2025年6月27日金曜日

【連載】現代評論研究:第10回各論―テーマ:「夏」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

2011年09月09日 

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 空壜から流れ出た乞食一人夏を行く

 昭和58年の作品である。乞食という浮遊生活者を流動体の如く、そしてその存在の卑小化が空壜と同じ位相に置かれている。また、空壜という空虚な存在を乞食の人生にも対峙させているのであろうか。更に、空壜と一人という存在を作者の内面で自己対象化させているとも考えられよう。夏の炎天下を一人行く後ろ姿は「ほいとう」と呼ばれた行乞僧・山頭火をも思い起こさせるかもしれない。しかし、次句には「壜の口から乞食襤褸(らんい)の匂いこぼしながら 昭和58年」とあり、山頭火を尊敬していた圭之介にはそのような視点はなかったものと思われる。

 忘れ得ぬ人は初夏に似て虹の終り       昭和59年

 果実と太陽の酸味もつ思慕か         平成11年

 初夏の様に爽やかな面ざしであったが、虹が消え去るように、といった内容であろうか。初夏と虹といった季重なりは超季を主張する自由律俳句に於いては問題にならず、この句の場合にはむしろ並置されることによって情感が増すものと思われる。

 それから25年経っても抱く思慕は甘酸っぱいものであったのか。果実と太陽といった相互作用は意識の時間的経過の素因として、酸味はその熟成の結果としての回顧的な青春性を漂わせている。

 遠雷だポプラ並木の向うをごらん       昭和60年

 デッサンの様な、散文詩的な印象鮮明な語りかけである。一直線のポプラ並木の向うにあるものとは、その存在が眼に見えぬ故に読みのベクトルが多様化されてくる。この様なリズム感をもった歌うような表現は、荻原井泉水が唱えた「自由律俳句は印象の詩である。・・・・・それを外的なリズムではなく、内在的なリズムで詠う」との下に、昭和初期の「層雲」の自由律俳句に多くみられた。代表例をあげてみよう。

 額(ぬか)しろきうまの顔(かほ)あげて夏山幾重   和田光利  昭和6年

 麦は刈るべし最上の川の押しゆくひかり         々    昭和7年

 この様な朗誦に堪える作品が現代俳句に見られなくなって久しい。特に後句は芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」の句よりも力強く生命力にあふれた作品として記憶されよう。


 最後に、テーマ「夏」にそった圭之介の他の作品を掲げてみよう。

 雲は完全燃焼したか夏の港          昭和28年

 五月は指から蝶がしたたり落ちた       昭和55年

 誰も憎めず鍬形蟲は木にいるだけだ      昭和59年

 ひと夏すぎ 隅の埋まらぬ図残し       平成10年

 七月の町が尽きる 海へ落ち         平成20年

 暑く夕日が好み いつものまわりみち     平成20年


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 この道や滝みて返すだけの道  『冬濤』所収

 第二句集『冬濤』のなかで、4句並ぶ滝の句の4句目の作品である。

 滝みると人にかす手の恋ならず

 滝の音によろけて掴む男の手

の後に掲句が置かれる。

 大胆に情熱的な句を詠んだかと思うと、一転して冷ややかな句が並ぶのも、きくの作品の特徴である。浮かれた気分から、ふと我に返るというより、本来冷静な視線の方がきくのの本質なのだろう。

「滝を見に行く」「滝を見ている」「帰る」、この単純な道程のなかで、抒情から隔絶できるのが帰り道である。目的地から遠ざかるにしたがって、次第に自己を取り戻す。同じ道の往復で、これほど静かな視線になってしまうことが、きくのの寂しさであり真実である。

 ことに「滝」という、もっとも激しい水の姿、圧倒的なパワーの前に、五感が研ぎすまされたのちであることが、一種の透明感を与えているように思われる。

 先ほどまで轟音を立てていた滝が、今はもう川のせせらぎに変わり、一歩一歩が確実に滝から離れていく。 それはまるで「滝みて返すだけの道」が、人生を折り返すときにさしかかる自分の胸中にも重なっているようだ。

 手を伸ばせば触れられるほどの距離にあった水しぶきも、豪快な水の匂いからも離れ、今はただ単調な山道を踏んでいる。同じ道をたどりながら、往路と異なるのは、唯一滝を見てきた自身の経験である。滝を見て帰る道は、滝を見に行く道とは、心情的に決定的に違うものであることを掲句は示唆する。

 降りかぶった飛沫の湿り気がまだ乾かぬ間に、手を借りた異性のことさえも、きくのにはもう遠い過去となっている。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 炎天といのちの間にもの置かず

 例年にも増して、今年の夏は暑かった。筆者の住む東京都練馬区では、37度を記録したという。そこで、今回は、夏の一句ということもあり、「炎天」の句をあげてみた。

 掲句は、昭和22年作、句集『玄』(*1)所収。

 いつもの如く、まずは自註を見ていく。

 「死の如し」百句中の句。灼けた天蓋と僕のいのちは直通するものである。その間に何ものの存在も許さない。死への没入は独断である。(*2)

