2014年4月25日金曜日

第67号 2014年04月25 日発行

作品

現代風狂帖
  •  小津夜景作品 No.20
   I Have a Rendezvous with Peace    小津夜景   ≫読む
    



●鑑賞・書評・評論・エッセイ 


【戦後俳句を読む】
  • 「正木ゆう子と私――戦後俳句の私的風景」⑪
……筑紫磐井   ≫読む


【現代俳句を読む】

  • 小特集<「俳句新空間No.1」を読む>4
ときに劇的な  ・・・・・・堀下翔  》読む

  • 特集<西村麒麟第一句集『鶉』を読む> 11
    「鶉」感想   ……太田うさぎ    ≫読む

  • <朝日俳壇鑑賞> 時壇 ~登頂回望 その十一、十二~
    ……網野月を   ≫読む

  • <俳句評> 詩型の境界を楽しむ(「詩歌」より)
……財部鳥子   》読む
  • <俳句評】> 或る日の現代俳句(「詩歌」より)
……高塚謙太郎   》読む

  • <俳句時評> 「村越化石」をめぐる困難について 
  • ……外山一機   ≫読む





大井恒行の日日彼是       ≫読む
読んでなるほど!詩歌・芸術のよもやま話。どんどんどんと更新中!!




● あとがき  ≫読む



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      • 第二回 攝津幸彦記念賞各賞発表  》読む
      • 祝!恩田侑布子さんBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞!恩田侑布子……筑紫磐井 ≫読む
      第23回ドゥマゴ文学賞授賞式の様子 ≫「俳句界ブログ大井恒行)

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      【「俳句新空間No.1」を読む】 ときに劇的な /  堀下 翔


      思ったことを書く。

      梅咲いた。人わらはせる芸つらし 堀本吟

      つらい。他人はなかなか笑ってくれない。これでもかと笑わせにかかって、ようやく笑ってくれたとしても、今度は「自分、どうしてこんなことをしているのだろう」と情けなくなって、つらい。芸をする人はみんなそうだ。この国で初めて芸をしたひともそうだった。古事記に登場する海彦のことである。永六輔の本から引く。

      「海彦・山彦の話はご存じでしょう。山彦は海彦から借りた釣針を無くしてしまい、もとの釣針を返せと迫られて困りはてる。そうしたら、海の神さまが山彦に同情して釣針を探し出し、それだけじゃなくて、傲慢な海彦を懲らしめるために、山彦に不思議な力を授けるんですね。それで山彦が勝者になる。/それ以来、海彦の一族はその負けたときのありさまを、山彦の一族のまえでずっと演技しなければならなくなるんです。/神話ですが、これが「芸人」のはじまりということになっているんです。」(永六輔『芸人』岩波新書・一九九七年)

      海彦、つらかったろう。人を笑わせることはもともと罰だったのか。

      ところで古事記はこの海彦を「わざおぎの民」と呼んでいる。わざおぎ、「俳優」と書く。俳人としてはここで一気に彼に親近感がわく。俳優も俳句も、同じ「俳」の字を持った仲間だからである。同じ字である以上、どこかしらで繋がっているのだと思う。ただそれは、また別の話になる気がするので、置いておく。ここでは無邪気な連想ゲームにとどめておいたほうが、気楽だ。

      俳優といえば、劇。俳句を読んでいるとときどき、俳句と劇は似ている、と思う。まず第一に、見せられたものしか知ることができない。

      宝舟すこしはなれて宝船 堀田季何
      宝舟と宝船がありました。それだけしか教えてくれない。どうしてふたつあるの。どうしてすこしはなれてるの。どうして舟は種類が違うの。明快で親切な小説なら、このあと地の文でいきさつを書いてくれるかもしれない。けれどもここでは、舟がふたつあるところを見せて、それっきり。

      コミュニケーションが成り立たない。舞台上にある大道具、あるいは意味ありげに発せられた科白。舞台の構成物でありながら、その目的は、向こうが説明しない限り、分からない。この一方向性においてまず、俳句と劇は似ている。

      夏芝居後姿の泣いてゐる 小沢麻結
      芝居を見ていて、役者の後姿が泣いているように見えた。理由があるのかもしれないが、聞くことはできない。後姿が泣いているように見えた時点で、俳句にしてしまったから。こっちから話しかけることができないのは、ものすごく一方的で、ちょっと理不尽である。

      おしぼりが正位置にある福寿草 上田信治
      どうして正位置なの。どうしておしぼりなの。おしぼりが正位置にあることしか、わからない。もっと言うと、どうして福寿草なの。この問題は、取り合わせの俳句を読むときに、ずっとついて回る。どう考えてもこの季語以外にありえないのだが、なぜそうなるのか、見当がつかない。やはり、理不尽。

      劇が面白いのは、劇場で見るからだろう。劇場に入ることで、仕切りが生まれる。

      一時間前ははうれん草畑 依光陽子
      一時間前、ほうれんそうと土の色に囲まれていた。いまはどこにもないが、あのあおあおとした感じが、まだ体のどこかに残っている。「まだ」と思うのは、ここがほうれん草畑ではないからだ。どこまでも仕切りなくほうれん草畑だったら、なんとも思わない。

      鳴りやんで涼夜や耳鳴りだったのか 池田澄子
      耳鳴りが止まって初めて耳鳴りだったと気づく。仕切りがあるから気づく。もちろん、耳鳴りなんてしないほうがいいけれど、それでもびっくりするのは楽しい。

      劇場は仕切りだ。そしてそのなかに、舞台という仕切りがある。

      我を指す人差指や師走の街 林雅樹
      包丁ら青々として芒種の町 小野裕三

      この仕切りは、劇作家が作る。ここから先は師走の街である、芒種の町である、そう決めました、と。一方的な仕切り。見る人間は、従う。その人々はたいがい好意的なので、従うのが楽しくて来る。小説家が、師走の街をいかに読者に歩いてもらうか、必死になるところを、劇作家は、俳人は、「師走の街」と言えば、とりあえず信じてもらえる。つくづく変な形式だと思う。

      信じてもらえるのは、このあと何かが起こるという、信頼関係があるからだ。「劇的な」という形容詞があるように、劇は、何かが起こる前提にある。「劇的な」という言葉の「劇」を「激しい」くらいの意味で思っている人が多いけれど(じじつ「劇」の第一義は「激しい」である)、「劇的な」というときには、劇に出てくるようなありさまを言う。

      北窓を開きそのまま海のひと 近恵
      窓を開けるという物理的な行動によって、春を呼ぶ。開けたら見える海に、そのまま同化してしまう。快感。そして劇的。書いた後に思った。この言葉、少し便利すぎるかもしれない。短い俳句のことだから、起承転結の「転」を持ってきたくなる。

      新涼の神父三角座りだが 岡村知昭

      神父が三角座りの時点で、かなりどきっとする。秋は寂しくなりやすい季節であるにしても、神父ともあろう者が、三角座り。しかも話はここで終わらない。「だが」って、まだ何かあるのか。二転三転、ドラマチック。

      ドラマチックになるという信頼感は、ときに先走る。

      電話機を見れば鳴りさう秋の昼 林雅樹

      電話なんて一日のほとんどを沈黙しているのに、鳴りそうに見える。電話が鳴るわずかな瞬間こそが、電話の本領だから。あの電話、鳴るぞ。鳴っていないうちから思う。

      幽霊の飛び出しさうな冷蔵庫 小久保佳世子
      冷蔵庫は幽霊が飛び出してくるもの……ではない。死体が入っていることはあっても、幽霊が出てくるなんて話、ちょっと聞かない。「幽霊の飛び出しさうな(状況下にわたしの目の前にある)冷蔵庫」と言えば、少しは理屈で説明できそうだ。怖い話を聞いたあと、トイレに行けないのと同じ。幽霊が出るにちがいない、という期待。

