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2025年9月12日金曜日

【連載】現代評論研究:第14回各論―テーマ:「春」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(投稿日:2011年11月18日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 青の蝶 無作為の余白とび去り

  「層雲自由律・101号」(注①)の圭之介追悼号に掲載の平成14年の作品である。この句の場合、何故「青い蝶」ではなく「青の蝶」であるのか。それは「青の」が指定するものが場所であり、時であり、対象であり、所属等の重層したものを示唆しているからではないのか。その事によって蝶は己自身とも他者ともみなされうるし、無作為という偶然性が支配する「余白」はそれぞれの「生」そのものを示していると共に、そこからの飛翔が意思的な一面を打ち出しているとも考えられる。また画家としての圭之介は当然、青と白との色のコントラストを表現手法に用いており、そうした傾向は既出の「自画像 青い絵の具で蝶は塗りこめておく」(注②)の句などにも表れている。

 蝶に関連した句はその他にも数多くみられる。

 心にはいつも一匹の蝶と空間        昭和39年作   (注③)

 蝶の一匹が吹かれているゆえに断崖     昭和39年作   (注③)

 蝶そうして花である            昭和48年作   (注③)

 蝶 羽の色をひらく            昭和48年作

 失イツクシ。蝶残ル            平成6年作

 上記の様に蝶は常に作者と同一体にあり、その視点と思惟はその交感上に存している。そしてその儚さと一過性故の孤独感が、空間への埋没や断崖での切迫感、相対性としての個の存在感や浮遊感、更には絶望の残滓感へと連なってゆくようである。

 人員と春においてある椅子         昭和29年作   (注③)

 春です。思想なくした街もいい       平成19年作   (注①)

 春というものはその膨張感と共に内部的には空虚感を抱え込んでいるようである。それ故に人員と椅子という数的無機的表情や、茫漠とした無思想の表情がよく似合うのかもしれない。思想というものが直観の立場を超えて論理的反省を加えた思考内容、体系的なものである限り、上記の駘蕩たる春とは相いれないものである事は明らかであろう。特に最晩年の作者は、春の空虚感にゆったりと浸っているかの如くに。

 例によってテーマにそった圭之介の詩を1篇を掲げよう。

 「宇宙とラムネ玉」           昭和27年作  (注④)

 春はあらゆるものが光を生み

 ブロンズの裸婦の乳房に屈折し

 公園のベンチを明るくした

 私の喉はからからとかわく

 茶店ではラムネ玉が

 宇宙の一さいを包含していた

 宇宙とラムネの逆不等合を春はキラキラと媒体しているかの如き、趣のある詩となっている。


(注)①「層雲自由律」101号 平成21年7月 層雲自由律の会発行

   ② 第6回テーマ「色」掲載

   ③「ケイノスケ句抄」 近木圭之介 層雲社 昭和61年刊

   ④「近木圭之介詩抄」 近木圭之介 私家版 昭和60年刊


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 春の夜のこころもてあそばれしかな  『榧の実』

 春の夜の触れてさだかにをとこの手  『冬濤』

 春の夜の夢にもひとの泣くばかり   「俳句研究」昭和55年5月号

 きくのの最初の師、大場白水郎の「春蘭」(〜1940年)、「春蘭」の復刊ともいえる「縷紅」(1940〜1944年)が終刊したのち、1946年白水郎の親友であった久保田万太郎が「春燈」を創刊したことを知り、入会する。この時、きくの40歳である。「春燈」には文章も頻繁に発表し、まとめたものを句集よりひと足早く随筆集『古日傘』(1959年)として上梓した。『古日傘』の巻頭には万太郎の序句「春ショールはるをうれひてまとひけ里」が置かれている。

 この随筆集のなかで、万太郎が登場する一話がある。1939年のできごとというから、同じ「春蘭」のなかの兄妹弟子という関係のなかの思い出として描かれている。

 万太郎がお座敷遊びの最中に一句を書き付けた紙片を、隣に座ったきくのに渡した。

 秋の夜、と始まるその句に「これ、春の夜ではいけませんか」と言うと、万太郎は言下に「いけない、春の夜じゃいけない」ときつい調子で応えた。紙片をさらにじっと見つめた万太郎は「なつのよ…、ふゆのよ…」とつぶやいたのち、はっきりと「うん、冬の夜がいい」と断言したという。

 抒情が勝り春の夜がふさわしいと思ったきくの。

 小説家として冬の夜が最適とした万太郎。その句とは

 冬の夜の大鼓(かわ)の緒のひざにたれ  万太郎

 鮮やかな朱の緒とともに芸の意気まで表しているような演出に、きくのはため息とともに深く納得する。

 このほんのわずかなふたりのやりとりのなかに、きくのの抒情と、万太郎の選り抜かれた演出が見てとれる。そして、言外に漂う信頼関係も。

 1963年5月6日の万太郎の死は、誤嚥性の窒息という誰もが思いもよらない唐突なものだった。悼句の

 薔薇紅き嘆きは人に頒たれず  『冬濤』

には「久保田先生逝く、直前、薔薇を賜ふ」の前書がある。薔薇の御礼も言えぬままの別れだったことだろう。

 そして、掲句に並べた春の夜3句はすべてお座敷の一件以降の作品である。きくのの春の夜は、相変わらずしっとりと濡れるような抒情に縁取られていた。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 糸遊を見てゐて何も見てゐずや

 昭和50年作。第4句集『狩眼』(*1)所収。句集巻末の句。

 〈糸遊〉は「いという」で、「陽炎」の傍題季語。『わくかせわ』(宝暦三年1753)に「陽炎・糸遊、同物二名なり。春気地より昇るを陽炎あるいはかげろふもゆるともいひ、空にちらつき、また降るを糸遊といふなり」とある。

 『角川 合本俳句歳時記 第四版』では、陽炎を「日差しが強く風の弱い日に、遠くのものがゆらゆら揺らいで見える現象」と定義する。つまりは、晴れ渡った春の日の空にちりちりと針のように見えるものが「糸遊」である。

 〈見てゐて何も見てゐずや〉は自身の感覚に対する不信感の吐露でありながら、〈糸遊〉のもつ神秘的で儚い自然現象の本意と見事に響き合っている。「見ること」に重心を置いて作句をしてきた齋藤玄にとって、自然現象を写生することの難しさを表明した句と言えるだろう。それは玄個人の内面吐露のように見えて、実は、俳人を含めた我々人間全般の「視覚」のあやふやさを鋭く突いた言葉としても受け止められる。

 自註を読むとさらにその思いを強くする。

ぼんやりして、何も見ていない。しかし実際はかげろうの伸縮を見ていたのだった。それが、いつの間にか何も見ていなくなっていた。(*2)

 要するに、この句は、眼前にした自然現象を言語化することの困難を主題としているのだが、句集の末尾にすえられていることで、齋藤玄という作家の特質を考える上で、重要な意味をはらんでいるように思う。

 つまり、俳人たちの多くは俳句の表現手法である写生に徹することで、俳句表現は成立すると思い込んでいるが、玄は〈糸遊〉の句を通して、写生の限界を感じたことを端無くも表明しているのである。自然現象である〈糸遊〉を前にして、〈見てゐて何も見てゐずや〉と表白することは、とりもなおさず、人間は自然現象に対峙するものではなく、その一部であることを直感的に認識したことを暗示している。大げさに言うならば〈糸遊を見てゐて何も見てゐずや〉は、近代的自我のゆらぎを吐露した句であり、それが『狩眼』という句集の末尾にすえられたことは、齋藤玄という俳人が、その時点で到達していた自然現象に対する認識力の高さを表している。

 それが次の句集、『雁道』への橋渡し的役割を担っているように思う。

 『雁道』の冒頭の句をあげる。

 青き踏むより踏みたきは川の艶   昭和50年作 (*3)

 この句は、「色」の一句の項目で触れたが、〈青き踏む〉という中国に起源を持つ季語を用いながら、季語に寄りかかるのではなく、むしろ季語の情趣を打ち破ろうとした意欲作である。それは、〈青き踏むより踏みたきは〉と句またがりにして韻律を崩している点からも読み取ることができる。また、春の陽光に反射した川面の光沢を〈川の艶〉と捉えた措辞のうまさにも既成の俳句表現にとらわれない進取の精神性を感じるのである。

 『狩眼』巻末句の〈糸遊を見てゐて何も見てゐずや〉と『雁道』冒頭句の〈青き踏むより踏みたきは川の艶〉は、ともに春の陽光をモチーフとしながら「写生」と「季語」という俳句の根幹に揺さぶりをかけようとした齋藤玄の意欲作であったことを確認しておきたい。


*1 第4句集『狩眼』 昭和50年牧羊社刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊

*3 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 さふらんのもたぐる蕾愛ぞ愛ぞ

 『火づくり』(1962年)所収の句。「昭和二十九年三月十六日福竜丸水爆実験の犠牲と

なる一句」という長い前書きを持つ。初出は1954年5月1日発行の「十七音詩」第3号。初出時点の前書きは「三月十六日水爆の暴威報ぜらる 一句」であり、作品自体も中七の直後に1字分の余白を置いた

 さふらんのもたぐる蕾 愛ぞ愛ぞ

という分かち書き形式であった。

 静岡県の焼津を母港とするマグロ漁船・第五福竜丸がビキニ環礁で米国の水爆実験に遭遇したのは1954年3月1日早朝のことである。同月14日、焼津に帰港。読売新聞同月16日付朝刊社会面が大きく報じて世論は騒然となった。葦男はこの記事を読んだのである。

 ここでいう「さふらん」とは、晩秋に咲き、乾燥させた雌蘂が薬用・染料・香料に使用される秋サフランではない。同属で早春に咲くクロッカスのことを指すと思われる。観賞用のみに栽培され、春サフラン、花サフランなどと呼ばれる花である。クロッカスは地面すれすれに花をつける。だから「もたぐる蕾」といってもそれはごく低い所にあるのだ。

 問題はその形状である。短い茎の先端に蕾を生じたクロッカスを、葦男は水爆のキノコ雲に見立てたのかもしれない。もしそうだとすれば、葦男眼前のクロッカスは早春の景物であると同時に禍々しい原子兵器(当時は核兵器よりも原子兵器の呼称が一般的だった)の喩でもあったわけだ。この句は核軍拡時代の到来を端的に告げる作品であり、核実験のもたらす惨害という現実を同時代的に引き受けようとする葦男の作家精神を素朴かつ明快に示す作例と言える。

 それにしても「愛ぞ愛ぞ」という俳句らしからぬ反復強調表現は何であろう。字余りの措辞は取って付けたようであり、稚拙な印象すら与える。これは水爆の暴威への憤りから思わず発した人類愛渇望の叫びなのであろうか。勿論そう解釈することも可能だ。しかし、筆者はこの「愛」は久保山愛吉への呼びかけではないかと思う。ビキニ環礁で放射性降下物を浴びて重態に陥り、同年9月23日に不帰の客となった第五福竜丸無線長である。

 「愛」の文字を冠する名を持ち、兄貴分として乗組員たちに慕われた人物が、およそ「愛」とは正反対の酷薄なる冷戦の犠牲となった皮肉。この句の発表当時、久保山はなお存命中だったが、同時代の悲劇を体現した人物へのオマージュを以て葦男は一句を締めくくったのではないか。

 因みに、「十七音詩」創刊号および第2号の題言は無署名である。第3号の題言に至って初めて(葦)という署名が入る。

 友だちはみな人間の危機をひしひしと感じてゐる。LOYALTYがHUMANITYをすでに圧迫してゐるのだ。叡智と愛が擦り減ってゆく世界。

 葦男筆とおぼしき題言の一節は抽象的な表現をとるが、これが水爆の恐怖に支配された世界の非人間性を念頭に置いたものであることは言うまでもない。葦男の受けた衝撃は深甚であった。「さふらん」の句にはその衝撃の痕跡が生々しく残っている。

 以下補足だが、上述の「十七音詩」は1953年10月に、金子明彦、林田紀音夫とともに葦男が創刊した同人誌である。俳句を十七音詩として把握し直すことにより新しい俳句の誕生を期するという、清新なエスプリに満ちた試みであった。

 中世的文学理念のつき纏ふ俳と季の束縛を断ち切つても、なほそこに俳句の骨格を形成する特性は失はれず、むしろそれによつてこそ現代民衆の詩精神を盛るに相応しい新しい俳句の誕生が可能であると確信するにある。(創刊号 題言)

 「十七音詩」はその後、前衛俳句運動の火種のひとつとなってゆくのである。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 昼なかのニュース声高蝶みな消ゆ   中川浩文

 掲出句の引用は1962年(昭和37)6月刊行の第一句集『貝殻祭』から。初出はいまのところ未見。作者である中川浩文氏は1923年(大正12年)生まれ、1983年に亡くなるまで「青玄」同人、無鑑査同人として所属。また日本文学者として京都女子大学、龍谷大学などで教鞭を執り、「竹取物語」「源氏物語」研究の著書がある。

 春の真昼、いよいよ緊迫の度を増しつつある状況を伝えるアナウンサーの声は、世情の空気に呑みこまれているかのようにますます甲高さを増しつつある。今ここにいる自分自身の周囲からは、どうしたことか一斉に蝶の姿を見えなくなってしまった。もしかしたらそれは、ひたすら声の甲高さを増しつつあるアナウンサー、すなわち世情の緊迫した雰囲気からなんとか逃れようとしているのだろうか、それともアナウンサーによってさらに声高に伝えられる状況へ対して一層の危機感を募らせて、蝶たち自らが世情へとまっすぐに突き進もうとしているのだろうか。そのような疑問と不安の数々を募らせながらも、すっかり蝶のいなくなった空間に響きわたるアナウンサーの緊迫感溢れた甲高い声を聞いているだけの自分がいる、いまはただ、世情のうごめきの真っ只中にいるであろう蝶たちの行く末を思うことしかできない自分自身がここにいる。

 最初にこの1句を見て、自分自身が立ち尽くしているかのような空間に響きわたるニュースは何かと考え、思わず2011年3月の大震災とその後の顛末を想起してしまったものである。林田紀音夫が1970年代に書いた「執拗なヘリコプター死者の広場があり」(句集『幻燈』所収)もそうだが、災害や戦火といった大惨事を伝えるメディアに対するシニカルな目線というのは、いつの頃にあっても変わらないものかと思ったのだが、もちろんこれは私の漠然とした印象に過ぎない。この1句はある決定的な日付をもって刻印された作品である、その日付は1960年(昭和35)6月15日。以下に引用する2句と合わせ、次のような前書が付されている、「安保条約反対デモにて樺美智子なる学生死す」。

 足裏に舗装路絶えぬ暮色の泥   中川浩文

 安保反抗デモで鳥肌立つポロシャツ

 いわゆる「60年安保闘争」の盛り上がりの中、国会前での機動隊とデモ隊の衝突によって引き起こされた、女子学生樺美智子の死。戦後15年を経て、再び若い命が国を二分する争いの真っ只中で失われてしまった事態が、ニュースを通じて日本中に与えた衝撃の大きさは計りしれないものがあったのだろう(としか今の私には言えない)。当時京都女子大の助教授として学生たちの前にいた作者にしても、学生たちと同世代のひとりが突然に命を断たれたことからもたらされた怒りや哀しみは、即座に言葉としようにも複雑極まりない感情にとらわれたであろうことは想像がつく。俳人としての中川氏はそのような自分自身の感情のありようを見据えながら、だからこそますます甲高い響きを帯びて自らの前に立ち現れる声々と、それらに即座に呼応して立ち上がろうとする学生たちの姿に対しても、さまざまな感情にとらわれながらも、若者たちに生きていてほしい、このような世情の真っ只中にあって、なんとか無事であってほしいとの祈りをもって向き合おうとしていたのだろう。それは「蝶みな消ゆ」の結句に蝶の不在への切迫感だけではなく、いつか蝶が再びこの空間で羽ばたくことを願う気持ちが強く感じられるからである。だが、その願いは「蝶」たちに届いていたのだろうか。「60年安保」とそれ以降の「政治の季節」に「蝶」たちが負った傷の深さを、大学の教員たる中川氏は見届けなくてはならなかったのだから。

遺影への礼ならば問え犠牲死と言いうるほどに果たしたる何   岸上大作

 あの6月15日にデモの真っ只中にいたこの学生歌人は、この年の12月にまるで闘争に殉じようとするかのような自死を遂げる。その後「60年安保」のモニュメントとしても読まれ続けていった岸上の短歌は、ジャンルは違えど定型詩に関わる中川氏のもとにも届いていたはずである。果たして傷つき倒れた「蝶」の残した短歌に一俳人としてどんな感想を持ったのかは、今からは到底計りしれないことである。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 風船を手放すここが空の岸     五千石

 第四句集『琥珀』所収。昭和五十九年作。

 『琥珀』は、昭和五十七年より平成三年まで、四十九歳から五十八歳までの作品三九二句を収録する第四句集。

     *

 掲句、センチメンタルな句である。「風船を手放す」はすでにセンチメンタルで、「ここが空の岸」というロマンティックさをも加えている。五千石は元来センチメンタルな句風であるが、素材の硬質さがバランスを保っている作品が多く、この句のように素材までセンチメンタルな句は珍しいかもしれない。

 五千石の代表句である、第一句集『田園』の〈渡り鳥みるみるわれの小さくなり〉に、目線や離脱感に通ずるものがあるが、掲句の方が現実にとどまっている感が強いように思う。それが斬新さに欠けるという感想にも成り得るところ。

 ところで「空の岸」とはどこを指すのだろうか。岸からは岸壁が想像され、その先には海が見えてくる。だがこの句はその先は「空」なのだ。空を主眼に置くと、岸はそこでもよく、まさに「ここ」が岸になるのだろう。ちなみに「風船」には「船」という字が使われていて、それも「岸」「海」を喚起させる一因になっているのかもしれない。

 いずれにしても掲句は「空の岸」という表現に加え、「ここが」という限定が有効に働いていて、この辺りが初期作の「渡り鳥」とは違う、言葉は悪いが「てだれ」的なうまさがあると思う。

     *

 この句の作句年、昭和五十九年は五千石五十一歳、主宰誌「畦」が月刊になって八年目、充実期といっていいだろう。「畦」への発表句も当初七句程度だったものが、この時期には倍増している。いわば脂ののった時期、といえるかもしれない。

 「空の岸」というようなフレーズは、他にないわけではないと思うが、この詩的表現は一歩抜け出ていると私は思う。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 見るからに呪縛の女 マルクス忌

 今までことさら取り上げてこなかった憲吉の第1句集『隠花植物』(昭和26年刊)より取り上げた。これからも取り上げる機会がないから一度ぐらいは取り上げておこうと思ったのである。『隠花植物』は昭和20年から25年までの作品を含んでいるから、制作時期はこれから推測するしかない。

 この句の季語にあたる「マルクス忌」は季語ではない。しかしマルクスの忌日(1983年3月14日)はある。草田男の「燭の灯を煙草火としつチエホフ忌」 のチエホフ忌は季語になくともチェホフの忌日(1904年7月15日)があるのと同様である。

 『隠花植物』は、昭和26年に<なだ万隠花植物刊行会>から限定120部の豪華本で世に出された句集だそうで(筆者未見)、後、31年に大雅洞より95部限定で刊行された(さらに53年に深夜叢書社から、これは部数の限定なく復刊された)。5章、わずか84句からなる句集である。ほとんど人に読ませないための句集であったのではないかと思えてならない。例えば、

 オルゴール亡母の秘密の子か僕は

 酒場やがて蝋涙と化し誰か歔欷

 汝が胸の谷間の汗や巴里祭

 妻よわが死後読め貴種流離譚

などの一応人口に膾炙した憲吉の句は、『楠本憲吉集』(昭和42年刊)になって出てくるから、『隠花植物』は句集の名前のみ有名でほとんど句は知られていないと言ってよいのだ。のみならず、<なだ万隠花植物刊行会>刊の『隠花植物』は表題が『陰花植物』となっているのも不思議である。ほとんど句集『隠花植物』は、『隠花植物』という題名のためにだけ存在する句集といっても良いかもしれない(詩人菱山修三も序文でこの句集名を褒めている)。

 また、この句からもわかるように『隠花植物』は収録句の半ばが無季の句である。季語のように見えながら季語ではない言葉も多い。この句で言えば、ただ、マルクスの忌日だから春だろうと推測するばかりなのだ。おそらく師の草城から受けた新興俳句の匂いを最も濃く残していた時期であったろう。

 有季から無季へ、難解な句から平明通俗な句へと変わったが、「見るからに呪縛の女」で分かるとおり女性に対する見方は少しも変わらない(マルクスには愛人がいたというから存外無縁な忌日ではないかもしれない)。

 ちなみに、『隠花植物』時代に柴山節子と結婚する。昭和22年25歳のことである。

 光る靴踏むや瓦礫のわが華燭

 これ以後、憲吉の句集は妻との葛藤に満ちた俳句が満載される。虚々実々の妻との駆け引き、騙し合い、憎み合い、自己憐憫、軽蔑、畏怖、愛情と、まさに圧巻の句集となっているのである。夫婦の機微をこれほどあからさまに述べた句集は例を見ないだろう。これが全て事実とは思えないが、これから結婚を考える人に是非勧めたい句集なのである。しかし結婚する気がなくなっても当方は責任を負わないからそのつもりで。(女性の専門家とみられていた憲吉は、前号に載せた本『女ひとりの幸はあるか』『結婚読本』『女が美的に見えるとき』以外にも、『それでも女房はコワイ』『メオトロジー』『悪女のすすめ』『女性と趣味』『花嫁を走らせないで・・・楠本憲吉結婚読本』『かあちゃん教育』『産報版・源氏物語』『現代ママ気質』『娘たちに与える本』『女色・酒色・旅色』などを出している)。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 釘買って出る百貨店西東忌

 世の中には常識外の行動で美談となる人がいる。敏雄の先師・西東三鬼もそのひとりだろう。「自由奔放」「放浪者」「モダニスト」「エトランゼ」「ニヒリスト」など三鬼を表現する言葉は限りない。生前の三鬼と敏雄の関わりは、渡邊白泉の斡旋によりはじまり敏雄18から41歳、三鬼が鬼籍に入るまで続いた。西東忌は、四月一日である。

 掲句は三鬼への先師追慕であるとともに愛憎と客観がある。三鬼を言い当てるような「百貨店」、「西」と「東」に距離を置く「西東忌」、何故「釘」を買って飄々としているのか、そこに心情が伺える。

 掲句から直ちに連想したのは、映画『復習するは我にあり』(公開:1979年、監督:今村昌平、原作:佐木隆三)である。殺人鬼・榎津巌(緒形拳)が雑司ヶ谷の薄暗いアパートの洋ダンスに、老弁護士(加藤嘉)の屍体を閉じ込め、自分の頸をネクタイで絞めるしぐさをする。そして、タンスを封じるための釘と金槌を商店街に買いに行く。どこか清々しい顏をしている。『復習するは我にあり』はキリスト教の言葉である。新約聖書の「悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう」という意味であるらしい。

『まぼろしの鱶』後記

 当時、傍目には華麗な三鬼の、それ故に無慙な実生活振りは、具体性をもって、私の魂の避難港として在った。

 三鬼が商売に失敗したり、突然神戸へ移転したり、俳句以外のさまざまな武勇伝(例えば神戸の遊郭をツケ払いで遊ぶなど)が本当の悪だったかは、敏雄自身にしかわからないが、三鬼作品が「悪意に満ちた美」であることはわかる。「釘」は、少なくとも三鬼作品を表現するに的を射ているし、そこにキリスト教的暗喩が感じられるのは確かである。更に、釘を買ってどうするのかということになれば、書かれてない「金槌」は、既にあると読め(神が金槌を振り降ろすのかもしれない)、没後の西東三鬼の行く末を自ら背負おうという所作に読める。

 故に、敏雄が大工ヨゼフになろうと決意の上、バーニーズニューヨークから出てきた、という光景である。百貨店ならば、例え五寸釘、犬釘であろうとも取り寄せ可能である。

 聖燭祭工人ヨゼフ我が愛す 西東三鬼

 上掲句対する敏雄のシニカルな呼応でもあるだろう。弟子になりたいと訪ねた白泉に三鬼のところへ行くよう薦められ、そのまま三鬼の身辺に渡る関係がはじまった。敏雄の才能、人格、存在の全てを真っ先に三鬼から愛されたのである。男同志のドラマ(私淑の白泉との三角関係も含め)がある。掲句は、西東忌四月一日はエイプリルフールであることも不思議な句である。

 掲句は第一句集『まぼろしの鱶』に収められ、三鬼の祥月命日、1965(昭和四一)年四月一日に上梓された。敏雄は、三鬼没後十年に『西東三鬼全句集』(*1)の刊行に尽力した。まさに釘の集大成かもしれない。


*1)『西東三鬼全句集』(1971年・都市出版社、編集:三橋敏雄・鈴木六林男・大高弘達、監修:平畑静塔・三谷昭)、更に補強版の『西東三鬼全句集』(1983年・沖積舎、編集:三橋敏雄)を敏雄単独で編集。


●―13成田千空の句/深谷義紀

 妻の眉目春の竃は火を得たり

 第1句集「地霊」所収。

 昭和26年、千空は石塚市子と結婚する。その折のことを、後に千空は次のように述懐する。

 従弟と暮らした、鍋釜があるだけの所に来てくれた妻でした。めんこくてどうしようもありませんでした。

(「俳句は歓びの文学」成田千空著・角川学芸出版刊 より)

 前年、千空は帰農生活を切り上げて、五所川原市内に移り、従弟と小さな書店を開いた。これは、千空自身が開墾地での孤独な生活状況から脱却する必要を感じたからでもあった。店の経営自体は繁盛するまでには至らなかったものの、市内の文学青年や若い絵描きなどが集まり、さながら文化サロンのような状況を呈したというから、その意味では所期の目的を達したと言えるだろう。上記の千空の述懐にある「従弟と暮らした、鍋釜があるだけの所」とは、この書店兼住居をさす。

