▼佐藤リえ句集『景色』
筑紫 今回最後の句集は佐藤りえさん『景色』(六花書林)です。
佐藤さんは昭和48年生まれ。今年46歳の方ですね。もともと短歌を作られていて、歌集も出されていたと思います。「豈」の同人です。
これが第一句集ですが、詠み方としては、先月から五冊読んできた中でもとりわけ頼りないような、漂うような詠み方で、それが個性なのかもしれません。逆に言うと、先月最初に読んだ人牧さんの句集から比べると、ここまで俳句は変わってきているんだなという気はしました。
口語だけど旧漢字を使っていたり、定型のきっちりとしたリズムで作っている句はそう多くないので、散文的というのか、短歌の影響も少しあるのかもしれないなと思います。
「人間に書けない文字や未草」。よくよく考えると不気味な句のような気がします。
もうちょっとリアルに不気味なのは「ゴーヤ爆ぜて独居老人留守の家」。これは爆弾だったら人変なことですね。「まだ誰も帰つてこない茸山」。この句は伝統俳句でもありそうな気もしますけれど、欠落感、ちょっと怖いなという感じもあります。
でもそればかりではなくて、「ここへ来て滝と呼ばれてゐる水よ」。発見と言えば発見かもしれないですね。「生存に許可が要る気がする五月」。なるほど、そういうふうに感じる人もいるのかなと思う句です。
「繁殖も繁茂もをかし額の花」。先月号で取りしにげた中嶋鬼谷さんに「西行忌花と死の文字相似たり」という句かおりましたが、こちらは「繁」の字に一字変えるだけで動物から植物へと移っていってしまう、そういう面白さがあります。
多分これは伝統俳句の句会に出しても大丈夫だと思うんですが「罪よりもわづかにかろき繭を煮る」。あとは「日傘など呉れて優しい男かな」。なかなか正面からこれだけ詠める人はいないのではないかなという気がします。
「アントニーからウイルス削除の小鳥来る」。「アントニー」が何だかわからないけど面白い。「バスに乗るイソギンチャクのよい睡り」。これは雰囲気が楽しいですね。
佐藤さんはこの句集を出したばかりで豆本のような句集も出していまして、この句集からの一部と新しく作った句でまとめて『いるか探偵QPQP』という自家製の句集ですが、テーマは推理小説で、最後に小説がついています。序文がわりの結末のない小説ですね。非常に構成力があり、新しいことを次々にやろうとしている方のようですね。
2019年9月27日金曜日
2019年6月1日土曜日
2019年4月12日金曜日
【佐藤りえ句集『景色』を読みたい】7 佐藤りえ句集『景色』 西村麒麟
2018.11.27六花書林刊行
佐藤りえ句集『景色』より。
中華をむっしゃむっしゃ食べながら、鰻はあそこが美味い、いいやあそこだ、いや穴子のが良い、とか話をしていて、最終的に最後の晩餐は何が良いか、と言う話題になりました。米と味噌汁がやはり人気で、あとはシャンパンが良いわと言う人も。
僕はその場で答えが決まらなく、帰ってお風呂に入りながらうーん、うーん、と悩みましたが、まだ答えが出ない。食べたいもの、美味しいものは世の中にたくさんあります。
今日は、カツカレーが食べたいな。
佐藤りえさんの句集『景色』を読んでいきたいと思います。不思議な面白い句がたくさんあります。
『景色』
眠かつた世界史(ロマノフ朝の転機)
カタカナが多いのが世界史で、漢字が多いのが日本史。
佐渡島「飛沫がすこし気持ちいい」
佐渡島のお気持ち。
ゆんゆんとロケット進む100馬力
好きな句。ゆんゆん、そんな感じがする。
声あげて笑ふをんなの春炬燵
春には春炬燵。
宇宙では液体ごはん食べてゐる
宇宙って、すごい。
人工を恥ぢて人工知能泣く
これも好きな句。なんだか愛しくなる。
ひとりだけ餅食べてゐるクリスマス
そして正月も餅。
馬追がはづかしさうに逃げて行く
きゃ。
中空に浮いたままでも大丈夫
オッケーです、浮いてるけれど。
炎天の隣の駅が見える駅
ここも、向こうもかなり暑い。
黄落やひとでゐるのもむづかしい
誰も見てないところでは。
をぢさんが金魚を逃すその小波
鯉になって帰ってきたり。
見るからに重い土瓶をさげてゐる
そして満タン。
ロシア帽みたいな鬱をかむつてる
黒々とでかい、鬱。
口開けて凧を見てゐる男の子
わぁ。この男の子可愛い。
足首を摑んで投げる鳥雲に
何かをどこかへ。
今日はこの辺で。
じゃ
また
佐藤りえ句集『景色』より。
中華をむっしゃむっしゃ食べながら、鰻はあそこが美味い、いいやあそこだ、いや穴子のが良い、とか話をしていて、最終的に最後の晩餐は何が良いか、と言う話題になりました。米と味噌汁がやはり人気で、あとはシャンパンが良いわと言う人も。
僕はその場で答えが決まらなく、帰ってお風呂に入りながらうーん、うーん、と悩みましたが、まだ答えが出ない。食べたいもの、美味しいものは世の中にたくさんあります。
今日は、カツカレーが食べたいな。
佐藤りえさんの句集『景色』を読んでいきたいと思います。不思議な面白い句がたくさんあります。
『景色』
眠かつた世界史(ロマノフ朝の転機)
カタカナが多いのが世界史で、漢字が多いのが日本史。
佐渡島「飛沫がすこし気持ちいい」
佐渡島のお気持ち。
ゆんゆんとロケット進む100馬力
好きな句。ゆんゆん、そんな感じがする。
声あげて笑ふをんなの春炬燵
春には春炬燵。
宇宙では液体ごはん食べてゐる
宇宙って、すごい。
人工を恥ぢて人工知能泣く
これも好きな句。なんだか愛しくなる。
ひとりだけ餅食べてゐるクリスマス
そして正月も餅。
馬追がはづかしさうに逃げて行く
きゃ。
中空に浮いたままでも大丈夫
オッケーです、浮いてるけれど。
炎天の隣の駅が見える駅
ここも、向こうもかなり暑い。
黄落やひとでゐるのもむづかしい
誰も見てないところでは。
をぢさんが金魚を逃すその小波
鯉になって帰ってきたり。
見るからに重い土瓶をさげてゐる
そして満タン。
ロシア帽みたいな鬱をかむつてる
黒々とでかい、鬱。
口開けて凧を見てゐる男の子
わぁ。この男の子可愛い。
足首を摑んで投げる鳥雲に
何かをどこかへ。
今日はこの辺で。
じゃ
また
※「きりんの小屋」2018年12月16日より転載
2019年3月22日金曜日
【佐藤りえ句集『景色』を読みたい】6 宇宙少女の地球観光——佐藤りえ句集管見 堀本吟
0 まえがき
いよいよ終活段階に入った私には、発展途上の若い人たちの俳句については、わかったつもりでいても、既にわれわれは同じ穴にいながら互いに理解不能なあがきに陥っているのではないか、と感じ、かように必要とされることになってもちろんうれしくは思いながらも、同時に、この人(たち)の世界をうまく読み解けるかな、という不安(それほど深刻でもないが)がよぎる。
しかしながら私は、句集をひらいてみて、じつはとても楽しい気分になったのである。
作者の選んでいる俳句のスタイルはほとんどが一般につかわれている五七五・十七音である。無季句もあるが一応季語を守っている。しかしながら素直に四季の運行に従っているかと言うとそうではない、すこし奇妙な「景色」がひらかれる。素材が大胆であること、今の世には存在しないかなりの事物が現れる。それから主格主語がわかりにくい、わかっても妙に奇異であること、等である。しかもそれにしては、表紙がとても地味で落ち着いた(しかし、どこのものなのかわからない)風景画である。句集名は、ズバリ『景色ーLANDSCAPE』。なぜ、このタイトルを?
というのは、私は、「景」という言葉にまつわることがずいぶん好きなのである。小説でも詩でも俳句でも、しばしばそこに「景」をみつけだしては喜ぶ。空いた時間ができたら、備前焼の湯呑に焼きしめた炎の痕をぼーっと見ている、そのときに浮かんでくる「景」。水に墨汁一滴、一回掻き回しひろがるマーブル模様の渦の「景」。もちろん、目を休めるためにながめる窓外の「景」、動かないようでいてとめどなく変わる雲の「景」。
また、俳句に言われるいわゆる言葉の「景」で、記憶に残るものだけでもかなりある。
例えば、以下のような句例はほんの一部である。
元日や一系の天子富士の山 内藤鳴雪『鳴雪句集』
阿部定にしぐれ花やぐ昭和かな 筑紫磐井『我が時代』
いくつもの時間を束ね散るさくら 花谷 清『球殻』
正岡子規の先輩なのに子規の弟子になった内藤鳴雪。富士山を焦点にして明治人の元旦のハレの気分が目に見えるようだ。おおらかな「大景」だ。戦争に勝っても負けても元号が変わろうと変わるまいと、天皇制においては依然「一系の天子」。「富士山」も変わらぬ、「元日」もしかり。現代の象徴天皇制下では、まだ、ミゴトな「景」として活きている。
筑紫磐井のこれは、ハレの句とはとうてい言えぬのだが、時雨の中を大事そうに何かを抱え込んで小走りにゆく女は、切羽詰まっているように見えてどことなく艶である。「阿部定事件」という世を驚かせたスキャンダルを知らぬ読者には、この句でもって戦前の昭和の時代世相を、深くは味わえないかも知れない。それは仕方がないことだが、であっても、彼女にとってもっとも大切なものは何だったのか?それくらいは考えてほしい、その一物が「昭和の時代」を象徴する、と磐井は書くのである。食えない作家である、そして、この阿部定も食えない女である、この句は食えない一句である。これも一種の奇想だが俳句形式で時代を包括し得た「大景」というべきだ。
花谷清の句には、科学の分野の専門用語がしばしば出てくる。かなり観念的な思索を要求されるものが多い。この「時間」にも物理学の概念が含まれているのかも知れない。(もっとも私は、そこまでは考えない。)
眼前に散る「桜」は「時間を束ね」たように思え実際にそう見えるのである。「富士山」と同じ、日本人は様々の感慨をこの花に託す。古くからのイメージを背負ってきた花にぶつけて、その二物衝撃のなかであたらしい美の風景を作ろうとしている。われわれはその表現された詩歌の記憶(時間の累積)を抱いて、季節が来るとそんな「桜」を見上げる。
それでは、佐藤りえ句集の中の「景」は、先行するそのような景に何か新しい要素を加えているだろうか?