      盆の家みんな眼鏡をかけてゐる 仲寒蝉
      そこにいる人みんな眼鏡。もしかしたら気づかないだけで、日常にそんなケースはたくさんあるかもしれないが、ここはわざわざ区切られた舞台だ。みんな眼鏡をかけていることが、意味めく。
      劇に必要なものもう一つ、演技。

      頬被りして笑い皺深うせり 後藤貴子
      鬼灯の赤を呪ひの道具とす 中山奈々

      何かを身につけたり、使ったりすることで生まれる仕切り。劇作家の平田オリザが、書いていた。「プライベートな空間では、演劇は成立しにくい」(平田オリザ『演劇入門』講談社現代新書・一九九八年)。頬被りをすること、鬼灯を道具にすること、そんな変化で、劇が始まる。

      はつとして今虫売でありにけり 西村麒麟

      演じている自分までびっくりするくらい、演じる。なんで自分は虫売なのだろう。何者かになる行為自体が、ドラマチックである。見る方も、見せる方も、劇の中で、だまされる。

      松だよとだまされてをる小春かな 山田耕司
      だまされていると知りながら、いい気分になっている。ううん、劇も俳句も、不思議な営みだなあ。




      【筆者略歴】

      • 堀下翔 (ほりした・かける)

      1995年北海道生まれ。「里」「群青」同人。俳句甲子園第15、16回出場。
      現在、筑波大学に在学中。




      【西村麒麟『鶉』を読む21】  「鶉」感想 /太田うさぎ

      西村麒麟さんと「読む会」という小さな集まりを重ねてまもなく三年になる。読書会と言っても肩肘張ったものではない。基本メンバーは三-四名。毎回一冊の句集、最近は一人の俳人を課題として各自20句と逆選5句を持ち寄り、句会の合評のようなことをするだけだ。ときどきゲストに来て頂くこともある。何しろ会場が酒亭で初めからお酒を片手に話すものだから、粛々と進行している筈が半ばからワヤワヤになってしまう。毎回きちんと終わったことがないが、それもまた楽しからずやの会である。

      この不真面目な会が長続き出来ているのも麒麟さんが要になってくれているからに他ならない。彼は毎度課題句集のほかに1-2冊の資料を用意してきては、さまざまなオマケ情報を齎してくれる。草田男が吊し上げの目に合うホトトギスの座談会、松本たかしの色好みなど、一体どこで仕入れて来たんだと思うような、どーでもいーといえばどーでもいーことを実に活き活きと語るのである。また、会を離れて顔を合わせるときにも、相生垣瓜人のヘン顔写真を携帯していたり、籾山梓月の俳句を幾つも暗誦しては涎を零さんばかりだったり。一口に俳句好きと言ってもいろいろなタイプがあって、作るのが好きな人も読むのが好きな人もいてそれぞれだけれど、麒麟さんは作るとか読むとかを超えて、俳句という宇宙をまるごと愛でているように見える。


      記念すべき第一句集『鶉』はそんな麒麟さんの俳句愛が詰まった句集だ。

      へうたんの中に見事な山河あり 
      鈴虫の籠に入つて遊ぶもの 
      人知れず冬の淡海を飲み干さん 
      陶枕や無くした傘の夢を見て 
      玉子酒持つて廊下が細長し

      読む会では、麒麟さんと私はときどき年長のメンバーに「ふっ、この句の良さはオンナコドモには分かるまい。」と一括りにされる。二十代の若者と一緒くたにされて嬉しくないわけがない。然し、『鶉』を読んだら気づいたのである。麒麟はコドモなんかじゃなかった。仙人だ。コドモのイノセンスと見えるのは、実は仙人の稚気なのだ。これらの句が何よりの証拠。瓢箪の中の山河とはそのまま俳句という詩型のメタファーとして捉えられないこともないだろうけれど、麒麟さんはたぶんそんなことは考えていない。瓢箪の中の山河に遊び、虫籠の竹ひごの隙間をするりと抜ける。風景でも人事でも、自己の内面でも、実在だの実存だのがテーマになることはあっても、「有り得ないこと」をこれだけありそうにしかも楽しげに詠む人は滅多にいまい。琵琶湖を飲み干すなど無駄にスケールが大きいのだが、人知れず馬鹿でかいことをしてのけて且つ飄然としている、というのはもしかすると麒麟さんが俳人として目指しているところだったりして。陶枕の句には中国の古い逸話のような趣きがあり、陶枕に頭を乗せたことがない私にもそのひやりとした感触が伝わってくる。玉子酒ですら麒麟さんの手にかかると奇妙なパワーを持って、変哲もない廊下を常ならぬ寸法に歪めてしまうかのようだ。とにかく、この手の「そんなこと誰も考えない」句をこの人は実に上手くしてのけて読者の私を喜ばせてくれる。

      春風や一本の旗高らかに 
      貝寄風や旅の続きを一歩一歩 
      火取虫戦ふための本の山

      一方、こうした青春性に満ちた句も。「よろよろ」「少しの力少し出す」など、ある種のへたれ感が麒麟俳句の特徴の一つだけれど、中にこんな真っ直ぐな抒情が紛れ込んでくるとオバサンはキュンとしちゃうのである。石田波郷新人賞作家という履歴にも頷くのである。一句目、春の空に高くはためく旗の清潔さ。二句目は「一歩一歩」の字余りがいかにも踏みしめて前進する足取りを思わせて巧みだ。麒麟家における蔵書の家屋占有率はどうなっておるのか、と常々余計な心配をしているのだが、好事家めいた顔の裏にはこんな闘志が秘められていたのだった。ちょろっと覗く本音の部分が面白い。

      それぞれの春の灯に帰りけり
      掛軸の山河が遠し夕蛙 
      冬ごもり鶉に心許しつつ
      『鶉』は楽しい句集だし、実際にそのまま「楽し」と詠んだ句もかなり目に付く。でも楽しさの強調がその蔭に棲む感情を浮き彫りにさせることもある。麒麟句は全体に人を詠んで優しいが、自分一人に立ち返るときその句はなにがしかのさみしさを纏わずにはいられないようだ。春灯の句、句会や飲み会がはねて「じゃあね、またね」と別れていく。一人ひとりの帰る先にふんわりと灯る明かりはあたたかいけれど、この余韻のせつなさはなんだろう。一緒にいてどれほど楽しくても個々の幸せは分かち合えないのだとでもいうように。掛軸の山河は瓢箪の中の山河にも通じる、麒麟さんにおける桃源郷とも取れる。憧憬と現実との心の距離を測るように夕蛙が置かれている。冬ごもりの句は、心を許せる友達がいないのか」という突っ込みを半ば期待している感がなくはないけれど、人には見せない心の表情を見せる相手が鶉というのはまあ、実に俳味があるというか。

      天上へ鶯笛は届くかな
      私が一つ麒麟さんに胸を張れることがあるとしたら八田木枯に引き合わせたことだろう。木枯さんの訃報が届いたとき麒麟さんはたまたま鶯笛の句を作っていたと聞いている。そのうちの一句がこのように美しい姿を得た。故人を慕う気持を西村麒麟一流の無邪気な措辞で表現した佳吟と思う。読み返す度、澄み切った悲しみが輝く針先のように胸に突き刺さる。

      さて、逆選も揚げなくては。

      朝寝してしかも長湯をするつもり
      若いんだからもっとしっかりしなさい!と言いたい訳ではない。そんな贅沢、私だってしたい、ということでもなく。この緩い世界を昇華させるのはよっぽどの手練れか芸達者にならないと。「してしかも」あたりの冗長麒麟さんならいずれ老練な手際で大向うを唸らせることも出来るに違いない。でも、そっち行っちゃっていいのかナ?と首を傾げもする。ま、いずれにしてもちょっと未消化な句ではないでしょうか。