 掲句は、新婚直後の作品である。折りしも季節は春。まさに妻を娶った喜びが率直に現れている。

 実はこの結婚後間もない時期に、千空が生涯の師と仰ぐ中村草田男が地元新聞社の招きで青森を訪れている。千空は草田男に一週間同行し、その謦咳に接した。その折、互いの妻のことに話が及び、千空が「新婚なのに時々諍いをしてしまう」とこぼしたところ、草田男は「喧嘩をしない夫婦は夫婦ではない」と強い口調で語ったという。次に掲げるのは、千空がその草田男を詠んだ句である。

 妻を語る秋栗色の大きな眼   「地霊」

 愛情ある家庭を共に築く妻と信頼しうる師。その双方を得た千空の作品は、この時期以降、さらに充実の度を増していく。そして昭和28年には第1回萬緑賞を受賞し、青森俳壇を大いに勇気付けた。わけても当時青森高校の生徒だった寺山修司は大いに衝撃を受け、それを越えなければならないと語り、さらに熱心に俳句に打ち込んだと言う。


●ー14中村苑子の句  【『水妖詞館』―― あの世とこの世の近代女性精神詩】33.34.35.36/吉村毬子

2014年8月29日

33 翔びすぎて墳墓の森を見失ふ

 苑子の眠る冨士霊園に二つの墓碑が並んでいる。

 わが尽忠は 俳句かな       (重信) 

 わが墓を止り木とせよ春の鳥    (苑子)

 この墓の購入手続きをしたのは『水妖詞館』が刊行された昭和50年の後の昭和56年頃であるから、冨士霊園のことを踏まえた句ではないだろう。

 墳墓は先祖代々の墓、またはその土地に当たるが、苑子の生まれ育った伊豆から望む天城山や箱根連山などの森を思い浮かべることもできるし、父方は、蝦夷地の出身らしいので、その遠い北の森を詠んでいるとも解釈することができるだろう。

 いずれにしても「翔びすぎて」「見失ふ」のだ。大空を飛翔する姿があり、「森を見失ふ」くらいな飛翔の高さが描かれ、鳥瞰図的な視点から一句を仕立てている。青く拡がる大空と緑の森の色彩感の美しさに心を奪われるけれども、天空から見降ろすかけがえのない遠祖の魂の息衝く故郷を「見失ふ」。より高く、より速く翔ぶ自身の加速は止められなくなってしまったのだ。

 苑子が故郷伊豆へは、ほとんど帰らずに俳句の世界に骨を埋める覚悟で切磋琢磨していた頃の作品であろう。俳句というよりも、肺病、戦争、夫の戦死、二人の子を持つ寡婦としての戦後、俳句評論発行所の運営、作句行為と、駈け足で生き抜いた人生に、ある日ふと過(よぎ)った思いとも考えられる。

 しかし、「墳墓の森」、それは俳句そのものを指しているようでもある。

 『水妖詞館』に収められた生と死を往来する、詩的飛躍を昇りつめていくことは、その当時の苑子の希いではある筈だけれども、ふと静謐な抒情を求めていた頃を思い出したりすることもあったのではないか――。

 最後の句集『花隠れ』の前半に初期編を入れ、後半は来し方や余命への落ち着いた句が並べられていること。そして、生前のある日、「俳句は文芸です。文学ではありません。」と静かに語った一言を、私は思い出したりすることがある。

 

34 鈴が鳴るいつも日暮れの水の中

 もう20年も前になるだろうか。英文の小冊子を苑子が取り出して、掲句が英訳されて載っているのだが、句意と合っているか見て欲しいと言った。私は、英語が不得手であったが、私にも理解できそうであったため、「だいたい合っています。」と答えたのだが……。

 掲句は、人口に膾炙した句であり、苑子も気に入っていたようだ。英訳されたことが嬉しそうであった。

 この句について、「十句自註」の中で書いている文章がある。(『現代女流俳句全集第4卷』昭和56年、講談社)

 ある初秋の日、印旛沼で舟遊びをしていた。舟べりから冷たい水の中に掌を入れて心を澄ましていると、沼の水と自分の胎内の水とが呼応するのか、指先がりんりんと鳴って痺れるような感じがした。なおもその儘にしていると、あたかも水底に沈んでいる鈴のひびきが、何ごとかを指先から私に伝えているのではないかと思った。身を乗り出して深い沼の中を覗いてみると、秋の真昼なのに、水の中は日暮れのような昏ら((ママ))さにしんしんと静もっており、私はこのまま水の中に吸われてもいいような気持ちになった。(昭和四十八年作)

 この文章によると「いつも」は〈日暮れになるといつも〉ではなく、〈真昼なのに、水の中は日暮れのような昏さ〉なので、何時(なんどき)でもの「いつも」の表記ということが解る。要するに、〈水の中は、いつも日暮れのようである〉という自解である。この文章を読むまでは〈日暮れになるといつも水の中で鈴が鳴る〉と理解していたので例の英訳が、本当に良い訳であったのか、申し訳ない気持がする。

 面妖な句ではあるが、しんとした透明感が一句を包むのは、水の中の夜の暗闇ではない「日暮れ」という哀愁が持つ色とイメージによるものであろう。また、鈴の奏でる純粋な高音が水中に揺れ震えているためでもある。こういった、誰にでも聴こえるものでは無い音(ある者は、夜明け前に聴く物の怪の遠吠えであるし、またある者には深夜の葉擦れの隙間に聴く声)が、苑子には聴こえるのである。

 自註によれば、「初秋の」「秋の真昼」ではあるが、その後、日暮れになると「印旛沼」の水中で感じたあの鈴の音を聴いているように思われる。前句「翔びすぎて墳墓の森を見失ふ」の自嘲にも似た呟きが、さらに心の深奧にひたひたと水を張り、今日という一日が暮れゆく時、原始の水が本当の自分を呼び覚まし、彼女を包容していたのではないか。

 苑子は、ただ、鈴の音を淡々と聴いているだけであるが、水底に棲むもの達との交感の儀式のようでもある。自註文にも書かれているように、いつしか、自身も静かに水中へ溶け入ってしまいそうになる予兆を感じさせる、生死の境界が揺曳する句である。


35 一ト日より二タ日に継ぐは白眼ばかり

  『水妖詞館』全139句の中で此の句が一番難解な句であるかも知れない。初見では、訳の解らぬ怖さに怯えるだけであった。(倉阪鬼一郎氏の著書『怖い俳句』には揚げられていなかったが……)下五の「白眼ばかり」の表記から、上五中七へと円環されるほど、「白眼」のことのみを詠っているような妖気を感じるばかりであり、白眼がクローズアップされる絵画や映像が浮かんでくるのであった。

 しかし、ある日、〈白眼で見る〉という言葉に思い至ったのである。冷たい眼で見る、という軽蔑が表われている意味であるが、広辞苑を引くと、晋の国の阮(げん)籍(せき)と云う人が気に入らない人を見る時は上目使いをして、白眼を見せたことから、この語ができたらしく、〈白眼〉は〈にらみ〉とも読む。隠語大辞典には〈月影=月の姿〉という意味もあるが、軽蔑を含む冷たい眼で見られるという句意だとしたら、絵画や映像の怖さどころではない。「一ト日」終日から「二タ日」次の日へと続く冷たい眼ばかりに囲まれて毎日を過ごすということである。

 生きるという事、俳句を書くという事、その継続のためには、それらの冷ややかな視線から逃がれられないということか……。

 33「墳墓の森を見失ふ」まで懸命に歳月を重ねる蔭には、あらゆる困難に毅然とした態度でいなければならないのだが、痩身が悪風に吹き飛ばされ、身を晒されることもあるだろう。かつて台所俳句と呼ばれた社会的、俳壇的に煙たがられない女流句を脱いで、杉田久女や、橋本多佳子、三橋鷹女らが、男性陣の中で鍛錬し、新しい女流俳句を書き続けてきたことは、現在の俳句界からは考えられない苦難があったであろう。苑子が三橋鷹女を師と仰いだのは周知であるが、久女を尊敬し、長野県松本市に分骨された墓へも参っている。(私は、久女も勉強しなさいと言われていた。)

 女流俳句が近代まで創造的進化を遂げてきたことは、先達の女流俳人達の努力であることを語っていた苑子もまた、現代の女流俳句を形作った俳人の一人であることを、此の句を読む度に痛感せざるを得ないのである。


36 つひに碑となる田舎紳士と野菊佇ち

 碑とは句碑であろうか。徳富蘇峰の奨励したイギリスの地方郷神である「田舎紳士」などを思い浮かべ、その「田舎紳士」なる俳人の句碑が建立され、傍らに野菊が咲いている、という解釈にも成り得るのだが……。

 前句の難解さとは逆に、解りやすい表記で書かれているだけに、表面的に言葉を理解して納得するには物足りなさを感じる句である。まして1頁に前句〈一ト日より二タ日に継ぐは白眼ばかり〉と並べられている意味を思考すれば、そのような解釈に結論付けるのはあまりに短絡的すぎる。

 25年間の句業を書きまとめた句集の編集、構成には苑子なりの思惑がある筈である。

  「つひに」は、〈とうとう、しまいには、結局〉の一般的な意味だけではなく〈ツユヒ=衰える、潰れる〉と同源の意の一説もある。そうすると「碑となる」は、長逝してしまったことのようにも思えるし、「碑」が死後も故郷に錦を飾るひとつの証であるとすれば、「田舎紳士」が華やかに名を馳せた都会を離れて、隠遁したかの如く故郷に帰ったともとれる。

 没したのか、戻ったのか、どちらにしても「田舎紳士」の里へ行ってしまったきりもう逢うこともなくなったのだと推察される。

 「野菊佇ち」から「野菊」も花ではなく、伊藤左千夫の『野菊の墓』のような、素朴で可憐な「田舎紳士」とよくお似合いの女人と思われる。

 やはり冒頭の解釈から発展のない主旨に落ち着いてしまうのだが、試みにロマン的イロニーの効いた句だと鑑賞しながら、「田舎紳士」が前句の「白眼ばかり」の一人だとしたら此の句もまた怖い句と言えるかも知れない。

2025年8月22日金曜日

【連載】現代評論研究:第13回各論―テーマ:「冬」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(投稿日:2011年10月28日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 しんしん雪 荷造りされた私の骨が

 しんしん雪 荷造りされた私の骨が

 しんしん雪 荷造りされた私の骨が

 しんしん雪 荷造りされた私の骨が

 「ケイノスケ句抄」(注①)所収の昭和56年の作である。ただこの句には「雪のうた」という題があり、しかもこの全く同じフレーズが四行にわたって表記されている。この句集に於いてこの様な表記がされた例は他に「砂丘へ誰が菜の花をすてたのか」の三行表記があるのみである。「砂丘へ・・・」の句の場合は、その句の前提として「果実をおく 砂丘の時間匂う」「砂丘のなか残響が 月に海に私」の句が据えられており、その三行句の後にも「幻想空間砂丘におれが墜ちてゆく」の句が置かれており、これ等砂丘の連作の中での時間の流れの一つの休止的な役割を果たしていると見て理解出来る。しかるに掲句の場合は全く単独に置かれており、作者としてはかなり意識した構成となっている。所謂、句集という形態の中でこの様な表記を行うことは高柳重信の多行表記とは又異なる位置と目的とを示すものと考えられよう。この同じフレーズの四行表記が示すものは、自画像が降り積もる雪のごとく次々と自問自答してゆく様ではないであろうか。そして私の骨から逆想された世界を故郷の金沢に見い出しているのではないであろうか。この様な思いは後年、下記のような句となって再出していく。

 肉が骨が無防備 冬銀河   平成7年作

 冬銀河の前では人間という私という存在がいかに小さく無防備なことよ、と呟いているかの様である。そして人生という肉から骨への時間的な経過も、この壮大な宇宙時間の中では認識され得ないものの如くに。

 心象風景としての冬の自画像としては下記のような作品もある。

 自画像の黒い目の奥の雪の風車     昭和30年作   注①

 自画像の顔の左右分離して雪の風車   昭和40年作   注①

 この自画像と雪の風車とは相対峙する存在なのであろう。黒い目の奥にある雪の風車とは、それによって起こされる吹雪の為に視界を妨げるものであり、その目の黒と雪の白との対比も併せ持っていよう。また、顔が左右分離するほどの風圧は自意識の分裂さへも示唆しているのではないであろうか。

 講義は続いている テキストに冬蝶が止まって  昭和51年作  注①

 美学とノオトの無い肖像。中国山系葉がふる   昭和52年作  注①

 幹の内部わたしが冬へ傾く           昭和58年作  注①

この講義とノオトは現実のものではなく、社会に於ける人生そのものの背景を暗示しており、冬蝶への一瞥はその中でのひと時の安らぎと疑問符かもしれない。また前句は画家としてのデッサン力を上手く生かしており、それは後二句の実景描写から導き出された美意識と心象風景へと還元されてもいるのである。

 冬の実よ 異郷にきて噛む一つ    平成3年作   注②

 家族に噛みついた死者よ 冬野よ   平成6年作   注②

 異郷ゆえに噛みしめる冬の実の固さ、そのしみじみとした味わいが孤独感を深くするようだ。一つは独りに連なり沈潜してゆく趣がある。

 この死者の過去世は如何なるものであったのか。家族に噛みつくという行為はある種の反抗であり、しがみつきでもある。それ故に冬野は冷徹な判者でもある。

 再び掲句に戻るが、この様な表記法からはやはり詩人としての圭之介の面が押し出されてくる。最後にテーマにそった詩1篇を。


 「冬の街」   昭和27年作  注③

 街の坂をおりてゆく

 港はくれ早く

 下方の白い建物の地下は

 キャバレーである

 無数のうでが人体に生え

 おんなの媚態を

 くうきがあやうくささえる

 地上では寒い風が

 骨のような木をささえる


注①「ケイノスケ句抄」 近木圭之介 層雲社 昭和61年刊

注②「層雲自由律二〇〇〇年句集」合同句集 層雲自由律の会 平成12年刊

注③「近木圭之介詩抄」 近木圭之介 私家版 昭和60年刊


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 短日や灯ともし頃の小買物  句帳より

 昭和12年と16年のきくのの句帳が手許にある。といっても、メモ書きのそれではなく、12年は改造社版の俳句日記、16年は和紙綴じの美しい一冊で、どれも完成した作品が並んでいるため、投句の際の覚書と思われる。俳句の前には「一月六日渋沢邸句会」「六月一日特急アジア」など出席した句会や、旅吟の場所などが書かれており、掲句の前には「ホトトギス 昭和16年2月号」とある。

 ホトトギス誌を確認してみると、確かに該当号の虚子選一句欄に掲句を見つけることができた。しかし、前後1年をぱらぱらとめくってみたが、この他にきくのの投句を見つけることはできなかった。

 きくのが俳句を始めて以来投句を続けていた「春蘭」は、主宰大場白水郎の満州転勤に伴い昭和15年6月号で終刊となり、同年10月に「春蘭」同人であった岡田八千代が中心となって白水郎を選者に「縷紅」が創刊された。誌名は白水郎の別号であった縷紅亭による。昭和19年1月号で休刊となる「縷紅」だが、バックナンバーが確認できるのは昭和17年8月号、18年8月号、9月号の3冊きりである。昭和18年9月号にはきくのの住まいが投句先として表示されている。

 ホトトギス投句の時期は、「春蘭」終刊後、「縷紅」と並走してということになる。

 ホトトギスとの関係は、白水郎も、のちに所属する「春燈」の主宰になる万太郎も、ホトトギス題詠選者岡本癖三酔が指導する三田句会に属していたこともあり、きくのが「ホトトギス」に目を向けたとしても別段不思議はない。

 しかし、ホトトギス掲載の前後の作品を並べてみると、昭和15年「春蘭」3月号には

 初髪に觸るる暖簾ットかはし

 「ット」はひょいとかわす態であろう。この自在な言語感覚!

 また昭和17年8月号「縷紅」には

 藻の花や相觸れし手のただならず

 藻の花やなんにも云はず別れませう

と、正調きくの節ともいえる作品が並ぶ。

 冒頭挙げた「ホトトギス」掲載の句に立ち現れる柔順な女性像もまたきくの自身であることは間違いないが、それでも1号限りでホトトギス投句をあきらめたのは正解だったのでは、と愚考する。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 寒風のむすびめごとの雀かな

 昭和50年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 〈寒風〉というと肌の細胞がキュッと引き締まる感じの風。その寒風には〈むすびめ〉があり、その〈むすびめごと〉に〈雀〉がいるという。ふつう風は直線的に吹き抜けてゆくものと思っているが、実は〈むすびめ〉がある、という発見が、この句のユニークさだろう。おそらく、その〈むすびめ〉は風が休息する場所なのだ。そこを目ざとく見つけて、集まっている雀たち。よくみれば、雀は点在している。おそらく、そこにも〈寒風のむすびめ〉があるのだろう。その〈むすびめごと〉に〈雀〉が身を寄せ合っている。ぬくもりをさがすのに長けた雀ならではの振る舞い。一点凝視で〈むすびめ〉を発見した作者の視野が、〈雀〉の補助線を得て、ひろがってゆく。〈ごとの〉の措辞に作者の認識の深まりが凝縮されている。見逃しがちな雀の生態を空間的に把握しながら、〈寒風〉によって温度感をも伝達させている。寒風の冷たさと雀のぬくもりを優しい視線で手渡してくれた秀句。

 掲句と同様に、冬の厳しさの中で息づく生き物たちをモチーフにした句をいくつかみていこう。最初に鳥の句を次に魚の句の順。

 玄冬の鷹鉄片のごときかな 昭和16年作

 つぎはぎの水を台(うてな)に浮寝鴨 昭和48年作

 すさまじき垂直にして鶴佇てり 昭和49年作

 凍鶴に寸の日差しも来ずなりぬ 昭和54年作

 氷下魚(かんかい)は夢見るごとく釣らけれる   昭和47年作

 動かぬが修羅となるなり寒の鯉 昭和50年作

 一句目は、初期の齋藤玄の代表句のひとつ。厳寒の空を突き破らんばかりに飛翔する鷹の姿を鉄片に喩え、自己と重ねている。「壺」を創刊した翌年の作。当時は「京大俳句」時代からの俳号、齋藤三樹雄を名乗っていた。「音の句」の項でも書いたが、いわゆる新興俳句弾圧事件を背景とした青年の鬱屈と自由への憧憬に満ちた青春性を湛えた秀句。

 二句目は、結社同人間の政治的な振る舞いに疲弊して、長らく俳壇から遠ざかり、個人誌を出していた玄が「壺」を復刊した年の句。昭和50年刊行の『狩眼』および全句集の表記に従ったが、昭和53年刊行の自註(*2)では、下五を〈浮寝鳥〉と改変している。〈つぎはぎの水〉を才智とみるか、凝視とみるかで評価は分かれるだろう。私は〈台〉の一語で、〈つぎはぎの水〉が浮寝する水鳥の不安定さを射抜いているように思うが、いかがだろうか。

 三句目の〈鶴〉は、一句目の鷹とは対照的に空から舞い降りて、大地に降り立った姿を詠んでいる。テレビを通して、世界中の動物の姿態を観てきた我々の目からすると〈垂直にして〉がやや安易に思える。だが、作句年次を考えると一般家庭におけるテレビの普及率はまだそれほどでもなかったはずだ。厳寒の北海道の丹頂鶴を実際に見た者でなければ〈垂直にして〉は出てこない。雪原の広さも見えてくる。

 四句目は句集『雁道』を刊行した昭和54年の冬の作。遺句集『無畔』に収録。〈寸の日差しも来ず〉の措辞に雪に覆われてほの暗い天空を仰ぎつつ佇つ〈凍鶴〉の姿がありありと浮かび上がる。

 五句目の〈氷下魚(かんかい)〉は「こまい」の北海道における呼称。海面の氷に穴を開けて釣る。氷下魚の稚魚は目の周りがほんのりとピンク色に染まっており可愛らしい。〈夢見るごとく〉によって、氷の穴から釣り上げられたばかりの氷下魚の姿を活写している。

 六句目は、水底に魚体を沈めてじっと動かない姿から〈寒の鯉〉の執念を読み取っている点に特徴がある。動きたいが動けない、鯉と水との相克を、〈動かぬが修羅となる〉とした措辞に玄の底知れない独創性を感じる。

 今まで見てきたように冬の生き物を詠んだ玄の句は、的確に季覚と空間をとらえており、そこに卓抜した凝視の力と景物の情感に甘んじない、堪え性の強さを感じる。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 カレンダー配るやさしく打つ真似して

 『山姿水情』(1981年)所収の句。

 師走になると、新しいカレンダーが刷り上がり、取引先や社員に配られる。フォトジェニックなモデルを起用した大判ポスター風のもの、コンパクトで実用的な卓上型、花鳥画をあしらった掛け軸タイプなど意匠も仕様も千差万別である。経費節減の近年、たとえ部数はぐんと絞られても、相手先の自宅や職場で社名や商品名を長期間継続的に露出できるカレンダーは、手頃な宣伝物として依然重宝なアイテムなのだ。

 葦男の第四句集『山紫水情』は1975年から1979年までの作品を収録する。日本経済が第1次オイルショックの苦境を脱し、再び成長軌道に乗った頃である。当時、歳末の挨拶として今よりずっと多くのカレンダーが流通していた。葦男は繊維業界の団体に勤務していたから、職場には服地メーカーやアパレルメーカーのものも届いたはずだ。最新モードに身を包んだファッションモデルたちが颯爽と闊歩する華やかな意匠。丸めたカレンダーで相手の肩をぽんと打つゼスチュアからは、美しいものに感応した女性職員の心の弾みのようなものが伝わってくる。

 それにしても何と明るく軽妙なスケッチであろう。過去に葦男が描いた職場風景からはおよそ想像もつかない明るさと軽やかさである。比較のため、第一句集『火づくり』最終章「火の章」から引いた次の10句を見て頂きたい。

 動乱買われる 俺も剃り跡青い仲間

 信に遠きことばかり鉛筆の濃緑削ぐ

 午前の憤(いか)り首大の球壁へ打つ

 夜は墓の青さで部長課長の椅子

 事務の波間に黒の無言の島沈む

 靴の中の指らの主張寒い会議

 見えない階段見える肝臓印鑑滲む

 ある日全課員白い耳栓こちら向きに

 リコピー書類他を焦がす汚染する友情

 揉み捨て鳴るセロフアン空席者の意見

 1956年から1962年にかけて、40代前半の葦男が描き出した職場風景はこのように陰鬱極まりないものであった。動乱を商機とする背信の日々。上司や同僚、部下との間に育つ疎外感。そして、組織の中で汚れ、疲れゆく個。葦男は職場の日常の随所に露頭を見せる「極限状況」にとことん向き合っていたのである。この間の消息については、以下の金子兜太の評語に譲るのが良いであろう。

 葦男の感性にある暗さ(中略)が批評意識によって刺激されて募りつつ、批評をより暗鬱に盛り上げていくことにもなって、こうした作品がつくり出されたことは間違いない。当時の社会情勢に向って意識的に批評的に自己表現しようとするとき、誠実な人柄だけに過剰反応していて、その結果のことといえなくもない。

(遺句集『過客』序 1996年)

 まったくの余談ながら、東宝映画の社長シリーズ第1作『へそくり社長』(森繁久彌主演)が公開されたのは1956年、同じく東宝のドル箱となったクレージー映画第1作『ニッポン無責任時代』(植木等主演)が公開されたのは1962年のことである。これらの娯楽映画と葦男の作品が同時代のサラリーマン社会の空気を背景に生み出されていることは確認しておいても良いかもしれない。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 喋るより黙しがちなる凍鶴忌  小寺正三

 初出は「青玄」1957年(昭和32)8月号、「草城一周忌追悼作品」のうちの一句、

 この特集には同人90名のそれぞれ一句が掲載。季語として用いられた「凍鶴忌」とは、日野草城の命日である1956年(昭和31)1月29日のこと。

 草城と「鶴」といえば代表作である「高熱の鶴青空を漂へり」をはじめとした作品の数々が思い出されるが(第2回で取り上げて鑑賞しているのでご参照いただければ)、この一周忌へ向けて草城の命日を修するにふさわしい言葉として、俳号をそのまま使った「草城忌」、最後の句集のタイトルから取られた「銀忌」(しろがねき、ひらがなでの使用例もあり)とともに、「凍鶴忌」と「鶴唳忌」という草城と「鶴」のイメージから生まれたふたつの語があったのだが、この追悼特集では「凍鶴忌」が多く用いられたのに対して、「鶴唳忌」は八幡城太郎が「鶴唳忌夜雨がありし土やはらか」の一句のみ。「青玄」誌の中での定着の度合いに大きな差が出ているのがうかがえる結果となった。ちなみに「草城忌」の句においても「鶴」のイメージを背景にした作品がいくつか見られるので、合わせて引用してみる。

 かの微笑まざまざとあり凍鶴忌    日野晏子

 凍鶴忌とて美しい火を囲む      伊丹公子

 酔はぬ酒に想ふ凍鶴忌といふことを  播本清隆

 天より鶴の羽音高鳴り草城忌     板垣鋭太郎

 ねんねこの鶴の模様や草城忌     平井石竜

 ではなぜ「凍鶴」が「鶴唳」より受け入れられたのだろうか、と考えてみたい。草城の「鶴」の句は高熱の身体を空を漂わせている、天高く飛べない己への嘆きに溢れているかのような姿を見せており、「凍鶴」の静かさの極まる立ち姿とはどこか違う存在であるはずで、「鶴唳」のほうがふさわしいと思えるくらいでもある。だが「青玄」誌の同人たちが抱いた草城のイメージはどうやら空高く鳴き交わす鶴ではなく、細い脚を貼り付けているかのように地に付けて、厳しい冷気の真っ只中に立ち尽くす「凍鶴」であった、ということなのだろう。そこには戦前の才気を前面に押し出した作品群から来る華やかさと、戦後の病床での生活によってもたらされた沈静に満ちた作品群とままならない身体と俳人としての活動への不如意の部分、そのどちらをも抱え込んだひとりの俳人の命日を修する語としては「凍鶴」は「鶴唳」より確かにふさわしく思われたのだろう。

