2020年9月25日金曜日

第145号

  ※次回更新 10/16


俳句新空間第12号 発売中

【急告】現代俳句協会 第44回現代俳句講座(WEB版)講師 池田澄子氏
【急告】「豈」忘年句会及び懇親会の延期

【新企画・俳句評論講座】

・はじめに(趣意)
・連絡事項(当面の予定)
・質問と回答
・テクスト/批評 》目次を読む

【新連載・俳句の新展開】

句誌句会新時代(その一)・ネットプリント折本 千寿関屋 》読む
句誌句会新時代(その二)・夏雲システムの破壊力 千寿関屋 》読む
[予告]ネット句会の検討 》読む
[予告]俳句新空間・皐月句会開始 》読む
皐月句会デモ句会結果(2010年4月10日) 》読む
第1回皐月句会報(速報) 》読む
[予告]皐月句会メンバーについて 》読む
第2回皐月句会(6月)[速報] 》読む
第3回皐月句会(7月)[速報] 》読む
第4回皐月句会(8月)[速報] 》読む

■平成俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和二年夏興帖
第一(8/7)仙田洋子・辻村麻乃・渕上信子
第二(8/14)青木百舌鳥・加藤知子・望月士郎
第三(8/21)神谷 波・杉山久子・曾根 毅・竹岡一郎
第四(8/28)山本敏倖・夏木久・松下カロ・小沢麻結
第五(9/4)木村オサム・林雅樹・小林かんな・岸本尚毅
第六(9/11)妹尾健太郎・椿屋実梛・井口時男・ふけとしこ
第七(9/18)真矢ひろみ・田中葉月・花尻万博・仲寒蟬
第八(9/25)なつはづき・渡邉美保・前北かおる・浜脇不如帰


■連載

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい
2 『箱庭の夜』鑑賞/朝吹英和 》読む

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい
2 ぴったり感―『ぴったりの箱』を読む/小松敦 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ (2) ふけとしこ 》読む

英国Haiku便り(14) 小野裕三 》読む

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい
2 句集『くれなゐ』を読む/涼野海音 》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい

インデックスページ 》読む
9 ~生きる限りを~/髙橋白崔 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測212
宇多喜代子の歳時記論――『暦と暮らす・語り継ぎたい季語と知恵』が語るもの
筑紫磐井 》読む

『永劫の縄梯子』出発点としての零(2)
 救仁郷由美子 》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
インデックスページ 》読む
8 パパともう一人のわたし/北川美美 》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ 》読む
17 無意識の作品化、俳句のフレームを超えて/山野邉茂 》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
インデックスページ 》読む
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

句集歌集逍遙 樋口由紀子『金曜日の川柳』/佐藤りえ 》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中! 》読む


■Recent entries

第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
※受賞作品は「豈」62号に掲載
特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編 》読む
「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム
※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)
【100号記念】特集『俳句帖五句選』

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
インデックスページ 》読む

眠兎第1句集『御意』を読みたい
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麒麟第2句集『鴨』を読みたい
インデックスページ 》読む

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
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「WEP俳句通信」 抜粋記事 》見てみる

およそ日刊俳句新空間 》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
7月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子








「兜太 TOTA」第4号 発売中!
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豈62号 発売中!購入は邑書林まで


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】2 『箱庭の夜』鑑賞  朝吹英和

【宇宙との合一感】
  光年の揺らぎの果てや春の虹
  光年の果てに寒月返しけり

 「家族も寝静まる夜更け過ぎ箱庭に様々な素材が群がります」と述べる作者の俳句の素材は日常生活の一齣から宇宙への思いに到るまで幅広く多彩であるが、取分優れた絵画や音楽に通底する宇宙との合一感に満ちた秀句が印象的である。
 ミクロコスモスである人間とマクロコスモスの自然とが四季の循環律を底に持つ俳句を通して内的に結合している。儚い存在の象徴でもある虹を「光年の揺らぎの果て」と対比させた発見の妙に得心する。句集中に頻発する「夢」・「虹」・「光」に託した作者の思いが鳴動する宇宙と共振する。

【永遠に繋がる瞬間】
  星よりの細き光を蜘蛛渡る
 透徹した写生眼によって眼前の景から悠久の時空への思いが広がり、小さな生命を慈しむ作者の優しい心根に感銘する。人生は儚いがゆえに今この瞬間を大切にして生きる作者の態度が読み手に確りと伝わって来る。無常に流出する時間を人生にとって価値ある永遠のものに転化せしめるのが芸術であり、俳句もまた然りである。「夢」には将来への希望や願いが存在すると同時に儚さの象徴でもある。生死、聖俗、陰陽、善悪・・・すべからく対極が重層し併存する世界にあって人生における夢は永遠に繋がる。
太古より夢つづきをる白夜かな

【自同律の不快】
  冬の日の歪むあたりを行かむとす
  半円の冬の銀河を行かむとす

 掲句に接して「自同律の不快」、即ち絶えず満たされぬ魂を持つ事が宇宙の原理であり自らの行動規範であるとする埴谷雄高の哲理を思った。「自同律の不快」から脱却するためにはクオンタム・リープ(不連続的な飛躍)が必要であり、左様な時空転位を成し遂げるためには常に自らの存在に対する疑義と変貌に向かう意思が肝要である。そうした意思を結晶させた俳句を挙げて見たい。
  家族捨て魚になりたき寒夜かな
  在ることのはかなき重さ遠花火
  補助線を跨ぎこれより枯野人
  端居てふ窮屈や世を踏み外す
  身ぬちなる自分は他人桜餅
  玉虫になると退職挨拶状

 作者にとっての〈箱庭の夜〉とは社会的存在としての個人が群れから自己を取り戻すための思索の場なのであろう。日常生活で遭遇した様々なものを些事として無視するのではなく掛け替えのないものとして認識する事が作者の作句態度に通底している。

【鎮魂の誠】
 作者自ら極私的なものとして位置付けている〈箱庭〉で想起された戦艦大和に関する三句は句集中で異彩を放っている。戦後七十五年が経過して、作者や私も含めて戦争を知らない世代にとって戦艦大和の悲愴な最期に到る連作は作者の反戦への意思の強さを物語る。
 「水底の黄泉比良坂」の措辞は深い鎮魂の誠の証左である。
  菊水を舷に涼月添ひにけり(四月七日出撃)
  左舷より菊の御紋にわたくし風(豊後水道通過)
  水底の黄泉比良坂月を待つ(鹿児島沖轟沈)


【闘病】
  ステージⅢとてみつ豆の甘さかな
  月天心アポトーシスの始まりぬ
  ガン病棟へ寒一灯の力寄す

 闘病の様子をモチーフとした俳句はご自身の事なのか、ご家族や友人なのかは別として読み手の心に鋭く刺さり込む。ガンの進行状態を示すステージⅢ、厳しい現実に直面したればこその蜜豆の甘さ。ガン遺伝子の増殖を抑制したり、アポトーシス(細胞死)を誘導するガン抑制遺伝子の研究が進んでいると聞く。中天高く輝く月の光に照らされてこそアポトーシスへの期待が高まるのであろう。更に「寒一灯」の凝縮された光はガンとの闘いを勇気付けてくれる。