 掲句は連作「死の如し」九十七句中の一句。自註では「百句中の句」としているが、句集では「九十七句」とあり不審に思っていた。雑誌掲載時と句集収録時とで句数が違うことはよくあることだが、確証がなかった。今回、俳句文学館の井越芳子氏の協力を得て、初出の「壺」昭和22年12月号の該当箇所を入手。掲載時の百句と句集のそれとの異同を確認することができた。やはり、句集収録時に三句落としたようだ。(*3)

 誌面を借りてあらためて、井越氏にお礼申し上げる。

 さて、掲句であるが、下五に〈もの置かず〉と据えたことで、焼付く夏の太陽の熱気が空一面に充満し、息苦しささえ感じる〈炎天〉がリアルに立ち上がってくる。まるで〈炎天〉と〈いのち〉とが直結しているような印象を〈もの置かず〉と据えたことで与えているように思う。そうした〈炎天〉のありようがみえてきて普遍性を獲得している。中七の〈間〉は「かん」と読む。〈炎天といのちの間にもの置か〉ないこと、それがすなわち「生」(リアル)であると述べているのだ。あるいは〈炎天〉にさらされる〈いのち〉が「生」であり、〈もの置〉く状態が「死」ということかもしれない。どちらにせよ、間接話法によって、観念である「死」の実感を描いて見せようとした点にこの句の面白さがあるように思う。

 さらにいうならば、この句は玄の作句心情を詠んだものともいえる。いうまでもなく「炎天」は季語であり、観念である。俳句とはこの観念を通じて詠み、読み合うものである。「季語と向き合う」という言い方を俳句の世界ではよく使う。一方で「ものをよく見る」「見えたものを的確に写し取る」という言い方もよくされる。だが、実は「季語」と向き合うということは歳時記に記載された観念の集積である先行句と目の前にある対象との差異を発見することに他ならない。いわば観念と自分との間に先行句というものを置いてなぞることで一応俳句らしいものはできあがる。だが、それは観念をなぞっただけのもので、自分の俳句ではなくなるのだ。季語という観念といのちという実態との間に〈もの置かず〉という「真空の場」を設けること。そうした、当時の玄の作句信条が掲句に読み込まれていると解釈することもできる。

 こうした玄の俳句に対する姿勢は、当時、永田耕衣らが提唱した「根源俳句」の影響を少なからず受けているように思われる。あまり知られていないことではあるが、永田耕衣は昭和22年8・9月合併号から「壺」の同人として参加している。

 西東三鬼の推薦で山口誓子の「天狼」同人となるのが昭和23年5月号からなので、「壺」在籍期間は一年にも満たない。しかし、その後もしばらくは交誼が続いたらしく、「壺」昭和23年7月号には「生命往来」と題して、玄と耕衣の往復書簡が掲載されている。当初連載の予定であったらしい。ただその日付が「五月二十九日」で、「鶴」「風」同人を辞める前後のことで、この号以降、耕衣との往復書簡が掲載されることはなかった。その書簡のなかで耕衣は「ご存じのように僕は『根源俳句』を提唱し主に波止影夫氏と肝胆相照らして多少の実践をして来ましたが、そして根源俳句は象徴俳句とはいさゝかその意を異にしてゐますが、この根源俳句といふものに早くも行詰りを感じそめました」と心情を吐露している。その理由として「現象の根源を把握しなければ真に生命に直面し生命を痛感することは不可能であると信じて」いるが、「捉へるといふこと、捉へたといふことにおいて囚はれ易いと思ふ」と述べている。その打開策として「根源に住し切った場所で自由に優遊するところがなければならぬ」としている。

 それに対し玄は、耕衣の言う「根源精神に住し優遊すべき方法」とは具体的に何かを問うている。「物象を根源より求めず、常識的に実想観入」するという「表面より徐々に凝視を連続してゆく方法」との違いを「如実に知りたい」とも。「私は根源俳句といふものは結末ではなく一つの方法論として考えたい」と立場を明確にしている。耕衣は書簡のなかで、「僕の根源俳句は『生命の痛感』といふこと」で、これを「生命主義」あるいは「人生主義」と言ってもよいという。さらには自作の「見る者がつぎつぎ違ふ揚羽蝶」をあげて、「何かしら身を切られるような生命の切ない痛感があると見て戴けないでせうか」と訊ねている。玄は「生命の切なさといふものはうたはなければ流れ出さないもの」という認識を示し、「生命の切なさは根源探究に限って恵与さるべきものではない」と根源俳句の限界を喝破している。「大兄は大兄、私は私、生命の切なさは切つても切れぬものですから、これを俳句と同義なりと思ひ、これに生涯を托するより途は無いやうです」と結んでいる。ここからも分かるとおり、玄は「根源俳句」の影響を受けつつも独自の生命観で俳句と向き合おうとしていたのである。