 掲出句はそんな「凍鶴忌」の印象が充分に生かされた一句である。「喋るより黙しがち」なのは師の命日を迎えた自分自身であり、同じようにこの日を迎えた弟子たちであり、そして亡き師の家族であろうが、亡き師もまた「喋るより黙しがち」な人であったことよ、との感慨も深く一句には込められている、亡き師は病の痛みも生活の苦しみも創作の苦悶も、それら一切の何もかもを引き受け、嘆きの数々をけっして見せようはせず、静かに微笑んでいた人だったのだと。草城との日々の記憶が鮮やかに残るなかでの追悼の一句として、草城の静かなる立ち姿を見届けたひとりである正三は「喋るより黙しがち」以上のことを喋らないように何とか踏みとどまっている、それこそが師である草城の忌を修するにもっともふさわしい態度であると自らに言い聞かせているかのように。

 最後にもうひとり「凍鶴」の句を紹介したい、作者は草城の第2句集「青芝」の扉に登場する愛娘の温子さん、この頃「青玄」の一員であった。父から句集の冒頭に「温子よ はやく 大きくおなり/ちよこちよこばしりが できるやうになつたなら/青い芝の上で 鬼ごつこをしよう」と呼びかけられた娘が、いまは亡き父への想いを寄せた一句である。

 冴ゆるなり凍鶴星となりて燦    日野温子


●―9上田五千石の句/しなだしん

 剥落の氷衣の中に滝自身     五千石

 昭和五十年作。第二句集『森林』所収。

 見立てと擬人化のオンパレード、かなりしつこい句ではある。 

 凍滝にかかる「剥落」は見立てであり、「滝自身」は滝の擬人化と言えるだろう。そして極めつけは「氷衣」だ。これは「ひょうい」と読ませる造語らしい。ただこの「氷衣」、強引な語彙ではあるが自然に受取れなくもなく、音では「憑依」も感じさせて、この句では面白い効果を生んでいる。こういうしつこい句、私は嫌いではないのだ。

     *

 この句は、冬の滝を詠んだ連作と思しき四句の最初の一句で、他に、

 凍滝の膝折るごとく崩れけり

 氷結の戻らねば滝やつれたり

 涸滝をいのちと祀る三戸はも

が続いている。最後の句は「涸滝」であるから、一連とは云えないか―。

 五千石の句集には地名をはじめとする前書のある句が割合多く、この『森林』もそれに洩れないが、掲句を含む連作には前書は無い。『上田五千石全句集』(*2)の「『森林』補遺」のこの時期には当該句の掲載がないことから、この関連はこの四句がすべてと推測される。このことから、これらがどこで詠まれた句かは定かでなく、吟行の際の即吟ではないように思われるが、「凍滝」等の題詠だという証拠も無い。

 この句の制作年、昭和五十年は、昭和四十八年にはじまった「畦〈通信〉」が正式に「畦」として月刊誌となった年にあたる。言えば「畦」が活発に活動していた時期であろうし、五千石自身もスランプから脱し、吟行やもちろん題詠句会などに精力的に動いていた時期であろう。この精力的な時期に生まれた、精力的な句、ということになろうか。

     *

 以前、私は北海道知床で、素晴らしい凍滝を見た。そのとき、自然が創り出した造形を前に私は言葉をなくし、ただの一句も詠むことができなかった。掲句はどこの凍滝か不明だが、その荘厳な凍滝の様をまざまざと思い起こすことができる。

 五千石の句としてはあまり表に出てこない作品であるが、冬の「凍滝」の句として、私の愛誦句となっている。


*1 『森林』 昭和五十三年十月十日 牧羊社刊

*2 『上田五千五全句集』 平成十五年九月二日 富士見書房刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 昭和57年12月という時点は、憲吉を見ると面白い時期である。この月、健吉は還暦を迎える(26日が誕生日)。

 その1か月前から弱気な句があふれる。

 寒く剃り寒く呟やく「還暦か」

 自鳴鐘カンレキといま零時打つ

 冬灯ちりばめK氏遺愛のボールペン

12月になると、

 多岐多雑多弁多職で今年も昏る

 更けて柚子湯に恋潰すごと柚子潰す

 いつも冬愁苔を撫でれば苔妻めき

 師走二十六日いま死ねば憲吉忌 炎ゆ冬バラ

 死ねば野分が葬送してくれるか君らの怨歌

 一見反省に満ち満ちているようだ。ちなみに、「死ねば野分」は加藤楸邨の「死ねば野分生きてゐしかば争へり」を借用したもの。憲吉にはこの類が多い、自分他人を問わず洒落た文句は共用と考えていたようだ。それでも、六十歳という節目の年は憲吉も粛然とする思いを抱かないではいられなかったのだろう。

 しかし、性懲りのないのが憲吉という人。

 ハンドバックは男のポケット愛経て恋

 ポインセチアの緋が訴える遅き帰宅

 同時期にこんな句を詠んでいるし、翌年には、

 島擁く港私を繋ぐあなたは虹

 街は傘咲かせあなたはオベリスク

 窓に虹のけぞる七彩 女体も亦

と憲吉調が絶好調である。さて話を戻して、

 多岐多雑多弁多職で今年も昏る

を裏付ける活動を上げてみよう。

 『春の百花譜』『食は「灘萬」にあり』『美味求心』『女ひとりの幸はあるか』『みそ汁礼讃』『会社の冠婚葬祭』『食べる楽しみ・旅する楽しみ』『洒落た話のタネ本』『東京いい店うまい店』『結婚読本』『女が美的に見えるとき』『言いにくい、困ったときの話し方』『全国寺社めぐり』『味のある話』『手紙上手になる本』などなど。この1~2年書いた本であるが俳句関係はほとんどない。おそらく憲吉がすっかり吹っ切れた時期がこの年であったのではないか。シニカルながら安住の地を見つけた楽しさがある。

 以上すべて『方壺集』。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 こがらしや壁の中から藁がとぶ

 冬が来る。突風がごうごうと凄まじく吹き渡り戸を叩く。何かが飛んでいく音がする。疾風の中に藁が混じって飛んでいくのである。土壁の中にある藁である。壁の中で粘土に混ぜられ埋め込まれている藁が飛ぶのだから通常ではありえない風景であり、超現実的(シュール)と言える句だと思った。街が荒野となり、心の荒び、あるいは叫びのようなものを感じる。

 「凩・木枯」は、秋の末から冬の初めにかけて吹く、強く冷たい風のことである。木を吹き枯らすものの意味がある。東京・大阪限定として「木枯らし一号」「木枯らし二号」などの冬型の気圧配置になったことを示す気象用語でもあり、風速8m/s以上の北寄りの風であるらしい。枯葉を吹き散らし擂粉木のように木を丸裸にしてしまう風。

 初めてこの句に接したとき、その発想、その創意に驚いた。時を経て、東日本大震災を契機とし、それは幻想ではなく、実景ではないかと思い始めた。北関東地区には蔵を多く持つ家が残存し、多くは土壁が剥がれ落ちる被災状態を目の当たりにする。剥落後の壁の中に確かに藁が埋め込まれている。考察するに江戸時代の藁だろうか。ドライハーブを越え植物のミイラである。壁の剥落を見ているうちに、同じような風景を敏雄も見たのではと思えてきた。句の制作年は終戦直後の昭和21年であり戦争の爪痕が激しく残っていた時代である。

 土壁は、木舞(こまい)と呼ばれる竹と藁で編んだ格子状の枠組に粘土質の土と藁スサを混ぜたものを塗り込んでいく日本の伝統工法である。竹、土、そして藁という自然の素材は製品完成後も呼吸をしている。掲句の「壁」という一見無機質な言葉に隠れているのは、「土」という粘り気のある天然素材である。「土着」「土地」というように土の上に人が暮しているのである。掲句は、家、家族の崩壊とも読めなくない。以下の句もある。

 しづかなり一家の壁の剥落は 『長濤』

 前回でも触れた、昭和21年頃の敏雄の作品には古俳句の風格漂う句をみる(*1)。敏雄26歳の枯れぶりには驚くばかりである。新興俳句弾圧の二次的な傷が古俳諧に向かわせたのだろう。同年、敏雄は渡邊白泉、阿部青鞋との再会を喜び合い、歌仙(*2)を巻いている。白泉が檜年、青鞋が木庵、そして敏雄が雉尾という俳号である。句そのものも古俳諧の趣があり、江戸の華やかさに通じる終戦の解放感がある。同じ頃、三鬼との師弟関係、今後の俳句創作について混沌とした時を過ごしていた時期とも一致する。後の昭和23-26年の4年間、敏雄は作句を中断する。

 冬の到来を告げる「こがらし」は淋しく凄まじい。山々が唸り、バケツが飛び梯子が倒れる音も、荒々しい命がそこにあるようだ。疾風とともに藁が飛びゆく音を壁の内側でひっそりと聞く人の吐息をも想像する。冬の眠りにつくものも何処かで息をしている。作句中断が敏雄における「冬の時代」ならば、その間も波の間で息をする敏雄がいる。


*1)昭和21-22年の終戦直後の作品は、三冊目の句集『青の中』に「先の鴉」と題し42句収録。上掲句は巻頭に置かれている。

*2)歌仙『谷目の巻』とし、「俳句研究」昭和22年4月号に発表。弾圧によりほぼ消滅していた句を収集し敏雄が編纂に尽力した『渡邊白泉全句集(沖積舎)』に収録。


●―13成田千空の句/深谷義紀

 仰向けに冬川流れ無一物

 第1句集「地霊」所収。

 一読、冬の津軽野の景が目に浮かんでくる。平野に川が走るが、冬涸れで水量は乏しい。そのどことなくうらぶれた様子が、当時の千空の生活状況あるいは心境と重なり合ったのだろうか。自らの姿を投影した作品とも言える。

 眼目は「仰向けに」という措辞だろう。無論、直接的には冬川の様子を上空から鳥瞰しての描写であるが、謂わば無防備に己をさらけ出した、あるいはあっけらかんと開き直ったような川の姿に、千空は、ある意味での潔さを感じ共感を覚えたのだろう。

 千空は、若き日に肺を病み、4年にわたる療養生活を送った。折りしも太平洋戦争の時期と重なる。戦後も開墾地での帰農生活を五年ほど送り、その後五所川原に小さな書店を開いた。作句当時の経済状況の詳細は不明であるが、過ぎし日に「無一物」の生活を送った自分の姿を、冬涸れの川の景に重ねても不思議はなかろう。

 その後も、決して豊かとは言えない生活が続いていた筈だが、徒にそれを哀しむわけではない。千空には、後年、次のような作品もある。

 びんばふが苦にならぬ莫迦十二月   「百光」

 こうした骨太の向日性が千空の人柄あるいは作品の魅力である。

 技法的には典型的な擬人法ということになろうが、決して安易な見立てに陥ってはいない。それは、上述のような深い共感に裏打ちされているからだと考える。

 実は、津軽でこうした光景が見られるのはそう長い期間ではない。冬が来れば、やがて雪が降り、一度降った雪は根雪になる。津軽平野は何もかも雪に覆われてしまうのである。千空が見た川の姿は、その直前の一瞬の光景でもある。


●―14中村苑子の句  【『水妖詞館』― あの世とこの世の近代女性精神詩】29.30.31.32/吉村毬子

29 まさぐる終焉手に残りしは苦蓬

 「終焉」それは死に臨むこと、今際(いまわ)ということでもあるが、あの世とこの世を行き来する女流俳人の異名を遺す苑子のその一端を掲句からも伺うことができよう。

 「まさぐる終焉」とは、死を了解し、死を探しあて弄ぶということである。私が頂いた『水妖詞館』の感動を、拙い言葉で述べた四半世紀前、それは苑子の晩年であるが、「この句集を出した頃はある病気で死ぬと思っていたのよ。」と語っていたことを思えば、自身の人生の終わりに接し、思い残すことを詠んだ句なのだと納得できるのだ。けれども、前回からの流れから察するに、恋への葛藤が描かれているような気がしてならない。

 この死は、肉体的な死にまでも至る恋の「終焉」と呼べるのではないか。しかし、それは放っておけばなるがままになり、そう苦しまなくとも済む筈であるのに、自らの手でまさぐり、終末を引き込んでいるのだ。その「まさぐる」行為が自虐を極めた後、「手に残りしは苦蓬」である。真夏の激昂する陽射しの下、強烈な臭気を放つ「苦蓬」が恋の残骸の如く己が手に残る。もはやその苦蓬は苑子にとって生薬としての効きめも失い、薄い掌の上で、無音無風の真夏の妖気にも似た臭気が立ち込めるだけである。


30 愛重たし死して開かぬ蝶の翅

 前章〈遠景〉に次句がある。

撃たれても愛のかたちに翅ひらく

 前句に蝶の翅の指摘はないけれども、此の句を意識して、念頭に置いて書かれたように思われる。

 かつて、どんなに「撃たれても」「翅ひらく」ことを念じていた「蝶」は、「愛」という名の元に「死して開かぬ」蝶であったのである。撃たれることには耐えられても、「愛」の重さに撃ちのめされ「死して」しまったのだと告げる。愛とは永遠には、見つめられない、叶えられないものなのだからと、薄い翅に支えられるほどに一刻だけの春風に舞う蝶も多いであろう。苑子の苑に棲む蝶は、その一刻にも一生命を掛けて翅がちぎれる程、舞い狂う。それは、死を招くことと解ってはいてもそうせざるを得ない性なのである。

 この両句について、苑子と話をしたことがあるが、「若い頃の句で恥ずかしい」と笑っていた。決してナルシズムの範疇を出る句ではないが、詩人は若書きにこういった句を幾つかは残しているものである。恥ずかしいとは言いながらも厳選した25年間の俳句苦業のなかの139句に入れているということは、作者にとって何がしかの思い入れがある句なのであろう。〈撃たれても愛のかたちに翅ひらく〉は、苑子がある日旅先で、此の句の短冊を見つけたと言い、「今度皆で一緒に是非観に行きましょう」とお誘いすると、「恥ずかしいわ」と、また言った。果たして、それが何処にあるのか、聴きそびれたのか、聴いたはずが忘れてしまったのか、解らず了いである。遠い遥かな処で「愛のかたちに翅ひらく」蝶が、今も確かに存在しているのである。


31 逢へばいま口中の棘疼き出す

 死まで思い至る恋愛の傷が癒えぬ内に、忘れたいのに忘れられないその顔を偶然目にすることがある。またこちらの悲哀など感じていない相手は、何の悪気もなく連絡して来たりするものである。絶望に打ちひしがれた思いを、やっと喉元へ押し込めようとしていた矢先の再会の言葉は、「口中の棘」となって「疼き出す」。言葉にならず自身を刺すどころか、目の前の相手へも口中から零れ落ち刺してしまいそうな予感さえ持つ。

 「逢へばいま」は、〝今逢ってしまったならば〟という仮定に置き換えて読んでいたのだが、何度も読み重ねるうちに〝逢ってしまった今〟という現実感として捉えた方が、緊張を伴う臨場感が伝わり、句が鮮明になってくるように思われる。

 しかし、掲句の口語体の調べに流れる一句一章は、俳句というかたちを成すが、詩や短歌の部分的な句とも差がないように思われる。むしろ、「疼き出し」と続けた七七の下の句の転換を望むのは私だけであろうか。前句からの流れの展開からすると致し方ないのであったか……。七七への欲求不満を抱えて次句への転換を見てみよう。


32 狂ひ泣きして熟練の鸚鵡をくびる

 毎回見開き2頁4句を観賞しているため、(昭和50年俳句評論社刊、初版『水妖詞館』)今回の一句目「まさぐる終焉手に残りしは苦蓬」からの流れを物語風に追えば、自虐的ではあるが、重たい恋への窶れを抱えながら、家に帰り着くと、常日頃は楽しみや慰めにもなる愛玩の鸚鵡のおしゃべりが煩わしくて、ついには殺めそうなことにもなってしまったということになる。「狂ひ泣きして」「くびる」のである。

 「熟練の鸚鵡」とは誰であろうか。前掲の句、

鈍(のろ)き詩人(うたびと)青梅あをきまま醸す

の「鈍き詩人」ではなさそうに思われるが、先にも述べたように〈鈍き=女に甘い、色におぼれやすい〉とも言える。言葉に熟練した饒舌な「鸚鵡」は無垢に見えたあの詩人ではないだろうか。


    死のまなざしの

    はにかみに

    首をかしげる 

    黒髪格子     重信「蒙塵」所収


 苑子と「俳句評論」を立ち上げ、後半生をともにした高柳重信の多行形式の一句である。俳人同志の家庭であるから(自宅が発行所でもあった)、俳句のことで議論になることも多々あった。

 この多行形式の俳句の四行目「黒髪格子」は、苑子が秘かにあたためていた造語であり、掲句は、それを重信が無断で使用してしまったため、喧嘩となったと聞く。そして、重信はお詫びにと


    中洲にて

    叢葦そよぎ

    そよぎの闇の

    残り香そよぎ   重信「蒙塵」所収


と、頭韻に〈中・叢・そ・残〉(なかむらそのこ)と名前を詠み込んだ句を作ったのだと、半ば、のろけるように笑いながら語ったことがある。

 また、重信の此の句について、随筆集『俳句礼賛』にて綴っている。


    松島(まつしま)を

    逃(に)げる

    重(おも)たい

    鸚鵡(あうむ)かな     重信『日本海軍』所収


 海防艦の「松島」は、草間(時彦)氏の鑑賞文(「俳句研究」昭和五十九年七月「高柳重信特集号」)のとおりに、わずか四千七百噸の小艦にもかかわらず、三十二サ((ママ))ンチの巨砲を積むという無謀を敢行したために、砲撃のたびごとに艦首が反動で回転し、照準が逸れてしまうというお粗末さだったが、涙ぐましいまでのその健気さを愛して巻頭に挙げた、と高柳は言っていた。しかし、おそらくそれだけではなかったであろう。折りにふれては僕は現代の芭蕉だなどと冗談めかして言うこともあったから、芭蕉が、待ち焦がれた松島の、想像を絶する造化の妙に魂をうばわれながら「いづれの人か、筆をふるひ、詞を尽さむ」などと言って、一句も残さなかったことに対して、自分の新歌枕を以て挨拶をしたのではあるまいか。さらに、そこに鸚鵡をしつらえたのも、わが身の、晩年、肥えてきてお腹がせり出してきたのを「高柳重信らしからぬ」といって嘆いていたから、あるいは、自画像だったか、とも思われる。(括弧内補筆は引用者。)

 俳句にその生涯を懸けた連合いへの、同志としてのあたたかな眼差しが感じられる文章だが、やはり、「鈍き詩人」「熟練の鸚鵡」は重信がモデルなのである。

 二人は男女間についての痴話喧嘩も公然としていたと聞く。

 人前で、喧嘩を締めくくってしまうことで尾を引かないようにしていたらしいとも――。

 句作の動機や舞台裏はどうであれ、この句における醍醐味は、「狂ひ」「熟練」「くびる」のク音、ジ・ビの濁音が「鸚鵡」の繰り返す甲高い声と反響し合い、女の感情が昂揚し狂っていくことで、驚異の結末に至るという演出効果に読み手が引き込まれていくということにある。

 掲句は句集出版の62歳(昭和50年)以前に書かれた句であり、女としての「狂ひ泣き」が生々しいが、三橋鷹女は、56歳(昭和30年)で次の二句に狂を詠んでいる。


    狂ひても女 茅花を髪に挿し     鷹女『羊歯地獄』所収

    祭太鼓鳴り狂ひつつ自滅せり         〃     

 二句とも、自身を詠ってはいないようであるが、明治女の気骨の術が、狂ふことを自我へと埋没させる鷹女の悲哀が滲み出ている。


 更に二人の晩年の狂の句を比較してみよう。鷹女73歳(昭和47年)、苑子80歳(平成5年『吟遊』以後、平成8年『花隠れ』所収)。


    千の蟲鳴く一匹の狂ひ鳴き      鷹女『橅』以後

    炉火爆ぜて一会狂ひし夜なりけり   苑子『花隠れ』所収


 鷹女の死を意識した(没年の作)とも思われる壮絶な生への「狂ひ鳴き」に比べると、鷹女よりも10年の歳月を経た苑子句(没年の5年以前の作)は、鷹女と比べても壮健な苑子の、女であることの証しを書き留めておきたいという思いが描かれているようだ。これもまた生への壮絶さの表出なのだろう。

2025年7月25日金曜日

【連載】現代評論研究:第12回各論―テーマ:「記憶」その他―  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 

投稿日:2011年10月14日

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 うまれた家はない風ふく絵本

 昭和53年作の「ケイノスケ句抄」(注①)所載の句である。圭之介は明治45年に福井県舘町で生れたが、生後三カ月目に逓信省勤務の父の転勤で石川県金沢市へ移り、そこで小学校一年生終了までの七年間を過した。当然、圭之介の記憶にあるのは金沢の家であり、圭之介自身「金沢をふるさとに持ったことは一生涯、心の誇りですね」と語っている(注②)。犀川の流れる金沢は室生犀星や泉鏡花等を生んだ文化の香り豊かな土地であり、圭之介の金沢への愛着は後に「北の町に埋れた春はぬれた舌でしょうか  昭和58年作 」の句も生んでいる。

 掲句の絵本は幼き日の記憶の中でのものであり、吹きすぎてゆく風が、心の中の家も絵本も消し去って行くような思いがしたのであろう。時間が記憶の中に紛れ込み、それによって記憶そのものがほろほろと分解されてゆくようにも。また、この句の下敷として山頭火の「うまれた家はあとかたもないほうたる」の句が意識にあったものと思われる。しかしその二人の作風の違いは、自己を現存在の彼方に置くか、現存在そのものに埋没してゆくかにあり、各々の句にその特徴が表れている。圭之介は山頭火と交誼を結んでいたが、「山頭火から俳句の批評や添削された記憶はなく、俳句の話もほとんどしたことはない。」と述べており、句作の上では影響をあまり受けていないと考える。しかし、山頭火の人間そのものには大いに魅かれるものがあったのであろう。後年、「山頭火」と題した思い出の下記の句を発表している。(注①)

 いつもらんぷ磨いてあるほどに身辺簡素      昭和25年

 らんぷが家の中につき彼が心中にある煩悩       々

 独りでおるべき身の茶の花のもつ清貧         々

 酒をたべる山頭火に鴉が来て誰も来ない        々

 心の暗い日のかれ米をとぐ大いなる手を持つ      々

 らんぷより明るい外で 柿の木の柿        昭和31年

 仏にあげたものが ひとり食べる           々

 この様に圭之介は、山口県小郡の其中庵時代の山頭火の生活やその人間的苦悩そのものにまで踏み込んだ思いを抱いており、圭之介が年齢を重ねるにつれて山頭火の句の深さにも魅せられていったと述べている。

 今回のテーマ「記憶」にも関連すると思われる、圭之介の昭和28年作の一篇の詩を紹介したい。(注③)


「離散」

あれもこれも離れてゆき

これもあれも離れてゆく

コップは手より卓の上に位置をかえ

手とコップは無限のへだたりを生じる

右手と左手の間に 枯野が横たわり

木の葉は女ごころの如く林を離れた

記憶の如きは雲の浮遊と共に移り去り

全てのものが風景の中にへんぺんと離散した


 人間にとって記憶というものは心象風景の中でいつかは離散し、消え去ってゆくものなのであろうか。そしてその時間的推移は瞬時と永遠が交叉したり、隔たったりして過去、現在、未来を照射してゆくのであろうか。その時、個的実存が孤独、不安、絶望といったものに蝕まれてゆくのであろうか。それ等の孤独感を引きずりながら圭之介は後年、下記の句群の中を泳いでいったのかも知れない。

 一さいが去り 一つの灯にいる          昭和30年

 一対の椅子の時間誰かいて 行ってしまう     昭和52年

 記憶の構図くずれ ひたむきに構図        平成12年

 己の記憶の中で笑った              平成18年


注①「ケイノスケ句抄」 近木圭之介 層雲社刊  昭和61年

注②「うしろ姿のしぐれてゆくか・山頭火と圭之介」桟比呂子著 海鳥社刊 平成15年

注③「近木圭之介詩抄」 近木圭之介 私家版  昭和60年


●―2稲垣きくの/土肥あき子

 養へば命哀しき籠蛍  「春燈」昭和56年8月号

 昭和54年8月号「俳句とエッセイ」にきくのは「想い出」というエッセイを寄せている。最近見た蛍養殖のテレビニュースから、亡くなった師久保田万太郎の作品「蛍」に思いを馳せる。戯曲「蛍」は、悲運な男女の死を予感させるラストを蛍籠で暗示させる。

 掲句の「養う」にも、蛍の命終をそう遠くない日に見届けなければならないことをじゅうぶん承知している屈託がにじむ。

 さらにきくのにとって、蛍は特別な記憶を呼び覚ますものでもあった。

 「思い出」に書かれた蛍のエッセイは、いよいよ過去へとさかのぼり、忘れられないあるできごとへと誘導されていく。

 大正9年、きくのが女学生になった頃、幼友達に近所の田圃へと蛍を見に誘われ、躊躇なく同意する。そこで14歳の少女はゆらめく蛍火のなか、いきなり接吻をされたのだった。「いやっ」と少年を振り切ったきくのは「息もつかづに家へ戻ると、台所へ下りて柄杓の水でがぶがぶと気がすむまで口を漱いだ」。これだけだったら感じやすい少女時代の微笑ましいとすら思える経験で済むのだが、きくのの場合、その後結婚してからも男女に関する不潔感はつきまとったのだという。

 幻想的な蛍火に惑わされた、あるいは思慕を募らせたあまりの計画的な行動だったかもしれない少年の想いに一切触れることなく、半世紀以上前経った今もまざまざとその忌まわしい感触に身をこわばらせる。

 多感な少女期の不幸な経験が、その後のきくのの並外れた潔癖さと、それにあらがうような、ときに退廃的な選択の原点となったように思える出来事である。

 蛍火は明滅する業火となって、いつまでもきくのにねっとりとまといつく。

 「私は今でも接吻が怖くて出来ない」

 最後に置かれた一文は、「恋のきくの」にとってあまりに切ない告白である。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 ひもじくて芒かんざししてゐたり

 掲句は、昭和50年作、句集『雁道』(*1)所収。

 この句を鑑賞するさい、ポイントになるのは〈ひもじくて〉の主体である。擬人法と捕らえるならば、〈芒〉が〈ひもじくて〉となる。ススキの姿を凝視した結果、腹が減って食べ物が欲しいと思いながら、うな垂れている人のように見えたというのだ。しかも風になびいている黄金色に輝く花穂を長い髪にさしている〈かんざし〉に見立てた。そこにこの句の独自性を見出すことも出来る。

