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2026年7月31日金曜日

【連載】現代評論研究:第29回各論―テーマ:雲又は霧その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、しなだしん、北川美美、深谷義紀

●―1近木圭之介の句【テーマ:雲又は霧】/藤田踏青

(2012年08月03日)

酸性霧一人を殺し 一人ずつ殺し   平成2年作  注①

 酸性霧とは酸性の霧のことで、広義の酸性雨に含まれる。化石燃料の燃焼によって発生した気体が大気中で硝酸、硫酸イオンに変化して雨や霧、雪に取り込まれ、特に植物の葉、枝、幹などへ与える影響が大きく、森林衰退の原因となる。酸性霧は酸性雨より約10倍酸性度が高いそうである。そういった意味で、掲句が一般的に使用される酸性雨では無く酸性霧とした意図は不気味さを増している。そして雨という直接的な皮膚感覚ではなく、霧という朧げな感覚にいつしか取り巻かれていたという無言の恐怖感がそこに浮かび上がってくる。それも自己や身の回りの人間が一人そしてまた一人、といった具合に静かに徐々に殺されていくのである。それ故、一字空白は一人の死の瞬間の一呼吸のようにも思えて来る。地球温暖化の影は足音も無く忍び寄って来ているようである。

海霧の街角 虚構からみ合う      平成5年作

暗くなった霧 港街に炎を放せ     平成13年作

 この海霧は関門海峡でのものであろうか。霧は海と陸を渾然と一体化してゆく事によって現存在の意識の混濁をもたらし、そこに虚構を孕ませて港街へともたらすのであろうか。その虚構の中で男と女は相対し、抱き合い、憎しみの演技をするのであろうか。そして霧は再び全てを覆い尽くして消し去って行くのであろう。そのような消し去られた思念を圭之介は次の様な詩で表白している。


<霧の来る日>      昭和27年作    注②

青白い蛍光灯

皿にのこっている角砂糖

木の椅子は 余りにかたく

思念(パンセ)は窓硝子の指でなぞった絵の如く

冷(さ)めてゆく

海峡から追われるように霧が来て

わたしの前より 角砂糖を

木の椅子を

そして思念を消し去ってしまった


 消し去られた思念と共に自己の存在意識そのものも霧の中に消えてゆくのであろう。


注① 「層雲自由律2000年句集」合同句集  層雲自由律の会 平成12年刊

注② 「近木圭之介詩抄」 私家版  昭和60年刊


●―2稲垣きくのの句【テーマ:流転】渋谷区千駄ヶ谷・宮廷マンション時代(1)/土肥あき子

(2012年07月27日)

この森に籐椅子向けて老ゆるらし

 前書「転居、代々木の森に対す」として第三句集『冬濤以後』(1965)に所収される。昭和43年(1968)夏、きくのは前住居をわずか1年で早々に引き払い、新築8階建マンションに転居した。前住所と同じ千駄ヶ谷だが、引越先の「第三宮廷マンション」は明治神宮のしたたる緑を眼前に据えた当時最新のダイニングキッチン、エアコン、エレベーター完備の最新式の住まいであった。いかにもきくのにふさわしく思えるが、同号に並ぶ

茄子漬けて三DKにまだ馴れず

を見ると、あるいはたかだか3部屋の住まいに「宮廷」の文字が踊ることに羞恥を感じたかもしれない。4階とはいえ、きくのにとって初めての高層階での生活であろう。現在では線路沿いにビルが並んでしまったため見通せないが、建築当時はサンルームから明治神宮の大きな森が正面に見えていた。そして、驚くことに、今もきくのが暮らしていたマンションは健在であった。現在築44年。物件のコピーは「幾多の時代を経て、高い管理体制を維持し続ける人気のマンション」とある。原宿駅から8分と場所もよく、ヴィンテージマンションとして評価されていた。ヴィンテージマンションとは、築数十年経っても人気が衰えず、むしろ価値が上がっているマンションをいうらしい。

 掲句の初出「春燈」(昭和43年9月号)では、上五は「夕森に」であった。夕闇に紛れる森をサンルームから望み、62歳となったきくのは晩年という言葉を噛み締めていたのだろう。そして翌10月号には

わが流転やむ日かも死の切子吊る

が見られる。切子とは切子灯籠。新盆で亡者が初めての道のりに迷わないよう、白一色の灯籠を吊られる。鑑賞において「死の切子」のあたりが正直分らないが、ここで注目するのは「わが流転やむ日かも」のひとことである。気に入りのマンションを見つけ、ようやくここで腰を落ち着けることができるかもしれない、という安堵は、また自身に言い聞かせるようでもあった。

 きくのの考える老いについては、「春燈」に寄せられたきくのの友人秋元松代氏の「稲垣きくのさんによせて」の一部を引く。

 彼女は口癖のように、疲れたと云う。それから年寄り振って、もう年だから、と云う。あまり健康体ではないらしいから、疲れたと云うのは仕方がないとしても、年寄りぶるのはきくのさんの唯一のわるい趣味である。(「春燈」昭和38年6月号)

 恋愛句についても相変わらず盛んに発表しているきくのの口癖が、「もう年だから」だったことが興味深い。転居前後の悶着の主K氏は、きくのよりかなり若い学芸部の新聞記者であった。年下の恋人を持ったきくのは、同年代の女性よりずっと若く見えようと、あるいはいわば自虐的に年齢を口にしていたのかもしれない。

柊挿す卯の一白は浮気星   (『冬濤以後』所収)

妻と子を愛す牡丹の花よりも 「春燈」昭和42年(1967)8月号

 死別した財界人A氏とは、外見も年齢もまったく異なる両者は、どちらも九星占いでいうところの一白水星であった。参考までに一白水星をネット検索してみると「静かで穏やかな雰囲気があり、強情っぱりで独立心旺盛、寂しがり屋、 親愛を求める性格を持ち、人に好かれるタイプ。表面呑気に見えるが実は短気。男性は印象がよく、異性についてだらしのないところがあり、複数の女性と関係を持つ」と、付き合えば苦労しそうな星である。ちなみにきくのの九星は、四緑木星。こちらは「この星に生まれた人は外見は強気のように見えても、内面は柔和であり、お人好しで慈悲に富み、人との協調性もあり、社交家です。困難にあっても、明日は明日の風が吹くという楽観的な考えも長所と言えるでしょう」

 折々に起伏はあったものの、おしなべて愛に包まれていたきくのの恋愛遍歴は昭和44年(1969)9月号に昂りを見せる。それは今までの嫉妬とは違った、己をも罰するような激しい怒りである。

夏服に咄嗟にあてし瞋(いか)りの刃

絶たざればこの愛蛇の生ころし

忿怨のちらせし薔薇か夜のくだち

夏の夜のあてし瞋りの刃のひけず

 瞋の文字を使う心理は、仏教でいう「貪瞋痴」の「三毒」を意図したものと思われる。貪は執着する心、瞋は怒りの心、痴は愚かな心で、数ある煩悩の中で人間を最も苦しめる「三毒」を背景にすることで、作品は単なる怒りを越えて、人間の振り払いきれない悲しみに到達する。翌月10月号では、

この道をひとと行くゆめ消えし滝

があり、炎は静かに鎮火した。そして、また恋慕の情を断ち切るように昭和45年(1970)5月、第三句集『冬濤以後』を上梓する。

死場所のなき身と思ふ花野きて  『冬濤以後』所収

死はいまも寄添へり花野撩乱たり 『冬濤以後』所収

花野きて霧の奏づる鎮魂歌    『冬濤以後』所収

 句集は死を色濃く意識したもので締めくくられる。



●―4齋藤玄の句【テーマ:雲】/飯田冬眞

2012年07月27日 

べこ餅を搗けよ雲つく男たち

 昭和55年作。遺句集『無畔』(*1)所収。

 雲つくほど大きな男たちが、杵と臼を持ち出して餅を搗き、手の平よりも小さなべこ餅をちまちまと作っている、という情景が何ともおかしい。

 北海道で少年時代を過ごした私にとって、端午の節句といえば、「べこ餅」だった。もちろん、「かしわ餅」もあったはずなのだけれど、印象が薄い。

 実家の「べこ餅」は、まず、上しん粉に上白糖を混ぜた白色の生地と黒砂糖を混ぜた黒色の生地をつくる。次に、葉っぱの形の木型に白色、黒色の順に生地を詰めて、型押しする。そのあと、木型から生地を取り出したものを重ならないように並べてせいろで蒸せば、できあがり。

 ちなみに木型をコンコンたたいて生地を取り出すのが子供のころの私の役目だった。うまく取り出さないと生地が手に張り付いて気持ち悪かったのを覚えている。だが、せいろの蓋をあけて、ふかしたての「べこ餅」をのぞくと、白と黒のツートンカラーの葉っぱが湯気の中から現れる。ことに黒砂糖の部分がつやつやとしていて、とてもきれいだった。

 名前の由来については、白黒まだらの牛(べこ)のように見えるところからという。語源については、これ以外にも、その色合いが「鼈甲(べっこう)」のようだからとか、和牛が足を折って臥せている姿に似ているからなど諸説がある。

 さらには、白い生地と黒い生地をロールケーキのように巻き込んで、棒状にしたものを金太郎あめのように輪切りにしたものもあるらしい。白と黒が渦巻き状になった「べこ餅」も見覚えのあるものである。

 ともかく、「べこ餅」は「子どもの日」前後のおやつとして懐かしい食べ物のひとつだ。

 齋藤玄の弟子の近藤潤一によると、この句は昭和55年3月30日のお見舞い句会で見せられたという。その時の会話を紹介しておく。

べこ餅を搗くというのであれば、普通の人間ではつまらない。やはりそこはいかつい男、セレモニー的な男がもっと拡大強化されたものが出現してこなければおもしろくない、と思って、それが『雲つく男』になっちゃった。(*2)

 齋藤玄の俳句のつくりかたの一端が垣間見えるエピソードである。と同時に掲載句は作者がいたずら心を起こして朗らかな想像力によって作ったものであることがわかる。玄にはこうしたいたずら心を感じさせる句もいくつか残しており、別の機会に紹介したいが、今見るとどれも成功作とは言い難い。

 だが、掲載句は〈雲つく男たち〉の奇想天外さと〈べこ餅を搗けよ〉の「よ」の言いなし方が、〈べこ餅〉のべろっとした感じに似合っているように思えるのである。これが死のひと月ほど前に作られたものであることを知ると、何か痛ましい思いが交錯する。子供のころの郷愁とあいまって、切なくておかしい句という印象がこの句にはある。


*1  遺句集『無畔』 昭和58年刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2  近藤潤一 『玄のいる風景』 1991年 響文社刊


      

●―9上田五千石の句【テーマ:雲】/しなだしん

(2012年08月10日)

和紙買うて荷嵩に足すよ鰯雲

 第二句集『森林』所収。昭和五十一年作。

 「鰯雲」の句である。「鰯雲」は五千石の好きな季語のようである。特に初期の『田園』『森林』の収録が多く、掲出句のほかにも

いわし雲亡ぶ片鱗も遺さずに   昭和33年

乱声のピアノとなれり鰯雲   昭和33年

流寓のながきに過ぐる鰯雲   昭和37年

いわし雲十年一日とはいへど   昭和37年

鰯雲くづれは雲の襤褸なる   昭和45年

などがあり、昭和45年作の〈鰯雲くづれは雲の襤褸なる〉は〈12回「記憶」を読む〉で紹介した。また、「鰯雲」だけではなく「秋の雲」の句も多い。

秋の雲立志伝みな家を捨つ   昭和38年

峡中に入る秋雲の一片と   昭和41年

     ◆

 さて、掲出句について著書 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*1)の「自作を語る」の中で〈飛騨の山旅の終わりに「買」わでもの「嵩」ばる「和紙」を仕入れて「荷」に加えた。加えたからといって、格別「嵩」が重くなったわけではないが、それを「荷嵩に足す」と何となく旅の疲れが増したような気がしたのです〉と記している。表現がやや分かりにくいが、飛騨からの帰り際に和紙を買い、旅の終わりの感慨があふれてきた、ということだろう。

 続けて〈天に広ごる「鰯雲」を仰ぐにつけ、いまさらながら帰路の遠さが思われ、「和紙」の「買」い物が、ちょっぴり悔やまれる、というぐらいの句であります〉とある。続けて、〈でも、ほんとうのことを言えば、一句は旅の充足感であります。ここらが俳句の妙味で、ひねった言い方と言っていいと思います〉と本音ものぞかせている。

 さらに〈そこらの機微を説いて『紙の軽さに照応する表現が「買うて」と「足すよ」にある。「買って」「足せり」となるといささか言葉に目方がつく』と言ってくださったのは、飯田龍太氏でありました〉と記す。


龍太の弁は、この句が仮に

和紙買つて荷嵩に足せり鰯雲

であると、言葉としてやや重くなるというほどのことだろうか。

 この軽さに五千石自身も工夫のし甲斐があったと感じているのだろう。

     ◆

 掲出句以外にあげた鰯雲、秋の雲の作品は、どれもやや感情が先に立っているように思う。それは秋の雲という、ものさびしさが先に立っているからかもしれない。これに対して掲出句では、軽い感じが勝っているのは、その感情の隠し方の技が効いているということだろう。


*1 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊



●―12三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】55./ 北川美美

55.草荒す眞神の祭絶えてなし

 55句目でタイトルである『眞神』という言葉が出て来る。敏雄の有名句「絶滅のかの狼を連れ歩く」そして『眞神』自体を理解する上で、この句を読むことはキーとなっていくだろう。

 眞神の意味について『眞神』後記の敏雄自身の下記の解説が引用紹介される。

 本書の題名とした「真神」は、『大言海』に「狼ノ異名。古ヘハ、狼ノミナラズ、虎、大蛇ナドモ、神ト云ヘリ」とある、其である。併、斯る栄称に、曾て永くも堪へて来た狼の生態は、多くの滅び行くものに準じて、既に我国の山野から滅び去つて久しい。今、畏みつつ親しまうとするならば、例ば、武蔵国は御嶽神社、或は、同じく三峯神社等の祭神を相け随ふ地位に祀られて座す 大口真神、即、広く火災盗難除去の効験をのみ担ふ所の英姿を、其護符上に拝する許である。

 併読としてWikipediaの解説がわかりやすい。

 「眞神」とは現在は絶滅してしまった日本狼が神格化したもの。大口真神(おおぐちまがみ)とも呼ばれる。人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものと信仰された。また、厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いとされ、絵馬などにも描かれてきた。


「ニホンオオカミ」東京大学総合研究資料館のwebsite

 三峯神社 (埼玉県秩父郡大滝村三峰)、釜山神社 (埼玉県大里郡寄居町)山住神社 (静岡県磐田郡水窪町山住)、大川神社 (京都府舞鶴市大川)に大口真神が祀られている。

青梅市・御獄神社のお札


 神格化された狼のことを「眞神」と理解してよいようだ。更に理解を深めたのは、 TV番組のETV特集「見狼記」であった。狼信仰は今も残っている。

 人間の手によって森の生態系が崩され、神とされていた狼が絶滅させられたといってもよいだろう。さらに今では亡くしたものを生きていると信じたい、それを心に糧としたいという、願いが大震災に遭遇した人々の心と通じるものがあるようだ。自然信仰に基づけば神は至る所にいる。そしてその自然界の神を絶滅させるのもわれわれ人間である。

 上五の「草荒す」は、中七の「眞神の祭」に掛かっていると読める。狼は肉食であり草食でないことから、草を荒すのは、祭を催している私たち人間のことと読める。

 「眞神」という言葉が単なる郷愁に終わらず、何かを私たちに気づかせている。人類が犯した罪に対する気づきがある。それは、敏雄が戦争に対する、人が犯した罪を詠いつづけたことにも一貫していて、その壮大なテーマは、俳句の枠で言い切れなかったことを実現させようとした試みだったのではないだろうか。

 俳句を知り三橋敏雄『眞神』に出会わなければ狼信仰について理解を深めることはなかっただろう。秩父と連なり養蚕、機織の地域でもある筆者の故郷にも狼信仰の山がある。故郷の山はいつも怖いイメージがあった。どこかで何かが息を潜めている空気がある。未だその山の入口までしか足を踏み入れていない。この『眞神』の読みと同じである。

 トキが子供を産んだことがニュースになった。すでに絶滅危惧されてから手を尽くすのでは自然界の生態系を守るには手遅れという。俳句は花鳥諷詠、自然界のことを詠み込んできた歴史がある。絶滅危惧品種を詠み込み、功罪を詠うことは、敏雄以降の普遍的な俳句の型といってもよいかもしれない。


蓑虫もとうに絶滅危惧種といふ   関悦史 『六十億本の回転する曲がった棒』(2011年)



●―13成田千空の句【テーマ:雲】/深谷義紀

(2012年07月27日)

並ぶ肥(た)桶(ご)峰雲嶺に湧きつつあり

 第1句集『地霊』所収。

 何とも“濃い”作品である。今流行の“草食系”の対極にあるような印象を受ける。色彩も鮮やか、輪郭もくっきり、更には様々な匂いを含め、夏の気配が濃密に漂ってくる。そして一定の年齢以上の、かつ農村での生活体験がある者にとっては、懐かしさとともに、その頃の思い出が鮮明に蘇ってきそうな句である。

 思えば肥桶も、人口肥料に取って代わられ、だいぶ前から見なくなった。あれは近寄りがたいがゆえに、逆にその存在を強烈に意識せざるを得ないという、パラドクシカルな存在感を発揮していた事物だった。

 掲出句に戻ろう。この句を読んで気付くのは、一句に籠められた要素の全てが生命の躍動を感じさせることだろう。肥桶の養分を吸収した作物はぐんぐん成長を遂げているし、遠山に目を転ずれば入道雲が力感を伴って湧き起こっている。当時としては、ありふれた夏の農村風景だ。

 だが現在という視点からこの作品を眺めてみると、その景は当たり前のものとは言えなくなる。ある時代の特徴を色濃く反映した風景だと思うからである。その時代とは、戦後復興過程の一時期だ。そのあとの高度経済成長期になると、どこか慌ただしさが紛れ込み、風景からこうした雄渾さが失われたような気がするのである。その意味で、一見飾り気のない朴訥そのものの作品に見えて、なかなかどうして実のところその時代の息吹を饒舌に物語っている作品なのではないだろうか。


2026年6月26日金曜日

【連載】現代評論研究:第27回各論―テーマ:星または空その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

●―1近木圭之介の句【テーマ:星または空】/藤田踏青

投稿日:2012年07月06日 カテゴリー:

行為としての詩。空の蒼は遠い

 平成18年の作品で、この年圭之介は94歳であった。「戦後詩における行為」(注①)の中で寺山修司は「いかにして風景になるか」ではなくて、「いかにして風景から脱却するか」と述べ、主体的な詩の創造、直接の詩を書くべきと主張している。それは俳句等に関しての論の中でも、「<自己形成の記録>のような俳句やそれに続く短歌などは、<何もかも、捨ててしまいたい>、<書く>行為・<読む>行為によってそれらを全て葬り去ってしまいたい。」と述べている事にも関連して来るものである。

 因みに掲句は詩を対象にしているように一見思われるが、俳句というものを詩として捉える立場からみれば、その行為は<書く>という表現行為と共に<読む>という俳句特有の付随する行為をも包含していると考えても良いのではないか。そして「空」はその対象としての詩の領域の無限さを、「蒼」はその奥深さを示しているものであろう。94歳にしてのその詩心への絶えざる希求の姿勢がここに見られる。圭之介もこの様に旧来の俳句の背景をぬぐい去ろうとしていたのである。

貝殻のなか空曇る              昭和29年  注②

空が曇るのは無花果の木から乳が流れ出るから 昭和52年   々

戦敗れた空 黄ばんだ魔ものふっと消えた   昭和60年   々

 ここにある「空」は空間や時間やその意味から飛躍して、遠い処に置かれている。つまりイメージは一旦拡散してから別次元で焦点化している。私性の普遍化とはこのような経路をたどって為されてゆくのではないであろうか。

肉が骨が無防備 冬銀河           平成7年

 阪神淡路大震災時の作品である。「肉が骨が無防備」の丸裸の措辞によって人間存在の脆弱さ、稀薄さが強く意識されてくる。またそこから精神が消し去られていることによって冬銀河への人間の相対化が無効にされているかの如くにも思われてくる。昨年の東日本大震災に於いても被災者は同様な意識下に置かれているのであろう。

 戦前の句であるが、山頭火との交流の中にテーマに添った下記のような句もある。


明けの星を笠を背にして行かれる     昭和9年  注②

(昭和九年二月二十七日、山頭火ひょう然と来り一泊して去る)

遠い海のような青い空を 癒えている   昭和10年 注②

(昭和十年八月二十五日、南信飯田にて病み帰庵の山頭火を其中庵に見舞う)

秋のなか笠ふかく行くをみれば白い雲を  昭和10年 注②

(昭和十年十月半ば、つくし路に山頭火をおくる)

哀しいことがある 星がある 月が出る  昭和15年 注②

(昭和十五年十月十一日未明、松山の一草庵にて山頭火急逝す)


 青い空、白い雲、星や月、全てが山頭火の思い出にと連なっていたのであろう。


注① 「戦後詩」 寺山修司 ちくま文庫 平成5年刊

注② 「ケイノスケ句抄」 近木圭之介 層雲社 昭和61年刊


●―2稲垣きくのの句【テーマ:流転】渋谷区千駄ヶ谷・三和荘時代/土肥あき子

投稿日:2012年07月06日 

止めどなき流転舌焼く蜆汁

 昭和41年10月に上梓した第二句集『冬濤』は、春燈叢書第32輯350部限定で出版され、「春燈」1月号の広告欄では既に好評売切と出ている。そして、翌年第6回俳人協会賞を受賞する。万太郎を失った「春燈」にとってもきくのの受賞は朗報に違いなく、「春燈」誌上では新年会の様子として、きくの・真砂女が額を寄せ合う写真が大きく掲載されている。

くさめして受賞のことば夢にあらず  「春燈」昭和42年(1967)2月号

とクールなきくのが喜びを素直に作品として残しているのはめずらしいことだ。3月25日、俳人協会賞の受賞式では、同時受賞した磯貝碧蹄館の作品とともに会長の水原秋桜子から「よくもああ大胆に振舞えるものだと思う。それで少しも定型を踏みはずすことなく、本当に若々しい」(「俳人協会会報」1967.5)と賞賛している。

 そして春、きくのは四谷左門町から千駄ヶ谷に転居する。冒頭掲げた作品は「春燈」昭和42年(1967)5月号に掲載される。ここで初めて今回のテーマとした「流転」を、きくのが自身で自覚し、言葉として使用した。赤坂福吉町を出て、三カ所目の転居である。

