2020年2月28日金曜日

【俳句評論講座】テクストと鑑賞① 渡部テクスト

【テクスト本文】
俳句のリアリティー―地名を手掛かりに―
                   渡部有紀子

はじめに

 「眼前の景を詠む」ことは近代俳句の基本とされている。一句中の景を「実際にあったこと」として、作者が見たこと聞いたことがいかに再現性があるのかを読者は読み解くのである。だが、そもそも作者の実体験から枝葉末節を取り払って十七音に収めた俳句の景は、厳密に言えば現実とは乖離するのが当然である。それでも一句を目にした際に読者が俳句の景に感じるリアリティーとはどういうものなのか。本稿では、この点を考察するために山口青邨の《みちのくの淋代の濱若布寄す》を取り上げる。
 青邨のこの句は、「ホトトギス」昭和十二年五月号雑詠欄に発表された当時より「淋代」という地名によって醸し出される景の美しさが高く評価されていた。後に、青邨は実は淋代を訪れたことがない上に、実際の淋代の浜には地理上、若布が寄せることはないことが判明しても、この句の評価は変わることがなかった。《(実際の淋代に)荒布なら寄せてゐるさうだが、もともと優雅な地名に惹付けられたのだから、「荒布寄す」では作者は幻滅なのであらう [1]》(山本健吉、昭和二十七年)。《臨場感を失わず読ませる[2] 》(三村凪彦、昭和五十八年、傍線筆者)。《この清朗なる地にあおあおとした若布が寄せるということは、それは仮に想像上の風景であるにせよ、見事な楽園の景色ではないか[3] 》(斎藤夏風、平成九年)。ここに紹介した三人の評者たちは、例え作者が実際には訪れていない土地であったとしても、地名に喚起された作者の「想像上の楽園」の景色を出現させることは可能であり、それを読者は臨場感をもって受け止めると言説を展開し、やはり「淋代」という地名の詩情によって生み出される景には読者が現実味を感じるのだと結論づけている。
 では、作者の想像上の景であっても、一句の中に読者がリアリティーを感じてしまう糸口になり得る地名とはいかなるものなのか。本論ではまず、地名がどのように日本詩歌および俳句史上で扱われ受容されてきたのかを整理するところから始めたい。