【心象の淵への沈降】
 〈箱庭の夜〉で只管思いに耽る作者の脳裏には現実から心象世界の淵へ沈降・転位する梯が明滅している。覚醒した幻想性ともいうべき繊細な感受性が光る。
  花透くや母胎の中のうすあかり
  寒月や羊水にたつ波の音
  炎天や一人ひとつの影に佇つ


【スケルツォ】
 〈箱庭〉での思索の時の流れに時折出現する軽やかで諧謔味に溢れた句もまた味わい深い。
  老衰をひたすら思ふ海鼠かな
  瑠璃天に海鼠は小言を云ふらしい
  ジュースとは粉末でした夕すずみ


【凱風快晴】
 季節感に溢れた爽やかな句に接すると樹海の先の赤富士と鰯雲を描いた葛飾北斎の名作「凱風快晴」から受ける感動にも似て晴れやかな気分になる。
  葉脈に水の力や春キャベツ
  あら塩は地中海産秋刀魚焼く
  秋空へつづく白線引きにけり


 「あとがき」で作者は「令和元年の節目に取りまとめた当句集は、平成における私的記録そのものであり、私にとって備忘録とも言えるものである」と記しているが、「箱庭の夜」には満たされぬ魂の持ち主である作者の常に対象と真摯に向き合う美意識が感知される。

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】2 ぴったり感―『ぴったりの箱』を読む  小松敦

 〈わたしがすっぽり入る「ぴったりの箱」を見つけた気がします〉と作者はあとがきで言っている。ふと思う。読者にとってはどうなのだろう。読者にとってのぴったり感について思いを巡らせながら、『ぴったりの箱』を鑑賞してみたい。

  カリフラワーいつもの猫がきて休日
  ふきのとう同じところにつく寝癖
  鍵探す指あちこちに触れ桜
  少女たち横一線に夏兆す
  夏空やぐいと上腕二頭筋
  ぴったりの箱が見つかる麦の秋


 例えば上のような句については、季語と一連なりのエピソードから構成されていて、筆者にも同じような経験があるからすっと光景が浮かび、季語のイメージとあいまって心地よい。ミラクルでもロマンでもないけれども、少しだけ気持ちの動いた日常の断片に季語が付け合わされて、十七音の箱にぴったりと収められている。作者の素敵なセンスオブワンダーを感じる。一句に、作者と読者の世界が重なり響きあい、気持ちがふわりとするところに俳句の悦びがあるのだと改めて気づかされる。
 もちろん、中には一読して響かない、ぴったり感を感じない句もある。そりゃそうだ。作者と読者とは違う人生を生きており、経験も記憶も違うのだから、全部重なり響きあうはずがない。

  その町の匂いで暮れて雪女

 町それぞれの匂いがある。暮れ方の夕餉の匂いやストーブの匂い、繁華街の埃っぽい匂いかもしれない。ここまでは筆者の記憶が揺さぶられて、ちょっとノスタルジックな気分。ところが、雪女とくる。雪の女ではなく雪女。雪女のイメージは、筆者にとっては冬の妖怪であり、上五中七と響かない。筆者が感じていたリアルな気分がとたんに嘘っぽい戯れの漫画に変貌してしまう。でも、作者やほかの読者にとっては好ましく響き、ぴたっとくるのかもしれない。そういうものだと思う。それでいい。ちなみに〈雪女笑い転げたあと頭痛〉はあらかじめ戯画的に面白がればいいと思った。

  からすうり鍵かからなくなった胸
  月白や鏡の中で待つ返事


 筆者の胸に鍵はついてないし、鏡の中で返事を待ったこともないけれども、それぞれの言葉が喚起するイメージは繋がりあい、たとえフィクションであろうともリアルな気持ち、生生しい質感を筆者の中に作り出す。烏瓜の鮮やかで丸くつややかな密封感が、鍵がかからず誰でも入ってきてしまう、潜めておきたい気持ちに侵入されてしまうやるせなさを際立てている。鏡の中にいるもうひとりの自分の期待感を客観視する気持ちには、月白の醒めた美しさと共に明暗のあわいにある一抹の不安が漂う。

  身体から風が離れて秋の蝶
  水草生う身体に風をためる旅


 離れたり溜まったりする風。句意はファンタジーであっても、筆者にとってはリアルだ。日頃から五感で感じとっている=身体が覚えている風の記憶が、秋蝶や水草の質感と交わり、軽やかな浮遊感と天人合一の安心感をつくりだす。
 一句の中の言葉の一つ一つが読者の記憶を呼び覚まし繋がりあってリアルな気分を作り出した時には、その句を好ましく思い、ぴったり感を感じる。そうでなければ、それまでのことだ。作者と読者のぴったり感。お互いの世界が重なり響きあうリアリティ。それはこの句集のいたるところにちりばめられた恋の成就かもしれない。

 

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(2)  ふけとしこ

    盗人萩

色鳥や音立てて茶の注がるる
集落といふも四五軒尉鶲
宇治も奥蔓竜胆の引き出され
宇治田原盗人萩がついてくる
車止めさせて走りの柿を買ふ
   ・・・
 この春、福島県産の山菜、特にコシアブラにセシウムが多く含まれているとの記事を目にした。コシアブラはウコギ科の木でその芽はタラの芽より美味であるとして人気があり、近頃では大阪のスーパーでも売られるようになってきた。この記事を読んだ時、そりゃそうでしょ、と思ってしまった。何故なら例の原発事故以来、如何にセシウムを減らすかということに取り組む人達があり、さらに危険区域にまで入って植物を採取し、その蓄積量を調べているグループがあることを聞いていたからである。そして分析の結果、蓄積量の一番多いのがコシアブラだったというのである。木の本体にセシウムが蓄積されていれば、新芽にも当然含まれる筈だ。かつてカドミウム米と言われた米があったように……。  
  植物は例えそれが有害であるとしても、水や土壌から体内に取り込まざるを得ない。汚染土と言われる土に根を下ろせば致し方のないことである。他にナズナやギシギシなどの雑草にも多く集積しているとか。それならば、なるべく多くの草木に吸い取らせ、それを刈り取って処理すればいいわけだと思えてくる。
 が、と素人は素人なりに考える。そのセシウムを取り込んだ植物を刈り集めたとして、その後をどう処理するのだろうか、と。
 最近、公園や街路からキョウチクトウが減っている。常緑樹で鮮やかな花は花期も長く、日照りや排気ガス等にも強いことから、多く植えられていた時代もあったが、その毒性が指摘され(死亡例もあるそうだ)次第に減らされてきたものである。燃やすと煙からも有毒物質が出るから、絶対に自分で燃やしたりしないで、と書かれた物を見たこともあった。
 放射性物質となると、キョウチクトウの毒どころではない話で、これからどのように研究されるにしても、実際に浄化されるまでの道のりとは、私には想像することすらできない。                                (2020・9)

【連載】英国Haiku便り(14)  小野裕三


 「新年」はなぜ歳時記の一章なのか?