 「流転」とは、流れ移ることという意味とともに、言外にそうならざるを得ない業のようなやるせなさを感じさせる。さらに「舌焼く」が蜆汁の熱さであることは承知しつつも、「舌」という部位が持つ独特のニュアンスが掲句の孤独に艶を加え、贖罪を求めるごとき行為に発展させる。

花冷やとゆき戻りつして二間

目刺やく隠るるごとく移り棲み

 新住所は千駄ヶ谷2丁目、千駄ヶ谷駅から徒歩10分ほど。きくのが暮らした「三和荘」は静かな住宅街にあった。現在同じ場所に建つ「神宮外苑ハウス」の家賃は1LDKで178,000円。住みたいエリアの上位にランキングされている町だが、きくのにとってこの転居はどうも気に染まないものであったようだ。

 引越前の「春燈」4月号には

足袋にアイロンあな憎き顔足袋になれ

掴まれし尻つぼ男狐しどろもどろ

が並ぶ。きくの作品のひとつの特色でもある辛辣で直裁なアプローチである。ともすれば毒舌と捉えられかねない表現に、巧みなユーモアによって愛らしさを際立たせる。

 同年8月号では「渦潮・牡丹」と題し、鳴門の渦潮で24句、長谷寺の牡丹で29句と協会賞受賞後の作品を精力的に発表する。A氏の死によって解放されたきくのは引越とともに、その前後には

それつきりかゝらぬ電話菜種梅雨

別るゝやひれ振るごとく春ショール

火蛾の如まとひつく愚はあへてせじ

など、あらたな悶着とともに別れを予感させる作品が並ぶ。そして「春燈」10月号。

星飛んで未来永劫ひとに恋

 やはりこれでこそ、恋のきくのの本領であろう。


●―4齋藤玄の句【テーマ:星または空】/飯田冬眞

投稿日:2012年07月06日 


癒ゆる日のために見ておく夏大空

 昭和53年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 〈癒ゆる日のため〉といっているのだから、この作者は病に臥せっていることがわかる。そして、この病人は来るべき〈癒ゆる日のため〉に〈夏大空〉を見ておくと宣言している。来年の夏にはこの空を見ることができるだろうか、いやできないかもしれない。そんな、病人の逡巡が垣間見えてくる。だからこの宣言がかえって、実現不可能かもしれないという病人の心情を読む者に想像させて、哀切な感興を生み出している。

 年譜を確認すると齋藤玄は昭和53年の早春に直腸癌を発症。「4月12日手術。7月5日再手術。」とある。まさに掲出句は、来年の夏はないかもしれない状況下で詠まれたことになる。よって〈癒ゆる日のために見ておく〉の言辞が切実であったことが知られる。すでに記したように齋藤玄個人の歴史を知らなくても句意は明らかなのだが、年譜と照合することによってこの句を補完することができるような気にさせてくれるので、あえて引いた。

胎の子のために見ておく寒昴   遠山陽子 『黒鍵』

 遠山陽子氏は三橋敏雄の高弟の一人。はじめ藤田湘子、のちに三橋敏雄に師事。敏雄の研究誌「弦」主宰。「面」「雷魚」同人。三橋敏雄と齋藤玄は同時期に「京大俳句」に席をおいた西東三鬼の弟子。よって、遠山氏と齋藤玄は三鬼一門の叔父と姪にあたる関係ということになろうか。

 それはともかく、齋藤玄の掲出句と遠山句を比べると、その趣きの違いはあきらかだ。

 齋藤玄の〈夏大空〉の句は、過去の記憶と向き合う作者像が屹立しており、死のにおいが揺曳している。その主情に共感しうるか否かは、感覚的な問題であり、作者の実人生に対する有知無知を問わない。だが、作者が癌に侵された身であることを理解したうえで読みかえすと〈夏大空〉には、健康への憧れや開放的な北海道の夏の大空が象徴的に用いられていることがわかり、一句に対する共感は深まってくる。だが、ある意味〈夏大空〉の語にもたれかかった俳句構成であることも確かだ。

 一方、遠山作の〈寒昴〉の句からは、〈胎の子〉と自分自身の未来に思いをはせている妊婦の姿が浮かび上がる。母になろうとしている若い女性の緊張感と向日性とでも言うべきひた向きな心情が、澄み切った冬空に輝く〈寒昴〉によって象徴的に表現されている。この句には作者の実人生という補助線はむしろ不要であり、実人生に還元して鑑賞してはかえって情感がそがれるたぐいの句ではないだろうか。妊娠期における女性の普遍的な心情を詩に昇華した作品として評価できる。

いつの日の山とも知れず夏大空   昭和52年作 『雁道』

 掲出句に先行する齋藤玄の〈夏大空〉のオリジナルとでもいうべき作である。掲出句〈癒ゆる日のために見ておく夏大空〉と同じく、下五を〈夏大空〉でおさえている構造を持つ。この作品はすでに「風土」の項でとりあげたので、詳述は避けるが、句から立ち上がる印象は掲出句よりも格調が高く、雲泥の差と言わざるを得ない。

 〈いつの日の〉の句は、〈夏大空〉の下で感じた、作者の記憶のゆらぎを的確に描写した秀句である。句意としては、眼前の山がいつかどこかで見た山の記憶と重なり、既視感と現実感のはざまで齟齬をきたして混濁してゆくが、夏の大空は変わることなく広がっていたというもの。表現はおおらかだが、内実は、重い情念が渦巻いている。凝視が生み出した幻視が自然界を浸食する一瞬をとらえている点で、この句は作者の実人生を知らずとも、鑑賞に堪えうる強度を持っているのである。

 三句を比較してわかったのは、前回と同様に、「あはれ」と「かなし」の違いのようである。つまり、〈夏大空〉や〈寒昴〉という対象と共振しながら自己同一化あるいは客観化するとき詩は現出するが、〈癒ゆる日のため〉の句のように内省化すると俳句は強度を失うということだ。だが、自己の無力感を詠う詩形もこの世に存在してはいる。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載


●―9上田五千石の句【テーマ:星または空】/しなだしん  

投稿日:2012年07月13日 カテゴリー:


外寝して星の運行司る     五千石

 第一句集『田園』所収。昭和三十二年作。

 自註には〈カメラを北極星に向けて固定し、絞りを解放、距離を無限大に数時間露出すると星の運行が渦をなして映される。これを「星野写真」と呼ぶそうだ〉と記す。

     ◆

 掲出句は『田園』の、前回の「日の句」で紹介した〈炎帝に召し使はれて肥担ぐ〉の次の収録句。

 五千石には多くの星の句があることは、連載の第1回から第3回等で書き、作品を紹介した。

ゆびさして寒星一つづつ生かす(第1回)

木枯に星の布石はぴしぴしと(第3回)

冬銀河青春容赦なく流れ(第21回)

など、その句の多くは冬の星を詠んだもので、これらは感傷的、感情的であり、季節からしても厳しい冬の印象が強く出ている。

 一方、掲出句の季語は「外寝」で夏。「暑さで寝苦しい夏の夜、戸外に寝ること」である。掲出句では、満天の星の下で眠る場面。たとえば高原などでのキャンプなどが想像され、ある種の避暑も感じられる。自註にあるカメラの視点で、星空の下にじっとしていると、目にはその時の点でしかない星々だが、頭の中でカメラのシャッターを解放していると、過去から現在へ星の動きが線として記録されてゆく。星の運行という時間の流れを凝縮するように。

     ◆

 自註にある「星野写真」という言葉は知らなかった。「ほしの」ではなく「せいや」と読むようだ。一般的な言葉ではなく、夜空の写真撮影の分野で使われる言葉のようである。「カメラを北極星に向けて固定し、絞りを解放、距離を無限大に数時間露出する」というのは撮影手法のひとつで、この他にもさまざまなテクニックがあるらしい。星の撮影は一般的には難しく、私もカメラは使うが、綺麗な星の写真を写せたことがない。ちなみに「星野写真」でネット検索すると、美しい星の写真を見ることができる。

     ◆

 前述の冬の句とは季節が変わることで、随分開放的な印象になる。だが、掲出句は下五の「司る」に、この頃の五千石の若さと強さが出ていると、私は思う。


●―10楠本憲吉の句【テーマ:妻と女の間】/筑紫磐井

投稿日:2012年07月20日 


酒場やがて蝋涙となり誰か歔欷

 昭和40年の作品、『楠本憲吉集』所収。

 直接女性の字は出てこないが、やはりこの句は「妻と女の間」で取り上げるにあたいする句であろう。とりわけこの句は次のように読むとき、俄然、憲吉の色彩を帯びる。

酒場(バー)やがて蝋涙(ろうるい)となり誰(たれ)か歔欷(きょき)

 酒場にバーのルビは憲吉自らが付けた。当然目の前に広がる光景は、ホステスのこみあげるすすりなきにみながぎくりとする、歓楽の行き尽くす夜である。時に灯は煤を上げて燃えしぶり、醜い蝋燭の滓は積もり積もって燭台を汚して行く。

 憲吉が得意然としているのは、自句自解に平畑静塔の次の解説を掲げたことからも分かるであろう。

「灯火の時のただれたる華麗の時終れば、卓上に燭を立て蝋火の時と変じ、興を薄命の悲哀に切り替えんとするのか。この時、夜の蝶属は、蝋涙の身と化身して、誰かひとり声をひそめてすすり泣く声を薄命の卓上に漏らそうとするのであるか。それとも多感の遊子、ひそかにこの暗転に乗じてこみ上げくる悲哀に、わが胸のうちの悲しみにすすり泣かんとするのか。ともあれ、酒場深夜の一興の景である。」

 新興俳人にして精神科医の静塔がどういうつもりでこんな鑑賞を書いたか分からない。蒲原有明調の、しかし軽薄な文章は、いたく楠本憲吉の御気に入ったようである。

酔うて漂う深夜の海市誰彼失せ

 同じく昭和40年の作品、『楠本憲吉集』所収。

 これも自句自解に平畑静塔の次の解説を掲げている。

「この句も銀座夜景である。深夜の銀座は酔漢のものだ。(中略)わが傍らにいる者、通り行く者、すべて酒精の魔手に操られたる人間のみとはなった。酔歩蹣跚、漂流の舵を操る深夜の車を縫うて、異様幻影の竜宮、桃色なせるハレムの殿堂かと近づけば、風なくして蜃気楼はゆらりと動く。酔友いつしか身辺にあらずして失踪し、われひとり海彼の魔境に流れつかんとするのかと、作者は酔いを忘れて、深沈の憂いにとらわれたのである。」

 実はこの文章を写しながら評者は腹を立てているのである。こんな鑑賞やこんな批評が二度と再現されて欲しくはないと切に思う。まるで、昭和の黄表紙の世界ではないか。おまけに、憲吉はこの誰彼が西東三鬼と石川桂郎だと落ちまで付けている。これがかっての俳壇の有様だったわけである。若い人々に侮蔑されて当然である。

 ただ不思議なのは、こんなどうしようもない鑑賞から離れて、俳句だけは自立していることだ。私がこの句を取り上げているのも、俳句だけは侮蔑していないからである。いやそもそも俳句が不思議なのは、人格下劣、没道義、思想も品性も、理想さえなくても、名作佳句を作ることができることだ。詩人や歌人や小説家が信じられない世界が俳句にはあるのである。批評を拒絶して、作品だけが佇立することを信じて疑わないで欲しいと思う。


●―12三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】52.53.54/ 北川美美

投稿日:2012年12月14日 カテゴリー:


52.やまかがし窶(やつ)れて赤き峠越ゆ

 案山子(かかし)ではなく、カガシ、蛇である。

 毒蛇が疲れ果て《赤き峠》を越える。あるいは、ヤマカガシが《窶れて赤き》となり、峠を越えるという読みもできる。「赤き」がヤマカガシなのか、峠に掛かるのか、どちらだろうか。敏雄句の特徴である「赤」。この『眞神』にも「赤」の句が何と多いことだろう。

鬼赤く戦争はまだつづくなり

霧しづく体内暗く赤くして

水赤き捨井を父を継ぎ絶やす

やまかがし窶れて赤き峠越ゆ

産みどめの母より赤く流れ出む

身の丈や増す水赤く降りしきる

 傾向から言うと、「赤」はヤマカガシに掛かっているようだが、蛇が赤くなる、という現象は調べてみたが、立証できそうもない。元々赤い蛇というのは、蛇の中の「ジムグリ」の幼ヘビがある。そうなると、「やまかがし」という蛇の種類が登場しているのならば、やはり「峠」に掛かる、という結果になる。

 「赤き峠」。曼珠沙華が沢山咲いているような峠だろうか、紅葉の峠だろうか。無季句でありながら季節を感じさせることができるのも俳句の力である。


53.沸沸と雹浮く沼のおもたさよ

 雹(ひょう)が浮く沼の面を境に、沼に表と裏があるように読める句である。

 雹は沸々と湧き上がるように浮くが、雹の落ちた沼はどろどろと重たい。なんということでもないのであるが、それが俳句になる不思議さがある。ふと読者を考えさせることができるのが俳句の短さ故の魅力である。

 蓮の花が浮く水面が天国と地獄を意味するように思えるのだ。蓮の咲く季節だけが天国ではない、寒い季節にも天国と地獄がある。


54.木を膝を山蟻下りて日かたむく

 敏雄俳句には映像の世界がある。ふと、登場する山蟻が、誰もいなくなった村に生き、足早やに木を、そして我の膝を下ってゆく。

「日かたむく」は31句目の

日にいちど入る日は沈み信天翁

と呼応しているように思える。また同時期に作られた句ではないかと思っている。同じ日常が繰り返されていく自然界の営みである。

 俳句はひとつ、あるいはふたつくらいの動作しか書けないだろう。しかし山蟻が木を、そして膝を下るという上五中七のたった12音の言葉で矢継ぎ早やな山蟻の様子を表し、「日かたむく」で午後の地球の自転をも感じさせる。小さな景から大きな景へと俳句にも絵画に似た遠近法があるのである。その軸がすこしずれるというセザンヌ的感覚を『眞神』には感じることができる。


●―13成田千空の句【テーマ:星または空】/深谷義紀

投稿日:2012年07月20日


寒星明暗我が身のなかに眠る妻

 第1句集『地霊』所収。

 千空に妻恋の句は多く、新婚当初はもとより晩年に到るまで数多くの作品を詠み続けた。掲出句もその一つであるが、今回のテーマは「星または空」であり、千空の妻恋句全般については稿を改めて論じたいので、ここでは触れないでおくこととする。

 さて掲出句である。冒頭「寒星明暗」と、漢字ばかりの、しかも字余りの措辞がいきなり置かれている。千空作品の特色のひとつである剛直な詠みぶりがここにも現われていると言えよう。そして中七以降は対照的に、愛しい妻が自分の腕の中で眠るという、読む者の胸に染み入るような構図が提示されている。

 季節は極寒、しかも本州最北の津軽である。冷たい北の夜空に瞬く星の輝き、そして明滅。こうした深遠なるものと、妻という身近な愛すべき存在。寒の極みと生身の温み。見事なコントラストだと思う。この対照の鮮やかさとスケールの大きさにより、人が生きていくことの崇高さと、同時に味わわなければならない切なさが読者の胸に響いてくるのだろう。

 第5回(テーマ:風土)で述べたように、千空は所謂「風土俳句」には否定的であり、今を生きる人間をこそ詠うべきだ、と主張した。その折も引いた千空自身の言葉を再度掲げよう。


「われわれは風土に生きていることは間違いない。と同時に、現代に生きているんだ。現代に生々しく生きているということと風土に生きているということ、この二つの問題を俳句の世界で生かす必要があるだろう」と。

(角川選書「証言・昭和の俳句」より)


 掲出句もこの主張に沿ったものと言える。千空の眼差しは絶えず人間そのものに注がれ、千空にとって人の営みこそが俳句なのである。


●―13成田千空の句【テーマ:日】/深谷義紀(前回26回に書き漏らした鑑賞である)

投稿日:2012年07月20日 


秋日濃しめし屋に味噌の握り飯

 今回のテーマは、「日」である。このテーマで真っ先に頭に浮かんだのは、

腰太き南部日盛農婦かな   『天門』

であるが、この句は既に第20回(テーマ:女)に軽くではあるが一度採り上げたため、今回は別の句を俎上に乗せることとする。

 掲出句は、第4句集『白光』所収。

 仕立ては単純、句意も明快だ。一読してすぐ、秋の昼の食堂の光景が目に浮かぶ。降り注ぐ秋の外光と、油や煙の染みた仄暗い店内。造作といえば、長年使い込んだテーブルや手書きのメニュー。洒落た装飾など何もない、でも妙に懐かしく気分が落ち着く、そんな店だろう。

 そして作者が頬張るのはシンプルな食事の極みの握り飯。少し歪な形かもしれない。味付けも味噌だけ。至って簡素な景色である。だが、作者はこの味噌握りをこよなく愛していることが伝わってくる。

 時間が止まったような、或いは時代を超越した風景というべきか。セピア色の古い写真を想わせるが、秋の日差しは濃く眩しいほどの輝きを見せる。混じりけなしのリアリティによる句だと思う一方、どこか異次元の要素も感じる。虚と実が交差する不思議な世界が広がっている気がする。ふと「根元的」という言葉を思い出した。

2026年5月15日金曜日

【連載】現代評論研究:第25回各論―テーマ:「虫」を読む・その他― 藤田踏青、土肥あき子、北村虻曳、飯田冬眞、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(2012年05月25日/06月01日/06月08日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 蟻の笑いのない貌がはたらく地面    昭和28年  注①

 笑いとは快感や満足を表現するものであり、大別するとラーフとスマイルに分類され、それは大脳皮質、特に前頭葉に関連しているそうである。それ故、哺乳類では無い昆虫のアリに笑いが無いのは当然であるが、社会性昆虫の代表格であり、肉食性動物ではアリが人間のバイオマスに匹敵するほどの大きなバイオマスを誇っているそうである。

 そこで掲句だが、蟻と人間は背中合わせの存在とも受け取れ、戦後復興期に黙々と地を這う如くに働く人間の姿を髣髴とさせるものがある。人間の本質とは何か、蟻とはどう違うのか、との疑問を投げかけている様でもある。又、その類想の句もある。

 力をもって蟻がひく          昭和22年  注①

 心のきれつぱし黒く蟻になり地を這う  昭和25年  〃

 蟻に投影されたこの緊張感がほぐれた処からカントの言う「笑い」(注②)が生まれるのだが,そこに至るまでに幾多の苦難があった。


 圭之介は昭和51年10月11日、山頭火の三十七回忌に河童洞(自宅)に山頭火句碑(注③)を建て、下記の様な句を作っている。

 月夜またしぐるるしぐれの碑なり    昭和51年  注①

 冬蝶 碑を超えていった        昭和52年  〃

 ほどほどに時雨す石ぶみの声す     昭和58年  〃

 「しぐれ」はその句碑の作品に添うものであると共に、山頭火の代表作「うしろ姿のしぐれてゆくか」をも想起させる。また「冬蝶」は山頭火その人を指すと思われ、下記の句が下敷になっていると思われる。

 冬の蝶々よ 旅立つという山頭火よ   昭和15年  注①

 この句の前書きに「昭和15年1月12日、風来居(山口市)を引き上げ松山の一草庵へ移るという 一泊して去る」とあり、それが山頭火との永久の別れとなったようである。

 白い蝶が 彼はひとりきりの昼にする  昭和25年  注①

 これは山頭火が其中庵(小郡)に居た時の事を思い出しての句である。一匹の白い蝶は山頭火の孤独感を深めるものだが、圭之介は白い蝶を別の意味でも用いている。

 原爆で死ぬとき紋白蝶空にびっしり見たい 昭和60年  注①

 枯れまさる 両手どっと紋白蝶放ちたい    〃    〃

 カタストロフィに際しての思いは紋白蝶の群舞する世界であり、それは既出句「失イツクシ。蝶残ル」(第14回テーマ「春」:平成6年作)へと収斂してゆく。


注① :「ケイノスケ句抄」   層雲社   昭和61年刊

注② :「笑いとは、緊張した予期が突然無になることから生じる情動である」

        カント “Kritik der Urteilskraft”

注③ :「へうへうとして水を味ふ」  山頭火

   「音はしぐれか」        〃

上記2基の句碑(石柱)を建てる。


●―2 稲垣きくの【テーマ:流転】平河町時代/土肥あき子

 今日からのアパートぐらし秋の風 『榧の実』昭和34年

 昭和の高度成長期に住居表示化を併せて地名の大規模な統廃合が行われ、福吉町も近隣の田町、新町、一ツ木町、中町、氷川町、丹後町、新坂町という情緒豊かな町とともに赤坂1〜9丁目とそっけなくまとめられてしまった。そして、昭和29年(1954)に書かれたエッセイ「騒音地獄」にあるように、近隣の様変わり、ことに東隣にあった黒田侯爵家の大邸宅の焼跡を帝産オート(現:帝産観光バス)が買収し、バス車庫となったことが大きな原因となり、きくのは赤坂の家を手放すことを考える。きくのが丹精して手を入れた赤坂の家は、万太郎に賃貸し、万太郎の終の住処となる。万太郎の死後は楠本憲吉を通じ高級料亭として使われた時代を経て、現在は赤坂霞山ビルになっている。

 掲句には「平河町に移る」の前書がある。「アパートぐらし」に吹っ切ったような、諦めたような寂しさが言外に漂う。この年、きくのは53歳。そろそろ大きな屋敷をひとりで取り仕切るより、使い勝手のよい鍵ひとつで生活できる部屋の方が気楽と思える年齢である。しかし、その玄関が部屋が、照明のひとつひとつが、今までと違うことを日々あらためて思い知らされるのである。

 赤坂を去る数年前の昭和31年(1956)に鈴木真砂女の句集出版記念会の折り、万太郎からきくのにも句集出版の誘いを受けるが、安住敦から「まだ早い」と反対される。それもあってか、まずは「春燈」に掲載されたエッセイをまとめた随筆集を上梓した。随筆集『古日傘』は昭和34年(1959)5月、その秋きくのは平河町へ引越している。出版することで、きくのの気持ちもひと区切り付き、あらたな生活へと踏み出す機会となったのかもしれない。


『古日傘』には万太郎が祝句が扉に書かれている。

春ショールはるをうれひてまとひけ里  久保田万太郎

 愁いをまといつつも、新天地となるはずの平河町だったが、きくのの体調はおもわしくなかった。

   腸の疾患にて東大に入院

どの室で鳴る鳩時計夜長かな 昭和34年


   麻布、杉原医院へ移る

看とられて松も過ぎしとおもふのみ 昭和35年


 昭和34年(1959)から37年(1962)まで、そのほとんどを病院で過ごしながら、わずか3年間のアパートぐらしだった。


●―3 短詩として読む俳句【テーマ:死の風景】②/北村虻曳

いもうとは水になるため化粧する 石部明 遊魔系 2002

 私のわずかばかりの川柳の知識によると、死の風景と言うことで言えば誰よりも石部明を挙げたい。冒頭掲出句は、エロスと死という定番と言えるだろうが、まったく個性的な舞台を作りだしており彼の最高傑作と見る。