句集には、そのような先行句にみられる「過去景」も無論収められる、しかし、むしろ「未来系」いや「未来景」というべき時制がチラチラと現れている。これはなんだ、といいたいのである。そういうところが、新しみとしておもしろい。
また、むしろ、一歩進んで、到来していない未来に飛び、どこからか現在を過去とみなす視点を得ることもできるのではないだろうか?まるで、SF映画かテレビアニメのように
うるはしき地球忘れてしまひけり 佐藤りえ 句集『景色』p121《望郷篇》
たとえば、この句では、彼女は何処にいて地球のことを考えているのだろう。
宇宙飛行士にでもなりきって、地球を外から眺めているからこういうのである。人類はもう画期的な経験をはたしている。彼女個人はまだそこにいってなくとも、近未来的にはあるいは可能になることだ。いやその気になって、それを果たし得たときが、彼女の「現在時」でもあるだろう。
俳句の景色に地球や宇宙が登場する例は、彼女が最初というわけではない。が、それら名句の多くは、いまだ地球に立つ人間の地上の旅人の感慨に沿っているものが多いのである。もちろん、そういう題材や光景もこの句集にはある。が、彼女が一章を立てていかにも当然のように描く宇宙や地球の風景は、いまだ現実ではないのにもう現実界のできごとのように進行している。しかも、それをぬけぬけと書いている。そして騙されやすい読者をともにひきずってゆく。俳句も立派な言葉の仮構で成り立つ世界なので、句集にはその種の牽引力がある。いつのまにか、引き込まれる宇宙人との交歓シーン。ひどく特異な(むしろばかばかしい)場面なのにそのような不思議な気持ちになってくる。
閑話休題
すこしずつ本書の琴線にふれつつあるのだが、もう少し、前置きを。
景色(landscape)。風景(sightseeing)、景観(scenery)、光景(view、sight、spectacle)、と。これらはそれぞれ微妙に違うあらわれかたをする「景」の観念だ。英語でもどういう種類の「景」にどういう単語を当てるかは、あまりはっきりしていないようだ。いずれも、光にあたって浮かび上がる事物の輪郭、そのニュアンスに関わる語彙が「景」である。「景」の文字には「光」の意味がある。光をうけて輪郭や色彩が明らかになった外界の姿を「風景」と言う。ネット上の或る記述に従うと、「風景」と言われる場合はビジュアルな客観性が強く、「景色」といわれるときには精神的なニュアンスが強い、(はっきりこうと決めすぎるとまたわからなくなる)。「景観」はドイツの地理学の言葉からの翻訳「lands chat」であるが、地理学に用いられるときに、自然景観、文化景観などと使われる。この言葉を使ったドイツ語の文章が和訳されると、「景色」「風景」、「景観」、「田舎」などそれぞれの文章に会うような日本語が当てられている。と、こんなことが改めてわかったことも句集『景色』のおかげである。
「景」のありようは、観るものの意識がふかく関わってくる、こちらがそう決めるから、風景は発見され、景色や景観になるのだ。
ともかく、この句集では、それらを総合して、「景色ーLANDSCAPE」が発見され、ひとつの新鮮な近未来の風景が展開されている、というのが、私の読みの方向感覚である。
1 あだしのをはだしで・・
最初に例を挙げてみる。一種の過去景なのだが、どうも歴史時間の遠近が狂っているように見えてくる。望遠鏡をのぞいたときに入ってくる世界のように。
化野ははだしで行くにふさはしい p049《怪雨》
りえには、京都嵯峨野の「化野(あだしの)念仏寺」の景色はこう見えている。この土地は、古くから広大な墓所で八千体の石仏や石塔がある。またおのずから、あの世この世の境を歩く人影がさまよう場所である。
生と死の臨界に位置するとどういう句を読むのか、有名辞世句とされるものでは
旅に病で夢は枯野をかけ廻る 松尾芭蕉(元禄7年10月8日作『笈日記』)
人魂でゆく気散じや夏の原 葛飾北斎(嘉永2年4月18日(1849年5月10日)
がある。りえもこの過去景に似た感慨をいささか引きずってはいる。しかしりえの俳句は妙にあっけらかんと無責任だ。
「化野(あだしの)」から「はだし」が呼び出されていることを、鋭敏な読者はお気づきだろう。この連想ゲームから、放浪好きの少女のスキップのような軽い遊び感覚が生まれる。軽快にあの世の出入口をスキップするのである。明暗が入れ替わり、虚実の場面も入れ替わる。このようなちょっとした仕掛けが随所にある。そのため、彼女の場面設定やそこに時空にただよう気配を、像にまとめようとすればかならず視線の撹乱をきたす。八千体の石仏がならぶ化野にはだしで踏み込んだら、とんだ怪我をしそうである。大事なことをこともなげに軽くいうことに、人は抵抗を感じるものだけれど、死ぬってそんなに大したことではないのよ、と あどけなく少女はスキップで駆けさってゆくのである。そう考えると、芭蕉の「夢」も、北斎の「気散じ」も後世が持ち上げるほどのものではない、私達が人生の一瞬にちょっと出会ってしまう「あの世」の入口の景なのであろう。しかし、一歩でるか出ないか、視線の向きを変えるかどうか、で景色はガラリと違ってくるのである。
2 箱庭の大きなものが小さくなる
箱庭も棲めば都といふだらう p019《七人の妹たちへ》
先に望遠鏡の世界と私は書いた。掲句にはその遠近の感覚が働いている。或いは、写真の接写や老眼鏡を外した歳、焦点を取り戻そうとする虹彩の混乱。すなわち意識の混乱。
しぼられてあはきひかりの世となりぬ p115《柑子を掲ぐ》
「箱庭」は、ミニチュアを用いて、小さな箱の中に一つの景色、人工の自然をつくるものである。イメージが自然の姿をなぞって作られるものであったとしても、本人にとっては自分なりの世界像のモデルの表現〈創作〉である。それは、江戸時代に流行った盆栽などに似ている。でき上がったそれは自分の理想郷なのだから、そこに思い入れして棲み着こうという奇特な少女や浮浪者がいてもそうおかしくはない。見方によればわが俳句ランドも箱庭みたいな夢見られた小宇宙だろう。あたかも花谷清が桜をもって形容したように、そこには「時間」が束ねられている、「空間」が折り畳まれている。ユング派の精神科医である河合隼雄は、それを精神医療の場に取り入れた。「箱庭療法」といわれている。
意外に思ったことは、作者佐藤りえは、「棲めば都」という広く使われていることわざが活きる精神の深さを的確にまた楽しく受け入れているのだ。身の丈にあった環境に適応するための、過去から守られている庶民の生活美学を、俗世の重要事としてよく理解できる人なのだ。そこは、私が感心したところである。
ともあれ、「箱庭」>「都」、「箱庭」=「都」、実際の寸法は「箱庭」<「都」である。遠近、大小、模型と実際の空間、頭の中で大小の置き換えがなされてくる。この入れ替え句の中で行われる入れ替えの動きが楽しい。
よく見ると、この句は。文法的に見ると複雑な入れ子構造になっている。
見えない「誰か」が主格であること、その動きに則って、「箱庭」世界をもう一度箱の外の界にもどしてゆく見えない主格の操作。「誰か」が棲む大きな「都」を、そこに嵌め込むのである。大から小へ帰るたびに世界の内部と外部は入れ替わり、次元の転換がおきる。
もう少し考えてみる。まずこの俳句の主語は二つある。
◎主語を「私」と考えた場合、さらに二つ読み取れる。(この場合は身辺の風物詩、「小景」に近い。が、近景と遠景を圧縮した大景のスケールとなる。)
・(私は)、この箱庭に入り込んで「箱庭も棲めば都」と、(こういうだろう)。
・(私は、この「箱庭」を外から見ながら思う)。「箱庭も棲めば都というだらう」、(と。)
◎二つ目には、「箱庭」が主語だが擬人化されている。「小景」
(箱庭は)新しい住人に、「棲めば都だよ」、といってくれるだろう。
◎三つ目に、いわゆる「It」。作品の外からの包括的叙述。(「大景」が生まれる)
・「箱庭」とはなにか。それは眼前に置かれたら、「棲めば都」と喋りだすような、ごく小さな場所のことである。
誰が言っているのかけっきょくわからない。巨大な宇宙神の俯瞰のもとでは、地球もそういう箱庭にひとしい。それがまさに、佐藤りえが駆使している思考の詐術、あるいはレトリックの妙というべきである。
3 宇宙という環境→佐藤りえの「宇宙俳句」
位置の置き換えによって結果的に生じてくる撹乱という例にはにこういうのもある。
ロボットの手をふる庭や系外銀河 p024《夜伽話》
地球は巨大な銀河系宇宙「天の川銀河」の中のさらにちっちゃな惑星。何千何百それを遥かに超えた星の集まりがぽこぽこ浮いているのが宇宙である。「系外銀河」とは、我が地球が属している「天の川銀河」ではない、その外側にある別の銀河系のことである。そして、その系外銀河の一つの星へ(あるいは星から)、ロボット〈がいたとしてもおかしくない〉が手を振っている。おたがい庭に立って手を振る。向こうから見たら(見えないはずだが)、「天の川銀河」もその中の地球も、ちっちゃな庭も、我々がいう「箱庭」より微小だ。この「庭」は、「系外銀河」のどこかにあるかも知れぬ「庭」でもある。
しかし、じつはこの題材は根拠のないナンセンスなものではなく、天文学上の最近の発見からきている。系外銀河の一隅に、地球によく似た七つの惑星が発見され《七人の妹たち》と名をつけられた。メディアを賑わしたその話題からこの句集の一章が作られる。むしろこの句集のテーマともなっている。続く《夜伽話》の章も同じ着想、同工異曲のものであろう。りえが云う「景色」とは、二十一世紀の地球人と宇宙人が出会うあたらしい世界の「箱庭化」なのかも知れない。そして、系外銀河に棲む「妹たち」の庭もいずれは「棲めば都」になるのだ。
ところで、私の先師、和田悟朗は科学者であった。そのせいか、地球とか宇宙、惑星の語彙をもちこんでたくさんの句を残した。理科系しかわからぬ専門用語ももふんだんに出てくるので、語彙の難解さから来る意味付けの難解さに閉口することがあった。
地球儀にわが町見えず大晦日 和田悟朗 『風車』p046《Ⅰ 木 春の草》
野に遊ぶ静止衛星から見られ 同 同 p058《Ⅱ 火 舞踏》
なずな摘む太陽系のさびしさに 同 同 p126《Ⅲ 土 観覧車》
「地球儀」はまあいいとして、「静止」とは物質の「静止」に特別の学問的意味があるのか?「太陽系のさびしさ」などとくればやっぱり考えるし、敬虔で深遠な気持ちになる。日常ではあまり使われない専門用語と科学的な概念をふだんの自然体の生活感覚と融合させるレトリックである。というより、習性となった科学者の思考や感覚からくるのだから、そのずらし方に気がついたら、そう難解ということでもない。それに一人の市民として戦争体験、阪神・淡路大震災の体験など、彼はむしろ自分の日常を正直に俳句にしてきたのだ。
ただし、俳句の中での宇宙的視野の堅持と開拓という意味では、和田悟朗は他の俳人に抜きん出ていた。テクノロジー時代の俳句のパイオニアでもあったと思う。私が思うに、りえ俳句は、科学という位置からではなく、その問題意識を引く「宇宙俳句」である、テクノロジーが一般に流通し広がってきた結果の現在の文化を吸収謳歌しているのである。このような学者風の日常詠で、地球の景色を描いているのではないとしたら、では、私は彼女のどこが宇宙的なのだろう?