 国や文化によって風習や考え方が違うことは、一般論としてはわかっていても、実際にそれを実感すると戸惑うことが多い。
 例えば、日本語。日本語には、漢字、ひらがな、カタカナという三種類の文字があります、とイギリス人に説明すると、怪訝そうな顔をされる。例えば、「村上」は「むらかみ」「ムラカミ」とも書けます、と書いて説明すると、なんとなく理解はしてくれる。「でも、どうしてそんな三種類の文字を使い分ける必要があるの?」 その理由は僕も充分には説明できない。
 俳句も謎めいている。例えば、歳時記。考えてみると、ある特定の「詩」のジャンルにそれ専用の「辞書」があり、初心者から大家まで何百万人という規模でそれが遍く使われているという例は、外国の他の文学ジャンルでは見当たらないだろう。歳時記には、季語の解説と例句が掲載されています、と説明すると理解はしてもらえる。だが、その後に質問される。「そもそも歳時記は何のためにあるの? 俳句にとっての<美の規範>を示すため?」 その答えはイエスなのかノーなのか。
 日常生活でも相違点は多い。英国で最も重要とされる大聖堂があるカンタベリーという町があり、年始に初詣代わりに旅行することにした。しかし、イギリス人にそんな計画を話すと、「どうしてそこに?」と不思議そうな顔をする。なので、日本ではみんな新年に寺社に行って一年の幸せを祈るんです、と説明する。「あら、それはいい習慣ね。なに、家の中に祭壇があるの?」「いや、そうじゃなくて町の大きな寺や神社に行って……」とまったく話が噛み合わない。そして実際に訪れた元日のカンタベリー大聖堂も、やや閑散としていた。ちなみに、英国の多くの会社や役所では、元日は休みでも一月二日には業務が始まる。日本のような初詣やお正月という概念はほぼないみたいだ。
 その「新年」は、実は歳時記の特別な一章になっている。イギリス人的な感覚からは、それも「なぜ?」の対象だろう。Haikuは、四つの季節の自然を受け止めて成立する詩です、みたいな説明をこれまでイギリス人たちにしてきたが、けっこうそれは嘘だと気づく。そもそも歳時記にある季節(章)は、四つではなく五つ。さらに言えば、例えば「淑気」という季語があるが、それは自然現象でもない。もしそうなら、新暦後もそれは旧正月の時期に留まっていたはずだ。
 つまり、新年という季節は自然現象というよりも暦に対する人間の意識が生み出す半ば人為的な時空であり、それは日本の文化・価値観に深く根づいている。その「新年」に歳時記は四季にも並ぶ特別な一章を割いてきたわけで、そこには俳句文化を理解するための大きな鍵が潜んでいそうだ。

(『海原』2020年4月号より転載)


【ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい】9 ~生きる限りを~  髙橋白崔

 ふけとしこさんに初めてお会いしたのは何時だったか・・・思い出してみると、筆者が所属する椋俳句会の吟行旅行の折だったと記憶している。
 既に関西俳壇の重鎮として名を成しておられたが、お会いしてみると大変気さくなお人柄で、常に周りには人が集まって朗らかな気分にさせてくれる正に“難波のおばちゃん”そのもの。しかし一旦吟行に移ると、植物に、昆虫に素晴らしい知識を持たれていて“歩く植物図鑑&昆虫図鑑”となる。愛情をもって接するふけさんのお姿に、小さな生命に対する慈しみを感じたものだった。<青蛙連れてどこまでふけとしこ>はそんな姿を拝見した折の筆者の即吟。
 しかし、命を見つめるふけさんの確かな目は人間観察にも向けられており、人間の営為の機微に触れる秀吟を読者は拝見することになる。

 では第五句集となる『眠たい羊』についていくつかの句を引いてみたい。

  嘴の痕ある椿ひらきけり

 細やかな観察が行き届いた句である。普通なら見事に開いた椿を詠みたいところを「嘴の痕」に着目して、植物と鳥との関わりに心を寄せている。どちらの生命も肯定してあるがままを詠む姿勢こそが写生の真髄だと知らされる一句。

  脚を病む蟻かも知れず日の落つる

 観察の眼は更に小さな蟻のうごめく姿にまで向けられる。脚を病むと推察することの背景にある、この小さな命に起こった只ならぬ出来事が一句の隠し味になっているではないか。落日が迫るということは命の儚さの象徴でもあるだろう。

  鹿若し風踏んで四肢浮かせたる

 まだ怖れを知らぬ若鹿の躍動感。見えぬ風を踏んで四肢が浮いているとは確かに実体験のない者にも分る景であり、生命の捉え方の妙が感じられる。そして「鹿若し」と突き放して詠むことにより、いずれ知るであろう生きることの大変さに作者の思いが込められている。

  春の水とは子供の手待つてゐる

 通常、「〇〇とは」という認識を示す句は高踏的になりやすいので、筆者などは極力避けるのだが、「子供の手待つている」には逆転の発想が見事に決まって子供らの活動的な姿が春の水に映しだされている錯覚に陥る。春の水の象徴性が嫌味なく表現されるところに作者のポジティヴな立ち位置が見えてくる。

  早引けに連れのできたる花石榴

 体調不良か、それとも家庭の事情か、早引けという行為はどこか後ろめたいもの。
それに連れができたというのは背徳感を少しだけ分け合った気分だろうか。石榴の花の朱色が気持ちを少しだけ軽くしてくれたのかもしれない。

  蟻地獄暴いてよりを気の合うて

 蟻を善き労働者に例えるとすると、その天敵蟻地獄という“悪の奈落”を暴くことを正当化しつつも、作者とその連れは小さな生命の営みを崩すという行為において共犯者となったのだ。この句も微かな背徳感の共有かもしれぬと筆者は読んだのだが。

  冬深し生きる限りを皿汚し

 食物連鎖の頂点にあるホモサピエンスは、生きている限りにおいて他の生物の命の収奪を免れない。「皿汚し」とは正に命を頂いた結果に他ならず、ヒトはそれを恥じつつ、感謝しつつ生きるしかないのだと作者は言っているのだ。その深い感慨が感じられる秀句である。

 生きる限り人間は何かを汚し続ける。その背徳感の裏返しが小さき生命への関心であり哀れみ、慈しみとなって、ふけとしこという俳句作家を贖罪としての作句に駆り立てるのではないだろうか。そのひとつの結実が『眠たい羊』であるのだと思う。

 

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】2 句集『くれなゐ』を読む 涼野海音(「晨」)

 句集を読むときタイトルの由来になった句はひと際強く印象に残る。

  日の没りし後のくれなゐ冬の山

 句集の最後に置かれている掲句は、「冬の山」の存在感を十分に伝えている。「くれなゐ」という色は、作者の俳句への情熱を表わしているようだ。
 さてあとがきによれば、この句集は「テーマを決めて章立て」したとある。ここでは、各章から私が注目した句を鑑賞したい。

  橋くぐる船を見送る桜かな

 作者は桜のそばにたたずみ、橋をくぐる船を眺めているのだろう。船と桜との間は相当の距離があるはずだ。掲句を絵にすることは可能だが、おそらくその絵はかなりの大きさになるに違いない。作者は、自分自身と桜とを重ねているようにも読める。

  青嵐鯉一刀に切られけり

 『雨月物語』の「夢応の鯉魚」を思い出した。鯉を中心に詠んでいるところがよい。読者は、「一刀に切られけり」の迫力に圧倒される。

  かなぶんのまこと愛車にしたき色

 かなぶんの光沢が余すところなく表現されている。「愛車」という言葉を使っていることから、作者はかなりの車好きに違いない。そういえば、かなぶんのような軽自動車を私は見た記憶がある。

