉できないかということを飯島さんにお話をうかがいながら模索してみたいと思うんです。〈川柳をまったく知らないひと〉があるひとつのかたちをとおして〈現代川柳をせっかちなかたちでも いいから輪郭だけでもつかめるようにすることができないか〉というのが今回の記事の趣旨です。うまくいくかどうかはわかりませんが、ひとつやってみる価値 があるような気がするんですね。

                                  で、飯島さんにお聞きしたいんですが、飯島さんはなかはらさんの川柳を「これは十七音の短歌だ」って「直感」されたと書かれているんですが、そこで飯島さんが川柳の魅力につかまってしまった理由をもう少し具体的にお話していただけますか。

                                  飯島章友(以下、I) マラソンリーディングでなかはられいこさんの川柳に接したとき、何かほどよい抒情性とほどよいヘンテコさが同居している感じがしました。

                                   〈ほどよい抒情生とほどよいヘンテコさの同居〉ってたしかに私が現代川柳に対してとても魅力的に感じている部分です。言ってみればそこに最大の魅力もあるのかもしれないなとすら思います。

                                  I はい。それはとても不思議な感覚でした。穂村弘さんの「ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり」と並べてもそう遠くない感覚といいますか。少なくとも当時はそう感じて川柳に親近感をいだきました。

                                   たしかに穂村さんの短歌ってふしぎなかたちで、抒情性とヘンテコさが混ざり合っていますよね。定型のなかでふしぎなバランスでそのふたつがまじりあってしまうことの魅力というか。

                                   加えて川柳という文芸は、俳句と同じ五七五形式でありながら季語が要らないらしいと。……自分、季節とか自然とか行事とかにあまり関わらないで育ってきたんで、当時は季語を近寄りがたい修辞と想っていたんですよ。

                                   わたしも季語って《こわいな》っていう超越的印象があるんですね。《おまえはなにもわかっていない》ってえりくびをつかま えられそうな感じが。アンタッチャブルな聖性を感じるというか。私の場合は過剰恐怖だとは思うのだけれど。ただ人類ぜんいんを相手にしているような感じが 季語にはあります。

                                   自分のばあい今では武蔵野を散策したり、地域の餅つきに積極的に参加するようになったからか知りませんが、季語への近寄りがたさは薄れた感じですね。むしろ今では敬意さえいだいているかも。短歌と俳句を比較したばあい、俳句には季語があるのでミーイズムの押し付けがましさを 回避しています……なーんて、俳句の場をお借りしてますので季語の良さも述べておこうと思いました(笑)。

                                   はい。季語ってすごくいろんなことを考える装置になっていますよね。俳句は、季語へのめいめいのスタンスが《そのまま》出る点がおもしろいなっていつも思います。

                                  I 話を戻しますね。まあそんな経緯があって、おお、川柳だったら自分みたいな人間でも馴染めるんじゃないか!? そんなふう に感じて川柳の魅力、蠱惑のようなものにひきつけられていったんだと記憶しています。川柳に対する先入見があっただけにギャップ萌えもあったんでしょう ね。

                                   ああ、たしかに〈ギャップ萌え〉っていうのはあるんですよね。さきほども述べたんだけれど、川柳でこんなことしていいの か、っていうのはとても大きなショックでした。川柳だとなんだか世間や社会の小さなかなしさやずっこけなんかを読まないといけないのかなって思っていたの で川柳はどこかで消費するもの、娯楽的にたのしんで忘却する文芸だと思ってたんです。でも、なんだか、胸にぐっと刺さるような忘れられない詩的川柳もやっていいのかっていう衝撃があって、しかもふたをあけてみたらそういう詩的川柳をされている方がすごくいっぱいいらっしゃった。それもびっくりしました。な にかふっと地下に降りていったら巨大な文明都市があったような感じで。