 齋藤玄が「見る」ことにこだわる「凝視」の作家であることは、この連載において何度となく書いてきた。晩年の句集である『雁道』においても見ることに重点を置いて表現を重ねている句が多いことを考えれば、この句は凝視の成果のひとつといえるだろう。

 芒はとてもひもじかった。風が吹き通るたびに、ひもじさは身に応えた。頭のきらきらしたかんざしは、ゆらゆらと重かった。(*2)

 自註の玄の記述を勘案すると、芒の写生句と読めなくもない。

 しかし、なぜ〈かんざし〉なのか。ふつう「かんざし」といえば、女性の髪飾りである。かんざしを挿している女性が、戦前ならまだしも昭和50年の北海道で一般的であったとは思えない。ちなみに玄が当時居住していたのは北海道滝川市新町である。新町は空知川の川岸沿いに位置する町で、昭和48年頃から文化センターや図書館、郷土館が建設され、市内の文化地域を形成している。余談だが、同時代に北海道札幌市で暮らしていた筆者の周囲でかんざしを挿していた女性は、明治生まれの祖母くらいの印象がある。ここでの〈かんざし〉は、記憶の中の女性を芒に重ね合わせて詠みこんだと考えられなくもない。

 いままではあくまでも〈ひもじくて〉の主体を〈芒〉ととらえて考えてきたのであるが、一方で、作者自身ととらえるとどうなるだろう。

 すると、作者である玄が〈ひもじくて〉髪に芒を挿しながら芒原をあてどなく歩いている景が見えてこないか。当時玄は61歳。10月に盟友である石川桂郎を聖路加病院に見舞い、断腸のお思いで別れてきた時期の作と思われる。

 桂郎を見舞った時に次の句を残している。

 死の側で笑む桂郎や秋の暮   昭和50年作『雁道』

 死を予期している友の笑顔を眼前にしながら玄は何を思っただろう。昭和18年、「生涯のつきあいを約した」(*2)という一夜だろうか。それとも昭和19年、第二句集『飛雪』の題簽の染筆を依頼するために横光利一邸に二人で泊まった日のことだろうか。あるいは昭和47年、厳寒の網走を二人で旅した日の着膨れた桂郎の姿だったろうか。

 いずれにせよ、句集『雁道』では〈死の側で〉の二句後に〈ひもじくて〉の句がある。掲句の鑑賞に戻ると、〈芒かんざし〉とはススキの花穂を折り取って、髪に挿すことで、女性に限定されるものではない。むしろ、果てしなく続く芒の原を歩きながら一本の芒を短く手折ったのであれば、男性的ですらある。よって〈かんざし〉に女性を読み取る必然性はなくなる。〈ひもじ〉さを紛らわせるための所作、あるいは、芒原に同化するための振る舞いととらえた方が自然だろう。なぜ、芒に同化する必要があるのか。それは、記憶を消し去るためである。たとえば、哀しい記憶。現実からの逃避。あるいは孤独感を忘れるため。昭和の子どもたちがお面をつけて、たやすくテレビのヒーローになりきったように、自分ではない何ものかになりたいとき、人は仮面をかぶり、頭に何かをかざすのではないか。そう考えるならば、先に掲げた自註の解釈も変わってくるように思う。友の死を契機にして、噴出してきた記憶。あるいは文字通り〈ひもじ〉かった頃の記憶を忘れるために玄は〈芒かんざし〉の重さを感じつつ、芒の原を歩いたのではないだろうか。消したくなるほどの記憶を持たないものには、到底理解されることはないと思いながら。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2  自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 幾何解く夜花火みどりに裏返る

『機械』(1980年)所収の句。

 夏の夜。窓辺の机に向かい、幾何学の問題に取り組む少年。しかし、やがて思考の糸は腹の底に響く爆音で途切れることになる。今夜は花火大会だったのだ。次々と夜空を彩る大輪の花火。放射状に開ききった光の尖端が闇に吸い込まれ、一瞬ののち、緑に反転した閃光が浮かび上がる。花火見物をよそに独り図形と格闘する少年は葦男その人に違いない。受験生としての遠い日の記憶の中から、花火の開く瞬間を鮮やかに切り取ってみせた一句である。

 葦男は神戸第一中学校から岡山の第六高等学校文科甲類に進み、1938年、東京帝国大学経済学部に入学した。1934年には六高受験に失敗、山手高等予備校に通うという経験もしている。六高はスポーツの強豪校として有名だった。13の運動部がインターハイにおいて延べ55回の全国制覇を達成しているほどだ。中高時代を通じて陸上競技部に所属した葦男も、厳しい鍛錬に明け暮れるアスリートだった。

 学生時代に走幅跳や三段跳の練習をやったせいであろうか。激しく地面を蹴って、体を空中で海老のように屈伸する姿勢をとると、私の体はふわりと空中に浮く。その体を弓にそらし、次いで、高く振り挙げた両手を強くうしろに掻きつつ、揃えた両膝を前へぐつと引き上げる、この動作を律動的に繰り返すと、不思議や私の体は地上一メートル余りの高さで、地面と並行にスーツスーツと進む。

 第一句集『火づくり』の「あとがき」に出て来る奇妙な記述は、結局、夢の中の飛翔体験であることが明かされるのだが、繰り返し肉体に刷り込まれたヴィヴィッドな運動感覚が、はるか後年まで夢の中で再現されることに筆者は興味を覚えた。ひょっとすると記憶の中には、大脳皮質の働きと関連しつつもそれとは別個に存在する「脊髄記憶」あるいは「小脳記憶」とでもいうべきものがあるのではないだろうか。

 やがて葦男は「この天狗飛び切りの術」を進化させ、下級生の教室の窓を飛び抜けたり、泰山木の花を真上から眺めたり、果ては高い丘の上から谷を越えて緑地に着陸するというパラグライダーまがいの飛翔を愉しむ。その多くは病気の時、高熱の後の回復期などに体験するのだという。

 葦男が俳句を「形象性の詩」と呼ぶとき、それは素朴実在論的な写生だけではなく、自己の心の中にしか存在しない形象の表現をも含む。夢の中の飛翔体験や鳥瞰イメージを克明に描くこととそれはどこかで相通じている。

 さて、冒頭の句は西東三鬼の「算術の少年しのび泣けり夏」を連想させる。が、しのび泣きながら少年が取り組んでいるのは幾何学や微分・積分などの「数学」ではない。「算術」なのである。鶴亀算か、旅人算か。いやそれ以前の九九あたりで彼はすでに躓いていたのかもしれない。要はセンスやひらめきの問題ではなく、それ以前の丸暗記=記憶力の問題だった可能性が高い。

 対する葦男作品の少年は記憶力抜群だった。そこに描かれているのは幾何の問題がすっと解けた瞬間の強烈な快感である。葦男はそんな「数学的エクスタシー」を「花火みどりに裏返る」という官能的な表現のうちに見事に言い止めたのである。


●―8「青玄」系作家の句/岡村知昭

 今奏づ亡き師がききし諏訪根自子   桂信子

 初出は『青玄』1957年(昭和32年)2月号、「おでんの湯気」と題された6句の中の一句。句集および『桂信子全句集』(2007年10月、ふらんす堂)には未収録。「ニューイヤーコンサート」との前書きがある。

 諏訪根自子は1920年(大正9年)生まれのバイオリニスト。16歳からベルギー、フランスへ留学、第二次世界大戦下のヨーロッパで演奏活動を行った。戦後に帰国してからは国内で演奏活動を行ったが、1960年代に第一線から退いたという。ウィキペディアでの記述によれば「その後、消息はほとんど聞かれず、伝説中の人物となっていた」、また「絶世の美貌を謳われ」たとある。掲出句が書かれた時期はちょうど国内での演奏活動を精力的に取り組んでいた頃にあたるので、前書きの「ニューイヤーコンサート」もそのうちのひとつだろう。

 年明けのとある1日、ラジオから流れてくるバイオリンの音色は、いまは亡き恩師が愛してやまなかったあの諏訪根自子が奏でているもの。病床の先生はラジオから流れてくる音楽をジャンルを問わずとても楽しみにしていらして、その中でも特に彼女のバイオリンの演奏は好きでしたねえ、との追憶にしばし身をゆだねるひとときである。このとき師を想う一弟子としての作者の脳裏には、「亡き師」がこのバイオリニストを詠んだ次の一句が浮かんでいたに違いない。

 弾きて澄む顔は見えねど諏訪根自子   日野草城

 この草城の1句の初出は『青玄』1949年(昭和24年)10月号、つまり『青玄』の創刊号に掲載された作品である。すでに病床での生活を余儀なくされていた自らの耳に届くバイオリンの響き、それはまぎれもなくあの一切の邪念を払いのけたかのような美貌から産み出された音色に間違いなく、今まさに彼女は一心に研ぎ澄まされた精神のすべてを賭けてこの一曲を奏でているのに違いない、それはいまこのとき、彼女自身が曲と一体化しているかのようではないか、と草城は美貌の演奏者への感嘆を惜しまないのである。そのような思いに満ちた1句を草城は主宰誌の記念すべき創刊号に載せ、さらには第7句集『人生の午後』にも収録したのだから、バイオリニスト諏訪根自子への賛歌として詠まれたこの1句は、弟子たちの心にも強く刻み付けられていたことだろう。もちろん桂信子も草城の弟子のひとりとして、このひとときは師が愛してやまなかったバイオリンの音色から浮かんでくるさまざまな回想に思いを馳せていたのだろう、まっすぐに澄んだ表情で。

 さて、掲出句が掲載された号の作品を見ると、同じように草城への回想を背景にした作品が他にも見られる。

 日向より膝に来し猫沈みねる

 膝にねて程よき重さ冬の猫

 師の愛せし猫なり師なき部屋あるく

 「日光草舎」との前書きのあとのこの3句は今は亡き恩師の家での猫の様子を詠んだものにとどまらず、飼い猫だった「ルミ」の死を悼んだ草城の作品も踏まえられている。

 猫死ねりいまはを人に知られずに

 凍る闇死にたる猫の声残る

 分ち飲む猫亡しミルクひとり飲む    (『人生の午後』所収)

 可愛がっていた飼い猫の死を深く悲しむ恩師の姿を作品を通して見ることになった弟子として、いま主なき家を堂々と闊歩し、家族や客人の膝に熟睡する猫たちの姿もまた師への想いを甦らせるには十分なものだったに違いない。とある冬の1日、あのバイオリンの音色もあの猫たちの元気な姿も、もう先生は見ることも聞くこともできないのだということを改めて深く心に刻む、そんなひとときを弟子の一人は過ごしている。年明けということは師の命日(草城の命日は1月29日)はもうまもなく訪れる。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 鰯雲くづれは雲の襤褸なる       五千石

 第二句集『森林』所収。昭和四十五年作。

 この句は、俳人協会新人賞受賞後のスランプの時期のものであり、『森林』の、この句の制作年、昭和四十五年の作品はわずかに8句であったことも前回書いた。

     ◆

 この句について五千石は自註(*1)で、短く、次のように書いている。

 「特攻隊くづれ」とか、「役者くづれ」というが、ここでは「鰯雲くづれ」。

 「襤褸」は「ぼろ」ではなく「らんる」と読む。「襤褸」とは、破れた衣服・ぼろぼろの衣服・また、ぼろきれ・ぼろ、のこと。つまり、鰯雲の崩れた雲、または鰯雲になりきれない雲はボロキレのようだ、ということ。なんとも捨て鉢のような句ではある。

     ◆

 私はこの句の下地になっているのは、昭和三十七年の、

 流寓のながきに過ぐる鰯雲      五千石

ではないかと考えている。

 流寓(りゅうぐう)とは、放浪して異郷に住むこと。以前にも書いたが、五千石は戦時に信州へ疎開し、その後細かく長野、山梨、静岡と転居する。その間、昭和20年には東京の自宅を空襲で失っている。

 この流寓の句の自註には、

「流寓が流寓でなくなってゐるところに人生の寂寥性がある」

「鰯雲は、倦怠の象徴と思はれる」(山口誓子評より)

と、誓子の評をそのまま載せている。この評が行き届いたものだったことを顕していると見るべきだろう。

 著書『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「自作を語る」の中で次のように記しており、それを裏付けている。

《前略》(流寓が)あまりに「ながきに過ぐる」ということになりますと、もはや「流寓」が「流寓」ではなくなっているとでも言いましょうか、妙にさびしく、うらぶれた気持ちになってしまいます。天を覆う「鰯雲」をうち仰ぐと、いよいよそんな思いに胸ふたぐばかりであります。《後略》

     ◆

 この二つの句は「鰯雲」が共通するというだけではなく、鰯雲を見上げたときのあきらめにも似たさびしさの極みがベースとなっているのではないだろうか。五千石の少年期の「記憶」の句だと思う。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 汗ばみ聞く故人の古き恋歌を

 53年7月、『方壺集』より。

 亡くなった人の歌う恋のうたを聞いているのだが、その歌の流行った時代が思い出されて、静かな室内におりながら次第に汗が吹き出してくるようである。この故人は、水原弘。昭和10年生まれ、昭和34年「黒い花びら」でデビュー、大ヒット曲となり第1回日本レコード大賞を受賞した。その後低迷するが、昭和42年「君こそわが命」で復活。酒豪であったと言われ、それが原因で昭和53年7月5日、42才でなくなった。

 憲吉が水原弘と面識があったかどうかはわからないが、俳人というよりは、タレントとしての活躍が目覚しかった後半生にあっては出会いがなかったとも言えない。年齢的には一回り下であるが、老成した水原弘は憲吉と同世代人と錯覚してもおかしくない。

 歌謡曲はとりわけ時代を想起させるが、「故人の古き恋歌」と言えば、やはり「黒い花びら」になるだろう、汗ばんで聴くのにふさわしい歌だ。そしてその時代にはこんなことがあった。

 

南極からのタロー、ジローの帰還

少年マガジン、少年サンデーの創刊

皇太子(現天皇)ご成婚

王貞治の初ホームラン、長嶋茂雄が天覧試合にサヨナラホームラン

児島明子ミス・ユニバースに

伊勢湾台風来襲、空前の5000人の死者

水俣病のチッソの有機水銀に由来することが判明

 

 昭和34年とはこんな時代であった。やがて、安保闘争、三池争議という熱い政治の時代を迎えるようになる。暗さ明るさのないまぜになった時代を「汗ばむ」と形容するのは誠に適切な措辞であった。

 では、これはだあれ。

 歌姫の歌も豊かに夏に入る

 昭和55年6月、『方壺集』より。

  これはペギー葉山。水原と違い、憲吉とペギーは確かに面識があったようである。

 ペギー葉山は昭和8年生まれ、水原より3歳年上であるが、今も元気でいる。水原の「黒い花びら」の出た同じ34年に「南国土佐を後にして」が大ヒットした。また水原と違い、「ケセラセラ」「学生時代」「爪」「ドレミの歌」「ラノビア」など息長い活動を続け、日本歌手協会会長も務めた。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 いつせいに柱の燃ゆる都かな

 読者の記憶から掘り起される映像がある。その映像がどのように映し出されるか作者は読者に任せるしかない。何よりも読者自身が句に向き合わなければその映像は見えてはこない。

 掲句は、多くの論者から評され戦後の代表句のひとつとされてきた。昭和二十(1945)年の作、『まぼろしの鱶』『青の中』に収録されている。

 一句として成り立つ、先の百年も残る無季句を得たいという敏雄の信念が伝わってくる。

  「いっせいに柱が燃える都」という現象は尋常ではない。都が燃える要因となるものは、革命、テロ、暴動、戦争、天災など。さらに、都はどこの都という限定された場所ではない。ただ、「都」という言葉から、政治・行政・皇帝などの中枢機構が置かれている街というイメージを持つ。ポンペイ、バスチーユ(パリ)、ロンドン、平城京、天安門、本能寺(京都)、江戸、何処の都市でも、何時の時代でもよいのである。世界遺産登録の建造物、ひいてはその大元であるユネスコ憲章の世界平和(*1)をも考える、とにかく壮大な句である。俳句はちっぽけな驚きばかりでなく、歴史的な事象を想起させることもあり、ということをこの句を通して知ることができる。猛烈な火の粉をあげ都が燃えている。炎柱と炎柱との狭間にうごめく民衆の姿、声を想像する。大惨事である。

 技法的には、「柱の燃ゆる」の「の」は、独立句の主格を示しており(*2)、更に「燃ゆる」の古語表現により、雅で歴史的な音感、質感を持つ。そして「かな」の詠嘆により崩れゆくもの、喪失していくものの美を感じる。『まぼろしの鱶』の昭和三十年代の項から昭和四十年代に制作された『眞神』での復活まで、この「かな」が姿を消す。それは三鬼の影響もさることながら、過去の新興俳句弾圧に対する抵抗とも感じられるのである。

 制作年の昭和二十年は第二次世界大戦が終結した年であり、日本各地の小都市の多くが空襲の被害を受ける。確かに、制作年から考えれば、「空襲、特に東京大空襲を詠んだ戦争句」という多くの解説の通り、空襲の惨事に結びつけることができるだろう。しかしながら敏雄は、『まぼろしの鱶』の選句時にあえて何年何月何日という具体的な事象、場所がわかる句を外している。

 制作年が同じ頃の敏雄の作品。

 こがらしや壁の中から藁がとぶ  昭和二十一年作

 梟の顔あげてゐる夕かな        〃

 むささびや大きくなりし夜の山  昭和二十二年作

 終戦で混乱した頃において、この落ち着きようである。敏雄は、あえて現実を、あるいは戦火想望俳句ひいては新興俳句を早急に遠い目線で見つめ直そうとしていたように思える。戦争が終わった安堵感と同時に暗闇の中の行き場のない悲しみ、慈しみ、そして不安を感じる。

「俳句は一たび作者の手を離れてのちは、そこに使われた言葉の意味と韻律から触発される映像表現に一切を掛けている。」『まぼろしの鱶』後記

 「いっせいに…」の句は、ほんの前に起きた生々しい記憶の絵コンテだったかもしれないが、遠い記憶、回想のように滅びゆく美しさすら詠っている。敏雄を通過した言葉から生れる映像は、読者に遠く切なく迫りくる。敏雄は、具体的事象の概念を外すことにより、読者の(それもまだ生まれていない読者も含む)記憶に刷り込まれた映像に懸けたのである。

 掲句から六十六年経過した現在も時空を超越する壮大な句である。


*1)ユネスコ憲章前文は以下で始まる。

 「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」

*2)格助詞「の」が独立句の主格を示す他の句例:

五月雨のふり残してや光堂 芭蕉

おのづから影の出来たり籾筵 高屋窓秋

夕つばめあつまつてとぶ空のあり 石田波郷

 

●―13成田千空の句/深谷義紀

 土偶みな寝に帰りき秋の山

 第4句集「白光」所収。

 青森は縄文文化が花開いた土地であり、今も県内には三内丸山などの遺跡が残る。その縄文文化の象徴として、よく挙げられるのが土偶である。一般になじみのあるのは、大きな目、突き出た腹が特徴的な遮光器土偶だろう。もっともこの土偶は、どんな目的で制作されたか、今も定かではないという。それでも現代人のわれわれから見ると、何とも言えない温かみをもつオブジェである。

 そうしたことから、青森の人々にとって縄文文化や土偶はとても近しい存在である。その点は、他の地域とは決定的に違う。他の地域で土偶に親近感を覚えるなどと言えば、よほどの考古学マニアと言われかねないだろうが、青森ではもっと一般的に語られる。

 そして青森の人々は、自分たちが縄文人の子孫であることを、折に触れ意識する。加えて、その意識というのは、単純にそうした遺跡が発掘された地域にたまたま住んでいるということではなく、この土地が何世紀も前には温暖な気候に恵まれた豊穣な地域であり、文化的にも進んでいた地域だったという自負が、その奥底に潜んでいるのである。土地の人達が「縄文」を語るときには必ず、そうした強い自意識あるいは誇りのようなものが根底に存在する。

 掲句も、一読した限りではどこかファンタジーを感じさせる空想句とも思えるが、もっと重層的な構造を有しているように思う。例えば、かつての縄文人たちは土偶を、冬眠する動物たちと同じように考えていたのかもしれない。あるいは、千空にとって、この「土偶」は自分を含む津軽人の祖先であり、そうした縄文人も冬になると(冬眠する動物たちと同じように)山に生活拠点を移したかもしれない。いずれにせよ、そうした太古の縄文人たちの記憶が時代を超えて千空の脳裏に蘇ったとみることができるのではないか。さらには、千空自身が、「混沌とした現代社会に疲れた。かつての先祖たちと同じように、そろそろ秋の山に寝に帰ろうか」そんな心情を託したように思えてくる。謂わば縄文人としての記憶や自意識が現代に蘇った作品である。


●―14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】25.26.27.28./吉村毬子

2014年8月8日金曜日

 25. 鈍(のろ)き詩人(うたびと)青梅あをきまま醸す

 詩人は鈍い方が良い。器用に言葉を操る詩人は魂の真髄から詠っていない気がするのは私だけであろうか。愚かな「鈍き詩人」と「青梅」の取り合わせによる在るがまま、成すがままの大らかな解放感。青々とした丸い実梅が、初夏の日射しを浴びる大地に音を立てて転がり落ちる。「あをきまま醸す」とは梅酒にする様を思う。ホワイト・リカーの円みのある透明な液体に、泳ぎながら沈む「青梅」の涼やかさは「鈍き詩人」の持つ純粋な美しさと少しの薄情さをも表現している。

 しかし、鈍いとは〈遅い・はかどらない・愚か〉の他に〈女にあまい・色におぼれやすい〉という意味もある。これは恋句なのかも知れない。人は恋すると誰もが詩人になると云う。「青梅」は、丸やかで張りがあり、桃の実ほど艶やかではないが、少なくとも形状は似ている。詩人(の、ような)の男が汚れなき少女をその無垢な状態のまま養育する――という、光源氏的なものも垣間見えないこともないが、此の句は、愛しい「鈍き詩人」を詠った句であると思える故、彼の作る詩、即ち彼の言動は爽やかで新鮮に見える。その少年のような愚かさに母性愛の如きものが心音を波立たせる。二人の愛も青梅の初々しさのまま醸されていくようである。

 過日に掲げたこの章の初まりの二句

 羽が降る嘆きつつ樹に登るとき 

 落鳥やのちの思ひに手が見えて

とは趣きが違うし、苑子俳句にしてはいささか甘い。しかし、〈回帰〉という名の章であり、一周りして元に帰るには様々な物語が展開し、転回されるのであろう。次句もまた詠いあげられていく「恋」の行方を追っていこうではないか。

 26.乾草は愚かに揺るる恋か狐か

 前句の明色さに比べると昏い苑子調がうかがえる。「乾草」は、家畜の飼料として夏の間に刈り干して置くものだが、「狐」がしのびこみ揺らしていったのではない。「乾草」を揺らしているのは男女の営みであろう。直接の行為でも語らいでも良いのだが、前者の方が句の激情感が増すと同時に、その揺れが激しいほど哀切を帯びる。それは、苑子が「乾草」を選択したことにある。

 青々とした(前句の青梅のような)草の中の愛の営みではなく「乾草」という、刈られてしまった、植物としての生命は絶え、家畜に食われる運命を残しただけの草。「狐」は人を巧みに騙すといわれている。「恋か狐か」――「か」のリフレインが切ない。しかし、「狐」は稲荷神社の使いではないか。稲荷は食物を主宰する神、御食津神であり、その使いであるということは、やはり「乾草」の如く食べられてしまうだけの結末であるのか……。

 27. 流木の夜は舟となる熱発し

 見開き2頁4句に並べられた3句目である。狐(かも知れない)との恋は「熱発し」と至る。舞台は、乾草からの田園(もしくは、田園の中の納屋)から、大海原へと移る。「流木」「舟」は、共に大海原に浮き泳ぐこそ生命存在を確認するものである。「流木」は、樹木としての生命は絶えているが、波に浮いて群れにはぐれた渡り鳥が最後に羽を休める処であり、遭難者、例えば「船焼き捨てし 船長」が一息つけるものかも知れない。しかし、「流木の夜は舟となる」のである。流木が浮く夜の海という状況設定ではなく、流木としての我がその夜は舟となり、一刻、或いは一晩、岸に繋がり人を乗せる。それが、「熱発し」舟となったということである。 

 苑子の敬愛する三橋鷹女の句

墜ちてゆく 燃ゆる夕日を股挾み    鷹女『羊歯地獄』所収

 この凄絶さにはない諦念感の沈澱から漂うエロティシズムが浮遊している句である。

 28. 放蕩や水の上ゆく風の音

 熱は癒えたのか、冷めたのか――。

 「放蕩」という憎み切れない語は、その字の持つ意味、(「放」=かまわずにおく・解きはなつ・赦すこと、「蕩」=広くゆきわたる・揺れ動くこと)と、音に寄る語感であるかも知れないとも思う。「放蕩や」の切字は、一拍置くことを促し、また感嘆詞としての役も担っているのだろう。「水の上ゆく風の音」は、河川や海を詠うのなら格別に際立った中七下五の表記ではないのだが、「放蕩」という物質や現象ではなく(感情的、道徳節をも呼び起こす)、抽象的とも具体的ともいえるその語について詠っているのだから、なんとも掴みどころのない飄々とした様が的確に表現されているのである。(池袋西武カルチャー教室の頃、男性に此の句が好まれていたのも頷ける。)

  「水の上ゆく風」は勿論見えない。「風」とは流れていくものである。流れることでその音が聴こえるのである。「風」は水底を知っているのか、知ることができないのか、見る時がないのか、唯、「水の上」を流れていくだけである。まさしく「放蕩」の真髄を語っているのである。けれども、きっと、「放蕩」は、水底まで覗いて知らない振りをして流れていくのであろう。