  桐筥に涼しく納め藩政誌

 「涼しく納め」が言えそうで、なかなか言えない。「桐筥」に収められるほどの「藩政誌」はさぞ貴重な史料なのであろう。「桐筥」「涼しく」から、私は旧家の大きな畳の部屋を想像した。

  一生に一茶二万句三光鳥

 「一生」、「一茶」、「二万」、「三光鳥」と、数詞が巧みにかつリズミカルに用いられている。
 掲句の軽快さは、一茶の口語を多用した句と共通している。この句を口ずさみながら、「一生に二万句」を目指したいものだ。

  これつぽつちの本を並べて入学す

 「甥を下宿させる」と前書がついている。「少なき」ではなく「これつぽつち」であるところが面白い。よほど本の数が少なかったのだろう。最近の学生は、本は買わずに図書館で済ませるのかもしれない。

  落ちし蟻しばらく泳ぐ田圃かな

 俳句で蟻といえば、地面を這う生き物として詠まれることが多い。
 だが掲句は、水を泳いでいる蟻を詠んでいる。このように良い意味で読者の予想を裏切る句に出会うことは稀だ。

  茶柱のやうに尺蠖立ち上がる

 掲句を一度、読んでしまうと尺蠖が茶柱のようにしか見えなくなる。既成の物の見方を一気に変える句だ。茶柱と尺蠖、異質なものを結びつけた作者の手柄は大きい。

  逢はぬ間に逢へなくなりぬ桐の花

 友人、恩師、同僚、多くの人との出会いと別れが人生にはある。日常生活の忙しさに追われ、「逢はぬ間に逢へなくなりぬ」ことは多々ある。逢えなくなった人を思い淋しくなった時、桐の花を見つけたのだろう。
 

2020年9月11日金曜日

第144号

 ※次回更新 9/25


俳句新空間第12号 発売中

【急告】現代俳句協会 第44回現代俳句講座(WEB版)講師 池田澄子氏
【急告】「豈」忘年句会及び懇親会の延期

特集『切字と切れ』

【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日
【緊急発言】切れ論補足

【読み切り】圧倒されっぱなしの俳人の覚悟と生きざま
『秦夕美句集』(現代俳句文庫―83)豊里友行 》読む

【新企画・俳句評論講座】

・はじめに(趣意)
・連絡事項(当面の予定)
・質問と回答
・テクスト/批評 》目次を読む

【新連載・俳句の新展開】

句誌句会新時代(その一)・ネットプリント折本 千寿関屋 》読む
句誌句会新時代(その二)・夏雲システムの破壊力 千寿関屋 》読む
[予告]ネット句会の検討 》読む
[予告]俳句新空間・皐月句会開始 》読む
皐月句会デモ句会結果(2010年4月10日) 》読む
第1回皐月句会報(速報) 》読む
[予告]皐月句会メンバーについて 》読む
第2回皐月句会(6月)[速報] 》読む
第3回皐月句会(7月)[速報] 》読む
第4回皐月句会(8月)[速報] 》読む

■平成俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和二年夏興帖
第一(8/7)仙田洋子・辻村麻乃・渕上信子
第二(8/14)青木百舌鳥・加藤知子・望月士郎
第三(8/21)神谷 波・杉山久子・曾根 毅・竹岡一郎
第四(8/28)山本敏倖・夏木久・松下カロ・小沢麻結
第五(9/4)木村オサム・林雅樹・小林かんな・岸本尚毅
第六(9/11)妹尾健太郎・椿屋実梛・井口時男・ふけとしこ


令和二年花鳥篇
第一(5/22)仙田洋子・杉山久子・大井恒行・池田澄子
第二(5/29)加藤知子・岸本尚毅・夏木久・神谷 波
第三(6/5)松下カロ・花尻万博・堀本 吟・竹岡一郎
第四(6/12)林雅樹・渡邉美保・ふけとしこ・望月士郎・木村オサム
第五(6/19)網野月を・前北かおる・井口時男・山本敏倖
第六(6/26)早瀬恵子・水岩 瞳・青木百舌鳥・網野月を
第七(7/3)真矢ひろみ・渕上信子・曾根 毅・のどか
第八(7/10)高橋美弥子・菊池洋勝・川嶋ぱんだ・家登みろく
第九(7/24)北川美美・小林かんな・椿屋実梛・下坂速穂
第十(7/31)岬光世・依光正樹・依光陽子・佐藤りえ・筑紫磐井
追補(8/7)妹尾健太郎(8/21)小沢麻結


■連載

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測212
宇多喜代子の歳時記論――『暦と暮らす・語り継ぎたい季語と知恵』が語るもの
筑紫磐井 》読む

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい
1 句集『くれなゐ』/馬場龍吉 》読む

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい
1 「平成の微光」―眞矢ひろみ論―/松本龍子 》読む

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい
1 『ぴったりの箱』を読む/赤野四羽 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ (1) ふけとしこ 》読む

英国Haiku便り(13) 小野裕三 》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
インデックスページ 》読む
8 無題/岡村潤一 》読む

『永劫の縄梯子』出発点としての零(2) 救仁郷由美子 》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい
インデックスページ 》読む
8 パパともう一人のわたし/北川美美 》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ 》読む
17 無意識の作品化、俳句のフレームを超えて/山野邉茂 》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい
インデックスページ 》読む
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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

〔新連載〕【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】1 句集『くれなゐ』  馬場龍吉

 日の没りし後のくれなゐ冬の山  中西夕紀

 エンドロールを見るように日没のあとの余韻に浸っている中西夕紀は冬山に何を見たのか。理屈でいえば日没の照り返しの明るさなのだろうけれど。この「くれなゐ」を感じたことによってこの句集がはじまってゆく。
 「青嵐」「桐筥」「野守」「緑蔭」「墨書」「冬日」六つのテーマから成る句集『くれなゐ』。中西作品にはいつも思うことだが確かな写生眼があってそれを俳句で確かなことばに再現するという力量を感じる。それは写生に厳しい宮坂静生、藤田湘子、宇佐美魚目に師事してきた所以であろう。

 蝌蚪孵りけり泡立ちつ苛立ちつ
 干潟から山を眺めて鳥の中
 口開けて蛇抜け出でし衣ならむ
 颯と風釣忍より水ぽとと
 飛火野の小鹿は草の露まみれ


 逢ふよりも文に認(したた)め西行忌
 藤棚にそよりと人の来てゐたり
 雪掻きに古看板を使ひをる
 あをあをと雪の木賊の暮れにけり
 木の影をたどればベンチ小鳥来る


 ──自由闊達というべきか、つい拍手をしたくなるような言葉遊びも。

 ふらつくを亀の鳴きたるせゐにして
 好色一代女と春のひと夜かな
 一生に一茶二万句三光鳥
 兄弟を踏みつけてゆく雀の子
 はこべらや一人遊びの独り言


 十までを数へて雀隠れかな
雀と鬼ごっこをしているような。季語でここまで遊べる茶目っ気。

 かなぶんのまこと愛車にしたき色
あの羽のメタリック感を再現している。

 店奥は昭和の暗さ花火買ふ
まだまだ昭和の残る店、そこの花火を見て昭和につい手が出る。

 空耳に返事などして涼新た
季節の変わり目の囁きか「涼」の遣い方が見事。

 皺くちやな紙幣に兔買はれけり
帯文にもあったが「小さなものたちの命に寄り添う」のがテーマでもある。


 ばらばらにゐてみんなゐる大花野
花野のたのしさ、さみしさがここにはある。いま生きてあるさまざまな人間はもちろんだが、まだ若くして亡くなった母も、厳しく優しかった師にもこの花野に行けば会える。だから「大花野」なのだ。