                                   巨大な文明都市があった、っていい表現ですね。その感覚を世間の方々にも味わっていただきたい。

                                   ショックっていうことで例えを言うならば、たとえばもう、なかはらさんのこの句集のタイトルそのものからしても私には ショックだったと思うんですよ。『脱衣場のアリス』というタイトルのように「アリス」って書いてあるけれど、これはルイス・キャロルの『不思議の国のアリ ス』を誰でも思い浮かべる。で、そのときに、この句集のタイトルをみて即座にわかるのが、あっ、これは〈文学志向〉の本なんだってことです。これは川柳の 句集なんだけれど、文学世界にとって何か重要な詩的関連の高いことが、あるいはあのアリスの世界の詩的感触に近いことが書いてあるかもしれないなとか。ま たそれだけでなく、〈脱衣場のアリス〉という〈ねじれ〉がそもそもさまざまな〈意味の憶測〉を呼び込んできますよね。なんでアリスが脱衣場にいるの? とか。セクシャルななにかなんだろうかとか、それとも身体的ななにかだろうかとか、それとも視線の問題なのかなとか、もしくはアリスを現代の日常的枠組みに おいたのかなとか。こういう句集のタイトルからも先ほどの飯島さんが書かれていたような〈短歌〉との親和性というか。そういうのがぱっとわかるようになっ ていたと思うんです。

                                  『川柳ねじまき』でも、「くちびるにウエハース」(なかはられいこ)、「いいのに」(二村鉄子)、「だけなのに」(三好光明)、「む くむく無」(青砥和子)、「かけたかも」(瀧村小奈生)などおもしろい連作タイトルの付け方がみられるんです。

                                   現代川柳って、私たちが日常で用いる言葉の論理性からは外れた言葉遣いをすることが多いでしょう?

                                   そうですね、なにか認識のチャンネルが次元がちがう感じがします。

                                   常識からいえばまず関係しえないAとBを同じ文脈で結びつけちゃう。それが『不思議の国のアリス』の詩的感触、つまりファンタジー世界の非論理性とつながってくるんだと思います。

                                   あ、なるほど。ちょっと〈こどものみている世界〉にも近いですよね。まだ理性的分節をしていない、えーっ、そんなものとそんなものをくっつけてしまうんだというか。

                                   〈脱衣場〉もおなじです。川柳は昔から、私たちの日常的な観念=衣服を脱いでみる文芸です。ですから川柳で日常的な観念をそのまま描いてもなかなか佳句とはならない。むしろ日常的な観念=衣服を取り払ってこそ〈驚異〉が生まれ、佳句となる。これは短歌も同じですよね。日常的 観念=衣服を脱ぐといっても、短歌のばあいは見えそで見えない程度の情緒が好まれるんですが、川柳のばあいはバッと脱ぎ捨てちゃっても受け入れられる。そんな体質の違いはあるかもしれませんね。

                                   だから飯島さんがおっしゃった「驚異」という言葉のように川柳って世代おかまいなしにみんな〈大胆〉なんですよね。みんな 詩的跳躍力がすごくて。なにかだいたんな、ふだんではできそうもないジャンプをする。それも私が思う川柳のふしぎな魅力になっています。しかも飯島さんが 今おっしゃったように、〈脱衣場〉でそれは行われているというか、日常と地続きで、日常と地続きでありながらのスーパージャンプなんですよ。ただ考えてみ れば、衣服を脱ぎ去るって〈飛躍〉ですよね、いつも。ひとは社会にいるとき、裸にはならないから。ひとが服を脱ぐときっていろんなシーンがあると思うけれど、境界線をふみこえるとき、これから〈飛躍〉をするときもある。別に性的じゃなくたって、手術とかもそうですよね。お風呂も儀礼的な行為だし。その意味 でも〈脱衣場〉って川柳にとっては意味深長ですね。

                                  【脱衣場でする悪いこと】

                                   で、ですね。少し具体的にじゃあどんなことが現代川柳では語ることができるの? ということで、なにかまったく現代川柳を始めたことのないひとが、今 すぐきょう川柳をつくりたいときにどんなことから始めることができるのか、どんなことが書けるのか、それについてなかはらさんの句集から私の〈偏向〉がか なり掛かったものではあるけれど、10のトピックとそれに関連する句を掲げてみました。現代川柳では〈こんなことしていい〉というのをコンセプトに私の視 点から選んでみています。