 「賑やかな箱」(1988)は、

指で輪を作ると見えてくる霊柩車

やがて手も沈んでいった春の海

あおむけにそのまま眠る花の底

紐を引くどこかで誰かが死ぬように

見くらべて等身大の箱を買う

なんでもないように死体を裏返す

など、さまざまな死に満ちている。物体となってしまったものを前に、いろいろなことを考えてしまうから「なんでもないように」と言う語が出てくる。俯せにして、死者と視線を交わすことはない。ましてや取りすがることは無益である。これは彼の覚めた無慈悲さとか、逆にセンチメントであり、優しさである、と言いきってしまうと少し語弊がある。情と非情を兼ねた幅の広さが持ち味である。

たましいの揺れの激しき洗面器

月光を浴びる荒野のめし茶碗

うっかりと覗いてしまう橋の下

なども死を暗示しているように読むことが出来る。「たましい」の句は、河縁(かわぶち)で育った彼の記憶の中、洗面器の振動しやすさや、捕った魚を放したときの暴れのイメージから生まれたものであろうが、魚を死に抗うたましいと変容させたことで死を暗示する詩となった。めし茶碗は、電灯の下、テーブルと言うよりもちゃぶ台の上で、もっとも親しい生命活動に関わっていたものだが、いまは捨てられて荒野に転がり冷たい光を浴びている。俳句の中における死と比べてより身近である。この句に限らず、媒体として用いられるものはどこか身体に結びついていて生活的であり、あちらの世界に行ってしまわない。川柳の出自を物語っている。


 「遊魔系」(2002)には、死と言うよりも、死んだ、あるいはされるがままの身体がたびたび登場する。

靴屋きてわが体内に棲むという

折鶴のほどかれてゆく深夜かな

体から誰か出てゆく水の音

戸板にて運ばれてゆく月見草

ぼろぼろに黄ばんでしまう人体図

真っ暗なからだの奥の水祭り

 肉体は生命の器と言うよりも不如意なもの、何者かに勝手に使われる場である。

肉色にかがやく午後の遺体かな

は、その肉体の昂然たる反抗、居直りであろうか。投げ出されてまぶしい死体、技巧を越えて迫力が印象に残る。この「遊魔系」、

梯子にも轢死体にもなれる春

で始まり、

縊死の木か猫かしばらくわからない

で終わる。感傷を排し、非情であらねばという独自の倫理が見える。誰かの周到な技巧の句を並べてもそれを無化してしまう無造作、ひいては無頼を感じる。石部明については、俳句・川柳の句会でしばしば同席したことがあるが、「賑やかな箱」の寺尾俊平の解説にある以上には身上について知ることはない。しかし勝手な推測で言えば、彼は私同様、生来おそれに対して感受性の強い人なのではなかろうか。おそれはより強い恐怖や毒の言葉でのみしのぐことができ、それを繰り返すうちにその刺激が身に付き、動じない無頼のペシミズムを形成する、そのようなことを考えてしまう。

目礼をして去ってゆくおそろしさ

 目礼されるときの恐ろしさ感じる人であり、また静かで恐ろしい目礼をする人ではあるまいか。


●―4 齋藤玄の句【テーマ:虫】/飯田冬眞

 ある筈もなき蛍火の蚊帳の中

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 人の目とは不思議なもので、見えないものを見てしまうときがある。理由はわからないが、その瞬間はたしかにそう見えていたのである。しかし、目を凝らしてみるとその姿は掻き消えて、ありきたりの見知った景色があるばかり。見たくて見たわけじゃない。まさに“見えてしまった”のである。

 掲出句は、そんな晩年の齋藤玄に見るともなく見えてしまった「蛍火」の句。

 一読、句中の〈蛍火〉は玄の身から抜け出た魂のことだろうと思った。それは、次の古歌を思い出したからだ。

もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る   『後拾遺和歌集』 1162

 言わずと知れた、和泉式部の代表歌。夫に捨てられた式部は、京都鞍馬の貴船の社を詣でて、その悩みを神に告げ、祈る。その帰路、御手洗川のほとりで蛍が飛び交うさまを見て詠んだとということが詞書にある。内容から恋の歌のように思っていたが、『後拾遺和歌集』では、「神祇」の部立に収められている。「もの思へば」の歌のあとには貴船の神の「返歌」が載せられている。神と人との歌のやり取りが勅撰集に収録されているということも和歌本来の持つ対話性をうかがわせて興味深い。

 掲載句の〈ある筈も〉ないのに見えてしまった〈蛍火〉について、自註に玄はこう記す。

 蛍火などもう絶えて見たこともない。随分昔の思い出の中にしかない。が、青々とした蚊帳の中では、今も蛍火が見えるという期待を持つ。(*2)

 この末尾に記された「今も蛍火が見えるという期待を持つ」という述懐からわかるとおり、〈蛍火〉は玄の眼前にはない。しかし、〈蚊帳〉を目の当たりにしたとき、その〈蚊帳の中〉にかつて見た〈蛍火〉を見てしまったのだ。蚊帳の中で浮遊する〈蛍火〉の幻想的な光景はあくまで記憶の中のものである。記憶の中の〈蛍火〉と現実の〈蚊帳〉を一句の中で読むことは教条的な俳句作法を順守する立場の方たちからは非難されるかもしれない。しかし、作者である玄には“見えた”のである。たとえ観念の中の蛍火であったとしても、それが読者の目にありありと浮かぶが如く伝わったとしたら、それはもはや、観念とは言い難い。詩的造形物とでも名付けるしかないものだろう。

 見えるものを見続けて、対象から何がしかの真実をつかみとるというのが俳句における写生の技法だとすれば、記憶の中のものであろうが、現実のものであろうが、区別する必要はない。この句はまぎれもない写生句なのではないだろうか。あえていうならば、幻視の写生とでも分類されるべきものである。

 『雁道』および齋藤玄の晩年の俳句には、掲載句のように、対象を描写しているように見せながら、実は作者の観念による屈折をともなった作品が多い。

 前回は〈裂く鯉の目には涅槃の見ゆる筈〉ほか、「鯉」の句をあげて、対象に観念的操作を施すことで、作者自身の内面を描写するという作り方を「観念的同化」と名付けた。今回はそれを確認する意味で、遺句集『無畔』から蛍の句を抽出してみることにする。

葦原を出づる嘗(かつ)ての蛍の身  昭和54年 『無畔』

 一句目は、葦の群生する湿原で蛍を見たという原体験がこの句の背景にはあるのだろう。〈葦原を〉離れるわが身は、前世、蛍であったに違いないという詩的断定の句。宿世観を発想の基底においた俳句はそれほど珍しいものではない。しかし、露まみれの蛍の姿を見つめ続け、忘我の時を過ごした作者にとって、葦原から去りがたい思いを抱いたのは疑いない。その心残りを、感情語を用いずに表出するとすれば、前世、わが身がこの葦原で蛍として飛んでいたからだ、としか言いようがなかったのだろう。

 掲出句同様、この句にも「観念的同化」作用が認められる。

見ぬ蛍ひとりの糧(かて)は水のごと   昭和54年 『無畔』

 二句目は、かなしくうつくしい句である。上五〈見ぬ蛍〉によって眼前の蛍ではないことは明らか。もう、蛍を見なくなって幾年月を経たのだろう、という詠嘆的な断定がこの〈見ぬ蛍〉には込められている。〈ひとりの糧(かて)〉という語から晩年の孤絶感が伝わる。病躯を養うために一人で摂る食事は〈水のごと〉くである、とは、直腸がんを患っている玄の食事が流動食であったことを想起させて痛ましい。にもかかわらず、この句にはどこか明るいうつくしさがある。流動食で命をつなぐ老人の姿がいつのまにか、水を求めて乱舞する蛍の姿にすり替わって見えてくるからだ。むろん水を求めて遊んでいる蛍は、無明の闇の中にしか存在しない。孤独に絶望した闇を照らすのは観念の中の蛍に過ぎないのが哀しい。

 現実には見えていないものを観念の中で凝視する。すると、観念の中でしか存在しないものが現実の作者を取り巻くなにかに入れ替わって立ち現れるという詩的変容が生じる。この句で言うならば、〈蛍〉も〈水〉も現実には存在せず、作者である齋藤玄の記憶の中にしか存在しない。記憶の中で蛍が水を求める姿を思い浮かべながら、只今現在の私はただ一人で夕餉を囲んで生きながらえている。そこに、そこはかとない可笑しみと生きることの根源的なかなしみがこの句を読むと伝わってくる。

 観念的同化から観念的転移へと変容した最晩年の佳句である。

冥(くら)きより冥きに出づる蛍籠  昭和54年 『無畔』

 『法華経』化城喩品に「従冥入於冥 永不聞仏名」(冥きより冥きに入りて 永く仏名を聞かず)の偈頌(げじゅ)がある。経文の意味は、私たち凡夫は生まれては死ぬことを繰り返し、永遠に真理を悟った仏になることはできない存在だ、ということ。この一節を踏まえた古歌が『拾遺和歌集』にある。

冥(くら)きより冥き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月   『拾遺和歌集』 1342

 作者は雅致女式部(まさむねのむすめしきぶ)、つまり、和泉式部のこと。歌意は、煩悩の闇から闇へと迷い込んでしまいそうな私に真理の道に導くように遥か彼方まで照らしておくれ、山のすぐ上に輝く月よ、というもの。

 和泉式部の古歌に比べると玄の句はやはり、理に落ちているきらいがある。句意は、闇から闇へと時を隔てながら浮かび出ることでしか、その存在をあらわすことができない、それが蛍籠というものだ、ということになろうか。表層の意味だけみるとやはり経文の実存的真理を具象化したに過ぎないようにみえるが、下五の〈蛍籠〉によって、古歌にはない生存の可笑しみが立ち上がっているように思う。

 見えないものを見てしまったとき人はふっと笑いをもらす。齋藤玄の蛍の句は、どれも、そのふっと漏らした息のようなさりげない姿をしている。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●―9 上田五千石の句【テーマ:虫】/しなだしん

 五千石の「虫」の句といえば〈啓蟄に引く虫偏のゐるはゐるは〉がある。この句は昭和五十六年作、第三句集『風景』所収。季語「啓蟄」は動きようもないが、理が勝っているのは否めないし、このような句の造りはありふれているように思う。だがこの種の句は早く作ったもん勝ち的なところがあって、これはこれで五千石の一つの代表句として存在すべき作品といえる。

     ◆

 今回の「虫」の句で選び出したのは次の二句。ともに第一句集『田園』所収。昭和三十二年作。

羽繕ふ間も黒蝶の華麗な生

鉛筆で火蛾の屍除くる貧詩人

 一句目「羽繕ふ」の自註には〈「華麗な生」などと、映画の題まがいの語句が臆面もなく使われている。人生のテーマは愛と死だ、とか口にしていた観念的で、しあわせな時代〉とある。

 二句目「鉛筆で」の自註には〈詩人を志すことは、貧乏を覚悟することであるが、貧乏していれば、立派な詩が書けるかといえば、そういう訳にはいかない〉とある。

 この二句の制作年、昭和三十二年は五千石、二十四歳。上智大学文学部新聞科を卒業した年。生家の「上田テルミン」を継ぐべく、東京鍼灸学校三年課程に入学する。鍼灸師の修行の傍ら、「氷海」に拠り、精力的に俳句に打ち込んだ時期である。自註にある通り、貧しいと感じられる暮らしぶりであったのだろう。だがそれゆえに胸中には熱い情熱を抱いていたに違いない。

     ◆

 この二句の面白いのは、まず非常にエモーショナルで詠い過ぎである点。これは一句目の自註にある通りの、そういう年齢、時代だったこということだろう。

 次に、五千石が自註を書いたのが、昭和五十三年一月、四十六歳であったが、この頃でも自らを「詩人」であるという認識でいること。掲句の二句の制作年、昭和三十二年と意識は変わっておらず、「俳句」という「詩」を「詩人」として作り続けていたのである。

     ◆

 冒頭の〈啓蟄〉の句は既に手練の俳句(決して悪い意味ではない)になっているが、掲出の昭和三十二年の二句からは真っ直ぐに詩を作る意識しか見えて来ない。


●―10 楠本憲吉の句【テーマ:妻と女の間】/筑紫磐井

アイリスや妻の悲しみ国を問わず

 昭和59年。『方壺集』より。

 これは自らの妻のことではない。「およそ、妻と言うものは」という意味であろう。他の作家であれば、俳句のような一人称欠如文学では一般的な妻と自分の妻の像が解け合うのだが、憲吉の場合はそういうことはない。憲吉の妻のような悲しみは、国を超えても希有だからである。

 自句自解によれば、日韓文化交流協会の文化交流訪韓団団長として憲吉が韓国を訪れたとき、慶州仏国寺石窟庵を訪問。その一行の中に二人の幼児を連れた宮崎から来た親娘がおり、仏国寺訪問の日がその娘の主人の命日であったという、石窟庵訪問が在りし日の主人の熱願であった由。ちょっとした小品のエッセイになりそうな素材であるが、舞台役者のように派手な憲吉の詠みぶりは、ポーズたっぷりな句になり、じめじめさを払拭している。それはそれで大上段の演技で悪くはないと思う。

 ただ自解を読まなければ、普遍的悲しみ、例えば徴兵で戦場に出かけた男の妻のような例がまず思い浮かぶ。大上段すぎるからだ。

 話は変わって、同時に詠まれた句が次の句。

チューリップ女王へ葉みな捧げ銃

 出典は同上。上記日韓文化交流の主軸に日韓親善華展があり、楠心華道の作品に俳句を付けて展示した。チューリップの尖った葉が「女王様へ捧げ銃」をしている兵士のように見えたというのである。単純な見立てであるが、憲吉の見立てはこのようなドライで西欧画風の明るい構図が多い。

 この時、憲吉は韓国との文化交流を積極的に進めたいと思ったらしいが、この時代ではまずらしい方ではなかったか。交流の対象に、演歌と俳句を考えていた。今生きて韓流ブームに大喜びだったであろう。


●―12 三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】48./ 北川美美

48. 野を蹴って三尺高し父の琵琶歌

誤読その1.

 三尺高いのは父の琵琶歌の声のトーン、あまりに甲高い琵琶歌のため、われは家にいられなくなり心乱れて「野を蹴って」みるが耳の奥にいつまでも父の高音域の琵琶歌が聴こえる。しかし、唄方・杵屋三七郎に尋ねると、邦楽で音階調子を「尺」で表現することはないらしい。


誤読その2.

 下図は『三橋敏雄俳句カルタ』(読札:三橋敏雄/イラストレーション:ナムーラミチヨ)の読札と絵札である。


【戦後俳句を読む (25- 1)三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】48./ 北川美美 « 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト】


 『眞神』の世界観を表す構図があるように思え絵札を凝視する。この絵がこの句の全てなのではないか。読札も絵札も、見る側に寡黙でありつづける。評論や鑑賞などは敏雄にとり無意味なのではないだろうかと無力さに打ちひしがれる。

 絵を観て思う。まず、三層の構図。野/空中/琵琶を奏でながらの父の素足。上五・中七・下五の下から上へあがって行く構図。エイヤー!と野を蹴りあげ、ベンベンベン~と琵琶の音色と悲しみが響き渡る野という空間、それを観ている「われ」がいる野、われが感じる空気、音、父の存在・・・句が作りだす空間を絵札から体験した。そして絵札の中心を占めているのは、「空」(くう)、大きな空間であることに気づく。

 絵から句に戻る。


野を蹴って

三尺高し

父の琵琶歌


 三尺は約90㎝。「三尺去って師の影を踏まず」のことわざがある。三尺高いのは、父の存在そのもの、父と自分(われ)との距離。野という茫茫とした空間にただ茫然と立つわれ。空(くう)に広がる琵琶の低い弦の音、世の無常を歌う父。

 なぜ三尺分「高し」なのか。そこに影を踏めない父の存在の高さがある。「高い」という表現に、「高笑い」「高楊枝」「高圧的」など、自分よりも相手が高いという意味合いがあり、そこに昔ながらの家督としての父の威厳が直結してくる。「父」は常に高い位置にいる。その父を表現するに敏雄にとって「琵琶歌」が直結したのだろう。ナムーラさんの描く「野」には父の足の影は全く描かれていない。父という存在の空虚という音に託したのだ。

 敏雄の観念が弧を描いているようだ。誰もいない野で見た幻想の世界なのかもしれない。しかし、その観念は「野を蹴る」という力強いリアルな表現を得て、確信を得ている。蹴って飛びあがったからこそ琵琶歌が三尺高いところから聞こえてくるというリアリティ。観念をリアルに変え、原因と結果の相関関係がまさに弧を描いてみえる。

 野にでれば、父がいる。


晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ

 野に打込まれた杭に父を投影する。父が登場するわれの立ち位置は野である。『眞神』における父の存在。

 更に何故、字余りにしてまで「父の琵琶歌」を書いたのか。


鐘消えて花の香は撞く夕べかな 芭蕉


 The temple bell stops –

 but the sound keeps coming

 out of the flowers.

         BASHO (translated by Robert Bly)


 芭蕉句はアメリカ人ピアニスト、グレン・グールドの関連書籍の扉に引用されていた。

(『グレン・グールドは語る』グレン・グールド/ジョナサン・コット/ちくま学芸文庫)

 漱石自身が俳句的小説と評する『草枕』に心酔した音楽家・グレン・グルードの眼を通し、上記の芭蕉の句が音を奏でる哲学的意味をもつように読める。音はせずとも鳴り続く、耳の奥で。搗きつづけるのは、空虚そのものであり、音は心の中にあるもの、というように読める。テーマ「音」の論考ですでに敏雄句から実際の音が聴こえてこないこと、音がミュートになっていることを述べたが、芭蕉に通じていることを改めて思う。この芭蕉句は、敏雄の「野を蹴って」の句そのものではないだろうか。何もない野に「父の琵琶歌」が響き渡る。荒涼とした野に広がるものは、まさに空(=空虚)であり、父の琵琶歌が心の空虚をつき続けているということというように読めてくる。「父の琵琶歌」でなければ、つけない空虚なのである。

 敏雄直筆の読札に掌を置き、様々に位置を変えながら読んでみる。


「野」-「琵琶歌」/野に出てこそ聴こえる琵琶歌

「蹴る」-「高し」/蹴ったので高い 原因と結果

「三尺」―「父」/ 常に三尺高い父の存在

「父」-「琵琶歌」/父だけが歌う琵琶歌

「野」-「父」/ 野に出れば父がいる


 実際の言葉があらゆる相関性をもちこの句が躍動的に廻っているように見えてくる。読札から不思議な空転体験をしているようだ。

 敏雄の父親は実際に琵琶歌を歌い、その歌声は高い音程であったと敏雄が話していたと伺ったことがある。「父の琵琶歌」のキーが高いと感じた第一印象はそう外れていない。それは敏雄の句作の動機付が作者に伝わったということだろう。

 敏雄の句は、回転する。まるでそれは、コンセプチャルアートのインスタレーションの中にいるような、「言葉の世界の体感」を感じ得ることができる。

 絵を描くこと、言葉を紡ぐこと、詩を書くこと・・・何かを作ろうとする作り手の動機と、実際のリアルであることの誤差を幾重にも頭の中で線を引きなおし描きなおしていく。読者に解ってもらうことなどどうでもよく(読者に迎合する意味)、言葉がぐるぐると繋がりを持ち、手を結んでいた。

 ナムーラさんが実際に48枚の絵札を描きあげた制作期間はたった半年だったという。おそるべき集中力。この句が48句目であることも何かの縁のように思えた。まさに48句目にして、ようやく登山道入口に辿いたところだろうか。この地点から未だ『眞神』の山は、高く険しく崖のように聳え立ってみえる。

 『眞神』神社にて入山の禊の御払いをし息を落ち着かせたい。


●―13 成田千空の句【テーマ:虫】/深谷義紀

螻蛄ひそむ農の重みの足跡や

 第1句集『地霊』所収。

 螻蛄は、昼間地中に潜み、夜になると地中から出てくる。よく「みみず鳴く」といわれるのは、実はこの螻蛄の鳴き声である。千空は若い時分この螻蛄を題材とした句をよく作った。いくつか引いてみる。

螻蛄の闇野鍛冶は粗き火を散らす   『地霊』

母の屍ゆ別れきれねば螻蛄の闇    『地霊』

 「螻蛄の闇」というフレーズからも分かるように、千空の作品世界において螻蛄はそれが持つ暗いイメージ、とりわけ螻蛄が鳴くと言われる夜の闇が醸し出す「死」の印象に結びついている。やはり、戦前から戦中にかけ胸を病み、己の死を意識しながらの療養生活を余儀なくされ、更に空襲により青森市内の自宅を焼け出されてからは句友と隔絶された開墾地において孤独な句作を続けた若き日の千空にとって、螻蛄はひときわ親近感を覚える季題だったのだろう。しかし歳を重ねるにつれ螻蛄の作例は少なくなり、第2句集以降には見当たらない。過酷な時代が終わり、孤独な生活環境が変化するにつれ、千空もこうした暗い精神世界から脱却したようにも思える。

 そうした観点から鑑賞すれば、掲出句の「重み」には様々な思いが込められているように思う。農作業を終えた男の足跡が、彼の体格のよさにより深い窪みとなって残される。あるいは鍬をはじめとする様々な農具の重さも加わったかもしれない。そのことを嘱目した写生句と見えないことはない。しかし、その足跡が残る土の中には、夜になるとジーッと低い鳴き声を立てる螻蛄が出番を待っているのである。即ち、すぐ足許には螻蛄が象徴する「暗黒の闇の世界」が横たわっており、明日の我が身にも暗い影を投げかけるのである。だとすれば、この「重み」は農作業あるいは現実生活の苦衷を詠んだものであり、足跡の深さは人生の重さの象徴にも思えてくる。

 津軽の農村、しかも千空が実際に体験した戦後間もない時期の開拓生活の様子が垣間見える作品である。今も、あの畑に螻蛄は鳴いているのだろうか。


2026年1月30日金曜日

【連載】現代評論研究:第22回各論―テーマ:「幼」を読む・その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀 

(投稿日:2012年03月23日)

●―1:藤田踏青【近木圭之介】

 ひかり再び閉じ 少年よぎる   平成10年作

 今回のテーマ「幼」の「幺」とは糸の上半分の形であり、糸は絲の半分、幺は糸の更に半分で、細く小さい意であり、それに添えられた「力」は弱く小さい意を示している。それ故、満ち足りない意を含む「少年」もその範疇に入ると考えた。