 かりがねに峰の観音開きかな
 鶴飛ぶや夢とは違ふ暗さもて


まだまだ中西夕紀の俳句の旅はつづく。

(なかにし ゆき)宮坂静生の指導のもと「岳」に20余年。宮坂静生の勧めで「鷹」に入会、藤田湘子に15年間師事。「晨」に同人参加。宇佐美魚目に師事。平成20年「都市」創刊主宰。句集に『都市』『さねさし』『朝涼』。共著多数。俳人協会評議員。日本文藝家協会会員。

[本阿弥書店 定価:2,800円+税]

〔新連載〕【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】1 『ぴったりの箱』を読む  赤野四羽

 なつはづきさんの第一句集、『ぴったりの箱』を拝読しました。なつさんは第36回現代俳句新人賞受賞、「豈」に参加、「朱夏句会」代表もされています。タイトルの『ぴったりの箱』は集中の一句『ぴったりの箱が見つかる麦の秋』より。
 一読では何かを片付けるのにちょうどいい入れ物があった、かのように読めますが、表紙の「箱」のイラストをみるとポップでありながら、安部公房的なニュアンスをも見て取れます。まずは共鳴句を二十句挙げてみます。

 からすうり鍵かからなくなった胸
 桜二分ふと紙で切る指の腹
 夜に飲む水の甘さよ藍浴衣
 蟻の群れわたしは羽根を捥ぐ係
 少女期の果ててメロンのひと掬い
 地に刺さる喪服の群れよ油照り
 ゲルニカや水中花にも来る明日
 立秋や猫背のような手紙来る
 中古屋に天使の羽がある良夜
 鶺鴒やひだまりがまず午後になる
 日向ぼこ世界を愛せない鳩と
 実印を作る雪女を辞める
 幻の鮫と寝相の悪い君
 春鹿の顔して単語帳捲る
 穴馬がおーーーーっと茅花流しかな
 昨日から革命中のなめくじり
 かなかなや痣は気付いてより痛む
 図書館は鯨を待っている呼吸
 福島やプールを叩く硬き雨
 白兎黒兎いて夜の嵩


 句集末には俳人、宮崎斗士の跋文が収められています。ここで宮崎は「身体感覚」「からだ」をはづき俳句のキーワードとして挙げており、揚句をみても的確な指摘だと思います。
ただ一口に身体感覚といってもいろいろあり、例えば金子兜太の「いきもの感覚」もそうですし、「21世紀俳句パースペクティブ」では阿部完市俳句の身体性として韻律を挙げる議論がされていました。
 はづき俳句における身体性とはなにか。本句集について私が感じたのは、「痛み」「喪失感」「居場所」ということです。
 単に身体の語彙を使う、また肉体を描写するということではなく、心象あるいは喩としての身体、痛みや喪失感を感じる主体としての身体、置き所や居場所を探し求める自己としての身体、なつはづき俳句における身体性とはこのような表現手法として成立しているように思います。

 この身体性に関しては多くの論者が触れるところだと思いますので、それ以外の引き出しをあけて見ましょう。

 ゲルニカや水中花にも来る明日
 ここでの水中花は謎を含んでいます。多くの場合、水中花は生と死の境界、どちらかといえば死に近い存在として表れますが、ここではその水中花に明日が来る。ゲルニカでの圧倒的な破壊との対比か、死者も死者として存在することの喩でしょうか。

 白兎黒兎いて夜の嵩
 どちらかといえば、昼より夜に近づく性向があるようにみえます。モノクロームに深まる夜の世界に、やはり色彩のない白兎と黒兎。しかしここにはむしろ安らぎがあるようです。同じく
 夜に飲む水の甘さよ藍浴衣
もまた夜の甘さを洒脱に描いています。

 穴馬がおーーーーっと茅花流しかな
 静謐な世界だけではありません。競走馬の熱狂的な一場面、風になびく鬣と柔らかな茅花流しの映像的交感。寺山修司も競馬に凝っていたそうですが、こういった祝祭空間の表現にもまだまだ可能性があるのではないでしょうか。

  新宿で毎月行われているなつさん主催の朱夏句会。現在は新型コロナのため主にネット開催になっています。私もちょくちょく参加させて頂いていますが、超結社の自由な句会です。無季も有季も破調もOK。多彩な俳句表現にご関心ある方はぜひどうぞ。

〔新連載〕【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】1 「平成の微光」―眞矢ひろみ論―   松本龍子

  眞矢氏の第一句集『箱庭の夜』は令和二年三月にふらんす堂から発行されている。収録内容の内訳は第一章〈認知〉六十八句、第二章〈決意〉七十六句、第三章〈追求〉八十六句、第四章〈賛美〉七十句、三百句が入っている。この四章の題名はジョン・コルトレーンのアルバム『至上の愛』を参考に制作年順を解体してタイトルごとに再構成して収録している。
では各章の作品を任意に抽出しながら『箱庭の夜』を見ていくことにしよう。

 まず、第一章で〈認知〉を象徴している句の観賞をしてみようか。

 鋭角に昏きをくぐる初燕
 菜の花や汽笛は遠くぼうと鳴る
 もう合はぬデニムの陰干し修司の忌
 父ひとりリビングにゐる五月闇
 秋空につづく白線引きにけり


 秋空へつづく白線引きにけり
 一読、「詩情」を感じる。秋の澄み切った空までつづく白線を引いているという句意。甲子園の試合前の準備のために、係員が白線を引いている光景か。それとも運動会の準備のために先生が徒競走の白線を引いているのかもしれない。作者は先生の視線に同化して一緒に雲の上まで舞い上がり、裸足で白線の上を駆け抜けている。

 次に、第二章で〈決意〉を象徴している句の観賞をしてみよう。

 浅春のオムライスの天破れゐる
 花透くや母胎の中のうすあかり
 太古より石楠花揺らす虚なるもの
 青のない色鉛筆や原爆忌
 浮き沈む豆腐のかけら冬銀河


 花透くや母胎の中のうすあかり
一読、「静謐な囁き」が聞こえてくる。遠い記憶の母胎の中の薄明かりのように、桜の花が透き通って美しいという句意。三島由紀夫が『仮面の告白』で子宮に居た記憶を書いていたが、これもそんなデフォルメされた「記憶」なのだろう。〈母胎の中の〉が淡いトーンを想起させる。

 さらに、第三章で〈追求〉を象徴している句の観賞をしてみよう。

 春の月墜ちるものみな縁取らる
 父の日や灯を背にすれば父の影
 在ることのはかなき重さ遠花火
 迎火に翳まだ人のかたちして
 補助線を跨ぎこれより枯野人


 迎火に翳まだ人のかたちして
 一読、祈りの「浮立」を感じる。〈迎火に〉は陰暦七月十三日。盆に入る夕方、先祖の精霊を迎えるために門前で焚く火のこと。その迎火にまだ〈人のかたち〉をしている〈翳〉が出ているという句意。生者が死者の魂をいかに思い出すかによって、〈翳〉となり光となって輝くのだろう。死者を忘れないとうことは自分の原点を忘れないということである。