 明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり   昭和41年作

 その後、玄は昭和28年に「壺」を休刊。妻節子が昭和40年に癌を発病し、その葬送までの顛末を克明に描いた連作「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」193句をまとめるまで、俳壇的には長い休筆期間に入る。その連作中の一句。破調であることで、〈明日死ぬ妻〉の嘆きと〈炎天〉のすさまじさ、「生命の切なさ」が切実に伝わってくる。

 炎天を墓の波郷は立ちてをり   昭和45年作

 前書「深大寺展墓」師石田波郷を前年の昭和44年11月に見送って、最初の夏の句。「炎天や」とせずに〈炎天を〉としたところに俳句形式へのあらがいと情感に流れまいとする矜持を感じる。「炎暑の中を波郷の墓に詣でた。立っている時間よりも臥していた時間が多かった波郷は、墓に化して永久にたち続ける」という自註(*2)の文章にも「生命の切なさ」がにじみ出ている。

 炎天や病臥の下をただ大地   昭和53年作

 炎天下歯ぢからといふ力失せ   昭和53年作

 雀らの地べたを消して大暑あり   昭和53年作

 『雁道』所収の晩年の三句。一、二句目は「死」を観念として捉えていた頃に比べるとわかりやすい。だが、〈もの置かず〉の矜持は崩れていない。

 三句目の〈地べたを消して〉が雀さえも遊ばなくなった〈大暑〉のすさまじさを伝える。

 玄にとっての夏は〈炎天〉に象徴される観念(死)と〈いのち〉が切なくも向き合う季節だったのかもしれない。


*1 第3句集『玄』 昭和46年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊

*3  「死の如し(百句)」 「壺」昭和22年12月号(第8巻12号)所収

 ちなみに、句集未収録句は「このいのち風鈴の音の散れる如」「破蓮へ音なく歩むことを得し」「破蓮女の声をとほすなり」の三句。百句の世界観に合わなかったと思われるが、三句とも「音」をモチーフにしているところが興味深い。


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 漬け西瓜くるりくるりと濡れ難し

 『火づくり』所収の句。1949年から1952年の作品から成る「水の章」から。

 井戸や水を張った盥に西瓜を漬け、冷やす。電気冷蔵庫が普及する前の、夏の風物詩である。未熟な西瓜は沈み、熟した西瓜は浮く。食べ頃は水面から少し顔を覗かせるくらいのとき。ぽっかりと浮き上がる西瓜はもはや水分が抜け、鬆(す)が入っている。葦男の前にあっていくら押しても沈まない西瓜は、残念ながら食べ頃を逸していたらしい。

 葦男を講師とする月例句会に参加して間もなく、筆者は先輩から句集『朝空』を貰った。1987年のことである。『朝空』は1984年刊。『火づくり』、『機械』、『残山剰水』、『山姿水情』の既刊4句集からの抜粋に、『火づくり』以前と『山姿水情』以降の作品を加えた300句から成る、葦男生前最後の選集である。「漬け西瓜」の句に出逢ったのはこの『朝空』を読んだときであった。

 この連載の第1回でも触れたように、「前衛俳句の論客」という肩書きから漠然と圭角ある人物を想像していた筆者の先入見は、葦男その人との初対面の段階で払拭されていたが、胸中には尚お一抹の疑団が残っていた。「とはいってもやはり前衛俳人。きっと書くものは詰屈聱牙(きっくつごうが)に違いない」と。

 そんな筆者の前にぽっかりと浮かび上って来たのが、冒頭の句だったのである。

 庶民的な素材と飄逸なタッチ。「くるりくるりと濡れ難し」には西瓜と悪戦苦闘する人の姿まで見える。的確にしてユーモラスな表現である。そして一句に横溢する真夏の季節感。無季俳句をもって盛名を得た俳人が、かつてこのような句をものしていたことに、筆者は驚きかつ安堵した。

 『火づくり』には外にも西瓜の句がある。

 満身を没し西瓜の楽々と

 「水の章」に続く「地の章」(1952年~1956年)にある句。こちらは完全に水中に沈んでいる西瓜である。「楽々と」という措辞には、まるで作者自身が風呂に漬かっているかのような体感がある。漬け西瓜と合一した至楽の境地である。

 ところで、西瓜といえば、前衛歌人の塚本邦雄はこのウリ科の一年生果菜が大の苦手であった。随筆『ほろにが菜時記』にいう。

 西瓜が大嫌いで、見てもぞっとし、臭いをかぐと嘔吐を催す私は、夏三月、秋三月、何よりも無花果を賞味する

 塚本邦雄は葦男と交流があった。1963年5月の『十七音詩』25号<火づくり特集号>に「俳風プロメテウス」と題する熱烈な一文を寄せているくらいである。葦男は、前衛短歌の壮麗なる大伽藍を建立したこの歌人が西瓜を嫌うことかくも甚だしいことを、果たして知っていたのであろうか否か。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 炎天に水あり映らねばならぬ    神生彩史