      青年期過ぎつつありぬソーダ水

      逆選は必ずしも否定や駄目出しとは限らない。「読む会」ではむしろ気になる、どうしても引っかかるという句を逆選に取り上げることもある。例えばこの句。キュンキュン度が高いだけに用心用心。どうしても富安風生の「一生のたのしきころのソーダ水」や星野立子の「娘等のうかうか遊びソーダ水」を思い出す。麒麟さんの句はこれらの句への挨拶だろう。ただ、風生や立子の句が第三者的視線なのに対して、麒麟句は自分のことを(少なくとも俳句上は)語っているのであり、その場合「ソーダ水」はナルシスティックな甘さを帯びてしまうんではないかなあ、と思う次第。

      とまれ『鶉』は随所に麒麟さんの個性が顔を出す愛すべき句集だ。ひとの句をとんと覚えられなくなったぼんやり頭にもするりと入ってくる。入ったが最後抜けないのだからタチが悪い。拙い感想はそろそろ切り上げて愛唱句で締めくくろう。

      青饅や我ら静かに盛り上がる 
      清盛が釣りに釣つたり桜鯛 
      秋蟬や死ぬかもしれぬ二日酔ひ 
      一人は寂し鹿が立ち鹿が立つ 
      ぜんざいやふくら雀がすぐそこに 
      初湯から大きくなつて戻りけり

       初句集を出してまた大きくなるのね。改めておめでとう。



      【筆者略歴】

      • 太田うさぎ (おおた・うさぎ)

      1963年東京生まれ。「豆の木」「蒐」「雷魚」会員。現代俳句協会会員。
      共著に『俳コレ』(2011年、邑書林)。




      【小津夜景作品 No.20】 I Have a Rendezvous with Peace  小津夜景

      ※画像をクリックすると大きくなります。
      (デザイン/レイアウト:小津夜景)







         I Have a Rendezvous with Peace  小津夜景

      ……戦争はあらゆる技術の基礎であると私の言ふとき、それは同時に人間のあらゆる高き徳と能力の基礎であることを意味しているのである。この意見は私にとりて頗る奇異であり、かつ頗る怖ろしいのであるが、しかしそれが全く否定し難き事実であることを私は知つた。簡単に言へば、すべての偉大な国民は、彼らの言の真理と思想の力とを戦争において学んだこと、戦争において涵養せられ平和によって浪費せられたこと、戦争によつて教へられ平和によつて欺かれたこと、戦争によつて訓練せられ平和によつて裏切られたこと、要するに戦争の中に生まれ平和の中に死んだのであることを、私は見いだしたのである。(ジョン・ラスキン『野の橄欖の王冠』)


      猫の恋おんぼろアパートあとかたも

      月日貝喰はれて無惨弔はな

      風船に斃れし野など問うてをり

      吾子にその光に蛆の生れやまず

      陽よ占拠せよくろがねのぶらんこを

      孵化寸前うづらに籠る微致死量

      胎貝裂く目覚めのやうな酔ひがある

      あげひばり悲劇はひとつの恍惚か

      底なしの甘茶のとらへどころかな

      墓場までいそぎんちやくを持つてゆく



      付記1 今回の題 I Have a Rendezvous with Peace はアラン・シーガーI Have a Rendezvous with Death(僕は死に神と会ふ約束がある)のもぢり。この詩は大西巨人『神聖喜劇』第二巻で著者による邦訳が読める。

      付記2 ラスキン『野にさく橄欖の冠』(御木本隆三訳、東京ラスキン協会)は絶版。今回の訳は新渡戸稲造『武士道』(矢内原忠雄訳、岩波文庫)内より微修正の上、拝借。




      【作者略歴】
      • 小津夜景(おづ・やけい)

           1973生れ。無所属。





      【朝日俳壇鑑賞】 時壇 ~登頂回望 その十一、十二~  / 網野月を

      ~登頂回望その十一~
      (朝日俳壇平成26年4月13日から)
                                 
      ◆ほのぼのと月にも花のあるごとく (宮崎市)飯島忠夫

      長谷川櫂の選である。「一席。麗しい春の月をほめる。月にも桜が咲いているようだと。月も花のようだと。」と選評に記されている。将に評の通りであろう。「春の月」を愛でているのである。「花」にでも「月」にでも喩えられれば嬉しい佳物だが、その「月」を「花」で形容しているのであるから、喩えようもなく美しい以上の形容によって愛ででいるのである。形容するものと形容したものの関係性による形容の飛躍である。

      逆説的な皮肉めいたものは何処にも感じられないのは、上五の「ほのぼのと」の効果であろう。

      同じく長谷川櫂の選で、

      ◆抽斗の中にあの頃桜貝 (筑西市) 大森薫

      がある。やはり選者の評に「三席。抽斗の中に桜貝という句は山ほどある。「あの頃」で世界が開けた。」とある。果たして「開けた」であろうか?「桜貝」は海浜にある場合、現在的な存在であるが、他所に見いだされる場合は、記憶の何かを引き出す切っ掛けにされることの多いものであろう。評にも記されているように「山ほどある」のだ。しかも記憶で示される時制は「あの頃」なのである。「桜貝」と「あの頃」が微妙に重複しているように筆者には感じられる。「桜貝」を記憶の襞の栞にするするのは禁じ手にした方が良いのではなかろうか。

      ◆なぜ尾骶骨なのかなぜ冬なのか (塩釜市)佐藤龍二

      金子兜太の選である。選者の評に「十句め佐藤氏。尾骶骨に寒さがしみるのだ。」とある。十音、七音の破調である。反語の繰り返しもあり、厳格なリズムと響きを持っている。内容的にも「冬」であり、「骨」であるところから厳しさは倍増する。が俳句的諧謔を感じるのは筆者だけではないはずである。「骨」といっても「尾骶骨」であるし、「冬」といっても「寒さがしみ」ているのだ。本人は痛みの極みであろうが、外科的な痛みは他人には可笑しみと捉えられてしまうことがある。作者には失礼の極みである。申し訳ございません。


      ~登頂回望その十二~
      (朝日俳壇平成26年4月21日から)
                               
      ◆桜蘂降る新鮮な老人ら (静岡市)西川裕通

      大串章と金子兜太の共選である。昨今は「桜蘂」のみで季題・季語として使用する例が多出しているが、掲句は厳格な使用を体現している。その季題・季語の厳格さが「老人ら」に匹敵しているのであろう。桜にとって花咲くことが毎年の盛時ならば、「桜蘂降る」は花の後にくるこれも毎年の出来事なのだ。始末に困るように思われるが、散った花びらだって本来は取り片づける対象である筈で、花びらと蘂の取り扱われ方は不平等極まりない。

      後半の「新鮮な老人ら」は季題・季語に着き過ぎのきらいがあるが、「老人ら」になったばかりの初々しい「老人ら」であり、「新鮮な」の逆説的修飾語の使用に表現の巧みさを感じないわけには行かない。「桜蘂」と「新鮮な老人ら」と表現したのかもしれず、また「桜蘂降る」景の内に「新鮮な老人ら」を共に捉えたのかも知れない。

      ◆春愁が今日も一杯やれと言ふ (茅ヶ崎市)吉田哲弥
      ◆桜湯を含めば妻の来る日かな (八王子市)野島義郎

      二句ともに長谷川櫂の選である。今回の選では、日常の句が目立った。日常句は、俳句の本来の在り方の一つであろう。それだけに大きな感動が起因しているわけではないが、落ち着いた作者の小さな感動が読者には心地よい。二句目の「妻の来る日かな」も大仰な句意ではないだろう、と推察する。「桜湯を」喫しているのであるから。


