2020年2月7日金曜日

特集『切字と切れ』 【緊急発言】切れ論補足(7)動態的切字論5――現代俳句の文体――切字の彼方へ 筑紫磐井

●現代の切字論
 平成17年頃、角川文化振興財団の呼びかけた「俳の会」に誘われて、片山由美子、谷地快一、宮脇真彦と四人で勉強会を開いたことがある。その会は都合3年間ぐらい続いたが、最初の1年で読者、季語、切字と切れなどの基本問題を検討し、その後その成果を部外協力者を加えてまとめることとし、最終的には『現代俳句教養講座』全3巻(平成21年)とし刊行された。その第2巻「俳句の詩学・美学」の中で切字問題が取り上げられている。会では、切字問題の執筆者として、仁平勝、川本皓嗣、藤原マリ子の三人を選んで依頼した。切字論は共通の認識もあるが、考え方にかなり見解を異にする部分もあり、一人で論じるのは難しく、複数の見解を並べて見る必要があると考えたからである。最新の切字論を一望できるコンパクトな書物としてはこれに如くものはないと思っている。

①仁平勝(標題「五七五という装置」)
②川本皓嗣(標題「切字の詩学」)
③藤原マリ子(標題「俳諧における切字の機能と構造」)


 仁平は、切字は発句が脇句から切れるための語でありその中に「かな」「けり」のような句末の切字と、「や」のような句中の切字があるとする(仁平は「や」に呼応して句末の名詞で切れるから発句が脇句から切れるとしたが、その機能は示さなかった)。川本は句中の切れは係助詞であり遠隔操作的にその勢いの及ぶ句末で切れるのだと述べた。藤原は、必ずしも句中の切れによって句末で切れるものばかりではないことを指摘し、口伝となっている「7つのや」を元に「や」の使用例を歴史的に分析して芭蕉によって新たに配合の「や」が生まれたとしている(高山れおなは談林こそが「配合のや」を発見したのではないかと疑義を呈している。私も同感である)。川本も、最新著『俳諧の詩学』では藤原と同様の考察を加えている。

●「や」の分析
 ここで藤原の論点を例句で眺めてみる。興味深いのは、明治になって誰も見向きもしなくなったやの口伝を踏まえていることである。まず標準的な口伝となっている「7種のや」※を挙げてみよう。藤原が対象にした『宇陀法師』の区分と例句を見てみる(順番は藤原論文に従った)。

①切(きる)や(係助詞。ただし*句は間投助詞)
・物ごとに道やあらたまるけふの春
*切顔や昼は鎖おろす門の垣(宇)
②中(なか)のや(並立助詞)・
・雪を持樫や椹に露みえて
③捨(すつる)や(座五末の「や」)
・かくしても身のあるべきと思ひきや
④疑(うたがひ)のや(疑問の係助詞)
・思へばや鵬鴫までとまるらん
・けふよりや書付けさむ笠の露(宇)
⑤はのや(副詞語尾。ただし*句は間投肋詞)
・今はゝや訪はじと月に鳥啼で
*更科や月はよけれど田舎にて(を)
*白魚や黒き目を明く法の網(宇)
⑥すみのや(初五の四字目の「や」)
・思ふやと逞ふ夜も人を疑ひて
⑦口合(くちあひ)のや(初五の三字目の「や」)
・月や花よる見る色のふかみ草

 浅野信は、このうち②中(なか)のや④疑(うたがひ)のや⑥すみのや⑦口合(くちあひ)のやは切れないから切字ではないとする。
 一方藤原は、②中(なか)のや③捨(すつる)や⑤はのや(*以外)⑥すみのや⑦口合(くちあひ)のやは切れないから切字ではないとする。従って明白な積極的な切字は、①切(きる)や④疑(うたがひ)のや⑤はのや(*句は間投肋詞)が切字であるとするが、①切(きる)やと⑤はのやの間投肋詞(*の句)は倒置構造を採っていない所からそれぞれ「配合のや」「主格のや」と呼び新しい切字であるとしている。そしてこのうちの「配合のや」が芭蕉の句の特色となり、彼の取合わせ論と重なるというのである。口伝の見事な活用ということが出来るだろう。

 興味深いのは、川本の俳句構造説(基底部+干渉部)にしろ、藤原の切字説(「配合のや」)にしろ芭蕉に集約していくことである。我々はいつの時代になったら芭蕉と決別出来るのだろうか。

※その他のやに「腰のや」や「名所のや」「呼び出すや」が挙げられている。

●切れない工夫
 以上、発句が脇句から切れるための工夫として切字を眺めてきたのだが、発句が脇句から切れればそれで目的を達するかといえば、実はそれだけでもないようである。連句では切字が必要であるというだけでなく、それ以上に発句というのは脇句を必要とするというもう一つの原理があったのだと言われている。川本の『俳諧の詩学』ではその事を巧みに述べている。川本は、学生に向ってこういう。

 「発句というのは、そうして他人がさまざまに解釈して、自分なりの付句をする楽しみを残すために、わざと「脇をあまく」してあるんだよ。」

 今や連句の伝統が残っていない現代俳句には切字が必要はないのだが、さらに付句をするためにわざと「脇をあまく」する作り方もなくなってしまっている。切字を論ずるには同時にこの脇の甘さも考えなければいけないのかも知れない。発句と俳句は切字の有ること以上に、脇の甘さが望まれるとしたら、新興俳句や馬酔木俳句、人間探求派俳句は、切字の有無以前にその詠み方によって「発句」たる資格を失っているのである。そして、我々はこうした「発句」を「俳句」として鑑賞してしまっているのではなかろうか。

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