 昭和24年(1949)「青玄」創刊号掲載。掲出句を含めた作品によって第一回「青玄賞」を受賞、昭和26年(1951)2月号に掲載の受賞作50句にも収録。ちなみに歴代の「青玄賞」受賞作を収録した『青玄賞青玄新人賞作品集』(平成10年9月、青玄俳句会)には未収録である(全作品を30句に統一したせいと思われる)。

 厳しく照りつける夏の日差しの下にようやく現われた「水」。それが洗面器いっぱいに張られて、静かにたたずんでいるものなのか、野山のとある一角に突如現れ、今もなおこんこんと湧き出でる泉なのか、それとも流れのとどまることを知らない川なのか、もしくは眩しく目の前に果てのないかのように水平線いっぱいに広がる海なのか、そのあたりはともかく目の前にはまぎれもなく「水」があり、水面にはまぎれもない己の顔が映し出されている。炎天から降りそそぐ夏の輝きが全身に痛いぐらいに感じられるこのときに出会う「水」は冷たさとともに、自らの心を和ましてくれる存在であるはずでなくてはならないのであるが、掲出の一句において「水」に出会ったこの人物は水面を覗き込んで己の顔に向かい合った瞬間、本来あるはずの何かが映っていないとの疑問に強く襲われ、水面の己の顔をさらに見詰めなおしたのだろう。そしていきなりの疑問を懸命に突き詰めた果てに、本来あるべき何ものかが今ここに存在していないとの確信をはっきりと得てしまったのである。そうでなくては水面に向かって「映らねばならぬ」との痛ましいまでの願いを自ら口に出してしまうまでには、決して至らなかったはずだから。

 ではこの瞬間、この人物にとっては何がいったい「映らねばならぬ」のだろうかと考えてみると、「水」に映る己の顔を真っ向から見つめ続けてしまっている自分自身の姿であろうことは容易に想像がつく。もちろん水面を覗きこんだときに自分の顔や身体が映っていないはずはないのであるが、水面という鏡を通じて露わにされた自分の表情や現状などすべてを含んだありように対して、どうしても納得できない己が心のざわめきは「違う、真に映るべきはこのようなものではない」との呟きを幾度も水面から視線を放せなくなってしまっている自分自身にもたらし、「わたしは今、いったい何ごとかを為しているのか」との問いを水面に映りこんでいる己の顔に、すなわち本来あるべき姿ではない(と思われてならない)自分自身に向かって突きつけてしまうのである。だが水面に映る己の顔からは決してこの問いに対する答えは返ってくることはない、もちろん問いを発した自分自身こそが、そのことをいちばんよく分かっているはずである、自分自身への凝視がもたらした存在への問いを、さらなる凝視を通じて突きつめようとすることこそ、水面に映る己の顔、すなわち今の自分自身のありようへの何よりの答えであるはずだからだ、たとえその答えが余りにも過酷なものとして自分に突きつけられようとも。

 戦前、新興俳句の最前線にあった日野草城の「旗艦」において彩史は「自画像」との前書のもと「あんなに碧い空でねそべつている雲」と詠んだ。それからの転変についてはここでは触れないが、自ら雲となって「ねそべつて」いたひとりの男性が、己の存在のありようを凝視するまなざしをもって見ようとしていたのは、碧い空に白い雲を味わうだけでは済まなくなってしまった自分自身のありようであったことは想像に難くない。「青玄」創刊号に寄せた作品には、その変化からもたらされた作品に対する自負もうかがえるところだが、作品への評価はひとまず置いて、ここは創刊号掲載されたの掲出句以外の作品を引用するにとどめたい。(漢字は一部新字体に改めた)

 荒縄で縛るや氷解けはじむ

 昆虫の仮死へ一気に針を刺す

 深淵を蔓がわたらんとしつつあり

 痰壷をあはれ覗けり油虫


●―9上田五千石の句/しなだしん

 山開きたる雲中にこころざす     五千石

 第二句集『森林』所収。昭和四十九年作。

 『森林』(*1)は、昭和四十四年より昭和五十三年まで、三十六歳から四十五歳までの作品254句を収録する第二句集。

     *

 前回、五千石は俳人協会新人賞受賞後スランプに陥り、その後ひとりで山歩きをはじめたことは書いた。掲句はちょうどその頃の作品で、山開きの句である。

 ちなみに前述のスランプの影響はこの第二句集『森林』の前半に顕著で、たとえば昭和四十五年に残された句はわずかに8句で、この年には夏の句は一句も無い。

 さて、五千石は著書 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「自作を語る」の中で、掲句について次のように記している。

 山麓に永らく住んでいながら富士山の「山開き」に参じたことがないのはいけない、と発心して、この年から毎年七月一日浅間大社でのその神事に拝し、身の祓いを受けて一番バスで登山することに決めたのです。

 しばらくは単独、あるいは家妻同行でしたが、俳句の仲間、山の友達などが加わるようになり、いまでは私の主宰誌「畦」の三大行事となり、登山バス三台が用意されるようにまでなりました。