句集『景色』には、彼女独特の「フィクション」(?)の世界が現れる。高名な学者が俳人であった以上に、彼女の宇宙への関心は深く好奇心に満ちている。そのような新しい年代の俳人の登場には存在感がある。
4 小さなものが大きくなる
位置の転倒や大小の入れ替え、それへのこだわりは、次の句にも現れている
アリスほどに憂き妹のかひやぐら p015《七人の妹たちへ》
海市見てより絵のなかに潮鳴る p023《夜伽話》
この「妹」を無理にかの星の「七人の妹たち」のことだとは思わなくてもいいのだが、とすれば登場する妹「アリス」、この像はなんだろう。もちろん『不思議の国のアリス』が考えられる。まだ幼さが吹っ切れないのに、なぜか憂わしげに「貝櫓」(蜃気楼のこと)のなかにいて遠くはかない目でこちらを見ている。「妹」である異形の存在が「かひやぐら」なのか、そこにいるちいさな影が妹なのか?しかとはわからぬながら、遠くにいながらかくも親しく結びついてくる。そして、「海市」(貝櫓=蜃気楼)を見て家に帰ると、絵のなかに浮かぶはてしない海の風景、潮鳴りさえ響いてくる。壁の絵があの海市(蜃気楼)のようにも思える。様々な次元移動のきっかけの一つだ。
これら、小さな小さなもの(この場合「妹」)は、自分の幼児体験への遡及とも言える。おおきな遠い世界への入口である。いやその中に既にはいりこんでいる。
靴を縫ふ小人の針のクリスマス p059《雲を飼うやうに》
小人の小さな靴を縫う繊細な針。さらにちっちゃな針の目、そこを通る糸の道を通って。そのような存在をも救うために主は来ませり。クリスマスを扱った連作中の一句。
さらに、小さなこの世界にもときに惨劇は起きる。
りりやんの穴に落ちしは春の蠅 p010《犬を渡す》
リリヤン編みには専用のツールがあり、子どもにも簡単に筒状の紐を編むことができる。その網状の紐のさらに細い煙突の輪の穴の真ん中に、早々と生まれてしまった蠅が落ち込むのである。たおやかで柔らかな羽と胴体が華麗な筒の檻の中でもがいている・・。美しい糸で編まれた細い牢獄。少女ならではのアモラルなありえない残酷な遊び。自分のある時期の状態をこのように回想しているのだろうか?りえさんは、喜ばしいことに有季無季を自由に自在に使いこなしていて、これは「春の蠅」、季語として効果的である。華麗な蝶などではないところもいい。こういう句の中に、俳句本来の形を感じ取ることができる。
小さなものが、ありえない場所に蝟集する異様な光景がさらにあらわれる。
生きてきてバケツに蟻をあふれしむ p051《怪雨》
何の理由なのだかおびただしい数の蟻をバケツにとじこめてあふれるほどなのだ。逃さないための苦労も偲ばれる。同時にこんな不気味なザクザクした光景を見せつけられると、今まで生きてきたものたちの存在の影も重く浮かんでくる。例に上げた幾つかの句では、身辺の微小な事物と、想像力の駆け巡る内面をむすびつけ、寓話としてのファンタジックな景色が開かれていることに気がつく。
茫茫と遠出する蟻地球縮み 悟朗 『風車』 p116《Ⅲ 土-観覧車》
また比較したくなるのだが、和田悟朗のこの句を読むと距離感や大小の認識が混乱して不思議な気分になる。人間から見ると数メーターの距離であっても、ひたすら獲物を目指して進むあの小さな小さな蟻の認識のうちには、遠近の自覚もない。が、蟻の実速から考えると、人間が地球をひとまわりする距離ではないか、と悟朗は考え、蟻のごとくぼうだいな距離を歩いた気になり、この地球の距離もずいぶん短く(すなわち地球が小さくなって)「地球縮み」と納得する。距離の単位を替えてゆけば、この種の科学的な推論と、非科学的に見える幻想の飛躍は、つまり和田悟朗と佐藤りえの認識世界は、すごく近しいものとなるのではないだろうか?
5 宇宙がだんだん近くなる
句集『景色』には、この悟朗の場合とはちがうのだが、百科事典やWikipediaで検索しなければわからない特殊な「専門用語」がかなり出てくるので、私は困惑する。SF小説やアニメのヒーローに通じていないからだ。
星人に花冠のやうな木漏れ日よ p008《犬を渡す》
この「星人」てなんだ。「星の王子さま」の成人式だろうか?と一瞬オバアギャグもでてくるのだが、ともかく人間に似た姿をしているが地球人ではないいわゆる宇宙人のことだろう。(もっとも、「星人」は、周りの人たちと違い変わった地球人にも比喩的に使われる)。
「ウルトラマン」シリーズに登場する宇宙人のなかで、最強最悪とされるのが、メヒィラス星のメフィラス大魔王とその眷属や配下の獰猛な闘士達。伸長六十メートル、体重二万トン、IQは一万という剛のものもいる。これらメフィラス星人は地球制覇を狙う悪質星人である。彼らはつねに地球壊滅をねらって潜入しているのらしい。その星人が森の中に突っ立っている。高い枝から漏れてくるれる日差しが花の冠のようにかぶさっている。悪質宇宙人であってもこの姿は神々しい。メフィラス星人には「らっきょう」が好きな輩もいる。悪者であっても地球の食文化には馴染んでいるのだ。
食材も開拓されて豊かになってゆくだろう。
揚げ物にしてよしアラクニド・バグズ p022《夜伽話》
アストロノート蒟蒻を食ふ訓練 p028《まるめろ主義》
「アラクニド・バグズ」。これは、ギリシャ神話にアラクネーなる傲慢さ故に蜘蛛にされた人間の女が出ててくるので、そのアナロジーだろう。映画「スターシップ トゥルーパーズ」に出てくる邪悪な昆虫型宇宙生物、蜘蛛に似た容姿である。それは、海老フライやタラバガニの天麩羅よりも美味しいだろうか?老人食には向きそうもないが。佐藤りえ家の食卓の定番メニューらしい。
平成が終わる現在、俳句の素材は宇宙規模に広がっている。山口誓子が「俳句素材の拡大」を主張し始めたときも似たような拒否反応が現れた、新興俳句の出発なのであるが、俳句の素材は宇宙規模に広がっている。現代は、あたらしい新興俳句の勃興期なのだろうか?平成が終わる現在、新しい素材の拡大が行われている。
6 さらに、ナンセンスになる地球の景色
以上は宇宙生物キャラクターになりきりの俳句を紹介した。以下はナンセンスファンタジー。これらは取り合わせのセンスで良し悪しが決まってくる。
かぎろひに拾ふ人魚の瓦版 p010《犬を渡す》
「人魚の瓦版」とは、人魚の世界で流通している瓦版、または人魚について書かれてある瓦版。「瓦版」とは、江戸や明治の初期に版木で刷り増まして往来で立売した新聞みたいなものだ。「かぎろひ」は、私の覚えでは、春昼のあのゆらゆらした陽炎のことか?
いまひとつは、万葉集に出てくる日の出のときに野原が赤く染まるあれか?
東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ 柿本人麻呂〈万葉集。巻の一.八十四)しかし、好みとして、筆者は、「かぎろひ=陽炎」でいただく。後者の「かぎろひ」でも悪くないが、山のなかの吉野郡大宇陀町の「かぎろひの丘」に人魚が出没するには少し無理がある。瓦版と云うなら、江戸市中での見世物小屋などのファンタジックな世界を喧伝していただろう当時のジャーナリズムのことを想像する。
それから、こんなのはどうだろう。
花過ぎて檻に唐獅子居眠るを p011《犬を渡す》
「唐獅子」はもともとは、中国で生まれた獅子に似た霊獣のこと。屏風絵、刺青の図柄に大変人気がある。「花」(ここでは桜花ではなく牡丹)の季節が過ぎれば、唐獅子だけではインスタ映えしない。侠客達が、次の牡丹の季節に仁義を切るための出番を待っている間、入れ墨の背中から取り外して檻に入れて飼っていたら、唐獅子も退屈して居眠りしているという光景。漫画的アイディアとなりゆきも、言われてしまえば理屈があう。筋の通すための説明を考えていると可笑しい。
これら、奇矯な素材を頓智や機知に持ってくる書き方は、わかりやすいだけに、お笑いタレントばりに、笑いのツボをどのあたりにおくのか、という工夫が、良し悪しの分かれ目だ。
7 なんてことない説明や述懐につられて微妙な深みにはまる
つぎの世へ何を連絡する係 p074《麝香》
なんのために私は来世にタイムスリップするのでしょう? 確たる映像も羅針盤もない転生、妄想的使命感が次の世でいきるためのエモーションとなる。
中空に浮いたままでも大丈夫 p079《大丈夫》
敢然と宇宙旅行に乗り出したものの、ふと、無防備状態で中空に浮かんでいることに気がつき恐怖している。大丈夫大丈夫よ、たぶん・・。
まるめろや主義があるんだかないんだか p030《まるめろ主義》
このようなずらし、彼女の得意のテクニックである。香りのいいマルメロを嗅ぎながら、いいよどっちにでもまるめこんでしまえ、と考えている。この句自体、批評性があるんだかないんだか。
黄落やひとでゐるのもむづかしい p088《空船》
地球に帰化した宇宙人の戸惑い、若い女性、古希を越えた老女、みな似たような煩悶を抱いているものだ。「黄落」という季節の現象が華やかでわびしい風情を呼び出す。降りしきる黄葉のもとではいろんな感慨にふけることもうなずけるが、何も「ひと」である必要などないではないか、と物想うところ、いささか奇矯でありまた深刻なのだ。
このような存在の不安を捉える感覚が繊細でするどい。不安定さや不安に耐えて、ここをもっとおさえて欲しいものである。
8 風景の発見 表現としての景色
ここへ来て滝と呼ばれてゐる水よ p084《大丈夫》
川は流れて、ある地点にきてまっさかさまに落ちはじめる。途端に「滝」と呼ばれ、名勝の景観ともなる。地形の変化が水の状態を変える。そこに名を与えることで、あらたな「景色」がそれと自覚される。景色とか風景がそれと自覚されるには、地形や地勢の変化とそれに気がつく視線の革命が必要なのである。
過激とは風景竹が雪折れぬ p114《柑子を掲ぐ》