                                  【① 悪いひとのままでいい】

                                   秋風や身体に悪いことしたい  なかはられいこ

                                  【② 死について考えていい】

                                   コピー機が一瞬光り私の死  〃

                                  【③ 変なひとのままでいい】

                                   記録的涙のあとの鮭茶漬け  〃

                                  【④ 時々いなくなっていい】

                                   口笛に呼ばれて月へ行ったきり  〃

                                  【⑤ 愛について語っていい】

                                   こいびとをくくるおおきなかぎかっこ  〃

                                  【⑥ 暴走してもそれでいい】

                                   ペガサスを産む18ページ後方で  〃

                                  【⑦ 身体をいじってもいい】

                                   ひとつずつ崩す頭の中の塔  〃

                                  【⑧ 負けてしまってもいい】

                                   げんじつはキウイの種に負けている  〃

                                  【⑨ ちがうあなたでもいい】

                                   手袋をはめる わたしも暗殺者  〃

                                  【⑩ そのままの貴方でいい】

                                   君と僕 名を呼ぶときに吃りあう  〃

                                  これは私が個人的にトピックとして掲げてそれに近い句を選出したものなんですが、現代川柳って自分にとってはすごく自由な空間 で、そのなかで、幻想的なこともできるし、不健康なこともできるし、不気味なこともできるし、自分がふだん制約している認識の拘束具をはずして、ある意味で、〈認識の暴走〉ができてしまうのが現代川柳だとおもうんですね。ちなみにこの10のトピックをあげながら私ちょっと、あれ、これ、岡崎京子さんのマン ガみたいだな、岡崎京子漫画にもそのままあてはまるトピックなんじゃないかなとも思ったんですよね。これは蛇足なんだけれども、現代川柳って岡崎京子漫画 にも近いところがあるのかなって(ちなみに川柳をやっておられる方はなぜか絵を描いておられる方が多いんです)。で、まあともかくそんなふうに私の偏向が 多分にかかっているトピックになっていると思うんですが、飯島さんはこれを見られてなにか気になるトピックや感じられたことがありましたらお話をうかがいたいんですが。

                                   どれも現在の社会では表立って肯定できない価値ですよね。

                                  Y そうですね(笑)。

                                  I たとえば①とか③とか④は、昔ならある程度許容されたり面白がられていたと思うんです。たとえば①。ちょっと柳本さんのいう文学的な感触としての「悪いひと」とレベルが違ってくるので恐縮ですが、昔は的屋が地域共同体の縁日を取り仕切っていましたよね。あと煙草を吸っている 悪ガキがいたら「バカヤロ! 俺みたいになっちまうぞ」、と教育したかどうかは知りませんが、まあとにかく堅気でない人たちに役割とか存在意義があったと思うんですね。③や④もそうです。また的屋の話になってしまいますけど、これは「男はつらいよ」の寅さんでしょう。いきなり共同体に帰ってきたと思ったらまたいつの間にか出ていっちゃう。変な人なんです。でもだからこそ普通の人には相談できないことを話せたり、恋のキューピットになってもらうことも可能なんだと思います。

                                   あっ、そうですね。寅さんみたいに共同体の外にいるひとだから、社会や世間のかたまった価値をぐるぐるかきまぜて新しい価 値をうみだすことができるっていうのはありますね。別に共同体のはじっこにいても、そこから共同体におおきく参与することができる。むしろ生み出せる価値 はある。たとえばこういうことは宮崎駿監督のアニメでたびたび起きていますね。『崖の上のポニョ』では海からポニョがやってきたり、『天空の城ラピュタ』 ではシータが空から降ってくる。『魔女の宅急便』や『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』では、キキやアシタカや千尋が新しい土地に踏み込んでいく。

                                  I ところが今は、〈みんな善い人であれ〉という一律的な圧力が強まって、人間の毒というものが許されない時代になっているのではないか。

                                   〈炎上〉が鍵となる〈監視社会〉的になってきてますよね。ただその〈炎上〉も〈自己責任論〉的というか、炎上するとなかなか誰も助けてくれない部分がある。ところが定型で不健全なことをいうと、定型が守ってくれるみたいなところはありますね。あくまで詩なので。また震災以降 の〈自粛〉という精神モードも今でも根強いのかなと思います。

