2025年6月27日金曜日

【新連載】新現代評論研究:各論(第7回):眞矢ひろみ、後藤よしみ、筑紫磐井、佐藤りえ、横井理恵

 ★―2橋閒石の句 6/眞矢ひろみ

 陰干しにせよ魂もぜんまいも  「虚」昭60年

  「和栲」以降には、揚句のように「も」を使った反復のほか、多様なレベルの反復(リフレイン)、畳語、オノマトペを用いる句も目に付くようになる。「荒栲」以前にあった破調は逆に減少し、音とリズムが織り成す不思議な世界に分け入る。

 雁帰る幕を揚げてもおろしても      「和栲」昭58年

 てのひらのひらひら濡れて雁わたる    

 すずなすずしろ子等よとくとく起き出でよ 「虚」

 反復は、古今東西の詩に用いられる基本的な技巧であり、閒石の専門である俳諧や西洋詩、更に近現代俳句においても重用される。句の音感やリズム等を司り、意味内容とは違う次元から、また相互に作用しながら句を演出する。

 律とは音節の量と強弱をめぐる規則性である。俳句や短歌の場合、もちろん音数律が基本だが、反復の連続性をもって形成するのが韻だとしても、あまりに短すぎて次の三句のような反復を韻と認めない見方もある(*1)。一方、俳句のもつ「口誦性」という特徴を念頭に、同様の効果を認めて「頭韻」と名付けているものもある。この場合、「陰干し」の句のように、閒石句に見かける「も」や「か」を体言等の語尾に付ける並列・反復形は、「脚韻」と呼べるだろう。分類・名称に拘っても、反復の機能に関する理解や認知が深まるとは思えないが、多くの俳句に見られる技巧であり、句全体を覆うリズムの生成や強調等に効果がある証左だろう。

 

 雨の日は雨こそよけれ柏餅  「虚」

   「雨」・母音(a)の反復

 春浅き渡り廊下をわたりけり

   「は」「わ」・母音(a)の反復

 梟の目の節穴の冬がすみ  「橋閒石俳句選集」昭62

    「ふ」・母音(u)の反復


 次の句は、音の技巧をさらに駆使する。

 お手あげの手をおろしたるところてん 「虚」

 揚句においては、「お」と「て」の反復や「頭韻」など、音の技巧を凝らすほか、「お手上げ」の意味をずらしたり、「あげるーおろす」の言葉回しなど、言葉の持つ音・リズムと意味の両面から遊びの粋を極めるような句作りである。ローマ字にすると、音の特徴も浮かび上がる。


 oteage no te wo orositaru tokoroten  

母音を抜き出すと  o-e-a-e o e o o-o-i-a-u o-o-o-e-(n)


 お(o)音の反復―母音韻を中心に組み立て、あ(a)音は句の前半後半に各々一つ、え(e)音を音節の後部に置く。一般的に、お(o)音の音感は「おごそか、荘重、おおらかで線が太い」というもので(*2)、音象徴性として「大きい」「奥深い」イメージを喚起することが指摘されている(*3)。

 閒石最晩年の句には「悠然」「飄々」「大人の風格」といった評がよくなされるが、その源泉には音感、韻律も一役買っており、これもまた閒石の中で、俳諧と英文学の素養が混然となった基盤に立つ成果と言えるかもしれない。


 以下は余談である。

 視覚では伝わらないものの、音読すると反復は魔術・呪術的な気配を呈することは往々にしてある。また日本語の場合、促音等の例外を除き、音節にはすべて母音を伴うため、音の面から母音の果たす機能は大きい。昨今の句においても、音の特徴に気付くことが多々ある。例えば次の句。

   あたたかなたぶららさなり雨のふる 小津夜景 「フラワーズ・カンフー」平28年

   atatakana taburarasa nari ame no furu

        母音を抜き出すと a-a-a-a-a a-u-a-a-a a-i a-e o u-u

 明るく、広がるイメージを喚起するあ(a)音を、母音韻また「頭韻」にも用い、う(u)音を最後に置き、ストンと落ち着かせて余韻を持たせる構造である。この構造は現代俳句にも例が多い。中七には「たぶららさ」という聞き慣れない、読みにくい体言をひらがなで記すなど、言葉の視覚や意味内容との絡みにも留意する。口中で言葉を転がせて、その音感を確かめたに違いない。閒石の「お手上げ」の句と構造はよく似ている。


