2019年3月22日金曜日

【葉月第1句集『子音』を読みたい】7 生真面目なファンタジー 俳人田中葉月のいま、未来  足立 攝

 俳句とは、俳句の形式で書かれた詩である。それ以上でもないし、それ以下でもない。ここは俳人であれば共通認識にできるのではないだろうか。
 そして俳句の形式で書かれるのだから、定形であれば17音。定形を無視する人にとっても、きわめて短い形式であることは間違いないだろう。俳句とはこの短さを欠点とせず、逆にその短さを武器にすることによって、短編小説以上の世界観を描きうる驚異の文学である。今風に言えば恐ろしいまでのコスパ(コストパフォーマンス)の良さ、圧倒的なお手軽さが身上である。
 アブラハム・マズローが規定した人間の最高位の要求としての「自己実現」が、俳句をすることによって、いとも簡単にできてしまう。(もっともマズローは自己実現の上に「自己超越」という、もはや要求とも言えない最高次の段階を位置づけた。興味のある人は心理学講座を参照されたし)
 自己を表現する手段として映画を撮れ、長編小説を書けと言われても、才能は別にするとしても、非常な力業である。とてもお手軽にはできない。老齢に近づけばますます難しくなっていく。ところが俳句は、映画や小説と同等の重さの世界観が100歳の老人にも描きうるのだ。
 今や若年層だけでなく老年層までもがインスタグラムやツイッター、フェイスブックなどのSNSに興じている。通俗的で歪な形ではあるが、最初の一歩とはそんなものだ。自己を表現しよう、発信しようという気運がかつてなく高まっていることは間違いない。わが国の文化的な度合いがやっと先進国なみになってきたということだろう。
 問題はこれらのブームが「俳句」と無関係のところ、手の届かないところで起こっていることである。アンテナを張り手を伸ばせば、俳句に関心を示す人がが大量に生産されているのに、俳句の楽しさ面白さ、──要するに俳句が自己実現のための最適なツールであることを、社会の深部にまで示すことができずにいる。私たちの側が一歩踏み出せば、バラエティ番組ではもの足りなくなった俳句愛好者を大量に私たちの側に取り込むことが可能になっているのに、である。
 「子音」の作者の知るところではないが、このような情勢の中で田中葉月氏の第一句集が上梓されたのである。
 子音は子音である。紫苑、四温、師恩、歯音、梓苑……などと駄洒落ごっこをすることに意味はない。自己の俳句と句集を母音でなく子音とした控えめなナイーブさが俳人田中葉月の魅力である。(しかもシインと読まれないように、「SHION」と控えめなルビが振ってある。シオンの発音に込められた温かさと膨らみ感が、それと意識させない「こだわり」である)

 もう一度抱っこしてパパ桜貝

 実は、私はこの句を平成28年の「九州俳句」183号で見て驚嘆したのだ。このときの田中葉月氏の句群の中で出色であるだけでなく、俳句界に新しい一石を投ずる作品だと思ったからだ。
 書いてあることは「もう一度抱っこしてパパ」だけ。それに「桜貝」を配合していると理解すれば、ありふれた普通の句に見えるに違いない。
 だがそうではない。「もう一度抱っこしてパパ」とは甘やかされたお嬢さまのわがままを超えて、少女が(女性が)父性にいだく永遠の憬れなのだ。父という現実を離れた普遍化がここにある。芸術の価値はその普遍性にあるが、この作家は安易な(しかし魅惑的な)エピソードで、やすやすとこれに到達している。計算されつくした表現でないところに、逆にこの作家の才能と可能性が感じられ、強く印象に刻まれたのであった。そうすると、下五の「桜貝」が単なる配合、取り合わせの言葉でないことが見えてくる。
 だいたい私は、俳句の作り方として「エピソード+ふさわしい季語」という配合(二物衝撃)論が好きではない。では、おまえはこんな作り方は絶対しないのかと問われれば、「お許しください。よくやります」と答えるしかないが、それは本来の俳句の作り方、感動の形象化とは違うはずだ。こんな安易な作り方をするから、怒りを表したいときには「冬怒涛」、かすかな希望を暗示したいときには「冬の虹」などというわざとらしい季語を据えて、感動を表現したつもりになっている。そしてこうした行為が俳句を芸術からますます遠ざけていることに気付かない。
 どんな作り方をするかは問わないが、五七五(便宜的にこう書いたが、定形を意味するものではない)のすべてに、作家の分かちがたい精神があり、そのすべてが全体を構成する単位であると私は信じている。
 こう考えるとき、葉月氏の「桜貝」は、後付けの「取り合わせ」でなく、「もう一度抱っこしてパパ」と分かつことのできない必然の言葉であることがわかる。直感的にそれが分からない人は、次の句と比べてみたらいいだろう。

 もう一度抱っこしてパパ桜草
 もう一度抱っこしてパパ桃の花
 もう一度抱っこしてパパ春の風

 そう、桜貝ということばには乙女チックな響きとは裏腹に、不要な質感が捨象されているのだ。それゆえ一句に濁りがない。すっきりと「もう一度抱っこしてパパ」というモチーフが浮かび上がり、「父性」という憬れにも似た郷愁を男性の胸にさえも響かせる。作意とは別の勘の良さで、この勘が偶然でないことは、たとえば次の作品を見ればよく分かる。