 最後に、第四章で〈賛美〉を象徴している句の観賞をしてみよう。

 薄化粧の兄引きこもる修司の忌
 道をしへ死んでゐることをしへられ
 大いなる余白を晒す無月なり
 月守にならぬかといふオムライス
 水音の言葉となりぬ初寝覚


 道をしへ死んでゐることをしへられ 
 一読、「声なき声」が聞こえてくる。個人的にはこの句集の中で一番好きな句である。〈道をしへ〉は山道にいて、人が近づくと飛び立ち、先へ先へと飛んでいくのでこの名がついた昆虫。〈死んでゐること〉は死について自分の意識の中で見届けられない状況を表している。実は既に亡くなって子孫たちの「守護神」として良い道を教えていると解釈できる。東日本大震災で亡くなった人たちにはこういう「霊魂」が多いのではなかろうか。
 第一句集には作家の全てが入っていると良く言われる。眞矢氏自身の言葉によると「平成における私的記録そのものであり、私にとって備忘録とも言えるものである」と平成という日本の「衰退の時代」を生き抜いた〈魂の変遷〉が収められている。
では、平成の〈私的記録〉ならばそれを象徴する「キーワード」が盛り込まれた句を拾ってみようか。

 父と子とコンビニ弁当初茜(認知)
 摘み草や時給換算するJK(決意)
 逆張りのミセスワタナベ明易し(決意)
 夕月夜アイフォンシックス解体す(決意)
 外灘にかげろふブラックスワンかな(追求)
 立夏たりユニクロに立つ父の霊(追求)
 あえかなるテロの予感や百舌鳥の舌(追求)
 スマホみな閉じゆく音といふ淑気(追求)
 愛国を語るJK夢違え(追求)
 春の宵おひねりが飛ぶ空爆も(賛美)
 ガン病棟へ寒一灯の力寄す(賛美)

 掲句を味わってみるとモチーフの鮮度、鋭い社会批評、大衆分析を感じる。作者の「時代の気分」を見届けようとする「新しみ」への挑戦と「風雅の誠」を高く評価したい。しかし試行錯誤のために、任意で抽出した平明な佳句に比べると「開放性」に欠けるきらいがある。レトリックを使用する場合、「キーワード」に字数を取られ「矛盾・誇張」に無理が生じることで、形式の構造的な問題に直面している。俳句が〈日常詩〉ならば、「時代の季語」の発見という方向もあったかもしれない。

 最後に、作者の顔が見える「前書き」のある句を拾ってみよう。

    悼 金子兜太
 「やあ失敬」と朧月夜を後にせり(認知)
    石槌山、愛媛
 天に打つ峰雲はるか石の槌(認知)
    高野山、和歌山
 大人小人御霊ひとしく御意のまま(認知)
    戦艦大和、四月七日出撃
 菊水を舷に涼月添ひにけり(決意)
    ドナウ川、ハンガリー
  爽やかに血肉流る筑前煮(決意)
    上海、中国
 外灘にかげろふブラックスワンかな(追求)
    戦艦大和、豊後水道通過
 左舷より菊の御紋にわたくし風(追求)
    悼 澤田和弥
 かげろふの無方無縁の海に翔ぶ(追求)
    戦艦大和 鹿児島沖轟沈
 水底の黄泉平坂月を待つ(追求)
    退職挨拶状
 月守にならむ産土に還るまで(賛美)
    ボカラ、ネパール
 闇汁の闇の内なる神々よ(賛美)

 
 これらの句を眞矢氏の「人生の景色」として眺めると朦朧としたフィルターをどう読みとればよいのか。〈魂の季節〉とでも呼ぶべき謎の秀句が並ぶ。特に異様な光を放っているのは〈戦艦大和〉の出撃から轟沈までの句である。
 眞矢氏の言葉では「川崎展宏の〈「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク〉を「本歌取り」として連作のモチーフにした」ようである。この句と攝津幸彦の〈南国に死して御恩のみなみかぜ〉を触媒にして「付け句」を施したところに秘密がありそうである。
 作者も私も昭和の高度成長の中で学生時代を送り、企業人としてバブル、二度の大きな震災を経験した。何とかこの時代を駆け抜けてきた印象は平成に入って日本人は「余裕」を失い、日本自体が「縮小」してしまった。その意味で〈戦艦大和〉は象徴としての一個の日本人の「魂の形」と言えないだろうか。
 句集『箱庭の夜』は「縮小」した平成の日常空間を離脱した「灯火」とも言える。心理学的には「潜在意識」から反射する「いのちの微光」なのだろう。私の眼には『箱庭の夜』から立ち昇る雲気の中に作者の「昭和の心象風景」、つまり「生の原郷」が透けて見えてくる。

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測212・宇多喜代子の歳時記論――『暦と暮らす・語り継ぎたい季語と知恵』が語るもの  筑紫磐井

宇多喜代子の究極の季語論
 宇多喜代子と季語の関係は深い。もともと、「草苑」「未定」に属し、「前衛的な作句に心掛けていた」(中上健次)宇多が季語や歳時記に関心を深めるようになったのは、第四句集『夏月集』(平成四年)以後、現代俳句協会の『現代俳句歳時記』の編集作業(平成五~一一年)からではなかったか。
 私自身、こうした時期に、季語を議論する場面で宇多喜代子としばしば会っている。『現代俳句歳時記』(平成一一年刊)の編集委員会や、「俳句」での座談会「いま歳時記を考える」(平成一八年)などであるし、いくつかの歳時記の執筆にも加わった。
 そうした宇多喜代子の代表的季語論・歳時記論は『角川俳句大歳時記』「歳時記へのおもい」(平成一八年)の大論文であろう。その後も多くの季語論・歳時記論を執筆したが、今般『暦と暮らす・語り継ぎたい季語と知恵』(令和二年四月)を刊行した。宇多喜代子の季語論・歳時記論の決定版といってよいであろう。では何が特徴的なのか。
      *
 俳句の歳時記についてはこの十年ほどの間に実は大きな変動が起こっているように思われる。最新の歳時記の考え方には二つの考え方が擡頭し、それを代表する論者により、体系的網羅的に独自の考え方を立てられているのである。
 一つは〈文芸派〉とでもいうべきものであり、俳句という文芸の規範であるとする考え方である。片山由美子が『季語を知る』で最近それを強く語っている。だから、我々が日常生活で見ている冬の星座オリオンも、独立の季語としては認めていない。ただこれは溯れば、高浜虚子(花鳥諷詠派)に近い考え方であり、季題を中心とした文芸運動派でもあった。
 もう一つは、〈生活派〉とでもいうべきものであり、宇多喜代子はここに含まれる。その歳時記や季語は規範以前に農事を中心とした民族の記憶であり、規範以前の遺伝子のようなものとする考え方である。宇多は、俳句のルーツである農業の始原を溯るために中国奥地にまで探検に出かけている。少し異なる方法論を採るのが宮坂静生であり、季語を地域の記憶と定義し「地貌季語」としてとらえ、日本中の地貌季語の実例と用例を含めて収集する。宮坂の主宰誌「岳」は全国の会員に呼びかけ膨大な事例を集積した。私は柳田国男が民俗学研究で行った「郷土研究」に重ね合わせてそれみている。いずれにしても、歳時記や季語に実体を見ている点が文芸派とはやや異なる。
 こうして見比べると、〈文芸派〉は俳人協会・日本伝統俳句協会の歳時記・季語の考え方に近く、〈生活派〉は現代俳句協会の考え方(無季派以外の)に近いようでなかなか興味深い。