 前回までの流れから行けばそういった起承転結に至るのだが、〈回帰〉は、未だ未だ終わらないのである。始まったばかりである。

2025年7月11日金曜日

【連載】現代評論研究:第11回各論―テーマ:「秋」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

 2011年09月09日

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 小さな秋が来たあんたもブラックでいいか

 掲句は平成20年作の「層雲」所載の圭之介96歳の作品である。圭之介はコーヒーの抽出方法や豆にこだわりがあり、居宅を訪れた客に対しても常に自らコーヒーを選択、抽出をしてもてなしていた。私も圭之介居を訪問した際にそのような供応を受け、ブラックをお願いした記憶がある。小さな秋とブラックコーヒー、その対置は少し甘いが、なんとも散文詩的に軽やかに問いかけているではないか。そしてその口語自由律の表現の自在さがその最晩年(翌年に97歳で逝去)の融通無碍の境地にピッタリとはまっているように思える。文語定型ではその情景に接近しえない方法であろう。尚、圭之介の好きな画家はブラック、佐伯祐三、三岸節子などで、好きな音楽家はショパン、マーラー、ベートーベンなどであったそうである。安楽椅子に腰かけてレコードを聞きながら画集をひもといている姿が目に浮かぶ。因みに砂糖を加えないもののみをブラックとするのは、日本の用法であり、英語のblackとは単に乳製品を加えないことをいい、砂糖の有無は問わない由。

 熟れた木の実の中は克明に書いた手帖に似ている   昭和52

 黄色い並木に私が紛るそれだけのこと       昭和56年

 画家でもある圭之介が対象を観照しその本質を描けばこの様になるのであろう。デッサン風の前句からは、自然界の木の実の溢れるような生の緻密さと、克明に書いた手帖から人間の複雑な社会生活へと思いを至らせる事によって、生きるというある種の哀しさが導き出されているように思われる。後句は公孫樹並木であろうが、その眩いばかりの黄葉の輝きの中に埋没する自己、そして舞い散る木の葉にも隠されてしまうであろう存在の微小さ危うさからの自己省察が垣間見られる。

 きれいな肺が月を呼吸する            昭和42年

 食器重ね秋肺まで明るい             昭和53年

 篠原鳳作は「しんしんと肺碧きまで海の旅」と真昼の南の大海原を詠んだが、前句は夜の下関海峡での感慨であろう。鳳作の句に於いては海の青でも蒼でもない、碧が肺いっぱいに満ちてくる青春性に富んだ拡大する光景だが、圭之介の句に於いては老年に至った心身が月の微かな輝きに照らし合う如く、静かに肺が呼吸をし、焦点が絞られた点景となっている。そして「きれいな肺」とは健康であると共に、しみじみとした夜気に満たされていることでもあろう。後句は真っ白な食器が洗いあげられ、重ねられる時の爽やかな明るい響きが肺の中まで明るくするという印象派風の様相であり、真ん中に置かれた「秋」の一字が上句と下句の次元の転換点として上手く機能している。圭之介に於いては肺はものを見、ものを聞くものでもあったのだ。

 みちがなくて月ばかり              昭和50年

 山頭火ばりの六・五の短律句である。「て」は活用語の連用形につく助詞で、「ばかり」は体言の終止形につく助詞である。この様な一呼吸置いた二句一章的な手法は嘗ての「層雲」自由律俳句に頻出しており、所謂「層雲調」と呼ばれていた。それが良い意味でも悪い意味でも自由律俳句に辺境性をもたらした事は間違いない。

 圭之介にはこの他にも「月」の句が多くあり、抄出してみよう。

 月から顔をはなして承知してくれてゐる      昭和8年

 暮れずに壁 月になる              昭和19年

 月をかおに別れとうない             昭和22年

 砂丘、非具象の月が出ている           昭和37年

 呆然 砂丘あまねく月となる           昭和38年

 演技に体温なし 月浮かぶ            平成17年

 「月」はいつの時代もドラマ性を伴なってくるものらしい。

 

●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 まぼろしの狐あそべる花野かな 『冬濤』

 振向けば花野の虚空うしろにも 『冬濤』

 少女等の円陣花野より華麗 『冬濤』

 花野きてけものの如く耳を立つ 『冬濤』

 日と見しは月花野にて刻失ふ 『冬濤以後』

 霧が溶く花野の色の流れだす 『冬濤以後』

 死場所のなき身と思ふ花野きて 『冬濤以後』

 壺の花に花野の風の通ふらし 『花野』

 花野の日負ふさみしさは口にせず 『花野』

 きくのには花野の句が多い。

  生前最後の句集『冬濤以後』から没年までの19年間の作品をまとめた『花野』の編者西嶋あさ子氏によれば、「集名については『冬濤以後』の章名にも取られ、その後の特別作品にも使われていて、きくのさんに似つかわしいと思ってきめた」(編者あとがき)とある。続けて「きくのさんは、華やかで、さびしげで、かわいい面もお持ちであることは、作品が物語る」と続き、まさに光りと影の交錯する花野の人の像が結ばれる。

  掲句のまぼろしの狐は昭和38年、きくの57歳の作品である。

  きくのが疎開のため身を寄せていたのは、信州の小諸から一里半ばかりはいった浅間山麓の農村であった。信州には古くから「管狐(くだぎつね)」の伝承がある。広辞苑によると「通力を具え、これを使う一種の祈祷師がいて、竹管の中に入れて運ぶ」という。また、関東まで害が及ばなかったのは戸田川を越えられないためともいわれる。竹筒に収まるハツカネズミほどの小ささと、水を嫌うあまり勢力を広げない習性などを考えあわせると、なんとも可愛らしい狐の姿が浮かび上がる。もちろん、土地の者にしてみれば、「管持ち」「狐憑き」など、なにかにつけ身近に怖れられてきたのだろうが、おそらく他所から来ているきくのには、どこか可愛らしい狐の話しとして耳にしていたのではないかと思う。

 きらきらと日が射し、風にそよぐ一面の花野のなかでは、ものの影が自在に踊る。ざわめく風のなかで、ふと伝承の狐がきくのの胸に降りてきたのではないだろうか。

 管狐はたちまち75匹に増えるという。忌み嫌われている小さな狐たちを、せめてこの花野で遊ばせてあげたいというきくのの心が見せたファンタジーかもしれない。

 多く花野を詠んできたきくのの最後の花野は、昭和54年73歳の作品である。

 花野見にゆくだけの旅支度して 『花野』

 もう一度、まぼろしの狐に会うための旅でもあったのかもしれない。

 

●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 空は散るものに満ちたり菊膾

 掲句は、昭和49年作、句集『狩眼』(*1)所収。

  下五の〈菊膾〉が秋の季語。「菊膾(きくなます)」は、菊の花びらをさっと茹でて、三杯酢や芥子酢であえたものをいう。苦味の中のほんのりとした甘みとシャキシャキした歯ざわりを楽しむ料理である。食用菊には2品種があり、刺身のツマなどに用いられる黄色の「阿房宮」と、酢の物などに用いられる赤紫色の「延命楽(もってのほか、かきのもと)」が一般的である。料理の「菊膾」に用いられるのは後者で、「もってのほか」は山形県の特産である。

  筆者も以前、羽黒山の斎館を訪れた際に「もってのほか」を食したことがある。その時に居合わせた方の説明によると、芭蕉も食べた料理ということであったが、芭蕉が出羽三山を訪れたのは元禄2年(1689)の6月4日で、季節があわない。後で調べてみると、芭蕉が菊膾を食べたのは事実だが、場所は羽黒山ではなく、近江国(滋賀県)の堅田。時期は羽黒山を訪れた翌年の元禄3年9月のことであった。聞きようによっては、芭蕉が『おくのほそ道』の旅で、羽黒山を訪れた際に「菊膾」を食べたと思い込まないとも限らない。ものがものだけに、「もってのほか」と憤慨される方もいるかもしれないが、そこは観光客相手の営業トークと笑って済ませたい。

  芭蕉が堅田で詠んだ問題の菊膾の句は、〈蝶も来て酢を吸ふ菊の酢和(すあへ)哉〉である。「菊膾」の文字は詠み込まれていないのだが、『蕉翁句集草稿』には〈蝶も来て酢を吸ふ菊の膾哉〉という別案が収録されている。また、「酢和(すあへ)哉」の句の前書きには、「湖上堅田の何某木沅(ぼくげん)医師の兄の亭に招かれて、みづから茶を立て、酒をもてなされける。野菜八珍の中に菊花の鱠(なます)なほ香ばしければ」(*2)とあり、確かに芭蕉が「菊膾」を酒のさかなにして食したことが分かる。

  さて、ここまで、くどくどと「菊膾」の話をしたのには理由がある。歳時記の「菊膾」の項目をみるとたいてい芭蕉の〈蝶も来て〉の句が掲載されている。前書とあわせて考えれば、菊膾は酒とともに食膳にのぼるものであることが分かるだろう。菊と酒、すなわち九月九日の重陽の日に、菊の花を酒に浮かべて飲むと邪気を払い長寿になると信じられてきた慣習を下敷きにしているのだ。芭蕉の〈蝶も来て酢を吸ふ〉という句は、たまたま蝶がやってきて、菊膾の酢を吸ったという事柄を写しただけのものではない。余命いくばくもない秋の蝶が、延命を願って「菊の酒」を吸いに来たが、それは菊膾の酢だったよ、という哀れさと可笑しみがこの句の底に潜んでいるのである。そこを汲み取らなければ、この句の面白さは半減してしまう。「菊膾」の本意本情は、芭蕉のこの句が原型になっているのだ。

  そこで、あらためて玄の句をみていこう。

  〈散るもの〉に満ち溢れているのは、秋の空である。秋の空に〈散るもの〉といえば、真っ先に思い浮かぶのは、木の葉だが、言の葉、いのち、なども〈散るもの〉としてとらえられるだろう。ひとつのものが、ばらばらになって四方に飛び散る、あるいは、あたりにひろがって消えてゆくイメージが〈散るもの〉という語から感受できないだろうか。それは、まさに、いのちのかけらが秋の空に満ち溢れ、やがて消えてゆく情景でもある。そして、菊の花びらが湯の中に落ちて、身を翻らせて茹でられている光景にも重なる。長寿を願って食膳に出される〈菊膾〉を下五にすえたことで、〈空は散るものに満ちたり〉との取り合わせが鮮やかに見えてくる。命を終えて〈散るもの〉と命を永らえると信じられてきた〈菊膾〉との対比が秀抜である。いかに自己の思いを季語に託して象徴性をもたせられるか、との試みがうかがえて興味深い。〈菊膾〉には、ひとつのいのちは姿を変えて別のいのちにつながってゆく、という玄の生命観が象徴的に込められている。この句は季語の変革を志した玄のひとつの到達点といえる。芭蕉以来の「菊膾」という季語のもつ本意本情をみごとに更新させた秀句である。

*1  第4句集『狩眼』 昭和50年牧羊社刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 今榮蔵 『芭蕉年譜大成 新装版』 平成17年 角川学芸出版刊 所引

 

●―5堀葦男の句/堺谷真人

 今生を柿のはらから照り合える

 『山姿水情』(1981年)所収の句。(ちなみにこの句は『朝空』(1984年)に再録の際、「今生を柿のはらから照り合へる」という風に表記が歴史的仮名づかいに改められている)

  農家の庭先であろうか。高く枝を張った柿の大木に実が鈴なりに成っている。はち切れんばかりに熟した柿の実はどれもつやつやと美しい。折から落日の光を受けて何十何百という柿が一斉に照り輝くさまは、さながら今生の中の今という一瞬をともに懸命に生きている兄弟姉妹のようだ。

  葦男は不幸にして兄弟との縁が薄かった。自身が26歳のときに兄・進の病歿に逢い、28歳のときには弟・治がサイパン島で戦死を遂げている。特に、太平洋戦争屈指の激戦地で落命した治に対しては、晩年に至るまで、生き残った者としての後ろめたさや自責の念を抱えていた形跡がある。現代の精神医学の立場からすれば、葦男こそがグリーフ・ケアの対象者たるべきであった。が、戦中派の常識ではそうではなかったのである。

 いくさ経て愚兄われのみ盆の酒 『山姿水情』

  この句には「戦後三十四年」という前書きがある。1979年の作である。気がつけば、戦後まるまる一世代に相当する時間を「生き延びてしまった」との感慨、その時間を余命・余生と観ずる姿勢は、1980年に上梓された『残山剰水』の集名からも看守できる。

  ビールで別れ弟は神サイパン忌 『過客』

  1944年7月7日、サイパン島の日本軍守備隊は全滅した。出征の壮行会でビールを注ぎあったのが今生の別れとなり、弟は若くして靖国神社に祀られる存在となってしまった。弟よ、どうして神になどなった。倶に白頭を戴き、美酒を酌み交わしながら来し方のあれこれを語り合うような人生もあり得たのではないのか。

  かつぎ出す案山子や誰の学生帽 『過客』

  新たに作った案山子が稲田にかつぎ出される。見ると学生帽を被っている。一体誰の帽子であろう。『一粒句集』第30集(1993年)所収の葦男自選作品にも見える句であるが、前年の秋、一粒(いちりゅう)句会の席上で葦男がこの句の名のりをした時のことを筆者ははっきりと憶えている。

  詠まれているのは秋の収穫シーズンの他愛ない悪戯である。現に作者である葦男本人も簡単にそのようなコメントをした。だが、そのとき筆者はこの学生帽がなぜか葦男の戦死した弟の遺品のような気がしてならなかったのである。そして、学生帽を案山子に被らせるという行為に度を越えた悪ふざけを感じ、これは戦死者への冒瀆ではあるまいかとまで思ったのであった。

  しかし、葦男逝去の後、時間を置いてこの句を読み返しているうちに、思いがけなくも全く異なる読みが浮かんで来た。つまり案山子は憑り代であり、学生帽を被らせることで特定の死者の霊魂をそこに呼び下ろすことができる招魂の装置なのかもしれないと。もしそうだとしたら、はるか故国を離れた地で非命に斃れた人々の霊魂は、年年歳歳、実りの秋に懐かしい祖国に帰って来ることができることになる。

  冒頭の句にもどろう。「柿のはらから」というフレーズがすっと出てくる背景には葦男と亡き兄弟たちとの数十年に亘る対話の蓄積がしっかりと活かされているのだ。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 落日にケロケロ笑ふ曼珠沙華   日野晏子

 「日野晏子遺句集」(平成7年10月刊、以下『遺句集』と表記)昭和三十一年~昭和三十九年の章に所収、初出は今のところ未確認。

  「落日」から放たれるオレンジ色の眩しさと一群の「曼珠沙華」が連ねる花びらの赤の鮮やかさ、この取り合わせが一句にもたらすのは過剰なまでにまばゆい光と鮮やかな色彩とが激しくぶつかり合う空間である。このぶつかり合いを目の当たりにするとき、「落日」と「曼珠沙華」の間にあるはずの余白は、光と色彩の前に塗りつぶされてしまったかのごとく存在を消されてしまっている、まるで他の命あるものすべての存在を消し去ってしまうかのように。この空間に響きわたる「ケロケロ」という笑い声、「曼珠沙華」の一群から次々と放たれる笑い声は「落日」の眩しさを浴びることでますます響きは鋭さを増し、その切っ先はこの空間すべてのあらゆる存在に向けられる、もちろんこのような生きとし生けるもののたたずめる余白のない空間を呼び出してしまった己の存在に対しても、である。だからいくら耳を塞いだところで、自らの生をあざ笑っているかのように「ケロケロ」との響きはこの一句の空間に響きわたっているのである。だが「ケロケロ」の嘲笑の響きなくして「落日」と「曼珠沙華」がもたらす空間は、生死のはかなさへ対する漠然たる叙情に包まれたものにとどまっていただろうことも間違いない。作者である晏子はこの一句の空間に「ケロケロ」という響きを取り込むことを決してためらわなかった、そうすることによって「落日」の眩しい光と「曼珠沙華」の鮮やかな色彩に塗りつぶされた空間にひとりたたずまねばならない自らをあざ笑うかのように。

  さて、わたなべじゅんこ氏は著書「俳句の森の迷子かな 俳句史再発見」(2009年11月 創風社出版)の晏子を取り上げた一文の中で、掲出句について「さすがの私もついていけない。どうしてこんな句ができたのだろう。気になる。」と戸惑いを露わにしているが、その戸惑いについては、ここまでなんとか鑑賞してきた私自身も大いに頷かされた点で、なにしろただでさえオノマトペを一句に取り扱うのは難しい上に現れたのが普段でもめったに登場しない「ケロケロ」なのだから、戸惑いが生じるのも無理からぬところであろうか。その上でわたなべ氏は晏子の作品への印象について(ここでは掲出句を含めたアンソロジーを読んでのもの)、「夫の楽しみのためという、どちらかと言えば消極的な理由で始めた俳句であったせいか、あまり上達しようとの意志を感じられないように思う」と述べているが、この点については晏子俳句のウィークポイントとして頷ける部分がある一方で、「上達しようとの意志を感じられない」という指摘にはどこか頷けないものも感じられる。「上達しよう」との意志は草城の死後に夫への思慕をモチーフとして作り続けた晏子にとっては欠かせないものであったはずだし、「草城の妻」としての誇りもあったであろうからだ。ただ俳句を作り続けようとする彼女の前に広がっているのは、自分の俳句の「上達」を認めてくれる存在であった夫、日野草城がいない日々なのである。

  掲出の一句に戻ると、一句の全体に高らかに響きわたる「ケロケロ」という笑い声は確かにわたなべ氏ならずとも大いに「気になる」のだが、この戸惑いはもしかしたら一句を作った晏子本人にもずっと存在していたのかもしれない、もし草城ならはっきりと読み解いてくれたかもしれないとの思いとともに。でも当然のことながらこの一句が出来たときに晏子の前に草城はいない。「落日」の眩しい光と「曼珠沙華」の鮮やかな色彩を共に喜んでくれる者の不在を思い知らされるとき、「ケロケロ」という響きは曼珠沙華からの笑い声ではなく、自分自身の嘆きの響きとして現れてきたのかもしれない。果たして「ケロケロ」「ケロケロ」と響いているのは、時を経てもなおも続く晏子の慟哭なのだろうか。その問いに応えようにも、この一句の空間は眩しすぎる光と鮮やかすぎる色彩と、耳障りにも程のある不思議な響きとに包まれて、あまりにも余白が少なすぎるのである。

 

●―9上田五千石の句/しなだしん

 これ以上澄みなば水の傷つかむ    五千石

  第三句集『風景』所収。昭和五十五年作。

 『風景』(*1 )は、昭和五十三年より昭和五十七年まで、四十五歳から四十九歳までの作品326句を収録する第三句集。

     *

  前回、五千石は俳人協会新人賞受賞後スランプに陥り、その後山歩きをはじめ、徐々にスランプを克服してゆき、昭和五十年には主宰誌「畦」を創刊したことは書いた。

  第二句集『森林』の収録句数が254であるのに対し、第三句集『風景』は326句を収録しており、「畦」の発表句を含め、落ちついた作句活動を安定的にしていた時期といえるかもしれない。

     *

  掲句は「澄みなば水の」と季語を崩して使っており、順接の仮定条件の形で「水澄む」が出来あがっている。いかにも五千石らしい、ナイーブな感情をものに託してストレートに詠った、五千石の代表句のひとつである。

     *

  ところで、『風景』のこの句の前に置かれた句は

 紅葉照る双つ泉を姉妹とも      五千石

 であり、この句には「北軽井沢 二句」と前書きがある。つまり、掲出の「これ以上」の句も、北軽井沢で詠まれたものということになる。

  また「畦」昭和五十五年十一月号には、同じく「北軽井沢」と前書きの、次の句が残る。

  水の脉闇にひびかし冬そこに      五千石

  これらのことから、北軽井沢の紅葉の頃、おそらくは十月後半頃の、双子の泉か沼や池での作と推察できる。「水澄む」の季語の季感は九月というのが一般的かと思うが、十月の、冬を間近に感じる頃の写生と思うと、「これ以上」澄めば、という措辞も大いに頷けるところである。

     *

  なお、北軽井沢付近の双子の泉、または池や沼を探してみたがどうも見つからない。佐久市の西側、八ヶ岳湖沼群に「双子池」というのが見つかったが、北軽井沢からは離れすぎというのは否めない。やはり北軽井沢辺りに姉妹のような、名も無い小さな泉が存在するのかもしれない。

  ともかくも、「水澄む」の句として口ずさみ続けたい一句である。

 *1 『風景』 昭和五十七年十月二十五日 牧羊社刊

 

●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 黄落や滅び行くものみな美し

  類想句がいくらでもありそうな気がしたが、思い出せなかった。むしろ短歌にその1つのフレーズが似ているものがあったが。類想句がありそうというのは、普通は作家の独創性を否定することになるのだが、しかし、世界で初めてこの句に出会ったときの感動は計り知れないものがあるような気がする。短いフレーズの中で、自分の思いを120パーセント言い切ってくれたら、それが独創であろうと、類想があろうと構いはしないのだ。だからそれはちょっと宗教の言葉に似ている。最も古い「モットー」とされる「祈りかつ働け」(Ora et labora)はベネディクト会のものだが、この言葉の荘重さは独創から来ているのではなくて、普遍性によるものであろう。英王室の紋章にある「思い邪なるものに災いあれ」(Honi soit qui mal y pense)もそうだ。憲吉のこの句もそうした荘重さを伴っているようである。

  『方壺集』、昭和59年11月の作品から抜いた。憲吉晩年の作品といってよいから、憲吉の気分の中にこうした思いが生まれていたとしてもおかしくない。軽佻浮薄な人間が吐く、意外に重い言葉に我々は感動する、文学は宗教でないからである。いや、真の宗教は、宗教に反するところから生まれるべきだからであろうか。

     *

  詩歌の中で、「美し」などという主情的言葉を使うのは初心者のすることだという批判もあるようだが、「美し」を乱用してまさに成功を収めたのは、客観写生を唱えていたホトトギス派であった。

 手毬唄かなしきことをうつくしく 高濱虚子

 炎上の美しかりしことを思ふ   高野素十

 人の世にかく美しかりし月ありし 星野立子

  美しいものを素直に美しいといって美しく感じさせるには、かなり逆説的処方を駆使しなければならない。ホトトギス派は「客観写生」という主情を排するドグマを持っていたから、こうした逆説を十分駆使することが出来た。憲吉はどうであったろう。ホトトギス派とは違って、意外に爛れたような生活から神を求めるような信仰心がほんの一瞬、刹那のようにわいたと思えなくもない。日本で愛されていて本国では忘れかけているフランスの小説家シャルル・ルイ・フィリップ(『朝のコント』の著者)は臨終にこういった。「ちくしょう、なんて美しいんだ!」。極めて俗ぽい言い方だが、上の句の心情に通じるであろう。

 

●―12三橋敏雄/北川美美

 淋しさに二通りあり秋の暮

 秋は夕暮れ。「秋の暮」は、日本人の美意識の根源ともいえる壮大な季題である。

  格調高い三夕(さんせき)といわれる「秋の夕暮れ」の歌(*1)が収められた『古今集』(平安初期)では、時間とともに物がうつろう「悲しさ」を秋の夕暮れに詠んだ。そして『後拾遺集』(平安中期)以降には、

さびしさに宿を立ちいでてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ 良暹『後拾遺集・秋上』

秋はただ今日ばかりぞとながむれば夕暮れにさへなりにけるかな 源賢『後拾遺集・秋下』

 と、秋に淋しさを強く感じる歌がみられるようになる。そこに「無常」「幽玄」という美意識が後に加わっていき、日本人はなんと高貴な民族であることかと、千年もの昔がありがたい。

  「わびしい」「さびしい」という感傷から発展した「侘(わび)」「寂(さび)」は利休・紹鷗により美意識に。さらに江戸・蕉風俳諧では創作理念の骨格となり、貧窮・失意に精神的余情美の深まりを求めたのである。ちっぽけでみすぼらしいものに美しさを詠んだ。

 此道や行く人なしに秋の暮 芭蕉

 去年より又淋しいぞ秋の暮 蕪村

  ちなみに「淋」に「さびしさ」の意があるのは独特の用法で常用漢字は「寂」のみ。俳句では「淋しい」という表記が好まれるようだ。

  とにかく「秋の暮」は古くから悲しく淋しい伝承の季題である。

  此頃はどうやら悲し秋のくれ 子規

  新興俳句弾圧以降、敏雄は、師である白泉、そして青鞋とともに古俳句研究に興じた。白泉を顧みて敏雄は「常に俳句形式の成果を歴史的に見通してみずからの表現力の進展をはかろうとする、かねてよりの思いに従ったまでであったと思う。」(「俳句とエッセイ」昭和58年)と語っている。

  白泉の「秋の暮」を引いてみよう。

 向ひ合ふ二つの坂や秋の暮 白泉

 谷底の空なき水の秋の暮

 そして敏雄自身も先人へ挑むような「秋の暮」の句を詠んだ。

 木の下に下駄脱いである秋の暮 『青の中』

 縄と縄つなぎ持ち去る秋の暮  『まぼろしの鱶』

 秋の暮柱時計の内部まで

 石塀を三度曲がれば秋の暮  『眞神』

 先人みな近隣に存す秋の暮  『疊の上

 あやまちはくりかへします秋の暮  『疊の上』

 上掲句、「淋しさに二通り」の句が作られたのは、1982(昭和57)年。『疊の上』に収録。同年に『淋しいのはお前だけじゃない』(西田敏行主演)という人情ドラマが人気だった。戦後の復興を遂げ、物が溢れ、豊かになったはず国が、どこか「淋しい」。人は我武者羅に生きながら、「淋しい」という言葉に、あぁ淋しいと気が付かされた。

  歌詞に「淋しい」「不幸」という言葉が多用される、かの阿久悠の1993年のコメントに、「歌が一番大事なのは、こんな不幸な目にあって悲しいということではなくて、不幸のちょっと手前のね、切ない部分がどう書けるかということが、僕は一番大切なことだと思っているんですよ。」というのがある(*2)。「淋しさ」という言葉が、人の心を動かし、豊かで便利な世の中が、少し淋しいこと、ということに人々は気づき始めていた。日本人のDNAの中に「淋しいことは美しいこと」という螺旋が組み込まれているのかもしれない。

  その「淋しさに二通り」とは、相反する二つの「淋しさ」のことと解する。「理由のある淋しさ」「理由のない淋しさ」、「ひとりでいる淋しさ」「人といる淋しさ」、「お金のない淋しさ」「お金のある淋しさ」だろうか。秋の淋しさを突き詰め、うつろいゆく人の心に世の無常観を詠んだと解釈する。