第一章 歌枕から俳枕へ子規以降
―しのぶ地名、訪れる地名、実在する地名


  詩歌史における地名の歴史は鈴木貞雄、尾形仂の両氏に詳しい。いわく、八世紀編纂の『万葉集』約四千五百首の歌には、三割余りが日本各地の地名が詠み込まれていた []4。後に地名が和歌の中で重要な要素とされるようになり、歌枕として定着した。この伝統は俳諧連歌にも色濃く残り、明治の俳句革新を経てもなお俳句に引き継がれていったのである。
 ただし歌枕は、『万葉集』や『古今和歌集』などの古典の中で洗練されてきた《文学上の地誌[5] 》であった。先人たちの名歌を踏まえた上で掛詞や縁語といった技巧をこらして一首に仕立てていく和歌では、歌枕は伝統に則ったイメージこそが重要であり、その所在や実景は問われるものではなかった。
 連歌の時代には、宮坂静生によると、複数の人々が旅先で集まって連歌を巻く際の心得として、《都人の心持ちで》振る舞い、例え今は鄙びた場所にいたとしても《都にいるつもりで》、常に都をしのぶ生き方が志向されたという[6] 。連歌での「季の題」は、盆地気候の京の都で暮らす人々の季感こそが本意とされた。歌枕も、都人であればその土地の名を聞けばどのような思いが胸に去来するのかという、いわば「しのぶ地名」として機能したことは想像に難くない。
 江戸期に至ると歌枕に代わって「俳枕」が登場するが、これは従来の歌枕とは様変わりしていた。貞門系の俳人であった高野幽山が自他の句を国別に集めて延宝八年(一六八〇)に刊行した『誹(はい)枕(まくら)』の内容からそれが窺える。それまでは作者がその地に行ったことがなくとも、名歌の蓄積や掛詞からの連想に依ったイメージで歌が詠まれ鑑賞され得たのに対し、『誹(はい)枕(まくら)』に収められたのは作者幽山が実際に諸国を遊歴した際の発句が中心であった。『誹(はい)枕(まくら)』には山口素堂が寄せた序文があるが、そこでも《(幽山は)西は坊の津に平包みをかけ、東は津軽の果てまでも足を重しとせず(中略)まさに見たりし翁なり[7] 》と評価していることから、当時の俳諧においては、作者が実際に足を運ぶことが読者から期待されていたことがわかる。つまり俳枕は「訪れる地名」とも言うべき、作者がその土地に行ったという事実に基づく地誌であり、作者と読者双方で共有された幻想に基づく歌枕とは決定的に違っていた。
 ただし俳諧で地名を詠むにあたっては、句に詠まれた景を実際に作者が見たか否かという点は厳密には問われていなかった。『おくのほそ道』に収められた〈荒海や佐渡に横たふ天の川〉について後年、荻原井泉水が指摘したように天文的事実として天の川は佐渡へは横たわらない上に、同行していた門人曾良の旅日記によると出雲崎に到着・宿泊した旧暦七月四日夜より雨となり、直江津に至った七日の夜まで雨が降り通していたという[8] 。事実に照らせば芭蕉は、雨けぶる海の向こうにぼんやりと見える佐渡島の影に向きあった際、かつて多くの貴人が配流されたこの地には天の川が横たわることこそが相応しいとしたことになる。古典的な歌枕の地を実際に訪れることで作者の心に沸き起こった景こそが、その土地にふさわしい新たな「本情」であるとされたのが芭蕉の時代であった。実際に作者が見たものをそのままに詠むという態度が定着するには、明治の正岡子規の登場を待たなければならなかった。
 子規の名所旧蹟についての見解は、明治二十八年の『俳諧大要』における写生の実践の仕方に述べられている。《名勝旧蹟の外にして普通尋常の景色に無数の美を含みをる事を忘るべからず。名勝旧蹟はその数少く、人多くこれを識るが故に陳腐になりやすし。普通尋常の場処は無数にして変化も多くかつ陳腐ならず、故に名勝旧跡を目的地として途々天然の美を探るべし。鳥声草花我を迎ふるが如く、雲影月色我を慰むるが如く感ずべし[9] 》―名所旧蹟は数が限られている為に、先人たちによって既に詠まれ尽くしている。今我々が詠もうとしても、どうしても既存のものと発想や着眼点が似通ってしまい、その表現は陳腐な印象を与えてしまいがちである。一方で、これまで誰も注目してこなかった《普通尋常の》場所は無数にある。その場で常に変化する《天然の美》とも言うべき現実の景は、まだ詩歌に詠まれていないので、新鮮な句を得ることが可能である。名所旧蹟を訪ねる際も、その途上の名所とも言われない場所に気を配り、そこにある鳥や草花、雲や月などに詩情を見出すべきだと言う。この子規の主張に沿うならば、一句の中に詠まれた場所は、その風物も含めて作者の眼前に実際にあったと想定される。ある特定の土地を指ししめすことばは、「実在する地名」とも言うべきものである。
 坪内稔典は子規の唱えた写生は、明治期の旧派の俳諧宗匠たちから見ると、目の前の出来事を「云ふただけ」で一句として不成立であるとされてしまうものだったと指摘する。そして、俳句は和歌や詩ほどには完結性を持っていないが故に、一つの作品として成立するには他のどの文芸よりも表現方法に価値を認める一定数の読者を《読み方の共同性》として必要とするのだと主張する[10] 。「実在する地名」もまた、ことばの歴史性を排除しようとする子規の考えや、その作品を鑑賞する方法が共同性の強い力を発揮した結果であり、現代においても我々が俳句を読み解く際の基礎を成している。青邨の「淋代」の句に対して、実際に若布が寄せるか否かという点が評者たちの意識を集めること自体が、作者の眼前の景を詠むことを読者は了解事項として十七音を受け取るという、近代俳句の「読みの方法」を如実に物語っている。