*1 韻と認められるのは旋頭歌、長歌が限度となろう。

*2「俳句技法入門」 同編集委員会 飯塚書店 平4年

  秋元不死男、江湖山恒男の見解(出典不明)

*3 「音象徴の言語普遍性」篠原和子・川原繁人 『オノマトペ研究の射程―近づく音と意味―』ひつじ書房 平25年   

 音と意味との関係についてはS・ウルマン(「言語と意味」)、母音の音象徴性についてはR・ヤコブソン(「言語学と詩学」)等の研究を古典として、現在においても多くの実証分析がなされる。また、日本では、木通隆行が「音相学」を提唱し、イメージと音の構造の関係を「音相基」という階層で捉えようとしている。(「日本語の音相」 木通隆行 小学館スクエア 平16年)


★―3「高柳重信の風景」3/後藤よしみ

三 原風景の喪失と風景の仮構

1 原風景

 重信はその誕生の年に関東大震災に遭遇している。関東大震災の影響は重信にも及んでおり、そして震災については、「いきなり襲って来た関東大震災の混乱の中を、祖父の腕に抱かれて、まず大塚仲町から氷川下の方角に坂を下って行った」と人込みのなかの避難行がはじまる。さらに「それ以来、人混みに出ると大声をあげて泣くという性癖が数年続いたのが、その時の僕の顕著な反応である」と記す(「大塚仲町」『高柳重信全集Ⅱ』)。重信自身、当時のことを追想した文章を残している。 

〈いわゆる人間の言葉を、まだ一つも知らなかったころ、暗闇の中で理由のない恐怖におびえながら、ただ必死に泣き声をあげていた嬰児時代の、しんそこ切ない事実を忘れてしまってから、どれくらいの歳月が経ったというのであろうか〉。(「私にとって俳句とは」『全集Ⅲ』) 

 大震災後の東京を重信と同い年の池波正太郎は「情緒を失った町は〔廃墟〕にすぎない」とし、「東京の変貌は下町の人々の暮らしをすべて奪い取ってしまった」と述べている(『私が生まれた日』)。重信にとっても最初の重大な体験が一つの原風景の喪失となっている。 

 重信の記憶にある次の風景の思いでは以下のようなものである。自宅から南に坂を下りていくと護国寺があったが、その境内の一角には池があり、いつ頃からか食用蛙が住み着き、牛のような恐ろし気な声を上げていたという。子供心にも異様な魔物が闇のなかに潜んでいると記されている。

 そして、重信は幼年の頃より川に親しんでいる。 

〈草いきれの中の荒川に白い帆を張った舟が絶え間なく往来するのを眺めるのも、(略)都会育ちの僕には珍しい経験であった。更に、僕には大叔母にあたる霽月夫人が作ってくれる醤油味のカレーライスも珍しかったし、ときには「常見の栄ちゃん」が器用に櫓を操る舟遊びも、実に楽しかった〉。(「霽月句集あとがき」『高柳重信散文集成第七冊』) 

 また、荒川以外にも小石川の川でもよく遊んでいる。

  智慧もなく行く水もなき川の景 

 ざぶざぶと子供が歩く川の中     『山川蟬夫句集』 

   これらの句に永田耕衣は、次のような評を寄せている。 

〈高柳重信の幼年期ないし少年期に、間隙なく嬉々として食いこんだ小川風景かと思う。高柳重信なる少年が、純真無垢に佇っている愛すべき絶景的小品である。(略)ここには少年が生誕し成長しつつあった無心の原郷、その活潑々地が、むしろ酷烈にさえ親しめる境位がある〉。(「童心即高柳重信」『全集Ⅰ』) 

 耕衣が指摘するように川は重信の原風景の一部となっており、耕衣が現代古典風な完成感という多行形式にも水・川の句と共に河口・海の句がみられる。そして、俳句作品にも影響があらわれていると言えよう。 