                                   目に見える範囲内から毒が消えて暮らしやすくなったという意見も多いのでしょうが、社会の潔癖症に息苦しさを感じるという意見もあると思うんです。だから川柳という自由空間が何ほどか余白になればいいと思いますけどね。

                                  Y そういうのはあると思いますね。私はこんなことをいうと川柳をそんなふうに使うなと怒られるかもしれないけれど、すごく現 代川柳に救われた部分はありました。負の価値観も肯定してくれるというか。もちろん定型詩なので多くは語ってくれないのだけれど、だからこそ自分でその後のことを考えることができたっていうか。

                                  I なるほど。正の価値観と負の価値観、ひとまずその両極を引き受けなければ何が正で何が負かも分からなくなってしまいます。あ、ここまでの話に誤解があるといけないんで念のため申し上げますが、過去が素晴らしかったなんて言いたいわけではないんです。

                                   ええ、そうですね。悪や不健全さは、悪や不健全さそのものとして考えなければいけないところがある。

                                   昔は昔でその時代なりの世知辛い状況があったわけです。柳本さんの挙げてくださったトピックは、現代社会であらわになっている世知辛い状況を踏まえたうえで、これから川柳の世界にくる人たちへ語りかけているように思えます。現実ではいろいろあるかもしれないけど、川柳という 〈不思議の国〉でなら「ちがうあなたでもいい」「そのままの貴方でいい」とね。そんな感じがしました。

                                   はい。なにかこうへんにねじれた場所に閉じこめられても、まだ〈抜け道〉があるよ、って感じですね。「まだ奥があるよ」というか。それを川柳はおしえてくれる。ちょっと川柳を肯定しすぎかもしれないけれど、あえて肯定してみるとして。

                                   あともう一言つけ加えますと、本当に日常を知るためには日常の論理とは違う〈不思議の国=川柳〉で遊んだあと、再帰的に日常へ戻った方がいいと思うんです。

                                  Y そういう現実を〈異化〉して、ふだんとは異なるものとしてみることで、もういちど違ったかたちで現実をとらえたり、生き直したりできますよね。

                                  I まあそれは芝居や音楽、美術といった表現世界でも同じことが言えると思うんですが、川柳のばあい通勤・通学時間でもスマホへ打ちこんで作句できますし、お手軽ですよね。

                                   たしかに短詩のよさってそこもありますね。いまこのしゅんかんだけで〈完結〉できるというか。

                                  〈完結〉することで、つぎの ちがったしゅんかんが生まれる。そのしゅんかんもまたすぐ〈完結〉できる。本を一冊読了することのきもちよさというか健全さみたいなものが短詩ってあるのかなあって思いますね。わたしでもなにかをうんだりつくったりすることができる、という〈完結的健全さ〉というか。ひとってともかく〈完成〉させることってすごく健康的だと思うんですよね。それは勉強でも仕事でも運動でも料理でも家事でもなんでもそうだと思うんですが、短詩って完結させられることの健全 さってあるのかなって思います。

                                  【現代川柳へのアクセス】

                                  I ところで、自分も少し柳本さんにお訊きしたいことがありますが、よろしいでしょうか? というのも、なかはられいこさんの話をしながら思い出したこと があるんです。自分は2003年になかはらさんらを通じて短詩としての川柳を知るに至ったあと、自分に合った川柳誌を見つけようと思って、インターネット で気になる川柳作家を検索したり、川柳アンソロジーを買ってみたりしたんです。ところが、どうも自分は手際が悪くてなかなか見つけることができませんでし た。柳本さんは自分に適した川柳誌なり川柳グループにたどりつくにはどういった方法がいちばんいいと思いますか?