よくしなる竹でさえ大雪のために折れてしまった、その激しい変化を「過激」だという言い方が面白い。「風景」それ自体はうごかない。しかし、ただの静止状態から「過激」に突出して存在主張をする。それはいわば自然現象に生じている差異の発見なのだ。自然体を逸脱するのも自然のことわり。その「過激」さを見つける視点こそ、とりわけ俳句には必要とされている。
閑話休題
佐藤りえの観る景色がリアリティを持つには、またしても悟朗の先行句がある。
鏡薄し前に後ろの冬景色 悟朗 『風車』p082《Ⅱ 火-舞踏》
冬景色歩き止むとき景終る 同 p178《Ⅴ 水 風来》
実際は後ろにある景色が鏡にうつっているから眼前にある。鏡の中に入り込めそうに薄い。「鏡薄し」のところにこの人の、科学的理屈をこえようとする文学的理屈への志向がある。あるきやめる(見ることをやめる)と「景色」は何も主張しなくなる、こんな句をのこした和田悟朗は風景の虚実に身をおいた詩人だという気がする。対象世界が自分に帰ってくる瞬間をみつづけ考え続けている。
そして、今もっとも新しい地上の風景句、大景句を見てみれば、私にいわせれば、それは高山れおなだと思うのである。(朔出版2018年12月7日)
これがまあコンスタンティノポリスの夕焼けなる 高山れおな
句集『冬の旅、夏の夢』 p010《イスタンブル花鳥諷詠》
星月夜写真に撮れば渦を巻く p063《乙未蒙古行》
システィーナ礼拝堂
宇宙劇寒暮口あけ仰ぎしは p071《ローマにて》
ルンバはたらく地球は冬で昼の雨 p101《みな死んでゐる》
混じりあふ食魔の息の白き巷 p133《食魔たち》
この旅吟集は、非常に優れている。
しかし、彼にしても先に上げた風景を読む俳人たちも、地上の旅人だ。地球を出ないまま宇宙を見上げ、カオスを夢想している。
いまのところ佐藤りえのみが、敢然作中の存在になりすまし宇宙に飛び出している。宇宙人の一人として、そとから地球を見ている。そのスタンスが特異である。アニメ世代が作り上げたアイデンティティというべきだろうか?そこのところは私にはまだわからない。
9 章立ての過激さ—ドラマチックな景色
面白がっていてもキリがないことに気がついた。もう一度目次を読む。
句集『景色』目次
犬を渡す・七人の妹たちへ・夜伽話・まるめろ主義・地球惑星・バスに乗る・怪雨・雲を飼ふやうに・団栗交換日記・麝香・大丈夫・空船・歌ををしへる女・替へ釦・銀を噛む・柑子を掲ぐ・望郷篇・ハッピー・エヴァー・アフター・あとがき
全部並べてみるとどれも物語性がつよい。ここですでに短編小説集のように連作群の「景色」が展かれる。この目次中の一句一句がお互いに関連付けられてくる。その一句一句は奔放にドラマの世界を異星人のように動き回っている。舞台は紛れもなく地球をふくめた「宇宙」という場所だ。面白く読み終わると、
その後の幸福といふ花疲れ p125《ハッピー・エヴァー・アフター》
とちゃんと落ちまでがつく。
佐藤りえには、アニメやファンタジーで培われたユニバーサリズム(汎宇宙主義)というべき世界観があるのだろうか。好奇心が強くてかなりアモラルな現代のアリスがくりだす機知の氾濫、系外銀河の庭にもこの地球の箱庭の中にも、彼女のいう「過激な」風景がひそむらしい。
だが、アモラルの根底には過激なほどの地球生命体の営みへの感傷や執着をみとめる。
彼女が、どんな景色を見たのか、ということも楽しんだが、それより、いまの日本の文化の一現象として動き回る「佐藤りえ」という若き女性俳人の存在というものに目を惹かれたのである。(了)
筆者註
・引用句色分け(佐藤りえ句の引用句は橙色、以外の引用句は赤色で記入。)
・引用句出典
佐藤りえ句集『景色―LANDSCAPE』(発行:六花書院/発売:開発社2018年11月27日)
内藤鳴雪『内藤鳴雪句集』(博文堂1909年)青空文庫にて参照。
(底本「現代日本文學大系95 現代句集」筑摩書房1973年9月25日初版第1刷発行)
筑紫磐井 筑紫磐井句集『我が時代 -二〇〇四~二〇一三-〈第一部 第二部〉』(実業広報社 2014年3月31日)
花谷清 句集『球殻』(藍叢書48 ふらんす堂 2018年5月24日)
松尾芭蕉の辞世句(元禄7年10月8日作『笈日記』)出典:山本健吉著『芭蕉三百句』(河出文庫)
葛飾北斎の辞世句(とされる。グーグル検索数箇所の結果、没年を採用)
和田悟朗 句集『風車』(角川書店 2012年3月25日)
高山れおな 句集『冬の旅、夏の夢』(朔出版 2018年12月7日)
2019年3月8日金曜日
【佐藤りえ句集『景色』を読みたい】5 〈食べてゐる〉人——佐藤りえ 第一句集『景色』を読んでみた 飯田冬眞
「食は人なり」という言葉がある。フランスの美食家ブリア・サヴァランの著書『美味礼賛』に「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるかを言いあててみせよう。」(関根秀雄 訳)がその典拠という。18世紀のフランス人に言われるまでもなく、現代のわれわれもSNSや自身のブログなどに、その日に食べた料理の画像を載せている。たぶん無意識に。けれども、観るものは、その画像を通して発信者の好みや健康状態、交友関係、経済力などを推し量っている。画像の如何によっては美的なセンスや教養の度合いまでも露呈してしまうのだ。そういう意味で、何を食べているかを知ることはその人を知ることにつながるのかもしれない。そこで、「食」の観点から佐藤りえ氏の第一句集『景色』を読んでみることにした。
アストロノート蒟蒻を食ふ訓練 28-1
本句集の帯文に大活字で載せられている句。「アストロノート」は宇宙飛行士のこと。宇宙飛行士が実際にそのような訓練をしているのかどうかは別にして、なんとも滑稽な景である。宇宙飛行士は無重力状態でふわふわと浮いている。緩慢な動きでコンニャクをつかもうとするが、弾力性のあるコンニャクはつるりと飛行士の手をすり抜ける。世界中のエリートである宇宙飛行士がコンニャクを必死に食べているという構図がおもしろい。〈訓練〉という、本人の意思とは異なる状況下を選択した切り口に不条理なユーモアがある。ちなみにコンニャクは腸の運動を活発化するため宇宙飛行士の健康維持に寄与できると考える農学者もいるようだ。コンニャクゼリーが宇宙食になる日もそう遠くはないのかもしれない。
宇宙では液体ごはん食べてゐる 30-3
〈宇宙では〉と状況を規定したうえで、〈食べてゐる〉という日常を描く。その中心に〈液体ごはん〉がある。だが、宇宙航空研究開発機構 JAXA(ジャクサ)が認証している宇宙日本食34品目のなかに〈液体ごはん〉は見当たらない。そもそも〈液体ごはん〉とは何か。「おかゆ」や「離乳食」のたぐいだろうか。前者だとすると消化器官の衰えを連想させ、体調の不良を暗示しているとも考えられる。後者だとすると歯が生えそろっていない乳幼児の姿が思い起こされる。〈宇宙では〉という非日常性を考えると、後者の「離乳食」に軍配があがりそうだ。保護されなければ生存できない乳幼児。その心理状態に退行しつつ、宇宙空間に漂う孤独を素描したものだろうか。
さうでない家のお菓子を食べてゐる 24-4
不思議な句だ。〈家のお菓子を食べてゐる〉だけであれば、単なる報告である。日常の幸せなひと時。親の庇護のもと「おやつ」を食べていた幼少期の記憶のスケッチとも受け取れる。しかし、〈さうでない〉と否定形があることで、句意は複雑になってくる。〈さうでない〉が〈家〉にかかっているとすれば、〈食べてゐる〉のは他人の家の〈お菓子〉になる。また、〈さうでない〉で文節が切れているとすれば、〈食べてゐる〉のは自分の〈家のお菓子〉ということになる。
前者の、〈さうでない家〉の〈お菓子を食べてゐる〉ときの作者の心理状態は、どうだろう。他人のお菓子を食べているのだから、決してくつろいだ気分ではないはずだ。後ろめたさ、緊張感、疎外感、閉塞感などが心中に渦巻いているのではないだろうか?そうした心理状態で〈食べてゐる〉〈お菓子〉は、おそらく、不安や孤独の味がするだろう。
後者だとするならば、自己の正当性を主張している句になる。〈食べてゐる〉のは、「他人」のお菓子ではなく、〈家の〉つまり自分の〈お菓子〉なのだからやましいところはない、という主張。他者からの疑いを否定するための〈さうでない〉という反論の言辞になる。
ふと、複雑な恋愛の心理を描いているのかもしれない、と思った。ともかく、不思議な句である。
ひとりだけ餅食べてゐるクリスマス 58-3
大勢の人が集っているクリスマス会に〈ひとりだけ〉餅を〈食べてゐる〉という情景。ずいぶんと寂しいクリスマスである。周囲のバカ騒ぎに溶け込めない作者。人付き合いの苦手な内気な人物像が浮かんでくる。けれども〈食べてゐる〉のが、七面鳥やクリスマスケーキなどではなく、〈餅〉であるところがいい。周りから見れば、ずれているかもしれないが、実は「晴れ」の日の食べ物で、めでたいのだ。〈餅〉によって、芯の強さや粘り強さといった作者の個性が象徴化されているとも読める。新年の食べ物でもある〈餅〉を〈クリスマス〉に〈ひとりだけ〉で〈食べてゐる〉ことのそこはかとないおかしみ。先見の明がある人物とは、得てしてそういうものかもしれない。
鬼の子の氷柱を食べてゐることも 114-2
〈鬼の子〉はミノムシの別称。枕草子の一節「蓑虫いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似て」からという。この蓑虫は、親に疎まれて捨てられる。それでも親の「待てよ」の言葉を信じて、秋風が吹くころになると「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴くというのだ。
そうした〈鬼の子〉が〈氷柱を食べてゐる〉こともあるだろう、という句意。温暖な地域においては、雪やつららはもの珍しく、楽し気に思われるかもしれない。筆者は冬季平均マイナス10度の厳寒地で少年時代を過ごしたせいか、親に捨てられた子供が飢えをしのぐために〈氷柱を食べてゐる〉、という凄惨な光景に胸が痛んだ。