  「あやまちはくりかへします」の句は、掲句の二年後、1984(昭和59)年に作られた。「あやまちはくりかへしませぬから」と論争に発展した原爆慰霊碑の言葉を連想する。うつろいゆく秋に、あやまちはいつか繰り返されるかもしれないという、これも世の無常観がみえる。「秋の暮の淋しさ」を研究し、無常の世を見てきた人の句である。

  現在の日本に「清貧」という言葉が再び価値ある言葉として扱われている。諸行無常。「秋の暮」に凝縮された日本の情緒が伝わる。敏雄の句を通し、無常ということについて想う2011年の秋の夜である。

 

*1)三夕(せんせき)の名歌 『古今集』

  さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮

 心なき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行

 見わたせば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 定家

*2)阿久悠の歌詞には確かに、「さびしく微笑み…(ラストシーン)」「私はなぜかブルーさびしい…(ギャル)」「おまえさん雨だよ、さびしいよ…(おまえさん)」など、「さびしい」が頻繁に登場する。

  

●ー13成田千空の句/深谷義紀

 新藁を焼くはふるさと焼くごとし  『忘年』

 多かれ少なかれ、どの俳人についても言えることだろうが、千空の句集を紐解くと採り上げる季題が時代とともに変化していくのが分る。なかでも顕著な変化を示すのが農業関連の季題であり、時代が下るにつれて急速に減少していく。これは、終戦後の一時期帰農生活を送っていた千空がその後離農したという個人的事情に加え、季語となっていた田園風景あるいは農作業が消滅していったという社会的環境の変化も影響しているのであろう。

  それでも晩年に至るまで千空の創作意欲を刺激した、農業関連の季題がいくつかある。掲出句もそうした作品のひとつであり、収穫後の藁焼きが作品の対象となっている。

  農作業の目的は、なんと言っても対象作物の収穫にある。とりわけ米の場合は主食であり、その実りが多ければ豊作を祝い、少なければ凶作、すなわち生存の危機に直面することになる。一方、藁自体はあくまで副産物に過ぎない。もちろん、かつてはそれなりの用途があり、俵の材料にしたり、馬小屋や牛舎に敷き詰めたりもしたが、所詮主役にはなりえない。しかし、そうした即物的あるいは経済的観点を超えて、新藁には一年間の農作業にまつわる様々な思いが凝縮されている。こう記すと、如何にも季題趣味だとの叱責が聞こえてきそうだが、それが実際の職業体験や生活感覚を結実させたものであれば、風雅を愛でるだけの季題趣味とは一線を画したものになる筈である。

  新藁を焼くのは、千空の居住する五所川原近辺でよく見られる風景だ。かつては稲刈りを終えた後に急いで藁を焼き、男たちは出稼ぎに旅立っていった。本来ならば新藁は田に漉き込んで地味を整えるのがよいが、手間もかかるため専ら焼かれて処分されていたと聞く(現在では煙害として各地で条例による規制が行われている)。一年を通した農作業を終えて藁を焼く農家の男たち(そして女たち)の胸には、どのような感慨が去来しているのだろうか。

 かつて千空は次のような作品をものしている。

 藁焼きの胸のうつろを思ふべし  『人日』

  一つの仕事を終えた安堵感と裏腹の寂寥あるいは虚無感だろう。

  さらに千空は、その煙の中に家族や仲間の姿を認めた。

 焚き添へてふくらむ藁火遠い母   『地霊』

  千空にとって新藁は、こうした思いを包含する故郷の象徴であり、その存在の一部なのである。


●ー14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】23.24./吉村毬子

2014年3月7日

23 羽が降る嘆きつつ樹に登るとき

 何の羽であろう。翅ではなく羽であるから、鳥の羽であろうか。羽を持つ神のものだろうか。人は嘆きつつ天を仰ぐ。嘆きつつそれでも上昇しようと、天へ近付こうと樹を登る。平坦な地を緩やかに歩いて行く幸せに浸ることよりも、譬え険しい道であっても登りつめたいと喘ぐ時がある。

 しかし、もうすでに地が温かく安らかな道でなくなった時、人は樹に登ろうとするのかも知れない。誰も助けてはくれない、たった一人のその痛みに耐え続け、荒地を踏みしめ幾度も転倒しながら、「嘆きつつ樹に登るとき」、柔らかく静かに「羽が降る」のである。

 真っ青な空から羽の降りくるその静謐な時。その羽は嘆いている者を労わるように、優しく包むように肌に触れる。長い旅路の渡り鳥たちの苦悩と戦いに抜け落ちた羽を、痛みを知る者へ風が運び来ることもあろう。

 抜け落ちた羽であっても、羽は飛ぶ為のものである。嘆きつつも樹に登る者へ、昇り、飛翔する為の羽を与える。それは、樹の天辺へ登りつめたなら、自由な空の世界を羽撃きなさいという暗示とも理解できる。しかし、空への上昇、羽撃きは、昇天にも価する。苦しみから解き放たれた、嘆かなくともよい自由な空間へと救われるという意味も包含する。

 富澤赤黄男に次の句がある。

  羽が降る 春の半島 羽が降る   赤黄男『蛇の笛』

 苑子の句は、「嘆きつつ」と率直な表現で詠っているが、困頓とした終戦後の闇の中の赤黄男は、「嘆く」ことも、「樹に登る」こともせず、もはや降り続く「羽」を遥かな春の半島で見詰めているしかなかったのかも知れない。

 だが、羽、樹木の色彩感溢れる瑞々しさと清々しさは「嘆きつつ」がなければ、その存在感が迫ってはこないのである。

 第1章【遠景】とはまた異なる第2章【回帰】も美しき寂寞の句より始まるのである。


24 落鳥やのちの思いに手が見えて

 「落鳥」とは、鳥が死ぬことである。鳥は、飛ぶことが生を意味するのであるから、落ちる=死ぬとは頷ける。1970年代のベストセラー小説の『かもめのジョナサン』(リチャード・バック)を思い出す。少女時代に父の愛読書の中から盗み読みしてから今でも好きな物語である。主人公の鷗、ジョナサンは、飛ぶ行為自体、即ち速く飛ぶことだけに価値を見出し、餌を採るために飛ぶ他の鷗たちから異端扱いされ、群れを追放されてしまう。それでもジョナサンは、飛び続け、もはや飛行とは違うより高い次元へと向かって行くのである。

 揚句の中七下五「のちの思ひに手が見えて」とは如何なる解釈ができるのか。「や」の切れ字を置いても鳥が死んだことへの「のちの思ひ」なのであろう。推理小説のように後から落鳥の原因を探っていけば、その手法が(例えば、誰かが括ったとか・・・)明らかになったということにもなる。が、死後の思考の内に死ぬこと自体が手法であったのか、と思いあたったとも取れる。自死という手法である。その場合、「落鳥」は、鳥の自死というよりも、隠喩になるのであるが・・・。

 しかし、一句目「羽が降る嘆きつつ樹に登るとき」とこの句との並列には、仏教の六道、(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)を想起させるものがある。嘆きつつ樹に登った人間が羽を得て、鳥(天)に姿を変えた後、地(地獄)に落ち、餓鬼・畜生・修羅を経て、また人となったのではないかと私には思えてくるのだ。

 果たして、前掲のジョナサンは落鳥に至ったのか、否や、永遠に違う空(天)を飛び続けているのではないか。

 この面妖な句も『水妖詩館』第2章の始まりを飾るに相応しい一句である。


2025年6月27日金曜日

【連載】現代評論研究:第10回各論―テーマ:「夏」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

2011年09月09日 

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 空壜から流れ出た乞食一人夏を行く

 昭和58年の作品である。乞食という浮遊生活者を流動体の如く、そしてその存在の卑小化が空壜と同じ位相に置かれている。また、空壜という空虚な存在を乞食の人生にも対峙させているのであろうか。更に、空壜と一人という存在を作者の内面で自己対象化させているとも考えられよう。夏の炎天下を一人行く後ろ姿は「ほいとう」と呼ばれた行乞僧・山頭火をも思い起こさせるかもしれない。しかし、次句には「壜の口から乞食襤褸(らんい)の匂いこぼしながら 昭和58年」とあり、山頭火を尊敬していた圭之介にはそのような視点はなかったものと思われる。

 忘れ得ぬ人は初夏に似て虹の終り       昭和59年

 果実と太陽の酸味もつ思慕か         平成11年

 初夏の様に爽やかな面ざしであったが、虹が消え去るように、といった内容であろうか。初夏と虹といった季重なりは超季を主張する自由律俳句に於いては問題にならず、この句の場合にはむしろ並置されることによって情感が増すものと思われる。

 それから25年経っても抱く思慕は甘酸っぱいものであったのか。果実と太陽といった相互作用は意識の時間的経過の素因として、酸味はその熟成の結果としての回顧的な青春性を漂わせている。

 遠雷だポプラ並木の向うをごらん       昭和60年

 デッサンの様な、散文詩的な印象鮮明な語りかけである。一直線のポプラ並木の向うにあるものとは、その存在が眼に見えぬ故に読みのベクトルが多様化されてくる。この様なリズム感をもった歌うような表現は、荻原井泉水が唱えた「自由律俳句は印象の詩である。・・・・・それを外的なリズムではなく、内在的なリズムで詠う」との下に、昭和初期の「層雲」の自由律俳句に多くみられた。代表例をあげてみよう。

 額(ぬか)しろきうまの顔(かほ)あげて夏山幾重   和田光利  昭和6年

 麦は刈るべし最上の川の押しゆくひかり         々    昭和7年

 この様な朗誦に堪える作品が現代俳句に見られなくなって久しい。特に後句は芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」の句よりも力強く生命力にあふれた作品として記憶されよう。


 最後に、テーマ「夏」にそった圭之介の他の作品を掲げてみよう。

 雲は完全燃焼したか夏の港          昭和28年

 五月は指から蝶がしたたり落ちた       昭和55年

 誰も憎めず鍬形蟲は木にいるだけだ      昭和59年

 ひと夏すぎ 隅の埋まらぬ図残し       平成10年

 七月の町が尽きる 海へ落ち         平成20年

 暑く夕日が好み いつものまわりみち     平成20年


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 この道や滝みて返すだけの道  『冬濤』所収

 第二句集『冬濤』のなかで、4句並ぶ滝の句の4句目の作品である。

 滝みると人にかす手の恋ならず

 滝の音によろけて掴む男の手

の後に掲句が置かれる。

 大胆に情熱的な句を詠んだかと思うと、一転して冷ややかな句が並ぶのも、きくの作品の特徴である。浮かれた気分から、ふと我に返るというより、本来冷静な視線の方がきくのの本質なのだろう。

「滝を見に行く」「滝を見ている」「帰る」、この単純な道程のなかで、抒情から隔絶できるのが帰り道である。目的地から遠ざかるにしたがって、次第に自己を取り戻す。同じ道の往復で、これほど静かな視線になってしまうことが、きくのの寂しさであり真実である。

 ことに「滝」という、もっとも激しい水の姿、圧倒的なパワーの前に、五感が研ぎすまされたのちであることが、一種の透明感を与えているように思われる。

 先ほどまで轟音を立てていた滝が、今はもう川のせせらぎに変わり、一歩一歩が確実に滝から離れていく。 それはまるで「滝みて返すだけの道」が、人生を折り返すときにさしかかる自分の胸中にも重なっているようだ。

 手を伸ばせば触れられるほどの距離にあった水しぶきも、豪快な水の匂いからも離れ、今はただ単調な山道を踏んでいる。同じ道をたどりながら、往路と異なるのは、唯一滝を見てきた自身の経験である。滝を見て帰る道は、滝を見に行く道とは、心情的に決定的に違うものであることを掲句は示唆する。

 降りかぶった飛沫の湿り気がまだ乾かぬ間に、手を借りた異性のことさえも、きくのにはもう遠い過去となっている。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 炎天といのちの間にもの置かず

 例年にも増して、今年の夏は暑かった。筆者の住む東京都練馬区では、37度を記録したという。そこで、今回は、夏の一句ということもあり、「炎天」の句をあげてみた。

 掲句は、昭和22年作、句集『玄』(*1)所収。

 いつもの如く、まずは自註を見ていく。

 「死の如し」百句中の句。灼けた天蓋と僕のいのちは直通するものである。その間に何ものの存在も許さない。死への没入は独断である。(*2)

 掲句は連作「死の如し」九十七句中の一句。自註では「百句中の句」としているが、句集では「九十七句」とあり不審に思っていた。雑誌掲載時と句集収録時とで句数が違うことはよくあることだが、確証がなかった。今回、俳句文学館の井越芳子氏の協力を得て、初出の「壺」昭和22年12月号の該当箇所を入手。掲載時の百句と句集のそれとの異同を確認することができた。やはり、句集収録時に三句落としたようだ。(*3)

 誌面を借りてあらためて、井越氏にお礼申し上げる。

 さて、掲句であるが、下五に〈もの置かず〉と据えたことで、焼付く夏の太陽の熱気が空一面に充満し、息苦しささえ感じる〈炎天〉がリアルに立ち上がってくる。まるで〈炎天〉と〈いのち〉とが直結しているような印象を〈もの置かず〉と据えたことで与えているように思う。そうした〈炎天〉のありようがみえてきて普遍性を獲得している。中七の〈間〉は「かん」と読む。〈炎天といのちの間にもの置か〉ないこと、それがすなわち「生」(リアル)であると述べているのだ。あるいは〈炎天〉にさらされる〈いのち〉が「生」であり、〈もの置〉く状態が「死」ということかもしれない。どちらにせよ、間接話法によって、観念である「死」の実感を描いて見せようとした点にこの句の面白さがあるように思う。

 さらにいうならば、この句は玄の作句心情を詠んだものともいえる。いうまでもなく「炎天」は季語であり、観念である。俳句とはこの観念を通じて詠み、読み合うものである。「季語と向き合う」という言い方を俳句の世界ではよく使う。一方で「ものをよく見る」「見えたものを的確に写し取る」という言い方もよくされる。だが、実は「季語」と向き合うということは歳時記に記載された観念の集積である先行句と目の前にある対象との差異を発見することに他ならない。いわば観念と自分との間に先行句というものを置いてなぞることで一応俳句らしいものはできあがる。だが、それは観念をなぞっただけのもので、自分の俳句ではなくなるのだ。季語という観念といのちという実態との間に〈もの置かず〉という「真空の場」を設けること。そうした、当時の玄の作句信条が掲句に読み込まれていると解釈することもできる。

 こうした玄の俳句に対する姿勢は、当時、永田耕衣らが提唱した「根源俳句」の影響を少なからず受けているように思われる。あまり知られていないことではあるが、永田耕衣は昭和22年8・9月合併号から「壺」の同人として参加している。

 西東三鬼の推薦で山口誓子の「天狼」同人となるのが昭和23年5月号からなので、「壺」在籍期間は一年にも満たない。しかし、その後もしばらくは交誼が続いたらしく、「壺」昭和23年7月号には「生命往来」と題して、玄と耕衣の往復書簡が掲載されている。当初連載の予定であったらしい。ただその日付が「五月二十九日」で、「鶴」「風」同人を辞める前後のことで、この号以降、耕衣との往復書簡が掲載されることはなかった。その書簡のなかで耕衣は「ご存じのように僕は『根源俳句』を提唱し主に波止影夫氏と肝胆相照らして多少の実践をして来ましたが、そして根源俳句は象徴俳句とはいさゝかその意を異にしてゐますが、この根源俳句といふものに早くも行詰りを感じそめました」と心情を吐露している。その理由として「現象の根源を把握しなければ真に生命に直面し生命を痛感することは不可能であると信じて」いるが、「捉へるといふこと、捉へたといふことにおいて囚はれ易いと思ふ」と述べている。その打開策として「根源に住し切った場所で自由に優遊するところがなければならぬ」としている。

 それに対し玄は、耕衣の言う「根源精神に住し優遊すべき方法」とは具体的に何かを問うている。「物象を根源より求めず、常識的に実想観入」するという「表面より徐々に凝視を連続してゆく方法」との違いを「如実に知りたい」とも。「私は根源俳句といふものは結末ではなく一つの方法論として考えたい」と立場を明確にしている。耕衣は書簡のなかで、「僕の根源俳句は『生命の痛感』といふこと」で、これを「生命主義」あるいは「人生主義」と言ってもよいという。さらには自作の「見る者がつぎつぎ違ふ揚羽蝶」をあげて、「何かしら身を切られるような生命の切ない痛感があると見て戴けないでせうか」と訊ねている。玄は「生命の切なさといふものはうたはなければ流れ出さないもの」という認識を示し、「生命の切なさは根源探究に限って恵与さるべきものではない」と根源俳句の限界を喝破している。「大兄は大兄、私は私、生命の切なさは切つても切れぬものですから、これを俳句と同義なりと思ひ、これに生涯を托するより途は無いやうです」と結んでいる。ここからも分かるとおり、玄は「根源俳句」の影響を受けつつも独自の生命観で俳句と向き合おうとしていたのである。

 明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり   昭和41年作

 その後、玄は昭和28年に「壺」を休刊。妻節子が昭和40年に癌を発病し、その葬送までの顛末を克明に描いた連作「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」193句をまとめるまで、俳壇的には長い休筆期間に入る。その連作中の一句。破調であることで、〈明日死ぬ妻〉の嘆きと〈炎天〉のすさまじさ、「生命の切なさ」が切実に伝わってくる。

 炎天を墓の波郷は立ちてをり   昭和45年作

 前書「深大寺展墓」師石田波郷を前年の昭和44年11月に見送って、最初の夏の句。「炎天や」とせずに〈炎天を〉としたところに俳句形式へのあらがいと情感に流れまいとする矜持を感じる。「炎暑の中を波郷の墓に詣でた。立っている時間よりも臥していた時間が多かった波郷は、墓に化して永久にたち続ける」という自註(*2)の文章にも「生命の切なさ」がにじみ出ている。

 炎天や病臥の下をただ大地   昭和53年作

 炎天下歯ぢからといふ力失せ   昭和53年作

 雀らの地べたを消して大暑あり   昭和53年作

 『雁道』所収の晩年の三句。一、二句目は「死」を観念として捉えていた頃に比べるとわかりやすい。だが、〈もの置かず〉の矜持は崩れていない。

 三句目の〈地べたを消して〉が雀さえも遊ばなくなった〈大暑〉のすさまじさを伝える。

 玄にとっての夏は〈炎天〉に象徴される観念(死)と〈いのち〉が切なくも向き合う季節だったのかもしれない。


*1 第3句集『玄』 昭和46年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊

*3  「死の如し(百句)」 「壺」昭和22年12月号(第8巻12号)所収

 ちなみに、句集未収録句は「このいのち風鈴の音の散れる如」「破蓮へ音なく歩むことを得し」「破蓮女の声をとほすなり」の三句。百句の世界観に合わなかったと思われるが、三句とも「音」をモチーフにしているところが興味深い。


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 漬け西瓜くるりくるりと濡れ難し

 『火づくり』所収の句。1949年から1952年の作品から成る「水の章」から。

 井戸や水を張った盥に西瓜を漬け、冷やす。電気冷蔵庫が普及する前の、夏の風物詩である。未熟な西瓜は沈み、熟した西瓜は浮く。食べ頃は水面から少し顔を覗かせるくらいのとき。ぽっかりと浮き上がる西瓜はもはや水分が抜け、鬆(す)が入っている。葦男の前にあっていくら押しても沈まない西瓜は、残念ながら食べ頃を逸していたらしい。

 葦男を講師とする月例句会に参加して間もなく、筆者は先輩から句集『朝空』を貰った。1987年のことである。『朝空』は1984年刊。『火づくり』、『機械』、『残山剰水』、『山姿水情』の既刊4句集からの抜粋に、『火づくり』以前と『山姿水情』以降の作品を加えた300句から成る、葦男生前最後の選集である。「漬け西瓜」の句に出逢ったのはこの『朝空』を読んだときであった。

 この連載の第1回でも触れたように、「前衛俳句の論客」という肩書きから漠然と圭角ある人物を想像していた筆者の先入見は、葦男その人との初対面の段階で払拭されていたが、胸中には尚お一抹の疑団が残っていた。「とはいってもやはり前衛俳人。きっと書くものは詰屈聱牙(きっくつごうが)に違いない」と。

 そんな筆者の前にぽっかりと浮かび上って来たのが、冒頭の句だったのである。

 庶民的な素材と飄逸なタッチ。「くるりくるりと濡れ難し」には西瓜と悪戦苦闘する人の姿まで見える。的確にしてユーモラスな表現である。そして一句に横溢する真夏の季節感。無季俳句をもって盛名を得た俳人が、かつてこのような句をものしていたことに、筆者は驚きかつ安堵した。

 『火づくり』には外にも西瓜の句がある。

 満身を没し西瓜の楽々と

 「水の章」に続く「地の章」(1952年~1956年)にある句。こちらは完全に水中に沈んでいる西瓜である。「楽々と」という措辞には、まるで作者自身が風呂に漬かっているかのような体感がある。漬け西瓜と合一した至楽の境地である。

 ところで、西瓜といえば、前衛歌人の塚本邦雄はこのウリ科の一年生果菜が大の苦手であった。随筆『ほろにが菜時記』にいう。

 西瓜が大嫌いで、見てもぞっとし、臭いをかぐと嘔吐を催す私は、夏三月、秋三月、何よりも無花果を賞味する

 塚本邦雄は葦男と交流があった。1963年5月の『十七音詩』25号<火づくり特集号>に「俳風プロメテウス」と題する熱烈な一文を寄せているくらいである。葦男は、前衛短歌の壮麗なる大伽藍を建立したこの歌人が西瓜を嫌うことかくも甚だしいことを、果たして知っていたのであろうか否か。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 炎天に水あり映らねばならぬ    神生彩史

 昭和24年(1949)「青玄」創刊号掲載。掲出句を含めた作品によって第一回「青玄賞」を受賞、昭和26年(1951)2月号に掲載の受賞作50句にも収録。ちなみに歴代の「青玄賞」受賞作を収録した『青玄賞青玄新人賞作品集』(平成10年9月、青玄俳句会)には未収録である(全作品を30句に統一したせいと思われる)。

 厳しく照りつける夏の日差しの下にようやく現われた「水」。それが洗面器いっぱいに張られて、静かにたたずんでいるものなのか、野山のとある一角に突如現れ、今もなおこんこんと湧き出でる泉なのか、それとも流れのとどまることを知らない川なのか、もしくは眩しく目の前に果てのないかのように水平線いっぱいに広がる海なのか、そのあたりはともかく目の前にはまぎれもなく「水」があり、水面にはまぎれもない己の顔が映し出されている。炎天から降りそそぐ夏の輝きが全身に痛いぐらいに感じられるこのときに出会う「水」は冷たさとともに、自らの心を和ましてくれる存在であるはずでなくてはならないのであるが、掲出の一句において「水」に出会ったこの人物は水面を覗き込んで己の顔に向かい合った瞬間、本来あるはずの何かが映っていないとの疑問に強く襲われ、水面の己の顔をさらに見詰めなおしたのだろう。そしていきなりの疑問を懸命に突き詰めた果てに、本来あるべき何ものかが今ここに存在していないとの確信をはっきりと得てしまったのである。そうでなくては水面に向かって「映らねばならぬ」との痛ましいまでの願いを自ら口に出してしまうまでには、決して至らなかったはずだから。

 ではこの瞬間、この人物にとっては何がいったい「映らねばならぬ」のだろうかと考えてみると、「水」に映る己の顔を真っ向から見つめ続けてしまっている自分自身の姿であろうことは容易に想像がつく。もちろん水面を覗きこんだときに自分の顔や身体が映っていないはずはないのであるが、水面という鏡を通じて露わにされた自分の表情や現状などすべてを含んだありように対して、どうしても納得できない己が心のざわめきは「違う、真に映るべきはこのようなものではない」との呟きを幾度も水面から視線を放せなくなってしまっている自分自身にもたらし、「わたしは今、いったい何ごとかを為しているのか」との問いを水面に映りこんでいる己の顔に、すなわち本来あるべき姿ではない(と思われてならない)自分自身に向かって突きつけてしまうのである。だが水面に映る己の顔からは決してこの問いに対する答えは返ってくることはない、もちろん問いを発した自分自身こそが、そのことをいちばんよく分かっているはずである、自分自身への凝視がもたらした存在への問いを、さらなる凝視を通じて突きつめようとすることこそ、水面に映る己の顔、すなわち今の自分自身のありようへの何よりの答えであるはずだからだ、たとえその答えが余りにも過酷なものとして自分に突きつけられようとも。

 戦前、新興俳句の最前線にあった日野草城の「旗艦」において彩史は「自画像」との前書のもと「あんなに碧い空でねそべつている雲」と詠んだ。それからの転変についてはここでは触れないが、自ら雲となって「ねそべつて」いたひとりの男性が、己の存在のありようを凝視するまなざしをもって見ようとしていたのは、碧い空に白い雲を味わうだけでは済まなくなってしまった自分自身のありようであったことは想像に難くない。「青玄」創刊号に寄せた作品には、その変化からもたらされた作品に対する自負もうかがえるところだが、作品への評価はひとまず置いて、ここは創刊号掲載されたの掲出句以外の作品を引用するにとどめたい。(漢字は一部新字体に改めた)

 荒縄で縛るや氷解けはじむ

 昆虫の仮死へ一気に針を刺す

 深淵を蔓がわたらんとしつつあり

 痰壷をあはれ覗けり油虫


●―9上田五千石の句/しなだしん

 山開きたる雲中にこころざす     五千石

 第二句集『森林』所収。昭和四十九年作。

 『森林』(*1)は、昭和四十四年より昭和五十三年まで、三十六歳から四十五歳までの作品254句を収録する第二句集。

     *

 前回、五千石は俳人協会新人賞受賞後スランプに陥り、その後ひとりで山歩きをはじめたことは書いた。掲句はちょうどその頃の作品で、山開きの句である。

 ちなみに前述のスランプの影響はこの第二句集『森林』の前半に顕著で、たとえば昭和四十五年に残された句はわずかに8句で、この年には夏の句は一句も無い。

 さて、五千石は著書 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「自作を語る」の中で、掲句について次のように記している。

 山麓に永らく住んでいながら富士山の「山開き」に参じたことがないのはいけない、と発心して、この年から毎年七月一日浅間大社でのその神事に拝し、身の祓いを受けて一番バスで登山することに決めたのです。