 海へ       枯木らよ    暗かりし 

 夜へ    *  これは   * 母を 

 河がほろびる   河口の     泳ぎて 

 河口のピストル  楔形喪章    盲ひのまま 

 『蕗子』      『罪囚植民地』      『遠耳父母』 

 安井浩司は、これらの句から重信を「詩人としてその憧憬的位置が河口的である」句と指摘し、「そういう〈水〉と〈遊泳〉への憧憬といった潜在感覚が一貫している」と語っている(『海辺のアポリア』)。このようにして、川という存在が重信の内部に深く食い込んで流れていることが感じられる。 

 この川の存在は、誕生時の関東大震災の影響とともに重信の奥深いところにとどまりつづけ、後年の作品群へとつながっていったと言えるかもしれない。その一つの証としては、『山海集』の散文に「不思議な川」という重信の脳裏にしばしばあらわれた川の存在を指摘することができるだろう。 『山海集』は、一九七六年に発刊。八十四句とともに二十六ページにもおよぶ散文「不思議な川」を収める。 

〈しばしば僕の脳裏に出現した不思議な川は、あるいは小石川の名残りの流れであったかもしれないし、また、あるいは、如何なる具体的な川でもなく、まさに小石川という地名そのものの幻の流域であったかもしれないのである〉。 

 ここには、幼年・少年時代の川の体験が流れ込んできており、川の原風景と言うべきものであろう。 次の『日本海軍』においては、国名、山・川名など地霊を喚起する言葉があらわれるが、それを巡るものとしての川の流れがここに見られている。この川は夢のなかにもあらわれてきており、言葉に対する水平のアプローチにとどまらず、重信はこれを意識の深層にまで掘り下げてゆくという垂直のアプローチをとっているようだ。


2 喪失体験

 幼年期・少年期における死の体験は、自然への感受性や風景の感覚の形成に深く関わることがあるといわれる。喪失体験のある子どもは、感情的・行動的・身体的・スピリチュアル的な反応を示し、それが成長過程での自然と風景の関わり方に影響を与えることがある。例えば、幼少期に身近な大切な人やを失った経験がある子どもは、自然の中でその存在を感じたり、風景に特別な意味を見出したりする。

 重信の場合、死との最初の出会いは三歳の時であった。 

〈それは、軒を接して立つ隣家の二階の硝子窓を通して眺められた薄暗い部屋の光景で、そこには、中央に蒲団が敷かれていて、ひっそりと一人の女が臥ている。なお、よく眺めるとその女の顔には白い小さな布が掛けられ、また、蒲団の裾のあたりに脇差し風の刀が置かれているのが、何とも異様であった〉。(「不思議な川」『全集Ⅰ』) 

 亡くなったのは、重信の祖母の姉の一人娘で、女学校卒業を待たずに望まぬ結婚を強いられ、猫いらずを呑んだのであった。この話を重信は母から度々聞かされたという。 

 また小学校時代の遊び仲間も後年、幾人も亡くなったが、重信は「密書ごっこ」(『全集Ⅱ』)などのエッセイのなかで友人の死について書き残している。 

 A君。「密書ごっこ」の密書を懐中にして逃げる役で、A君の家の禅寺で追いかけまわっていた。鞍馬天狗の時代である。寺を継ぐべく禅坊主の名前に変わった翌年、中学五年の時に数日病んで急逝する。B君。重信と一緒に小学校で剣道をやり、勉強も良くでき、重信と六年間、首席を争っていた。大学ではフィールドホッケーの選手となったが、わずか一夜で急死した。C君。「水雷艇」は「間諜」に勝ち、「駆逐艦」に負けるという三すくみの遊びがあった。彼は「駆逐艦」の代りに「大砲」を入れての遊びをはやらせた。C君は、学徒出陣で戦艦大和に乗り、特別攻撃により遂に帰らなかった。D君。「ダルマサンガコロンダ」では、D君の見解で「ヒトツ・フタツ・ミッツ」と正確に数えるようにして遊び、横丁ではひそかな誇りとしていた。D君は、医学生となり、そして長崎で原子爆弾の犠牲となっている。 

 重信に対して弟は従順でまた無口であったが、誤診の結果、一週間ほど病んでわずか六歳で亡くなってしまう。重信が八歳の時であった。 

〈その夏のある一日、私は群馬県の母の実家にいた。そこは真言宗の小さな寺で、(略)いたるところに凄まじいばかりの蟬の声があった。(略)そのつもりになって眼をこらすと、八歳の少年の手のとどく高さにも、実に多くの蟬の姿があった。草刈り鎌を発止と打つと、いとも簡単に、次から次へ蟬は死んでいった。「お前ばかりを死なせないぞ」と声に出して言いながら、私の殺戮は続いた。(略) 