 この句の「ひかり」とはいったい何を指しているのであろうか。単なる光であるのか、又は希望や光明であるのか。「少年」とは対象であるのか、または作者の内なる存在であるのか。それは作者の視点、立ち位置に関わるのであるが、「再び閉じ」とあるので希望と内なる存在としての少年と考えると、この句の時間の幅が拡がってくると思われる。特にこの句の前後には次の句が置かれている事もその理由となる。

 列島悪の構図 体の穴みな怒り噴く   平成10年作

 ひと夏すぎ 隅の埋まらぬ図残し    々

 社会悪、それへの憤り、自己への不満の残滓、そして失われた希望。それらを全てひっくるめた総称として、かつての「少年」が一瞬心の中をよぎったのではないであろうか。またその「ひかり」には少年が内に秘めたナイフの凶のようなものも含んでいるようだ。それを想起させるのが次の句と詩である。

 銃持った少年青い夏へ引き金を引く   昭和16年作  注①


パレットナイフ 2 抜    注②

Ⅲ 少年は性の倒錯を宿し数年経た 

  どこにも通り抜ける道を持たずに 

  ――いらだちのサラダ私に青い 

Ⅳ 刃のごとく窓に映る河 

  内なる凶 

  沈黙と溶暗


 これらの詩、句を読んでいたらいつしか稲垣足穂の「少年愛の美学」を思い浮べていた。足穂はA感覚(アヌス)の主導性とV感覚(ヴァギナ)、P感覚(ペニス)の補助的存在を指摘する事によって、性の倒錯を包含した少年への感覚を謳いあげていた。

 「V」とは水増ししたAであって、女性とは「万人向きの少年」を云い、V感覚とは「実用化されたA感覚」に他ならない。   (稲垣足穂)

 ここには同性愛とはまた違った「少年」という両性具有的な存在を見ろ事が出来るのだが。掲句の少年もそういった作者の奥底に秘められたデジャビュの様な存在ではなかったのではなかろうか。


注①「ケイノスケ句抄」  層雲社     昭和61年刊

注②「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊


●―2:土肥あき子【稲垣きくの】、【テーマ:流転】赤坂時代(戦中編) 

 新しき婢が気に入らず春の風邪

 昭和16年(1941)の俳句手帳より2月24日、女主人もすっかり堂に入った暮らしぶりがうかがえる句である。きくのは「春蘭」昭和13年3月号のエッセイでも女中難を嘆いている。戦前の家庭では、家族が多いこともあり、住み込みの女中がいるのは特別ではないとはいえ、その多くは10代の地方から出てきた少女であることを思うと、茶の湯に通じ、都会暮らしの煤煙で足の裏がざらつくことをなにより嫌う潔癖なきくのを満足させるのは至難であったかと思われる。

 句会に吟行にと熱心に続けていた「春蘭」は、昭和15年(1940)戦争のため6月号で廃刊し、10月には東京在住の岡田八千代などとともに、大場白水郎を選者に「縷紅」を創刊する。

 「ホトトギス」虚子選を叶え、「縷紅」にも投句を続け、きくの調を勢力的に模索するなか、昭和16年(1941)1月から昭和17年(1942)4月までが記された俳句手帳には6月1日、大連へと旅立つとある。旅吟は機上から始まり、大連、特急アジア、奉天、北陵、ハルピンと、異国を詠みつくす勢いで手帳に書き記している。この旅行を終え、俳句手帳のきくの作品は数も質も高まりを見せる。

 昭和17年(1942)には生涯のライバルとなる鈴木真砂女と初対面し、翌年には「縷紅」幹事として名を連ね、投句先には赤坂福吉町の住所が記された。

 夏蝶のあるひは低く草の中 「縷紅」昭和17年8月号

 羅やまたその癖の腕まくり   〃

 額の花の上にも道のあるらしく 「縷紅」昭和18年8月号

 俳句への情熱が年ごとに高まるきくのであるが、昭和19年(1944)、用紙の入手困難となり「縷紅」は休刊となる。

 東京では昭和19年(1944)に学童疎開が始まり、日本の敗色も深まりつつあったが、福吉町の屋敷のなかできくのは割合のんきに構え、疎開についても鷹揚だった。しかし、昭和20年(1945)3月10日以降のある事件によって、疎開の覚悟を決めた。それは、隣の黒田邸の森から早朝夥しい数の鴉の群れが一斉に下町方面へと飛び立ち、夕方また一斉に戻ってくる光景を不思議に思っていたところ、大空襲に襲われた下町へ餌をあさりにいくと知り、その餌となっているもののおぞましさに居ても立ってもいられなくなったのだ。

 4月にきくのは信州の小諸から6キロほど入った平原という浅間山麓の農村へ疎開する。農家の一隅にある離れを借りていたということだが、この間の俳句はどこを探しても出てこない。随筆集『古日傘』で一編だけ疎開時代の思い出を書いた文章があり、所用で隣村への一里あまりの道すがら、雑木紅葉が見事であったとあるから、いたって気楽な生活を送っていたかと思われる。

 赤坂福吉町の家は昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲であっけなく焼失した。


●―4:飯田冬眞【齋藤玄】

 みどりごをつつみに来るよかげろふは

 昭和50年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 「男」の項でも少し触れたのだが、昭和25年を境に斎藤玄は子供の句を作らなくなった。そして、昭和28年には、主宰誌である「壺」の結社活動から離れ、俳句を作ること自体を中断してしまうのである。その原因として玄本人は結社の同人たちが作句精進を怠り、互いに足の引っ張り合いや陰口をたたきあう浅ましさに嫌気がさしたことをあげている(*2)が、それは建前に過ぎないだろう。もちろん、昭和20年の終戦直後に「壺」誌を復刊、文字通り家財をなげうって俳句の革新に精魂をこめ、結社制度の改革にも心血を注いできた玄にとってみれば、新しい俳句を作ることもよりも結社内の地位と権力を得ることに明け暮れる弟子たちに幻滅したのは事実だろう。しかし、昭和26年に北海道銀行に入行し、主宰誌の発行所であった函館の自宅を引き払ったのは、すくなからず、経済的な理由もあったに違いない。その遠因と思われるのが、小児麻痺となった長男の治療費を稼ぎ、家計を支える父親の役割を果すためではなかったかと仮説を述べた。

 齋藤玄の長男は昭和21年に生まれたらしい。語尾を濁すのは、玄は最初の妻節子との間に二女一男を儲けており、長女や次女誕生の際にはそれぞれ前書付きでその喜びの句を連作として残しているのだが、長男誕生の際にはそれらしい前書は見当たらないからだ。句の内容から推察できるのは次の一句だけである。

 俳諧に霰飛び散り長子得し 昭和21年作 『玄』

 作句時の昭和21年は俳句史に残る大事件が起こった年である。上五中七の〈俳諧に霰飛び散り〉は、おそらく桑原武夫が昭和21年に雑誌『世界』の9月号に発表した「第二芸術」論を受けて、俳壇が受けた衝撃を象徴的に把握した表現だと思われる。そこに下五〈長子得し〉をつけたのは、齋藤玄一流のエスプリに思われてならない。この〈長子得し〉は字義通りに長男が生まれたという意味だろうが、桑原の論に激烈に反論した中村草田男の代表句〈蟾蜍長子家去る由もなし〉の「長子」を俳味として響かせているようにも思う。俳人たちが大騒ぎしている一方で、自身は長男を得たということを俳風仕立てにしただけのもので、感情は抑制されている。長男を得た喜びを読み取ることはできない。

 落雲雀子は雑草にもつれを    昭和25年作 『玄』

 麻痺の子の矢車夜半を鳴り出づる   昭和25年作 『玄』

 梅天や麻痺の子持ちしわが惨事  昭和25年作 『玄』

 麻痺の子を眠りに落す木下闇  昭和25年作 『玄』

 麻痺の子の行水あはれ水多し  昭和25年作 『玄』

 一句目は昭和25年に発表された「麻痺童子 わが長男左膊小児麻痺にて不随 十三句」の冒頭の句。〈落雲雀〉が空から垂直に降下するさまと雑草に足をとられて転ぶ幼子の姿をうまく重ね合わせており、長男を取り巻く家族の人生が急降下してゆくことまでも暗示させている。

 二句目は自註の記述から見て行くことにする。 

四歳の長男が小児麻痺で左膊を不随にした。不治と聞き悲しみは深く、男の節句が来ても僕は悶々とした。夜の矢車の音にいっそう悲しみは深い。(*2)

 この自註の記述によって、ようやく昭和25年当時の長男の年齢が判明し、生年が昭和21年であることがわかる。全句集の年譜にも長男のことはいっさい記述がない。〈矢車〉は鯉のぼりの竿の先端に取り付けられた矢の形をした輻(や)を放射状に取り付けたもの。端午の節句を迎えても不治の病に取りつかれた長男の将来のことを思うと悶々として喜べなかったという玄の深い悲しみが〈矢車夜半を鳴り出づる〉ににじみ出ている。矢車のカラカラという音が長男の宿命の重さを感じさせて切ない。深い哀感が伝わってくる。

 三句目は、玄にしては珍しく自己の内面を吐露した句。しかも〈わが惨事〉などという自己憐憫にまみれた言辞は抑制もなく、子を慈しむ気持ちの片鱗すら見えず、詩として成立していない。

 四句目は障害を持った子を介護する苦労がしのばれる句。〈木下闇〉の涼しさで〈麻痺の子〉のあどけない寝顔が見えてきて救われる。

 五句目は〈あはれ〉に父親になりきれていない作者の独善性が露骨に表われており不快である。幼子が不如意なからだで行水にはしゃいでいるならば、なぜ一緒に裸になって幼子を抱きしめて水まみれになれないのか。

 みどりごをつつみに来るよかげろふは

 そして25年間詠むことのなかった子供の句である掲句を見てゆくことにする。

 飯田龍太はこの句について次のように誤読する。 

眺める側のよろこびが不安を上廻つて微笑にかわり、そのこころをかげろう包む。それなら対象に自他の区別をつける必要はあるまい。(*4)

 みどりごを眺めていた玄の心中に龍太が言うような「不安を上廻」る「よろこび」など、ほんとうに湧き上がっていたのだろうか。〈かげろふ〉に包まれる〈みどりご〉に麻痺童子の長男の姿を幻視したからこそ、「かげろうが魔女の手のように思えて、しきりに不安だった」(*5)と記したのではないか。幸せは一瞬に過ぎず、苦痛は永続する。玄は長男の人生を通して、その苦さを知り尽くしていたはずだ。

 幸せなものを見ても過去の経験に引きずられて不安に取り込まれてしまう人間の愚かさを描いた句であると私は思う。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2  齋藤玄年譜 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*3、5  自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊

*4  飯田龍太 『雁道』の秀句 『俳句』昭和55年6月号所収 角川書店刊


●―5:堺谷真人【堀葦男】

 鉄のけものら橋ゆすり過ぎ酢を抱く子

 『機械』(1980年)所収の句。

 『機械』は第一句集『火づくり』に続く第二句集。1962年夏から1967年秋に至る約5年間の作品から444句を収録している。「機械」「太陽」「渦潮」「蝶宇宙」「母」「赤道草原」「修羅」「水辺」という8章構成の劈頭に置かれた「機械」のこの句およびその前後の作品には、「海程」草創期の葦男俳句の特徴がよく出ている。すなわち大阪から神戸にかけての工場、倉庫、港湾、建設現場などに取材したとおぼしき、産業俳句ともいうべき作品群がそれである。当時の葦男作品は重量感に富むメタリックな形象に満ち、行間には高度経済成長を牽引した様々な機械たちの稼動音や軋みが通奏低音のように鳴り響いているのだ。

 燃える冬霧機械ぞくぞく被覆脱ぎ

 機械焦げるにおい夕空薔薇を溶かし

 ルビーにまさる夜の起重機の灯を動かす

 重い上げ潮 動くものみな装甲され

 さて、本稿冒頭の句である。

 積荷を満載したトラックや建設用重機が陸続として渡る橋。可載重量ぎりぎりの荷重を受けて揺れる橋梁。ふと視線を移すと、騒音と土埃が立ちこめる橋のたもとには、お遣いの帰りなのであろう、酢の壜を抱いて立つ子どもの姿があった。

 荒々しい車列の傍らにぽつんと点描された子どもは一見、寄るべなく痛々しい。しかし、彼もしくは彼女は単に無力な、庇護すべき弱者なのであろうか。否、そうではあるまい。酢の入った壜を両の手にしかと抱く子どもは、れっきとした家事労働の一翼の担い手なのであり、「酢を抱く」という構えはその子の責任感の表れに他ならないからである。

 そういえば、赤塚不二夫の代表作「天才バカボン」にこんなギャグがあった。ママから豆腐を買って来るよう頼まれたパパが用件を忘れないよう「トーフー、トーフー、トーフー・・・」と口ずさみながら道を急ぐ。が、いつしか逆転して「フートー、フートー、・・・」となり、最後は文具店に飛び込んで「封筒ください!」と叫ぶのである。

 恐らくこのギャグの背景にあるのは「お遣いという役割を通じて社会化してゆく子ども」という一種の成長モデルである。幼児は大人や年長者の庇護を片務的に必要とする存在であり、原則的にお遣いを任されることはない。一方、幼児期を脱した子どもはお遣いを頼まれるようになる。いや、初めてお遣いを頼まれたときに人は幼児期を卒業するのだともいえよう。年齢や体格、IQ検査で測られる精神年齢などはなるほど子どもの成長のメルクマールとして重要であるが、親や年長者の側が子どもに何を任せるかという観点も実は同じくらい重要なのである。

 橋のたもとの「酢を抱く子」は無事に家に帰り着いたであろうか。


●―8:岡村知昭【青玄系の作家】(欠稿)


●―9:しなだしん【上田五千石】

 涅槃会や誰が乗り捨ての茜雲   五千石

 第四句集『琥珀』所収。昭和五十八年作。

 五千石はこの句の制作年で五十歳。中年も終りの時期で、俳句の面でも成熟期にあたり、今回のテーマ「幼」とは無縁にも思える。

     ◆

 この句の季語である「涅槃会」は、釈迦入滅の忌日の陰暦2月15日に行う法会。寺によっては月遅れの3月15日に行なわれているところもある。だが実は、釈尊が入滅した月日は実際には不明で、2月15日は中国で決められた日付であるようだ。

 掲出句は一見美しい茜雲の句で、詩情もあるように感じる。読者によっては渋い句、と感じる向きもあるだろう。「誰が乗り捨ての」は、季語の「涅槃会」から釈迦を思い浮かべるかもしれない。ひいては亡くなった人をイメージする人もいるだろう。

     ◆

 ところで、掲出句には“もの”として認識できるのは「雲」と、空間としての「涅槃会」である。物質的な“もの”はない。ものに拠らない詩は、どこか幼さがあるように思う。

 だが、この句の幼さはそれだけではない。「乗り捨ての」の部分だけに着目してみると、「乗り捨て」ということは、乗っていた誰かが去った、ということになる。掲出に幼さを感じるのはこの「雲に乗る」という発想かもしれない。この発想は古典的なもので、雲に乗る、というのは男がずっと持ち続ける詩心とも言えるのではないだろうか。

 そういう意味でも季語である「涅槃絵」が、単なる古典的な男の詩に陥るのを防ぐ役割を果たしている。

     ◆

 娘の日差子氏によれば「俳句をやると幸せになれるよ」が五千石の口癖だったという。俳句を信じていた五千石であろう。母に全幅の信頼を寄せる子のように、俳句を信じる。「信じること」はどこか無邪気だ。幼さは大の男にも、男の作る詩にも潜んでいる。


●―10:筑紫磐井【楠本憲吉】、【テーマ:妻と女の間】 

 鳴らすコップが妻の弔鐘虹這う窓

 逆さに伏せたコップと鐘---コップに触れる響きと鐘の音、特に弔鐘という限り悲しい音色であるはずだが、むしろその配合を楽しんでいる節がある。「弔鐘」は憲吉自得のことばであろう。

 くりやごと(台所の仕事)が家庭の平安の象徴であるとすれば、楠本家におけるそれは、夫婦の間の修羅により地獄と化している日常の一齣である。妻にとっては日々の浮気の絶えない夫を持って、黒いベールを纏った未亡人の心境であったろう。虹すら、蜈蚣のように窓硝子に貼り付いている(昔、虹は貝の一種の吐く気だと思われていたからさほど間違っているわけではないが)。

 けしからぬのは、ことの責任はすべて夫にあるのにもかかわらず、苦々しく思いながら楽しんでいる点である。明るいリズムでこんなに詠まれたらたまったものではない。

 そこで無言の妻に戴冠カンツォーネ

 これもかなり妻を侮った句。妻が無言となるには理由があるのだが、---そしてそれは夫の行為に帰責するのだが、そうした反省はない。「戴冠」とは「乾杯」に通じる趣がある。だから「お前さんは女王様だよ」と言わんばかり。カンツォーネはイタリアの歌曲であるが、そうした小芝居の背景に朗々と歌われるのにふさわしい俗曲だ。

 このような倫理的欠陥があるにも関わらず、リズミカルな詠みぶりは魅力的である。どんな困難があろうと、積極的、肯定的な態度で望めるところが憲吉の持ち味であろう。必ずしも575にこだわらず、特に上5に字余りを盛んに用い、日常のディテールをゴタゴタと盛りこむ。にもかかわらず独自のリズム感があるから不快ではない。「そこで」などという詩歌の冒頭にはあり得ない言葉を盛りこんで憲吉の世界に導入する。お前は何ものだ、と言いたいが、きっと俺は本物だ、と答えるにちがいない。

 憲吉の句を読むには憲吉になりきらないといけない。共感しないといけない。そして憲吉になりきると---心地よい。ちょっとしたピカレスクロマンであり、誉められたことではない。誉められないが止められない。これが憲吉の秘密である。


●―12:北川美美【三橋敏雄】【テーマ:『眞神』を誤読する】⑱―㉕

⑱顔古き夏ゆふぐれの人さらひ

 「人攫い(ヒトサライ)」という言葉を聞かなくなって久しい。「ヒトサライが来る」と言われていた頃、それは本当のモノノケであると信じていた。それは誘拐犯でもあり、鬼のような形相で私を抱え、別の世界(恐らく黄泉)へ連れて行くのだと思っていた。そうでなくても暗闇と夜のトイレ(御手水、御不浄という方がふさわしい)が怖くて仕方がなかった。その怖さが最高潮になるのは、自宅までの商店街から路地50メートルほどの夜道だ。外灯付の電柱が3本あるが、いまだに心細い灯りである。路地の入口に御稲荷様と庚申塔を備えた機織工場がある。夕方になると小柄で健脚な男性が袈裟と頭巾を着装し太鼓を鳴らながら足早にやってくる。今から思うとそれは日蓮宗(あるいは新宗教)の唱題行脚修行だったようだが、それは別世界の入口でもあった。ソロバン塾の帰りにその闇を通らねばならない。目を固く閉じたまま、ひた走る、ただただ怖くて走る。ヒトサライという神隠し、モノノケが本当に出ると信じていた。

 最近になり、シャッター街となった通りから同じ路地を日没後に歩いた。庚申塔は今もあるが、機屋の工場からは何の音も聞こえず、道沿いの子沢山だった牛乳屋さんも顔なじみだったファスナー職人のおじさんも亡くなり、空地になっている土地もある。向こうから外套着の男性らしき人が歩いてくる。街燈の下ですれ違っているのに顔だけが見えない。姿は見えるが、本当に顔だけが何も見えないのだ。暗がりでは人の顔が見えない。都心では考えられない光景だった。この道にはやはりモノノケが潜んでいると改めて確信した。

 「ヒトサライ」について調べてみると、人が忽然と消えるような事象を「神隠し」と片付けていたが、戦後、身代金請求や誘拐報道が生々しくテレビ放送されるようになり、具体的に「ヒトサライ」という表現が定着していったという説があるようだ。過疎地域の子供、若者は船乗りや鉱山労働者、農奴、売春婦などに実際に身売りされたという事実もあり、いわゆる人柱といわれた社会問題があった。平成になり一気に表面化した深刻な「ヒトサライ」は、1970年頃から80年頃にかけての北朝鮮による日本人拉致多発だろう。今も未解決問題であることが報道されている。実際に「新潟の海に行くと、ヒトサライに逢う。」と本当に言われていた。モノノケは本当に私たちの生活の中に実在し、『眞神』が生まれた時代には恐ろしい事件が多発していた。そして現代にもある「ヒトサライ」は、社会の暗闇のような恐ろしい事件であることが多い。

 人が忽然と姿を消すことは、敏雄の中にある、自分自身のリセット願望とともに敏雄自身の何かの消失からきている言葉なのかもしれない。

 ここでキーワードとなるのは「顔古き」という措辞である。顔が古いというのは「年老いている」という意味合いと「顔なじみである」という解釈があるかと思う。幼少経験から解釈すると、「顔古き」は「顔なじみ、知っている人」ということかと解釈できるのだが。「顔新しき」としてみると、「ヒトサライのくせに新顔じゃないか」と攫われる側が想うということになる。

 掲句を見ていると、彼の世にいる牛乳屋のおじさん、ファフナー作りのおじさん、そして日蓮修行僧が蘇る。今も暗い路地を通ると、そういうおじさんたちが、今、どこか別の異界へ連れていこうとする姿をふと想像する。怖さの中にどこかファンタジーがある。

 『眞神』には当時の事実に裏付けされた事象がありながら、時代に読みづがれてきた神話、童話の世界がある。逆に神話、童話は、歴史の事実を元に語り継がれてきたことであることにも気が付くのである。


⑲鬼やんま長途のはじめ日当れり

 前句の「ゆふぐれ」から「鬼やんま」へと句が移る。トンボである。

 大方の読者が「負われて(背負われて)見たのはいつの日か」と想像するのが容易いだろう。ヤンマは、大形のトンボの総称で、羽の美しい意で「笑羽(エバ)」からとする説、四枚ある羽が重なっていることから「八重羽(ヤエバ)」が転じた説などの諸説がある。「鬼」がついて「鬼やんま」。巨大トンボの別称だが、鬼のような厳めしい顔つきが特徴であり、黒と黄色の段だら模様を、鬼が履いているトラのパンツに見立てたことに由来している。

 三句切れとなっているが、中七の措辞「長途のはじめ」とはなんだろうか。「長途」とは長旅、遠路のことであるが、明治時代にはじまった修学旅行は、「長途遠足」なんていっていたらしい。「鬼やんま」の生体を調べてみると、成虫になるまでの期間が約5年。まさに長旅である。旅のはじまりが、めでたいような、祝福されているような感じだろうか。鬼やんまは、共食いまでもするような肉食(ガ、ハエ、アブ、ハチなどを空中で捕食)であることも、練習船の事務局長として数えきれない長旅を経験した敏雄の船内の経験をふと想像してしまう。