第二章 地名の句を読み解く方法

 「歌枕」の時代には、実在の有無や作者の訪問の有無を問わず、それまでの文芸的な蓄積を背景に地名の詩情を詠み/読むことが、作者と読者の間の約束事項であった。それを否定した明治以降の近代俳句では、地名の詠み込まれた俳句に対して、新たな読み解きの方法が必要になった。それには、(一)作者の提示する景をそのまま受け取る(二)地名という言葉の響きに着目する(三)古典の伝統から外れるにしても、地名にまつわる連想を手掛かりにするの三つがある。

 (一)については、子規の提唱した「写生」のように、作者の眼前の景物を読者は素直に受け取ることで、自然が織りなす現実を観察してありのままに提示しようとする作者の視点を読者も共有し、そこに潜む新鮮で迫力ある美を鑑賞する方法であった。
 (二)については、地名のことばとしての響きに着目し、その響きと提示された景物との組み合わせによるイメージの広がりを味わうことである。先に子規が唱えた《普通尋常の》場所に目を遣ると、「淋代」のように文学的・歴史的連想の蓄積も無く、有名でない土地の名称も俳句に登場することとなる。この場合、その土地に立った(と、読者は想定する)作者と、全くその土地を訪れたこともなく、その場所の実情も知らない読者との間に情報の非対称性が生じる。これを克服する方法として、地名という音声の持つ響きと景物とが成す一句中の調べを利用することが有効であり、冒頭の「淋代」の句に対する評も全て地名の響きに着目している。
 (三)については、虚子が許容した地名にまつわる連想を手掛かりとする鑑賞法である。

 子規が写生を唱えた同時期、明治二十九年の雑誌「日本人」二月号で虚子は、《凡そ人間の智識感情等凡て歷史的ならざるはなし(中略)歷史的連想をおこさしむる材料も様々あるが中に最普通にして最有力なるものを名所舊跡となす(中略)山川草澤に印せられたる歷史上の事蹟は永へに滅せざる詩壇の珍寶なるべし[11] 》と述べている[12] 。重ねて虚子は、《(名所も旧蹟も)孰も自然の美と人事の美と相擁したる複雜なる詩趣を有するものにして殊に深刻なる印象を與ふるものなり(中略)歷史的連想能く風光の美と相挨つに非れば名所舊跡に於ける快感は甚く減殺せられぬべし[13] 》と続け、自然の風光の美を主眼としながらも、名所旧蹟にまつわる歴史的連想の存在と詩的効果を認めている。
 虚子はまた興味深いことに、句に詠まれた景が現実のものか否かについて厳密には求めていなかった。青邨は「淋代」の句の自解の中で、自身の外遊中に実際の淋代には若布は寄せないことをホトトギス社宛に指摘してきた人物がいたが、虚子が弁じて事なきを得た旨を書いている[14] 。虚子の回答の詳細は不明だが、それより以前に虚子が著した俳句論の中に、俳句における虚と実についての見解がわかる箇所がある。
 明治四十一年七月の「ホトトギス」で虚子は、凡兆の〈初潮や鳴門の浪の飛脚船〉という句に対して、初潮のような膨れ上がった満潮時の鳴門海峡は渦もない平穏な海であることを指摘し、したがってこの句における飛脚船には、立ち荒れてうねる波濤を意味する「浪」は実際には当たっていないということを明らかにする。その上で、作者凡兆は鳴門海峡の初潮を目の当たりにし、その雄大さに心打たれ、その景色の中に日頃から聞いている飛脚船の様をモチーフとして置き、荒波の中を必死に進む船と海峡の大景との想像上の対比をもって《天地の間に此景色を創造した》と断言する。そして、一見すると眼前の景物をそのまま詠んだようでありながら一句の背後に作者の想像の産物が潜んでいる句を《背景のある句》として自分は佳しとすると主張している[15] 。
 虚子は水原秋櫻子の〈山焼く火檜原に来ればまのあたり〉という空想句についても《作者が創造した世界が即ち現実の世界になつてゐる[16] 》と大正十五年の『俳句小論』で述べている。これらに照らして先の明治二十九年の名所旧蹟についての見解を読むならば、名所と呼ばれる地名によって作者の心の中に起こる感興は、その虚実を問わず、作者と読者で歴史的連想によって共有可能であり、明らかに子規の名所旧蹟の扱い方とは変容している。
 虚子のこのような考え方が広く受け入れた後の昭和期には、読者は地名が負う文学的・歴史的背景を理解した上で、そこからの連想によって句を読み解くこと、例え句中の景が現実とは違っていたとしても、地名によって想起される連想が活かされているか否かの方に注目して、句を鑑賞することが期待されるようになる。         
 作者の想像上の景であったとしても、地名の効果によって俳句の詩世界は壊れないという青邨の句作品に対する評者の読みは、まさに虚子の許容が背景にあった。同時に、「淋代」というよく知られてはいない、歴史的連想の乏しい地名であっても、地名の持つことばの響きから連想される詩情が一句中を貫いていれば、現実味をもって鑑賞され得るという俳句評論の可能性をも拓いたのである。

