2014年4月4日金曜日

【西村麒麟『鶉』を読む18】  七句プラス1 / 佐藤弓生

島の秋覗けば何かゐる海に

 なるほど海の生物やらなんやらは、覗くというアクションを経ないと見えにくいわけで、その淡いドキドキ感がつたわってきます。

 なぜ春でも夏でもなく秋なのでしょう。

 こんぶたちにも枯れすすき的な美があるのでしょうか。日ざしの弱まりが句をやさしく揉んでいるようです。

さて秋の燕のやうに帰らうか

 初句、かっこいいです。じぶんも「さて」でうたい始めてみたいです。これも秋とありますけど、こちらはまだ晩夏の尾を引いている感じがあります。

 全体に軽い口調ですが、燕の越冬地ってフィリピンとかで(Wiki調べ)、かなり遠い。

 いかにもまだ体力のある、若い人の台詞です。しかしこの句が感じさせるのは瞬発力ではなく、生いさきの遠さ、長い時間、茫洋とした未来です。

滅ばざるもののひとつや鶴の足

 鶴の足、が難物。不滅のものとして、ダイヤモンドとか巨人軍とか不朽の名作とか恋とか、いろいろあるうちのひとつであると述べています。

 鶴は現実には死ぬ生物なので、滅ばざるということはないのだけれど、鶴の足を見た記憶とその印象とか、鶴の形状および色彩のイデア?とか、鶴亀図に人びとがよせる願いとかいうものだと考えると、ひどく美しい抽象に思えてきます。

 でも折り紙の鶴を連想すると、虚無にふれるようで、こわくもあります。

むかうとはあふみの向かう冬すすき

 年齢不詳句というか(俳句とはそういう文芸なのでしょうが)時代不詳句というか。「むかう・あふみ」の見た目のハーモニーがよく、こういうとき旧かなづかいはばつぐんだなと思います。

 音声的にも「ムコー→オーミ」と母音しりとりになっていて楽しい。

 近江の歴史的位置づけはよく知らないのですが、むかしの京の人にとって、近江より東へ行くのは海外赴任に近い感覚があったかもしれません。大海をへだてているわけではなく地続き感はあるにせよ、琵琶湖を単色にふちどるすすきのひとむれが現代にいたるまで「むかう」という概念を創出しつづけてきたという、夢幻と理知の共存を見せています。

鶯を鶯笛としてみたし

 うぐいす笛がある日うぐいすになって、さびしい少年の肩に……みたいな俗流メルヘンを逆まわし。
 無邪気な口ぶりながら、これが乱歩なら「人間を生き人形にしてみたし」と言っているようなもので、子どもの残酷さが見える気もします。

夏蝶を入れて列車の走り出す

 蝶を「入れ」たのはだれでしょう。

 列車が、と読んでみたいです。蝶が飛んできたので、列車が扉か窓をあけてやったという。

 俳句的には、そういう読みは、まずいのでしょうか。でも「夏蝶を(私が)入れれば列車走り出す」とは言っていないので、やはり列車の意志が介在しているかと。

冷麦や少しの力少し出す

 かるい句と読むのが本筋かもしれませんが、前の「少し」とあとの「少し」にあまりエネルギー差がないとするなら、それなりにかなりの力を出していることになる。


 非力な子どもが非力なりにがんばるくらいには、おとなもがんばりましょう、というような。

 あるいは、猫が体力温存しながら餌タイムだけ動くのを見習ってみましょう、というような。

 ……夏ばて防止法とかの本の帯に載せたい句に見えてきました。

 この句集の第一印象は「秋山亜由子さんの漫画を連想する」で、作者にそう申しあげました。

 理由を考えると、ひょうたんの中に小さな小さな調度品をあれこれ飾りつけて夏を過ごし、秋にはかなく死んでゆく虫たちの話が秋山さんの『虫けら様』冒頭に出てくるんです。

 冒頭ひょうたんつながりでした。

 麒麟さんとは、先日はじめて同席させていただき、ご交友関係もプライヴェートも存じあげないまま『鶉』を拝読しましたところ、いちばん目立つ句は


雀の子雀の好きな君とゐて


だと思いました。末永くお幸せに。





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