 さてここからが本筋の深読みの世界だ。「途」から「冥途の世界」という連想もあるだろう。三途の川の入口に「鬼やんま」が出迎えているのである。冥途には流れの速度が異なる三つの瀬があり、生前の業(ごう)によって「善人は橋」「軽罪の者は浅瀬」「重罪の者は流れの速い深み」を渡ると考えられており、「三瀬川」と呼ばれている。そこに肉食の鬼やんまが日に当たる石にしがみついている光景は、ありえる世界だ。

 だいたいタイトルが『眞神』というのが、『里見八犬伝』のような大スペクタクル伝奇をも思わせる。けれど、敏雄はそれを俳句という最短の文芸に収め、総句数130句でまとめている。加えてこれは小説でも連載でもなく、句集というのが畏れ入るのである。

 「空想の世界を詠む」ことは俳句の禁じ手であるといわれている。『眞神』は、事実に基づいた景を見せながら人の心にある異世界を引き出すという手法が見える。


⑳蒼白き蝉の子を掘りあてにける

 「鬼やんま」の虎の子パンツ柄から一気に「蒼白き蝉の子」へと生のあわいを感じさせる。

 蝉の穴の句(7句目)から実際に、蝉穴の幼虫そのものを掘り当てたのである。

 数年を地中で過ごした蝉の幼虫はこの世の風景をまだ知らない、蒼白い、無垢な命である。まるで、男子が赤子をはじめて抱き、生命の尊さ驚いたかのようだ。下五の措辞「掘り当てにける」から、井戸を掘り当てたように、幸運な出来事だったのである。

 この句以降(21句目~24句目)の言葉に「動き」「運動」がある句が配列される。

 蒼白き蝉の子を掘りあてにける (掘る)

 草刈に杉苗刈られ薫るなり (刈る)

 蛇捕の脇みちに入る頭かな (入る)

 蒼然と晩夏のひばりあがりけり (あがる)

参考までに、蝉の子(幼虫)が Youtube で見られる。


㉑  草刈に杉苗刈られ薫るなり

 すがすがしい句。

 「刈る」のリフレインと「ka」音(「草刈」「刈られ」「薫る」)が韻を踏んでいる。古い句にみえながら、「刈る」という行為、字面が殺伐とした荒涼感をもたらしている気がする。

 「刈られ」ているのだから作者が刈ったのではなく、草刈作業で誰かが刈った草が山になり、その草山を通り過ぎた光景を思い浮かべる。杉苗と言っているので街中ではなく、多少なりとも山が控えている地域だろう。アレルゲンの要素が沢山ともいえる草山だけれど、掲句をみているだけでマイナスイオンの山の香りとともにストレスから解放された気持ちになる。春から夏にかけての漂う山の香りというのは、杉の香りなのかもしれない。山に囲まれた八王子に暮らした敏雄ならではの郷愁をも感じられる。

 『眞神』の中にはリフレイン、言葉の重なりがある句が多い。以下『眞神』のリフレインの句を挙げてみる。

 鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中

 蝉の穴蟻の穴よりしづかなる

 雪国に雪よみがへり急ぎ降る

 針を灼く裸火久し久しの夏

 帆をあげて優しく使ふ帆縫針

 行雁や港港に天地ありき

 油屋にむかしの油買ひにゆく

 山ちかく山の雹降る石の音

 海ながれ流れて海のあめんぼう

 水の江に催す水子逆映り

 思ひ負けの秋や秋やと石の川

 130句中で10句。リフレイン(重畳法)の句は詩情を高め、リズムを強める効果があるが、理屈っぽさ、滑稽さ、しつこさに陥り、俳句という短詩型の中でのリスクも大きい。『眞神』ではリスクのある手法が多く収録されているのも確かだ。

 以下はリフレイン句として引用される歴代の代表句。

 春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな   蕪村

 梅の花あかいは赤いあかいはの   惟然

 露の世は露の世ながらさりながら   一茶

 下々も下々下々の下国の涼しさよ   一茶

 山又山山桜又山桜     波野青畝

 ちるさくら海あおければ海へちる   高屋窓秋

 いなびかり北よりすれば北を見る   橋本多佳子

 一月の川一月の谷の中   飯田龍太

 西国の畦曼珠沙華曼珠沙華  森澄雄

 飯田龍太の「一月の」の句は1969年制作となっていたので、『眞神』よりも数年早いことになる。

 『眞神』の中のリフレイン句は、使用する動詞、形容詞に意外性があり型に則しながら無駄がない。また、『眞神』の収録句は、三鬼没後の制作句が多く含まれると思えるが、そこには、新興俳句にみられるコスモポリタン的な詩情とは異なる、俳句形式の中での詩性の型を追及しようとする姿勢も、リフレイン句が多く含まれる要因であったのではないだろうか。俳句の型を超えた交流(吉岡実、高橋睦郎など)が始まるのは『眞神』発表以降頻繁になる。他詩型が敏雄に気づき始めたのである。

 掲句は、リフレインの中で、さりげない日常を詠っている。なんでもないこと、当たり前の日常であることが、とても高貴で豊かなことであることに気付かせてくれる句である。


㉒  蛇捕の脇みちに入る頭かな

 伝統俳句的である。確実に「俳句」形式だが、句意がいまひとつわからない。何故「蛇捕」が出て来るのか、なぜ脇道に「頭」が入ってしまうのか。俳句の致命的な短さから、想像の世界へ引きずり込まれる。畦道で車が脱輪し、さらに車体の頭を畑に入れてしまったような思いがする。

 ことわざの「蛇の道は蛇(じゃのみちはへび)」の由来は、「蛇の通る道は小蛇がよく知っている」という説と、「蛇の通る道は他の蛇もよくわかる」という説がある。いずれも同類のすることは同類の者が一番よく知っているということ。蛇捕は蛇の通る道ならばわかるが蛇が通らない道、人の道はわからない。だから道に頭を突っ込んでわけがわからなくなってしまう。というような人生訓のようにも思えてしまうのだが・・・。

 飛んで脳の話。人間の脳の一番根っこには、ヘビの脳(脳幹)といわれる動物の機能中枢がある。爬虫類、鳥類と同じ機能と考えられ、食べる、呼吸をする、排泄をするなど、生きていく上で大切なことを指示する脳。その上に、ネコの脳(大脳辺縁系)と呼ばれる部分があり、喜んだり、怒ったり、悲しんだりといった感情を出す。さらに上に、ヒトの脳(大脳新皮質)が覆うようにある。ヒトの脳(大脳新皮質)は、覚えたり、考えたり、話したりする部分で不完全な部分。生後どのような情報をインプットするかによって、その精度が決められるとされている。ヘビの脳(脳幹)は、動物が生存を続けるのに不可欠な脳であり、自己防衛本能や快感・美意識などの司令塔。すなわち人間は蛇の行動と同じ能力をも備わっているということだ。

 蛇脳を持つ人間である蛇捕が、蛇の通らない脇道(蛇以外は通る)に入ったとき、熊とか、鴨とか、ペンギンに遭遇したとして蛇脳ではなく、ヒトの脳で考えてしまい、熊、鴨、ペンギンの立ち話に頭を突っ込んでしまい、熊は熊の、鴨は鴨の、ペンギンはペンギンの苦しみを知る。しかし、話を聞いてばかりでは、蛇はおろか、何の獲物も得られなかった・・・。蛇捕のプライドが最短で蛇を捕獲することならば滑稽なことである。しかし、そういう「脇みち」も 悪くない一日だ。

 別訳で、精神分析の始祖であるフロイトは夢分析において、ヘビを男根の象徴であるとした。これに対してユングは、男性の夢に登場するヘビは女性であると説いた。蛇捕が蛇を捕獲しにいって、脇道で性的対象を物色して男根を突っ込んでいる姿とも思える。敏雄句は色事的解釈がされることが多い。それは、俳句が大人の遊びであり、面白いと思えるところでもある。

 蛇といえば、タロットカードである。『三橋敏雄俳句かるた』(ナムーラミチヨ画/書肆まひまひ)をようやく購入した(在庫わずか)。あいにく、掲句の蛇捕の句は絵札、読み札に入っていないが、次は蛇捕の句を入れて『眞神タロットカード』をナムーラさんと構想してみたい。その日を占う眞神カード。 脇みちに頭を突っ込むのも悪くないのだ。

 素頭のわれは秀才夏霞   敏雄『靑の中』

 素頭の句から約30年を経て敏雄は脇みちに頭を突っ込んだのだろうか。大人はあえて脇道に頭を入れる時があるのだ。


㉓  蒼然と晩夏のひばりあがりけり

 「ひばり」は、留鳥で、春の繁殖期に空高く鳴く。「ひばり」は繁殖期以外は地上に生活する習性がある。掲句の季節は晩夏。草むらに溶け込み、隠れて地上生活をする「ひばり」が「蒼然と」あがる。荒涼感がただよい、万葉の春の歌とは別のもの悲しさを想う句である。

 ポイントとなる措辞、「蒼然と」というのは、色として蒼いという意味。そして暮れ方を表現する場合に使用される例がある。「蒼然として死人に等しき我面色/舞姫(鴎外)」「蒼然として暮れ行く街の方/あめりか物語(荷風)」などの文学的使用例がある。夏の終りの疲れとともに、青みがかった空にあがる「ひばり」の姿は、命の小さな点を示唆しているように感じる。

 21句目~24句目の言葉に「動き」「運動」がある句の配列について触れたが、それらの句にはどれも「命」が宿る。点のような命が言葉をもって動き出す。

 『眞神』収録順にその動きを記号で示してみたい。

鬼やんま長途のはじめ日当れり 

――― 冥途かもしれない長途という長い道の端に停まる「鬼やんま」という棒状の命。(→)


蒼白き蝉の子を掘りあてにける 

――― 土に開いた蝉の穴を垂直方向に下に指を伸ばし蒼い命がそこにある。(↓)


草刈に杉苗刈られ薫るなり

――― 垂直に伸びる草という生命を水平に刈る。(↑→)


蛇捕の脇みちに入る頭かな 

――― 脇みちは、正道よりも曲がりくねり距離があるように思える。蛇行する命を追いかける蛇捕。(~~~)


蒼然と晩夏のひばりあがりけり

――― 地上からひばりという迷彩のようにして生きる命が上へあがる(↑)


 敏雄の句は俳句であることは間違いなく、さらに、あらゆる角度から検証にも成り立つ確固たる「純粋俳句」であることを実感する。

 西東三鬼門として敏雄と同門である白石哲氏が去る二月二十七日鬼籍に入られた(享年87歳)。カルチャーセンターという当時新しい分野(産経学園と聞いている)に高柳重信、三橋敏雄を講師として招き、美作時代の阿部青鞋との交流、津山出身の三鬼の墓守、「西東三鬼賞」の創設、三鬼の顕彰にご尽力された。敏雄も三鬼賞の選者として参加していた。白石氏はおそらく三鬼門を名乗る最後の方かと思う。幾度となくやりとりをしたが、「三橋敏雄を超える俳人は今後も出てこないだろう」と敏雄の名前が真っ先に出ていた。敏雄が三鬼門であるならば、弟子は師の教えを受け継ぎ発展させることが使命とされるが、敏雄は、純粋に俳句を追い求めることに翻弄した。上記の句をみてあらためて痛感するばかりだ。

 三鬼門として敏雄と親交のあった白石哲氏のご冥福を心からお祈り申し上げる。


㉔   霧しづく体内暗く赤くして

 確かに内視鏡で見たことのある体の中は赤くて暗い。けれども、ここではあえて、「して」という表現である。「暗く」「赤く」しているのだ。

 前句「蒼然と晩夏のひばりあがりけり」からの繋がりをみてみると、蒼然という「ぼんやり」と暗くなっていくような夕暮が想像できるが、それが掲句により「どっぷり」と暗く、そして夕焼の赤がもっともっと「赤々」としてくる。グラデーションが濃くなっていくイメージだ。

 戦後の敏雄句のイメージには「赤」がつきまとう。

 敏雄句の「赤」について、戦後俳句を読む(第6回の1)テーマ:「色」参照。

 少年ありピカソの靑の中に病む 『靑の中』

を詠んだ敏雄が、戦後とともに赤にこだわっていく。

 掲句で気になるのは、「胎内」とは書いていなく「体内」である。この句では、霧のような小さな命の粒となった我の胎内巡りのように見える。しかし「体内」となれば、その読みは、いくつかの別の見方がでてくる。

 暗く赤くなる。もしそれが作者敏雄自身のことであれば、体の中が充血する、ということでもある。『眞神』冒頭では鬼が赤くなった。暗く赤くなったのは怒っているあるいは興奮しているからだろうか。そして体内が赤く充血したために霧がしづいた、という読みであれば、精子を放出したとも読めてくる。

 敏雄の表現として、「赤い」のではなく「赤く」なるのが特徴である。

 鬼赤く戦争はまだつづくなり   『眞神』

 霧しづく體内暗く赤くして

 産みどめの母より赤く流れ出む

 またの夜を東京赤く赤くなる   『鷓鴣』

 父、母がいて自分という命をもらう。生まれたことも死ぬことも選ぶことはできない。自分はただ霧がしづくような小さな命であり、体内を暗く赤くしながら生きる物体なのである、というようにも思える。

 グラデーションが濃くなっていくように戦後の昭和がどす黒い赤になっていき、霧というものが油のように思えてくるのである。


㉕   生みの母を揉む長あそび長夜かな

 母から生れた命が成長し「母を揉む」という「長あそび」をしている長夜である。

 あえて「生みの母」としている。乳母、あるいは継母ではない、直系の母である。「長あそび」をするのであれば、やわらかいからこそ揉むのだろうか。「生みの母」はやわらかい、乳母、継母ではなく、「生みの母」だからこそできる「長あそび」。何もかも許してもらえる夜長なのだ。女ではややこしくなり「長あそび」ができない、いや、「生みの母」としながら、あえて女のことなのかもしれない。敏雄句にとっての女性はすべて母なる体をもつ聖母のような存在であったのかもしれない。

 『眞神』の中の母とは何であろうか。

 母ぐるみ胎児多しや擬砲音

 生みの母を揉む長あそび長夜かな

 母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき

 産みどめの母より赤く流れ出む

 秋色や母のみならず前を解く

 ははそはの母に歯はなく桃の花

 大正の母者は傾ぐ片手桶

 夏百夜はだけて白き母の恩

 母を女性としてとらえた句、正しくは、女性を母として捉えているという方が的確かもしれない。母の句に対しての考察はまだ時間がかかりそうだ。

 ようやく『眞神』村に春が来た。敏雄句と真剣に向き合って1年になる。振りだし戻っているような気がしないでもない。狼信仰のある『眞神』山(仮称)。登山道の入口にある神社の宮司は水没した村の学校に住んだ校長家族の長男にあたる。烏天狗を参拝し改めて『眞神』考を続けよう。


●―13: 深谷義紀 【成田千空】

 をのこ子の小さきあぐら年新た

 句集「地霊」所収。

 この句について、千空は自ら次のように語っている。

 「当時の田舎の正月は旧正月で、新暦では二月に入ってからですから、立春も近く、新しい年は即ち春、という気分がありました。戦後の乏しい食生活でも、正月だけは膳にあふれるほどの食べものがつくられて、祝いました。濁り酒も豊かで、有難く楽しい一日でした。(中略)戦後のすこやかな情景です。親類の男の幼な子が囲炉裏の横座にすわって、あぐらをかいていました。いかにもたのしくめでたく、新しい年を迎える焦点となりました。」(「俳句は歓びの文学」(角川学芸出版)より)

 終戦後間もない時期の、津軽の旧正月の光景が、余すところなく描かれている。雪深い青森の農村生活はただでさえ厳しく、加えて戦後の混乱がまだ収まりきらない時分である。日常はギリギリの暮らしを余儀なくされていた筈だ。しかし(旧)正月は特別である。文字通りハレの祭事を寿ぐ気分が横溢している。集った親類縁者たちの明るい笑い声が聞こえてくるようである。余談になるが、「濁り酒も豊か」と書いたところは、いかにも酒を好んだ千空らしいと思い、微笑を禁じえなかった(ちなみに青森では自家用に濁り酒、即ちどぶろくを作ることが盛んに行われた)。

 話が脇道に逸れた。掲出句に戻ろう。句の対象は親類の幼児である。その子のあどけなさと大人びた仕草の胡坐座りというギャップが千空の目を引いたのである。上記において千空はそこに旧正月の一層のめでたさを感得したと述べているが、それだけではなく、その子が生き抜いていくであろう未来、或いは少しずつ確かなものになりつつあった戦後復興への期待もその背景にあるように思えてならない。だからこそ、正月のめでたさもひとしおなのである。


2026年1月16日金曜日

【連載】現代評論研究:第21回各論―テーマ:「老」を読む・その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭(今回欠稿)、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(2012年3月2日・9日)

●―1:近木圭之介の句―「老」を読むー/藤田踏青

失イツクシ。蝶残ル

 平成6年の「層雲自由律2000年句集」(注①)所収の作品である。この年には圭之介は82歳になっており、既に老境に入っている。失ったものは何か、自己の人生に於けるものか、現存在としての眼前の状況か、それともこの世界そのものへの洞察か。色々と想像できるが、そこにはハイデッガーの「現存在」の存在構造としての時間性を認める事ができる。掲句の真ん中に置かれた句読点は、上句の時間性と下句の現存在を示すものであると共に、時間という一般的には「過去・現在・未来」という不可逆的方向性を持つという認識への切断をも意味していると考える。残った蝶は現存在であると共に未来をも示唆しており、更に失われた過去へも回帰してゆくものであるから。つまり、ハイデッガーの述べている「根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す働きのようなものである。また現在もそれ自体で生起するのではなく、『死へ臨む存在』としての我々が行動する(あるいはしない)時に立ち現われるものである。」(注②)という事に通じるものがある。その時間性に関する句をあげてみよう。

 日付けのない暦背負って逃亡しようか   平成1年作   注③

 月炎える 私未来図どうあろうと     平成3年作   注③

 ひとり神の方を見ていたが 暗くなった  平成14年作

 過去の破片に 居場所はなかった     平成16年作

 取除くことは ここ数日の一行      平成17年作

 そこに過去・現在・未来が均質的に続いてはいない。そして晩年に至る程、過去から遠ざかろうとすることも「老」に対応する方法論の一つかもしれない。それは「死へ臨む存在」への傾斜とそれによって作り出された空間へと集約されてゆくようだ。

 生の裏に球体の小さな翳り   平成13年作

 宙(そら) 一滴        平成16年作

 ひとつ椅子に残る 存在    平成16年作

 これら個としての存在論的なあり方と地球、宇宙という存在的なあり方との対比に無時間性も視る事ができよう。さらにこの様な思いは下記の詩の中で既に用意されてもいた。


「三秒あれば」抜       昭和27年作  注④

三秒あれば

コップの水を土に捨て

中に宇宙を入れることも

出来る


 この詩はまさしく後年の句「宙 一滴」と対をなすものであろう。

 最後に平成21年に97歳で没するまでの最晩年の句を掲げてみよう。

 指先 一つの生 美もありそう      (94歳)  平成18年作

 己れの記憶の中で笑った         (94歳)  平成18年作

 己れは己れへ消えるため 風むきえらぶ  (95歳)  平成19年作

 おのれの風よ。今の笑いも昔のものよ   (95歳)  平成19年作

 ここに存在的なあり方ではない、存在論的なあり方が提示されているようにも思えるのだが。


注①「層雲自由律2000年句集」 合同句集 層雲自由律の会  平成12年刊

注②「存在と時間」 マルテイン・ハイデッガー  岩波文庫、ちくま学芸文庫

注③「層雲自由律90年作品史」 層雲自由律の会  平成16年刊

注④「近木圭之介詩抄」 私家版  昭和60年刊


●―2:稲垣きくのの句【テーマ:流転】赤坂時代(戦前編)/土肥あき子

 引越して手勝手違ふ炭をつぐ 「春蘭」昭和14年2月号

 掲句は昭和14年にA氏がきくのに与えた赤坂福吉町への転居の折りのものである。川が流れ、橋が掛かっていたという800坪の広さもさることながら、裏は九条家、東隣は黒田侯爵家という立地からもその財力がうかがわれる。

 福吉町の地名の由来は、江戸時代このあたりは福岡藩黒田家、人吉藩相良家、結城藩水野家の屋敷があり、明治5年(1872)三藩邸を合併して一町とし、福岡藩の福、人吉藩の吉をとって「赤坂福吉町」が誕生した。当時、「福」と「吉」の文字が連なる縁起の良い町名ということで人々の間で評判になったといわれ、黒田侯爵家、九条家、一条家という大邸宅を抱えた土地となる。

 南側の飲食店街では、きくのが引越す6年前の昭和8年(1933)2月、小林多喜二が芸妓屋で仲間を待っていたところを、特高に踏み込まれ20分に渡って逃げ回った路地がある。

 一方、きくのが居を構えた北側は、大きな屋敷が点在する閑静な土地で、晩年きくのは当地を「緑地帯でまことによい環境だったので私は終焉の地を卜したつもりでいた」(『古日傘』「騒音地獄」)と振り返る。

 「春蘭」同号には

 開け違へはたと屏風につき當る

 これは慣れない屋敷のなかで、うっかりこちらから開けてしまうと屏風の裏に出てしまうという、ちらっと舌を出すようなあどけない失敗や、隣家の威風堂々たる借景と思われる

 お隣の雪吊が化粧部屋の外

なども並ぶ。


 当時の写真を見ると、暖炉の洋間ではカウチで優雅にくつろぎ、見事な床の間のある和室では火鉢に凭れるきくのがいる。その顔は幸せと喜びに輝いているが、しかし、一般の新居撮影と異なる点は、その広すぎるほどの家のなかのどこでも、きくのがひとりで写っていることだろう。

 掲句の「手勝手違ふ」とは、幸せが基調になる違いであることは間違いない。兄姉弟の6人兄弟と両親という家族で暮らしていた頃の暮らしや、折り合いが悪かった姑と同居していた元夫との生活を比較すべくもないが、炭を継ぐという俯く仕草のなかにふと孤独の影もよぎるのだ。


●―4:齋藤玄の句– 「老」を読む -/飯田冬眞

 冬の日と余生の息とさしちがふ

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 個人差はあるのだろうが、男性にとって「老い」を実感するのは、容姿というよりも肉体の機能の衰えによるものが大きいのかもしれない。たとえば、それまで難なく上っていた駅の階段が途中で息を継がなければ上れなくなったり、それまで軽々と持ち上げていた鞄が急に重く感じたりすることが、男に「老い」を自覚させる契機になるようだ。そうした機能面の衰えを自覚した後に鏡などで筋肉の落ちた自身の肉体を視覚的に突きつけられたとき、ようやく「老い」は内面にまで浸透してゆく。