 しばらくは単独、あるいは家妻同行でしたが、俳句の仲間、山の友達などが加わるようになり、いまでは私の主宰誌「畦」の三大行事となり、登山バス三台が用意されるようにまでなりました。

 スランプ克服の山歩きは富士登頂に、単独行から仲間と連れ立ってのイベントに、曳いては結社の行事にまでなったという、五千石の初志貫徹の心を表すようなエピソードである。

 なお、文章中の「いまでは」とは、この本の初版の刊行年から1990年(平成2年)のことになる。つまり、昭和四十九年からこの平成二年時点までに、16年富士登山が行われたことになる。

     *

 掲句の翌年、五千石は主宰誌「畦」を創刊する。仲間が増えることは嬉しいことだが、結社誌ともなれば、それに伴った責任も問われることになる。

 この句の「雲中」は手探りの五千石の胸中、「こころざす」は、それでも一歩一歩進もうとする意志と読むことができる。

 

*1 『森林』 昭和五十三年十月十日 牧羊社刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 匕首(ひしゅ)めく手帖胸に潜ませ男のポケット夏

 秘密を秘めた手帖を匕首(あいくち)に見立てたものだ。感心するほどの譬喩でもない。感心してしまうのは、「○○○○○○○○○○夏」と末尾に季語1コを入れることで、俳句として成り立たせてしまうことだ。こんな安直さは他の文学にはあり得ないだろう。有季定型の詩だといいながら、魂に相当する季語をこんな安直に選択し(「夏」である!)、こんな安直な場所に入れるのである。

 また<7+7+8+「夏」>と定型ではないのだが、俳人はこれを定型と読み解く。決して自由律とは言わない。「匕首めく手帖」を上5の3字の字余り、「男のポケット夏」を下5の5文字の字余りと見えてしまうのである。これも不思議な伝統だ。もちろん憲吉が日野草城系の新興俳句派の俳人であるという特殊事情があるように見えるが、俳人の頭はこれをぎりぎり定型と見る枠組みを持っている。

 こんな俳句だから、ちょっと面白いが、現代の俳人は憲吉に目を向けようとしない。俳句の教科書に載る俳句ではないのである。現代の名句とは安心して教科書に載せられる句であるからこうした生徒を混乱させる句はだめなのである。

     *

 にもかかわらず戦後の俳句としては掲げておきたい句である。楠本憲吉の特有の文体が匂い立つからである。いや戦後俳句を読むとき多かれ少なかれにじみ出る特徴が、楠本憲吉のこの失敗作により、その特徴を露骨なほど露出してしまうからである。私は、戦後俳句、それも昭和30年代から40年代にかけての作品をその前後と比較してこんな感想を述べたくなる。


①この時代の戦後俳句は、どんな伝統俳句や保守的俳句であろうと、自分たちの内部を語りたいという切望をもっていた。

②そして彼らは、自分たちの内部を告げるための独特の表現の形式や言い回しを工夫せずにはおかなかった。

③しかし、こうした独特の表現の形式や言い回しが、しばしば、彼らの作品に自己模倣を生み出させる原因ともなっていた。


 この例が典型的に現れるのは楠本憲吉であるが、実は、伝統俳句の代表とされる飯田龍太も、能村登四郎も、草間時彦も、内面を表現する独特の形式を持ちつつ、自家中毒のようにそれが自らを侵しているという現象を見て取ることが出来るように思うのである。不思議なことに、彼らの前の世代の人間探究派にはあまり見られなかった事象である。私が懇切丁寧に研究した作家の数はそう多くはないが、少なくともそれを行った飯田龍太と能村登四郎については間違いなくそれが言えたのである。

 問題はそれを是と見るか、非と見るかである。自己模倣など作家としては最低だという人がいるかも知れないが、独自の表現を持てたことをもって、私は無上の羨望を彼らに感じる。今の時代より、彼らの時代が不幸であったとはどうしても思えないのである。それは、楠本憲吉のこの珍妙な句についても言うことが出来たのである。こんな俳句は現代の若い作家は誰一人書こうとしない。実は、書けないのである。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 天地や揚羽に乗つていま荒男

 「一寸法師」の話。鬼から姫をお守りした一寸法師は小槌の魔法で立派な青年になり姫と夫婦になれた。しかし、倉橋由美子の『大人のための残酷童話』―「一寸法師の恋」では残酷な続きがある。姫は夫である一寸法師の肝腎なところが一寸法師であることに満足できず、姫は一寸法師と罵り、小槌で叩きあう夫婦喧嘩に。互いに小槌を振り回し、二人は、またたくまに塵ほどの大きさになったという結末である。掲句は、残酷童話の後の一寸法師を詠っているように思えた。姫の支配下から解放され、悠々と空を羽ばたいている一寸法師を想像する。

 揚羽は揚羽蝶のことで季節は夏だが、この句は夏を意識していない。蝶の飛ぶ姿が浮遊する魂を天界に運ぶとされた意味、自然界の魔性を感じる不思議な羽の文様の方に注目すべきだろう。

 一寸法師は、『御伽草子』の中の登場人物であるが、上掲句が収録される『眞神』には、先の第八回テーマ「肉体」―文中引用句「肉附の匂ひ知らるな春の母」で触れた、一寸法師サイズ、生を受ける前の視点で詠まれている句がある。

 霧しづく體内暗く赤くして

 産みどめの母より赤く流れ出む

 身の丈や増す水赤く降りしきる

 そして、母への思慕、エロスへとつながる。

 夏百夜はだけて白き母の恩

 夏百夜の句は、母者物といわれる母親に女性の性を詠んだ句で、人気のある句である。こちらの方が敏雄の夏の句として代表的かもしれない。色紙にも好んで揮毫したようだ。

 句集『眞神』の中の句はどれも一句として独立しながら、無季句をより際立たせるかのように配置の工夫がされている。そして赤子、父、母、たましい、山、川、石、赤・・・「眞神曼荼羅」を巡る題材が詠みこまれている。連句の手法である。

「明治時代に連句が滅びた理由なんていうのは、もう完全なマンネリズムの集積だよね。いろんな約束が多いから、それに則ってやってったら、いくら変化を重んじるっていったって、変化しないわけだ。あたらしい俳句のひとつの方法として、歌仙なんて形ではない、新しい形の「連句」っていうのを考えてみてもいいね。それは、新興俳句のときの連作と、どこかでつながってくるんですね、ですから連作と連句の両方を合わせた新しいスタイルができれば面白いと思うんですよ。僕の『眞神』っていうのは、連句の付け方のいいところをとってやっているわけですよ。これは読んでいれば仕掛けがあるなって分かる。言われちゃうとまずいんだけれど(笑)。同じことをずーっと並べるんじゃなくて、一句一句違った世界が響き合うように並べていくと。」(『恒信風第二号』三橋敏雄インタビュー(*1)

 上掲句に戻る。「天地(あめつち)」は、「自由の天地を求めて旅立つ」「新天地」の天地、あるいは宇宙。そして「荒男(あらお)」は万葉の言葉であり、「荒々しい男。勇猛な男。あらしお。」(デジタル大辞林)という意味。明治~昭和の登山家・随筆家である小島烏水の『梓川の上流』に「北は焼岳の峠、つづいては深山生活の荒男の、胸のほむらか、」という雅なしらべがある。そして白泉にも、荒男の句がある。

 この子また荒男に育て風五月 渡邊白泉

 そして、蝶に乗ると言えば、この句。

 ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう 折笠美秋

 蝶に乗るのは女とは限らない。たったいま魔性の揚羽に乗った男、「いま荒男」は、一寸法師改め、宇宙に存在する生まれてこなかった赤子のたましい、死児の視点を描いたように思える。『御伽草子』の一寸法師も元々は水子、あるいは死児の話かもしれない。


*1)『恒信風第二号』三橋敏雄インタビュー/聞き手:村井康司、寺澤一雄、川上弘美


●―13成田千空の句/深谷義紀

 水着緊むる雪国の肌まぎれなし

 この企画の冒頭に採り上げた「成田千空の感銘句」では、3句のうち夏の句が2句を占めた。

 空蝉の脚のつめたきこのさみしさ

 妻が病む夏俎板に微塵の疵

 個人的には、どうも千空作品の中で夏の句に惹かれるものが多いようだ。短い夏に強い存在感を示す北国の事物や生き物たち。おそらくは読む側の勝手な思い込みだろうが、作者がそうした対象へより強い愛惜を注いでおり、それが印象深い句に結実したように感じてしまう。

 さて、掲句。第1句集「地霊」所収の作品である。

 津軽に生まれ、その地に生きてきた千空の強烈な自意識を感じざるを得ない。雪国青森に生きる自己という存在の再確認と言ってもよいかもしれない。眼目は、その再確認を自分の肌という肉体を通じて意識にのぼらせ表現したことであろう。ほかでもない自分自身の肉体からそうした意識が生れた、あるいは再認識をしたわけである。そのことが作品に強いリアリティをもたらし、印象深い句となったのだと思う。

 この句の主体を自分以外の第三者とし、作者がそれを見て客観的に作品を成したという解し方もあるかもしれないが、ここではあくまで主体は作者、千空自身だと考えたい。そうでなければ、前述したような強固な自意識が生まれないからである。

 「風土」概念が持つ様々な意味については、この企画でも活発な議論が別途行われている。

 千空の作品についても「風土色の濃い作品」であることは間違いないが、千空自身が所謂「風土(性)俳句」と一線を画していたことは以前に述べたとおりである。千空自身にとって大切だったのは、一人の人間として今をいかに生きるか、ということだった。その創作過程のなかで生活根拠たる居住地(千空の場合は津軽)の環境が色濃く投影され、その土地の事物を句作の対象として採り上げるのは自然な帰結であろう。もちろん創作態度として抽象性を志向すれば、そうした影響はおのずと減じてくるのだろうが、千空はそうした方向性を採らなかった。あくまで具体的な事物を対象として採り上げ、平明な表現で作品を生み出していったのである。

 千空自身の創作スタンスはかなり柔軟であり、晩年も新しい素材や表現に関心を持ちながら作品を生み出していった(注)が、「いかに生きるか」という命題を自己に問う態度は最後まで一貫していたのである。

(注) 第6句集「十方吟」あとがきより「月に八回の俳句教室を担当して、私自身の作風に幾らかの変化を自覚した時期の作品といっていいように思う。(中略)自由な発想と確かな表現を受講者たちに望んだが、それは自身の課題でもあった。」


●―14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】19.20.21.22./吉村毬子

2013年9月13日金曜日

19 藪の中北窓が開き相逢ふ椅子

 歳時記(角川書店編・第3版)に「北窓塞ぐ」という季語がある。

 北からの寒風を防ぐために、戸を下ろし板を打ち付けたりして北向きの窓を塞ぐ

 それに対してであろう。「北窓開く」という季語の解説。

 冬の間閉ざしていた北窓を開くこと。薄暗く陰気だった部屋がにわかに明るくなり、身も心も開放されたように感じる。春の喜びの一つである。

 苑子は、季語を意識して作句する俳人ではなかったが、春の季語を用いた句は、他の季節に比べて圧倒的に多い。思えば、春(3月)に生まれて、春(1月)にその生を閉じている。

 中七下五の「北窓が開き相逢ふ椅子」とは、北窓が開かなければ、その季節にならなければ、その椅子に座る二人は相逢うことができないということだろう。

  藪の中にひっそりと暮らす女人の家へ、春になり来訪する男。彼は、旅人でもあるのか・・・。永い永い冬を越えて、ようやく再び逢えることのできた喜び。

 しかしながら、藪の中に棲んでいるとは、どんな女人であろうか。

 豊口陽子氏の句集に『藪姫』という句集がある。その中の「藪姫抄」の句を拾ってみる。

 どの屋も棲処ではない渡河の藪姫        豊口陽子 

 藪姫に小さき巣かかる水の上           

 藪姫として衣函に棲む黒きもの           

 藪姫に藪の階調薄日を吹く            

 かの藪姫見知らぬ鳥の積む磧          

 これらの、ある緊迫感を伴う叙情性を感知する句々に比べて、苑子の掲句は明るく開放されているのだが、「藪」という尋常では無い棲処を選択せざるを得なかった女人の生き様とは、如何なるものであったろうか。

心ならずも己が藪に迷いつつ、更なる不可知の彼岸へ旅立った、あまたの女たちに捧ぐ

 これは、「藪姫抄」の前書きである。「藪」・・・その情念の奥底からの移行へ、「更なる不可知の彼岸」へ、苑子の句の「藪」に棲む女も辿り着くのではないかと、私には思えてならない。

 そんな女人に北窓が開く、その束の間の時間は、春の喜びを感受しながらも、春独特の憂いや倦怠を持つ希薄な重圧をも重ねながら、ある物語性を呼び込み、展開を誘う。

 それは、

「藪の中に一軒の家があります。春が来て、その家の北窓が開きました。すると、藪の中に二つの椅子が並べられました。」

という物語仕立ての表記によるものである。

 「鬱葱とした藪の隙間から緩い春の日差しが降りかかります。先ほどの古い二つの椅子には誰も座っていません。でも、ふと耳を澄ますと、草木の葉擦れの音の間に静かに笑い合う声が聴こえてきます。」

 そんな続きを生前の苑子に話していたら、きっと目を輝かせて喜んでくれたはずである。


20 死花咲くや蹴りて愛せし切株に

 立派に死んで死後に誉れを残したり、死の間際に晴れがましいことがあることを「死に花が咲く」という。掲句を初見では、「帰り花、戻り花」のように、樹木としての生命を絶たれた切株に、咲くはずのない花が咲いたと解釈していたが、広辞苑の「死に花が咲く」と取れば句意は変わってくる。

 この切株は他の切株とは全く違う。『星の王子様』(サン・テグジュペリ)の、例のあの薔薇のように愛しい愛しい切株である。その切株に座っては、読書をしたり、物思いに耽ったり、笑ったり泣いたりした。遊びふざけては蹴り、八つ当たりしては蹴り、時には、切株と成り果てた姿に嘆き悲しみ蹴ることもあったであろう。

 その堅い切株は、いつも優しく強く受け留めてくれる。かつては、青々とした葉をそよがせ、美しい花を咲かせ、鳥や虫たちを遊ばせ、蜜を実を与えた。その木と共に、四季を過ごし歳月を重ねたのである。その大切な切株に誉れを残したことを告げているのかも知れない。

 「死」「蹴」「切」の強い語彙に、「花咲くや」「愛せし」が混じり合いながら、愛の一句に仕立て上げられている。

 高屋窓秋は、句集の序文で次のように述べている。

(前略)通読していて心のやすまるひまもないような気がして、すこしぐらい息抜きになる作品が含まれていてもよいではないかと、正直いって、ぼくはそう思った。

が、1頁に前句と並べられたこの愛の2句は、『水妖詞館』の中では、「息抜きになる作品」とは呼べないが、これまで緊張しながら書き続けてきた私に、口元を緩ませながら書くことができた句である。これもまた第1章の「遠景」の景色のひとつなのであろう。


21 落丁の彼方よ石の下の唄よ

 どのくらいの割合で落丁になってしまうのかは見当もつかないが、詩歌の書き手にとって、「落丁」は、魅惑的な一語ではないだろうか。想像もせずに突然に、しかも静かに失う空虚感は、その虚空へ詩人を招き入れるようである。

 苑子が高柳重信と自宅を発行所にして『俳句評論』を立ち上げたのは昭和33年(45歳)、『水妖詞館』を出版したのは昭和50年(62歳)である。17年間、俳句誌を出版してきた途上での「落丁」という語は、公私共に身に擦り込まれたものであろう。

 抜け落ちた頁は、彼方へと消えた。そして、それは、石の下の唄と同じようにもう届かない処へ行ってしまったのだと、寂寞たる思いを「よ」のリフレインに寄り叫び詠う。

 しかし、「落丁」の頁も、「石の下の唄」も永遠に失くなってしまった訳ではない。落丁の頁は彼方の何処かに存在するからこそ「落丁の彼方」を詠っているのである。そして、その「彼方」のような「石の下の唄」も石の下で確実に息衝いているのである。

 彼方に行ってしまったものにまた逢うことができるのは、何時であろうか。彼の世かも知れない。此の世で失ったものと彼の世で再び逢うことは、此の世で書き尽くせなかった詩を彼の世で書くことのようである。苑子は、この青空の奥の天上で、下界では重すぎた「石の下の唄」を聴きながら、口ずさみながら、「落丁」という時間をゆっくりと拾っては懐かしみ、書くことに堪能していることだろう。そして、時々は、「石の下の唄」を下界へ詠い零しているのかも知れない。

 空を仰げば、私にも「石の下の唄」の片鱗が触れるかも知れない。そして、私にも未だ此の世で詠い戻す詩があるのかと思う。苑子の棲む彼の世は遠い。

  遠しとは常世か黄泉か冬霞     苑子『吟遊』


22 死して睡らず今は母郷に樹と立つ骨

 死は永遠の睡りと喩えられるが、掲句は、死後の安らかなる睡りに至らずに、血肉は消失したが、骨となったその身は、母郷に樹となりて立っているという。「樹と立つ骨」の「と」は、「樹と共に立つ」とも考えられるのだが、樹と骨の形状が相似していることだけではなく、樹と骨が一体化したように感じられてならない。

 母郷に立つその樹は、瑞々しい時代はとうに経てささくれ立つ枯木となって、洞をも湛えているかも知れない。そして、そこは母郷なのだから、幼少の頃より慣れ親しんだ樹なのであろう。母なる大地、母なる海などという大仰な原風景ではなく、人は皆、自身の母郷を持ち、同郷の者同士でも琴線に震撼する時間や動植物や山川、空の景色はそれぞれ異なるだろう。

 この骨は、誰の骨であるのか。高柳重信と後半生を共にする前に戦死した新聞記者の夫は佐渡島の出身である。私は佐渡島へ旅した折り、佐渡島へ戻り着いたその夫の霊魂と、佐渡の歴史が生んだ文化を好んだ苑子の此の句を思い出していた。

 此の句に相当する死は、多々あるのだろうが、苑子が死後の自身を語っているのだとしたら、彼女が生まれ育った富士の裾野の伊豆の樹には、深い思い入れがあるのだろう。そういえば、、少女時代の苑子は木登りが好きであった。

 苑子は、死を扱った句が多く、この『水妖詞館』は最もその臭いを放つが、死後の彼の世を描くというよりも、自身が死んだ後の此の世を詠んだ句も多い。

   死後の春先づ長箸がゆき交ひて     苑子『水妖詞館』 

   帰らざればわが空席に散る桜     『吟遊』 

 「帰らざれば・・・」は、花の季節になると感慨深い句である。句会場、成城風月堂3Fの硝子越しの空席に、花を背に透けた苑子が座っているような気がするものである。

 しかし、「死して睡らず今は母郷に樹と立つ骨」は、この2句のように、虚空より残された者達を柔らかい眼差しで見詰めている光景とは、明らかに違う。漂う魂魄ともならずに、骨として母郷の樹と土と化しているのである。睡ることなく眼を見開き、愛する母郷を見守り続けようと、母郷のかたちのひとつになろうという思いと共に、やっと母郷に落ち着いたという安堵感をも持つ。思えば、70年近くも故郷を離れて暮らした苑子である。初学時代の私の拙句

   富士を背に春の校庭暮れなずむ     毬子

を大層喜び、暫く故郷の富士山の話をしてから、また遥かを見ていた。今は、朝な夕なに冨士を見上げているのだろう。

 「遠景」と名付けた章の締めに置いた此の句は、望郷の果ての自らを晒しながら愛惜する苑子の絶唱である。

2025年6月13日金曜日

【連載】現代評論研究:第9回 各論―テーマ:「精神」その他  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(投稿日:2011年08月27日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 海から河童落葉のような魚をつる

 芥川龍之介の「河童」(昭和2年)は、すべてが人間社会と逆の河童の国の話で、当時の日本社会、人間社会を痛烈に風刺、批判した小説である。そして副題には「どうかKappaと発音して下さい。」という不可解な文章が挿入されている。確かにその語音から、異様な形態と水神の零落した姿へとすぐに想いが至る。

 さて掲句は「ケイノスケ句抄」所収の<妖童記>の昭和22年の連作の一句である。この場合の河童は明らかに作者の自己戯画化であり、自画像の一つの表出方法である。精神が肉体、物質に対する心、魂、知性、理性を表すものであるのなら、芥川の小説のように河童としての自己存在がその代替装置となり、現実社会に於ける疎外感の中で抱く虚無が大きく口を開いてくるように思われる。戦争も終り、当時「層雲」の中堅としての地位を確立していた圭之介ではあったが、日々の生活には悶々としたものがあったのではないか。そして「河童」と「落葉のような魚」とはいつでも逆転可能な存在位置にあり、「落葉のような」という比喩はシダの葉で頭をなでると人間に化ける事が出来るという河童に擬した自己をも暗示しているかの如くである。


   「かっぱ」               

人生に疲れた詩人がおった

石の上で休息していた

ある日 魔王が不びんな奴だと

奇蹟の水をしたたらせた

すると 一匹のかっぱになった


 上掲の詩は「近木圭之介詩抄」所収の昭和26年の作であるが、当時の圭之介の心境をそれらから類推することが出来、それが連作の句の背景ともなっていたのであろう。連作の一部をあげてみよう。

 孤独のかっぱの月の出た顔である       昭和22年

 月をとおくかっぱ石にいる            々

 河童明るい夜を暗い水を見る           々

 かっぱ冬になったひざをだく           々

 月と河童はお互いに孤独を照らし合い、暗い水と冬はかっぱの奥深くへと滲み通ってくるかの如きである。また、掲句のすべての句から「かっぱ」という言葉を削除しても、自由律俳句として立派に通用する構成となっており、「かっぱ」=「自己」という存在自体の危うさをも示唆しているのかもしれない。因みに圭之介は芥川龍之介が好きで、その「之介」を拝借し、姓と画数でバランスのいい圭の字を充てた由(*)。

 尚、昭和24年には荻原井泉水が河豚を食べる目的も兼ねて山口県の圭之介居を訪れ、そこを「河童洞」と名付けて下記の句を残している。

 熟柿 宝珠のごとし かっぱ わたしの前に置く    井泉水

 あら何ともなや ふぐの朝 ここなかっぱといる     々

 こうした河童としての想念はその後どのように展開していったのであろうか。

 思想喪失 菜の花が咲いた             昭和54年

 抽象能力ゼロ 肉ジャガがただうまい        平成4年

 自己分析 丸ごと落ちた非具象果実         平成5年

 宙(そら) 一滴                 平成16年

 具象としての自己存在は、やがてその非具象化への過程の中で、ただ一滴としての存在感へと収斂されていったようである。


*「うしろ姿のしぐれてゆくか・山頭火と近木圭之介」桟比呂子著 海鳥社 平成15年


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 かくれ逢ふ聖樹のかげよエホバゆるせ  『冬濤』所収

 「女はクリスマスの夜から堕落する、ということばを何かでよんだ覚えがあるけれど、その例にもれず私も何十回かのクリスマスを重ねているうちにだんだん堕落して、こんな人間になったのではないかと思われるふしがある」

 随筆集『古日傘』の「降誕祭」の冒頭である。クリスチャンだった一家は、聖夜を家族揃って教会で過ごし、きくのは15歳で受洗している。

 先に引いた文章は、9歳の聖夜の記憶がつづられる。教会で配られる菓子を偶然ふたつもらってしまったことを家に帰って告白したが、母はにっこりと笑っただけだった。当然叱られることを覚悟していた少女は、「このくらいのことならしてもよいのだなという確信を得て、このとき、それだけ堕落した」と結ばれる。きくののひとつめの堕落の記憶であろう。

 掲句は、きらびやかな聖樹のもとでの逢瀬でありながら、隠れるようにして逢わなければならない事情が、聖なる夜をけがしていることに胸を痛める。クリスチャンであるきくのにとって、聖夜は家族とともに過ごす特別な時間であった。なおさら恋人に妻子があることを意識せざるを得ない、いわば自虐的ともいえる逢瀬である。

 背信の罪軽からず冬の虹  『榧の実』所収

にも同じ傾向の背徳感は出ているが、掲句の率直さには及ばない。きくのに字余りの作品がほとんど見られないこともあり、下六となった「エホバゆるせ」が、どうにもならない女の慟哭となって渦巻いている。

 椿真赤嫉みアダムのむかしより 『冬濤』所収

 罪なきもの石もて搏てと蛇出づる  『冬濤以後』所収

などの作品にも、クリスチャンの横顔がみてとれる。

 キリスト教のいう七つの大罪とは、「傲慢」「憤怒」「嫉妬」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」であるが、きくのは「色欲」「嫉妬」に囚われる自身を、嘆き悔いていたのだろう。

 二句目は聖書の「罪なき者が先ずこの女に石を投げよ(*)」である。これは忌むべき蛇の姿に、かの言葉を重ねているが、蛇はまたきくの自身でもある。

 亡くなる数年前となる次の作品には、堕落を重ねてきたと自覚しながら、最後まで聖書を折々の心のよりどころとして、生きていたきくのの姿がある。

 復活祭亡母の聖書を死まで持つ 俳句研究 昭和57年5月号

 天上に宝積めよと聖書春  昭和58年4月号


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 雁の道のごとくに死ぬるまで

 昭和53年作。第5句集『雁道』(*1)の表題作。

 この句は、句集名の由来をつづった「あとがき」とあわせて読むと理解が深まる。

 『雁道』(かりみち)という集名は、雁の通る道という意で命名した。雁道は、雁が通る時にはそれと知られる。また雁が通らなくともそこに存在する。時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごとくである。これは今後の私の命のありようと、俳境のありようを示唆しているような気がする。(*1)

 上五〈雁の道〉は、「かりがねのみち」で、雁(かり)の通る道という意。雁が通ることで、そこに道があることがわかる。つまり、俳句を詠むことで生きていることを実感できるということの暗喩として読むことも可能だろう。句意としては、〈雁の道〉のように自分の命は〈死ぬるまで〉俳句とともにある。雁が通らなくとも道が存在するように、自分の命が果てた後も俳句はそこある、ということになろうか。この句には、齋藤玄という俳人の俳句に対する精神性が端的に現われているように思う。

