ラベル 『子音』を読みたい の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 『子音』を読みたい の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年4月24日金曜日

【葉月第1句集『子音』を読みたい】8  パパともう一人のわたし  北川美美

  「ボヘミアン・ラプソディ」はフレディのピアノソロと「ママー」の歌い出しが強烈な印象を残した。またジョー山中の「ママ― ドゥユーリーメンバー」とはじまる「人間の証明」も冒頭の「ママー」が頭の中を駆け巡る。青年が母親に思いを託すのはエディプスコンプレックスの傾向があるからだろうか。

 もう一度抱つこしてパパ桜貝

 句集『子音』は「パパ」で幕が開く。句集カバーに写る葉月さんは美しい大人の女性だ。

 「抱つこして」の句の「パパ」に不思議な印象が残り、作者・田中葉月のバイオグラフィーを読むイメージで句集のページをめくっていく。読み進めていくとそのおねだりをしている童子と同様、幼少の作者が顔を出し始める。

あのときのあなたでしたかアネモネは
天国のファックス届く風信子
万緑や消した未来の立つてをり
古本に賽の河原の明け易し


 幼少時にどこかではぐれた自分自身、死んでしまったもうひとりの自分、その時を境にこの世を生きてきた作者は、少女期を経て、恋をして、結婚、出産、育児と人生のサイクルを経験してきた。はぐれたままのもうひとりの自分はいつまでも童子のまま。時を経てあの頃の自分に句の中で作者は邂逅しているようだ。

 「パパ」という呼ばれ方をする父親のイメージは、シルクガウンでブランデーグラスを片手にソファに座る男性を想像みたりする。石原裕次郎がいた時代の戦後昭和の華やかさが重なりあう。筆者に於ける身近なパパとは天界の魔王である「魔法使いサリー」のパパ、破天荒で心根のやさしい「バカボンのパパ」という両極端なパパを思い出す。サリーちゃんのパパもバカボンのパパもとてもママに愛され、頭が上がらないパパだった。

 ところで「パパママ」という呼称は俳句との関連が微妙にある。虚子が大正六年に「パパママ反対論」を打ち出し、与謝野晶子から反論を受け、ちょっとした論争に発展したのである(二〇〇六年二月四日朝日新聞)。時を経て「パパ、ママ」の呼称が広く定着したのは、1960年代から1970年代にかけてのオリンピックや万博の頃ではないかと私自身は感じている。アットホームで平和で華やかで勢いのある時代の日本の象徴が「パパ、ママ」という呼び方に現れている気がするのだ。

 『子音』の「パパ」は、高度成長期に多忙を極め子煩悩で優しく、かっこよくて、多くの仲間のいて、洋行帰りのパパ・・・と勝手に読者としての想像が膨らむ。もっと抱っこして欲しかった…しかし、「もう一度」がないことを、人生のどこかではぐれたもう一人の作者は悟っていたようだ。

 四つの章タイトル SPRING BLUE/SUMMER  ORANGE/FALL  GOLD/WINTER  BLACKは、人生の移り変わりを既成概念にない自分の色として表現していることを思わせる。現世を生きる作者は常に彩られている。

人参や絵本の中に脚のばし
金色の扉のつづく枯野かな

 作者を未踏の世界へ連れてゆく道先案内役として童子の頃のもうひとりの作者が時折現れる。「パパ」はもういない。作者はボヘミアンとなり新天地の扉を自ら開き風に吹かれている。そこで聴こえるさまざまな風の音が「子音」なのかもしれない。Anyway the wind blows, doesn't really matter to me.

 以下印象句を掲げよう。


白れんや空の付箋を剥がしつつ
ふらここやうしろに痛み曳きずりて
ふらここの響くは子音ばかりなり
短夜や心音独り歩きして
勾玉の心音はやし薄暑光
月光をあつめてとほす針の穴
美しき父離れゆく草の絮
投げ入れる石の足りない花野かな
どこまでも笑ひたくなる芒かな
短日や絵画の中の砂時計

 本書は、序・秦夕美、本人あとがき、著者略歴を含む。2017年7月30日ふらんす堂〈第一句集シリーズ/I〉として刊行された。定価1700円+税


※現代俳句協会月刊誌「現代俳句」2019年2月号〈ブックエリア〉掲載に加筆修正。

2019年6月1日土曜日

葉月第1句集『子音』を読みたい インデックス



1 無題  藤田踏青  》読む
2 「魔女の途中」 田中葉月を考える  森さかえ  》読む
3 軽やかな感性に寄せて  長谷川隆子  》読む
4 田中葉月句集「子音(しおん)」  矢田わかな  》読む
5 田中葉月への序章   谷口慎也  》読む
6 「詩的言語の行方」   山本則男  》読む
7 生真面目なファンタジー 俳人田中葉月のいま、未来  足立 攝  》読む
8 パパともう一人のわたし  北川美美  》読む



2019年3月22日金曜日

【葉月第1句集『子音』を読みたい】7 生真面目なファンタジー 俳人田中葉月のいま、未来  足立 攝

 俳句とは、俳句の形式で書かれた詩である。それ以上でもないし、それ以下でもない。ここは俳人であれば共通認識にできるのではないだろうか。
 そして俳句の形式で書かれるのだから、定形であれば17音。定形を無視する人にとっても、きわめて短い形式であることは間違いないだろう。俳句とはこの短さを欠点とせず、逆にその短さを武器にすることによって、短編小説以上の世界観を描きうる驚異の文学である。今風に言えば恐ろしいまでのコスパ(コストパフォーマンス)の良さ、圧倒的なお手軽さが身上である。
 アブラハム・マズローが規定した人間の最高位の要求としての「自己実現」が、俳句をすることによって、いとも簡単にできてしまう。(もっともマズローは自己実現の上に「自己超越」という、もはや要求とも言えない最高次の段階を位置づけた。興味のある人は心理学講座を参照されたし)
 自己を表現する手段として映画を撮れ、長編小説を書けと言われても、才能は別にするとしても、非常な力業である。とてもお手軽にはできない。老齢に近づけばますます難しくなっていく。ところが俳句は、映画や小説と同等の重さの世界観が100歳の老人にも描きうるのだ。
 今や若年層だけでなく老年層までもがインスタグラムやツイッター、フェイスブックなどのSNSに興じている。通俗的で歪な形ではあるが、最初の一歩とはそんなものだ。自己を表現しよう、発信しようという気運がかつてなく高まっていることは間違いない。わが国の文化的な度合いがやっと先進国なみになってきたということだろう。
 問題はこれらのブームが「俳句」と無関係のところ、手の届かないところで起こっていることである。アンテナを張り手を伸ばせば、俳句に関心を示す人がが大量に生産されているのに、俳句の楽しさ面白さ、──要するに俳句が自己実現のための最適なツールであることを、社会の深部にまで示すことができずにいる。私たちの側が一歩踏み出せば、バラエティ番組ではもの足りなくなった俳句愛好者を大量に私たちの側に取り込むことが可能になっているのに、である。
 「子音」の作者の知るところではないが、このような情勢の中で田中葉月氏の第一句集が上梓されたのである。
 子音は子音である。紫苑、四温、師恩、歯音、梓苑……などと駄洒落ごっこをすることに意味はない。自己の俳句と句集を母音でなく子音とした控えめなナイーブさが俳人田中葉月の魅力である。(しかもシインと読まれないように、「SHION」と控えめなルビが振ってある。シオンの発音に込められた温かさと膨らみ感が、それと意識させない「こだわり」である)