   いま、私は、山川蟬夫という別の筆名を持っている。(略) 

     六つで死んでいまも押入に泣く弟 山川蟬夫〉(「蟬」『全集Ⅱ』) 

 これらの身近かな死の体験がその悲しみや喪失感を埋め、そして表現する手段として重信を文学・詩歌に導いていったとは言えないだろうか。そして、重信の青年時代の宿痾発症と闘病生活のなかで醸造され、鋭敏な感受性として研ぎすまされ俳句作品に反映していったと思われるが、そのことは次の文章からも伝わる。「かつて重信に会ったとき、重信は時々死者が背中を触ってゆくことがあると、こともなげに言った」(林 桂『船長の行方』)。その一端は、『蕗子』以降の作品群のなかに見ることができる。 


3 風景眺望

 重信の小学校の三階建ての屋上からは、校歌の一節、「富士の高根に筑波嶺に」と歌われているように、富士山も筑波山も見えたという。そして、 重信は度々屋上に上り、そこからの風景を眺め、後年の詩心を育てていたようである。 

〈日々、その姿を眺めてくらすことは、やがては、その間近にあって、それを仰ぎたいという心を養い続けることであり、そしてまた、いつかは、その山に登ってみようとする思いを、具体的に確実につのらせ続けることでもあった。その山には、それにふさわしい霊魂がひそんでいると信じられていた時代であれば、それはすなはち、人間の精神と直接つながる思いであったわけである。(略)それは、ある一つのものが喚起する人間の精神や感情に、相互に共通した普遍的な感情を、あらかじめ期待することが出来る基礎でもあった。そして、この俳句表現の一つの特徴である即物的な発想も、そのような感受性の基礎がなければ、とても成立する余地はなかったろう〉。(「俳句の廃墟」『全集Ⅲ』) 

 屋上からの眺望の体験は、重信にとって貴重なものとなった。宿痾となった病気のために長期入院した際にもこの風景眺望の体験が再生され、重信の句業の後期の再出発とも言える「風景の発見」へとつながってゆくことになるのである。 


4 原風景喪失

 太平洋戦争末期、1945年3月の東京大空襲では、

〈更に近づくと、眼前の小さなビルが凄まじい勢いで焔を吹きあげており、その後方の家並みは赤赤と燃える熱風の中に蜃気楼のように揺らいで見えた。空を見上げると、雲も真赤に焼けていた。僕たちは、思わず息を吞んで無言のまま立ちつくしていた〉。(「大塚仲町」『全集Ⅱ』) 

と大火災を目撃しているが、重信の実家の小石川も4月・5月の空襲により焼け野原となる。これにより、東京から離れ、重信にとっての母郷小石川という原風景を失うことになる。

 この原風景については、奥野健男が『増補 文学における原風景』のなかで、次のように述べている。原風景はその個人の自己形成空間であり、作家にとっては文学の母胎であり、母なる大地である。それにより、作家の書くものに原風景は色濃く投影され、それは深層意識から作家の文学を決定する。ただし、それは客観描写できぬ風景としている。そして、また中川理は『風景学』おいて、失われた原風景の場所の再生はあくまで代償として生み出され、仮構される場所となるという。


5 新たな国土風景の『伯爵領』

 その失われた原風景の小石川に代わる新たな場所は、『伯爵領』である。重信はこう述べている。「まず『伯爵領』という架空の自治領を生み出し、その領内を巡察しながら次々と架空の地名を与えてゆき、そこから若書きの作品を飛翔させていった」(「新しい歌枕」『全集Ⅲ』)。 この「自治領」は、『伯爵領』に記載されている「伯爵領案内繪圖」を見ると海に面している。そこには、「花火の谷間」「碑銘の丘」「虎の斑の岬」「泯びの河口」などがあり、これを巡る句群になる。これは、後の『日本海軍』での地名、国名などの歌枕の句を巡るスタイルと通底するものがあり、その国見・道行の先取りとも言えるだろう。