                                   私は現代川柳を知ったのが、倉阪鬼一郎さんの『怖い俳句』(幻冬舎新書、2012年)という新書だったんですよ。この本、すごくおもしろい本でして、ほとんどが俳句なんですが、「自由律と現代川柳」という章があって川柳も紹介されているんですね。そこで、

                                    首をもちあげると生きていた女  時実新子

                                    指で輪を作ると見える霊柩車  石部明

                                    蛇口からしばらく誰も出てこない  草地豊子

                                    目と鼻をまだいただいておりません  広瀬ちえみ

                                    三角形のどの角からも死が匂う  樋口由紀子

                                    処刑場みんなにこにこしているね  小池正博

                                  が紹介されていた。で、これを読んだときに、これはなんだかおもしろい、なんだか自分が今まで知らなかった世界がここにはあると思って、たとえば「小池正博」ってネットで検索したわけです。そうすると、誰かがもうすでに小池さんの句を紹介している。それから小池さん以外の句も同 時に紹介していたりする。それで、あれっ、なんだか知らない世界があるぞっていうことですね。

                                  ありふれた言い方になるけれど、たぶんいまいちばん現代川柳を手軽に知るためには、《気になった川柳作家がいたらともかく一度検索!》なのかもしれませ ん。そうするとかならず、だれかが紹介しています(誰かのことが気になるっていうことは、誰かももう気にしているっていうことです)。そうするとその川柳 作家に似た作風の川柳もそこで紹介されていたりします。すると、芋づる式に現代川柳の〈りんかく〉がわかってくる。そういうふうに、句集やアンソロジーを 〈買う〉というスタイルではなく(なかなか簡単には手に入らない現状もあるので)、自分でさがしながら、自分の分節や感性で現代川柳の《じぶんだけのアンソロジー》をつくっていく。それも最初の段階ではありなのかなあっておもいます。

                                   自分も気になった川柳作家のことを検索していたら、笹井宏之さんのブログで畑美樹さん、樋口由紀子さん、大西泰世さんの句が引用されていて驚いた思い出があります。また石部明さんのブログからは現代川柳の〈りんかく〉を教えていただけた感じです。

                                   川柳のいいところは、一句で完結しているところですから、好きな作家の好きな一句を持ち歩くっていうただそれだけでもいい と思うんですよ、最初は。その一句のようにじぶんもつくってみるとか。で、本格的にやりたいとなったら、じぶんがいちばんすきな作家の句集を手にいれてみ る。これはたとえばおそれずに出版社にアクセスするとあんがいふつうに売ってくださるということがありますよね。そこはびくびくしないで本当に自分が読み たかったら迷惑のかからない範囲で動いてみるのもありなのかなあって思います。

                                  もしくはやっぱりAmazonなんですが、これはめちゃくちゃ〈不当〉な値段になっている場合があり、作家ほんにんも「なんでこんな値段に?」とおどろいている場合があります。だからおすすめできたりできなかったりする。

                                  どうしても読みたいときはたとえば国会図書館という手もありますが、まず遠方になってしまう場合があることや、実は国会図書館にもおいていない句集って けっこうあるんです。川柳に関しては国会図書館でもない本がたくさんある。だから、いま、川柳をさがすって、トレジャーなんですね。ひとつの。『ONE PIECE』みたいな。それでもずっと手にいれたいと思っていると、いつかは手にはいる。それくらい川柳の世界ってウェルカムというか、熱心なひとには向 こう側から手をさしのべてくれる世界でもあるようなきがするんです(と、思ったんです、ここ数年で)。ぜひ読みたいと熱心に思うひとには、たぶんそのひと の言葉が届く。

                                  ちなみにですね、たとえば検索すればすぐ出てきますが、「あざみエージェント」だとサイトで句集が買いやすいというか手に入りやすいし、川柳を今まで読んだことのないひとでも読んでおもしろい句集がいっぱいおいてありますね。

                                   「あざみエージェント」は自分も重宝しています。文庫本サイズでわずか40ページのミニ句集もあります。

                                   また「おかじょうき 川柳」で検索すれば出てきますが、おかじょうき川柳社のサイトには「川柳データベース」というものが あるのでたくさんの現代川柳が登録されていますので、好きなことばで検索してみるといろいろおもしろい句がでてきますよ。私は「おかじょうき」に所属して いるのですが、ふしぎでおもしろい句をつくる方たちがたくさんいます。私は東京からこの青森の川柳社に所属しているのですが、そういうのも川柳の世界では たぶんありなんだと思います。「おかじょうき」だとネットで投句ができるのでそこもいいのかなって思います。