 もう一度抱っこしてパパ桜貝

 実は、私はこの句を平成28年の「九州俳句」183号で見て驚嘆したのだ。このときの田中葉月氏の句群の中で出色であるだけでなく、俳句界に新しい一石を投ずる作品だと思ったからだ。
 書いてあることは「もう一度抱っこしてパパ」だけ。それに「桜貝」を配合していると理解すれば、ありふれた普通の句に見えるに違いない。
 だがそうではない。「もう一度抱っこしてパパ」とは甘やかされたお嬢さまのわがままを超えて、少女が(女性が)父性にいだく永遠の憬れなのだ。父という現実を離れた普遍化がここにある。芸術の価値はその普遍性にあるが、この作家は安易な(しかし魅惑的な)エピソードで、やすやすとこれに到達している。計算されつくした表現でないところに、逆にこの作家の才能と可能性が感じられ、強く印象に刻まれたのであった。そうすると、下五の「桜貝」が単なる配合、取り合わせの言葉でないことが見えてくる。
 だいたい私は、俳句の作り方として「エピソード+ふさわしい季語」という配合(二物衝撃)論が好きではない。では、おまえはこんな作り方は絶対しないのかと問われれば、「お許しください。よくやります」と答えるしかないが、それは本来の俳句の作り方、感動の形象化とは違うはずだ。こんな安易な作り方をするから、怒りを表したいときには「冬怒涛」、かすかな希望を暗示したいときには「冬の虹」などというわざとらしい季語を据えて、感動を表現したつもりになっている。そしてこうした行為が俳句を芸術からますます遠ざけていることに気付かない。
 どんな作り方をするかは問わないが、五七五(便宜的にこう書いたが、定形を意味するものではない)のすべてに、作家の分かちがたい精神があり、そのすべてが全体を構成する単位であると私は信じている。
 こう考えるとき、葉月氏の「桜貝」は、後付けの「取り合わせ」でなく、「もう一度抱っこしてパパ」と分かつことのできない必然の言葉であることがわかる。直感的にそれが分からない人は、次の句と比べてみたらいいだろう。

 もう一度抱っこしてパパ桜草
 もう一度抱っこしてパパ桃の花
 もう一度抱っこしてパパ春の風

 そう、桜貝ということばには乙女チックな響きとは裏腹に、不要な質感が捨象されているのだ。それゆえ一句に濁りがない。すっきりと「もう一度抱っこしてパパ」というモチーフが浮かび上がり、「父性」という憬れにも似た郷愁を男性の胸にさえも響かせる。作意とは別の勘の良さで、この勘が偶然でないことは、たとえば次の作品を見ればよく分かる。

 春の日をあつめて痒しマンホール
 貧困や砂糖たつぷり養花天
 ありふれた時間でありぬ蝉の穴
 万緑や消した未来の立つてをり
 冷ざうこ全裸の卵ならびをり
 黒鍵に腰かけている月明かり
 マスクしてみな美しき手術台
 葱白し七つの大罪ほぼ犯し


 新しい時代の俳句作家にふさわしい力量を身に備えていると、つくづく感心したのであった。
 余談ではあるが、これらの句のどこに私が惹かれたかというアリバイを少し残しておきたい。手の内を曝すようで憚られるが、他の人の鑑賞と違うところをあきらかにする。

 春の日をあつめて痒しマンホール

 「痒し」で切れることは論を待たないが、痒しの主語は「私」ではなくマンホールの蓋である。痒いとはむずがゆいことで、陽光に照らされてお行儀良くしていることがじれったく感じられたのだ。切れで時間空間の視点が少しずれることで、それが強調された。

 貧困や砂糖たつぷり養花天

 何と上手いのだとうっとりする。「砂糖たつぷり養花天」と「貧困」が同等の質と重さで並べられている。養花天(桜の頃の曇天)が絶妙。勇ましい政治俳句作家がまっ青になるほどの出来である。

 ありふれた時間でありぬ蝉の穴

 生も死も生きている間の喜怒哀楽も、自分ではかけがえのない時間のように思うが、それは他人も同じであり、結局はありふれた時間に過ぎないという把握。蝉の穴を見て、その思いを深くする。

 万緑や消した未来の立つてをり

 これは複数の解釈が同時に成り立つだろう。私はこう感じた。
 万緑と言えば、草田男の「万緑の中や吾子の歯生え初むる」であろう。その湧き立つ命のラッシュの中で、自分の意思で消してきた過去に向き合うのである。たとえば「水子」を想像すると良い。

 冷ざうこ全裸の卵ならびをり

 これは「冷蔵庫イコール夏の季語」などとするとイメージが濁る。無季ではないから見せかけの季語だ。そこが新しい。冷えた卵の質感が見事。

 黒鍵に腰かけている月明かり

 葉月氏の十八番の世界。感覚に頼るだけでなく、きちんと制御できていることを評価。

 マスクしてみな美しき手術台

 医師や看護師がマスクするだけでなく、見方を変えれば手術台自体がマスクをしている。生死を見届ける手術台の冷徹さを「美しき」と感じた。耽美的な世界が広がる。

 葱白し七つの大罪ほぼ犯し

 「白し」でもちろん切れるが、大罪を犯したのは私でなく葱。人間もそうであるが葱には葱の「七つ」があるだろう。それをやすやすと犯し乗りこえてきたからこそ、はっとするほどの純白でいられるのだ。

