【「これは17音の短歌だ」】
柳本々々(以下、Y) どうもこんばんは、やぎもともともとです。前回、なかはられいこさん及びねじまき句会が発行している川柳誌『川柳ねじまき』を取り 上げたんですが、そもそも現代川柳の〈輪郭〉にはじめてわかりやすく・魅力的にふれることができたのが川柳を知り始めて間もない頃に手にとったなかはられいこさんの句集『脱衣場のアリス』(北冬舎、2001年)だったんですね。
で、今でも現代川柳に〈遭遇〉するためのというか、ひとつの〈輪郭〉を知る際にこのなかはらさんの句集はとてもよいテキストになっているのではないかと思うんです。
なかはらさんは『川柳ねじまき』第2号で自分は「川柳という言葉は知ってても実体は知らないひと」を「ぼんやりとだけど」読者として「想定している」と書かれていました。
で、実際、なかはらさんの川柳って読むと川柳の〈実体〉のようなところが伝わってくる部分があるのかなって思うんです。それはどういうことかっていうと、 川柳の経験値がなくても、あれなんかこの表現おもしろいな、へんだな、なんだろうこれは、とある〈つまずき〉を与えてくれる。その〈つまずき〉が現代川柳 への誘い水というか、導入になるのではないかと思うんです。
で、歌人及び川柳作家で評論も書かれている「かばん」の飯島章友さんが川柳誌『杜人』(第248号・2015年12月)の「短歌人格 vs 川柳人格」という記事においてこんなふうに書かれているんです(ちなみにこの記事は飯島さんが〈ひとり〉で〈対話〉する擬似対談記事になっている理由から 文体がくだけた口語体になっています)。
二〇〇三年当時、東さん(引用者注:東直子)がマラリー(引用者注:マラソンリーディング)に出演するってん で、何人かのぷらむ会員で観にいったわけよ。そのとき、出演者のほとんどが歌人というなか、なかはられいこさんと倉富洋子さんが川柳ユニット「WE ARE !」として出演していて、川柳を朗読してたんだ。正直いうと、オレもそれまではご多分に漏れず、「川柳なんて定型を利用したダジャレだろ?」くらいに思っ ていたんだなぁ。ところが、二人の川柳は違っていた。「これは十七音の短歌だ」と直感したね。落差が大きかったぶん驚きもハンパなくて、それでまあ、作句 するかしないかはともかく、川柳って文芸を知りたくなったわけだ。で、私も川柳に出会ったときって飯島さんのこの質感に近いんですが、つまり現代川柳に出会うまでは〈川柳なんて定型を利用したダジャレだろ?〉と思っていたわけなんですが、でも実際の現代川柳をみて、たとえばなかはらさんの句集を読んで、えっ、川柳でこんなこともしていいの!? とショックを受けたりしたわけです。私は《17音の短歌》とは思わないで、なんだか寺山修司の不気味な俳句を《やりやすくしたかたち》が現代川柳だと 思ったんです。つまり《ぶきみでおいしいぶぶん》を抽出したというか。
(飯島章友「短歌人格 vs 川柳人格」『杜人』第248号・2015年12月)
それでですね、きょうは飯島章友さんをゲストにお招きして、たとえば〈きょう〉こんなふうに〈いきなり〉現代川柳に〈遭遇〉できないかということを飯島さんにお話をうかがいながら模索してみたいと思うんです。〈川柳をまったく知らないひと〉があるひとつのかたちをとおして〈現代川柳をせっかちなかたちでも いいから輪郭だけでもつかめるようにすることができないか〉というのが今回の記事の趣旨です。うまくいくかどうかはわかりませんが、ひとつやってみる価値 があるような気がするんですね。
で、飯島さんにお聞きしたいんですが、飯島さんはなかはらさんの川柳を「これは十七音の短歌だ」って「直感」されたと書かれているんですが、そこで飯島さんが川柳の魅力につかまってしまった理由をもう少し具体的にお話していただけますか。
飯島章友(以下、I) マラソンリーディングでなかはられいこさんの川柳に接したとき、何かほどよい抒情性とほどよいヘンテコさが同居している感じがしました。
Y 〈ほどよい抒情生とほどよいヘンテコさの同居〉ってたしかに私が現代川柳に対してとても魅力的に感じている部分です。言ってみればそこに最大の魅力もあるのかもしれないなとすら思います。
