2019年3月8日金曜日
【葉月第1句集『子音』を読みたい】6 「詩的言語の行方」 山本則男
田中葉月さんと句会をご一緒するようになって、もう2年近くなる。句会は、月に1回であるが、10人ほどの人数で忌憚のない意見を述べ合う句会である。10句持ち寄りで記名式である。互選で何点とるというような句会ではないので、皆さん、右顧左眄することなく個性的な句を出されている。
『子音』は、全般的に、作品に晦渋なところがなく、感性豊かな作風である。この句集の随所に、言葉の面白さ、発想の新鮮さが垣間見られる。さらに、言葉を丁寧に扱っているため、句柄に歯切れのよさがある。新しい表現の世界を求め、着実に句境を深めてゆくには、思いつきの言葉遊びではなく、自らの言葉の選択に信念を持たないと、詩的言語が私的言語に陥ってしまうであろう。しかしながら、色々な俳句表現を試みながら、彷徨のあげくに辿り着いた句集は、この『子音』であろう。
鞦韆やうしろの余白したがへて
なにげない日常の一光景であるが、怪しい雰囲気と不条理が感じられる。何事もなく詠んでいるが、不安を従えている句である。「鞦韆」のうしろは見ることが出来ないので、恐いような感じがする。「うしろの余白」は、何か、付き物が潜んでいるような恐ろしさがある。そして、鞦韆の揺れる反動で知らぬ間に余白を従えてしまっているところに、さらに恐さが倍加されている。
陽炎へ吸ひ込まれゆく滑り台
抑制の利いた言葉から豊かな連想の広がっていく句である。「吸ひ込まれゆく」は、滑り台ではなく、人間である。陽炎の中に人間が屈折して、溶けてゆくようである。「陽炎」は、はかないもの、あるかなきかに見えるものである。そこに、人間が重なつている。
文明のおこりしところ亀の鳴く
「亀鳴く」の季語が想像上のものであることから、文明がなければ、この季語は生まれて来なかったことを勘案すると、「文明のおこりしところ」に納得してしまう。
それぞれの光の束を挿し木する
新鮮な感覚を持っている句である。全身の五感を統一している趣がある。詩的な表現が生きている句であり、また、あたたかな眼差しが感じられる句である。「それぞれの」が、何なのか、分からないところに、この句の魅力がある。「光の束を挿し木する」に明るい未来がある。しかし、「それぞれの」であるから、それぞれに未来は変わってゆく。
勾玉ものびをするらし茅花風
小さなものに向ける眼差しが優しい句である。心の中の静謐な気持が、命というものに生き生きと向けられている。勾玉は胎児の形を模したと言われているので、「のびをするらし」の措辞に面白さがある。「茅花風」は、優しく、美しく光る風のように思われ、勾玉を静かに包んでいるようである。
ふらここの響くは子音ばかりなり
柔軟な発想力のある句である。子音は舌、歯、唇、顎などを使つて出す音であるが、日本語では子音だけの発音はn(ン)の音しかないそうである。子音には摩擦音というのがあるので、ふらここにひびく音は、「子音ばかり」と言っても間違いはないであろう。
黒揚羽思はず呪文唱へたる
「黒揚羽」は、喪に服しているようなイメージがあるので、密教的な感じで、「呪文を唱へる」に繋がるようである。あるいは、呪いやまじないをかけるような気がする。
言の葉の一つたづさへ繭になる
深い情趣を醸し出している句である。「言の葉の一つたづさへ」であるから、最も大切な言葉を携えているのであろう。そして、蚕は蛹になってから、蛾になるが、これでは詩的にならないので、「繭になる」と留めたところが、色々な想像が出来、詩的に感じられる。
冷だうこ全裸の卵ならびをり
この句に出会ったときの鮮烈な印象を、今でもよく覚えている。現代俳句の俳句大会の投句作品と思う。滋味な作品というのは、このような作品をいうのであろう。冷蔵庫の中の「卵」にのみ焦点を絞り、「卵」を即物的に把握しているところに、この句の新鮮さがある。中々に個性的な句である。「卵」の質感を「裸」という季語でうまく捉えている。「全裸な卵」が鮮やかな措辞である。
虹生るわが体内の自由席
作者の感覚の冴えが感じられ、透明な感性がある。「虹」というのは、希望に繋がるので、「わが体内の自由席」が利いている。指定席ではなく、自由席であるから、どんどん希望が膨れ上がっていく。
月光をあつめてとほす針の穴
一見ただごとのようであるが、句の奥底から不思議な言葉の美しさが漂ってくる。作者の肌理こまかな感覚が新鮮である。「月光をあつめてとほす」は、さりげないが、絶妙の措辞である。あの小さい針の穴にどのようにして通すのだろうかと思うと、色々と考え込んでしまう句である。月光を糸にして何を縫い上げるだろうか。ものすごく美しいものが縫い上がりそうである。