 春の日をあつめて痒しマンホール
 貧困や砂糖たつぷり養花天
 ありふれた時間でありぬ蝉の穴
 万緑や消した未来の立つてをり
 冷ざうこ全裸の卵ならびをり
 黒鍵に腰かけている月明かり
 マスクしてみな美しき手術台
 葱白し七つの大罪ほぼ犯し


 新しい時代の俳句作家にふさわしい力量を身に備えていると、つくづく感心したのであった。
 余談ではあるが、これらの句のどこに私が惹かれたかというアリバイを少し残しておきたい。手の内を曝すようで憚られるが、他の人の鑑賞と違うところをあきらかにする。

 春の日をあつめて痒しマンホール

 「痒し」で切れることは論を待たないが、痒しの主語は「私」ではなくマンホールの蓋である。痒いとはむずがゆいことで、陽光に照らされてお行儀良くしていることがじれったく感じられたのだ。切れで時間空間の視点が少しずれることで、それが強調された。

 貧困や砂糖たつぷり養花天

 何と上手いのだとうっとりする。「砂糖たつぷり養花天」と「貧困」が同等の質と重さで並べられている。養花天(桜の頃の曇天)が絶妙。勇ましい政治俳句作家がまっ青になるほどの出来である。

 ありふれた時間でありぬ蝉の穴

 生も死も生きている間の喜怒哀楽も、自分ではかけがえのない時間のように思うが、それは他人も同じであり、結局はありふれた時間に過ぎないという把握。蝉の穴を見て、その思いを深くする。

 万緑や消した未来の立つてをり

 これは複数の解釈が同時に成り立つだろう。私はこう感じた。
 万緑と言えば、草田男の「万緑の中や吾子の歯生え初むる」であろう。その湧き立つ命のラッシュの中で、自分の意思で消してきた過去に向き合うのである。たとえば「水子」を想像すると良い。

 冷ざうこ全裸の卵ならびをり

 これは「冷蔵庫イコール夏の季語」などとするとイメージが濁る。無季ではないから見せかけの季語だ。そこが新しい。冷えた卵の質感が見事。

 黒鍵に腰かけている月明かり

 葉月氏の十八番の世界。感覚に頼るだけでなく、きちんと制御できていることを評価。

 マスクしてみな美しき手術台

 医師や看護師がマスクするだけでなく、見方を変えれば手術台自体がマスクをしている。生死を見届ける手術台の冷徹さを「美しき」と感じた。耽美的な世界が広がる。

 葱白し七つの大罪ほぼ犯し

 「白し」でもちろん切れるが、大罪を犯したのは私でなく葱。人間もそうであるが葱には葱の「七つ」があるだろう。それをやすやすと犯し乗りこえてきたからこそ、はっとするほどの純白でいられるのだ。

 以上で余談を閉じる。

 私は俳句の作法(作り方、鑑賞のしかた)は、俳句村の掟に従うべきでないと考えている。少し乱暴に断定すれば、俳句村の掟は実よりも害の方がはるかに大きいように見える。「切れこそが俳句と散文を分かつ」などと言われれば、旧人類を見る目でその発言者を見てしまう。「滑稽と挨拶」「座の文学」……などなど、有害な俳句至上主義に侵されていると実感する。
 ここでその論議をするスペースはないが、私の主張は明確で、要するに俳句史と俳句は違うということである。「俳句は『俳諧の連歌』の発句が独立したものであるから、強い独立性、すなわち『切れ』が必要になり……」などと延々と主張する人がいて辟易するが、そんなことはどうでも良い。「日本語はもともと表意文字であり象形文字から発達したので、本来俳句は象形文字で書くのがふさわしい」という主張とどこが違うのか分からない。
 端的に「俳句」という容器が私たちの前にあり、その容器にいかに現代を生きる人間の精神を形象化できるかが、俳句に問われている唯一のことであると理解しても、もういい加減良いのではないだろうか。その容器がいかにしてできてきたかなどは、俳句ではなく俳句史で論ずればよいだろう。俳句と俳句史をいまだに分かつこともできないから、桑原武夫の第二芸術から抜け出せないのである。

 「切れ」は俳句の専売特許ではない。

 この川で泳ぐべからず/警視庁
 お土産は無事でいいのよ/お父さん

 のように、切れはもともと日本語の持つ機能である。短い俳句はこの機能を研ぎ澄まし、多用させてもらっているに過ぎない。

 だから田中葉月氏は、現代を生きる女性の感覚と、身につけた古い俳句作法との間でもがき苦しんでいるように見える。それでよいと思う。いや、それしかないと思う。なぜなら新しい感覚は、まだその感覚を盛るための器が用意されていないからだ。(いままでにない感覚なら、当然そうだろう。ありきたりの感覚なら、それを盛るためのありきたりの皿が山ほどある)

 さつきですめいですおたまじゃくしです(トトロが下敷きか)
 きのふがけふでけふがきのふ半夏生
 南瓜煮るふつつかものにございます(ふつふつと煮ると思って読むと裏切られる)


 田中葉月氏の言葉遊びはなかなか一流である。たぶん敬遠する大家が多いと思われる中で、自分の大事な第一句集にこれらの句を収録する遊び心に大きな喝采を送りたい。
 人はみな未完であり発展途上であるが、俳人田中葉月は、着実にこれまでの俳句の「殻」を脱ぎ捨て未来に伸びていくだろう。それを確信させる第一句集「子音」である。

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