この句の1ページ前には次のような句が並ぶ。〈ひとしきり泣いて氷柱となるまで立つ〉〈凍鶴を引く抜く誰も見てゐない〉〈皆死んでちひさくなりぬ寒苺〉
寒冷地で暮らしていると死は意外と身近なものである。作者の幼少期の体験なのか、あるいは、心象風景なのか。それを今、問うても答えは出ないだろう。作者の原風景としてこのような核が存在することに深く共鳴した。
立子忌のサラダボウルに盛るひかり 28-3
ここまで〈食べてゐる〉句を取り上げてきた。食べたものは、〈蒟蒻〉〈液体ごはん〉〈お菓子〉〈餅〉〈氷柱〉。どれも特殊性を帯びている。時と場所をずらすだけで、滑稽にも、複雑にも、哀切にも見えてくる食べ物。こうした素材を季語や俳句の定石にとらわれずに独学で作ってこられたのだろう。失敗も成功も気にせずにこれからも新たな素材に挑戦していってほしい。
〈立子忌〉は、俳人星野立子の忌日で、三月三日。俳人高浜虚子の次女で、自由で明るく、柔軟な感性で新しい女性俳句の地平を切り拓いた先達である。その〈立子忌〉の〈サラダボウル〉に、サラダだけではなく〈ひかり〉を盛りつけた。即物的でありながら平穏で明るい日常が切り取られている。すなおに気持ちの良い句だ。
〈立子忌〉のような句は〈食べてゐる〉句とは趣が異なり、多くの人に受け入れられるだろう。季語の象徴性を上手に使いこなしていけば「うまい」と評価もされる。しかし、佐藤りえという俳人の根底にはもうひとつの〈食べてゐる〉句があることを忘れてはいけない。こうした宙づりにされている自己を省察する目をこれからも大切にしていっていただきたい。
アストロノート蒟蒻を食ふ訓練 28-1
本句集の帯文に大活字で載せられている句。「アストロノート」は宇宙飛行士のこと。宇宙飛行士が実際にそのような訓練をしているのかどうかは別にして、なんとも滑稽な景である。宇宙飛行士は無重力状態でふわふわと浮いている。緩慢な動きでコンニャクをつかもうとするが、弾力性のあるコンニャクはつるりと飛行士の手をすり抜ける。世界中のエリートである宇宙飛行士がコンニャクを必死に食べているという構図がおもしろい。〈訓練〉という、本人の意思とは異なる状況下を選択した切り口に不条理なユーモアがある。ちなみにコンニャクは腸の運動を活発化するため宇宙飛行士の健康維持に寄与できると考える農学者もいるようだ。コンニャクゼリーが宇宙食になる日もそう遠くはないのかもしれない。
宇宙では液体ごはん食べてゐる 30-3
〈宇宙では〉と状況を規定したうえで、〈食べてゐる〉という日常を描く。その中心に〈液体ごはん〉がある。だが、宇宙航空研究開発機構 JAXA(ジャクサ)が認証している宇宙日本食34品目のなかに〈液体ごはん〉は見当たらない。そもそも〈液体ごはん〉とは何か。「おかゆ」や「離乳食」のたぐいだろうか。前者だとすると消化器官の衰えを連想させ、体調の不良を暗示しているとも考えられる。後者だとすると歯が生えそろっていない乳幼児の姿が思い起こされる。〈宇宙では〉という非日常性を考えると、後者の「離乳食」に軍配があがりそうだ。保護されなければ生存できない乳幼児。その心理状態に退行しつつ、宇宙空間に漂う孤独を素描したものだろうか。
さうでない家のお菓子を食べてゐる 24-4
不思議な句だ。〈家のお菓子を食べてゐる〉だけであれば、単なる報告である。日常の幸せなひと時。親の庇護のもと「おやつ」を食べていた幼少期の記憶のスケッチとも受け取れる。しかし、〈さうでない〉と否定形があることで、句意は複雑になってくる。〈さうでない〉が〈家〉にかかっているとすれば、〈食べてゐる〉のは他人の家の〈お菓子〉になる。また、〈さうでない〉で文節が切れているとすれば、〈食べてゐる〉のは自分の〈家のお菓子〉ということになる。
前者の、〈さうでない家〉の〈お菓子を食べてゐる〉ときの作者の心理状態は、どうだろう。他人のお菓子を食べているのだから、決してくつろいだ気分ではないはずだ。後ろめたさ、緊張感、疎外感、閉塞感などが心中に渦巻いているのではないだろうか?そうした心理状態で〈食べてゐる〉〈お菓子〉は、おそらく、不安や孤独の味がするだろう。
後者だとするならば、自己の正当性を主張している句になる。〈食べてゐる〉のは、「他人」のお菓子ではなく、〈家の〉つまり自分の〈お菓子〉なのだからやましいところはない、という主張。他者からの疑いを否定するための〈さうでない〉という反論の言辞になる。
ふと、複雑な恋愛の心理を描いているのかもしれない、と思った。ともかく、不思議な句である。
ひとりだけ餅食べてゐるクリスマス 58-3
大勢の人が集っているクリスマス会に〈ひとりだけ〉餅を〈食べてゐる〉という情景。ずいぶんと寂しいクリスマスである。周囲のバカ騒ぎに溶け込めない作者。人付き合いの苦手な内気な人物像が浮かんでくる。けれども〈食べてゐる〉のが、七面鳥やクリスマスケーキなどではなく、〈餅〉であるところがいい。周りから見れば、ずれているかもしれないが、実は「晴れ」の日の食べ物で、めでたいのだ。〈餅〉によって、芯の強さや粘り強さといった作者の個性が象徴化されているとも読める。新年の食べ物でもある〈餅〉を〈クリスマス〉に〈ひとりだけ〉で〈食べてゐる〉ことのそこはかとないおかしみ。先見の明がある人物とは、得てしてそういうものかもしれない。
鬼の子の氷柱を食べてゐることも 114-2
〈鬼の子〉はミノムシの別称。枕草子の一節「蓑虫いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似て」からという。この蓑虫は、親に疎まれて捨てられる。それでも親の「待てよ」の言葉を信じて、秋風が吹くころになると「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴くというのだ。
そうした〈鬼の子〉が〈氷柱を食べてゐる〉こともあるだろう、という句意。温暖な地域においては、雪やつららはもの珍しく、楽し気に思われるかもしれない。筆者は冬季平均マイナス10度の厳寒地で少年時代を過ごしたせいか、親に捨てられた子供が飢えをしのぐために〈氷柱を食べてゐる〉、という凄惨な光景に胸が痛んだ。
この句の1ページ前には次のような句が並ぶ。〈ひとしきり泣いて氷柱となるまで立つ〉〈凍鶴を引く抜く誰も見てゐない〉〈皆死んでちひさくなりぬ寒苺〉
寒冷地で暮らしていると死は意外と身近なものである。作者の幼少期の体験なのか、あるいは、心象風景なのか。それを今、問うても答えは出ないだろう。作者の原風景としてこのような核が存在することに深く共鳴した。
立子忌のサラダボウルに盛るひかり 28-3
ここまで〈食べてゐる〉句を取り上げてきた。食べたものは、〈蒟蒻〉〈液体ごはん〉〈お菓子〉〈餅〉〈氷柱〉。どれも特殊性を帯びている。時と場所をずらすだけで、滑稽にも、複雑にも、哀切にも見えてくる食べ物。こうした素材を季語や俳句の定石にとらわれずに独学で作ってこられたのだろう。失敗も成功も気にせずにこれからも新たな素材に挑戦していってほしい。
〈立子忌〉は、俳人星野立子の忌日で、三月三日。俳人高浜虚子の次女で、自由で明るく、柔軟な感性で新しい女性俳句の地平を切り拓いた先達である。その〈立子忌〉の〈サラダボウル〉に、サラダだけではなく〈ひかり〉を盛りつけた。即物的でありながら平穏で明るい日常が切り取られている。すなおに気持ちの良い句だ。
〈立子忌〉のような句は〈食べてゐる〉句とは趣が異なり、多くの人に受け入れられるだろう。季語の象徴性を上手に使いこなしていけば「うまい」と評価もされる。しかし、佐藤りえという俳人の根底にはもうひとつの〈食べてゐる〉句があることを忘れてはいけない。こうした宙づりにされている自己を省察する目をこれからも大切にしていっていただきたい。
※句の末尾番号は参照頁・句順
2019年2月22日金曜日
【佐藤りえ句集『景色』を読みたい】4 『景色』鑑賞 椿屋実椰
佐藤りえさんは多才な方だ。豆本作家「文藝豆本ぽっぺん堂」として活躍されている傍ら、短歌もたしなみ、2003年に第一歌集『フラジャイル』を上梓。豆本では一流の仕事をし、歌集では高い評価を受けている。俳句や短歌、詩は10代から書き始めたという。1973年生まれだから現在45歳。俳句の世界では若手の部類に入る。句集『景色』は第一句集だ。
本句集を読んで、筆者がまず感じたことは、りえさんは見たものすべてを俳句にできる人なのだな、ということだ。
揚げ物にしてよしアラクニド・バグズ
春雨や都庁の窓は暗すぎる
わかつたと叫ぶ警部と探偵と
乾電池銜へたやうな油照り
灰皿に画鋲混ざつてゐる良夜
一句一句、掘り下げていきたい。
揚げ物にしてよしアラクニド・バグズ
アラクニド・バグズとは昆虫型宇宙生物のことだそう。辞書で引くと、英語で、アラクニド=蜘蛛型類節足動物(の)。バグ=虫。『スターシップ・トゥルーパーズ』というSF映画に出てくるようだ。
この句で、「蝗(いなご)捕り」を思い出した。蝗は農家にとっては害虫。大量発生するその蝗を捕獲するのが蝗捕り。その後、佃煮等にして食卓に出される。佃煮の甘い醤油味しかしないから、見た目グロテスクでも案外食べられる。海外でも蝗を素揚にして食べる国があるそう。蝗が食用としてオッケーなら蜘蛛に似ているアラクニドバグズ(昆虫型宇宙生物)も食べていいはず。見た目的には不自然でない。ユニークな感性がひかる句。
春雨や都庁の窓は暗すぎる
春雨のしずかな休日。都庁も閉庁日で、明りもなく、窓は真っ暗。そんな何気ない情景をきっちり捉えている。休日でなくとも、春雨の日差しのない日には、ビル群に陽が入らず、窓が暗く見える。都庁は、バブル期に巨額の建築費を投入して建設された巨大なビルで、聖書の「バベルの塔」をもじって「バブルの塔」と揶揄されたこともあるようだ。1300万人もの都民を支える基幹となる組織。都庁で働く人々は十数万人もいるらしいが、中でいったいどんな仕事をしているのだろう。