I はい。それはとても不思議な感覚でした。穂村弘さんの「ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり」と並べてもそう遠くない感覚といいますか。少なくとも当時はそう感じて川柳に親近感をいだきました。
Y たしかに穂村さんの短歌ってふしぎなかたちで、抒情性とヘンテコさが混ざり合っていますよね。定型のなかでふしぎなバランスでそのふたつがまじりあってしまうことの魅力というか。
I 加えて川柳という文芸は、俳句と同じ五七五形式でありながら季語が要らないらしいと。……自分、季節とか自然とか行事とかにあまり関わらないで育ってきたんで、当時は季語を近寄りがたい修辞と想っていたんですよ。
Y わたしも季語って《こわいな》っていう超越的印象があるんですね。《おまえはなにもわかっていない》ってえりくびをつかま えられそうな感じが。アンタッチャブルな聖性を感じるというか。私の場合は過剰恐怖だとは思うのだけれど。ただ人類ぜんいんを相手にしているような感じが 季語にはあります。
I 自分のばあい今では武蔵野を散策したり、地域の餅つきに積極的に参加するようになったからか知りませんが、季語への近寄りがたさは薄れた感じですね。むしろ今では敬意さえいだいているかも。短歌と俳句を比較したばあい、俳句には季語があるのでミーイズムの押し付けがましさを 回避しています……なーんて、俳句の場をお借りしてますので季語の良さも述べておこうと思いました(笑)。
Y はい。季語ってすごくいろんなことを考える装置になっていますよね。俳句は、季語へのめいめいのスタンスが《そのまま》出る点がおもしろいなっていつも思います。
I 話を戻しますね。まあそんな経緯があって、おお、川柳だったら自分みたいな人間でも馴染めるんじゃないか!? そんなふう に感じて川柳の魅力、蠱惑のようなものにひきつけられていったんだと記憶しています。川柳に対する先入見があっただけにギャップ萌えもあったんでしょう ね。
Y ああ、たしかに〈ギャップ萌え〉っていうのはあるんですよね。さきほども述べたんだけれど、川柳でこんなことしていいの か、っていうのはとても大きなショックでした。川柳だとなんだか世間や社会の小さなかなしさやずっこけなんかを読まないといけないのかなって思っていたの で川柳はどこかで消費するもの、娯楽的にたのしんで忘却する文芸だと思ってたんです。でも、なんだか、胸にぐっと刺さるような忘れられない詩的川柳もやっていいのかっていう衝撃があって、しかもふたをあけてみたらそういう詩的川柳をされている方がすごくいっぱいいらっしゃった。それもびっくりしました。な にかふっと地下に降りていったら巨大な文明都市があったような感じで。
I 巨大な文明都市があった、っていい表現ですね。その感覚を世間の方々にも味わっていただきたい。
Y ショックっていうことで例えを言うならば、たとえばもう、なかはらさんのこの句集のタイトルそのものからしても私には ショックだったと思うんですよ。『脱衣場のアリス』というタイトルのように「アリス」って書いてあるけれど、これはルイス・キャロルの『不思議の国のアリ ス』を誰でも思い浮かべる。で、そのときに、この句集のタイトルをみて即座にわかるのが、あっ、これは〈文学志向〉の本なんだってことです。これは川柳の 句集なんだけれど、文学世界にとって何か重要な詩的関連の高いことが、あるいはあのアリスの世界の詩的感触に近いことが書いてあるかもしれないなとか。ま たそれだけでなく、〈脱衣場のアリス〉という〈ねじれ〉がそもそもさまざまな〈意味の憶測〉を呼び込んできますよね。なんでアリスが脱衣場にいるの? とか。セクシャルななにかなんだろうかとか、それとも身体的ななにかだろうかとか、それとも視線の問題なのかなとか、もしくはアリスを現代の日常的枠組みに おいたのかなとか。こういう句集のタイトルからも先ほどの飯島さんが書かれていたような〈短歌〉との親和性というか。そういうのがぱっとわかるようになっ ていたと思うんです。
『川柳ねじまき』でも、「くちびるにウエハース」(なかはられいこ)、「いいのに」(二村鉄子)、「だけなのに」(三好光明)、「む くむく無」(青砥和子)、「かけたかも」(瀧村小奈生)などおもしろい連作タイトルの付け方がみられるんです。
I 現代川柳って、私たちが日常で用いる言葉の論理性からは外れた言葉遣いをすることが多いでしょう?