 以上で余談を閉じる。

 私は俳句の作法(作り方、鑑賞のしかた)は、俳句村の掟に従うべきでないと考えている。少し乱暴に断定すれば、俳句村の掟は実よりも害の方がはるかに大きいように見える。「切れこそが俳句と散文を分かつ」などと言われれば、旧人類を見る目でその発言者を見てしまう。「滑稽と挨拶」「座の文学」……などなど、有害な俳句至上主義に侵されていると実感する。
 ここでその論議をするスペースはないが、私の主張は明確で、要するに俳句史と俳句は違うということである。「俳句は『俳諧の連歌』の発句が独立したものであるから、強い独立性、すなわち『切れ』が必要になり……」などと延々と主張する人がいて辟易するが、そんなことはどうでも良い。「日本語はもともと表意文字であり象形文字から発達したので、本来俳句は象形文字で書くのがふさわしい」という主張とどこが違うのか分からない。
 端的に「俳句」という容器が私たちの前にあり、その容器にいかに現代を生きる人間の精神を形象化できるかが、俳句に問われている唯一のことであると理解しても、もういい加減良いのではないだろうか。その容器がいかにしてできてきたかなどは、俳句ではなく俳句史で論ずればよいだろう。俳句と俳句史をいまだに分かつこともできないから、桑原武夫の第二芸術から抜け出せないのである。

 「切れ」は俳句の専売特許ではない。

 この川で泳ぐべからず/警視庁
 お土産は無事でいいのよ/お父さん

 のように、切れはもともと日本語の持つ機能である。短い俳句はこの機能を研ぎ澄まし、多用させてもらっているに過ぎない。

 だから田中葉月氏は、現代を生きる女性の感覚と、身につけた古い俳句作法との間でもがき苦しんでいるように見える。それでよいと思う。いや、それしかないと思う。なぜなら新しい感覚は、まだその感覚を盛るための器が用意されていないからだ。(いままでにない感覚なら、当然そうだろう。ありきたりの感覚なら、それを盛るためのありきたりの皿が山ほどある)

 さつきですめいですおたまじゃくしです(トトロが下敷きか)
 きのふがけふでけふがきのふ半夏生
 南瓜煮るふつつかものにございます(ふつふつと煮ると思って読むと裏切られる)


 田中葉月氏の言葉遊びはなかなか一流である。たぶん敬遠する大家が多いと思われる中で、自分の大事な第一句集にこれらの句を収録する遊び心に大きな喝采を送りたい。
 人はみな未完であり発展途上であるが、俳人田中葉月は、着実にこれまでの俳句の「殻」を脱ぎ捨て未来に伸びていくだろう。それを確信させる第一句集「子音」である。

2019年3月8日金曜日

【葉月第1句集『子音』を読みたい】6 「詩的言語の行方」 山本則男


 田中葉月さんと句会をご一緒するようになって、もう2年近くなる。句会は、月に1回であるが、10人ほどの人数で忌憚のない意見を述べ合う句会である。10句持ち寄りで記名式である。互選で何点とるというような句会ではないので、皆さん、右顧左眄することなく個性的な句を出されている。
 『子音』は、全般的に、作品に晦渋なところがなく、感性豊かな作風である。この句集の随所に、言葉の面白さ、発想の新鮮さが垣間見られる。さらに、言葉を丁寧に扱っているため、句柄に歯切れのよさがある。新しい表現の世界を求め、着実に句境を深めてゆくには、思いつきの言葉遊びではなく、自らの言葉の選択に信念を持たないと、詩的言語が私的言語に陥ってしまうであろう。しかしながら、色々な俳句表現を試みながら、彷徨のあげくに辿り着いた句集は、この『子音』であろう。

 鞦韆やうしろの余白したがへて

 なにげない日常の一光景であるが、怪しい雰囲気と不条理が感じられる。何事もなく詠んでいるが、不安を従えている句である。「鞦韆」のうしろは見ることが出来ないので、恐いような感じがする。「うしろの余白」は、何か、付き物が潜んでいるような恐ろしさがある。そして、鞦韆の揺れる反動で知らぬ間に余白を従えてしまっているところに、さらに恐さが倍加されている。

 陽炎へ吸ひ込まれゆく滑り台

 抑制の利いた言葉から豊かな連想の広がっていく句である。「吸ひ込まれゆく」は、滑り台ではなく、人間である。陽炎の中に人間が屈折して、溶けてゆくようである。「陽炎」は、はかないもの、あるかなきかに見えるものである。そこに、人間が重なつている。

 文明のおこりしところ亀の鳴く

 「亀鳴く」の季語が想像上のものであることから、文明がなければ、この季語は生まれて来なかったことを勘案すると、「文明のおこりしところ」に納得してしまう。

 それぞれの光の束を挿し木する

 新鮮な感覚を持っている句である。全身の五感を統一している趣がある。詩的な表現が生きている句であり、また、あたたかな眼差しが感じられる句である。「それぞれの」が、何なのか、分からないところに、この句の魅力がある。「光の束を挿し木する」に明るい未来がある。しかし、「それぞれの」であるから、それぞれに未来は変わってゆく。

 勾玉ものびをするらし茅花風

 小さなものに向ける眼差しが優しい句である。心の中の静謐な気持が、命というものに生き生きと向けられている。勾玉は胎児の形を模したと言われているので、「のびをするらし」の措辞に面白さがある。「茅花風」は、優しく、美しく光る風のように思われ、勾玉を静かに包んでいるようである。

 ふらここの響くは子音ばかりなり

 柔軟な発想力のある句である。子音は舌、歯、唇、顎などを使つて出す音であるが、日本語では子音だけの発音はn(ン)の音しかないそうである。子音には摩擦音というのがあるので、ふらここにひびく音は、「子音ばかり」と言っても間違いはないであろう。

 黒揚羽思はず呪文唱へたる

 「黒揚羽」は、喪に服しているようなイメージがあるので、密教的な感じで、「呪文を唱へる」に繋がるようである。あるいは、呪いやまじないをかけるような気がする。

 言の葉の一つたづさへ繭になる

 深い情趣を醸し出している句である。「言の葉の一つたづさへ」であるから、最も大切な言葉を携えているのであろう。そして、蚕は蛹になってから、蛾になるが、これでは詩的にならないので、「繭になる」と留めたところが、色々な想像が出来、詩的に感じられる。