近年は、様々な問題が解決されないまま、オリンピックの開催に巨費を使うことに、首をかしげる人々も少なくない。
「都庁」を象徴的に考えると、そんな様々な薄ぼんやりした疑問も、この句から湧き上がってくる。
わかつたと叫ぶ警部と探偵と
往年の角川映画の金田一幸助シリーズ。劇中、等々力警部役の俳優、加藤武が「よし、わかった!」と、十八番のように言うシーンが、ほぼ全シリーズに一回は出てくる。CMでもこのセリフはパロディで使われていたほど。季語がない句であるが、昭和の郷愁を誘う。映画ファンにはうれしい一句であることだろう。
乾電池銜へたやうな油照り
「油照り」は、薄曇りで風すらなく、薄日がじっとり照り付けるような天気のこと。ぬめり気のある脂汗が肌にまとわりついて心地悪い。「乾電池銜へたやうな」で、そんな油照りの肌感覚を上手く喩えた。
灰皿に画鋲混ざつてゐる良夜
なぜこんなものが? というような変なモノが灰皿に捨ててあることがある。画鋲というのはシュールだが、確かにありそうな光景。良夜と錆びかけた画鋲が詩的。
上記のように、句の題材が幅広く、偏りがない。句のつくり一句一句をみても、変化に富んでいる。同じ季語や同じ言葉を何度も使っていないことからも、読み手に対する配慮を感じる。一句の完成度はもちろん、一冊の本、という全体でみても、飽きない。ここはやはり作者の豆本作家としての美意識がなせる業なのだろうか。
豆本づくりはおそらく相当の繊細さが必要だと思う。小さな本をきれいに作るには、1ミリ単位の誤差が完成度に大きく影響する。りえさんのホームページの豆本作品を見ると、その細やかな仕事ぶりがうかがえる。星形のオブジェを閉じると一冊の豆本になる作品は、とても見事。ちゃんと中に文字も書いてあって、本として読めるようだ。豆本作家としてのそんなデリケートな感性が、下記の句にも現れている。
ランドリータグにコートの替へ釦
太陽でいつぱいだつた髪洗ふ
しはぶいてあたまの穴のひろがりぬ
火をつけるまへのまなこのさゆらぎよ
ランドリータグにコートの替へ釦
日常的によく見かけているのに意識せず見逃している光景を、切り取っている。この替え釦は大きくて重たそう。この句で、釦の重さで千切れそうになっているコートのタグを思い浮かべた。細やかなところまで気を利かせていないと出来ない句であろう。
太陽でいつぱいだつた髪洗ふ
昼の夏の日ざしを燦々と浴びた髪を洗いながら、今日という一日を反芻。この日はきっと楽しかったのに違いない。
しはぶいてあたまの穴のひろがりぬ
くしゃみをした後の、しばらく頭がしびれるような感覚。なかなかうまく言えない感覚を的確に言語化。
火をつけるまへのまなこのさゆらぎよ
火をマッチやライターでつける前には、集中して手元を見るのではないだろうか。その時の黒目の揺らぎを自分でも感じている。あるいは、火をつければ炎が揺れることが経験でわかっているので、行動の前に炎の揺れを感覚で思い出しているのだろうか。いずれにせよ、とても繊細な句。目は不思議な器官で、光や運動の残像効果が起きたりする。脳と網膜の関係はどうなっているのだろう。「まなこのさゆらぎ」の表現が冴えている。
下記、好きな句をあげる。
盗賊A盗賊Bと風下へ
映画や舞台などのワンシーンであろうか。悪党面の役者たちが目に見えるようだ。盗賊A、Bの記号の表記で実際の出来事ではないとわかる。
ロシア帽みたいな鬱をかむつてる
ロシア帽、の比喩が簡明。ロシアの厳寒さ並みの鬱。この鬱は手ごわそう…。
去年より大きな熊手売つてない
それは困った。一番小さいのからまた始めなくては!
ひよこ固まりぼうろのやうに揺れてゐる
子どもの頃によく食べた、たまごボーロというおやつ。丸くて小さいので、袋の中やお茶うけの中で転がる。ひよこのあたたかみのある丸さと、このおやつを合わせたのは凄い。この句を読む瞬間まで、このおやつの存在をすっかり忘れていた。心なしかかわいいひよこたちもおいしそうに見えてくる。
生存に許可が要る気がする五月
五月の季感や本意を捉えて、素直に気持ちを詠った。
蛇衣を脱いで二重に整形す
風刺のある句。新宿や渋谷の整形外科付近にはこういう句の人がよく歩いている…。
どの句もユニークな感性が光っている。他にも取り上げたい句がたくさんあるが、わたしのつたない鑑賞文を読むよりは、ぜひ本句集を手に取って、実際にお読みいただいたほうが話が早いので、この辺で失礼させていただく。
最後に。装丁が大変綺麗である。カバーを見て、旅先のローカル線の窓に流れていく景色を見ているような感覚になった。素敵な句集だ。
本句集を読んで、筆者がまず感じたことは、りえさんは見たものすべてを俳句にできる人なのだな、ということだ。
揚げ物にしてよしアラクニド・バグズ
春雨や都庁の窓は暗すぎる
わかつたと叫ぶ警部と探偵と
乾電池銜へたやうな油照り
灰皿に画鋲混ざつてゐる良夜
一句一句、掘り下げていきたい。
揚げ物にしてよしアラクニド・バグズ
アラクニド・バグズとは昆虫型宇宙生物のことだそう。辞書で引くと、英語で、アラクニド=蜘蛛型類節足動物(の)。バグ=虫。『スターシップ・トゥルーパーズ』というSF映画に出てくるようだ。
この句で、「蝗(いなご)捕り」を思い出した。蝗は農家にとっては害虫。大量発生するその蝗を捕獲するのが蝗捕り。その後、佃煮等にして食卓に出される。佃煮の甘い醤油味しかしないから、見た目グロテスクでも案外食べられる。海外でも蝗を素揚にして食べる国があるそう。蝗が食用としてオッケーなら蜘蛛に似ているアラクニドバグズ(昆虫型宇宙生物)も食べていいはず。見た目的には不自然でない。ユニークな感性がひかる句。
春雨や都庁の窓は暗すぎる
春雨のしずかな休日。都庁も閉庁日で、明りもなく、窓は真っ暗。そんな何気ない情景をきっちり捉えている。休日でなくとも、春雨の日差しのない日には、ビル群に陽が入らず、窓が暗く見える。都庁は、バブル期に巨額の建築費を投入して建設された巨大なビルで、聖書の「バベルの塔」をもじって「バブルの塔」と揶揄されたこともあるようだ。1300万人もの都民を支える基幹となる組織。都庁で働く人々は十数万人もいるらしいが、中でいったいどんな仕事をしているのだろう。
近年は、様々な問題が解決されないまま、オリンピックの開催に巨費を使うことに、首をかしげる人々も少なくない。
「都庁」を象徴的に考えると、そんな様々な薄ぼんやりした疑問も、この句から湧き上がってくる。
わかつたと叫ぶ警部と探偵と
往年の角川映画の金田一幸助シリーズ。劇中、等々力警部役の俳優、加藤武が「よし、わかった!」と、十八番のように言うシーンが、ほぼ全シリーズに一回は出てくる。CMでもこのセリフはパロディで使われていたほど。季語がない句であるが、昭和の郷愁を誘う。映画ファンにはうれしい一句であることだろう。
乾電池銜へたやうな油照り
「油照り」は、薄曇りで風すらなく、薄日がじっとり照り付けるような天気のこと。ぬめり気のある脂汗が肌にまとわりついて心地悪い。「乾電池銜へたやうな」で、そんな油照りの肌感覚を上手く喩えた。
灰皿に画鋲混ざつてゐる良夜
なぜこんなものが? というような変なモノが灰皿に捨ててあることがある。画鋲というのはシュールだが、確かにありそうな光景。良夜と錆びかけた画鋲が詩的。
上記のように、句の題材が幅広く、偏りがない。句のつくり一句一句をみても、変化に富んでいる。同じ季語や同じ言葉を何度も使っていないことからも、読み手に対する配慮を感じる。一句の完成度はもちろん、一冊の本、という全体でみても、飽きない。ここはやはり作者の豆本作家としての美意識がなせる業なのだろうか。
豆本づくりはおそらく相当の繊細さが必要だと思う。小さな本をきれいに作るには、1ミリ単位の誤差が完成度に大きく影響する。りえさんのホームページの豆本作品を見ると、その細やかな仕事ぶりがうかがえる。星形のオブジェを閉じると一冊の豆本になる作品は、とても見事。ちゃんと中に文字も書いてあって、本として読めるようだ。豆本作家としてのそんなデリケートな感性が、下記の句にも現れている。
ランドリータグにコートの替へ釦
太陽でいつぱいだつた髪洗ふ
しはぶいてあたまの穴のひろがりぬ
火をつけるまへのまなこのさゆらぎよ
ランドリータグにコートの替へ釦
日常的によく見かけているのに意識せず見逃している光景を、切り取っている。この替え釦は大きくて重たそう。この句で、釦の重さで千切れそうになっているコートのタグを思い浮かべた。細やかなところまで気を利かせていないと出来ない句であろう。
太陽でいつぱいだつた髪洗ふ
昼の夏の日ざしを燦々と浴びた髪を洗いながら、今日という一日を反芻。この日はきっと楽しかったのに違いない。
しはぶいてあたまの穴のひろがりぬ
くしゃみをした後の、しばらく頭がしびれるような感覚。なかなかうまく言えない感覚を的確に言語化。
火をつけるまへのまなこのさゆらぎよ
火をマッチやライターでつける前には、集中して手元を見るのではないだろうか。その時の黒目の揺らぎを自分でも感じている。あるいは、火をつければ炎が揺れることが経験でわかっているので、行動の前に炎の揺れを感覚で思い出しているのだろうか。いずれにせよ、とても繊細な句。目は不思議な器官で、光や運動の残像効果が起きたりする。脳と網膜の関係はどうなっているのだろう。「まなこのさゆらぎ」の表現が冴えている。
下記、好きな句をあげる。
盗賊A盗賊Bと風下へ
映画や舞台などのワンシーンであろうか。悪党面の役者たちが目に見えるようだ。盗賊A、Bの記号の表記で実際の出来事ではないとわかる。
ロシア帽みたいな鬱をかむつてる
ロシア帽、の比喩が簡明。ロシアの厳寒さ並みの鬱。この鬱は手ごわそう…。
去年より大きな熊手売つてない
それは困った。一番小さいのからまた始めなくては!