第三章 仮想の読者との対話

 かつて虚子は俳句の作られる過程において対象の観察と言葉の取捨選択を通じての景の描写には必ず作者の主観が入る点を指摘している。俳句とは対象から少し距離を置いた上で、選び抜かれた言葉によって十七音に集約されたフィクションなのである。作者/読者の情報の非対称性が前提であるがゆえに作者は作句の際には自己の中に仮想の読者を設定し、読者の持つであろう情報を勘案しながら言葉を選定する。つまり、仮想の読者との「対話」を通じて作句を行う。ある地名における景を詠む時、俳句によって作者から読者へ差し出された景はどこにも実在しない。作者の読者の間にのみ、俳句の景は存在している。読者もまた、作者から提示された景がいかに鮮やかに伝わってくるのか、作者の経験の再現性をはかるのが近代俳句では正しい「読み」の態度とされた。青邨の「淋代」の句は実景ではなくとも、読み解きの方法によっては作者の「経験」を読者が「臨場感」まで伴って作り上げてしまえることを、図らずも明らかにしている。俳句はあくまで虚構の世界であり、読者がそこで受け止めるのは「人造リアリティー」ともいうべき景色なのだ。

[注]
1) 山本一九五二、八十四頁
2)三村一九八三、一三六頁
3)斎藤一九九七、二十七頁
4)鈴木二〇〇九、一七〇頁
5)尾形一九八七、一五四頁
6)宮坂二〇〇九、十七頁
7)尾形一九八七、一五五頁
8)穎原・尾形二〇〇三、二八二-二八三頁
9)子規一九五五、七十一頁
10)坪内一九八五、二四頁
11)虚子一九七四、三十七頁
12)坪内によれば、このような考え方は明治期には殆ど主流をなさず、そのような考えや、その考えに基づく俳句の読み方が人々に受け入れられ「共同性を形成する」のは大正になってからであったという。
13)虚子一九七四、三十八頁
14)青邨一九七〇、二十六頁
15) 虚子一九七四、一四〇―一四一頁
16)虚子一九七四(二)、一六三頁

