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2025年4月11日金曜日

【連載】現代評論研究:第5回・戦後俳句史を読む(再び風土性について) /北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井

(投稿日:2011年07月01日)


筑紫:風土というものは、個人の属する環境で宿命的に決まってしまうものかと言えば必ずしもそうではない。これは風景論を援用したほうがわかりやすい。前回、「風景があって風景思想が生まれるのではなく、風景思想があって目の前の自然から風景を切りとってくると言うことである」と述べた。風土によって与えられる客観的環境から風景が生まれるのではなく、作者の主観的な思想が風景思想を作り出し、それによって風景が生まれる。風土も同様でそれを宿命的な風土と感じない限り(つまり風土思想が生まれない限り)、風土は生まれない。一例を挙げてみよう。

 仲寒蝉が、「戦後俳句を読む(第5回の1)」で赤尾兜子(本名は赤尾俊郎。大阪外語専門学校、のちの大阪外国語大学に学ぶ)について「兜子の俳句ほど「風土」という言葉のそぐわないものはない。実際には彼は兵庫県揖保郡網干町(現在は姫路市網干区)の出身であるがその俳句にふるさとのにおいはない」と述べている。しかし、兜子には兄の赤尾龍治がおり、駒沢大学に学んだ後、網干にこだわった人生を送っている。

 世界的に著名な禅の研究家鈴木大拙が最も高く評価した日本の禅僧は江戸時代初期の臨済宗の盤珪禅師であった(現在も岩波文庫で入手できる『盤珪禅師語録』は大拙の代表的な編著となっている)。難解な禅を一般庶民にわかりやすく説いた盤珪は、禅宗の範疇を超えて、近代日本の大衆思想に大きな影響を与えたと言われている。そしてこの盤珪は網干の出身であった。浄土真宗の家系であった龍治(もちろん兜子もそうであるが)にとって直接的な関係のなかった盤珪であるが、幼少から地元の名士盤珪に親しんでいたことから盤珪研究をすすめ、ついに鈴木大拙さえ果たせなかった完璧な『盤珪禅師全集』を刊行している(大蔵出版)。この全集は現在も盤珪研究の金字塔となっているのである。もちろん、盤珪への関心は全国的、いや世界的にあるのだが、一方で地域の名士でもあり、ローカルな色彩を抜きにして盤珪を語ることもできない。網干の風土が生んだ思想であるということはできると思うのである。

 さて、同じ環境で生まれた赤尾兜子と赤尾龍治にとって、風土性が生まれる契機は、かれらが風土を構成する要素をどのように眺めていたかによる。外的な風土要素が風土を作るのではなくて、内的な風土を眺める目が、風土性を決定するのである。兜子はそれに失敗し、龍治は成功した。これは全く余計な推測なのだが、兜子が盤珪の思想に親しんでいたら、あのような悲劇的な最後はなかったのではないかと思われてならない(盤珪の思想は極めて厳格厳粛ではあるが、肯定的で楽観的である)。

 風土俳句に戻れば、村上しゅらが「北辺有情」を詠む前から風土は存在したと思われがちだが、村上を通さないでは風土の存在は確認できなかったという方が正確であろう(もちろんプレ風土俳句があったことはすでに述べたとおりであるが)。前回、風景と風土は全く違うとは述べたのだが、一方でその発生は極めてよく似ていることも確かである。何れにしてもその主体性こそが問われるべきなのである。

 今回(第5回)で深谷が述べている成田千空の、逃れられない風土性と、風土性から外れようとする努力は、あらゆる運動体に共通しているように思われる。例えば、「前衛」と言えばその前衛に拘束されないように自らは前衛ではないと多くの前衛的作家はいう。しかし、前衛が生まれる前の、脳天気な前衛以前の素朴さを肯定しているわけでもない。やはり「前衛」という掛け声は何がしか必要であったのである。「前衛」と言った瞬間の論理以前の、直感的な概念は貴重でもあり、また時代の要請を受けていたものでもあった。「風土性」も同様であったのである。