      【執筆者紹介】

      • 網野月を(あみの・つきを)
      1960年与野市生まれ。

      1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。

      成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。

      2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。

      現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。




      (「朝日俳壇」の記事閲覧は有料コンテンツとなります。)

      第67 号 (2014.04.25 .) あとがき

      北川美美

      とうとうPCが不意のシャットダウンを繰り返すようになり、代替えのPCに移行したため更新に時間がかかりました。お詫び申し上げます。

      今号、「俳句新空間を読む」鑑賞として堀下翔(ほりした・かける)さんよりご寄稿いただきました。堀下さんは、4月に大学入学されたばかりの初々しい方ですが、落ち着きある文体からはすでに俳人と呼ぶにふさわしい冷静な視線が伺えます。今後の活躍が大いに楽しみです。

      また太田うさぎさんからは「鶉」評が届き、延々とつづくこの<「鶉」を読む>のだらだら感がなんとも麒麟さんらしく思えます。ちなみにまだ続きます。

      精力的な連載をご寄稿いただいている小津夜景さんは、南仏・ニース在住です。浜辺のレストランで食事をされたという日常の一コマが伝わるコメントを原稿受領時にいただきました。

      ニースの料理・・・サラダニソワーズ(ニース風サラダ)くらいしか思い浮かびませんが、ニース近郊で作る料理をア・ラ・ニソワーズa la nicoise と呼ぶらしく、トマト、黒オリーブ、アンチョビー、ニンニクを使った料理のようです。今号はレシピをリンクしましょう。エルオンライン

      季節は新緑の時期になり、外出するには絶好です。GWも近いですね。

      俳句の林間学校 「第6回 こもろ・日盛俳句祭」の詳細が決定したようです。夏のお出かけに如何でしょうか。ちなみに小諸市のサイトにあるイベント協力俳人一覧の各リンク先がwikipediaになっていることに驚きました。



      仁平勝氏の摂津幸彦論集が刊行されました。
      『露地裏の散歩者-俳人攝津幸彦  仁平勝』 価格 : 2,592円(税込・送料別) 



      筑紫磐井

      近くの寺に散歩のついでに寄ると、既に牡丹や藤が咲き誇っている。一年も既に四分の一が過ぎてしまった。巻頭の歳旦帖、春興帖も終わり、次回は花鳥篇に移ろうと思う。鳥はホトトギスだから、俳人にとってはもう夏まじかである。

      訪れた寺は観泉寺、今川家の菩提寺というが、現在今川家代々の墓こそあるが、今川家は滅んで既にない。今川家は小田信長に桶狭間で敗れた義元の裔の高家身で、最後の当主範叙は幕末には若年寄まで勤めたが、明治以後没落し、娘の嫁ぎ先で没したとも、日本橋で乞食をしているのを見たのが最後とも言われている。激動の時代の有為転変は俳句界を思わせる。

      この辺りは井草というのだが、近くにイタリア風のカフェ(以前は文房を扱っていた)の店を構えている千葉晧史がこのあたりの風景を描いた俳句を「井草××」と題して総合雑誌でよく発表しているので少しは知られているかもしれない。バス通りの反対側には、かつて俳句朝日の編集長をしていた越村蔵がいたが今は少し離れた善福寺かどこかへ越している筈だ。日曜日の散歩のとき私は越村の大邸宅の前を通り、越村は朝の犬の散歩で我が家を覗いていたらしい。俳句に縁があるのはこれくらい。

      そのほかの有名人は、囲碁の本因坊家で最弱の一人と言われ夭折した六世知伯がこの村の出身であり、この辺りに多い井口姓を名のっていた。後は早大ラグビー部、千川通りを越すといわさきちひろ美術館があり、カップルが田舎道をよく歩いている。

      今週はこれくらい何も書くことがないということ。


      「正木ゆう子と私――戦後俳句の私的風景」⑪ / 筑紫磐井


      ⑪美意識をたずねて

      54年5月号「青年作家特集」の後半を見よう。さっそく正木ゆう子、そして私の作品を眺めてみる。

           絵の中 
               東京都 正木ゆう子 
      絵の中のむらさき醒めて雛の夜 
      思ひきりカーテンを引くリラの花 
      春疾風言はぬ言葉がふえてゆく 
      加速して電車澄みゆく陽の辛夷 
      胸中の海をたやすく蝶越ゆる 
      なにげなく水仙が向いてゐる扉 
      起きぬけの白きジャスミン転機来ず 
      高層は霞みて沈む鳩の声 
      乱雑な夜のテーブル黄水仙 
      芽柳や街は濁りしまま暮れて

      昭和二十七年六月二二日生
           想夫恋 
           東京都 筑紫磐井 
      きさらぎの火のとほりゆく氷下魚かな 
      雪の若狭路描線あらく画かれをり 
      密猟の視点ただよふ雪の原 
      遁走の雪に日輪よみがへる 
      紺碧の空に貼りつき枯葉の罪 
      一月の氷に消ゆる鯉の息 
      駅しばしFuga(フーガ)の如く枯葉舞ふ 
      いつときは花をちからの想夫恋 
      花冷やひそかに兆す歯の痛み 
      春愁の手ざはり木綿(コトン)の小詩集 
      昭和二十五年一月一四日生

      今回の批評は青柳志解樹が行っている。青柳はその年の1月に創刊した「山暦」の主宰で、当時50歳であった。若い世代に共感があると思われていた。

      正木ゆう子「絵の中」 
      絵の中のむらさき醒めて雛の夜 
      思ひきりカーテンを引くリラの花 
      乱雑な夜のテーブル黄水仙

      一句目、雛の句は随分と多いが、この句は角度がユニークで、把握もしっかりしている。二句目、カーテンを引く動作と、リラの花との対応の構図は新鮮。三句目も同様で、黄水仙がアップされ、乱雑な構図が逆に色彩をひときわ鮮やかにしている。<芽柳や街は濁りしまま暮れて>も、いわば斜視的な捉えかたの句だが、この作者の個性につながるものであろう。<加速して電車澄みゆく陽の辛夷>の「電車澄みゆく」は安易。<なにげなく水仙が向いてゐる扉>は、無造作すぎて感心しない。
       

      筑紫磐井「想夫恋」 
       いつときは花をちからの想夫恋 
      発表の十句の中で、この句は群を抜いている。賞めたついでに言えば、いままで見てきた中でも第一等のものだと思う。「想夫恋」とは雅楽の曲名。平調の唐楽。舞を伴わない。と辞書にある。桜咲き、桜散る中で、みやびな曲が流れる。永遠の美の世界が鮮明にイメージされる。最早、説明の要もあるまい。水準の句が多いことより、優れた一句のほうが意味が大きいのである。それはさておき、<密猟の視点ただよふ雪の原><一月の氷に消ゆる鯉の息>も悪くないが、<雪の若狭路描線あらく画かれをり>は報告的。<駅しばしFuga(フーガ)の如く枯葉舞ふ>こういう外国語を安易に挿んだ句を、私は好まない。


      懇切丁寧な批評は従来の批評の中でも群を抜いていると思う。登四郎としては安心したのではないか。

      ただ、冒頭の登四郎の文章(前回参照)と比較して見ると、やはり少し乖離があるようだ。両名とも、登四郎が推奨した都会的な俳句、少なくとも、上谷や大橋が示した俳句とは大きく違っている。別の美意識に従っているというべきだろう、いや都会的な俳句が美意識を無視していたのに対し、美意識を最優先していたというべきであろうか。

      おそらく能村登四郎の影響を受け(登四郎は、あのような文章を書きながら美意識の人であった)、登四郎の影響を受けて作られたこれらの作品の影響を受けて各自の作品が形成されたのである。当時にあっては、結社とはそういうものであった。