                                  I なるほど。いまはゼロ年代のときよりも川柳グループのホームページや川柳作家のブログ、SNSが格段に増えたと思います。ネットを有効活用すれば自分に適した川柳の場所を見つけやすいでしょうね。

                                   そうですね、作家名で検索すれば、誰かのブログやサイトが出てくるので、そこでおびただしい現代川柳に出会えると思いますね。ところでもし読みやすいおすすめの川柳アンソロジーが書籍媒体であればご紹介してほしいのですが。

                                  I そうですね。川柳アンソロジーについても参考までに言及しておきましょう。自分が川柳を知るために活用したアンソロジーは主に以下の書籍です。

                                   ・『現代川柳の精鋭たち 28人集─21世紀へ』北宋社、2000年
                                   ・『新世紀の現代川柳20人集』北宋社、2001年
                                   ・田口麦彦『現代川柳鑑賞事典』三省堂、2004年
                                   ・田口麦彦『現代女流川柳鑑賞事典』三省堂、2006年

                                  幅広くいろいろなスタイルの川柳作家を見てみたいばあいは田口麦彦さんの二冊がお勧めです。

                                   この事典は文庫サイズのコンパクトな大きさで、しかもものすごい量の川柳が入っていますよね。好きな作家がきっと見つかるでしょう。

                                   逆に2000年当時、表現の最前線に立っていた川柳作家に絞ったアンソロジーを見たいなら北宋社の二冊がお勧めです。

                                   これはたしか荻原裕幸さんが解説を担当されていましたね。その意味で川柳と短歌とも関わりがあるんだなあって思いながら読んでいた思いがあります。実際なかはられいこさんの句集の最後の鼎談でも穂村弘さんが出てこられますよね。どこかではつながっていたはずなんですよね、歴 史のある時点で。交流が盛んだったというか。まあそれはともかくとして、アンソロジーで読んでみるとあるひとがある視点から構築された世界を享受できるの でいいかもしれませんね。

                                  あとはアンソロジーではないですが、川柳作家をピックアップしたシリーズでしかもソフトカバーで持ち歩いて読みやすいものに邑書林の『セレクション柳人』 というシリーズがあります。このシリーズには先ほどの石部明さん、草地豊子さん、広瀬ちえみさん、樋口由紀子さん、小池正博さんが入っています。

                                   川柳作家をピックアップしたシリーズですと『東奥文芸叢書 川柳』『川柳カード叢書』『かもめ舎川柳新書』なども思い浮かびます。

                                  ところでアンソロジーの特長を言いますと、各川柳作家の秀句とプロフィールが一冊にまとめられているところです。その点では個別の情報を渉猟しないといけ ないインターネットより効率的です。ただし上で紹介した四冊は十年以上前のアンソロジーです。当然、作家の略歴に記された所属グループなどは現在と違って いることも多いわけです。ですから気になる作家を見つけたら、きちんとインターネットで最新の情報を調べる必要がありますね。また日々新しい書き手が現れていますので、いま〈旬〉の作家さんはまだ掲載されていなかったりします。

                                   その意味では、なかはられいこさん編の『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳③ なやみと力』がゆまに書房から今年の3月に出るそうなのでこれも川柳アンソロジーとして楽しみな本です。「なやみと力」というサブタイトルもなにか新しい 現代川柳の視点を予期するものです。そんなふうに世界というか大陸は構築されているのに、国境というか境界線の引き方はまだまだ未開拓でたくさんの冒険が できるのも現代川柳のひとつの魅力なのかなあと思うんですね。きょうは長い時間、お話につきあっていただきましてありがとうございました。最後に飯島さんから自選句を五句ご紹介していただき今回のお話を終わりにしようと思います。お読みくださったみなさん、ありがとうございました。

                                  【飯島章友さんの自選句五句】


                                  成長痛増しゆく夜を天球儀 
                                  Re:がつづく奥に埋もれている遺体 
                                  パイ包み割ると匿名掲示板 
                                  鍵穴に入れる双子の兄の耳 
                                  ほらここにふらここがあるバイカル湖