北村:ご存知のように、5・7・5型式は、二つの性質を持つ。一つは歴史の古い壇林的俳諧性、もう一つは芭蕉以後の象徴性の強い詩に上昇した俳諧性である。それを経て近代の詩精神の高みに置き換えた子規の「俳句」宣言がある。前者は諧謔・アイロニーを重視する。典型的川柳は諧謔・機知の極端なものである。一方近代以後の俳句は方法的に何を重んじるか。それは視覚に特化したもののような気がする。俳句においては、現在に至るまで視覚性が大きな位置を占めている。いわゆる子規のとなえた「写生」の重視である。

 前回まで、私は「風土」という語を地方性という程度に捉え、風景との区別をあまり意識していなかったが、筑紫は区別を唱え「俳句のキャッチフレーズは風景となじみやすい」とした。すると「風土」はどういうことになるか。身も蓋もない言い方になるが、風土には人の生活が絡んでいて、17文字にそれを取り込むことは難しい。筑紫も言うように、風景も人からの視線・見方が無ければ成立しないが、風土となると生活と景の相互作用であり、時間経過まで伴っている。したがって、風土性の判別は難しい。そこに俳諧性が伴う場合もあるだろう。たとえばネットからこの季節の語を持つ句として選んだ

 昼月や水たつぷりと茄子植うる  高倉恵美子(「空」2008年8月)

 曲りたる山河の味の茄子・胡瓜  関根洋子 (「風土」2006年9月)

などはどうか。ここまで述べてやっと気がついた、「風土」は、一句では成立しがたいのだ。風土を感知させるには、句を積み上げることが必要となるようだ。

 ところで、思想の表出を重視した現代詩の詩人たちにおいては、視覚的ということはしばしば蔑む言葉として用いられた。この場合、思想という言葉は社会・政治思想を指すものである。吉本隆明は「戦後詩史論」(大和書房1978年)において、そのような意味での思想詩に強い共感を示しつつ、それは戦争を通過した世代のものであり、もはや生まれなくなっていると論じている。その後の世代の詩人は日常思想として現在を感受し、孤となり詩は通常の意味・脈絡を解体していく。否定性が詩の内容だけでなく言語にまで及んでいく。現代詩を貫くものは否定性という主張であろう。この評論も視覚性に点が辛く、諧謔性にも乏しいなど冒頭に述べたような俳句とは相性が悪い。その上いつも肝心なところで「倫理」「論理」などというキーワードで躓く私は、吉本のよき読者ではない。しかしこの詩の「内容の否定性」までは納得できる。

 俳句における「風土」も日常思想なのであるが、そこには肯定性が強い。これは生活精神の荒廃に対する抵抗=否定と見ることもできるのだが。

 しかし現代の流れは容赦なく風土を脅かす。吉本は昭和初期のの不定職の詩人たちを重視しているが、今またフリーターの時代が巡ってきた。人の帰属の根を奪い、デラシネの生を産んでいる現代の流れは、古典的な風景を変え風土を消去していく。しかも、もう一つ伝統的な風土を脅かすものが現れた。生活のヴァーチャル化である。人は街を歩いても街を見ないで携帯にログインしている。少数のオタクをのぞけば、しゃがんで蟻の穴をのぞいたりしない。検索で済ます。ノスタルジーもゲームやアニメなどヴァーチャルな世界に向かう。風土はより広い抽象的な景へ拡散していく。これらのことは詩に影響せずにはおかないはずだ。いま俳句や短歌に実際何をもたらしているのだろうか。これは今の若者の多くの作品に触れていない私には難問である。

 第三回で触れた斉藤玄や安井浩司なども、実在を離れ観念世界に入り込むという点では一種の否定性を備えている。むろん彼らは現代の若い世代のような意味での浮遊民ではなく、風土に住み込んだ俳人である。言語構成についても、玄は端正、浩司もまずまず。もっと強烈に否定性の出ている俳句作家も多く存在するが、言語構成の解体の動機までは持たない私には、心底からの共感が湧かない。私にとっては玄や浩司が先達である。