      2014年4月18日金曜日

      第66号 2014年04月18 日発行

      【俳句作品】
      • 平成二十六年春興帖 第七
         ……中山奈々,大井恒行,北川美美  ≫読む
      • 現代風狂帖 
      眠り   曾根 毅     》読む
      <竹岡一郎作品 No.12>
      春疲れた     竹岡一郎        》読む 
        < 小津夜景作品 No.19>
            墓より始めよ    小津夜景   ≫読む
            

        【戦後俳句を読む】
        • 上田五千石の句【テーマ:「も」】
        ……しなだしん   》読む
        • 「正木ゆう子と私――戦後俳句の私的風景」⑩
        ……筑紫磐井   ≫読む

        • 三橋敏雄『眞神』を誤読する 97.
        ……北川美美   》読む



        【現代俳句を読む】

        • 小特集<「俳句新空間No.1」を読む>3
        平成二十五年癸巳俳句帖から (その2)・・・・・・黄土眠兎  》読む

        • 【俳句評】 詩型の境界を楽しむ(「詩歌」より)
        ……財部鳥子   》読む
        • 【俳句評】 或る日の現代俳句(「詩歌」より)
        ……高塚謙太郎   》読む
        • 【朝日俳壇鑑賞】 時壇 ~登頂回望 その十~
        ……網野月を   ≫読む
        • 【俳句時評】  「村越化石」をめぐる困難について 
        • ……外山一機   ≫読む
         【俳句時評】  
        大井恒行の日日彼是       ≫読む
        読んでなるほど!詩歌・芸術のよもやま話。どんどんどんと更新中!!


        【編集後記】
        •       あとがき  ≫読む 
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            • 第二回 攝津幸彦記念賞各賞発表  》読む
            • 祝!恩田侑布子さんBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞!恩田侑布子……筑紫磐井 ≫読む
            第23回ドゥマゴ文学賞授賞式の様子 ≫「俳句界ブログ大井恒行)

                                  ≫受賞式記録映像  Youtube 画像










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            第66 号 (2014.04.18 .) あとがき

            北川美美

            通常金曜日中の更新を目標としておりますが、今号更新時刻が遅くなったことをお詫び申し上げます。

            今号は、芝不器男俳句新人賞受賞の曾根毅さんの最新作20句掲載です。竹岡一郎さん、小津夜景さんの連載も入稿。また前号で『俳句新空間No.1』(当ブログ媒体誌)でご寄稿頂きました、黄土眠兎さんの第二弾が早くも到着しました。ご堪能ください。

            自分の執筆のことになりますが、<『眞神』を誤読する>詩客からの通算で足かけ三年目になります。ようやく97句目(全130句)に来ました。「誤読」ながら結構な苦行となっています(最近この<誤読>というタイトルの俳句鑑賞を見かけます。流行?)長嶺千晶さんの『今も沖には未来あり―中村草田男句集『長子』の世界』によると、長嶺さんは執筆に8年を要したとありましたので、まだまだ私は序の口ですね。『三橋敏雄評伝 したたかなダンディズム』の遠山陽子さんは『弦』にてその執筆に9年を要しています。当初の計画よりも相当長期戦になっていますが気長にやってみようと思っています。

            <戦後俳句を読む>の当初からのメンバーのしなだしんさんも上田五千石鑑賞を継続執筆いただいています。お休み中の執筆メンバーの皆様もいつでも入稿カモン!です。どうぞよろしくお願いいたします。

            網野月をさんは過去原稿が見られない憂き目に遭遇しているようで今回は休稿です。Windows7と8の互換性に拠るトラブルということですが。筑紫相談役のデータ消失はもしかすると復活できるのではと少し期待を持っているのですが・・・。

            当パソコンも不調といえば不調つづきです(熱が籠りやすくなってしまっています)。
            日々のデータ保存は肝心ですね。


            筑紫磐井

            礼状をたくさんいただき多謝。
            雑用いろいろのため、本日は閉店。

            【俳句作品】 平成二十六年 春興帖 第七


            ※画像をクリックすると大きくなります。




               中山奈々(「百鳥」「里」「くまねこ」「手紙」)
            春昼や風呂に下着の見当たらず
            僕の髪が肩まで伸びて四月馬鹿
            葉牡丹の茎立つ東京は遠き
            いいとも!はみな春色のチェックシャツ

               大井恒行
            咲きくるう万物を見し春みたび
            春乱歩「椅子の中の恋!」ならん
            つちふる曙 堕ちる冬衛の一脚よ


               北川美美(「豈」「面」)
            花過ぎに男出てゆく家の門
            赤ん坊三色すみれ握りしめ
            白き黒き春山火事をいかんせん

            【「俳句新空間No.1」を読む】 平成二十五年癸巳俳句帖より(その2) / 黄土眠兎

            平成二十五年癸巳俳句帖シリーズを振り返って「ロイヤルコナチーム」のヘッドコーチのノートが見つかりました。このラインナップでいくそうです。

            コナチーム ヘッドコーチのノートより

            一番 前北かおる  アネモネや青山フラワーマーケット
            何にも言ってないよー。お花のことしか言ってないよー。花屋のカフェが美味しいんだよー・・・なんて事、ひと言も言ってないよー。でも、美味しいんだよーと言いながら地方出身の投手をうっとりさせて打って出る。アネモネ、青山

            最強伝説の始まり。

            二番 近恵  滴りの膨れて鈴になるところ
            トップバッターがさりげなく塁に出たところへ、鈴になるまで溜め込んでいた滴りパワーを強打して出塁。苦しかった練習の汗が滴りの姿を借りて実を結ぶことを暗示している(と信じたい
            byヘッドコーチ)

            三番 三宅やよい  東風吹かばやさしく沈む膝枕
            おねーさんが膝枕してくれるんだって・・・という噂を東風に乗せて試合前に吹聴しておいた。情報戦でらくらくヒットだ。

            四番 津髙里永子  恋するか死ぬか炬燵の脚ぐらぐら
            えーっ、二択なの!究極じゃん!

            その前に炬燵の脚くらい直しとこうよーという相手からのツッコミが来たところをヒット。塁に出るためならバットを炬燵に変えてでも打って出る。

            五番 水岩瞳  連打して冬の怒濤になるピアノ
            こうなったら連打しかない。えっ?連打が違うって?

            ピアノも連打してたら冬の怒涛になるんだから、大丈夫。ラフマニノフピアノ協奏曲第2番でトリプルアクセルを決めて塁に出たい(野球じゃなくなってしまった。どうしよう)。

            六番 矢野玲奈  産み月の一夜一夜に秋深む
            産み月のカウントダウンはけっこうきついのよ。暑い夏を乗り切ってもうひと息という妊婦は誰にもとめられません。バッターボックスは優先。立ってるだけで観客全員が味方。塁に出られないはずがない。もちろん代走はつけるわよ。

            七番 曾根毅  花の雨ことにやさしき地の窪み
            ここで投入するのは「秘すれば花」作戦。想像力を刺激するのよ。相手に悟られる前にボールを見極めて出塁。

            八番 太田うさぎ 内裏雛その隔たりに塵置かず
            走者一掃のためにも塵はおけません。お内裏さまの立ち位置はどちらが右?どちらが左?という問題は取りざたされるけど、その間にあるものは見落としていたわ。視点が違うわね。うん。

            九番 中山奈々  葉桜や臨機応変にも限度
            ノートには書いてなかったけど・・・代打。

            葉桜になるまで我慢したの。ヘッドコーチのサインのいい加減さにはうんざりだった。わたしはもう自分の思う通り振っていくよ。・・・カーーん。ほら来た!(by 奈々)