Y そうですね、なにか認識のチャンネルが次元がちがう感じがします。
I 常識からいえばまず関係しえないAとBを同じ文脈で結びつけちゃう。それが『不思議の国のアリス』の詩的感触、つまりファンタジー世界の非論理性とつながってくるんだと思います。
Y あ、なるほど。ちょっと〈こどものみている世界〉にも近いですよね。まだ理性的分節をしていない、えーっ、そんなものとそんなものをくっつけてしまうんだというか。
I 〈脱衣場〉もおなじです。川柳は昔から、私たちの日常的な観念=衣服を脱いでみる文芸です。ですから川柳で日常的な観念をそのまま描いてもなかなか佳句とはならない。むしろ日常的な観念=衣服を取り払ってこそ〈驚異〉が生まれ、佳句となる。これは短歌も同じですよね。日常的 観念=衣服を脱ぐといっても、短歌のばあいは見えそで見えない程度の情緒が好まれるんですが、川柳のばあいはバッと脱ぎ捨てちゃっても受け入れられる。そんな体質の違いはあるかもしれませんね。
Y だから飯島さんがおっしゃった「驚異」という言葉のように川柳って世代おかまいなしにみんな〈大胆〉なんですよね。みんな 詩的跳躍力がすごくて。なにかだいたんな、ふだんではできそうもないジャンプをする。それも私が思う川柳のふしぎな魅力になっています。しかも飯島さんが 今おっしゃったように、〈脱衣場〉でそれは行われているというか、日常と地続きで、日常と地続きでありながらのスーパージャンプなんですよ。ただ考えてみ れば、衣服を脱ぎ去るって〈飛躍〉ですよね、いつも。ひとは社会にいるとき、裸にはならないから。ひとが服を脱ぐときっていろんなシーンがあると思うけれど、境界線をふみこえるとき、これから〈飛躍〉をするときもある。別に性的じゃなくたって、手術とかもそうですよね。お風呂も儀礼的な行為だし。その意味 でも〈脱衣場〉って川柳にとっては意味深長ですね。
【脱衣場でする悪いこと】
Y で、ですね。少し具体的にじゃあどんなことが現代川柳では語ることができるの? ということで、なにかまったく現代川柳を始めたことのないひとが、今 すぐきょう川柳をつくりたいときにどんなことから始めることができるのか、どんなことが書けるのか、それについてなかはらさんの句集から私の〈偏向〉がか なり掛かったものではあるけれど、10のトピックとそれに関連する句を掲げてみました。現代川柳では〈こんなことしていい〉というのをコンセプトに私の視 点から選んでみています。
【① 悪いひとのままでいい】
秋風や身体に悪いことしたい なかはられいこ
【② 死について考えていい】
コピー機が一瞬光り私の死 〃
【③ 変なひとのままでいい】
記録的涙のあとの鮭茶漬け 〃
【④ 時々いなくなっていい】
口笛に呼ばれて月へ行ったきり 〃
【⑤ 愛について語っていい】
こいびとをくくるおおきなかぎかっこ 〃
【⑥ 暴走してもそれでいい】
ペガサスを産む18ページ後方で 〃
【⑦ 身体をいじってもいい】
ひとつずつ崩す頭の中の塔 〃
【⑧ 負けてしまってもいい】
げんじつはキウイの種に負けている 〃
【⑨ ちがうあなたでもいい】
手袋をはめる わたしも暗殺者 〃
【⑩ そのままの貴方でいい】
君と僕 名を呼ぶときに吃りあう 〃