 スランプ克服の山歩きは富士登頂に、単独行から仲間と連れ立ってのイベントに、曳いては結社の行事にまでなったという、五千石の初志貫徹の心を表すようなエピソードである。

 なお、文章中の「いまでは」とは、この本の初版の刊行年から1990年(平成2年)のことになる。つまり、昭和四十九年からこの平成二年時点までに、16年富士登山が行われたことになる。

     *

 掲句の翌年、五千石は主宰誌「畦」を創刊する。仲間が増えることは嬉しいことだが、結社誌ともなれば、それに伴った責任も問われることになる。

 この句の「雲中」は手探りの五千石の胸中、「こころざす」は、それでも一歩一歩進もうとする意志と読むことができる。

 

*1 『森林』 昭和五十三年十月十日 牧羊社刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 匕首(ひしゅ)めく手帖胸に潜ませ男のポケット夏

 秘密を秘めた手帖を匕首(あいくち)に見立てたものだ。感心するほどの譬喩でもない。感心してしまうのは、「○○○○○○○○○○夏」と末尾に季語1コを入れることで、俳句として成り立たせてしまうことだ。こんな安直さは他の文学にはあり得ないだろう。有季定型の詩だといいながら、魂に相当する季語をこんな安直に選択し(「夏」である!)、こんな安直な場所に入れるのである。

 また<7+7+8+「夏」>と定型ではないのだが、俳人はこれを定型と読み解く。決して自由律とは言わない。「匕首めく手帖」を上5の3字の字余り、「男のポケット夏」を下5の5文字の字余りと見えてしまうのである。これも不思議な伝統だ。もちろん憲吉が日野草城系の新興俳句派の俳人であるという特殊事情があるように見えるが、俳人の頭はこれをぎりぎり定型と見る枠組みを持っている。

 こんな俳句だから、ちょっと面白いが、現代の俳人は憲吉に目を向けようとしない。俳句の教科書に載る俳句ではないのである。現代の名句とは安心して教科書に載せられる句であるからこうした生徒を混乱させる句はだめなのである。

     *

 にもかかわらず戦後の俳句としては掲げておきたい句である。楠本憲吉の特有の文体が匂い立つからである。いや戦後俳句を読むとき多かれ少なかれにじみ出る特徴が、楠本憲吉のこの失敗作により、その特徴を露骨なほど露出してしまうからである。私は、戦後俳句、それも昭和30年代から40年代にかけての作品をその前後と比較してこんな感想を述べたくなる。


①この時代の戦後俳句は、どんな伝統俳句や保守的俳句であろうと、自分たちの内部を語りたいという切望をもっていた。

②そして彼らは、自分たちの内部を告げるための独特の表現の形式や言い回しを工夫せずにはおかなかった。

③しかし、こうした独特の表現の形式や言い回しが、しばしば、彼らの作品に自己模倣を生み出させる原因ともなっていた。


 この例が典型的に現れるのは楠本憲吉であるが、実は、伝統俳句の代表とされる飯田龍太も、能村登四郎も、草間時彦も、内面を表現する独特の形式を持ちつつ、自家中毒のようにそれが自らを侵しているという現象を見て取ることが出来るように思うのである。不思議なことに、彼らの前の世代の人間探究派にはあまり見られなかった事象である。私が懇切丁寧に研究した作家の数はそう多くはないが、少なくともそれを行った飯田龍太と能村登四郎については間違いなくそれが言えたのである。

 問題はそれを是と見るか、非と見るかである。自己模倣など作家としては最低だという人がいるかも知れないが、独自の表現を持てたことをもって、私は無上の羨望を彼らに感じる。今の時代より、彼らの時代が不幸であったとはどうしても思えないのである。それは、楠本憲吉のこの珍妙な句についても言うことが出来たのである。こんな俳句は現代の若い作家は誰一人書こうとしない。実は、書けないのである。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 天地や揚羽に乗つていま荒男

 「一寸法師」の話。鬼から姫をお守りした一寸法師は小槌の魔法で立派な青年になり姫と夫婦になれた。しかし、倉橋由美子の『大人のための残酷童話』―「一寸法師の恋」では残酷な続きがある。姫は夫である一寸法師の肝腎なところが一寸法師であることに満足できず、姫は一寸法師と罵り、小槌で叩きあう夫婦喧嘩に。互いに小槌を振り回し、二人は、またたくまに塵ほどの大きさになったという結末である。掲句は、残酷童話の後の一寸法師を詠っているように思えた。姫の支配下から解放され、悠々と空を羽ばたいている一寸法師を想像する。

 揚羽は揚羽蝶のことで季節は夏だが、この句は夏を意識していない。蝶の飛ぶ姿が浮遊する魂を天界に運ぶとされた意味、自然界の魔性を感じる不思議な羽の文様の方に注目すべきだろう。

 一寸法師は、『御伽草子』の中の登場人物であるが、上掲句が収録される『眞神』には、先の第八回テーマ「肉体」―文中引用句「肉附の匂ひ知らるな春の母」で触れた、一寸法師サイズ、生を受ける前の視点で詠まれている句がある。

