芭蕉は「偉大な思想家」なのか
ロンドンの書店で『偉大な思想家たち(Great Thinkers)』という本を手に取った。プラトンから始まり、ニーチェ、マルクス、フロイト、など世界の偉大な思想家が並ぶ。その中の「東洋の哲学」という章を見ると、仏陀、老子、孔子、の他に、千利休、松尾芭蕉、の計五人が紹介されていた。これにはだいぶ驚いた。そこでは「軽み」などへの言及もあるものの、利休も芭蕉も「Wabisabi(侘び寂び)」を体現する思想家として説明されていた。だとするとつまり、西洋人の少なからぬ人が、「侘び寂び」を仏教やマルキシズムにも匹敵する「偉大な思想」であると受け止め、その顕現を芭蕉や俳句に認めている、ということになる。
確かに、ロンドンでは「Wabisabi」はちょっとした流行のようだ。イギリス人の若い女性やキプロス人の男性からも、「興味がある」と言われた。あるイギリス人男性からは、「日本人は、Wabisabiの思想を何歳くらいに学校で教わるのかね? それとも、各家庭で親から子と伝えられるのかね?」と聞かれ、答えに窮したこともある。
Wabisabiに彼らが興味を持つひとつのポイントは、崇高でありながらもシンプル、というところにあるようだ。大聖堂などに典型的に見られる、西洋流のゴージャスな方法とは違う崇高さの表現に彼らは関心を持つのだろう。
『Wabi-Sabi』(Leonard Koren著)という本も買って読んでみた。茶道の歴史的流れを踏まえて「侘び寂び」の本質に分析的に迫ろうとする本だ。中でも、「侘び寂び」は二十世紀の「モダニズム」に似た側面があるとして詳細に比較する鮮やかさには感嘆した。例えば、本質的ではない装飾を避けようとするのは双方の共通点。一方で、モダニズムは「テクノロジー」を、侘び寂びは「自然」を美化するのは相違点。それぞれのメタファーとして、モダニズムでは「箱」が、侘び寂びでは「鉢」が使われる、との相違点の指摘も興味深かった。
侘び寂びは「説明しがたい」ことがその本質との認識が日本人には強くあり、それゆえに日本人に侘び寂びのことを聞いてもきちんと説明しない傾向があるとその本では言及していて、苦笑した。一方でこの本では、「侘び寂び」をその時代の日本に支配的だった中国的な美術観への反発である、と明確に位置づけ、また前述のように二十世紀のモダニズムとの比較を試みる。その実直な姿勢には学ぶべきものがある。
私たち日本人は俳句や侘び寂びのことを妙に卑下したり逆に神秘化すべきではあるまい。それを「偉大な思想」と言われたら、「Thank you」とさらりと受け止めておけばいい。むしろ必要なのは、その実質を世界史的な美術や思想の流れの中に具体的に位置付けようと努力することだ。英国での静かな Wabisabiブームは、そのことを教えてくれていると感じる。
(『海原』2019年4月号より転載)
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