            監督 池田澄子  涼しくて嬉しくてあ~立眩み
            ええっ!監督そんなこと言ってる場合じゃないですよ。今シーズンどうするんですか!
            またまた打順を組んでしまいました。『俳句新空間』の歳旦帖は、それぞれの句が置かれた場所で力を発揮してくれるので打順を組んでいてどのチームも負ける気はしないのですが、勝負は時の運。さて、どのチームが優勝するのでしょうか。

            今シーズンの俳句帖もがんばります。

            なお、途中からヘッドコーチがおねー言葉になってる部分はお見逃しくださいませ。



            【筆者紹介】
            • 黄土眠兎(きづち・みんと)
            1960年兵庫県生まれ、兵庫県在住。「鷹」同人、「里」人。




            「正木ゆう子と私――戦後俳句の私的風景」⑩ / 筑紫磐井

            ⑩この時代の青年作家への期待への批判

            54年5月号は「青年作家特集」である。どういうわけか能村登四郎が「青年作家に望む」という文章を冒頭に掲げている。初めてにして最後のことである。憶測される理由は前号に述べた通りである。


            「毎年五月青年作家特集を行なってからもう七、八回になる。乏しい頁を割いての企画がそれだけの効果はあっただろうかと、いつもそのあとで反省するが、こうした効果はたちどころに現れるのではなく、気長く待たなければならない。
            その効果の一つかどうかわからないが、最近とみに若い男性の作家の活動が目立ってきたことは喜ぶべきことと思っている。」

            「・・・俳句の世界はそのように年齢の層が厚いので、普通なら中心的存在であるべき三四十代は殆ど無名時代で子供扱いである。ジャーナリズムでは時々特集号を出して売り出しに努めてはいるものの、もう一つ盛り上がって来ない。この原因を考えてみると、高齢者によって道がふさがれていることと、それを打ち破るほどの努力が欠けているところに起因しているようである。とにかく俳句の世界は普通の社会とは大変違っていることを知らなければならない。 
            そうしたことが起因して、昨今俳壇が著しく老化してきたことも憂うべきことである。曾て今の六十代の作家が三四十代のころ、社会性俳句が擡頭して威勢のいい論争が行われたりしてなーなリズムを賑わわしたが、その社会性派と行動を同じくしなかった飯田龍太とか森澄雄などは、寡黙ながら地味な実作で独自の俳句の世界を作って今日に至っている。その頃の三四十代は今のように先輩に対して萎縮したりしない一種の気概と自信を持っていたようである。それやこれやを考えると、今の三四十代の作家は若いということを力にして、もっと自身をもって行動してもよいのではあるまいか。」

            冒頭の「若い男性の作家の活動が目立ってきた」と言いながら、「昨今俳壇が著しく老化してきたこと」、すなわち三四十代の作家が萎縮したり、気概と自信を喪失しているという事態が同時に起こっていると認識していたことになる。これはなかなか当時にあっては真相をついている発言ではあった。その原因を登四郎なりに分析している。

            「それに比較すると現在の若い人が目指す作家は皆あまりに若さを失っている。いま流行の軽みとか俳諧性だとかいう事がはたして若い人の心を惹くであろうか。軽みも俳諧性も俳句を何十年もやって来た人がようやく行きつく微妙な味で、二三十代の若者にわかる筈もないし、わかって作ったとしても所詮物真似にすぎない。だから骨を折って若い人を俳句に参加させても、いざ何を作ろうかという時、目標になるものがあまりに年齢から遠すぎる。」

            「現在の若い人が目指す作家は皆あまりに若さを失っている。」は不正確であったように思う。そもそも、「現在の若い人が目指す作家」とはいった誰だったのか。鷹羽狩行や阿部完市は多くの分別ある俳人たちから排斥されていたから(意外なことに当時鷹羽狩行は伝統俳句作家から正統派ではないと言って排斥されていた、古館曹人など)、その世代で我々が目指す作家とはほとんどいなかった筈だ。何のことはない、登四郎がいう「現在の若い人が目指す作家」は能村登四郎をはじめとした戦後派世代の作家たちであったのだ。

            登四郎の言葉をこう解釈すると、矛盾していることが二つあることに気づく。

            ①軽みや俳諧性を代表すると思われる作家が、前段で賞賛した飯田龍太とか森澄雄と思われることだ。すると、登四郎がここで言っていることは、気概と自信を持っていた龍太や澄雄を目指すのはいいが、けっして龍太や澄雄のような俳句を作るべきではないということになる。

            ②また、この文章の直前で、登四郎は自分たちが俳句を始める時には、五十代の秋桜子・誓子、四十代の草田男・楸邨・波郷がいて、みずみずしい青春の俳句にあふれていたというが、もし「現在の若い人が目指す作家」が戦後派世代の作家たち(許容できる範囲で狩行と完市を加える)であったとすれば、軽みや俳諧性を代表する龍太や澄雄か、難解な兜太や完市ら、そして人気があるが正統派ではないとされていた狩行しかおらず、「みずみずしい青春の俳句」は存在しなかったことになる筈だ。

            私も能村登四郎の雑誌「沖」に参加したが、登四郎に「みずみずしい青春の俳句」を期待する筈もなかった。むしろ、鬱屈した現代性を詠む心象的な作風に共感していたからだ。指導者としての登四郎と心ある一部の「沖」の青年作家(つまり登四郎に単に迎合していた作家は除く)は相当の乖離をもっていたことになる。

                 *      *

            以上のように述べた上で、沖の若い作家の句業として上谷昌憲の「都市ぐらし」という都市生活を詠んだ特別作品と、大橋俊彦の「チャップリンの死」という文字通りチャップリンの死という時事的作品をとりあげ、「若い人のもつ可能性というものは果てしないもので、それをもって灰色にくすみかかった俳句の壁を思い切りひらいてほしいものである」と絶賛し、以下「沖」に発表された都会風の作品を列挙している。上谷昌憲の「都市ぐらし」は忘れられて久しいし、大橋俊彦の「チャップリンの死」は前回の阿部完市により完膚なきまでに否定されている。その後の経過からいっても、どちらかと言えば能村登四郎よりは阿部完市の方が正しかったことになるだろう。

            そして、都会風の作品の列挙の中で鎌倉佐弓だけを取り上げ二十代であることを指摘している。正木ゆう子がいるのに。

            言っておくがこの時列挙された作家は、鎌倉以外みな中年ないし高齢者がほとんどであった。だから登四郎の文章は次のように締めくくられている。

            「俳句の若さというものは作者の年齢とはあまり関係はないもので、俳句が老人向きの文芸だなどと思っていたら二十代でも老人のような俳句になるし、又老人であっても俳句というものが常に心に新しさを与える詩だと考えれば、おどろくほど若い俳句が生まれてくるものである。だから年齢が若いからといって恃むことはできない。そして老人だからといっても作品の上でりっぱに若さをとり戻せるのである。
            若いという特権は世にある種々な楽しみの中に入っていくことができるが、その若いという特権を何よりも精神的な豊かさに向けてほしい。俳句に浸ることによって必ず人生の意義あるものをつかむことができると信じて進んでいってほしい。」

            これは部分的には全く正しい。しかし全体的にみると支離滅裂である。

            「部分的には正しい」というのは、この言葉は青年作家などもう眼中になく、自分自身のことを述べていると思えば、まさに能村登四郎の行動原理そのものだからである。登四郎は自分に刺激を与える人々に関心は持ったが、それ以上のものではなかった。血を吸いつくした抜け殻にドラキュラには興味がないのである。しかし、これを登四郎批判として受け取らないで欲しい、こういう行動原理を示せる人こそ立派な人生の教師であるからだ。虚子と秋桜子・誓子の関係はこうしたところがあったと思っている。文字を教える教師と違って、行動を教えられる教師は数少ない。