 流氷を待ち風邪人となりゆけり  昭和47年作

 老体を氷湖の道がつきぬける   昭和47年作

 しんしんと肉の老いゆく稲光   昭和47年作

 この年、齋藤玄は58歳。一、二句目は、石川桂郎とともに厳寒の網走を旅した折のもの。氷点下の白銀世界の中で〈風邪人〉となりながら流氷を待った男たちは、ようやく自身の肉体に「老い」が近づいていることを悟ったに違いない。だが、氷の上を走り来る風の冷たさを受け止めている〈老体〉はまだ感覚的なもので、視覚化されてはいない。

 三句目は同年の秋の句。処女作以降六千句の句業を千六百句余りにまとめた第三句集『玄』を刊行した後の作。稲光の閃光に映し出された自身の肉体を目の当たりにしたとき、静かに進行している肉体の衰えを自覚したようだ。

 枯るる森重ね重なりものわすれ   昭和48年作

 若いうちから物忘れの多い人はいるだろうが、玄の場合は若年期より和洋の詩文を諳んじていたというから記憶力にかけてはかなり自信があったようだ。さりげない句ではあるのだが、〈枯るる森〉と〈ものわすれ〉の取り合わせに、そこはかとない「老い」の自覚を嗅ぎ取ることができる。

 八ツ手散るままに晩年なしくづし   昭和49年作

 残る生(よ)へ一枝走らせ枯芙蓉   昭和49年作

 「老い」の意識が内面に浸透し尽すと次には「晩年」意識が首をもたげてくるようだ。八ツ手の花の散りざまから自身の晩年が〈なしくづし〉に進攻している哀しみが表れている。この年、胆のう炎を患い初めて入院生活を経験し、「晩年」および「残生」の意識が心中に深く刻み込まれてゆく。この年、60歳。

 残る生(よ)のおほよそ見ゆる鰯雲    昭和50年作

 晩年の不意に親しや秋の暮   昭和50年作

 晩年へ来ては出でゆく秋の暮   昭和50年作

 病床の石川桂郎を見舞う直前の作。「晩年」および「残生」の意識は、清澄な精神性とともにある種の「余裕」を玄にもたらしたことがわかる。それは自身の残生が〈おほよそ見ゆる〉ことができたためかもしれない。開き直りといっては悪いが、天の配剤なのだという自覚が芽生えてきたからこそ、老いの時間が〈不意に親し〉くなるのだろう。そうした〈晩年〉に対する余裕とは、自意識の放下によってもたらされたものかもしれない。それは〈鰯雲〉や〈秋の暮〉といった自身の力の及ばない時候や天文の季語に身を寄り添わせているところからも推察できる。

 齢(よわい)抱くごとく熟柿をすすりけり   昭和50年作

 晩年の過ぎゐる枯野ふりむくな   昭和50年作

 いまのいま余生に加ふ焚火跡    昭和51年作

 昭和50年11月に30年余の刎頚の友であった石川桂郎に、51年1月に相馬遷子の長逝に相次いで遭い、「晩年」意識は「軽み」の姿を帯びてゆく。〈齢抱くごと〉の比喩が〈熟柿をすする〉作者のありようを内面とともに的確に描いており、微笑を誘う。少しでも力の加減を誤れば、〈熟柿〉は見る影もなく崩れ、甘い臭気とともに無残な果肉を周辺に撒き散らす。「老い」とはまさにそのようなものなのだろう。

 冬の日と余生の息とさしちがふ   昭和52年作

 「晩年」意識は畏友たちとの長逝という訣別を経て、「余生」へと変化してゆく。掲句は前立腺手術の入院生活から解放されて、しばしの安息を味わっていた頃の句。冬のある日、自らが吐いた白い息が自分の顔を包んだのだろう。玄の住む北国でなくとも冬の日常風景としてはごく当たり前のことである。それを〈余生の息とさしちがふ〉としたところが、非凡である。〈さしちがふ〉の措辞に齋藤玄という俳人のもつ「あらがう生」をかいま見た思いがした。

 「老い」の意識とは、精神から肉体の変化を経て、ふたたび精神へと戻ってゆくものであることが、玄の「老い」を詠んだ俳句の語彙の変遷をたどることで理解することができるだろう。「晩年」「残生」「余生」とは決して受身のことばではなく、〈さしちがふ〉ほどの覚悟が心の底に潜んでいることを忘れてはならない。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載


●―5:堀葦男の句– 「老」を読む -/堺谷真人

 夏樹揺れ少女に老いの日の翳り

 『機械』(1980年)所収の句。

 鬱蒼と茂る夏の樹々。風に揺れ、葉ずれの音を散じている。緑蔭にたたずむ一人の少女は、降り注ぐ木洩れ日の中で溢れんばかりの若さに輝いている。が、ふとした瞬間、何気ない表情の中に作者は数十年後の彼女の衰老を先取りして見てしまったのだ。錯覚か、妄想か。見てはならぬものを窃視したかのように擬議する作者。しかし、数瞬の後、眼前で屈託なく笑う彼女はもう元の少女にもどっている。

 不思議な俳句である。作者は現存する少女を詠みながら、少女の可能態としての老女を詠んでいる。若さと生命力の絶頂を顕示する存在を前にして、却ってその対極にある老年に思いを馳せている。赤い三角形を見てから視線を白紙上に転ずると、残像として淡い緑の三角形が浮かび上がる。ちょうど赤がその補色である緑を吸い寄せるように、若さが老いを想起させるのである。

 ところで、葦男が自らの老いを意識したのはいつの頃からであったろう。金子兜太はある文章(*1)の中で「葦男には老成観がなかった」と至極簡単に総括しているが、これはあくまでも作句態度における話である。一方、作品に即して老いの徴候をみてゆくとき、我々は葦男が自身の加齢現象に向けた率直なリアリズムの視線に気づくであろう。

 父もかく老う浴槽の波顎に受け   『機械』

 花辛夷わが歯いくつか亡びつつ   『山姿水情』

 霞む山に浮かぶ黒点わが眼の斑(ふ)   同

 皺っ腹さむざむしょせん風羅坊   『過客』

 これやこの痩脛皺腹初風呂に   同

 還暦前後から70代半ばにかけての作品である。特に、一句目、四句目、五句目がいずれも入浴シーンであることは注目してよい。葦男は見ることを重んじた作家であり、一糸まとわぬ自己の肉体の老化からも目をそらさなかったのだ。

 それでは、自身の肉体的老化には十分に自覚的であった葦男は、精神的な老いについてはどのように感じていたのでろうか。残念ながら、筆者はこの疑問を解く鍵をまだ手にしていない。ただ、年譜(*2)に見える次のような項目から、おぼろげに見えてくる情景というものがある。


   1986年11月  神戸一中三十五回生、古稀祝賀会

   1987年 8月  東大経十六年会

   1988年 6月  東大経十六年会

   1991年 4月  神戸一中三十五回生総会の旅・弁天島

   1993年 2月  六高会


 古稀の賀を境にして、葦男は学生時代の級友との交流が次第に密になってゆく。それぞれの職業人としての責務から解放された旧友同士で酌み交わす酒の味は格別であったに違いない。ともに青春を謳歌した者は、数十年の時空を一瞬に超越して語りあうことができる。

 外見はたとえ白頭翁、禿頭翁となっていても、彼らは互いの中に今もなお白皙の書生や日焼けしたアスリートが歴々として存するのを見ているのだ。

 樫の芽や書生という語いまも好き   『過客』

 かつて少女に「老いの日の翳り」を幻視した葦男が、ここでは逆に老年の中の青春を余すところなく享受している。肉体の老化を通過して再び炙り出されてきた青春性こそ葦男にとっての真実であった。彼に精神の老いを感じている暇などなかったのである。

 1993年2月8日、旧制六高の同期会で俳句の話をして帰宅した葦男は、翌2月9日の朝、入浴中に腰背部に激痛を訴えて入院、2ヵ月半後に不帰の客となった。入院直後の句は重病人である自己の状況を端的に詠んでいる。が、そこに悲嘆や不安といった要素は希薄である。新しい体験をむしろ好奇のまなざしでとらえ、表現する精神の快活さと柔軟さを葦男は最後まで失わなかった。

 浅春ベッド管と数字に取りまかれ   『過客』

 漂客に点滴隣の寺に春の句座   同


(*1)「一粒」第29号「樫の年輪」2004年3月

(*2)『朝空』「堀葦男年譜」1984年/「一粒」第1号「堀葦男年譜」1997年3月


●―8:青玄系の作家の句/岡村知昭【21,22は休み】


●―9:上田五千石の句―「老」を読む― /しなだしん

 冬銀河青春容赦なく流れ   五千石

 第一句集『田園』所収。昭和三十五年作。

 「老」とはいつから始まるものだろうか。

 この句の制作年で、五千石は二十七歳。普通に考えて老いを感じるにはまだまだ早い。しかし私がはじめて老いまたは老けを感じたのは、二十七のころだったような覚えがある。それを老いというのは少し大げさだろうか。体力の衰えや体調の変化を、察知したとき、それを老いの兆しとして感じたのかもしれない。それはまさしく「青春」の終焉を感じ取った瞬間ともいえる。そんな理由から私の中で「青春の終り」と「老いのはじまり」は近しい感覚がある。

 五千石もこの頃、そんな感慨をいただいていたのだろうか。

     ◆

 掲出句と同じ「青春」を詠んだ句に、昭和四十年作の「青春のいつかな過ぎて氷水」があり、この句の自註(*1)には〈二児の父となっては、青春をとどめようもない〉とある。また昭和三十七年にも「冬夕焼わが青春の余白尽く」を作っており、「青春」への追憶が濃く滲んでいる。なおこの「冬夕焼」の句は『田園』には収録されておらず、補遺として『上田五千石全句集』に収められている。

     ◆

 掲出句。「渋民村」と表題の付いた四句のうちの三句目。

 自註には〈私は「銀河ステーション」から夜の軽便鉄道に乗った。これが「銀河鉄道」とは知らなかった。「青春」という駅を、いま通過する〉と記している。

 渋民村は「しぶたみむら」と読み、岩手県岩手郡にある村で、現在は盛岡市に属している。石川啄木のふるさととしても知られる。

 また自註にある「軽便鉄道」は岩手軽便鉄道、現在の釜石線のこと。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のモデルと言われており、自註はそこのこと指している。

 時は冬。寒々しい夜、銀河鉄道に揺られて車窓から雪景色を見るとき、過ぎゆく青春を実感したのだろうか。それは銀河鉄道というシチュエーション、そのセンチメンタリズムが少ながらず影響しているのかもしれない。

 ちなみに同時作は以下の三句。

 雪の渋民いまも詩人を白眼視

 星夜出て反骨教師雪つかむ

 寒昴死後に詩名を顕すも


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊


●―10:楠本憲吉の句/筑紫磐井

 墓地抜ける生色少女のふくらはぎ

 昭和38年『孤客』、と自句自解にはあるが、全集本の『孤客』にはない。いつの段階で最終句集原稿から消えたものやら。もとより無季俳句。

 何となく楠本憲吉のからみつくような嫌らしい視線を感じるが、まさにその通りである。憲吉が慶応義塾大学の講師を務めていたとき、慶大俳句会のメンバーを連れて鎌倉近代美術館へ吟行に行った。その時長谷寺を抜けて行く教え子の女子大生の若々しいふくらはぎが目にとまってこの句が出来たという。

 自句自解には、この1年、池田弥三郎の推挽で慶応義塾大学の講師となったと言うが、年譜では講師を務めたのは昭和40年とある。何が本当なのか憲吉についてはさっぱり分からない。本当は調べて書くべきなのだが、そんな調査をする価値があるとも思えないので矛盾した資料そのままに書いておく。

 それでも、38年に講師だったらしいことは、翌39年、この女子大生(筑紫出身)を詠んだこんな句があるから間違いなさそうだ。

 春一番筑紫乙女は幻めく

 講師の期間は1年だったらしいから翌年はもう教え子としての関係は途切れているが、憲吉としてはこの女子学生に相当未練があったらしい。憲吉先生、41歳の男盛り。その前年、長男が同じ慶応義塾中等部に入学しているというのに!

 嫌らしい視線といえば、こんな視線の句もある。

 スリットがこぼす脚線ころもがえ

 昭和61年『方壺集』より。ちょっと目のやり場に困るような句だ。そもそも「スリット」という言葉が何故出てきたかというと、憲吉の句会の袋回して「スリット」という題がでて最初のスリットの句を詠んだという。とんでもない句会だ、スリットなんて題を出す句会がどこにあるだろう!憲吉はそれ以来病みつきになり、盛んにスリットの句を詠み始めたらしい。しかし、この句、その中ではスリットの本意をよく詠んでいる秀作である。王道を行くスリットの句であろうか。


●―12:三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】/北川美美

⑩ 渡り鳥目二つ飛んでおびただし

 渡り鳥の目だけが飛んでくるようなスピード感ある凄まじい光景がただ浮かぶ。渡り鳥は命をかけて飛ぶのである。その臨場感が伝わってくる。世界中に散らばる渡り鳥たちが、同じ地をめざし、どんな経験を積み重ねているか。克明に映像化した『WATARIDORI』(原題: Le Peuple Migrateur/2001 監督:ジャックペラン)は、生きるためだけに鳥たちが北に向かっていく姿だけを収めた壮大な映像である。彼らの繁殖が生まれ故郷の北極でしか行われないことは自然界の神秘的な法則である。

 敏雄に鳥の句は多い。『眞神』では、晩鴉(6句目)、渡り鳥(10句目)、信天翁(32句目)、発つ鳥(72句目)ひばり(82句目)、飛ぶ鳥(97句目)などが散りばめられている。『創世記』のノアの箱舟では、洪水の40日後にノアは水が引いたのかを確かめるため、はじめに鴉を手放す。『眞神』が鴉からの登場していることは偶然かもしれないが感慨深い。

 船上生活の永い敏雄は沢山の鳥たちをみてきたことだろう。『眞神』の中の鳥たちは天界の使者のような八咫烏(やたがらす)の役目とも思えてくるのだ。八咫烏になりえる実在の鳥が敏雄の審美眼により選び抜かれ配置されているように思えるのだ。

 『眞神』というタイトルから日本の神話、山岳信仰、陰陽道などを連想することができるが、それは無季句をより効果的にするためのトリックのように感じられ、八咫烏は実在しない上にそのイメージがあまりにも付きすぎているため『眞神』の中では排除されているのだろう。昇天した敏雄自身が八咫烏のような気がするのである。

 無季句を追求する敏雄にとり、鳥は、読者を異世界に連れて行くことのできる橋渡しである。掲句は無季句でありながら散文になることも感情を込めることもなく表現されている。命を賭けた鳥たちがただただ北に向かっていく姿だけが詠われている。人間は太古より鳥になることを夢見ていた。


⑪ 家枯れて北へ傾ぐを如何にせむ

 陰陽道では、「北」について引いてみると、黒(色)、冬(季節)、羽(五音)、皮膚(五感)とでる。前掲句⑩の渡り鳥と⑪の羽のキーワードが一致。巧妙な句配列である。真北から西に6度ほど傾いているのが磁北になる。『眞神』であるならば磁北のことだろう。

 南の日照時間が多くなればその方位の家の老朽化が進み確かに北側に傾くというのは確かに頷ける。

 下五の「如何にせむ」は『古今集』ですでに使用されており「名取河せぜの埋木あらはれば如何にせむとかあひみそめけむ 読人不知」などがある。途方に暮れる嘆きの様子が雅やかに映る。現在、ビジネス文書あるいは国会中継で「いかがなものか」という台詞に遭遇するが、これには批判的意向が大いに含まれており、『古今集』の頃の「如何にせむ」とは使い方が変化している。掲句の「如何にせむ」にも少なからず批判的意志が含まれているとみる。

 というのは、ここで登場する「家」は、『眞神』の中でひとつのテーマとなり昭和30-40年代の日本の社会の底辺をも描いているように思えるからだ。「家」から広がる家族そして村社会が背景に潜む。

 写真集『筑豊のこどもたち』(1959土門拳)、映画『砂の女』(1963 原作:安部公房、監督:勅使河原宏)は『眞神』の世界をイメージするに恰好の資料と個人的に思う。特に、阿部公房と『眞神』の世界観には、前衛性を保ちながら、マクロの視点で人間の存在を観察し、アナキズムの匂いがある点に於いても共通項が多い。この人間の業を言葉に置き換えようとする作者の枯渇は戦争体験を通して戦後という時代を生きた人の心の渦のように感じるのである。

 『眞神』には思想的なものは何も含まれていない。一句一句に言葉によるシャーマンが隠れているだけなのだ。しかしながら家の老朽化の影に家族の不在も匂わせる掲句は社会的な日本の風景をも暗喩していると感じる。そういう村へ読者を連れて行く『眞神』の旅を楽しめばよいのだ。

『眞神』(1973年上梓)の発刊周辺の日本、世界の激動を一部挙げておく。


1972年

 日本陸軍兵 横井庄一 グアム島で発見

 連合赤軍・浅間山荘事件

 佐藤栄作退任 田中角栄就任

 ウォーターゲイト事件

 川端康成自殺

 大阪・千日デパート火災

1973年

 ベトナム戦争終結

 日本赤軍によるドバイ日航機ハイジャック事件

 金大中事件


⑫ 雪国に雪よみがへり急ぎ降る

 2011-2012年の冬は厳しかった。この氷河時代の前触れのような気象は雪国の老朽化した家々に例年の倍以上の雪を降り積もらせた。積雪に押しつぶされそうになりながら家の中でひっそりと暮らす独居老人がニュースに映されていた。けれどそこに暮らす老人の顔は決して苦悩に満ちてはいない。人間という業を生きるということを映像から垣間見た気がした。

 「よみがへり」とは、このような雪国という神話のような世界を示す地域に降る積雪のことなのだろう。雪国という名称に降る豪雪という自然の猛威。「急ぎ降る」という措辞に雪に埋もれながら孤独に年老いていく人の姿が隠れているように読める。


⑬ 冬帽や若き戦場埋もれたり

 日本陸軍の冬帽子に「椀帽」というものがある。フェルト製のお椀型になっているもので星のマークがついている。またソ連軍が被る耳アテ付の毛皮帽を満州北部に渡った筆者の父の19歳の写真からも確認することもできる。

 この句の「戦場」が満州を意識しているのかは定かではないが、極寒の地に散った青年は確かに多い。敏雄にとり戦争句を詠みつづけることは戦友への鎮魂であった。「埋もれたり」という下五により、嘆き、落胆、人を埋葬すること、雪に埋もれてしまうことを想像し、戦争が人々の記憶の彼方に埋もれてしまうという危惧をも感じる。

 若き兵その身香し戰の前 『弾道』

 支那兵が銃を構へて来り泣く 〃

 戦火想望俳句と全く異なる戦後の戦争俳句を詠むことを敏雄は『眞神』で確立したのである。敏雄の戦争詠は20年のスパンで変貌していく。


⑭ 針を灼く裸火久し久しの夏

 夏の句である。けれど郷愁の夏を詠んだ句と読む。

 「灼く」「裸火」「夏」、更に「針」まで登場し灼熱地獄の拷問を連想する言葉たちである。

突然の措辞「久し久し」が痛々しいまでにやさしく感じられる。言葉による飴と鞭である。

 囲いの無い火が「裸火(はだかび)」である。「裸火厳禁」という札はよく見かけたが、「はだかび」という読みに気が付くと、妙に艶めかしい。火(ひ)が裸(はだか)という捉え方がさすが源氏物語の時代の妖艶さに感心しきりである。「裸火」の場景をランプの囲いガラスを外して針を焼いている船内と想像した。敏雄が船内のランプの火で針を焼いているのである。

 「久し久し」と懐かしんでいる様子が伝わるが、子供の頃、母が傍で針を焼いていた記憶を言っていると読める。母親が敏雄の為に針を灼いて消毒をしている姿。それを今、自分が火を見つめながら針を灼いている。燃えている火をみつめると様々なことを想う人間の心理状態をよく観察している。

 掲句は大人になった作者が母親(あるいは乳母、養母など)を女という対象として捉え郷愁の中で優しい気持ちになっている感覚になる。しかし、掲句は何もそのようなことを書いていない、言っていないのだ。


⑮ 夏蜜柑双涙かわくばかりなる

 「反対の言葉を置いてみる。」掲句から山本紫黄との会話を思い出した。紫黄に書いた俳句(らしきもの)を見ていただくと、右手にぐい飲みを持ったまま無言で数分過ごし、ぽつりぽつりと言葉をこぼしていく。あまり俳句の話を自分からしなかったが、時に実作の極意らしきことを語る時は遠慮がちに「と三橋さんがよく言っていた。」と必ず付け加えていた。

 涙は流れるものであるが、ここでは乾いている。「涙」という言葉から感じるものは、「悲しい」「滲みる」「流れる」「しょっぱい」などであるが、それが「乾く」とどうなるのか。「乾く」とは、「心」「荒野」「砂漠」・・・と言葉の連鎖が不思議な感覚を産む。下五の「ばかりなる」の措辞が絶妙である。「乾く」までは考えたとしても「ばかりなる」がどうすれば降りて来るだろうか。何度もこの句を唱えて凝視していると、反語を使用した、

 鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ   渡邊白泉

がその先にみえる。

 涙が乾くという表現により、逆に涙が流れ続け、心があらわになり、悲しみがどこまでも続いているような感覚が生まれる。夏蜜柑が心のかたちのように、すぐそこに置かれているように思えてくる。敏雄のことを「三橋さん、三橋さん」と嬉しそうに思い出していた紫黄が妙に懐かしい。会いたいのに会えないのは辛い。双涙かわくばかりなる。


⑯ 著たきりの死装束や汗は急き

 人の死亡が確認されてから全ての人体機能が停止するまでには時差があり、それまでに痛みに苦しんだ表情がやわらかくなったり、掲句のように汗をかくということは考えられることだ。通夜の席で、ご遺体が微笑んでいるようだ、亡骸が一番美しい顔だったということに遭遇することは多々ある。その美しさを前に、すでに魂がこの世に無く、亡骸そのものが仏になったということを実感するのである。

 「著たきり」の措辞がややこしいのだが、遺体を送る側が見たご遺体の様子という見方と、死んだ人が俳句を詠んでいるという見方と二種類読めることにある。「昨日と同じ服で汗臭くて参ったな」と故人が汗をかいたことを自覚しているというように読めるのである。ここでは、後者の故人目線として視点を浄土へ飛ばしたということを考えてみたい。

 『眞神』では、作者の位置があちこちへ飛ぶのだが、視点を彼の世に飛ばして、下界を見るという一種のトリックにも思えるのだ。読者の視点を転換させるということが考えられる。