 霧しづく體内暗く赤くして

 産みどめの母より赤く流れ出む

 身の丈や増す水赤く降りしきる

 そして、母への思慕、エロスへとつながる。

 夏百夜はだけて白き母の恩

 夏百夜の句は、母者物といわれる母親に女性の性を詠んだ句で、人気のある句である。こちらの方が敏雄の夏の句として代表的かもしれない。色紙にも好んで揮毫したようだ。

 句集『眞神』の中の句はどれも一句として独立しながら、無季句をより際立たせるかのように配置の工夫がされている。そして赤子、父、母、たましい、山、川、石、赤・・・「眞神曼荼羅」を巡る題材が詠みこまれている。連句の手法である。

「明治時代に連句が滅びた理由なんていうのは、もう完全なマンネリズムの集積だよね。いろんな約束が多いから、それに則ってやってったら、いくら変化を重んじるっていったって、変化しないわけだ。あたらしい俳句のひとつの方法として、歌仙なんて形ではない、新しい形の「連句」っていうのを考えてみてもいいね。それは、新興俳句のときの連作と、どこかでつながってくるんですね、ですから連作と連句の両方を合わせた新しいスタイルができれば面白いと思うんですよ。僕の『眞神』っていうのは、連句の付け方のいいところをとってやっているわけですよ。これは読んでいれば仕掛けがあるなって分かる。言われちゃうとまずいんだけれど(笑)。同じことをずーっと並べるんじゃなくて、一句一句違った世界が響き合うように並べていくと。」(『恒信風第二号』三橋敏雄インタビュー(*1)

 上掲句に戻る。「天地(あめつち)」は、「自由の天地を求めて旅立つ」「新天地」の天地、あるいは宇宙。そして「荒男(あらお)」は万葉の言葉であり、「荒々しい男。勇猛な男。あらしお。」(デジタル大辞林)という意味。明治~昭和の登山家・随筆家である小島烏水の『梓川の上流』に「北は焼岳の峠、つづいては深山生活の荒男の、胸のほむらか、」という雅なしらべがある。そして白泉にも、荒男の句がある。

 この子また荒男に育て風五月 渡邊白泉

 そして、蝶に乗ると言えば、この句。

 ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう 折笠美秋

 蝶に乗るのは女とは限らない。たったいま魔性の揚羽に乗った男、「いま荒男」は、一寸法師改め、宇宙に存在する生まれてこなかった赤子のたましい、死児の視点を描いたように思える。『御伽草子』の一寸法師も元々は水子、あるいは死児の話かもしれない。


*1)『恒信風第二号』三橋敏雄インタビュー/聞き手:村井康司、寺澤一雄、川上弘美


●―13成田千空の句/深谷義紀

 水着緊むる雪国の肌まぎれなし

 この企画の冒頭に採り上げた「成田千空の感銘句」では、3句のうち夏の句が2句を占めた。

 空蝉の脚のつめたきこのさみしさ

 妻が病む夏俎板に微塵の疵

 個人的には、どうも千空作品の中で夏の句に惹かれるものが多いようだ。短い夏に強い存在感を示す北国の事物や生き物たち。おそらくは読む側の勝手な思い込みだろうが、作者がそうした対象へより強い愛惜を注いでおり、それが印象深い句に結実したように感じてしまう。

 さて、掲句。第1句集「地霊」所収の作品である。

 津軽に生まれ、その地に生きてきた千空の強烈な自意識を感じざるを得ない。雪国青森に生きる自己という存在の再確認と言ってもよいかもしれない。眼目は、その再確認を自分の肌という肉体を通じて意識にのぼらせ表現したことであろう。ほかでもない自分自身の肉体からそうした意識が生れた、あるいは再認識をしたわけである。そのことが作品に強いリアリティをもたらし、印象深い句となったのだと思う。

 この句の主体を自分以外の第三者とし、作者がそれを見て客観的に作品を成したという解し方もあるかもしれないが、ここではあくまで主体は作者、千空自身だと考えたい。そうでなければ、前述したような強固な自意識が生まれないからである。

 「風土」概念が持つ様々な意味については、この企画でも活発な議論が別途行われている。

 千空の作品についても「風土色の濃い作品」であることは間違いないが、千空自身が所謂「風土(性)俳句」と一線を画していたことは以前に述べたとおりである。千空自身にとって大切だったのは、一人の人間として今をいかに生きるか、ということだった。その創作過程のなかで生活根拠たる居住地(千空の場合は津軽)の環境が色濃く投影され、その土地の事物を句作の対象として採り上げるのは自然な帰結であろう。もちろん創作態度として抽象性を志向すれば、そうした影響はおのずと減じてくるのだろうが、千空はそうした方向性を採らなかった。あくまで具体的な事物を対象として採り上げ、平明な表現で作品を生み出していったのである。