堀本:

(風土&風景についての言説)

 今回の風景論とか風土論についての思考は、近代俳句からはじまり現代にも敷衍している「写生」の思想と密接にかかわってくる。さらに、写生万能では表現しきれない存在の詩たる俳句にむきあうことにもなる。

 即ち我々は「風土」に置いて、我々自身を、間柄としての我々自身を見出すのである。

              和辻哲郎『風土』(昭和10年)(引用は岩波文庫版)

 人間学を基礎におく和辻の風土論では、人間は「寒さ」というのは、「寒いですね」と言う挨拶となりそれが隣人との関係を結び、寒さをしのぐ「家」や「衣服」「暖房」、などもひきよせる、風土とはそう言う社会関係を取り結ぶ自己了解の概念である、と言う。

 また、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社学芸文庫)では。

 近代文学のリアリズムは、明らかに風景の中で成立する。なぜならリアリズムによって描写されるものは、風景または、風景としての人間——平凡な人間——であるが、そのような風景ははじめから外にあるのではなく、「人間から疎遠化された風景としての風景」

として見出されなければならなかったのである。(掲出書のうち。《風景の発見》)

 この論理は難解だが惹かれる。検討は今後の宿題とする。

(風土認識としての「富士山」)

 明治期の志賀重昂や正岡子規にあっては、例えば「富士山」に向かう場合は内面よりも社会関係よりも抽象的精神的である。重昂は、地質学の視点にくわえてごった煮のように様々の俳諧や漢詩古歌を並べてしまう。つよく風土に呪縛されているナショナリストの原感情がはっきりでている。先回に、先回の川柳人近江砂人の戦後の富士山の句は、おおかたの日本人ならだれでもそう考えるわかりやすい理想の「富士山」=日本像である。

 すでに子規も「富士山」に同じようなシンボル性を認めていた。以下の詩篇は、明治三十二年作。新体詩風4連各6行第1連。

 直立一千二百丈

 足もとよりぞ起りける

 夏猶寒き白雪は

 空の真中に積りけり

 仰げや高き富士の山

 富士は御国の鎮めなり

(詩篇《富士山》部分。)(筆者註・漢字表記は新字体に直している、それぞれの連の最後はすべてこのくり返し。)

 この詩では、最初に風景を書き締めくくりには共同幻想としての「富士山」が立ち上がる。

 この富士山熱は、明治時代の流行だったそうである。

 さらに、『俳諧大要』の、なかに古句をお手本に作句法などを啓蒙しているそのなかで、こういう「富士山」が出てくる。

 例へば頭巾という題を得たる時に頭巾を主としてものすれば俗に陥りやすく陳腐に傾きやすし。故に時々この題を軽く詠みこみて他へそらすことも忘るべからず。

   初めて東武に下る時

 頭巾とり衿繕ふや富士の晴れ  湖春 

といふが如き富士を主としたるものをものするも差支えなし。このごとくならざれば尽く陳腐に流れてしかも変化すべき区域狭くなるべし。(正岡子規。同書中)

 取り合わせと言う技法の効果を言い尽くしている名鑑賞だが、この句には写生的な観点はあたえていない。頭巾が俗ならば、富士山に関する一般的な観念もまた俗である。とは子規は考えなかった。これが、まさにかれの(明治の庶民の)風土的認識、ナショナリズムの感性的な根拠だった。これをみる限りは、我々は俳句史の上で、写生や季節の呪縛が解けないと同時に、富士山のある日本という精神風土に生きている、現在に至るまでその特別な思いからもまだぬけだしていない。