 冷だうこ全裸の卵ならびをり

 この句に出会ったときの鮮烈な印象を、今でもよく覚えている。現代俳句の俳句大会の投句作品と思う。滋味な作品というのは、このような作品をいうのであろう。冷蔵庫の中の「卵」にのみ焦点を絞り、「卵」を即物的に把握しているところに、この句の新鮮さがある。中々に個性的な句である。「卵」の質感を「裸」という季語でうまく捉えている。「全裸な卵」が鮮やかな措辞である。

 虹生るわが体内の自由席

 作者の感覚の冴えが感じられ、透明な感性がある。「虹」というのは、希望に繋がるので、「わが体内の自由席」が利いている。指定席ではなく、自由席であるから、どんどん希望が膨れ上がっていく。

 月光をあつめてとほす針の穴

 一見ただごとのようであるが、句の奥底から不思議な言葉の美しさが漂ってくる。作者の肌理こまかな感覚が新鮮である。「月光をあつめてとほす」は、さりげないが、絶妙の措辞である。あの小さい針の穴にどのようにして通すのだろうかと思うと、色々と考え込んでしまう句である。月光を糸にして何を縫い上げるだろうか。ものすごく美しいものが縫い上がりそうである。

 海苔巻きに巻いてみようか花野風

 海苔巻きは、胡瓜、明太子など、色々なものを入れて巻くことが出来る。材料には、それぞれの色があるから、花野の色々な花の色に通じる。そして、「花野風」で包めば、鮮やかな海苔巻きが出来そうである。

 伝言は空に書きます秋桜

 句が時空の広がりを持っている。「伝言は空に書きます」という、スケール大きい句である。「秋桜」の季語が、雲ひとつない晴天を思わせる。空に愛情の言葉を書くのであろう。

 引力に逆らつてみる草の絮

 所詮、「草の絮」は軽いので、風に飛ぶしかない。「引力に逆らつてみる」といっても、どこまでも飛んでしまうであろう。しかし、逆らつてみることも大事である。人間の生き方に通じる。

 鍵盤をはみだしてみる秋の蝶

 自ずから詩質を持ち合わせているのであろう。独特な感性の賜物である。「鍵盤」を「はみだしてみる」のは、どのような旋律であろうか。「秋の蝶」のゆったりとした、味わい深い句である。「鍵盤」と「秋の蝶」の取り合わせが新鮮である。「春の蝶」「夏の蝶」「冬の蝶」と四季の蝶がいるが、「鍵盤をはみだしてみる」は、「秋の蝶」しかないであろう。「野山の色も変はり、風も身にしむようになり、ものさみしくあはれなる体が秋の本意」と言われているので、その本意に通じるからであろう。

 黒鍵に腰かけてゐる月明かり

 「月明かり」は何を暗示しているのであろうか。佐賀県鳥栖市のサンメッセ鳥栖に置かれている「特攻ピアノ」を想起した。この時、演奏したベートーベンのピアノソナタ「月光」の曲が「月明かり」として浮かんでくる。「黒鍵」は、特攻兵として最後に演奏した「月光」が鎮魂のメロディーとして内包されている。そして、「黒鍵」に暗くメロディーが「腰かけてゐる」ような思いがする。「黒鍵」と「白鍵」があるが、「月明かり」であるから、「黒鍵」であろう。「黒鍵に腰かけてゐる」という発想に感心した。そこから、「月光」のメロディーは今も聞こえている。この句から柔らかな詩情と自在な感性を読み取ることが出来る。

 ゴスペルや水底の冬浮いてくる

 ものの見方やものの切り取り方が独創的な句である。福音書により救われているというイメージがある。寒い、冷たい冬が水底から浮いて来て、あたたかくなる感じがする。とても面白い句である。

 埋火や避けて通れぬことのある

 眼前にあるさりげないものを詠んでいる句である。さらりとした表現の中に、繊細な感性を内包した句である。「埋火」はじっと埋まっていて、聞耳を立てているようである。誰しも決断しなければならないときがあるが、「避けて通れぬこと」もあるであろう。

 シャングリラ底より覗く銀狐

 理想郷を「底より覗く銀狐」は、どんな理想や楽園を望んでいるのであろうか。「銀狐」の毛皮になる哀れや化けて出るという昔話が思い出され、視野のひろい句になっている。

 風花す銀紙ほどのやさしさに

 この句集の掉尾に置かれた句である。静謐な目差しを感じさせる句である。何気ない言葉の中に、詩情と美意識が感じられる。「銀紙ほどのやさしさに」に本当の優しさがあるような気がする。

 まだまだ、触れてみたい作品は、たくさんあった。一様に作品は、すべて佳汁であり、洗練されている。これからどのような作品が生まれてくるのか、期待感がある。
 句会では、自らの表現に重きを置いて、広範囲に句材を求めて句作している様子が窺われる。日々の暮らしの中に、新しい詩情を探して、言葉に昇華し、新鮮な情趣を膨らませているようである。
 自分を客観的に他人の目で見る、「脚下照顧」のこころの余裕を持てば、もっと、作品の世界が開けてくるであろう。
 飯田龍太は、「短詩形のひとつの秘密は、作品の表面から一切の意味を去り、作者の姿を消すことだ。」と言っている。
 攝津幸彦は「表現というのは、一方で言葉の意味を消してゆく過程ということができる。しかし、まったく意味を消してしまっても、特に俳句表現はおもしろくなくなってしまう。消すことに賭けた努力の跡を少しだけ残しておかないと駄目だ。このことは簡単なようで難しい。」と言っている。
 飯田龍太も攝津幸彦も「言葉の意味を消してゆく」ことを、強調している。しかしながら、「このことは簡単なようで難しい」のである。
 俳句には、意味はいらないし、意味を求める必要性はない。また、常識を詠うものでもないので、言葉における自由な詩的表現を求めていった方がよいであろう。そうすれば、より新鮮な詩的言語の世界を構築出来るであろう。これから、どんな進化を遂げるであろうか。今まで以上に、より新しき表現世界を見せてくれるであろう。