 千空自身の創作スタンスはかなり柔軟であり、晩年も新しい素材や表現に関心を持ちながら作品を生み出していった(注)が、「いかに生きるか」という命題を自己に問う態度は最後まで一貫していたのである。

(注) 第6句集「十方吟」あとがきより「月に八回の俳句教室を担当して、私自身の作風に幾らかの変化を自覚した時期の作品といっていいように思う。(中略)自由な発想と確かな表現を受講者たちに望んだが、それは自身の課題でもあった。」


●―14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】19.20.21.22./吉村毬子

2013年9月13日金曜日

19 藪の中北窓が開き相逢ふ椅子

 歳時記(角川書店編・第3版)に「北窓塞ぐ」という季語がある。

 北からの寒風を防ぐために、戸を下ろし板を打ち付けたりして北向きの窓を塞ぐ

 それに対してであろう。「北窓開く」という季語の解説。

 冬の間閉ざしていた北窓を開くこと。薄暗く陰気だった部屋がにわかに明るくなり、身も心も開放されたように感じる。春の喜びの一つである。

 苑子は、季語を意識して作句する俳人ではなかったが、春の季語を用いた句は、他の季節に比べて圧倒的に多い。思えば、春(3月)に生まれて、春(1月)にその生を閉じている。

 中七下五の「北窓が開き相逢ふ椅子」とは、北窓が開かなければ、その季節にならなければ、その椅子に座る二人は相逢うことができないということだろう。

  藪の中にひっそりと暮らす女人の家へ、春になり来訪する男。彼は、旅人でもあるのか・・・。永い永い冬を越えて、ようやく再び逢えることのできた喜び。

 しかしながら、藪の中に棲んでいるとは、どんな女人であろうか。

 豊口陽子氏の句集に『藪姫』という句集がある。その中の「藪姫抄」の句を拾ってみる。

 どの屋も棲処ではない渡河の藪姫        豊口陽子 

 藪姫に小さき巣かかる水の上           

 藪姫として衣函に棲む黒きもの           

 藪姫に藪の階調薄日を吹く            

 かの藪姫見知らぬ鳥の積む磧          

 これらの、ある緊迫感を伴う叙情性を感知する句々に比べて、苑子の掲句は明るく開放されているのだが、「藪」という尋常では無い棲処を選択せざるを得なかった女人の生き様とは、如何なるものであったろうか。

心ならずも己が藪に迷いつつ、更なる不可知の彼岸へ旅立った、あまたの女たちに捧ぐ

 これは、「藪姫抄」の前書きである。「藪」・・・その情念の奥底からの移行へ、「更なる不可知の彼岸」へ、苑子の句の「藪」に棲む女も辿り着くのではないかと、私には思えてならない。

 そんな女人に北窓が開く、その束の間の時間は、春の喜びを感受しながらも、春独特の憂いや倦怠を持つ希薄な重圧をも重ねながら、ある物語性を呼び込み、展開を誘う。

 それは、

「藪の中に一軒の家があります。春が来て、その家の北窓が開きました。すると、藪の中に二つの椅子が並べられました。」

という物語仕立ての表記によるものである。

 「鬱葱とした藪の隙間から緩い春の日差しが降りかかります。先ほどの古い二つの椅子には誰も座っていません。でも、ふと耳を澄ますと、草木の葉擦れの音の間に静かに笑い合う声が聴こえてきます。」

 そんな続きを生前の苑子に話していたら、きっと目を輝かせて喜んでくれたはずである。


20 死花咲くや蹴りて愛せし切株に

 立派に死んで死後に誉れを残したり、死の間際に晴れがましいことがあることを「死に花が咲く」という。掲句を初見では、「帰り花、戻り花」のように、樹木としての生命を絶たれた切株に、咲くはずのない花が咲いたと解釈していたが、広辞苑の「死に花が咲く」と取れば句意は変わってくる。

 この切株は他の切株とは全く違う。『星の王子様』(サン・テグジュペリ)の、例のあの薔薇のように愛しい愛しい切株である。その切株に座っては、読書をしたり、物思いに耽ったり、笑ったり泣いたりした。遊びふざけては蹴り、八つ当たりしては蹴り、時には、切株と成り果てた姿に嘆き悲しみ蹴ることもあったであろう。

 その堅い切株は、いつも優しく強く受け留めてくれる。かつては、青々とした葉をそよがせ、美しい花を咲かせ、鳥や虫たちを遊ばせ、蜜を実を与えた。その木と共に、四季を過ごし歳月を重ねたのである。その大切な切株に誉れを残したことを告げているのかも知れない。

 「死」「蹴」「切」の強い語彙に、「花咲くや」「愛せし」が混じり合いながら、愛の一句に仕立て上げられている。

 高屋窓秋は、句集の序文で次のように述べている。

(前略)通読していて心のやすまるひまもないような気がして、すこしぐらい息抜きになる作品が含まれていてもよいではないかと、正直いって、ぼくはそう思った。

が、1頁に前句と並べられたこの愛の2句は、『水妖詞館』の中では、「息抜きになる作品」とは呼べないが、これまで緊張しながら書き続けてきた私に、口元を緩ませながら書くことができた句である。これもまた第1章の「遠景」の景色のひとつなのであろう。