これは私が個人的にトピックとして掲げてそれに近い句を選出したものなんですが、現代川柳って自分にとってはすごく自由な空間 で、そのなかで、幻想的なこともできるし、不健康なこともできるし、不気味なこともできるし、自分がふだん制約している認識の拘束具をはずして、ある意味で、〈認識の暴走〉ができてしまうのが現代川柳だとおもうんですね。ちなみにこの10のトピックをあげながら私ちょっと、あれ、これ、岡崎京子さんのマン ガみたいだな、岡崎京子漫画にもそのままあてはまるトピックなんじゃないかなとも思ったんですよね。これは蛇足なんだけれども、現代川柳って岡崎京子漫画 にも近いところがあるのかなって(ちなみに川柳をやっておられる方はなぜか絵を描いておられる方が多いんです)。で、まあともかくそんなふうに私の偏向が 多分にかかっているトピックになっていると思うんですが、飯島さんはこれを見られてなにか気になるトピックや感じられたことがありましたらお話をうかがいたいんですが。
I どれも現在の社会では表立って肯定できない価値ですよね。
Y そうですね(笑)。
I たとえば①とか③とか④は、昔ならある程度許容されたり面白がられていたと思うんです。たとえば①。ちょっと柳本さんのいう文学的な感触としての「悪いひと」とレベルが違ってくるので恐縮ですが、昔は的屋が地域共同体の縁日を取り仕切っていましたよね。あと煙草を吸っている 悪ガキがいたら「バカヤロ! 俺みたいになっちまうぞ」、と教育したかどうかは知りませんが、まあとにかく堅気でない人たちに役割とか存在意義があったと思うんですね。③や④もそうです。また的屋の話になってしまいますけど、これは「男はつらいよ」の寅さんでしょう。いきなり共同体に帰ってきたと思ったらまたいつの間にか出ていっちゃう。変な人なんです。でもだからこそ普通の人には相談できないことを話せたり、恋のキューピットになってもらうことも可能なんだと思います。
Y あっ、そうですね。寅さんみたいに共同体の外にいるひとだから、社会や世間のかたまった価値をぐるぐるかきまぜて新しい価 値をうみだすことができるっていうのはありますね。別に共同体のはじっこにいても、そこから共同体におおきく参与することができる。むしろ生み出せる価値 はある。たとえばこういうことは宮崎駿監督のアニメでたびたび起きていますね。『崖の上のポニョ』では海からポニョがやってきたり、『天空の城ラピュタ』 ではシータが空から降ってくる。『魔女の宅急便』や『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』では、キキやアシタカや千尋が新しい土地に踏み込んでいく。
I ところが今は、〈みんな善い人であれ〉という一律的な圧力が強まって、人間の毒というものが許されない時代になっているのではないか。
Y 〈炎上〉が鍵となる〈監視社会〉的になってきてますよね。ただその〈炎上〉も〈自己責任論〉的というか、炎上するとなかなか誰も助けてくれない部分がある。ところが定型で不健全なことをいうと、定型が守ってくれるみたいなところはありますね。あくまで詩なので。また震災以降 の〈自粛〉という精神モードも今でも根強いのかなと思います。
I 目に見える範囲内から毒が消えて暮らしやすくなったという意見も多いのでしょうが、社会の潔癖症に息苦しさを感じるという意見もあると思うんです。だから川柳という自由空間が何ほどか余白になればいいと思いますけどね。