ひよこ固まりぼうろのやうに揺れてゐる
子どもの頃によく食べた、たまごボーロというおやつ。丸くて小さいので、袋の中やお茶うけの中で転がる。ひよこのあたたかみのある丸さと、このおやつを合わせたのは凄い。この句を読む瞬間まで、このおやつの存在をすっかり忘れていた。心なしかかわいいひよこたちもおいしそうに見えてくる。
生存に許可が要る気がする五月
五月の季感や本意を捉えて、素直に気持ちを詠った。
蛇衣を脱いで二重に整形す
風刺のある句。新宿や渋谷の整形外科付近にはこういう句の人がよく歩いている…。
どの句もユニークな感性が光っている。他にも取り上げたい句がたくさんあるが、わたしのつたない鑑賞文を読むよりは、ぜひ本句集を手に取って、実際にお読みいただいたほうが話が早いので、この辺で失礼させていただく。
最後に。装丁が大変綺麗である。カバーを見て、旅先のローカル線の窓に流れていく景色を見ているような感覚になった。素敵な句集だ。
2019年2月8日金曜日
【佐藤りえ句集『景色』を読みたい】3 ないものが見えたりする 嶋田さくらこ
わたしはどの本に出会っても、必ず後ろから読む。「後ろ」は「あとがき」だったり、「解説」だったりする。佐藤りえさんの句集『景色』も例に漏れず「あとがき」から読んだ。そしてびっくりした。この句集には2003年以降の作品が納められていると書いてある。わたしにとって佐藤りえさんは「歌人」だったのに、いつのまに俳句を?!という気持ち…調べたらりえさんの歌集『フラジャイル』は2003年に刊行されている。りえさんは歌集を出した後俳句に心変わりしちゃったのか…なんて思って次のページをめくると、作者紹介のところには十代から独学で俳句を始められたとか…じゃあ短歌が後からだったんだ!とまた驚いて、やっとりえさんの句を読む準備が整った。俳句の読み方も何もあったもんじゃないんだけど、好きな句をあげて何か言いたい。
かぎろひに拾ふ人魚の瓦版 「犬を渡す」
溶けてきて飲み物となるくらげかな 「七人の妹たちへ」
バスに乗るイソギンチャクのよい睡り 「バスに乗る」
夜明けは海の底にいるみたいに感じるし、ガラスのコップの中の液体はふいにとろんとして漂いはじめ、バスの揺れはゆったりとした海流のように心地いい…もしかするとりえさんは海の生き物の生まれ変わりなんじゃないか。だから、日常の中に突然こういう感じが見えてしまう。
踵から脳を漏らしてひるさがり 「バスに乗る」
これはね、これはすごいものが見えてる…脳が足元から漏れてくるなんて…たいへん!!でもこののんびりした感じ。「あ、漏れてるわ―」ってじーっと地面を見ている。
わたしは短歌をよく作るので俳句を読むとどうしても短歌と比べてしまうんだけど、極端に言うと、短歌は妄想、俳句は錯覚、短歌には思う長さがあり、俳句には感じる短さしかない。「感じる」という瞬発力が重要で、その時その一瞬でりえさんが確かに「見えた」ものを言語化する時、その景色が現実から遠ざかっていようと読者にはそこにある真実として届けられる。
食べ物が出てくる句に好きなものが多かった。
コッペパンになづむ一日や春の雪 「地球惑星」
アイシングクッキー天竺までの地図 「地球惑星」
ミルクティーミルクプリンに混ぜて夏 「怪雨」
ひとりだけ餅食べてゐるクリスマス 「雲を飼ふやうに」
洗はれるチーズの気持ちになつてみる 「団栗交換日記」
エクレアをよつてたかつて割る話 「麝香」
食べ物をどう扱うかって、その人の美学やかわいさがすごくよく出ると思っていて、りえさんにかかると、あの茶色いずんぐりむっくりのコッペパンはこんなにも美しく輝く食べ物になってしまう。「天竺」ってあれですよ、孫悟空が三蔵法師と目指すユートピアですよ。アイシングクッキーに地図が!?そうそう、お餅好きはケーキよりお餅。ひとりでもお餅。みんなケーキを食べている世界にいて、ひとりだけ餅を食べる自分。おのれを貫くということはこういうことだ。
句集の最後の連作の、
愛情に圏外あつて花筏 「ハッピー・エヴァー・アフター」
その後の幸福という花疲れ 「ハッピー・エヴァー・アフター」
この二句を読んで、りえさんの歌集『フラジャイル』の有名な短歌を思い出した。
キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる 『フラジャイル』
『フラジャイル』の刊行から15年たって、「キラキラに撃たれ」た後の物語を思う。「愛情に圏外」があると知るまでの、その時間の流れを思う。「幸福」が永遠でないことを、人は学んでいく。
俳句と短歌は作るのに使う筋肉が違う、ってうまいこと言っていた人がいたけれど、りえさんは二つの筋肉をこんなにも使いこなしておられる。実はわたしも短歌を始めたころに同時に俳句も作っていた。でも全然うまくいかなくてやめてしまった。りえさんの短歌が好きだったので、第二歌集が読める方がうれしいと思っていたのに、『景色』を読み終えるとそんな気持ちは一切なくなった。この句集が読めて本当にうれしい。
わたしにとって、りえさんのもう一つの顔は、とても小さくて美しい本や小箱を作る作家さん。そして異様に紙に詳しい。この句集の装幀もきっとマニアックに凝っているに違いない。詳しいのはお仕事の関係なのかな?と推測したりしているんだけど、本当のところはいつかご本人にゆっくりお話を聞いてみたい。
かぎろひに拾ふ人魚の瓦版 「犬を渡す」
溶けてきて飲み物となるくらげかな 「七人の妹たちへ」
バスに乗るイソギンチャクのよい睡り 「バスに乗る」
夜明けは海の底にいるみたいに感じるし、ガラスのコップの中の液体はふいにとろんとして漂いはじめ、バスの揺れはゆったりとした海流のように心地いい…もしかするとりえさんは海の生き物の生まれ変わりなんじゃないか。だから、日常の中に突然こういう感じが見えてしまう。
踵から脳を漏らしてひるさがり 「バスに乗る」
これはね、これはすごいものが見えてる…脳が足元から漏れてくるなんて…たいへん!!でもこののんびりした感じ。「あ、漏れてるわ―」ってじーっと地面を見ている。
わたしは短歌をよく作るので俳句を読むとどうしても短歌と比べてしまうんだけど、極端に言うと、短歌は妄想、俳句は錯覚、短歌には思う長さがあり、俳句には感じる短さしかない。「感じる」という瞬発力が重要で、その時その一瞬でりえさんが確かに「見えた」ものを言語化する時、その景色が現実から遠ざかっていようと読者にはそこにある真実として届けられる。
食べ物が出てくる句に好きなものが多かった。
コッペパンになづむ一日や春の雪 「地球惑星」
アイシングクッキー天竺までの地図 「地球惑星」
ミルクティーミルクプリンに混ぜて夏 「怪雨」
ひとりだけ餅食べてゐるクリスマス 「雲を飼ふやうに」
洗はれるチーズの気持ちになつてみる 「団栗交換日記」
エクレアをよつてたかつて割る話 「麝香」
食べ物をどう扱うかって、その人の美学やかわいさがすごくよく出ると思っていて、りえさんにかかると、あの茶色いずんぐりむっくりのコッペパンはこんなにも美しく輝く食べ物になってしまう。「天竺」ってあれですよ、孫悟空が三蔵法師と目指すユートピアですよ。アイシングクッキーに地図が!?そうそう、お餅好きはケーキよりお餅。ひとりでもお餅。みんなケーキを食べている世界にいて、ひとりだけ餅を食べる自分。おのれを貫くということはこういうことだ。
句集の最後の連作の、
愛情に圏外あつて花筏 「ハッピー・エヴァー・アフター」
その後の幸福という花疲れ 「ハッピー・エヴァー・アフター」
この二句を読んで、りえさんの歌集『フラジャイル』の有名な短歌を思い出した。
キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる 『フラジャイル』
『フラジャイル』の刊行から15年たって、「キラキラに撃たれ」た後の物語を思う。「愛情に圏外」があると知るまでの、その時間の流れを思う。「幸福」が永遠でないことを、人は学んでいく。
俳句と短歌は作るのに使う筋肉が違う、ってうまいこと言っていた人がいたけれど、りえさんは二つの筋肉をこんなにも使いこなしておられる。実はわたしも短歌を始めたころに同時に俳句も作っていた。でも全然うまくいかなくてやめてしまった。りえさんの短歌が好きだったので、第二歌集が読める方がうれしいと思っていたのに、『景色』を読み終えるとそんな気持ちは一切なくなった。この句集が読めて本当にうれしい。
わたしにとって、りえさんのもう一つの顔は、とても小さくて美しい本や小箱を作る作家さん。そして異様に紙に詳しい。この句集の装幀もきっとマニアックに凝っているに違いない。詳しいのはお仕事の関係なのかな?と推測したりしているんだけど、本当のところはいつかご本人にゆっくりお話を聞いてみたい。
2019年1月25日金曜日
【佐藤りえ句集『景色』を読みたい】2 言葉の屈折としての旧仮名———佐藤りえ『景色』を読む 小野裕三
彼女の俳句における旧仮名は、これほどに美しい旧仮名の使われ方は他に見たことがないのではないか、と思わせるくらい、印象的だ。
みづうみにきれいなはうを置いていく
雲を飼ふやうにコップを伏せてみる
中華飯店おとがとほつていくからだ
「みづうみ」や「はう」をわざわざ漢字でなく平仮名で書いているのは、まさにその文字使いの美しさのゆえだろうし、まるで己れの美しさを知る者が望んで裸体を披露しているといったふうで、いかにも自信に満ちた気品を感じる。旧仮名が元来持つ柔らかさや繊細さがここでは最大限に引き出され、彼女の俳句の本質的な何かを体現するかのように際立つ。
しかしながら興味深いのは、これらの旧仮名が日本の詩歌の古層へとまっすぐに根を下ろしているようには決して思えないことだ。彼女の俳句はどちらかと言えば、欧州の都市や町を包む重たい夜を思わせる。
またバスに乗る透明な火を抱いて
パリの地図ひろげておとなしい孔雀
一本に警官ひとり夜の新樹
開かれるまでアルバムは夜の仕事
恋人が針呑むやうに静かな夜
少なくとも、これらの句の背景にある「夜」は、日本の古層的な文脈からは離れたものだろうし、むしろここに描かれた「夜」は、圧倒的な想像力を孕みながら西洋の詩を支えてきた「夜」に近いもののように感じられる。それが彼女の俳句に現れたのもそれほど不可解なことではなく、その「夜」は西洋詩の翻訳を通じて日本の近代詩にも間接的に多大の影響を与えたはずのものでもあり、彼女もまた一人の日本の詩人としてその余波の中に住む。
そんな「夜」を孕むことで、ここでの句はいかにもひりひりとしている。脆さや危うさに似たものを抱えているようにも見えるが、それもつまりは圧倒的な「夜」の力ゆえのものかも知れない。