 と、さらに、文庫本新版の解説が加藤楸邨、ここにこういう「風土」の用法がある。

 (筆者註・日本に生じる文化現象が、従来のやり方では処理できないことを指摘)事に、近時、異質の風土に身を置いたり、旅したりすることがすこぶる多くなり。砂漠とか、極地とかを踏む機会すら多くなってみると、在来の短詩型文学に都合が悪いからとして避けて通るのは/許されない逃避であろう。(歴史上の革新の例を挙げ、子規を近代の先蹤とたたえ)今俳句つくりとしては子規の「俳諧大要」が土台となってあらためてもうひとつの「新しい俳諧大要」が一人一人の課題とならなければならない。(加藤楸邨《新版後記—子規の今日的意義》。昭和58年岩波文庫版前掲書。)

 『俳諧大要』(明治28初出「日本」。岩波文庫所収は初版昭和30年、新版昭和58年)に「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。」(岩波文庫。新版昭和58年より引用)と書き出されている。開明的合理的であると共に、内向と言うことが解っていないな、と思わせるが、読むたびに発見のある警世の啓蒙書である。

 楸邨が言う一人一人の俳諧大要の中で、「風土」という概念も、何らかの転換をはたしうるのだろうか?たとえば、「東北」というキーワードのもとで。これも、宿題とする。了

2025年3月21日金曜日

【新連載】現代評論研究:第4回 戦後俳句史を読む(風景)/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井

筑紫:今回から「戦後俳句史を読む」の体裁を変え、それぞれの発言を充実する編集にしてみたい。とりあえずひとつの提案として、この「戦後俳句史を読む」を16人の行う「戦後俳句を読む」と同様、テーマを設けて論じてみたい。その第1回は「風景」とした。「死」も風景とすれば、以下で述べる風景論は多少「戦後俳句を読む(死)」と重なることがあるかもしれない。


北村:今回の話題の与えられたテーマは「風景」である。私の貧しい知識で山口誓子に見当を付け、朝日文庫『現代俳句の世界④:山口誓子集』(註1)を中心に作品を少し読んでみた。日野草城のときもそうであったが、戦後というくくり方からは少しはずれることになる。風景とは「何らかの余裕のある人間が、見ることによって感知する、結合した自然の物体群の醸すアトモスフェア」とでも言っておこう。誓子は、俳句の詠むものはものとものとの新しい関係と言うから、ミニマルな風景。したがって以下、「風景」もいくぶん偏る。

 誓子は、ものとものの関係に接したとき刺激を受ける。そのときのその「ものたち」のシチュエイションを詠みとどめれば読者は同じ心の動きを体験できるであろう、といった趣旨のことを述べている 。


 代表作

① 夏草に汽缶車の車輪来て止る     『黄旗』・昭和8年

② 夏の河赤き鉄鎖のはし浸る      『炎昼』・昭和12年


など、彼の作品についての、諸賢のオブジェ性や無機性の指摘が記憶に残るが、よく見ると繊細なものの関係の描写がなされている。それによって直接の言葉がなくても、彼が何に心を動かし、感興を覚えたかが分かる。


③ 男の雛の俯向きたまひ波の間に    『黄旗』・昭和8年

④ 蠅憎めばすこし離れしところにゐ   『激浪』・昭和19年

⑤ 行くにつれ奈良へ退く奈良の月    『一隅』・昭和41年


 これは特に動物を詠んだ句に著しい。彼は動物固有の動きの一瞬を写生できるのである。


⑥ するすると岩をするすると地を蜥蜴  『炎昼』・昭和10年

⑦ 諸処にとび終に一なる揚羽蝶     『激浪』・昭和19年

⑧ 稲雀汽車に追はれてああ抜かる    『激浪』・昭和19年


 蜥蜴の句、「するする」を間を置いて繰り返すことにより、間歇的に動くトカゲの動作が手に取るようである。対象を眺めて自由にさせ動きを見守り、ときに応じて干渉する。志賀直哉『城之崎にて』・大正6年などにも共通する、抑制のある知性人の態度であろう。しかしそれは後を追った、西東三鬼(年齢は誓子より1年上)、永田耕衣の抑制なく自己を押し出す迫力にはかなわない。耕衣となると、もう対象を遊ばせるよりも自らが泥んじるのである。