Y そういうのはあると思いますね。私はこんなことをいうと川柳をそんなふうに使うなと怒られるかもしれないけれど、すごく現 代川柳に救われた部分はありました。負の価値観も肯定してくれるというか。もちろん定型詩なので多くは語ってくれないのだけれど、だからこそ自分でその後のことを考えることができたっていうか。
I なるほど。正の価値観と負の価値観、ひとまずその両極を引き受けなければ何が正で何が負かも分からなくなってしまいます。あ、ここまでの話に誤解があるといけないんで念のため申し上げますが、過去が素晴らしかったなんて言いたいわけではないんです。
Y ええ、そうですね。悪や不健全さは、悪や不健全さそのものとして考えなければいけないところがある。
I 昔は昔でその時代なりの世知辛い状況があったわけです。柳本さんの挙げてくださったトピックは、現代社会であらわになっている世知辛い状況を踏まえたうえで、これから川柳の世界にくる人たちへ語りかけているように思えます。現実ではいろいろあるかもしれないけど、川柳という 〈不思議の国〉でなら「ちがうあなたでもいい」「そのままの貴方でいい」とね。そんな感じがしました。
Y はい。なにかこうへんにねじれた場所に閉じこめられても、まだ〈抜け道〉があるよ、って感じですね。「まだ奥があるよ」というか。それを川柳はおしえてくれる。ちょっと川柳を肯定しすぎかもしれないけれど、あえて肯定してみるとして。
I あともう一言つけ加えますと、本当に日常を知るためには日常の論理とは違う〈不思議の国=川柳〉で遊んだあと、再帰的に日常へ戻った方がいいと思うんです。
Y そういう現実を〈異化〉して、ふだんとは異なるものとしてみることで、もういちど違ったかたちで現実をとらえたり、生き直したりできますよね。
I まあそれは芝居や音楽、美術といった表現世界でも同じことが言えると思うんですが、川柳のばあい通勤・通学時間でもスマホへ打ちこんで作句できますし、お手軽ですよね。
Y たしかに短詩のよさってそこもありますね。いまこのしゅんかんだけで〈完結〉できるというか。
〈完結〉することで、つぎの ちがったしゅんかんが生まれる。そのしゅんかんもまたすぐ〈完結〉できる。本を一冊読了することのきもちよさというか健全さみたいなものが短詩ってあるのかなあって思いますね。わたしでもなにかをうんだりつくったりすることができる、という〈完結的健全さ〉というか。ひとってともかく〈完成〉させることってすごく健康的だと思うんですよね。それは勉強でも仕事でも運動でも料理でも家事でもなんでもそうだと思うんですが、短詩って完結させられることの健全 さってあるのかなって思います。
【現代川柳へのアクセス】
I ところで、自分も少し柳本さんにお訊きしたいことがありますが、よろしいでしょうか? というのも、なかはられいこさんの話をしながら思い出したこと があるんです。自分は2003年になかはらさんらを通じて短詩としての川柳を知るに至ったあと、自分に合った川柳誌を見つけようと思って、インターネット で気になる川柳作家を検索したり、川柳アンソロジーを買ってみたりしたんです。ところが、どうも自分は手際が悪くてなかなか見つけることができませんでし た。柳本さんは自分に適した川柳誌なり川柳グループにたどりつくにはどういった方法がいちばんいいと思いますか?