 「死装束」は、ご遺体を棺に納める際に故人に施されるもので、仏式では、故人の浄土での旅路にふさわし巡礼者の支度をさせるのが習わし。映画『おくりびと』での納棺の儀式で本木雅弘が死者に着せている装束である。

 この死者目線が昨今記憶にあるものは、新井満日本語訳の「千の風になって」(原題〝Do not stand at my grave and weep“直訳:私のお墓で佇み泣かないで)の視点がそうだ。死者が「泣かないでください」と残された人を慰めている視点と同じなのだ。

 「著たきり」の措辞により、霊的視点の読み方を選択したのは、霊的な存在が主人公となる「能」の世界の「夢幻能」と共通するジャンルが『眞神』と共通するからである。「夢幻能」は旅の僧など(ワキ)が名所旧跡を訪れると、ある人物(前シテ)があらわれて、その土地にまつわる物語をする。前シテは、中入りの後、亡霊、神や草木の精など、本来の霊的な姿を明示しながら登場し(後シテ)、クライマックスに舞を舞う。

 能は、シテが演じる役柄によって「神(しん)、男(なん)、女(にょ)、狂(きょう)、鬼(き)」の5つのジャンルに分けられる。これに「鳥」が入ってくると、なんとも『眞神』の登場物に似ていることになる。今まで何度観ても眠くなっていた能が『眞神』に共通項があると思うと、俄然、興味が湧いてくるのも不思議なものだ。能の番組は「序」「破」「急」の流れで仕立てていることから「急ぐ」というこのキーワードも後シテの役割のようにも思える。

 「能」は「幽玄の美」と言われているが、敏雄は世阿弥の「幽玄」に戻って『眞神』を構成したというのも考えられることだ。

 さらに「汗は急き」の「急」の文字使用が『眞神』に3句もある。

 火の気なくあそぶ花あり急ぐ秋   8句目

 雪国に雪よみがへり急ぎ降る   12句目

 著たきりの死装束や汗は急き   16句目

 3句ずつ離して「急」を使用した句を配置している。暗号解き、ミステリーツアーのようになってきた。能の話に戻るが、能の番組は「序」「破」「急」の流れで仕立てている。「急」は五番目の切能にあたり、シテは「鬼」となる。このことから「急ぐ」というこのキーワードが能の番組と関係しているようにも思える。

 かつて、高柳重信は『蒙塵』の構想を中村苑子への書簡で明かしている。もしも『眞神』構想メモが、発見されれば、戦後俳句の遺産ともいえるのではないだろうか。

 また「著たきり」と「汗は急き」の検証として、「死装束」に他の言葉を馬鹿馬鹿しく置き換えてみる。

 著たきりの揃いの浴衣や汗は急き

 著たきりのめ組の法被や汗は急き

 著たきりの海水パンツや汗は急き

 著たきりの越中褌汗は急き

 他人が汗をかいているのか、自分が汗をかいているのかという点でいうと、やはり、自分が汗をかいているということがわかる。「汗は急き」が汗をかいた本人が実感する生理現象ということもあり、やはり死者が汗をかいているという見方の方が『眞神』らしいのかと思う。

 更にこの句から読み取れるのは、納棺されることのないご遺体が汗をかいていると想像するのである。死ぬ瞬間に汗をかくのは苦しかろう。「死に水をとる」とは臨終の際の死者を生き返らせたいと願う儀式である。この句の死者の死に水ととるのは、わたしたち読者と思えてくる。


⑰眉間みな霞のごとし夏の空

 「眉間みな霞のごとし」がわからない。

 再度、能を確立した世阿弥の世界を考えてみる。

 世阿弥は舞台における芸の魅力を自然の花に例えて心と技の両面から探求した。花とは観客がおもしろい、めずらしいと感じる心のこと。自然の花はそれ自体が美しいものであるが、その美しさの意味を舞台の芸として具体的に再現しようとしても、それを観るすべての観客が美しいと感じるわけではない。そこで世阿弥は、舞台の芸を種として観客の想像力に働きかけることで、ひとりひとりの観客が心の中にそれぞれの美しい花を咲かせる方法を工夫する。夢幻能はそのための様式として確立されたものなのである。

 読者の想像に働きかけること、それを敏雄は実践したのだろうか。

 「眉間」は表情がでるところである。そして顔面の急所である。記号的な読みとして、急所を調べてみると、眉間(烏兎)・鼻の下(人中)・下顎の前面(下昆)・こめかみ(霞)・、耳の下(露霞)、みぞおち(鳩尾、水月)等がある。これは武術でいう部位の呼称だが、広辞苑をはじめとする辞書にはどこにも出ていない。烏兎が日月を表すことから、眉間が襲われると、太陽と月が一気にでてくるような攪乱を起すという意味ではないかという説がある。記号的逆読みで掲句をみると、「月日の経過は早くこめかみが痛くなる思いで、夏の空はギラギラしていて眩しい限りだ。」と、わかった気になる。

 さて、「霞」を眉間とするならば、眉間で思い出されるのは、筆者世代では、劇画『愛と誠』(原作・梶原一騎)の主人公の早乙女愛と太賀誠が赤い糸で結ばれた蓼科高原スキー場での事故である。愛が誠の眉間に大きな傷を負わせる。早乙女愛を一途に愛する男・岩清水弘も懐かしい。花園高校というネーミングがまた想像を掻き立て、初めて新宿の花園神社を知ったときは、その中に『愛と誠』の学園が存在するのかと思った。

 そうとんでもないことを考えると、太賀誠の眉間の傷も過去のことであり、過去に操られ人生を翻弄するのは、霞のようなことであると思えてきた。何度も思うのだが、敏雄の句には人生のリセット願望を示すような句に遭遇すること多々なのである。

 秘すれば花。『眞神』は、残像の花を咲かせる。


●―13:成田千空の句– 「老」を読む -/深谷義紀

 小春日の雀となりて遊びたし

 平成17年作。句集「十方吟」所収。

 この句集は千空の6番目の、そして生前最後の句集であるが、この句集について千空自身は次のように語っていたと言う。

 「あの句集はちょっと優しく、柔らかになりすぎてねえ。私としてはもう一冊、なんとか骨のある、水位の上った、口あたりはよくなくても喰いたりる作品で飛翔したいんですよ。(中略)私の到達点をそこに持ってゆきたい。『十方吟』を通過した最後の句集をねえ」(角川書店「俳句」追悼大特―成田千空の生涯と仕事― 黒田杏子『太宰 志功 寺山そして成田千空』より)

 確かにこの句集の作品は、それまでの千空らしい骨太さがやや後退し、どちらかと言えば穏やかな詠み振りの作品が目立つ。しかし、見方を変えれば、懐の深さを示し、自在あるいは闊達な制作スタンスにシフトしたとも言えよう。この辺りの事情を、千空自身はこの句集のあとがきで次のように述べている。

 「ここ十数年NHK青森、弘前文化センター俳句教室、BAR俳句教室等、月に八回の俳句教室を担当して、私自身の作風に幾らかの変化を自覚した時期の作品といっていいように思う。」

 この「作風の変化」について、別の場でもう少し具体的に語っている。

 「俳句教室ではみんな職業が違うんです。(中略)私も影響を受けてますよ。(中略)農業を五十年、六十年とやっている方の人生体験。そういう人から聞く話はおもしろいですね。(中略)自分の世界を自分のことばでどうとらえるか。しかし、俳句の骨法はちゃんと学びながら、そういう方向へもっていきますので、カルチャーは私自身、張り合いがありますし、勉強になるんです。」(角川選書「証言・昭和の俳句」より)

 この句集には、こうした句境を象徴したような作品もある。

 八十の路八方に稲穂かな   『十方吟』

 死去の直前まで、千空は「俳句は沸くように出来る」と語っていたと言う。まさに、昨日までの自分を壊し、新しい俳句作家として生まれ変わっていく。そんな作業が楽しくて仕方ないといった様子が窺える。過去の実績に囚われることなく、新しい可能性をひたむきに探っていく。そんな向日性が、晩年に至るまで千空のバックボーンであり続けていたように思う。

 この「十方吟」を越えた句集を編みたかったという千空だが、残念ながらその思いは叶わなかった。千空自身も心残りであったろうし、千空ファンの一人として、千空が最後にどのような作品世界に辿り着いたのか、千空の言う「到達点」を是非とも見たかったという思いは強い。

 さて掲出句に戻ろう。一見すると、穏やかな老境を淡々と詠んだ作品とも見えるが、ここでは少し違った見方を提示してみたい。

 千空の生涯は、ある意味、恐ろしく「大器晩成」型だったと言える。もちろん32歳にして萬緑賞を受賞するなど、早くから結社内では注目される作家であったが、その人柄からか、あるいは津軽の地を決して離れようとしなかったからなのか、長い間全国的注目を浴びることは稀だったと思う。ところが、77歳にして第4句集「白光」で蛇笏賞を受賞した辺りから様相がガラリと変わってくる。その3年後には第5句集「忘年」で日本詩歌文学賞を受賞(80歳)、また平成17年には読売新聞俳壇選者にも就任する(84歳)。80歳前後にして注目度が急上昇し、句業が一気に花開いた感がある。それはそれで喜ぶべきことなのだろうが、はたして千空自身はどう思っていたのだろうか。掲出句は、まさにその当時詠まれたものである。穏やかな老境とは程遠い、びっしりと詰まったスケジュール。「こんな筈じゃなかった」という千空の嘆きの呟きが聞こえてきたような気がする、と言ったら穿ち過ぎだろうか。

2025年12月26日金曜日

【連載】現代評論研究: 第20回各論―テーマ:「女」を読む その他―  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(投稿日:2012年02月10日)

★―1近木圭乃介の句 / 藤田踏青

 灯 中に神のような夜の女もあろう

 昭和28年の「ケイノスケ句抄」(注①)所収の作品である。そこに圭乃介が生活していた門司や下関の港の裏通りにポッと灯がともる情景を思い浮かべる。この場合の「神」とは、自然界の万物を擬人化した存在としてのアニミズム的な発想のものではなく、現実世界そのものとして受け入れる汎神論的なものとして受け取れば「夜の女」への思いも自然と頷かれるであろう。そこでは人知を超える必要はなく、ただその女の精神的な無垢だけを見つめていれば良いのかもしれない。「灯」のあとの一字空白は灯から夜の女そのものへの視点の移動と、「灯」そのものの中にその女が浮かび上がるような効果をもたらせている。「灯」と「夜の女」とは必然的に補完関係にあるかの如くに。尚、この作品は次掲の作品と連作の形で発表されている。

 近く笑う夜の女 離れる   昭和28年作  注①

 からだ売る青い石ゆびに       々

 コップ二つの等しい液体       々

 これ等の句により夜の女が娼婦であることが解るが、圭乃介の眼差しはそれに優しく注がれており、立ち位置も同じである。その事を次の句が示してもいる。

 虹茫と 女くらい肩していた          昭和54年作  注① 

 かわいいもの手垢のない単語よっぱらい女   昭和60年作  注①

 歌謡曲ではないけれど港に酒と女はつきもののようであるが、圭之介は昭和30年に上記の句の流れに沿った次のような詩を発表している。


「女」   注②

女の背の部分が

海のようにつめたくなる

汽船は寒流をのがれ 乳房を迂回し

胸の大きなうねりに咆哮する

なまあたたかい汐風に

へんぽんとひるがえる旗

青い海ばらに一すじ

女の黒髪がなびいている


 この詩はコクトーの詩(注③)にも影響されたのであろうか。海を見つめている女の後姿に哀愁が漂っている。


注①「ケイノスケ句抄」  層雲社  昭和61年刊

注②「近木圭乃介詩抄」  私家版  昭和60年刊

注③ J・コクトー


「レア」  『寄港地』より(堀口大學・訳)

珊瑚のように

はだかのレアは

ベッドの上に腰かけて

カーテンあげて眺めます

港が海をせきとめる

帆ばしらの櫛で


★―2稲垣きくのの句【テーマ:流転】麹町永田町〜芝公園/土肥あき子

 今までテーマに沿って俳句を見つけては背景を探ってきたが、準備期間も含め約一年で関連した書物や思いがけない出会いから当初不明だったいくつかが判明したりもしている。

 また、きくのの著作権継承者でもある姪の野口さん(仮名)よりお借りしているものに、きくのの六冊のアルバムがある。アルバムは多くのページを残して新しくされたり、手書きの書き込みにきくのの素顔を見つけることができたり、写り込んでいる風景に当時の生活や文化が見え、それなりの心境の変化も映し出されている。

 時系列で当時の流行や時事なども並記しながら、きくのの人生を追ってみたいと思い、今後のテーマを「流転」とした。神奈川県厚木の船宿に生まれたきくのの一生は、点々と安住の岸辺を探し尋ねるような転居の連続であった。


本題【テーマ:流転】麹町永田町〜芝公園

 引越の荷のてつぺんの菊の鉢

 稲垣きくの、明治39年(1906)7月26日神奈川県厚木市生まれ。本名野口キクノ。稲垣家の四男だった父(佐市)が同じ相模川で船宿を経営していた野口家の養子となる。長男、次男、長女、きくの、三男、四男の6人兄弟。大正3年(1914)横浜西部に転居するも、大正12年(1923)の関東大震災で住居喪失のため父の実家座間へ移る。この年より東京神田の正則英語学校タイプ科で学び、卒業後横浜銀行勤務。同時に同志座募集を新聞で知り、応募。父母の反対を押し切り、ただ一人の理解者であった姉の家から同志座の旗上げ公演に参加。大正14年(1925)、同志座座員、宮島文雄と結婚。昭和3年(1928)離婚し、野口姓に復籍する。

 以上が俳句と接する前の稲垣きくのの略歴である。

 そして、きくのの人生にとって最大の影響を及ぼすことになる財界人A氏との出会いがある。出会いの一切はベールに覆われているが、A氏の影はきくののエッセイ集『古日傘』の「さくらんぼ」のなかで東京・大阪間の初旅客飛行に搭乗したという箇所に注目した。

 日本の本格的なエアライン誕生は、政府と財界の協力で昭和3年(1928)「日本航空輸送」が設立され、8月27日、東京・大阪間で初の有料旅客貨物空中輸送を開始した。初飛行を控えた東京朝日新聞には連日「大阪東京間は秀麗富岳を中心とする東海道の絶景、東京仙台間も松島の美風景あり、汽車に比して四倍迅速なる上に、地上には見難き佳景大観を領しつつ、愉快に往復しうる幸福は確かに我が旅客飛行の誇りである。室内は安楽イス、便所の設備あり、自動車よりも遙かに広くかつ美麗である。是非この空中最新設備を利用されんことを切望する。」という広告が大きく掲載され、川崎ドニエ式メルクール型旅客機の定期運行に自信をみなぎらせている。

 当時大卒初任給が50円という時代に、東京・大阪間は30円、同時就航した東京・大連間は145円である。同年きくのは、弟の婚礼のために大連へも当機を利用している。離婚直後、蒲田撮影所へ入所早々の22歳の女優が気軽に使える手段ではないだろう。

 その後、きくのは麹町永田町に引越したが、車関係の会社が近隣にあり試験をする騒音でやりきれなかったので、芝公園へ転居する。しかし、こちらも電車通りに沿いで自動車やバスの行き交う騒々しさに悩まされたという。掲句はこのどちらかの折りの作品であると思われる。我が名を持つ花が、新天地へと向かって揺れている。「てつぺん」の象徴する誇らしさと不安定なゆらぎに、微妙な女心が投影される。

 昭和42年(1967)俳人協会賞受賞の折りの本人の手による略歴では、俳句は昭和11年(1936)大場白水郎主宰「春蘭」をたまたま購読したことから始めた、とある。この「たまたま」に、「事情は一切省きますが、結論としてはこうなのです」というきくの的表現を感じる。掲句は初出とは別に「春蘭」昭和14年(1939)1月号の「春蘭主要作家を語る」(春蘭同人伊藤鴎二)にも引かれる作品である。

 門松につながれもする小犬かな

 夏帯の波うつてゆく急ぎ足

に並び、伊藤の文章は「句会へ余り顔を見せず、俳人の交遊もさして多いとは思えない。俳壇的雰囲気から遠ざかってあれほどの佳句を投じているのは感心する。特質として句が快楽的、観照が純粋」と続く。

 この時期のきくのには、俳句はまだそれほど大きな存在ではなかったのかもしれない。

 そして次第に俳句の十七音は、多くを語らぬきくのの代弁者となってこの世に送り出されていくのである。


★―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 母死してえのころ草に劣るなり

 昭和23年作。第3句集『玄』(*1)所収。

 男にとって最も身近でありながら、もっとも遠い女。それが「母」ではないだろうか。亡くなった母を恋い慕い、長いあごひげが胸元に届くようになるまで泣き喚いていたというスサノオの故事を持ち出すまでもなく、また、亡き母の面影を浮かべる義母と情を交わし、子供まで産ませてしまった光源氏のように「母恋」は日本文学の底流をなす重要なモチーフといえるだろう。

 掲句は、そうした亡き母を恋い慕う狂おしいほどの激情を露ほども感じさせない。取り乱すことで精神の安定が保たれることもある。だが、玄はそうした安全弁を安易に用いない。むしろ非情と思えるほど、徹底的に対象を描写してゆく。肉親の死を眼前にしているにもかかわらず、だ。

 それは掲句の同時発表句(「壺」昭和23年9・10月号掲載)からも感じ取れる。

 母死すとき夏露のごときを目に湛ふ

 棺に母ありて蜩森にありき

 涼しきか悶絶の母陰隆(たか)し

 母親の臨終の姿が克明に描写されており、息を呑む。いまだかつて、悶絶してのけぞる母親の陰が盛り上がるほどたかいことを詠んだ作家がいただろうか?〈涼しきか〉の上五が常軌を逸している。

 母を死なする風鈴を吊りにけり

 悶絶の母を刺す蚤数あらず

 瀕死の母が一息の息暑へ灑(そそ)ぐ

 母逝くか否か自問の雲の峰

 これは掲句の前号(「壺」昭和23年8月号)に掲載された句の一部で、ここでも母親の死を凝視している玄の姿が認められる。悶絶する母親を眼前にしながら、その体に蚤がたかっていることに誹味を見いだせるものだろうか。だが、ここでも玄はリアリズムを貫き通している。

 作品と同時に「KSANA」と題した短文も掲載されており、そのなかで玄は臨終間近の母親への想いとそれを見舞う人たちの欺瞞を書き連ねている。

一夜、私は母を抱え最後の訣別を済ました。私は母の如く、母は子たる私の如く、暗黙の中の恍惚たる数分であった。母の生涯の光芒はこの瞬間に集注したと私は信じた。私は哭するといふことの如何に素直なる心のはたらきであるかを知つた。私の真を知る唯一の魂との訣別を終えて、もう絶対に泣かぬと決めた。

 玄にとっての母親とは、自身の魂の真実を知る唯一の存在であったことがわかる。「私は哭するといふことの如何に素直なる心のはたらきであるかを知つた。」の一文に玄の深い悲しみが滲み出ている。その母親との訣別を済ませたあとの玄は、感情に溺れることを自身に禁じたのだ。

 だからこその徹底的な描写であったのだ。齋藤玄という作家の死生観を形成するのに多大な影響を与えたのは、この母親との訣別の一夜であったのだろうと推察する。

 わが母を見舞ひ、わが母を看とることを人徳の如く考へて振る舞ふ人達を私は憤怒と嫌悪のまなざしで見つめた。糞ヒューマニズムの片鱗は隠してもわかる。当人自ら気がつかなくとも私は見透した。

 危篤状態の母の前で、「いい人」を演じて悦に入る人間の欺瞞性を糾弾する玄がここにいる。この欺瞞性に対抗する手段として玄はリアルな母の死を描こうとしたのではないか。

 掲句の鑑賞に戻ろう。

 〈えのころ草〉はねこじゃらしの名で、ありふれてはいるが、親しみやすい雑草として、秋風にゆれながら道端や空き地に群生する植物である。優しげで頼りなく、どこか滑稽な風姿さえ持つ。そうした〈えのころ草〉と母の死という重く悲しい事件を対比させ、〈劣るなり〉と断定した意図は何であったのだろうか。そこには自己の悲しみを投げ出すことで他者に共感を求める姿勢は微塵も感じられない。

 しかし、この断定はある意味、戦後の日本人の死に対する考え方を反映しているととらえることもできるだろう。死んでしまえば、どんなに愛した母親でも眼前にある〈えのころ草〉ほどの価値すらなくなってしまう。それは、死後の救済を売り物にする戦後宗教への批判のようにもみえる。あるいは既存の「死んだらみんな仏様になる」という素朴な死霊観に対する問題提起ととれなくもない。

 おそらく、先の短文のように「母を看とることを人徳の如く考へて振る舞ふ人達」に代表される人間の根源的な卑しさを〈劣るなり〉で表現したのだろう。

 それが、齋藤玄にとって、「私の真を知る唯一の魂」の持ち主である母という永遠の女性との訣別の辞でもあったのだ。


*1 第3句集『玄』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載


★―5堀葦男の句/堺谷真人

 夕さくら照るや少女のまた暴投

 遺句集『過客』(1996年)所収の句。

 葦男作品の中で女性を表す語彙は多様だ。第一句集『火づくり』から『機械』『山姿水情』と順に拾ってゆくと、妹(いも)、妻、母、少女、主婦、女、酌婦、老婆、女給仕、女児、老女、幼女、婆、美女、山姥、遊君、女性(にょしょう)など女の一生の諸相が含まれている。(山姥はちょっと違うが・・・)また、パンプス、鮮衣、夏手袋など換喩(メトニミー)で女性を表現したり、睫毛、垂れ髪、黒乳房、くちびるの朱など身体的特徴をもって女性を示唆する作例もある。これらの語彙のうち、『火づくり』の第1章「風の章」に特徴的に見られるのが「妹」という言葉だ。

 あの汽車に乗れば妹がり麦そよぐ

 桔梗(きちかう)に妹の眸(め)澄めり雨を来て

 妹が髪つゆけしいまは別れなむ

 妹もいま空見てあらむ頭巾つけ

 1944年6月、葦男は網野冨美子と婚約する。その前後の作とおぼしきこれらの「妹」からは、俳句以前に若き葦男がなじんでいた短歌的リリシズムの余響を聞きとることができる。

 『万葉集』に頻出する古語を採用したのは、婚約期間の昂揚感を文学的に昇華したいとの

気持ちが働いたためであろうか。葦男ら大正世代の男女にとって自由恋愛はまだ少数派であった。今日の我々からすると物事の順序が転倒して見えるが、婚約のあとから恋愛感情が芽生え、結婚に向けてこれをはぐくんでゆくという流れは、そう珍しくなかったのかもしれない。上記作品は制作年代からいえば「戦後俳句」ではない。が、戦後日本を担った大正世代の男女のありようを示唆する好個の作例である。