理屈だけで考えるならば、日本の文化である旧仮名とそのような西洋詩的な夜とはどこか矛盾したものとも思える。だが、彼女の句の中ではそのような二つの要素が違和感なく統合され調和している。
と言うのも、ここでの旧仮名は日本文化の古層に繋がるというよりはむしろ、圧倒的な「夜」の力が言葉の表面にもたらした屈折のように思えるのだ。ちょうど、水面に広がっていくさざ波のようで、想像力がもたらす力の余韻が言葉の表面に当たって屈折し、旧仮名としてそこに浮かび上がる。そんなふうに思えるのだ。
このような余韻としての屈折は、旧仮名だけでなく彼女の俳句の中でさまざまな形をとる。例えば、彼女の句は時に白昼夢のような様相を見せる。
いくたびも池の頭に飛び込めり
醒めるたび函開けてゐる春の夢
生きてきてバケツに蟻をあふれしむ
これらの句に共通する反復性に注目したい。これらの反復もどこかさざ波めいていて、何かをひたすら繰り返すことによってその果てに白昼夢めいたものが立ち現れる。圧倒的な闇の余韻が人間らの営む非力な昼へとたどり着いた時に、さざ波のように幾重にも屈折したイメージとして結晶する。そんなふうにも思える。
あるいは、時に彼女の句は俳諧味にも通じるユーモアを見せることもある。
眠かつた世界史(ロマノフ朝の転機)
踊れない方に加はるクリスマス
厚着して紙を配つてゐる仕事
だがこれらのユーモアも、単なる可笑しみといったことに留まらず、どこかプリズムのように屈折した光景を結んでいる。
いずれにせよ、「夜」の想像力を基盤として、その圧倒的な力の流れを言葉でそのまま受け止めることで、むしろ言葉の脆さゆえの多様な屈折を描き出す。それが、彼女の句の特徴と言える。そんなふうに彼女の句には、強さと脆さの光が屈折し合いながら魔法のように共存しており、そしてそれゆえに独特の美しさを放つ。
みづうみにきれいなはうを置いていく
雲を飼ふやうにコップを伏せてみる
中華飯店おとがとほつていくからだ
「みづうみ」や「はう」をわざわざ漢字でなく平仮名で書いているのは、まさにその文字使いの美しさのゆえだろうし、まるで己れの美しさを知る者が望んで裸体を披露しているといったふうで、いかにも自信に満ちた気品を感じる。旧仮名が元来持つ柔らかさや繊細さがここでは最大限に引き出され、彼女の俳句の本質的な何かを体現するかのように際立つ。
しかしながら興味深いのは、これらの旧仮名が日本の詩歌の古層へとまっすぐに根を下ろしているようには決して思えないことだ。彼女の俳句はどちらかと言えば、欧州の都市や町を包む重たい夜を思わせる。
またバスに乗る透明な火を抱いて
パリの地図ひろげておとなしい孔雀
一本に警官ひとり夜の新樹
開かれるまでアルバムは夜の仕事
恋人が針呑むやうに静かな夜
少なくとも、これらの句の背景にある「夜」は、日本の古層的な文脈からは離れたものだろうし、むしろここに描かれた「夜」は、圧倒的な想像力を孕みながら西洋の詩を支えてきた「夜」に近いもののように感じられる。それが彼女の俳句に現れたのもそれほど不可解なことではなく、その「夜」は西洋詩の翻訳を通じて日本の近代詩にも間接的に多大の影響を与えたはずのものでもあり、彼女もまた一人の日本の詩人としてその余波の中に住む。
そんな「夜」を孕むことで、ここでの句はいかにもひりひりとしている。脆さや危うさに似たものを抱えているようにも見えるが、それもつまりは圧倒的な「夜」の力ゆえのものかも知れない。
理屈だけで考えるならば、日本の文化である旧仮名とそのような西洋詩的な夜とはどこか矛盾したものとも思える。だが、彼女の句の中ではそのような二つの要素が違和感なく統合され調和している。
と言うのも、ここでの旧仮名は日本文化の古層に繋がるというよりはむしろ、圧倒的な「夜」の力が言葉の表面にもたらした屈折のように思えるのだ。ちょうど、水面に広がっていくさざ波のようで、想像力がもたらす力の余韻が言葉の表面に当たって屈折し、旧仮名としてそこに浮かび上がる。そんなふうに思えるのだ。
このような余韻としての屈折は、旧仮名だけでなく彼女の俳句の中でさまざまな形をとる。例えば、彼女の句は時に白昼夢のような様相を見せる。
いくたびも池の頭に飛び込めり
醒めるたび函開けてゐる春の夢
生きてきてバケツに蟻をあふれしむ
これらの句に共通する反復性に注目したい。これらの反復もどこかさざ波めいていて、何かをひたすら繰り返すことによってその果てに白昼夢めいたものが立ち現れる。圧倒的な闇の余韻が人間らの営む非力な昼へとたどり着いた時に、さざ波のように幾重にも屈折したイメージとして結晶する。そんなふうにも思える。
あるいは、時に彼女の句は俳諧味にも通じるユーモアを見せることもある。
眠かつた世界史(ロマノフ朝の転機)
踊れない方に加はるクリスマス
厚着して紙を配つてゐる仕事
だがこれらのユーモアも、単なる可笑しみといったことに留まらず、どこかプリズムのように屈折した光景を結んでいる。
いずれにせよ、「夜」の想像力を基盤として、その圧倒的な力の流れを言葉でそのまま受け止めることで、むしろ言葉の脆さゆえの多様な屈折を描き出す。それが、彼女の句の特徴と言える。そんなふうに彼女の句には、強さと脆さの光が屈折し合いながら魔法のように共存しており、そしてそれゆえに独特の美しさを放つ。
2019年1月11日金曜日
〈新連載〉佐藤りえ第一句集『景色』を読みたい1 「大丈夫」ということ 宮崎斗士
中空に浮いたままでも大丈夫
佐藤りえ句集『景色』。一冊を読み終えたあと、ふとこの句に注目。これは一体何が大丈夫なのか?としばし考え込んでしまった。
「常にどこか所在なく、浮草のような現身を扱いかねながら、偶々此の世に端居しつつ、気づけば手になにか書くものを握り、日々紙を汚している。(中略)またぼんやりと浮世を漂いながら、ペンを握っている。(以上「あとがき」より)」――この浮遊感があらためて胸に沁みてくる。
作者ならではの浮遊感を湛えた作品群。たとえば、
つぎの世へ何を連絡する係
まるめろや主義があるんだかないんだか
生存に許可が要る気がする五月
蓮見てもいいし舟漕いでもいいし
うるはしき地球忘れてしまひけり
露霜や此の世はよその家ばかり
「よその家ばかり」とざくっと言い切る、その姿勢にまずは圧倒される。此岸での居場所の無さ、所在無さ。そして、
さうでない家のお菓子を食べてゐる
「さうでない家」という措辞に滋味あり。この「さうでない」から、型通りのお仕着せの「ホーム」という概念への作者の違和感が汲み取れる。しかし違和感ばかりではなく、そんな現実とあえて戯れている様相も見えてくる。「お菓子を食べてゐる」の巧。
加えて、身体感覚の独特な捉え方、描き方に唸らされた作品群。
酔ひ酔ひて椎茸になるかもしれぬ
満身の鱗剥落人となる
しはぶいてあたまの穴のひろがりぬ
雪のおとつらぬけば耳研がれるよ
ひとしきり泣いて氷柱となるまで立つ
首か椿か持てない方を置いて行く
テンピュール枕に猫のゐる暮らし
テンピュール枕のあの感触、そして猫と共にある日常。ただ単に「猫のような感触」というのではなく、下五「暮らし」とまで言って、ひとしきり印象深い一句となった。猫関連の句では、「茹で卵剥くとき猫の貌になる」にもいたく共鳴。猫のじっと睨んでくるあの目が浮かんでくる。感触を活かすといえば、
アストロノート蒟蒻を食ふ訓練
この句も、無重力状態を「蒟蒻」の食感に喩えて、際立つ一句に。
秋晴れやひたひに眼あきさうな
秋晴れ、天高しの爽やかさを、もっと受け止めたい、目に焼き付けたいという心身からの欲求だろうか。中七下五の措辞、大胆にしてすこぶる説得力あり。
盆の窪押されて春のこゑがでる
上五「盆の窪」が見事に決まった。ふと盆の窪を押されることで思わず「春のこゑ」が出る‥‥春の訪れを認識する。ユーモラスでありながら、作者の境涯感も滲む一景。
そして特に印象的だった作品群。問題句も交えて。
文字書いてないところだけさはりなよ
一読「耳なし芳一」かと思った。刺激的な一句ではある。心身のうちの理でない部分、ロジックで防御していない部分のみを「さはりなよ」と挑発。スリリングな関係性がどこか心地よい。でも、こう言われると、逆に全身くまなく触りたくなるものだが‥‥。
乾電池銜へたやうな油照り
情景を思い浮かべ、そのトボケ味につい爆笑してしまったが、炎天下において身体がまるで一つのオブジェになったような感覚、十分に共鳴できる。
人工を恥ぢて人工知能泣く
この句集には「存在の哀しみ」を詠った句が幾度も出てくるが、この句はその一つの極北かも知れない。「人工を恥ぢて」、何とも鮮烈な、そして哀切極まる視点。「冬山に人工知能凍ててをる」もまた同様の視点か。
パリの地図ひろげておとなしい孔雀
図らずも時事俳句となってしまったか‥‥。作者の意図としては、お洒落で華やかなパリに気後れしている孔雀を描きたかったかのも知れない。ここ最近のパリの騒乱と「おとなしい孔雀」とが絶妙なコントラスト。
開かれるまでアルバムは夜の仕事
アルバムの内容の賑やかさ、溢れる懐かしさと対比する形で、閉じたままのアルバムの有りようをいかに表現するか――。下五「夜の仕事」、この「夜」の意図をどう捉えるかで句の解釈はいかようにも違ってくる。たとえば「開かれるまでアルバムは闇のよう」とすれば幾分かは明快になるが、作者の望むところではもちろんないだろう。筆者としては、「(アルバムが)開かれるべき明日に備えて、待機、準備している」というふうに解釈。アルバムというものの内実を的確に捉えた一句と思った。
生きてきてバケツに蟻をあふれしむ
一読、中七下五の映像のインパクトに息を呑まされた。自分という存在を持て余しているようで、どこかその蠢きを強く肯定している作者像が伝わる。
雲を飼ふやうにコップを伏せてみる
句集中の重要なポイントとなる一句と筆者は思う。「コップを伏せる」という何気ない所作による、一個人と大空――森羅万象との繋がり。コップの内側に浮かぶ作者の「雲」がしっかりと見えてくる。決して声高ではなく、自らの生、存在を訴える作者‥‥。作者の、この句集に込めた思いの丈、作者ならではの「大丈夫」のこころがじんわりと広がってくるようだ。
足首を摑んで投げる鳥雲に
これが句集『景色』最後の一句である。「鳥になりたい」という一般的、普遍的な願望。それに対し、「そんなに鳥になりたいのなら、こうしてあげる!」とばかりにその足首を摑んで雲の彼方へと投擲する。あっけらかんとした暴力性、闇雲なパワー‥‥。あるいは「足首を摑んで投げ」られるのは読者なのかも知れない。一冊の句集に圧倒され、翻弄され、魅せられたあげくの何とも快い幕切れである。
堪能した! このまま作者の隣で中空に漂っていたい、とさえ思う。
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