海苔巻きに巻いてみようか花野風
海苔巻きは、胡瓜、明太子など、色々なものを入れて巻くことが出来る。材料には、それぞれの色があるから、花野の色々な花の色に通じる。そして、「花野風」で包めば、鮮やかな海苔巻きが出来そうである。
伝言は空に書きます秋桜
句が時空の広がりを持っている。「伝言は空に書きます」という、スケール大きい句である。「秋桜」の季語が、雲ひとつない晴天を思わせる。空に愛情の言葉を書くのであろう。
引力に逆らつてみる草の絮
所詮、「草の絮」は軽いので、風に飛ぶしかない。「引力に逆らつてみる」といっても、どこまでも飛んでしまうであろう。しかし、逆らつてみることも大事である。人間の生き方に通じる。
鍵盤をはみだしてみる秋の蝶
自ずから詩質を持ち合わせているのであろう。独特な感性の賜物である。「鍵盤」を「はみだしてみる」のは、どのような旋律であろうか。「秋の蝶」のゆったりとした、味わい深い句である。「鍵盤」と「秋の蝶」の取り合わせが新鮮である。「春の蝶」「夏の蝶」「冬の蝶」と四季の蝶がいるが、「鍵盤をはみだしてみる」は、「秋の蝶」しかないであろう。「野山の色も変はり、風も身にしむようになり、ものさみしくあはれなる体が秋の本意」と言われているので、その本意に通じるからであろう。
黒鍵に腰かけてゐる月明かり
「月明かり」は何を暗示しているのであろうか。佐賀県鳥栖市のサンメッセ鳥栖に置かれている「特攻ピアノ」を想起した。この時、演奏したベートーベンのピアノソナタ「月光」の曲が「月明かり」として浮かんでくる。「黒鍵」は、特攻兵として最後に演奏した「月光」が鎮魂のメロディーとして内包されている。そして、「黒鍵」に暗くメロディーが「腰かけてゐる」ような思いがする。「黒鍵」と「白鍵」があるが、「月明かり」であるから、「黒鍵」であろう。「黒鍵に腰かけてゐる」という発想に感心した。そこから、「月光」のメロディーは今も聞こえている。この句から柔らかな詩情と自在な感性を読み取ることが出来る。
ゴスペルや水底の冬浮いてくる
ものの見方やものの切り取り方が独創的な句である。福音書により救われているというイメージがある。寒い、冷たい冬が水底から浮いて来て、あたたかくなる感じがする。とても面白い句である。
埋火や避けて通れぬことのある
眼前にあるさりげないものを詠んでいる句である。さらりとした表現の中に、繊細な感性を内包した句である。「埋火」はじっと埋まっていて、聞耳を立てているようである。誰しも決断しなければならないときがあるが、「避けて通れぬこと」もあるであろう。
シャングリラ底より覗く銀狐
理想郷を「底より覗く銀狐」は、どんな理想や楽園を望んでいるのであろうか。「銀狐」の毛皮になる哀れや化けて出るという昔話が思い出され、視野のひろい句になっている。
風花す銀紙ほどのやさしさに
この句集の掉尾に置かれた句である。静謐な目差しを感じさせる句である。何気ない言葉の中に、詩情と美意識が感じられる。「銀紙ほどのやさしさに」に本当の優しさがあるような気がする。
まだまだ、触れてみたい作品は、たくさんあった。一様に作品は、すべて佳汁であり、洗練されている。これからどのような作品が生まれてくるのか、期待感がある。
句会では、自らの表現に重きを置いて、広範囲に句材を求めて句作している様子が窺われる。日々の暮らしの中に、新しい詩情を探して、言葉に昇華し、新鮮な情趣を膨らませているようである。
自分を客観的に他人の目で見る、「脚下照顧」のこころの余裕を持てば、もっと、作品の世界が開けてくるであろう。
飯田龍太は、「短詩形のひとつの秘密は、作品の表面から一切の意味を去り、作者の姿を消すことだ。」と言っている。
攝津幸彦は「表現というのは、一方で言葉の意味を消してゆく過程ということができる。しかし、まったく意味を消してしまっても、特に俳句表現はおもしろくなくなってしまう。消すことに賭けた努力の跡を少しだけ残しておかないと駄目だ。このことは簡単なようで難しい。」と言っている。
飯田龍太も攝津幸彦も「言葉の意味を消してゆく」ことを、強調している。しかしながら、「このことは簡単なようで難しい」のである。
俳句には、意味はいらないし、意味を求める必要性はない。また、常識を詠うものでもないので、言葉における自由な詩的表現を求めていった方がよいであろう。そうすれば、より新鮮な詩的言語の世界を構築出来るであろう。これから、どんな進化を遂げるであろうか。今まで以上に、より新しき表現世界を見せてくれるであろう。
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