2019年2月22日金曜日

【葉月第1句集『子音』を読みたい】5 田中葉月への序章  谷口慎也

  面白く読めた一巻である。
 「私にとって俳句とは心をキャンバスにして描く絵のようなもの。(中略)。日常と非日常、実と虚を行ったり来たりできる自由な翼を持てる俳句が楽しい。」(「あとがき」)とある。そしてこれが、現在只今の作者の俳句への思いの総てである。他に難しいことは何も語っていない。
  この「心をキャンバスに」すること。「実と虚を行ったり来たり」するということ。これらは言葉を換えながら、今までいろんな処で言われ続けてきたことである。だが作者は、そのいちいちに拘泥することなく、大きく広げたその思いの中を、ある意味無頓着に、またある意味無防備に飛び回っていて、それが「楽しい」―のである。
 このことを端的に示すのが次の冒頭句である。

  もう一度抱つこしてパパ桜貝

 最初はこの句に少し戸惑った。作者は昭和三十年生まれ。であれば、人はここに、俗に言う「ファザコン」を指摘するかもしれない。また〈パパ〉は、時代と場所とによって陰のある言葉、いわば隠語としての機能を果たして来たが、この一巻にそういう趣味はない。作者はただただ無防備に、何の外連味もなくこの一句を吐いてみせたのだ。すなわち〈桜貝〉という具象としての言葉に、一瞬のうちに時空を超えた直観的な情感の導入を果たしているのである。他に何の計算も見当たらない。この句集は、そういう作者の手の内を冒頭から開示することによって始められている。
 この句に関して言えば、〈父と子の辿り着けないボート漕ぐ〉〈美しき父離れゆく草の絮〉〈非常口やや傾きてパナマ帽〉、そして〈風薫る母はしづくに帰りけり〉〈父母の遺影はいらぬ牡丹雪〉などがあり、その浪漫的な表現の裏にある作者の「生活」も見えてくる。だが作者にとって、その「生活」も、なべて冷静に「表現」の問題として捉えられている。「生活」が等身大のまま「表現」になる、などという素朴な信仰とは無縁である。 
 冒頭の一句もその視点から眺めなければならないことは、次の作品たちが証明してくれるであろう。

  ジオラマの駅から発車夕桜
  船出するチキンライスや春の月
  ぞくぞくと跳び込む亀や春の水
  負える子ののけぞる首や葱坊主
  籠鳥の目玉の中の春の闇
  ひまはりや歩き出したる少年兵
  折り鶴の翔つや五月の非常口


 一句目の擬似風景は、「動」を前提として永遠に「静」であるかのように描かれている。実際この場合の電車が動くものであっても、〈夕桜〉という背景は決して散らないからである。だがその「静」(虚)は、〈出発〉の措辞によって、今にも動き出そうとする「実」に転化されている。「虚と実を行ったり来たりする」(虚実合一の)作者の思いが静かに定着している一句である。             
 二句目。〈船出する〉句中の主体は「私」から〈チキンライス〉へと無理なく転化されている。ここに一人称であるべき「私」が、句中の「語り手」によって、三人称としての俳句として成立している。
 三句目は〈ぞくぞくと〉がなければ韻文としては成立しない。すなわち、その誇張表現(デフォルメ)に正比例して、〈春の水〉の豊かさが伝わってくる。
 四句目。ここは〈のけぞる首〉が眼目である。中七での切れはある種の古臭さが伴うために敬遠する向きもあるが、それを打ち破っているのがこの動的な措辞である。同時にそれは、無防備に〈のけぞる〉生命体(エロス)の動きでもある。それが一本の〈葱坊主〉と交感することによってさらに活き活きと表現されている。句中の「私」から〈のけぞる首〉は後ろにあり見えないから、この一句も、確かな「語り手」によって成立していると言える。
 五句目。〈の〉による読みの連続は、上から下へ視野を狭窄しつつ、結句〈春の闇〉は「点」と化す。と同時に、一句を包む全体となり得ている。そういう構造上のレトリックが見て取れる。
 六句目の〈ひまわりや〉以下の切れは、〈少年兵〉という措辞によって、一句を寓意として語るに成功している。すなわち一句は、寓喩というレトリックにより、ひとりの少年の未来への立ち姿を暗示しているのである。
 最後の句は〈非常口〉に理屈が見えないこともないが、それも〈翔つ〉のが「鶴」ではなく〈折り鶴〉(=人工的なもの)であれば、一句の調和にさしたる障りはない。
以上、どの句も情緒・情感に溺れることなく、表現を成立させるに必要な理知がきっちりと働いている。作者の句歴は、高齢者が元気なこの俳壇において決して長いとは言えないが、先述したように、俳句への思いは極めて大雑把に把握されながらも、書かれた作品のそれぞれは、読み手である私にいろんなことを考えさせてくれる。修辞法も含めて、俳句的な知識が先行したものであればたちまち鼻に付く。だがそうならないのは、作者が先天的に、言語感覚・定型感覚に優れているからではないかと思われる―ここで言う「定型感覚」とは、俳句の本質である定型(5・7・5音)の構造の在り方に対する運動神経だと思ってもらえればいい。
 次のような句もある。

  さつきですめいですおたまじやくしです
  空豆の見ざる言はざる聞かざるよ
  浮き沈むここらでお茶に黒目高
  とりあへずグッドデザイン賞天道虫
  水掻きのゆつくり開く放生会
  投げ入れる石の足りない花野かな


 一句目は、口語調によるダイアローグの良さである。だが〈おたまじやくし〉は単なる〈さつき〉の比喩ではない。それを突き崩すのは〈です〉による反復法である。それがごく自然に、姪である〈さつき〉と〈おたまじゃくし〉とを合一化していき、そこに生命の交感が表現されている。
 二句目の滑稽感は、中七・下五の俗語が〈空豆〉の語韻・語感(あるいはそこから派生して来るいくつかの意味性)によって詩として昇華されたものである。ウイットとしての詩、と解釈してもいい。
 三句目は「人生浮き沈み」の俗語感が、〈ここらでお茶に〉の、いわゆる俳諧的な「とりはやし」によって、明るい兆しを見せている。〈黒目高〉のその目も涼しげである。
 四句目。これまた面白い句である。〈放生会〉とは捕えられた生類を山野や沼に放つ儀式のこと。そこに思わず、己の掌に生えてくる〈水掻き〉を見てしまうという仕掛けである。。簡単に書けそうな句にも見えるが、そうではない。そこには結句〈放生会〉のような、的確な言葉の選択が無ければ、一句は曖昧のままで終わってしまう。
 最後の句は、直截な叙述とその「逆接(性)」が命である。〈花野〉に従来の美意識を同行させれば、それは季語への「順接」となる。ところがそこに〈石〉を投げれば、それは「逆接」となる。思えば俳諧・俳句とは、この逆説としてのアイロニーが大きな特質のひとつではなかったか。