三千年にわたる季語の歴史から
  (中略)
 このような歴史から見れば、「歳時記」とはまず天文気象の動向と農事を柱としたものであることが分かる。この天文気象の動向とは二十四節気と七十二候をいう。こうした伝統を踏まえ、二〇一六年にUNESCOは「二十四節気:太陽の年間活動の観測により開発された時間と実践に関する中国の知識」を世界遺産(無形文化遺産)に登録している。「中国の文化的アイデンティティと結束の重要な担い手である伝統的な中国の暦の一部」であり「中国社会の持続可能な農業発展と調和のとれた全体的な成長を保証する」ことが世界的にも認定されたのである。
 こうした例に倣えば、宇多喜代子の農事季語説は、東アジア三千年の歴史を踏まえた最も伝統的・正統的な考え方といえるであろう。
 さすがに俳壇で長老となった宇多は声高に現代批判をすることはないようだが、宇多のこの本が古い昭和の生活と農事をベースにしていることは、この本の挿入写真が、すべて武藤盈『写真で綴る昭和30年代農山村の暮らし 高度成長以前の日本の原風景』から取られていることからも明かであろう。「はじめに」に書かれた「暮らしの合理化、情報技術がいかに進んでも、日本に「春夏秋冬」のあるかぎり、これに拠って生きてきた先祖たちのなした生活にまつわる季語は、日本人の暮らし辞典として、生活文化の継承の標として、歳時記に留めておいてほしいというのが本心です」の言葉は、宇多の季語論の結論でもあろう。
  (下略)

※詳しくは「俳句四季」9月号をお読み下さい。

【読み切り】圧倒されっぱなしの俳人の覚悟と生きざま 『秦夕美句集』(現代俳句文庫―83) 豊里友行

十六夜に夫を身籠りゐたるなり

帯の俳句が妙に私の脳裏にこだまする。
周辺の俳句を拾い読む。
判読しながら秦夕美の生きるベクトルに圧倒されていく。
「ふぶく夜を屍の十指ぬぐひけり」「寒紅をひくこのたびは喪主の座に」「雪原の果いつぽんの泪の木」「ただ生きよ風の岬のねこじゃらし」
あるがままに詠み込んでいく秦夕美の俳句に私は、惹きこまれていた。

誰も叫ばぬこの夕虹の都かな
ゆつたりとほろぶ紋白蝶のくに


「誰も叫ばぬ」「ゆつたりとほろぶ」の俳句にこの国を憂う俳人のアンテナが、時代を感受している。この俳人の中では、出色に見える俳句だが、私をきちんと丁寧に俳句に詠う力量は、社会へも実感を得た俳句として素晴らしい俳句を成している。

秦夕美と名のれば乱れとぶ螢
気負いなく自己をあるがまま詠う。
苺つぶす無音の世界ひろごれり
霜柱十中八九未練なり
花のおく太古の魚を飼ひにけり
白南風に仮面の裏の起伏かな
ままごとのお客は猫と昼の月
今生の光あつめ雛の家


この俳人の俳句をささえている丁寧な描写力は、観察眼と言い換えてもいい。
よく視ている。
よく聴いている。
よく心に感受している。
それは、とても素晴らしい感性の弦になっている。

ただただ圧倒された女性俳人の感性の弦を軸に人生を奏でる気概。
私は、俳句観賞するためにも、もっと人生を謳歌したい。
人生の先輩俳人たちが、のたうち回りながららも獲得して人生を謳うことへの嫉妬を拭いきれない。
しなやかに。
たくましくも繊細に。
力強く生きる。
俳句の奥域を広げて、深めて、真実を捉えていく。
そんな俳人たちに私は、これからも沢山たくさん精一杯のエールを贈りたい。
この同時代に生きて俳句を切磋琢磨していくエールを私も確かに受け取っている。
この俳人の情念を突き抜けた先を私は、もっと見てみたい。
共鳴句を頂きます。

貝がらをあやすのつぺらぼうの母
残照の鰭もつ子宮(こっぼ)泳ぎけり
念々ころり寝棺・猫又・願ひ文
とろり疲れてやさしい闇に吊柿
七草にまじへ啜るは何の魂
回想の雨のぶらんこ揺れはじむ
月浴びてゐる「わたくし」といふ魔物
雁風呂やわが情欲のさざなみも
乱鶯や乳首の尖がりゆく思ひ
花ざくろ老いても陰のほのあかり
何処へと問ひ問はれゐる鳳仙花
そして誰もゐない夕日の芒原
沈黙も寒のきはみの紫紺かな
椿一輪おく胎内のがらんだう
朝の鵙もうここいらで転ばうか

海市あり別れて匂ふ男あり
王子の狐火ゆうらりと昭和果つ
恃(たの)むものなし月光の針を呑む
以後の世を歩きつかれて雪女郎
画鋲挿す癌病棟の夏の壁
理由なき反抗獅子座流星群
梧鼠(むささび)がとぶ霊域の大月夜
後の世は知らず思はずねこじやらし
やさしさはずるさに似たり雲の峰
暇なのでひまはり奈落へと運ぶ
花嵐お手々つないで鬼がくる

【急告】「豈」忘年句会及び懇親会の延期

 毎年11月にご参加頂いている恒例の「「豈」忘年句会及び懇親会」については今年は延期の方向で検討しています。
 詳しくはまた改めてご連絡します。

【急告】現代俳句協会 第44回現代俳句講座(WEB版)講師 池田澄子氏

 本年は、新型コロナウイルスの影響により、WEB(YouTube)での講座といたしました。全国どこからでもご自宅で楽しむことができます。ぜひお申し込み下さい。

【公開期間】
 9月19日(土)14:00 から 10月20日(火)まで。約1時間30分予定(事前録画による配信)。

【プログラム】
第1部:講演 「思い」と俳句  講師 池田澄子氏

 「何も言えそうにない、たった十七音の詩を私たちは選びました。人は気持、思いと共に生きています。十七音の言葉で、思いを写生することは出来るのか。それともそれは邪道でしょうか。」

第2部:池田澄子氏を囲んで  出演:瀬間陽子、なつはづき ほか
※池田澄子氏への質問を事前に募集いたします。参加のお申込みの後に、ghjigyou@gmail.comまでお寄せください。締切は、9月10日木曜日です。ただし、ご質問のすべてを取り上げるわけではありません。

【視聴方法】
 ユーチューブで限定公開します。お申込みのかたには、メールで、URL、パスワードをご連絡致します。
 9月19日14:00~10月20日の間は、いつでも、何度でもご覧になれます。

【視聴料】500円(税込み)

【お申込と視聴料お支払い】
 こちら(第44回現代俳句講座(WEB版)視聴料)からお支払いの上、ghjigyou@gmail.comまで、氏名、年齢、電話番号、Eメールアドレスを明記してメールにて申し込み下さい。公開期間中は受付けます。
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◇お問合せ先
現代俳句協会・現代俳句講座係 03-3839-8190