21 落丁の彼方よ石の下の唄よ

 どのくらいの割合で落丁になってしまうのかは見当もつかないが、詩歌の書き手にとって、「落丁」は、魅惑的な一語ではないだろうか。想像もせずに突然に、しかも静かに失う空虚感は、その虚空へ詩人を招き入れるようである。

 苑子が高柳重信と自宅を発行所にして『俳句評論』を立ち上げたのは昭和33年(45歳)、『水妖詞館』を出版したのは昭和50年(62歳)である。17年間、俳句誌を出版してきた途上での「落丁」という語は、公私共に身に擦り込まれたものであろう。

 抜け落ちた頁は、彼方へと消えた。そして、それは、石の下の唄と同じようにもう届かない処へ行ってしまったのだと、寂寞たる思いを「よ」のリフレインに寄り叫び詠う。

 しかし、「落丁」の頁も、「石の下の唄」も永遠に失くなってしまった訳ではない。落丁の頁は彼方の何処かに存在するからこそ「落丁の彼方」を詠っているのである。そして、その「彼方」のような「石の下の唄」も石の下で確実に息衝いているのである。

 彼方に行ってしまったものにまた逢うことができるのは、何時であろうか。彼の世かも知れない。此の世で失ったものと彼の世で再び逢うことは、此の世で書き尽くせなかった詩を彼の世で書くことのようである。苑子は、この青空の奥の天上で、下界では重すぎた「石の下の唄」を聴きながら、口ずさみながら、「落丁」という時間をゆっくりと拾っては懐かしみ、書くことに堪能していることだろう。そして、時々は、「石の下の唄」を下界へ詠い零しているのかも知れない。

 空を仰げば、私にも「石の下の唄」の片鱗が触れるかも知れない。そして、私にも未だ此の世で詠い戻す詩があるのかと思う。苑子の棲む彼の世は遠い。

  遠しとは常世か黄泉か冬霞     苑子『吟遊』


22 死して睡らず今は母郷に樹と立つ骨

 死は永遠の睡りと喩えられるが、掲句は、死後の安らかなる睡りに至らずに、血肉は消失したが、骨となったその身は、母郷に樹となりて立っているという。「樹と立つ骨」の「と」は、「樹と共に立つ」とも考えられるのだが、樹と骨の形状が相似していることだけではなく、樹と骨が一体化したように感じられてならない。

 母郷に立つその樹は、瑞々しい時代はとうに経てささくれ立つ枯木となって、洞をも湛えているかも知れない。そして、そこは母郷なのだから、幼少の頃より慣れ親しんだ樹なのであろう。母なる大地、母なる海などという大仰な原風景ではなく、人は皆、自身の母郷を持ち、同郷の者同士でも琴線に震撼する時間や動植物や山川、空の景色はそれぞれ異なるだろう。

 この骨は、誰の骨であるのか。高柳重信と後半生を共にする前に戦死した新聞記者の夫は佐渡島の出身である。私は佐渡島へ旅した折り、佐渡島へ戻り着いたその夫の霊魂と、佐渡の歴史が生んだ文化を好んだ苑子の此の句を思い出していた。

 此の句に相当する死は、多々あるのだろうが、苑子が死後の自身を語っているのだとしたら、彼女が生まれ育った富士の裾野の伊豆の樹には、深い思い入れがあるのだろう。そういえば、、少女時代の苑子は木登りが好きであった。

 苑子は、死を扱った句が多く、この『水妖詞館』は最もその臭いを放つが、死後の彼の世を描くというよりも、自身が死んだ後の此の世を詠んだ句も多い。

   死後の春先づ長箸がゆき交ひて     苑子『水妖詞館』 

   帰らざればわが空席に散る桜     『吟遊』 

 「帰らざれば・・・」は、花の季節になると感慨深い句である。句会場、成城風月堂3Fの硝子越しの空席に、花を背に透けた苑子が座っているような気がするものである。

 しかし、「死して睡らず今は母郷に樹と立つ骨」は、この2句のように、虚空より残された者達を柔らかい眼差しで見詰めている光景とは、明らかに違う。漂う魂魄ともならずに、骨として母郷の樹と土と化しているのである。睡ることなく眼を見開き、愛する母郷を見守り続けようと、母郷のかたちのひとつになろうという思いと共に、やっと母郷に落ち着いたという安堵感をも持つ。思えば、70年近くも故郷を離れて暮らした苑子である。初学時代の私の拙句

   富士を背に春の校庭暮れなずむ     毬子

を大層喜び、暫く故郷の富士山の話をしてから、また遥かを見ていた。今は、朝な夕なに冨士を見上げているのだろう。

 「遠景」と名付けた章の締めに置いた此の句は、望郷の果ての自らを晒しながら愛惜する苑子の絶唱である。