 さて、句の抽出とその解釈も、今回はこれで充分であろう。

 まとめて言えば、「作者」はいまだ「途上」にある。だがそれは、「作品」が完成に向けて「途上」であると言うのではない。一句の完成度は高い。それゆえに、縷々述べてきたように、私なりの鑑賞も安心してできるのである。でなければ、敢えて鑑賞する必要はない。
 繰り返すが、「心をキャンバスにして、実と虚を行ったり来たりする」ということに対する作者の明確な思いは、散文としての俳句論が無いゆえに見えにくいが、その俳句理念はすでに具体的にいちいちの作品に具現化されている。すなわち作者は、その広大な俳句理念の中を現在只今自由に飛行中なのである。そして作者の先天的な言語感覚・定型感覚は、あらゆる言葉(素材)に突き当たり、そのつど一句を成していく。「途上」とはまさにそのことを意味するのである。それは作者の中では「永遠に途上」であるのかもしれない。
 句集最後に次の一句が置かれている。

  風花す銀紙ほどのやさしさに

 作者は表現としての「わが俳句」の在り様を、遥か遠方に、静かに見すえているようにも思えてくる―だが、ここは、あくまで私のモノローグである。                     

2019年2月8日金曜日

【葉月第1句集『子音』を読みたい】4 田中葉月句集「子音(しおん)」  矢田わかな


 「子音」がふらんす堂第一句集シリーズ/1として出版された。一ページ四句のペーパーバックと手軽ながら裏表紙には顔写真がしっかりと入って、センスのよさが光る装丁。
 序文で秦夕美氏が句集名「子音」について、掘り下げた考察をされている。
 ところで、田中葉月さんと私は俳句のはじめの一歩から今日まで、同じ年月を経てきた間柄だ。ある生涯学習センターのサテライト組織でいくつかの自主講座作りをすすめていた時、面識もさしてない秦氏に「俳句講座」を打診した。「句歴は長いが人に教えたことも、教える気もない」とのことだったけれど、幸いにも俳句の一歩からの句会を引き受けてくださり六年ほど続いた。葉月さんは当初から俳句への情熱が際立っていた。その後私どもは別の句会に移り、改めて一歩からの九州俳句作家協会会員に、続いて葉月さんは「豈」同人となり現代俳句の王道を足早に進んでいる。

 さつきですめいですおたまじゃくしです
 真珠色の声のころがる花はちす
 南瓜煮るふつつかものにございます


 葉月さんの俳句は明るい。自身が営々と築きあげた、幸せな家庭環境からにじみ出る明晰な底力。諦観や抒情を詠んでも明るい方へ落ち着くのは多分無意識なのだろう。

 もう一度だつこしてパパ桜貝
 とりあへずグッドデザイン賞天道虫
 この辺り鳥獣戯画のクリスマス
 草紅葉甘えのベクトル持て余し
 ゴスペルや水底の冬浮いてくる


 225句のうち57句にカタカナ表記がある。カナ文字の風通しの良さ、発音から連想する異国への憧憬、読む者は二つの言語の意味あいに遊ぶ。句集名にもこれが活用されており、秦氏は序文でそれを、「しおん」と詠めば、シオンはエルサレムそのものでありまた聖地、ノートルダム寺院の地などいくつもの地名につながると解説している。

 葱白し七つの大罪ほぼ犯し
 鍵穴を無数の蝶の飛び立ちぬ
 ひそひそと夜ごと鞄に月明かり


 言葉からことばへのリンクが多方面でそこから詩を結実させる感性。飛ばし方は遠く近く融通無碍である。理屈より感性を信じて句作の拠りどころとしている。

 啓蟄やゆるり起き出す兵馬俑


 八千体といわれる兵馬俑が中国の大地を一斉に行進。AIの世界、動く世界遺産。

 銃口は風の隙間に鶏頭花

 人間は残虐さを奥深く閉じ込めている生き物なのだろう。戦場ではその重い扉を開ける。鶏頭花は訓練に丁度良いターゲットか。

 その風に抱かれてみたい仏手柑

 仏手柑の幹には棘があり果実の下端は裂けているらしい。近寄りがたい形相の故に仏の手。ならば誰もが抱かれてみたい。

 八月をぽろぽろ零す缶ドロップ

野坂昭如原作、高畠勲監督の「火垂るの墓」を彩る缶入りドロップ。幾ばくの経験もしないままに命が消える幼子のまっすぐな瞳が甦り平和の尊さをまたかみしめる。

2019年1月25日金曜日

【葉月第1句集『子音』を読みたい】3 軽やかな感性に寄せて 長谷川隆子


 『子音』の上梓おめでとうございます。瑞々しい感覚でとてもさわやか、素晴らしいです。俳句の鑑賞は門外漢ですが、集中、特に好きな句をあげてみます。

  もう一度抱つこしてパパ桜貝
 春あられレゴブロックの街に住み
 かけてこい浜の春雷かけてこい


 懐かしい優しい句です。幼い日への憧憬、田中さんはお父さんっこでいらしたのでしょうか。レゴブロックの句、私も以前「ひとつかみの積み木寄り合うわが街」と詠ってみたことがあります。カラフルで無機的は言い過ぎだけれど、昔のなつかしい風情とは違う新しい街、そんな感覚が表されているように思います。春雷の句、浜辺の散歩でしょうか。春の雷はどこか季節の喜びと重なって暗くない。「かけてこい」と呼び掛けている対象は春雷、そして浜辺の子どもたち等と想像しました。