Y 私は現代川柳を知ったのが、倉阪鬼一郎さんの『怖い俳句』(幻冬舎新書、2012年)という新書だったんですよ。この本、すごくおもしろい本でして、ほとんどが俳句なんですが、「自由律と現代川柳」という章があって川柳も紹介されているんですね。そこで、
首をもちあげると生きていた女 時実新子
指で輪を作ると見える霊柩車 石部明
蛇口からしばらく誰も出てこない 草地豊子
目と鼻をまだいただいておりません 広瀬ちえみ
三角形のどの角からも死が匂う 樋口由紀子
処刑場みんなにこにこしているね 小池正博
が紹介されていた。で、これを読んだときに、これはなんだかおもしろい、なんだか自分が今まで知らなかった世界がここにはあると思って、たとえば「小池正博」ってネットで検索したわけです。そうすると、誰かがもうすでに小池さんの句を紹介している。それから小池さん以外の句も同 時に紹介していたりする。それで、あれっ、なんだか知らない世界があるぞっていうことですね。
ありふれた言い方になるけれど、たぶんいまいちばん現代川柳を手軽に知るためには、《気になった川柳作家がいたらともかく一度検索!》なのかもしれませ ん。そうするとかならず、だれかが紹介しています(誰かのことが気になるっていうことは、誰かももう気にしているっていうことです)。そうするとその川柳 作家に似た作風の川柳もそこで紹介されていたりします。すると、芋づる式に現代川柳の〈りんかく〉がわかってくる。そういうふうに、句集やアンソロジーを 〈買う〉というスタイルではなく(なかなか簡単には手に入らない現状もあるので)、自分でさがしながら、自分の分節や感性で現代川柳の《じぶんだけのアンソロジー》をつくっていく。それも最初の段階ではありなのかなあっておもいます。
I 自分も気になった川柳作家のことを検索していたら、笹井宏之さんのブログで畑美樹さん、樋口由紀子さん、大西泰世さんの句が引用されていて驚いた思い出があります。また石部明さんのブログからは現代川柳の〈りんかく〉を教えていただけた感じです。
Y 川柳のいいところは、一句で完結しているところですから、好きな作家の好きな一句を持ち歩くっていうただそれだけでもいい と思うんですよ、最初は。その一句のようにじぶんもつくってみるとか。で、本格的にやりたいとなったら、じぶんがいちばんすきな作家の句集を手にいれてみ る。これはたとえばおそれずに出版社にアクセスするとあんがいふつうに売ってくださるということがありますよね。そこはびくびくしないで本当に自分が読み たかったら迷惑のかからない範囲で動いてみるのもありなのかなあって思います。
もしくはやっぱりAmazonなんですが、これはめちゃくちゃ〈不当〉な値段になっている場合があり、作家ほんにんも「なんでこんな値段に?」とおどろいている場合があります。だからおすすめできたりできなかったりする。
どうしても読みたいときはたとえば国会図書館という手もありますが、まず遠方になってしまう場合があることや、実は国会図書館にもおいていない句集って けっこうあるんです。川柳に関しては国会図書館でもない本がたくさんある。だから、いま、川柳をさがすって、トレジャーなんですね。ひとつの。『ONE PIECE』みたいな。それでもずっと手にいれたいと思っていると、いつかは手にはいる。それくらい川柳の世界ってウェルカムというか、熱心なひとには向 こう側から手をさしのべてくれる世界でもあるようなきがするんです(と、思ったんです、ここ数年で)。ぜひ読みたいと熱心に思うひとには、たぶんそのひと の言葉が届く。
ちなみにですね、たとえば検索すればすぐ出てきますが、「あざみエージェント」だとサイトで句集が買いやすいというか手に入りやすいし、川柳を今まで読んだことのないひとでも読んでおもしろい句集がいっぱいおいてありますね。
I 「あざみエージェント」は自分も重宝しています。文庫本サイズでわずか40ページのミニ句集もあります。
Y また「おかじょうき 川柳」で検索すれば出てきますが、おかじょうき川柳社のサイトには「川柳データベース」というものが あるのでたくさんの現代川柳が登録されていますので、好きなことばで検索してみるといろいろおもしろい句がでてきますよ。私は「おかじょうき」に所属して いるのですが、ふしぎでおもしろい句をつくる方たちがたくさんいます。私は東京からこの青森の川柳社に所属しているのですが、そういうのも川柳の世界では たぶんありなんだと思います。「おかじょうき」だとネットで投句ができるのでそこもいいのかなって思います。
