2019年1月25日金曜日

【佐藤りえ句集『景色』を読みたい】2 言葉の屈折としての旧仮名———佐藤りえ『景色』を読む  小野裕三

 彼女の俳句における旧仮名は、これほどに美しい旧仮名の使われ方は他に見たことがないのではないか、と思わせるくらい、印象的だ。

   みづうみにきれいなはうを置いていく
   雲を飼ふやうにコップを伏せてみる
   中華飯店おとがとほつていくからだ

 「みづうみ」や「はう」をわざわざ漢字でなく平仮名で書いているのは、まさにその文字使いの美しさのゆえだろうし、まるで己れの美しさを知る者が望んで裸体を披露しているといったふうで、いかにも自信に満ちた気品を感じる。旧仮名が元来持つ柔らかさや繊細さがここでは最大限に引き出され、彼女の俳句の本質的な何かを体現するかのように際立つ。
 しかしながら興味深いのは、これらの旧仮名が日本の詩歌の古層へとまっすぐに根を下ろしているようには決して思えないことだ。彼女の俳句はどちらかと言えば、欧州の都市や町を包む重たい夜を思わせる。

   またバスに乗る透明な火を抱いて
   パリの地図ひろげておとなしい孔雀
   一本に警官ひとり夜の新樹
   開かれるまでアルバムは夜の仕事
   恋人が針呑むやうに静かな夜

 少なくとも、これらの句の背景にある「夜」は、日本の古層的な文脈からは離れたものだろうし、むしろここに描かれた「夜」は、圧倒的な想像力を孕みながら西洋の詩を支えてきた「夜」に近いもののように感じられる。それが彼女の俳句に現れたのもそれほど不可解なことではなく、その「夜」は西洋詩の翻訳を通じて日本の近代詩にも間接的に多大の影響を与えたはずのものでもあり、彼女もまた一人の日本の詩人としてその余波の中に住む。
 そんな「夜」を孕むことで、ここでの句はいかにもひりひりとしている。脆さや危うさに似たものを抱えているようにも見えるが、それもつまりは圧倒的な「夜」の力ゆえのものかも知れない。
 理屈だけで考えるならば、日本の文化である旧仮名とそのような西洋詩的な夜とはどこか矛盾したものとも思える。だが、彼女の句の中ではそのような二つの要素が違和感なく統合され調和している。
 と言うのも、ここでの旧仮名は日本文化の古層に繋がるというよりはむしろ、圧倒的な「夜」の力が言葉の表面にもたらした屈折のように思えるのだ。ちょうど、水面に広がっていくさざ波のようで、想像力がもたらす力の余韻が言葉の表面に当たって屈折し、旧仮名としてそこに浮かび上がる。そんなふうに思えるのだ。
 このような余韻としての屈折は、旧仮名だけでなく彼女の俳句の中でさまざまな形をとる。例えば、彼女の句は時に白昼夢のような様相を見せる。

   いくたびも池の頭に飛び込めり
   醒めるたび函開けてゐる春の夢
   生きてきてバケツに蟻をあふれしむ

 これらの句に共通する反復性に注目したい。これらの反復もどこかさざ波めいていて、何かをひたすら繰り返すことによってその果てに白昼夢めいたものが立ち現れる。圧倒的な闇の余韻が人間らの営む非力な昼へとたどり着いた時に、さざ波のように幾重にも屈折したイメージとして結晶する。そんなふうにも思える。
 あるいは、時に彼女の句は俳諧味にも通じるユーモアを見せることもある。

   眠かつた世界史(ロマノフ朝の転機)
   踊れない方に加はるクリスマス
   厚着して紙を配つてゐる仕事

 だがこれらのユーモアも、単なる可笑しみといったことに留まらず、どこかプリズムのように屈折した光景を結んでいる。
 いずれにせよ、「夜」の想像力を基盤として、その圧倒的な力の流れを言葉でそのまま受け止めることで、むしろ言葉の脆さゆえの多様な屈折を描き出す。それが、彼女の句の特徴と言える。そんなふうに彼女の句には、強さと脆さの光が屈折し合いながら魔法のように共存しており、そしてそれゆえに独特の美しさを放つ。

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