  遂に 

    谷間に                      

  見いだされたる 

  桃色花火          「花火の谷間」

    *

  花茨

  碑銘の丘に

  蛇は架けられ      「碑銘の丘」

    *

  虎の

  斑の

  岬の

  青き

  淡き

  祭                 「虎の斑の岬」

    *

  海へ

  夜へ

  河がほろびる

  河口のピストル   「泯びの河口」『伯爵領』


●―10「明治は遠くなりにけり」論争/筑紫磐井

 松田ひろむ氏が、「蠍座」5月号で神保と志ゆき氏の論(東京都区現代俳句協会高田馬場句会2024年10月報告)を引き、草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」(昭和6年3月ホトトギスに掲載)に対し志賀芥子の「獺祭忌明治は遠くなりにけり」が先行したと言われるという説を取り上げてそれが誤りであることを指摘している。「降る雪」の句の先行句が「獺祭忌」であると主張をしたのが嶽墨石(小穴忠美)の「旅と俳句」36年9月号の記事とされている。ところが、神保氏によれば、芥子の句が実は「雲母」系句集に発表した「菊花節明治は遠くなりにけり」という句(出典は2種類あり、昭和9年刊の『続水門』という句集に掲載の句と「雲母」昭和10年1月号「春夏秋冬」に掲載の句)であり、これらは草田男句の後の発表であったことを明らかだと言っている。これによれば、草田男句への盗作の誹謗は根拠ないものとされるし、その一方で「獺祭忌明治は遠くなりにけり」という句も存在しなかったことになる。

 草田男の句の生まれた経緯は非常にミステリアスで私も以前から関心を持っていたので若干論争に一石を投ずる指摘をしたい。実は関西の俳句雑誌「同人」昭和24年12月号「同人俳句」欄に

 獺祭忌明治は遠くなりにけり 岩国 梧葉

として句が発見される。作者梧葉という人物は菅裸馬主宰「同人」に所属する木村梧葉で、山口県岩国の木村梧葉という名の俳人は「若葉」、「同人」、「春燈」などに投稿しているが、多分同一人物と思われる。現在ほんど知られていないが岩国俳壇の重鎮であったようで、岩国俳句協会の会長を務めていた。高橋金窗会長(後に第4代「同人」主宰)の後任にも当たる。

     *

 色々推測できるが、嶽墨石が36年9月号の記事を書く際に、志賀芥子の「菊花節明治は遠くなりにけり」を引用する時に木村梧葉の「獺祭忌明治は遠くなりにけり」に書き誤ったとも考えられる。しかし墨石は芥子と「獺祭忌」の句として議論している(墨石は、芥子から草田男句についての類句取り消し要求の相談を受けた)ことになっているからこれはあり得ないだろう。嶽墨石の発言そのものが、根本から相当信頼性がないと推測すべきだろう(「菊花節」の句のようなきっかけがあったことはたしかだろうが、それ以外の状況はすべて批判的に見直す必要が出て来た)。

 一方で、「「獺祭忌明治は遠くなりにけり」」そのものについては、木村梧葉は時期的に見ても墨石の記事(36年9月号)を読んでいないわけなので、志賀芥子、嶽墨石の影響を受けて「獺祭忌明治は遠くなりにけり」と詠んだわけではないことは明らかである。あり得るとしたら草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」を読んで影響を受けたという方が草田男の句が著名なだけに可能性が高いかもしれない。

     *

 すなわち、草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」(ホトトギス昭和6年3月に掲載)は、東大俳句会欄と雑詠欄の2つに登場しており、東大俳句会欄では6年1月9日の句会(丸ビル集会室/兼題寒紅・鯨と席題雪・宝船)で「虚子先生作句並びに選句」として掲げられ、雑詠欄では松本たかし、星野立子、川端茅舎に次ぐ第4席で掲げられている。

 さらに後のホトトギス5月号「雑詠句評会(第61回)」では、秋櫻子、たけし、虚子がこの句を評しており、ことに秋櫻子は長い評を書いているが、「此の句は全体としても隙がないが、殊に「降る雪や」といふ五字が巧みだと思ふ。これは目の前の飛雪の光景をよく現はし、随つて自然に昔を追懐する心を引き出すもとになつてゐるのである。」と激賞し、虚子は「降る雪に隔てられて明治といふ時代が遠く回想されているといふのである。情と景とが互に助けて居る。」と述べている。「獺祭忌」でも「菊花節」でも成り立たない評であった。「降る雪や」の名作性は、それが詠まれた時点ですでに確定していたのである。花鳥諷詠派(虚子)にあっても、新興俳句派(秋櫻子)にあっても事情は変わらなかった。