I なるほど。いまはゼロ年代のときよりも川柳グループのホームページや川柳作家のブログ、SNSが格段に増えたと思います。ネットを有効活用すれば自分に適した川柳の場所を見つけやすいでしょうね。
Y そうですね、作家名で検索すれば、誰かのブログやサイトが出てくるので、そこでおびただしい現代川柳に出会えると思いますね。ところでもし読みやすいおすすめの川柳アンソロジーが書籍媒体であればご紹介してほしいのですが。
I そうですね。川柳アンソロジーについても参考までに言及しておきましょう。自分が川柳を知るために活用したアンソロジーは主に以下の書籍です。
・『現代川柳の精鋭たち 28人集─21世紀へ』北宋社、2000年
・『新世紀の現代川柳20人集』北宋社、2001年
・田口麦彦『現代川柳鑑賞事典』三省堂、2004年
・田口麦彦『現代女流川柳鑑賞事典』三省堂、2006年
幅広くいろいろなスタイルの川柳作家を見てみたいばあいは田口麦彦さんの二冊がお勧めです。
Y この事典は文庫サイズのコンパクトな大きさで、しかもものすごい量の川柳が入っていますよね。好きな作家がきっと見つかるでしょう。
I 逆に2000年当時、表現の最前線に立っていた川柳作家に絞ったアンソロジーを見たいなら北宋社の二冊がお勧めです。
Y これはたしか荻原裕幸さんが解説を担当されていましたね。その意味で川柳と短歌とも関わりがあるんだなあって思いながら読んでいた思いがあります。実際なかはられいこさんの句集の最後の鼎談でも穂村弘さんが出てこられますよね。どこかではつながっていたはずなんですよね、歴 史のある時点で。交流が盛んだったというか。まあそれはともかくとして、アンソロジーで読んでみるとあるひとがある視点から構築された世界を享受できるの でいいかもしれませんね。
あとはアンソロジーではないですが、川柳作家をピックアップしたシリーズでしかもソフトカバーで持ち歩いて読みやすいものに邑書林の『セレクション柳人』 というシリーズがあります。このシリーズには先ほどの石部明さん、草地豊子さん、広瀬ちえみさん、樋口由紀子さん、小池正博さんが入っています。
I 川柳作家をピックアップしたシリーズですと『東奥文芸叢書 川柳』『川柳カード叢書』『かもめ舎川柳新書』なども思い浮かびます。
ところでアンソロジーの特長を言いますと、各川柳作家の秀句とプロフィールが一冊にまとめられているところです。その点では個別の情報を渉猟しないといけ ないインターネットより効率的です。ただし上で紹介した四冊は十年以上前のアンソロジーです。当然、作家の略歴に記された所属グループなどは現在と違って いることも多いわけです。ですから気になる作家を見つけたら、きちんとインターネットで最新の情報を調べる必要がありますね。また日々新しい書き手が現れていますので、いま〈旬〉の作家さんはまだ掲載されていなかったりします。
Y その意味では、なかはられいこさん編の『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳③ なやみと力』がゆまに書房から今年の3月に出るそうなのでこれも川柳アンソロジーとして楽しみな本です。「なやみと力」というサブタイトルもなにか新しい 現代川柳の視点を予期するものです。そんなふうに世界というか大陸は構築されているのに、国境というか境界線の引き方はまだまだ未開拓でたくさんの冒険が できるのも現代川柳のひとつの魅力なのかなあと思うんですね。きょうは長い時間、お話につきあっていただきましてありがとうございました。最後に飯島さんから自選句を五句ご紹介していただき今回のお話を終わりにしようと思います。お読みくださったみなさん、ありがとうございました。
【飯島章友さんの自選句五句】
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Re:がつづく奥に埋もれている遺体
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ほらここにふらここがあるバイカル湖
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