            「全体的にみると支離滅裂」というのは言うまでもなく、これは「青年作家に望む」というタイトルであるからだ。ちっとも青年作家に望んでいない。特に冒頭の、青年作家に期待し、アジテーションしている内容からすると、まさに支離滅裂であった。


            【まとめ】

            今回は能村登四郎の発言だけで終了しそうだ。

            さて、こうした考え方に基づく「沖」の若手の抜擢はどのように評価すべきであろうか。整理するとこのようになる。

            ①青年作家に期待していた。

            ②期待がちっとも論理的でなく、情緒的であった。指導原理もなければ(あっても、以上のような矛盾的な内容であり、かつこの指導は何の効果も持っていなかった)、批判もなかった。

            ③自己責任における実験がある程度許容され、そうした場が比較的豊富にあった。

            おそらくこれが、「沖」が成功したとされる要因だろうと思われる。特に、②と③は他の結社では期待できない特色であった。






            上田五千石の句【テーマ:「も」】/しなだしん


            春日照る厠一戸も能登瓦    上田五千石

            第二句集『森林』所収。昭和四十九年作。

            前回の〈さびしさやはりまも奥の花の月〉で、この句の型、リズム、中七に使われている「も」が、個人的にどうも癖になることに触れた。これに引き続いて、中七に「も」の用いられた句。

                    ◆

            掲出句と前回の「さびしさや」の句の型が大きく異なる点は、「さびしさや」の句が感傷的な上五で大きく切れているのに対し、掲出句は切れがなく一章仕立てであること。上五の「春日照る」で軽く切れるようにも感じられるが、意味としては「春日照る厠一戸」はひとつのフレーズになっている。
            掲出句は、「さびしさや」の句のように、「も」を中七の半ばに使って「の」で中七を納める型ではなく、中七の終りに「も」を置いた造り。だがどこかリズムが似ている。そのリズムを呼んでいるのは、やはり中七の「も」ではないだろうか。

                    ◆

            さて掲出句の内容を見てみよう。

            「能登瓦」は石川県能登半島で多量に生産されていた耐寒釉薬瓦。北陸特有の気候風土に根づいた大判の瓦で、黒い釉薬が特徴。

            能登を訪れると目につくのが、民家の黒いこの能登瓦。日の光りを浴びると、瓦の表面が濡れたように艶やかな光りを返す。能登瓦がなぜ黒いのかには諸説あるようだが、屋根の上に積もった雪が解け易い、というのが有力なようだ。また釉薬によって雪が滑り落ちやすいという利点もあるようだ。

                    ◆

            掲出句は、まず上五の「春日照る」が目を引く。敢えて「照る」という言葉を使うことで、黒い「能登瓦」が日をはね返し、したたっているような様を言い表している。

            次に「厠一戸」。「厠」が母屋から離れた場所に建てられている造りが、この頃の能登には残っていたのだろう。能登瓦の集落を訪ね、五千石はその造りをとどめている家を実際に目にしたのかもしれない。「一戸」という、厠の棟も一つの家として扱っているところに、その家、その厠の造りの立派さが表れており、厠の屋根にも能登瓦を使っているという、強い風土性が見える。

            そして、この「厠一戸」に付けられた「も」である。この「も」は、厠の屋根瓦も、母屋の屋根瓦も、そして集落の他の家の屋根瓦も、という能登の町の景観を言い表している。

                    ◆

            掲出句には前書き等ないため、吟行句なのかどうかは分からない。句会の兼題や席題での作かもしれない。だがこの具体さは、過去実際に目にした能登の、黒く輝く瓦の街並の光景を思って作ったものだろう。

            やや俯瞰した視線の先には、春の能登の海も見えてくる。


            【小津夜景作品 No.19】  墓より始めよ 小津夜景

            ※画像をクリックすると大きくなります。
            (デザイン/レイアウト:小津夜景)







               墓より始めよ   小津夜景

              お隣から戴いた蛙のバケツを提げ、購入したばかりの家の門をくぐると、そこは春落葉の絶えない庭だ。池のほとりで夫がオリーヴの枝を払つてゐるのが見える。私は火の粉のやうに散る虫を避けつつ、枯葉を漕ぎ分けて池に近づいた。
            「あ。これ、マラリアに冒された花みたいだよね。『百年の孤独』の——」
             夫は私に気がつくと、持つてゐた電動ハサミを一旦止め、足元に蔓延るコロナリアの群生を指さして言つた。そして、
            「墓のあたりは、もつと凄いよ」
            と付け足すと再び枝を払ひ出したので、私は蛙を池へ放し、その凄い様子を見に行くことにした。
             墓に着く。確かに凄い。イスラムタイルの敷かれた地面からこれでもかと雑草が生えてゐる。自分を開拓者とでも思つて働かないとまづ住めるやうにはならない雰囲気だ。安さにつられてこの家を買つたことを私は深く後悔した。
             絶望して墓の前に佇んでゐると、ふと墓石の字が読めさうなことに気づいた。見ると「辞世の詩」といふ表現がある。ここは詩人の家だつたのか!と新鮮な感動を覚えつつ解読してゆくと、如何にも詩人らしいひねた文章だ。曰く——
            「この墓碑詩は、どうか『辞世の詩』でなく『闘争前夜の総括詩』と呼んで貰ひたい。今から私は『恍惚なき死の世界』といふ、詩人にとり真の闘ひの場へ旅立つ訳だが、そこがいかなる茨の道であらうとも、私には闘ひの場を言葉で彩る趣味などない。さういふ、前線の至るところに何かを屹立させたがる感傷主義は、行為者たる真の詩人にあつてはならないことであり、またそれ故私は、闘争の前にさつさと総括をしてしまふのである。全ての詩人は、まづ墓より始めよ」


            馬酔木褪せねばならず存在の家

            摘み草の形而柔らかすぎにけり

            生ひ茂るアネモネ舌の根が鈍器

            かはづ(汝は名指しえぬものとか言ふが)

            むばたまの浮き島となる木蓮よ

            飯蛸に吸はれわが額は聖地へ

            にがよもぎ掴む無窓の此処なるに

            拭はれし巡礼の春オキシフル

            血に染まるほぞへ残花をふらせやう

            モザイクや共同墓地の紫荊





            【略歴】
            • 小津夜景(おづ・やけい)

                 1973生れ。無所属。





            【竹岡一郎作品 No.12】  春疲れた  /  竹岡一郎


            ※画像をクリックすると大きくなります。



               春疲れた    竹岡一郎

            山火の香十字架(クルス)の墓に十(クル)字(ス)切る

            煉獄の門が卒業子へ開く

            脆弱な巨塔見下ろし雁帰る

            誉れある骨と褪せけむ春の軍

            駄馬の蹴破るわが胸板も万愚節

            鉄と人へだつため降る桜かな

            さくら狩優しき罠へ偶に落つ

            女子高生花まみれなる鋸洗ふ

            春疲れた看取り疲れた憑かれたか

            囀りにおろおろと死の輪郭が




            【作者紹介】

            • 竹岡一郎(たけおか・いちろう)

            昭和38年8月生れ。平成4年、俳句結社「鷹」入会。平成5年、鷹エッセイ賞。平成7年、鷹新人賞。同年、鷹同人。平成19年、鷹俳句賞。
            平成21年、鷹月光集同人。著書 句集「蜂の巣マシンガン」(平成23年9月、ふらんす堂)。