 白れんや空の付箋を剥すがしつつ
 鞦韆やうしろの余白したがへて
 啓蟄やゆるり起き出す兵馬俑
 冬の虹からめてとりぬ牛の舌


 木蓮の花びらはぽっかりと白く、ゴッホのアーモンドの花の絵など想起するのですが、蒼穹をバックにくっきりと白い。鮮やかなイメージがあります。「付箋を剥す」とは巧くいい得ていると感動しました。そしてブランコ、「うしろの余白」がいいです。ブランコを漕ぐとうしろの空間も一緒に動く気配、それが「余白」という固い語句で表現されてちょっと知的な感じがして、とてもいい。特別に好きな一句です。
 ずらりと並ぶ兵馬俑も、いつか動き出しそうで、面白い。これを短歌にするとやはり新鮮な感覚がうすれそうです。やはり俳句の世界ですね。「牛の舌がからめて」が如何にもという感じです。

 遠足のメザシぞくぞくやつて来る
 春光をあつめて片足フラミンゴ
 竿竹の光長閑し筑後川


 子供たちはざわめきと一緒に繋がってやってきます。端的な表現で、ずばり言い得ています。動物園のフラミンゴ、あの桃色の片足立ちの姿はなかなか印象的です。そして筑後川の一句。いかにものどかです。
 筑後川そのままののどかな風景が目前に広がります。「光」があることで、作者のこの情景への愛情が偲ばれます。
 
 朧月ちよこと高きが好きな猫
 花茣蓙のうたた寝跡のピタゴラス
 風薫る男は凡そ直列で
 冷ざうこ全裸の卵ならびをり


 塀の上の猫、群れない猫、ひょっとしたら作者も「ちよこと高い」ところがお好きなのかも。心地いい場所をよく知っている猫が捉えられていて面白い。面白いと言えば昼寝後の頬っぺたに三角形が…でしょうか。それから男たちが直列というのも面白い。女は連れ立って歩きますよね。冷蔵庫の卵が裸と言われればなるほどと思ってしまいます。着眼の独創性が生きています。「全裸」を生かすために冷蔵庫がひらがなになったのですね。

 虹生まるわが体内の自由席
 娘の去りし今年の天井高くなる
 風花す銀紙ほどのやさしさに


 「わが体内の自由席」はどんなにか豊かに広がってゆくのでしょう。これからの句作がもっと楽しみになってきます。田中さんの独自の感覚が捉える世界を味わうことが出来ました。
 お嬢さんが嫁がれて、家が広くなったような寂しさを「天井が高く」なったという表現は巧い。
 平凡な主婦という括り方があるけれど、それぞれの世界をもっているわけで、舞う雪を「銀紙ほどのやさしさ」と言えるのは田中さんだけ。素晴らしいことだと思います。
 感覚が若くって、ユーモアがあって、葉月ワールドのフアンになりました。ことばが光っています。私も短歌を細々詠んではいますが、理屈っぽくて説明癖があってわれながらつまんない、うんざりと思うこの頃、とても刺激になりました。

 ありふれた時間でありぬ蝉の穴
 万緑や消した未来の立つてをり


 新鮮な個性的な感覚に感動していましたら、ちょっと思索的、哲学的な句も。蝉の儚い命に人間の一生が重ねられて。「消した未来」とは選ばなかった未来のことでしょうか。そういえばあの鞦韆の句の余白も哲学ぽいかもと思いました。
 
 いい句集を読ませて頂き心より感謝申し上げます。これからもご健詠を。楽しみに致しております。

2019年1月11日金曜日

【葉月第1句集『子音』を読みたい】2「魔女の途中」 田中葉月を考える  森さかえ

   葱白し七つの大罪ほぼ犯し          田中 葉月

 七つの大罪というのは、キリスト教において、他のもろもろの罪の基になると考えられた「虚栄、貪欲、色欲、暴食、憤怒、嫉妬、怠惰」という七つの罪である。この七つの大罪をテーマにしたサイコサスペンス映画の「セブン」はブラッドピット主演でヒットした。その七つの大罪ほぼ犯したという、田中葉月というのは、いかなる俳人であろうか。
私は、少女の純真さと脳天気さを持ちながら、魔女の狡猾さと怖ろしさを合わせ持つ、そんな彼女の俳句が好きである。
 自分でも、句集「子音」のあとがきに「未だ定まらぬ句の傾向にもどかしさはあるものの、日常と非日常、実と虚を行ったり来たりできる自由な翼を持てる俳句が楽しい」と書いている。
 自分で言っているように、確かに句の傾向が定まらないところがある。

 もう一度抱つこしてパパ桜貝
 陽炎やふりかへらない君のゐて
 まあだだよ野遊びの背に父の声
 春光をあつめ片足フラミンゴ


 このへんの句は、悪い句ではないが、日常の実のまんまで飛び立てていない句ではないかと私には思えるのである。一読「はあそうですか」という感想で終わってしまうのだ。

  遠足のメザシぞくぞくやつて来る
  春の日をあつめて痒しマンホール
  あのときのあなたでしたかアネモネは
  短夜や心音独り歩きして
  風薫るをとこは凡そ直列で


 田中葉月という俳人は、ある意味、現状に満足をしている生活者である。俳句も、現実のふとした日常から題材を取って、そこからあれこれ構成していくのだと思う。だから、ややもすると現実のまま、そのまんまの日常にからみとられた句を作ってしまいがちなのである。だが、そこに、魔女のささやきが入って、言葉がうまく飛んでくれると、実に面白い句が出来あがる。
 一句目、「遠足のメザシぞくぞくやつて来る」って、どういうこと?お弁当にメザシが入っているの?なんていう疑問を吹っ飛ばしてメザシはぞくぞくやって来るのだ。ちょっと怖い。
「春の日をあつめて痒し」は、なんとなくわかる気がするけど、「マンホール」って、なに?マンホールが痒いのか?と読者に色んな事を考えさせるのである。この意外な飛び方は面白い。
 三句目も、「あのときのあなたでしたか」で軽く切れているのだが、読みはストレートに「あのときのあなたでしたかアネモネは」と読んでしまう。で、「アネモネ」って誰?ということになる。
 独り歩きする心音、直列の男達、読者をあしらう魔女の部分である。乙女チックなポエジーから魔女的な詩が生まれてくるのである。
 「魔女の途中」という、勝手なタイトルも、田中葉月という俳人が、乙女チックな平凡な俳人から、したたかで狡猾な魔女的俳人への途中であるという意味合いである。