 背負ふ鉄帽がつと触れ合ひ少女なり

 これも『火づくり』「風の章」所収の句。葦男の句集収録作品における「少女」の初出である。戦時下の実景。人ごみの中、恐らくは防空壕か列車のような狭い場所であろう。背負ったヘルメット同士ががつりとぶつかる。反射的に振り返り、「失礼」と言おうとした作者の前にいたのは一人の少女であった。

 戦時下の少女は、樹下で読書にいそしんだり、夢見がちに窓の外を眺める存在ではない。バケツリレーや竹槍の操練に汗を流し、麦藁帽の代わりに鉄帽をかぶる少女なのである。

 近現代の総力戦にあっては、非戦闘員たる銃後の女性も軍需工場などの生産現場に立ち、それまで男性中心だった職種に進出する。総力戦と女性の社会進出には正の相関性があるのだ。その意味で、1940年代前半は日本女性の集合的ジェンダーが目覚しい変容を遂げた時期に当たる。静から動、柔から剛へと変身する非常時の女性たち。鉄帽を背負った少女はそのような時代相の鮮やかな点描である。

 前置きが長くなったが、冒頭の句にもどる。ソフトボールのピッチャーであろうか。満開の夕桜を背景に最悪のタイミングで暴投する少女。しかも1回目ではない。逸れたボールはあらぬ方に転がり、走者は次々とホームインする。守備チームの歎息が聞こえて来そうな場面であるにもかかわらず、読後感はからりと明るい。少女の自由闊達さ、有り余るエネルギーが紙背から照射されているからである。

 この句が作られたのは、1989年頃。平成バブルのさなかである。1986年4月の男女雇用機会均等法施行後、狂熱的な好況といういわば経済の総力戦の時代を迎え、空前の売り手市場となった雇用情勢のもと、総合職採用の女性が大挙して企業社会に飛び込んできた。1940年代前半と同様、女性の社会進出が一気に加速した時期である。葦男の句集収録作品において「少女」を詠んだ最後の句となった本作品もまた、いみじくも女性の社会進出の時代の所産であった。


★―8青玄系作家の句/岡村知昭

 いつからの癖 あなたの胸で爪噛むのは   黒原ます子

 彼女は戸惑っている、そして自分自身が嫌でたまらなくなってしまいそうである、なにしろ恋人の抱擁のまっただなかにあるにも関わらず、なぜか「爪噛む」自分なのである。彼に対する感情がどうこうというわけではないはずなのに、恋人からの抱擁を真正面から受け止めることができない自分なのである。肝心のときになぜ、との思いが彼女の心に重くのしかかるなか、そんな彼女の感情を知ってか知らずか、恋人からの抱擁はさらに強く、熱さを帯びてくるものとなる。それとともに彼女はさらに強く「爪噛む」自分に出会ってしまい、自己嫌悪に爪も心も荒れ模様というところであろうか。しかし彼女のそんな堂々巡りにどこかいじらしさとかわいらしさも感じ取れてしまうのは、彼女が「爪噛む」のは恋人との関係においての自分自身のありようへの不満がもたらすものであるのを、本人が一番わかっているからだ。かつてジュディ・オングが歌った「魅せられて」(作詞は阿木耀子)には「好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る」という一節があったのだが、この句の「好きな男の腕の中」にいる彼女には、いまやそんな余裕すらないのである。

 掲出句は1965年(昭和40)11月号に掲載。現在『俳句現代派秀句』(1996年1月 沖積舎)に収められている伊丹三樹彦の選評を以下に引いてみる。

 これは又、大胆なベッドシーンの接写ではないか。といっても、猥らな感じはさらさらなく、あるのは愛する相手(男)の胸の中でするおのが行為をいぶかしむ作者(女)の大人っぽい感傷であり、情感なのである。(中略)

 「おのが行為をいぶかしむ」女性像の居場所を、三樹彦は「ベッドシーン」に設定し、そこから鑑賞を進めてゆく。この設定の仕方のほうがよほど大胆ではないだろうかというのは置いて、この読みを進めることによって狙っているのは、女性像をより裸身に近い形で鮮明にすること、さらには彼女の行為を通して男女間の物語への想像力をより読者に対して喚起してゆくことの2点にある。その狙いがどこまで達せられたかはさておき、このときの評者の脳裏にはまぎれもなく、日野草城の「ミヤコホテル」の句の数々がよぎっていたであろうことは想像に難くない。「ミヤコホテル」の3句目から5句目、新婚の妻と迎える「ベッドシーン」は次のように展開してゆく、自分の行為そのものに対して、決していぶかしむことのないままに。

 枕辺の春の灯は妻が消しぬ     日野草城

 をみなとはかゝるものかも春の闇

 薔薇匂ふはじめての夜のしらみつゝ


 その上で掲出句に戻ってみると、「をみなとはかゝるものかも」とクライマックスを巧みにぼかしながら想像力を強く喚気させるのとは対照的に、クライマックスを過ぎた気だるさは確かに感じられる部分はある。だが、より具体的な鑑賞を進めようとするあまり、彼女の心象をどこかで取りこぼしてしまわっていないだろうかとの危惧もまたある。掲出句はどこかで「をみなとはかゝるものかも」との男性の期待に「大人っぽい感傷であり、情感」をもって応えていながら、一方においては抱擁のまっただなかにありながらまとまりのつかない苛立ちに心揺さぶられる姿を描くことで「をみなとはかゝるものかも」との視線に対する疑問を読者に対して突きつけてくる。彼女はいつでもどこでも、恋人の抱擁にただ喜んでいるだけの「かゝるものかも」ではないことを描く作者の目線は、どこか恋人の抱擁のまっただなかで「爪噛む」彼女の苛立ちのようにも見えてしまうのである。

 最後に別の一句(「夜の渚で ひろった あなたの冷たい耳」)の評の一節を引いてみたい、どうやら作者の「わたしは『かゝるもの』では決してありません」との声に、決して気づいていなかったわけではなさそうなのがわかる評である。

 この種の俳句では、いうまでもなく草城に秀れた先業があるが、ます子の仕事は、より主体的であり、より具象的であるところに、やはり戦後を濃厚に感じさせてくれる。


★―9上田五千石の句 / しなだしん

 柚子湯出て慈母観音のごとく立つ   五千石

 第一句集『田園』所収。昭和三十六年作。

 男性作者の女性を対象にした句というのは基本的には「恋の句」となるのが一般的だろうか。

 女性が詠む恋の句は、情念的であったり、傷心的であったり、あるいは女性の身体を詠うことで恋心をあらわし、一般的にも受け入れやすく、秀句として残る作品も多い。

 一方、男性が詠む恋の句は生すぎるのか、どこか嫌味に受取られるのか、市民権を得られていないようだ。だが森澄雄や鷹羽狩行の「妻恋い」や蜜月俳句のように、妻を詠んだ句は語り継がれる作品も多くあり、一線を画す。その違いは単純だが「恋」と「愛」の違いということになろうか。

     ◆

 掲出句も、妻を詠んだ句である。

 厳密に言えば「母」である妻の母性と、その母性をたたえる妻の姿にはっとし、さらに愛を深くした句、といえるかもしれない。

 この句の年、五千石は28歳。同年9月23日、長女日差子が生まれている。

 この句について、自註(*1)に〈母は私をみごもったとき、狩野芳崖描く「慈母観音」の写真版を掲げて、胎教としたという。これは眼前の柚子母子〉と記している。

 また著書 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「自作を語る」の中では、その狩野芳崖の慈母観音がなんとなく脳裏に焼き付いてしまった、と書き、〈ある日ある時のでない、昭和三十六年十二月の冬至の夜の母子入浴後の姿〉として〈眼前に、私の「慈悲観音」像となって再現された〉と記す。

 慈母観音の絵を胎教に、というのも面白い話だが、それが五千石に伝えられ、五千石もそれをずっと覚えていた、というのも何だかすごい。

     ◆

 この句は「柚子湯」が効いたのかもポイントだが、「柚子湯」といえば「風邪を引かない」ということからも子への親の愛情を感じることもできるし、柚子湯のころの寒さを考えれば、風呂上がりの体からは湯気が立ち上っていたことは想像に難くない。

 慈悲観音は菩薩であり、その像は赤子を抱いた姿のものも少なくない。この句の観音である五千石の妻、霞の腕には生後三ヵ月ほどの長女日差子がしっかりと抱かれていたのだろう。

 湯気は「柚子」色のイメージを纏い、まるで後光がさすようだという感覚も頷ける。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


★―10楠本憲吉の句【テーマ:妻と女の間】/筑紫磐井

 妻よわが死後読めわが貴種流離譚

『楠本憲吉集』より。

 貴種流離譚とは高貴な身分の者が、親たちにはぐれて数奇な境遇をたどり、悲哀を舐めて再び高貴な身分に戻るという伝承類型であり、日本であれば源義経や塩冶判官などの物語をいうことになる。

 一言で言えば、まことに気障で嫌みな俳句である。自らを貴種ととらえ、いくつか職場を転々とした経験を流離と詠んでいるのだが、傲慢きわまりないというべきだ。おまけにそのシチュエーションを、自らが妻に語る場面としているのだからやりきれない。おそらく妻は「また言ってんのね」とせせら笑っているにちがいないが、憲吉はそうした凍り付くような心理状況を全くカットして得々と語るのである。「死後読め」というのは生前には評価されないという言い訳を含んでいるのであろう。女性の方がしたたかであり、そんな未練な男のことなどさっさと忘れてしまうということは気がつきもしない、妻は綿々と自分の回想に耽ってくれると思うお馬鹿な男なのである。

 もちろん憲吉はある意味で貴種であった。職業・俳句も流離であったことは間違いない。楠本家系図と、憲吉年表を見ればそれは証明してくれる。この句なかりせば、私も「戦後俳句を読む」で憲吉を書くに当たって貴種流離という言葉を不用意に使ってしまうかも知れない、そうした状況は確かにあったのである。ただ残念ながら憲吉のこの句を知ってしまった以上、あらゆる評論家にこの言葉は禁忌となる。憲吉の言葉を真に受けてしまってように思われて、評論家の沽券にかかわるからである。

 俳句については別に語る機会があると思うが、職場については自らこんな風に語っている。田中千代学園短期大学教授に就任し、殊勝にも「ここで老ゆべし女子大学の青き踏む」と詠んだが、14年間つとめた挙げ句田中千代学長から解雇を言い渡された。理由は、休講が多いのと教授会に出席しないこと。全く自業自得である。

 というわけで、この句は憲吉の数ある句の中でも愛唱に値する名句である。私個人としても、憲吉を知るために後世にぜひ残ってほしい。


★―12三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】⑥⑦/ 北川美美

⑥ 晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ

 骨太な男の匂いがする句である。

「ばんあまきちらすちちなるくいひとつ」

 こうすると、「ちち」がかわいいヌードになり、鎧が外されたようにみえてくる。しかしひらがなにしたからと言って意味は降りて来ない。まずは親近感を持ち声にしてみる。何度も復唱する。再び凝視してみる。

 通常であれば、上から素直に主格を探し句意をかみしめるだろう。しかし、この句は隠れた助詞の読み方により主格が覆される。後半の「父なる杭ひとつ」を主格とし「晩鴉を撒き散らす」という読みを推奨したい。「撒き散らす」は空一面にカラスが飛び交っている様子、ヒッチコックの映画『鳥』のようなサイコサスペンスである。赤赤とした空にけたたましく飛ぶ黒いカラス。父であろう杭が、大地の男根そのもの、あるいは人柱のように打込まれている。社会のために枯渇して死んだ男の碑かもしれない。その上をカラスが祭のように飛び交うのである。

 「晩鴉(ばんあ)」という言葉に漢語からくる瀟洒で知的な響きがある(*1)。それに対して「撒き散らす」は乱暴と言えば乱暴な負の印象である。鴉は、腐肉食や黒い羽毛が死を連想させることから、様々な物語における悪魔や魔女の化身のように言い伝えられ、悪や不吉の象徴として描かれることが多い。しかし、その逆に神話・伝承では、世界各地で「太陽の使い」や「神の使い」として崇められてきた鳥でもある。ここでは「晩鴉」を神の化身と捉えたい。まるで祭であるかのように鴉が鳴き叫ぶその異様な景は、家を、国を、社会を支えてきた孤独な男である父への「挽歌(ばんか)」と掛詞になっていなくもない。『男たちの挽歌』(1986年香港・チョウユンファ主演)はハードボイルド映画だけれど、『眞神』は俳句のハードボイルドである。烏(からす)を撒き散らすのではなく敢て「晩鴉」を撒き散らしたことにその緊張感が生まれているのだろう。

 母に続く、父の登場である。

 再び高柳重信の『遠耳父母』より父の句を引く。


沖に

父あり

日に一度

沖に日は落ち


 重信の父は沖に遠い。敏雄の父は大地に根付き生活臭、家族臭がある。そして『眞神』の中の母は女、父は男として位置を示してくる。重信、敏雄の両者が父母を題材にした句を意識的に発表していることに互いの影響力を大いに感じ、それぞれの精神的内部を垣間見る像として浮かび上がってくるようだ。『眞神』の中の父、母の句のプロローグである。

 そして助詞を省いた敏雄の句に、「言葉」の力を信じようとする厳格な姿勢が伺える。散文的な内容、句意よりも言葉。雰囲気ではなく言葉。欲しいのは言葉。言葉がもたらす響き、陰影、情念、知性、過去、未来・・・言葉の力を改めて推し進め句意を排除しているようでもある。『眞神』が難しいと思うのは、この助詞の省略、切れをどう読むかにより読者の品格すらも疑われる怖さも秘めるからだ。言葉が一句の中で回転し、無言に立ち上がり器械体操のように動きだす。読者自身が着地点を定めるしかない。それが昭和48年発刊以来『眞神』はいまだ人気の句集である所以だろう。

 「晩鴉撒きちらす」を司祭のように飛び交う鴉たちの光景と思うと、上掲句は『眞神』のタイトルとなった、#55句目の「草荒す眞神の祭絶えてなし」と呼応するように思えてきた。『現代俳句全集 四』(立風書房)に収録された『眞神』ではこの#6「晩鴉撒きちらす」を冒頭句に配置換えしている。改めて#55句目で再検証したい。


*1)「晩鴉(ばんあ)」は夕暮れに鳴きながら巣に戻るカラスである。戴復古の詩に「煙草茫茫帶晩鴉」の一文がある。「遠くの霞んだ草むらは、ぼうっとして果てしなく、夕暮れに鳴きながら巣に戻るカラスの姿が長く列になって続いている。」というものである。「晩鴉」は、人に例えるならば晩年、季節ならば秋だろうか。


⑦ 蝉の穴蟻の穴よりしづかなる

 七句目にして俳句で見慣れた言葉に出くわし懐かしくもあり安心もする。穴のリフレインとともに蝉と蟻の季重ねは、逆に古典的ともいえよう。

 確かに蝉の穴は蟻の穴よりも静かである。蝉は地上にでるまでに数年を費やし、自力で土を掻き除けて地上にでる。蝉の穴は蟻の穴よりも深く暗く大きい。「よりしづかなる」とう表現により、「意外にも蝉の穴の方が静かではないか」という驚きとも読み取れる。また闇である穴を比較し涅槃の選択をしているようにも読める。

 蝉の幼虫における地下生活は3-17年(アブラゼミは6年)に達し、短命どころか昆虫類でも上位に入る寿命の長さをもつ恐るべき小動物である。蝉の地中での生活実態はまだ明らかになっていないことが多いらしい。穴を詠みつつ命の時間を暗示している点は見落とせないだろう。充分にアフォリズム的な深読みを読者それぞれが楽しめる。

 深読みをしてみよう。イソップ童話の「アリとキリギリス」の結末はさまざま改変がされ続けているらしいが最も有名なのは、ウォルト・ディズニーの短編映画で、アリが食糧を分けてあげる代わりにキリギリスがバイオリンを演奏するというもの。地中海南欧沿岸のギリシアで編纂された原話では本来「アリとセミ」である。冬まで生きられないセミがクライマックスで食糧を懇願する矛盾はあるが、掲句に重ねるならば、地中に出たセミから物乞いされたアリが、「永年地中にいたセミが穴からやっと出て行ったが、静かであると同時に物寂しい」とアリ自身が思っているという見方も考えられなくもない。

 蟻の穴は迷路のように複雑で沢山の同胞がうごめいている。『蟻の兵隊』(2006年/監督:池谷薫)というドキュメンタリー映画の中で日本軍残留を強いられ蟻のようにただ黙々と戦ったという証言が脳裏をよぎる。蝉の穴は大きく暗く深く、まもなく、あるいはすでに命が消えているかもしれない。涅槃として考えるならばどちらがよいのだろうか。両者とも過酷な涅槃の穴である。

 上梓から39年目の『眞神』の地中で過ごした蝉の幼虫は今年もしずかに地上に這出てしずかな穴を残すのである。


⑧ 火の気なくあそぶ花あり急ぐ秋

 複雑な句である。

 火の気、花、秋が、「なく」「あそぶ」「あり」「急ぐ」で繋がっている。ジグソーパズルのようだ。一句の中の動詞、形容詞の多用は新興俳句、ことに戦火想望俳句に多くみられる。

 射ち来る弾道見えずとも低し 『弾道』

 そらを射ち野砲砲身あとずさる  〃

 ⑧にみる動詞、形容詞の多用は、「新興俳句は壊滅した」(渡邊白泉全句集・帯文)と言い切る敏雄の帰るところのない修練なのだろう。動詞の多用による散文化を拒む敏雄独自の創作の視点がみられる。そして「季」について考えるつづける吐露のようにも思える。

 「火の気なく」と言えば、火がない、あるいは人がいない様子。「あそぶ花あり」とは、はっきりとした目的をもたない花の動作、あるいは、華やかな女性の様子等が想像でき多義である。「急ぐ秋」は、足早に秋が過ぎゆくとともに人生の残りの時間を考えているようにも読める。

 ここでは「あそぶ」と「急ぐ」、「花」と「秋」が対極になっているのが面白い。意味よりも、技法的試みがこの句には見られる。⑦⑧⑨に関しては、言葉の繋がり、遊び、一句中の言葉の配置、句集中の配置に目が行く。


⑨ こぼれ飯乾きて米や痛き秋

 ⑧の「急ぐ秋」につづき「痛き秋」である。身近な言葉で先人たちが多く詠んだ「秋」という壮大な詩歌の季の原点に還っていることに気が付いた。『古今集』の時代には、秋を時間とともに物が移ろう悲しい季節と感じていた。「急ぐ秋」「痛き秋」は、詩歌が生まれた頃の秋を現代に通じる季として言い換えているように思えるのである。

 「こぼれ飯乾きて米や」は、確かにありえる風景である上に、上五中七の12音で水分が抜ける時間経過を示し、且つ古俳句の趣がある。下五に「痛き秋」を持ってくることにより、さらに敏雄独自の風格が出たのだと思う。

 「痛き秋」が米が刺さって痛いのか、痛切な心情を言っているのかは、はっきりと理解できない。しかしながら「痛き」という響きがすでに人の心に刺さってくるような、視覚からもジンジンくるような感覚はわかる。

 また「こぼれ飯」とは、当然、食事中、配膳中にこぼれた飯のことだろう。確かに「飯をこぼす」「食事をこぼす」という。「飯」ではなく「米」をこぼす句は過去に作例がある。「立春の米こぼれをり葛西橋 石田波郷」は、葛西橋に闇米の検問所があった様子の句らしい。さらに「こぼれ米」について甲乙つけがたい下記例句があった(@日めくり詩歌 高山れおな風)。

 逆立つは屍の黄金虫こぼれ米   山本紫黄

 尼たちの菫摘みけんこぼれ米   桜井梅室

 「米」をことさら大切にする国民性だからこそ「こぼれ米」が効く。ならば敏雄の「こぼれ飯」もそれと同じ効果がある。「こぼれた飯が乾いて炊飯前の米になった、痛い秋だな」という以外多分何も言っていないのである。

 ⑦⑧⑨は俳句の軽みを思いながら読み進めることができる。その中で特に⑨は秀句として取り上げられることが多い。古俳句の趣と「痛き」による感覚表現が時代をクロスオーバーしているからだろう。


★―13成田千空の句/深谷義紀

 荷一つの夜店をひらく女かな

 今回のテーマは「女」である。正直に告白すれば難渋した。前回述べたように、千空作品の中で、「男」の姿は明確な輪郭をもって立ち上がってくる。北の大地で懸命に生きた農夫たちである。それに対し、「女」を描いた作品がいまひとつ脳裏に浮かんで来ないのである。

 千空作品で取り上げられた女性といえば、まずもって母ナカと妻市子夫人であるが、彼女たちはむしろ「家族」という範疇で捉えるべき存在であろう。また、義母や伯母を詠んだ作品もあるが、これらも親類縁者という位置付けで考えるべきである。

 一方、第8回(テーマ:肉体その他)で取り上げた、

 虫送る生身の潤び女たち   『白光』

の句や、

 雪やぶは女体の丸さ奥津軽   『白光』

などは「女」という性を取り上げて印象深い作品ではあるが、著しく象徴性が高い。

 一時は、「具体的女性像が描かれていないのが千空作品の特徴だ」と結論付けて、半ば居直ろうかとも思いかけたが、句集をもう一度読み返し、あらためて「女」の句を拾ってみた。以下に幾つか記してみよう。

 一つのカテゴリーは、前回の農夫の鏡写しのような農婦の句である。

 腰太き南部日盛農婦かな   『天門』

 新米を大きく握る農婦かな    『忘年』

 もう一つのカテゴリーは、千空がある時期深く傾倒した太宰治関連の、

 美しき白服の人園子なり   『忘年』

 太宰忌や雨に花咲く女傘   『忘年』

などである。ちなみに、一句目の「園子」は太宰の娘、津島園子である。

 だが、どちらのカテゴリーの句も、「女」をテーマとした千空の代表作というには何か物足りない気がした。

 あきらめかけた頃、目に止まったのが掲出句である。

 第3句集「天門」所収。

 奇を衒った叙法もなく、句意は平明。だが、一読後鮮やかに一つの景が目に浮かぶ。少し蓮っ葉な感じの女でもいいだろう。何しろ女一人で夜店を切り盛りし、生き抜いてきたのだから。上五の「荷一つの」という措辞が、その女の今の姿を活写し、さらにはそれまでの人生を暗示するようである。

 千空の眼差しは、慈愛に満ちたというより、むしろ淡々とそうした女性の姿を捉えている。しかし、決して突き放してはいない。淡々と詠むことで、かえってそうした女の姿あるいは人生を己に引き寄せているような印象がある。千空らしい「女」の詠み方だと感じた。