             【俳句作品】  眠り   曾根 毅

            ※画像をクリックすると大きくなります。





                 眠り   曾根 毅

            十薬に忘れられたる言葉たち

            何処から翳り始めし潮干狩

            遠くまで流れてゆけり夜の桃

            馬の毛を梳かし八十八夜かな

            為す術もなく吹かれいて蛇衣

            かなかなや夢見がちなる草木に

            白桃の疵さながらに曝しけり

            皃の無き蟷螂にして深緑

            何処まで月光に透く傘の骨

            秋桜がレンズに触れてならぬなり

            醒めてすぐ葦の長さを確かめる

            尼崎あたり鉄屑時雨れけり

            凭れ合う鶏頭にして愛し合う

            冬雲の広がっている眠りかな

            スカートとポインセチアが無造作に

            凍蝶の眠りのなかの硬さかな

            沼に映る冬木いつしか夕まぐれ

            雪解星ふっと目を開く胎児かな

            凍蝶を見に病棟を抜け出しぬ

            春近く仏と眠りいたるかな



            【作者略歴】

            • 曾根 毅(そね・つよし)

            1974年香川県生まれ。「花曜」「光芒」を経て「LOTUS」同人。第四回芝不器男俳句新人賞受賞。現代俳句協会会員。


            三橋敏雄『真神』を誤読する 97. 飛ぶ鳥よあとくらがりのみづすまし / 北川美美


            97.飛ぶ鳥よあとくらがりのみづすまし

            <みずすまし>はA.ゲンゴロウ科の「まひまひ」とB.オサムシ科の「あめんぼう」の両方の呼名で呼ばれ、関西か関東かでもその区別は異なると言われている。

            <静まれば流るる脚やみづすまし 太祇>とか、<山水のすむが上をも水馬 一茶>など、江戸時代の俳諧でミズスマシと言えばおおむねアメンボということになる。

            この句はどうだろうか。暗がりで生息するのであれば、Aのゲンゴロウ科「まひまひ」の方ではないかと思う。ゲンゴロウは肉食性の動きの活発な昆虫で金魚などもガブリと食べる。

            掲句は、鳥とみずすましの対比である。飛び立つ鳥の後に残る生の場面。飛ぶ鳥はみずすましを餌としたかもしれず、仲間が生贄になったとしても、生きるために肉を食らう虫たち。飛ぶ鳥という明るさとみずすましの暗さの対比が美しい。

            切れ字の後の、「あとくらがりの」の「あと」が敏雄の技法ともいえるかもしれない。直後という意味合いも伝わってくる。残された場に生きているものがいるのである。

            鳥の句の一覧は<72.北空へ発(た)つ鳥の血をおもふなり>を参照。


            ちなみに<蒼然と晩夏のひばりあがりけり<飛ぶ鳥よあとくらがりのみづすまし>は、『眞神』収録句であるが、

            蒼然とあがる雲雀や水すまし (天狼S43.9)


            という形で発表された句がある。

            2014年4月11日金曜日

            第65号 2014年04月11 日発行

            【俳句作品】
            • 平成二十六年春興帖 第六
               ……池田瑠那,夏木久,岡村知昭,
            小林苑を,筑紫磐井  ≫読む
            • 現代風狂帖 
            <竹岡一郎作品 No.11>
            火葬場      竹岡一郎        》読む 
            < 小津夜景作品 No.18>
                フラスコと音楽    小津夜景   ≫読む
                

            【戦後俳句を読む】
            • 「正木ゆう子と私――戦後俳句の私的風景」⑨
            ……筑紫磐井   ≫読む
            • 「俳句空間」№ 15 (1990.12 発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(続・7、阿部完市)
            ……大井恒行   》読む
            • 三橋敏雄『眞神』を誤読する 96.
            ……北川美美   》読む



            【現代俳句を読む】

            • 小特集<「俳句新空間No.1」を読む>2
            平成二十五年癸巳俳句帖から(その1) ・・・・・・黄土眠兎  》読む

            • 特集<芝不器男俳句新人賞・受賞コメント>
             城戸朱里奨励賞受賞・俳句に近づくために ……表健太郎  》読む
            • 特集<西村麒麟第一句集『鶉』を読む> 10
              • へうたんの外に出てみれば   ……近江文代    ≫読む
              • 鎧のへうたん  ……阪西敦子   》読む

            • 【朝日俳壇鑑賞】 時壇 ~登頂回望 その十~
            ……網野月を   ≫読む
            • 【俳句時評】  「村越化石」をめぐる困難について 
            • ……外山一機   ≫読む
             【俳句時評】  
            大井恒行の日日彼是       ≫読む
            読んでなるほど!詩歌・芸術のよもやま話。どんどんどんと更新中!!


            【編集後記】
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                • 祝!恩田侑布子さんBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞!恩田侑布子……筑紫磐井 ≫読む
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                【西村麒麟『鶉』を読む20】 へうたんの外に出てみれば/近江文代

                2年程前になる。北千住某所、愉快な仲間達が集まる句会で麒麟ちゃんと出会った。近頃では句会の後の夜学(飲み会とも言う)が楽しすぎて、句会2時間に対して夜学4時間などという妙な比率になっている。

                知り合って間もない頃、緊張しつつ某居酒屋で私が注文した大きな豚足を、一緒にニコニコしながらつついてくれたのを見て、ずっと仲良くやっていけそうな気がしたのを覚えている。

                酔っぱらった麒麟ちゃんは時々烏賊のようにフニャフニャしていて面白いのであるが、実はこっそり皆を観察していて、後でスピカの「きりんの部屋」あたりにUPされたりするので要注意である。

                さて、そんな麒麟ちゃんから句集をいただいた。S/Nは111、ゾロ目である。総発行数が200なのでかなり貴重なゾロ目である。実に嬉しい。

                いただいた句集を、なぜか後ろから開いてしまった。

                 著  者 西村 麒麟
                 発行者 (妻のA子さん) 
                 発行所 西村家

                ずるいぞ、麒麟ちゃん。これだけでも、結婚2年目の初々しい愛が溢れた句集だということが分かるではないか。すっかり汚れてしまった自分を省みることとなった。

                さて、一ページ目をめくると、
                 
                へうたんの中より手紙届きけり 
                へうたんの中に見事な山河あり 
                へうたんの中へ再び帰らんと

                へうたん王国から日本にやって来ただけあって、早速へうたんの句が並ぶ。いつかは故郷、へうたん王国に帰るつもりだったらしい。故郷からの手紙には「おまえ、いつまでそっちにいるつもりなんだ」、なんて書いてあったのかも知れない。

                いつの間に妻を迎へし案山子かな
                孤独な案山子の姿は、麒麟ちゃん自身だったのかも知れない。へうたん王国にいた頃とは勝手が違う日本の生活、仕事に忙殺される毎日、そんな中、A子さんという素敵な女性に出会ったのである。

                大好きな春を二人で待つつもり
                「大好き」と宣言してしまう潔さが悔しいほど心地良い。「大好き」な春に「大好き」な妻が加わってますます「大好き」な季節となった。

                それぞれの春の灯に帰りけり

                これからは一人で暗い部屋の鍵を開けなくていいのである。西村家にぽわんと灯る春の灯、そして麒麟ちゃんを待つ愛しい妻の姿。どんなに酔っぱらっていても、終電を逃すことなく家路を急ぐ麒麟ちゃんの姿が私には見える。
                 
                嫁がゐて四月で全く言ふ事なし

                ここでも「全く言ふ事なし」と言い切る麒麟ちゃん。天晴!

                そんな幸せな四月ももうすぐやって来る。句の中には詠まれてはいないが、満開の桜まで見えてくる気がしてしまう。

                どうやら、へうたん王国からやって来た麒麟ちゃんは、愛する人と日本でずっと暮らしていくことに決めたようである。

                めでたし、めでたし。

                麒麟ちゃん、また北千住で豚足食べましょうね。


                【筆者略歴】

                • 近江文代(おうみ・ふみよ)

                   「野火」同人  東京都在住。