 父の日やそろそろ父の顔をぬぎ
 冷ざうこ裸の卵ならびをり
 栗名月ひらたいかほで正座して
 コスモスやもうにんげんにもどれない
 半音のかすかにずれる鰯雲


 一句目、家族の前では父だが、家庭を離れるとまったく別の顔を父は持つのである。父は父であって父ではないのだ。
 二句目は、「裸の卵」が発見である。言われてみれば、確かに卵は裸なのだろう。
 三句目、「ひらたいかほ」が、名月を見るにふさわしい顔のような気がしてくる。
 四句目、七つの大罪ほぼ犯すような人はたしかに「もうにんげんにもどれない」かもしれない。
 五句目、歌を歌うのか、楽器を弾くのか、そんな日常の中での半音のかすかなずれである。取合せの「鰯雲」もきいている。

 マスクしてみな美しき手術台
 まづ一つボタン外して卵酒
 葱白し七つの大罪ほぼ犯し
 凍鶴やうざうむざうに脚あげて
 風花す銀紙ほどのやさしさに


 手術台というと、「手術台の上のミシンとこうもり傘の出逢いのように美しい」という、ロートレアモンの言葉を思い出してしまうのだが、作者はそんなこと関係ないのだ。「マスクしてみな美しき」というのは、実体験をもとにした言葉らしいのだが、現実を飛び越してしまう面白さがある。
 「まづ一つボタン外して」って、なんでボタンを外すの?と思ってしまう。ちょっとエロスの香りがして、男はコロリである。でも、「卵酒」は、動きそうな気がする。
 「凍鶴」の句は、さきのフラミンゴの句と比べれば、その面白さがよく分かる。片足あげた普通のフラミンゴにくらべると「うざうむざうに脚あげ」た凍鶴はイメージの世界へ勢いよく飛び立つのである。
 「風花す」の句は、「銀紙ほどのやさしさに」が決め手である。色んなやさしさがあるが、「銀紙ほどのやさしさ」が意表をついて面白い。イメージが出来そうでできないもどかしさも魅力である。

 田中葉月は発展途上である。と、私は勝手に思っている。日常の現実に安住してしまったり、安易な言葉の遊びに流れるようであれば、発展途上のまま終わりそうである。だが、そうはならないと思うのである。言葉のほうきに乗って、自在に俳句の空を飛びまわってほしいものである。

2018年12月28日金曜日

〈新連載〉【葉月第1句集『子音』を読みたい】1 無題  藤田踏青

  ――句集『子音』 田中葉月・著 発行所・ふらんす堂――

 作者は現代俳句協会会員・九州俳句作家協会会員・「豈」同人で、この句集が第一句集となる。あとがきに「世界最短詩とも言われる俳句とは何だろう。私にとって俳句とは心をキャンパスにして描く絵のようなもの。まだまだ思うに任せないのが現実だが、なぜか大抵言葉が遅れてくるような気がする。その奇妙な時間のずれが不思議な感覚となって快い。」とあり、その時間のずれが新鮮な世界の表出となっている。
 構成は春夏秋冬の原則に則っており、季節それぞれに洒落たカラー名が付与されている。

(SPRING BLUE)より
  回転ドア春愁ぽとり産み落とす
  春の日をあつめて痒しマンホール

 回転ドアやマンホールに情意を託した手法である。しかも春愁を産み落とすという行為や、春の日に痒みを覚えるといった、シュールな皮膚感覚は女性ならではのものなのではないであろうか。

  大陸のゆつくりうごく春のキリン
 ゆっくりうごくのは大陸であり、春のキリンという二重構造の作品。そう言った意味から、前意からは壮大な大陸移動説といった時空間が、後意からは系統発生といった形態の進化の歴史も窺える。

  ふらここの響くは子音ばかりなり
 ふらここという言葉から子音から紫苑や師恩を思い浮かべた。紫苑からはかつての女学生時代の思い出などを、師恩からは子音と母音との関係から学窓への視線と受け取ったのだが。

(SUMMER ORANGE)より
  夏の月梯子掛けても知らぬふり
  とりあへずグッドデザイン大賞天道虫

 両句共に無感覚の感動のような表情をしている。そして夏の月と梯子、グッドデザイン大賞と天道虫との取り合せは意表を突いており、ウイットのきいた句である。

  虹生まるわが体内の自由席
 この自由席は未来や希望を含んだ自由な生き方のベクトルを示しているのでは無いであろうか。まさに「虹」はその先にある憧れの対象のようにも思われる。

  青い鳥そつと来て去るハンモック
 誰しもにとって、青い鳥とは日常に於ける不在の象徴のようなものであろう。誰もいないハンモックが静かに揺れている様(さま)に何故か優しさと淋しさとが入り混じっている感覚が認められる。

(FALL GOLD)より
  銃口は風の隙間に鶏頭花
  半音のかすかにずれる鰯雲

 鶏頭花も鰯雲も、その存在感は風の隙間や空のかすかなずれに脅かされているようだ。そして鶏頭花はその朱色が血に見まごう故に銃口に対峙されているのであろう。また、空の無音の中にもかすかな半音がずれの擦過音のごとく感じ取られたのでもあろう。

  南瓜煮るふつつかものにございます
  ポニーテール爽やかに影きりにけり

 時にこのようなライトヴァース的な作品に出会い、微笑まれる。南瓜を煮る行為は単なる田舎的な謂いではなく、凡人としての優しさを示唆してもいる。そしてポニーテールが風では無く影をきる、という所作の潔さも爽快感を際立たせている。

(WINTER BLACK)より
  この辺り鳥獣戯画のクリスマス
  葱白し七つの大罪ほぼ犯し

 イロニーな視点を持った句柄である。聖なるクリスマスが鳥獣戯画的な遊びとなってしまっている現代風俗への揶揄。そして葱という一般の人間を暗示する存在も元々は白い面を持っていたにも関わらず、誰しも七つの大罪を避けることが出来ないという現実への自悔など、人間苦のような表情を包含している作品である。

  マスクしてみな美しき手術台
 マスクや手術台に対してのこの様な感覚、視点は新鮮である。全てを委ねる相手・対象はみな美しく見える存在なのであろう。

  風花す銀紙ほどのやさしさに
 風花は雪片ゆえに儚い存在なのだが、そのキラキラした光景を「銀紙ほどの」と表現した現代感覚に魅入りる。そしてその箔の薄さがやさしさにも通じている。
 素材という対象に新しさを求めるのではなく、感覚の世界に新しさを求めた句集であると感じた。