【引用・参考文献一覧】
◇山本一九五二: 山本健吉『現代俳句 下巻』 角川書店 一九五二年
◇三村一九八三: 三村凪彦「固有名詞(地名)の効用―大和など―」「俳句」昭和五十八年八月号 一三六‐一三七頁 角川書店 一九八三年
◇斎藤一九九七: 斎藤夏風『蝸牛俳句文庫三十二 山口青邨』 蝸牛社 一九九七年
◇鈴木二〇〇九: 鈴木貞雄「地名がもたらすもの」片山由美子・谷地快一・筑紫磐井・宮脇真彦編『俳句教養講座第二巻 俳句の詩学・美学』一七〇‐一八一頁 角川学芸出版 二〇〇九年
◇尾形一九八七: 尾形仂 『「俳枕」考』『新撰俳枕』一五三‐一五九頁 朝日新聞社 一九八七年
◇宮坂二〇〇九: 宮坂静生『季語の誕生』 岩波書店 二〇〇九年
◇穎原・尾形二〇〇三:松尾芭蕉著 穎原退蔵・尾形仂訳注『新版おくのほそ道』角川ソフィア文庫 株式会社KADOKAWA 二〇〇三年
◇子規一九五五:正岡子規『俳諧大要』岩波書店 一九五五年
◇坪内一九八五: 坪内稔典「〈赤い椿白い椿と落ちにけり〉の成立」『現代俳句入門』二十一‐三十一頁 沖積舎 一九八五年 
◇虚子一九七四、高浜虚子『定本高濱虛子全集 第十巻 俳論・俳話集(一)』毎日新聞社 一九七四年
◇虚子一九七四(二)、高浜虚子『定本高濱虛子全集 第十一巻 俳論・俳話集(二)』毎日新聞社 一九七四年
◇青邨一九七〇: 山口青邨『現代の俳句・自選自解山口青邨集』 白凰社 一九七〇年


【角谷昌子・鑑賞と批評】
  文献をよく収集して精査されていることがよく分かります。ただ、山口青邨の「淋代」の句は、作者が実際に現地を訪れていないまま詠まれたことが、よく知られています。この句を冒頭に提示するだけで、ちょっと「またか」との思いが読者にきざすので、論考には、もっと新しい視点を加えて新鮮さを打ち出す必要があるでしょう。
  「地名」の効果から、俳句の虚構性に論旨が展開されていくのですが、第三章に至るまでの説得力に乏しい気がします。新鋭俳句評論に提出された内容を3ページとの講師からの指摘でだいぶカットされたことによると思います。もう少し文献引用は要点だけにして、それに対する著者独自の論考を肉付けしてゆけば、さらに良くなるのではないでしょうか。

【筑紫磐井・鑑賞と批評】
  いかにも書きなれた文体であると思います。その意味ではテーマの探索がポイントになると思います。
 講座の時も、研究論文と評論のご質問がありましたが、基本的には大きく異なると思います。前者は読者が大学等の研究者であり、発表の場も研究者が集まる学会です。ここでは、既存の堅実な成果を踏まえて、新しい知見を提示するものです。その意味では通常一般読者にはあまり面白くないものとなることが多いようです。
 評論の場合は一般俳人が読者であり、俳句雑誌や単行本で発表されますが、アカデミックな評価や注意をされることはあまりありません。実作者あるいは、俳句愛好家にとって興味を引く、面白い内容となっている事がポイントとなります。
 山本健吉や金子兜太はあまり厳密な論理を追っておらず、後者に属すると思います。また新しい俳句運動(社会性俳句、前衛俳句、草間滝彦らので伝統俳句の復活等)は前者から生まれることはなく、(かなり見当違いなことはありますが)後者から生まれてきたように思いますので。
    *
 提案された論文は、第1章と第2章でやや二兎を追っているようであり、どちらかに絞り込んで深めた方がよいように思います。評論家である私としては、第1章は出来るだけ少なくし、その分第2章を工夫した方がよいと思います。第1章が中心となっているため、引用が多く、煩瑣で読みづらい印象もあります。たぶん第1章の問題は、渡部さん以外の他の研究者が出来そうな気もしますので。もちろん、あらかじめこうした問題を研究しておくことは大事です。

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