【新連載・俳句の新展開】第4回皐月句会(8月)[速報]

投句〆切  8/10 (月)
選句〆切  8/24 (月)

(5点句以上)
8点句

八月の日めくりめくる指の骨(望月士郎)
【評】 骨の一字・一語の評価が・・・?でもその一字で色々なものがクローズアップされてくる。それがこの国の八月、決してアウグストゥスの月ではない! ──夏木久
【評】 孫の顔を一年ぶりに見るのは楽しみだが 小指しか残っていない指で日めくりをめくるのはやりにくくてしょうがねえ あん時は一閃で指の肉が焼きただれて、むき出しになった骨を見たのが此岸での最後の記憶で、、、、 ──真矢ひろみ

6点句
喰はれざるものは腐りて青野かな(仙田洋子)
【評】 青野という清々しい景色の底には、残酷な生き死にがある。獣が食べ残した獣の死骸、訳あって喰われなかった果実などがおぞましい姿を晒す。青草が全ての異臭を消し去り、底に沈めている。人間社会もまた、美しく見えるものの底には、そんな営みが隠されているのだ。 ──篠崎央子
【評】 残飯というより死骸などでしょうか。 ──岸本尚毅
【評】 「喰はれ」なかったものは「腐り」やがて「青野」の大地へと還ってゆく。いのちの循環を「青野」で象徴化させてをり見事。 ──飯田冬眞
【評】 喰われて果てるか腐って果てるか、これが自然の姿。「青野」という季題からは怖ろしいほどの静寂さが、切字「かな」からはある種宗教的な肯定の心が感じられる。 ──依光陽子

円盤の抉るギリシャの夏の空(仙田洋子)
【評】 オリュンピアの神殿を背景に飛ぶ円盤を想起、爽快でした ──佐藤りえ

うつぶせに眠る少年雲の峰(松下カロ)
【評】 どうせなら、ジャニーズのような美少年を思い浮かべたい。 ──仙田洋子
【評】 少年の背中に照らしかけるような雲の峰の白さがよく描かれた ──依光正樹

水打って路地を切り絵の江戸にする(山本敏倖)

梅の酢に記せり二〇二〇年(青木百舌鳥)
【評】 今年は特別。 ──渕上信子

5点句
月餅のやうに犬寝る夏の庭(佐藤りえ)
【評】 月餅は思いのほか重い、見た目よりはるかにずっしりと来る物体だ。しかも円い。そんな月餅の様で寝る犬はずいぶん疲れ果てているにちがいない。直喩の力を用いて、夏の犬らしからぬ寝相をじつに犬らしく描いていると思う。 ──妹尾健太郎
【評】 夜とも限りませんが月餅のために、夜の夏の庭を思わされます。さらに月餅を重く見ると、秋近しという頃合か、暑さに喘ぎながら寝るほかない熱帯夜ではなく。褐色の犬の身が丸く横たわって目立って見えて、存在が存在しているだけで面白いという妙味を湛えています。縞猫が丸く寝ている姿を古代貝に見立ててアンモニャイト乃至ニャンモナイトと呼ぶことがありますがそれに似た趣です。 ──平野山斗士

(選評若干)
学研のおばちゃん夜の薄衣 1点 中村猛虎

【評】 今から60年ほど前、「科学の教室」という雑誌をクラスの理科の担任から買わせられていたことがある。学研は雑誌独自の販売システムを、書店を通さず学校や委託販売をして流通させていた(「学習」もそうだ)。「学研のおばちゃん」は寡聞にして知らないが、有ったかもしれない。などと思い出すと、「学研のおばちゃん」はどことなく色っぽいかんじがしなくもない。 ──筑紫磐井

夏草に濡れて旅路の始まりぬ 4点 飯田冬眞
【評】 始まらざるは東京都民(旅したいのに・・・) ──千寿関屋

踝や秋の蚊の武を刻まれて 1点 平野山斗士
【評】 夏と比べ数が減り、弱々しくなる秋の蚊ですが、その秋の蚊の雌の必死さを、「秋の蚊の武」とたたえたところが面白いです。 ──水岩瞳

ばつた跳ぶ刹那大地を無色とす 4点 篠崎央子
【評】 炎天下の乾ききった大地であろうか。地にいた「ばつた」が跳躍した。「刹那大地は無色」と言い、ならば翅を広げた「ばつた」はつやつやの天然色だろう。躍動する生命を切り出した映像的な句。 ──青木百舌鳥

胎内の記憶の続きソーダ水 2点 中村猛虎
【評】 グラス越しに見えるソーダ水の泡、その存在が胎内にいたころの記憶の続きに感覚される。ソーダ水の具象化により、胎内の羊水まで想起され、俳句はイメージを実践している。 ──山本敏倖

フェニックス一樹残暑に慊らず 1点 平野山斗士
【評】 フェニックスの木が残暑を貪っていると解しました。 ──岸本尚毅

烏瓜の花を靴履く猫の声 1点 夏木久
【評】 烏瓜の花のような靴を履いてぼーっと歩いてゆくと、長靴を履いた猫が来て声をかけてきました。助詞の使い方ひとつで奇妙なニュアンスを出すことのできることを示す作例なのでした。 ──望月士郎

麗しきディスタンス(距離)にて汗を拭 く3点 筑紫磐井
【評】 特選。「麗しき」が良い。 ──渕上信子


老人の興味は老婆月の道 1点 岸本尚毅
【評】 改めて「老人」とは何歳以上なのかを調べました。 ──渕上信子

風が吹く付箋のやうに外寝人 4点 依光陽子
【評】  説明はうまくできませんが、付箋という比喩はとても新鮮です。 ──小林かんな

海遠し今宵もナツノマスク干す 2点 小林かんな
【評】 アベノマスクを連想。 ──岸本尚毅

ゆふがたのマスク外せば秋めいて 3点 依光正樹
【評】 実感の句と思います ──小沢麻結
【評】 連句の中の一句のような、切れのない作りですが、実感があります。 ──渕上信子
【評】 時事句として解しました。「不本意な心地よさ」を感じます。

コロナ禍や焼肉たんと夏痩せなど 1点 水岩瞳
【評】 「たん」は牛タンではなく、鬼城の「たんと食うてよい子孕みね草の餅」の「たんと」と解しました。 ──岸本尚毅

物かげに生死のさかひ原爆忌 3点 北川美美
【評】 原爆の恐ろしさは、75年経ても変わりません。核兵器の廃絶は、日本人の願いです。 ──松代忠

青トマトやがて血となる鬱にもなる 3点 真矢ひろみ
【評】 この句には、唐突な転換がある。「青トマト」という青臭く未熟な故に新鮮なたべものが、熟すと真っ赤になり身体を活かす「血」なるかと楽しんでいたら、この生のイメージが一転精神の鬱状態へ持ち込まれる、健康の象徴が血の色がネガティブな色合いを帯びてくる。この場面の強力な視点の転移に、韜晦を感じる。今回感心した一句です。 ──堀本吟

あふむけに泳ぐ地球を背負ひつつ 2点 水岩瞳
【評】 「あふむけに泳ぐ」背泳ぎの人の接点は確かに地球。壮大なスケールに気づくのは俳句だからだろうか。 ──北川美美
【評】 大胆な切り取り ──中村猛虎