★ー5清水径子論5 /佐藤りえ

 飴ふくみ寒の濃き水婆使ふ 昭和40年(54歳)

 引き続き『鶸』より。飴を口に含み、それを食べきらぬうちに寒の水を使う。少々お行儀の悪い行為にも見える、この行動に「婆」を自称する書きぶりはユーモアなのか、自らを蔑む、あえてへりくだってのことなのか。

 『鶸』には自称「婆」の句が散見する。

 花柊動くよカサッとコソッと婆  昭和42年(56歳)

 朝顔・雀・婆がもつとも朝よろこぶ  〃

 八月や奈良に婆きて癇の声  昭和43年(57歳)

 凍る蜜もどしほんとに婆濁る 昭和47年(61歳)

 花柊の句は花の動きに直接「婆」が接続しており、花のみならず「婆」自身もカサコソいっているかのように見えてしまう。「朝顔・雀・婆」は加藤知世子の「婆・嫁・乙女の黙が深まり紙漉きだす」と関連があるだろうか。集中の自称には「われ」が使用されている例もあるがわずかだ。一人称を「婆」とするのはかなり異色な気がする。

 『鶸』出版時、径子は六十代に入っている。昭和四〇年代は一般的な会社員の定年が五五歳の時代である。六十代が自身を老境と自覚するのは社会通念上自然なこととも言える。しかし掲句の作成年次はそれぞれの句の末尾に挙げた通り、径子は五十代からすでに「婆」を使っている。老境を示すには早いのではないか。さらに、実生活上の年次と作品に詠み込むことがイコールである必要はない。自覚、認識がどこにあるか、どのように表すか、どのように見えるかを自覚した上での一人称が「婆」とは、自身を扱う手が厳しいというか、虚飾を払うにしても、少し過剰に感じられる。

 雪を除きて茣蓙一枚の婆の春  加藤知世子

 切れ切れのげんげの路を老婆来る  津田清子

 過去見るかに老婆泉を長眺め  橋本多佳子

 神輿来て戸口をふさぐ婆の腰  桂信子

 跣にて婆が物売る仏生会  阿部みどり女

 「我」でも「女」でもなく「婆」を詠み込む作品はもちろん存在するが、それらは必ずしも自称とはかぎらない。加藤知世子の「婆の春」などはクッション的な使われ方、わずかな幸福感を表す効果を感じるが、津田清子、桂信子、阿部みどり女の「老婆」「婆」は他者を指すものと思われる。なお、男性作家が「婆」を活写した作品は枚挙に暇が無い程に存在する。

 婆殿の忌日忘れそ蓬餅  正岡子規

 金輪際わりこむ婆や迎鐘  川端茅舎

 婆が手の蕨あをしも花曇  石田波郷

 竹藪あり爺婆をりて初雀  山口青邨

 盆芝居婆の投げたる米袋  沢木欣一

 「婆」は能面「姥」がごとく、記号的に老いた女として使用され、固定されていた、とも考えられる。


 藤垂れてこの世のものの老婆佇つ  三橋鷹女

 老婆切株となる枯原にて

 街道に咲く痩カンナ痩老婆

 三橋鷹女も「婆」あるいは「老婆」を多用している。鷹女の用い方では観察の対象としての「婆」もあるが、自身を「老婆」と自称した作品が散見する。どちらかといえば、鷹女の方が「老婆」に対して容赦ない。径子は「氷海」26号に鷹女の『白骨』評を寄せている。鷹女への私信のような形式で、鷹女の自由奔放さ、「ロマン主義を基調とした抒情を知性的な把握によって昇華させている」と賛辞を送ったのち、「老いづまの泳ぐに水着かなしめり」「人の世へ覚めて朝の葱刻む」などを引いて、 

先生はたへず自己と自然の中に青春を見てゐられるといふことを深く深く感じたのでございます。「詩に青春を」といふことは、詩は年寄つてはいけないといふことではないかと思ひます。(清水径子「女のかなしさなど―「白骨」を読みて― 」/「氷海」26号・昭和29年)