「時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごとく」という玄のことばからは、次の古歌を想起する。

仏は常に在せども、現ならぬぞあはれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたまふ

(梁塵秘抄・法文歌・26)

 この歌謡は『法華経』の「方便して涅槃を現ず。しかも実には滅度せず、常にここに住して法を説く」の経文を下敷きにしている。経文の大意は、仏の死は人々を教え導くための手段として涅槃、つまり死をあらわしたのであって、実際には仏の魂は滅んでいない。常にこの世界にとどまって法を説いているのである、というもの。

 掲句と「あとがき」とこの経文・古歌謡をあわせて拝すると、どこか通底するものを感じないだろうか。おそらく、玄は熱心な身延の門徒であった祖父の影響で『法華経』は諳んじていたはずである。幼少の頃に読誦した経文が、玄の精神に影響を与え、血肉化して晩年に俳句となって現われたと考えるのは飛躍しすぎだろうか。

 四歳で父を失った玄は、函館の名士であった祖父の家に母とともに身を寄せる。祖父は玄の大学進学、就職、結婚までも支配強制したことはすでに述べた。その祖父が亡くなった際に「祖父を桐ヶ谷火葬場に焼く」と前書を付した句を参考までにあげておく。ここでの雁は現実の雁であり、季語の本意を逸脱していない雁である。

 骨ひらふ手は初雁を聴いてゐる   昭和16年作

 一方、掲句と同時期の作品に現われる「雁」を見てみよう。

 雁のゐぬ空に雁の高貴かな   昭和53年作

 雁の道はなかりき水景色   昭和53年作

 これらも掲句と同様に「雁」をモチーフにしてはいるが、現実の「雁」を詠んだものではない。想念のなかの雁であり、風雅の道すなわち俳句の象徴であると思われる。あるいは〈雁やのこるものみな美しき〉と詠んだ師石田波郷の面影を〈雁〉の姿に重ね合わせていたかもしれない。そうした心のなかの見えない「雁」であるがために、詠むたびに純度が増し、それを〈高貴〉と感じるようになったのではないか。

 膝立てて大露の雁をゆかせけり   昭和17年作

 雁が渡るのを眺めながら戦地の友に思いを馳せていた頃の句と比べると、晩年の玄の「雁」には、ある種の精神性が帯びていると言えないだろうか。

 掲句のように、目には見えないが、実はそこに厳然と在るものを言語によって表出せしめようとする作風は、『雁道』後半、昭和51年頃から54年頃にかけて繰り返し見受けられる。

 言水の非在の影をこがらしす   昭和51年作

 ある筈もなき蛍火の蚊帳の中   昭和52年作

 空だけが見ゆる不在の水かげろうふ   昭和54年作

 これらの句は、病を通して、死および命の本質というものに直面した時期に相当する。ことばが生硬すぎて、失敗していることも多いが、未知の世界の腑分けとでもいった手つきで、自身の限られた命を見つめ続けた精神力は尋常なものではありえない。そこに私は玄の俳句に対する「高貴」な精神性を感じるのである。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 蠅のせて白牡丹いま道家のごと

 『過客』(1996年)所収。1990年頃の作。

 百花の王として君臨する牡丹。わけても白牡丹には清浄にして神聖不可侵のたたずまいがある。が、よりにもよって眼前の白牡丹にとまっているのは、なんと一匹の蠅なのである。当の白牡丹は、しかし、至穢の昆虫の侵冒に遭って毫も動ずることがない。清濁併せ呑む老荘の徒のごとく、悠然とかまえ、ただ静かに微笑している。

この句が作られる前から葦男は老荘思想、なかんづく『荘子』に傾倒していた。1987年の賀状に『荘子』人間世篇の「乗物以遊心(物ニマカセテ以テ心ヲ遊バス)」を引いたところ、理科系の友人は「車の運転心得かと思った」と冷やかし半分のコメントを寄越して来たという。(※1)はたから見ていささか滑稽なほどの心酔ぶりだったのであろう。

 さて、老荘への傾倒を語るのと同根の熱意をもって、葦男は夙に俳句の精神性を説いた。賀状の一件から溯ること約20年、葦男を箕面市百楽荘の自宅に訪ねた坪内稔典は、当時の印象を、後年、次のように回顧している。

 まだ20代のころ、摂津幸彦などと堀葦男を訪問したことがある。しきりに心を説き、俳句における精神性を強調する葦男をやや疎ましく感じた。東大卒のエリート意識がちらつくことも。摂津も私も私大を出たばかりであり、葦男の上からの物言いに反発したのだった。でも、葦男夫人のちらし寿司がうまかった。心には閉口したが寿司には満足した、そのような葦男家訪問だった。

 若き幸彦、稔典の辟易ぶりが偲ばれる挿話ではある。実際、後進にあてて書いた俳句論(※3)の中でも葦男は繰り返し「精神」という言葉を使っている。俳句を続けることで自分の「精神生活を、自分で見守る力」を持ち、「バックボーンがしっかりした精神生活が出来るように」なった、「句会や雑誌のグループによって、純粋な精神的交友の場を見出せた」というふうに。

 しかしその一方、「砂上の楼閣」めいた現代日本の繁栄に巣くう精神状況の貧寒さに対し、葦男は危機意識を持ち続けた。とりわけ、次のような作品に接するとき、精神性の頽廃と自己疎外に対する葦男の警戒心を筆者はまざまざと追体験するのである。

 箱のような俺 中流で回転する  『火づくり』

 廃物岬の鮮紅の沖花束死ぬ  『機械』


※1  『一粒句集』第24集 序文(1987年 電通会俳句部)
※2  「e船団」この一句 バックナンバー(2005年3月15日)
※3  『俳句20章―若き友へー』(1978年 海程新社)P7/初出は「海程」創刊号
(1962年4月)~29号(1966年12月)所収「現代俳句講座」


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 仰臥にて尿り糞まり神を言はず   滝沢初馬

 昭和25年(1950)9月号初出。前回の日野草城の一句と同じ病床に横たわる自らの「病める身体」をモチーフにした作品であるが、「病める身体」を通じて外の世界から訪れる音や物体の影を捉える姿勢に徹する草城の句に対して、今回取り上げる掲出句は「病める身体」を支える精神のありさまをそのままに描いた一句である。作者である滝沢初馬の詳しい履歴は不明であるが、掲出句以後に「血を喀く」との作品が見られるところから、初馬の病気が肺結核で、おそらく結核療養所で闘病生活を送っていたであろうことはうかがい知ることができる。

 昭和26年の9月号の「青玄」では「病者と俳句」というテーマで4人の論者が文章を寄せているが、その中のひとつである林田紀音夫は「サナトリウムに於ける俳句」と題した一文で、療養者の俳句について「肺外科の進歩は僕たちに希望を与へると同時に積極的な斗病の精神を醸成し、生活の領域を拡大した」と肺結核治療をめぐる状況がこれまでの「死病」との意識から療養者自身の精神にこれまでにない変化をもたらしつつあることを指摘した上で、「自らの手に拠って運命の扉を開いてゆく体験なり精神なりが、俳句としてすさまじい様相を以て結晶するやうになった」と療養者自身にもたらされた精神の大きな変化の諸相が俳句作品においても次第に現れつつある点を指摘している。この変化から生まれた作品の代表として紀音夫は石田波郷の「胸形変」を挙げこの一連において「烈しく新しい展開が為されたのである」としている。自らも療養所生活を余儀なくされた紀音夫の指摘からは、過去の絶対的な「死病」との意識から医療技術の進歩により「生」の側に戻れる可能性がもたらされたことが逆に一個人としての自分自身の「死」への意識がより高まることで、より「生」への願望や熱意そのものが俳句作品のモチーフとして浮かび上がってくる過程が見えてくるのである。

 再び掲出句に戻ってみる。自らのただ今の闘病と身体の不自由さに湧きあがる衝動にすら近い感情の動きをそのままに俳句定型に収めてしまおうとする作者の一念が、「尿り糞まり」とつぎつぎに畳み掛けてくる言葉の連なりから病床の動きを封じられている身体の姿とともに浮かび上がってくるのが見て取れ、「神を言はず」との結句は自らの自由のきかない身体に対してのせめてもの意地を感じさせることで、一句の痛々しさをよりはっきりとしたものとしようとしている。病気がもたらす肉体的な苦痛の数々が思いもかけず神への救済を口走らせそうになるそのときに「神を言は」ない、決して言ってはならないとの決意をもたらしてくれるものが、初馬の「病める身体」を辛うじて支え続ける精神そのものなのであり、その精神の姿は紀音夫が指摘した療養者の生死をめぐる目まぐるしい変化の中で揺れ動きながら存在しているのである。そうでなければ「神を言はず」とのフレーズは出てこなかったであろうし、一患者として「神を言はず」と言い放てるようになっていること自体が、まぎれもなく「戦後」の療養者である証とも言えるのだ。

 そのような一患者であった初馬の無季作品を挙げておきたい。引用は昭和31年10月号に掲載された伊丹三樹彦編の「青玄無季俳句集」より。

 童貞のわが喀く血こそまくれなゐ

 うりつくし一つのこれる銀の匙

 血を喀けばものみな遠くなるごとし

 特効薬貧しき家の金を奪う

 働かぬ手をしみじみと眺めけり


●―9上田五千石の句/しなだしん

 初蝶を見し目に何も加へざる    五千石

 第四句集『琥珀』所収。

 『琥珀』(*1)は、昭和五十七年より平成三年まで、四十九歳から五十八歳までの作品392句を収録する第四句集。掲句は平成三年作。昭和四十八年八月の「畦」創刊から十八年、いわば脂ののりきった時期、「眼前直覚」も熟成された時期といえるだろう。

     *

 著書『完本俳句塾 眼前直覚への278章』(*2)の「序にかえて」(*3)で五千石は「眼前直覚」について

「眼前」を尊重し、「即興感偶」「そのおもふ處(ところ)直(だたち)に句となる事」をめざしています。(中略)

「眼前直覚」はまた、昨日のわれは既に無く、明日のわれは未だ無い。

今日の只今われ在るのみ――という生き方へとつながっていくように思います。

と記している。

 また、著書『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*4)のなかで、「眼前直覚」に至る経緯について触れている。

 第一句集『田園』により第8回俳人協会新人賞受賞のあと、自意識過剰となってスランプに陥り、そのスランプは数年続く。その折、五千石はひとりで山を歩くことを思い立ち、実行する。ひたすら野山を歩くことによって無心になり、目の前にあるものを、事実をそのまま叙するという、単純な作句から自分を取り戻し、徐々に「眼前直覚」の境地に至ったのだ。

     *

 さもありなん。俳句に困ったら俳句を作る。自然のなかで嘱目をひらすら詠む。この至って単純なことが自分と向き合える方法なのだろう。

 さて掲句。初蝶の美しさを映したその目には今は何も映したくない、という明快な句意である。「いま・ここ・われ」がストレートに形になっている。このストレートさがこの句の強さであり、真っすぐさは五千石の俳句への熱い思いと詩心の象徴である。

 この句の真っすぐさこそ、「眼前直覚」であり、五千石の俳句の精神そのものといっていいだろう。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日 角川書店刊 シリーズ現代俳句叢書3
*2 『完本俳句塾 眼前直覚への278章』 平成3年8月30日 邑書林刊
*3 「序にかえて」は筑摩書房『俳句の本』「題二巻 俳句の実践」昭和55年5月20日初版より
*4  『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 青葉騒きれいな嘘はきたなく吐き

 昭和44年の作品、『孤客』より。

 憲吉に高い精神性を期待するのは無理のようだ。エスプリはフランス語では精神のはずだが、日本語に入ってきたエスプリという言葉(外来語)の語感は軽妙な洒落のように受け取られている。その意味では憲吉にピッタリの言葉となった。

 我々の人生の師を憲吉には期待しない。憲吉の俳句にも期待しない。期待するのはウィットに富んだ表現。しかし手際よく言ってのけたその言葉には、いくばくかの人生の真理があることも事実だ。

 徒然草で兼好法師が「しやせまし、せずやあらましと思ふことは、おほやうは、せぬがよきなり」(したほうがいいか、しないほうがいいかと迷うことは、大体はしないほうがいいのだ)という言葉は、どんな思想哲学よりも真理に近い【注】。こうした消極主義は決して人生の教師から見ても褒められたものではないのだが、崖っぷちに臨んだ態度を決めないといけない時は、最大の決め手だ。酸いも甘いも噛み分けて、常に矛盾に満ちた言葉を吐き、芝居では恋の手引きをする粋な法師兼好は、さしづめ、鎌倉時代の楠本憲吉であるかもしれない。

 逢えば酔語逢わねば独語年暮るる

 手際よく言ってのけただけの言葉のようにも受け取れるが、この言葉の背後にはそれなりの憲吉の精神状態が浮かび上がる。酔語も独語もまともな精神状態ではないが、女に向かう時の態度はこの2つしかないのだ。女性に真面目な顔をして向かうことは、憲吉の美学に合わない。

 冒頭の句も、嘘を吐く相手は女性のような、あるいは女性が男性に向かって吐く嘘のような気がする。男対男の嘘にはきれいも汚いもあるものか。


【注】とはいえ、この言葉は浄土教の金言集『一言芳談』に載る明禅法印の言葉の引用であり、彼は「聖はわろきがよきなり」という親鸞に匹敵する言葉を吐いた傑物である。その思想的な背景は決して浅くはない(徹底した消極主義はカントのような厳格主義、義務的な行為以外は善と認めないことになるだろうから)。しかし、兼好も憲吉も決してそんなに深くはないことだけは保証する。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 戦争と疊の上の團扇かな

 掲句から句集名を採った『疊の上』が蛇笏賞を受賞する。敏雄69歳の時である。

 戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉

 敏雄が、俳句形式に立ち向い、白泉の句に対峙する代表的な戦争俳句である。

 戦争にたかる無数の蠅しずか

 戦前の一本道が現るる

 戦火想望俳句に没頭した三橋青年が「戦争」という歴史的事実を思いつづけた重みが背景にある。戦争を詠むことは敏雄にとって終生のテーマであった。

戦争は憎むべきもの、反対すべきものに決まってますけれど、<あやまちはくりかへします秋の暮>じゃないけれど、何年かたって被害をこうむった過去の体験者がいなくなれば、また始まりますね。昭和のまちがった戦争の記憶が世間的に近ごろめっきり風化してしまった観がありますが、少なくとも体験者としては生きているうちに、戦争体験の真実の一端なりとせめて俳句に残しておきたい。単に戦争反対という言い方じゃなくて、ずしりと来るような戦争俳句をね。(*1)

 生き残った敏雄がいる。

 「団扇」は夏の風物詩であるが、悪霊を払うもの、軍配を決めるもの、多様な意味を持つ。「戦争にたかる無数の蠅しずか」「戦争が廊下の奥に立つてゐた(白泉)」に呼応し、誰が戦争の蠅(悪霊)を追い払うのか、誰が戦争を裁くことができるのか、という読みもできよう。団扇を手にするかどうか、それは読者次第かもしれない。

 歴史上の重いテーマであり人々の脳裏に様々な映像、概念を内包する「戦争」という言葉、そして小津安二郎のカメラ目線の低いアングルが感じられる日本の日常風景である「畳の上の団扇」が、「と」で結ばれ「かな」で言い切られている。

 新興俳句作品は切れ字の使用が極端に少ない。三鬼の影響が濃く反映している『まぼろしの鱶』(昭和三十年代の項)での「かな」の使用は皆無だった。しかし『眞神』から「かな」使いが復活している。初学より「新しさは歴史を通じて生き得る」(『太古』序)の確信の元、新興俳句弾圧後に古俳句研究に親しんだことに加え、高柳重信の下五「~かな」の影響が強いと感じる。この点について、『新興俳句表現史論攷』(川名大)に同意である。また古俳句の二物の「取り合わせ」「付け合せ」をみると、「や」を用いるケースが多く、「閑さや岩にしみ入る蝉の声(芭蕉)」「名月や畳の上に松の影(其角)」「鶯や下駄の歯につく小田の土(凡兆)」などがある。敏雄の句も「戦争や畳の上に置く団扇」となりえるところを、「と」で結び「かな」で感慨を言い切っている。「かな」の使用はないが、新興俳句の旗手である高屋窓秋に「山山の蒼き日と夜舞扇」がある。

 掲句はある意味、高橋龍氏の「疊の上の団扇と戦争の出会い」(*2)という言葉を発展させ、いささか飛躍が過ぎるが「ホトトギスと新興俳句の邂逅」と思える。そうなると、この「と」は、偉大なる格助詞ということになる。ホトトギスから分裂し、弾圧により消滅した新興俳句の種子が木になったような、ある到達点を感じることは確かだ。敏雄の切れ字、助詞の使い方には、俳句の可能性がみえてくるのである。

 余談になるが、今年に入り、中近世国語語彙・俳文学研究者の小林祥次郎氏から筆者所属俳句誌『豈』『面』をご覧になられた感想を頂いた。「現代俳句は、あまり読んだことも無いのですが、『や・かな』を使っているので、少し心が和みました。」と綴られていた。氏の執筆箇所、『俳文学大辞典』(平成7年初版・角川書店)・切れ字の項は確かに、「新興俳句以降は、『や・かな』などで簡単に詠嘆することを嫌う傾向が強い。」とあった。敏雄の『や・かな』使いが、新興俳句以降の俳句史にどう影響を与えていくのか今後の課題としたい。

 『眞神』(昭和48年)以降に感じた作者の遠い彼岸からの視点が、『巡禮』(昭和54年)『長濤』(昭和54年)あたりから徐々に、『疊の上』(昭和63年)では確実に現生の遠い視点に転換されている観があることも付け加えたい。恐らく『三橋敏雄全句集』(昭和57年)が発行されたあたりに敏雄の視点は地上に降りたという気がする。

 「志して至り難い遊び」(『まぼろしの鱶』後記)は、新興俳句、そして戦友・句友を悼み、戦後日本への問い、俳句とは何かという問いでありつづけた。それを敏雄の精神と理解したい。


*1) 『証言・昭和の俳句 下』(聞き手・黒田杏子/角川書店)
*2) 『弦』33号 2011.7.1(遠山陽子編集・発行)


●―13成田千空の句/深谷義紀

 おむすびは心のかたち雪のくに

 第6句集「十方吟」所収。

 平明な表現ながら剛直な句柄を示す千空作品のなかにあって、多少の異彩を放っている句だと思う。端的に言えば、「心のかたち」をどう解すべきか、些か悩ましいのである。

 例えば、同じ「おむすび」をモチーフとした作品を引いても、

 蒼茫とねぶたの首途(かどで)塩むすび    「人日」

 秋日濃しめし屋に味噌の握り飯   「白光」

など、どれも句意は明瞭であり、こうした悩みが生じる余地はほとんどない。一句目は、ねぶた出発直前の光景であろう。日が沈み、夜の帳が下り始める時分であり、塩結びの白さが際立つ。二句目も、庶民的な食堂に置かれた味噌握りが目に浮かんでくる。

 それに対し、掲句は抽象的色彩を帯びるため、一読しただけでは掴み所がない感がある。

 もちろん句の意味を事細かに解することはある意味邪道であり、句をそのまま味わえばいいのかもしれない。だが、やはり腑に落ちない。リアリティが感じられず、言葉のみが先行しているように感じられるのである。つまり千空らしくない作品に思えるのだ。

 いろいろ考えあぐねた末にふと閃いたのは、千空の住んだ五所川原に程近い岩木山麓で「森のイスキア」と名付けた施設を主宰する佐藤初女さんの存在である。彼女のもとを、生き方に悩んだ様々な人達が訪ねてくる。彼女はその人達をおにぎりなど手作りの料理でもてなしながら、話を聞くという。訪ねてきた人達は、佐藤さんが作ったおにぎりを一緒に食べながら、徐々に心を開き、自分自身で答を見つけていく。そのおにぎりこそ、悩みを抱えた人達の心の扉を開ける鍵なのであろう。

 千空が掲句を作ったとき、佐藤さんの話がモチーフになっていたのかどうかは定かではない。地理的にそれほど離れているわけではないのでその可能性はあるものの、断定するほどの材料はない。

 しかし、考えてみればおにぎりほどシンプルな料理はなく、その作り手の心のありようを示すものはないだろう。だからこそ、「おむすびは心のかたち」になりうるのである。おそらく千空もそのような思いに至ったのだと思う。作り手として千空が思い描いたのは、優しかった実母かもしれないし、掲句が作られる少し前に逝去した義母(市子夫人の母)かもしれない。あるいは市子夫人その人かもしれない。いずれにせよ、そうした思いのこもったお結びを食べた体験が記憶の底に眠っていた筈である。

 そう考えた時、この句に一挙にリアリティが生まれ、いかにも千空らしい句だと思えてきたのである。


●―14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】15.16./吉村毬子

 15 喪の衣の裏はあけぼの噴きあげて

 墨色の喪の衣は、生者が纏うものである。死者は、白装束に包まれる。

 生者である者の墨色の喪の衣の裏が、「あけぼの」を噴き上げるのだと詠う。「あけぼの」は、薄っすらと仄仄と、空が明けてゆく様であるが、その「あけぼの」が喪の衣の裏で「噴き上げて」という事態は、尋常ではない。白装束へ送るその詩の色彩。喪の衣の表の墨色と裏のあけぼのの朱色が織りなすその色は、死者の白い衣へ滲み出していくことだろう。淡く濃く、死者と生者を結び付けながら・・・。

 新しく生まれ変わるという意味をも持つ「あけぼの」は、死者の新たな始まり、そして、両者の遠い遥かな未来を詠っているのだろうか。

 死を扱った句で、このような作品は記憶にない。死者と生者との距離を隔てない独特な表記である。生と死という、人が与えられた究極な対比を同一線上に置き並べ、その線を苑子流に綾取りの如く交差させる。それもまたひとつの輪廻の形であろう。

 此の句を目にした当初の二十代の頃は、死者の死を秘かに願っていた生者の側の視点からの句と思い込み、作品とは言へ、誰にも聞くことができなかった。しかし、幾度も読み返す過程で、死者への新たな始まりへの礼賛の句ではないかと思うようになった。


 次句もまた、死を自己の中で咀嚼していこうとする段階の始まりであろう。

 16 祭笛のさなか死にゆく沼明かり

 「祭笛」の響く雅な華やかさの中、死んでいく者がいる。祭りの喧騒に送られる死とは、如何なるものか。例えば、桜舞い散る季節でのひとつの死の在り方として、美しさに憧れる様もある。祭りが賑やかなほど、その死の静かさを増していく。

 「沼明かり」を下五に据えた締め方は、「祭」と「沼」の対比に寄り、双方がその語の存在を印象深くさせている。「沼」ではなく、「沼明かり」である。仄かに灯るその明かりは、死者を招く標なのか、死者の魂であるのか・・・。夜の闇の中で突き抜ける笛の音が沼の辺まで届き、湿りを伴う地や虚空が沼とともに葬歌を奏でる。

 前句もそうであるように、黒という闇-死-を思わせるものと仄かな明るさの朱-生-を対比させて一句を成している。が、特筆すべき点は、死に対する仄かな-生-が再生、蘇生を感受させるものであるということである。前句の「喪の衣の裏」に、見る見ると染め上げられてゆく「あけぼの」の「朱」、掲句の沼の底から湧いてくる「明かり」は、生身魂、魂魄かも知れない。そして、闇の中の黒と仄かな朱との配合が醸し出す色彩も、その蘇生感を彷彿とさせているのである。


 17 来し方や袋の中も枯れ果てて

 何の「袋」であろう。そして、「来し方」とは、とても永い時間大切な何かをしまっておいたものなのか。

 己を容れた、己が包まれていた歳月という名の「袋」とも言える。「袋の中」には、かつての理想に燃えた己がいた。苦境に喘ぐ日々もあった。悲哀に泣いた日もあった。が、「袋」は、「生」の象徴であった。しかし、今、その「袋の中も枯れ果てて」と呟く。

 切れ字{や}を使用しているが、一句一章の内容であり、{や}は切れと共に感慨、嘆息の{や}でもあろう。

 虚しさの果ての諦念観が此の一句に込められている。「生」が始まった瞬間より、「死」も始まるのだが、この停滞した「生」は、「死」へも到達することはなく、ふらふらと彷徨っているだけである。

 前の二句の、蘇生をも思わせる鮮やかなまでの「死」の提示からすれば、燻るばかりのかたちのない「生」である。人は、永年の生を得ると、このような一刻も必ず訪れるのだろう。


 今回の見開き二頁終わりの四句目に至っては、更に「生」を嘆いているようである。

 18 天地水明あきあきしたる峠の木

 「天地水明」は、「天地神明」からの発想か・・・。

 「天地神明」は、天地の神々への感謝や誓いに表される言葉であるが、「天地水明」、それは、日月の光に水澄む美しき日本の天地のことであろう。それもまた、自然の神々のもたらす生命の源であろう。

 しかしながら、その後に続く中七、下五の「あきあきしたる峠の木」は、投げやりなまでの表記である。「天地水明」の透明、且つ、平和な安定感に浸りながら、頂点の峠に立つ木がその状態を拒むように、嘆いているようにも伺えてしまうのであるが・・・。

 登り坂の頂点に立つ木、それは下り坂の始まりの木でもある。峠の木は、登り坂を克服した後に、必ず訪れる下り坂を降りて行くものを、繰り返し迎え、見送ることにあきあきしたと言っているのか・・・。

 「峠の木」は、苑子自身であろうか。もしくは、「峠の木」を幾度も眺めた、過去の昇り降りにもうほとほと疲れ、愛想をつかしたということなのかも知れない。

 真髄は、「天地水明」と叫ぶ切れである。「天地水明」に本心を語っているのだ。自身を育み、慈しんでくれた「天地水明」だからこそ、訴え、誓えることができるのである。「天地神明」から「天地水明」と表記し、「神」を「水」と同様に呼んだその叫びは、「水」に対する畏敬の念が溢れている。天地を流れる水から、有り余る恩恵を授かり、自身もその水と一体化するように昇り降りし、流れてきたのである。此の句は、「水」は、苑子の「神」なのだと言い放ち、その「水」に本音を漏らしているような気がしてならない。

 「水妖詩館」という句集名の第一章、{遠景}にふさわしい一句である。