と綴っている。「老いづま」という書きぶりの上で、水着を「かなしむ」含羞のあざやかさに打たれている。『白骨』は「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」が収録された鷹女53歳の第三句集。径子より十歳ほど年長の鷹女は、この頃富澤赤黄男の「薔薇」に参加、自由に力強く読み継ぐ鷹女に径子は感化されるものがあったのではないか。鷹女の存在によって、抵抗なく「婆」と自認、自称することができたのではないか――とは、少々強引な思いつきである。

 はじめから年とつて居る婆・瓢 『哀湖』

 雪婆ぐうたら山を昼に発ち 『夢殻』

 老婆うらがへせば春の蚊が鳴けり

 老女うすべに一日暑い日と思ひ

 包んであげる冬老人は花の色 『雨の樹』

 第二句集『哀湖』以降、自称「婆」はほとんど姿を消す。掲句にある通り、自己像というより、総体としての「婆」を包みこみ、慰撫するがごとき詠みぶりへと変化した。「雪婆ぐうたら」「老婆うらがへせば」の鷹揚な詠い口は、後の師・永田耕衣の影響によるものだろうか。ところで男性作家が自らを「爺」と称する作品はあらためて考えるとあまり思いつかない。一句二句はあれど、継続的に自らを「爺」とするのは憚られる、といったところか。永田耕衣は「老い」をふんだんに詠み、自身を「翁」あるいは「老人」と称しているが「爺」ではない。

 きさらぎの風にも覚めぬ翁かな  永田耕衣

 源流に腰かけて居る翁かな

 ぼんやりの素老人行く秋の浜

 日覆してカーテン引くや夢老人

 老人や何食つて裂く椿の枝

 野を穴と思い跳ぶ春純老人

 「粗にして野だが卑ではないつもり」は財界から国鉄総裁に転身した折の石田禮助の言葉。「爺」「婆」は蔑称の一種ではある。野趣あふれつつも卑しからず、永田耕衣の老い放題に老いる句のさまを見ていると、そんな言葉が浮かぶ。


●―15中尾寿美子の句/横井理恵

2011年09月16日

 手をかざす卯波の沖へ晩年へ      『草の花』

 『草の花』は寿美子五十台後半から還暦前後までの句を収めた第三句集である。句集全体の印象を一言で表すなら、「淋しい」であろう。身近な人々の老いや死に寄せる思いと、自らの老いを見つめるまなざしには、淋しさが満ちている。旅行吟などで夏の句はあるのだが、句集全体の印象は「秋から冬」そして「まだ浅い春」といったところである。

 その中で、夏の句を取り上げるとしたら、掲句だろうか。「今も沖には未来あり」といった青春性だけでなく、遥か沖を見はるかすまなざしは、こうして、自らの老いを見据えるものでもあり得るのかと、はっとさせられる。「手をかざす」という行為には、単に目をやるだけではない意志の力がある。「老病死」の哀しみから目をそらさずに、「生」をかみしめていこうという姿勢が示されていると感じる。

 晩年の眉消えかかる青葉寒

 しなやかな脱け髪悼む晩夏かな

 これらは、夏の句といいながら、生命力の衰えを感じさせる句であり、「夏の句」として掲げるには躊躇してしまう。若い時には艶々とした黒髪を誇りにしていたからこその嘆きなのだろう。現代では還暦はまだ現役真っ盛りという気がするのだが、寿美子にとって、人生の夏は、もう過ぎ去ったものとして捉えられていたようだ。

 寿美子は、この句集『草の花』でとことん「哀しみ」や「淋しさ」と向き合う。そして、第四句集『舞童台』以降、何かから抜け出したような「明るさ」と「勁さ」を備え始めるのだ。

 誰がこゑか泰山木にきて咲けり    『舞童台』

 長生は滝より滝へ懸りけり      『老虎灘』

 定型の中に暫く虹立てり       『新座』

 具象とか客観とか、そんな重力から解き放たれた「夏」が、これらの句には輝いている。偏在する寿美子の精神が捉えた「夏」である。この自在さの境地に至る道は、あの時に見据えた、卯波の遥か沖の晩年、そこへの一歩を踏み出した時に始まったのだと思う。(了)