 いや、しかし若い誓子は、さらに魅力ある世界の入り口に立っていたのではないか。むかし、私には誓子の俳句が今ひとつ分からなかった。しかし


⑨ 終に苦しかやつりぐさの錯綜は    『和服』・昭和24年


を見たときに私なりに了解できた。「かやつりぐさの錯綜」する様は脳内の風景のメタファである。ものとの照応関係を用いて内的宇宙 (inner space: J. G. Ballard) へののぞき窓を作ったのである。この経験は、この句ほど図式的ではなくても、他の景物を詠んだ句を理解する上でも大変役に立った。

 しかしこの句、晩年自身が厳選したという朝日文庫版には収録されてはいない。この自薦句集は三鬼の選とはかなり異なるそうである。


⑩ 麦黄なり屋(や)に竜骨のそびえ立ち    『炎昼』・昭和13年


など抽象性のある一連の麦の句も収録されなかった。その理由は、「終に苦し」がしっくりこないなど句の立ち姿に問題を感じた面もあるかもしれないが、なによりも「我」や「主観性」の出ることを禁忌としたところにあろう。颯爽たる誓子にして、戦後このような地点に行き着いたこと、私には残念である。


筑紫:次回の「戦後俳句を読む」第5回は「風土」について句が選ばれ、論じられることになるが、風土とは何かを少し言及しておきたい。既に「風土俳句」については、前回で定義をくだしたが、これだけが風土の定義ではないことは当然である。一般的に言えば、風土とは自然環境であり、しばしば人を律してゆくものであるから、和辻哲郎のように「風土」は単なる自然現象ではなく、その中で人間が自己を見出すところの対象というふうに拡張することもありえるだろう。その意味において風土俳句も「風土」の1つの表れとしてみておかしくはない。その意味では、そこに住む人間に与えられた条件であり、人間は受動的な役割を果たすにとどまる。風土俳句がごく一時の、ごく一部の人たちにしか適用されなかったのも頷けることである。

 さて、近代俳句ではこのような「風土」と違う全く新しい要素が正岡子規によって導入された。それは写生である。明治27年の秋に子規は根岸の郊外をしきりに散歩している。このとき1冊の手帳と1本の鉛筆を携えて次々と俳句を書き付けた。毎日得るところの10句、20句は平凡な句が多いけれど嫌味がなくて垢抜けしたように思って嬉しかったという。これが子規の写生の開眼である。そこでは人間的要素がすっかり捨象され、風土のように類型化されない個別個別の特徴ある純粋客観的な要素が俳句では注目されるようになった。

 風土といえないとすればそれは風景と言わなければならないであろう。俳句でしばしば用いられる、「客観写生」(高浜虚子)にしろ、「打座即刻」(石田波郷)にしろ、「眼前直覚」(上田五千石)にしろ、「第3イメージ」(赤尾兜子)にしろ、俳句のキャッチフレーズは風景となじみやすいのだ。

 では風景とは何か。北村がいう「何らかの余裕のある人間が、見ることによって感知する、結合した自然の物体群の醸すアトモスフェア」の説明はある程度共感できることである。

 私自身、雑誌「俳句空間」に執筆した「風景論」(平成3年)以来、風景という言葉に関心を持ち次のように考えるようになった。風景で重要なことは、風景があって風景思想が生まれるのではなく、風景思想があって目の前の自然から風景を切りとってくると言うことである。風景思想がなくては、風景は存在しない。問題は風景思想がどのように生まれたのかということである。

 明治の風景の創始は【注】に試案を述べてみた。戦後の風景は、これからさらに進んで独自の風景論を展開した。


中年や遠くみのれる夜の桃 西東三鬼

陰干にせよ魂もぜんまいも 橋間石

厠にて国敗れたる日と思ふ 能村登四郎

雪国に子を生んでこの深まなざし 森澄雄

白い人影はるばる田をゆく消えぬため 金子兜太

悲しきかな性病院の煙突(けむりだし) 鈴木六林男

さうめんの淡き昼餉や街の音 草間時彦

どの子にも涼しく風の吹く日かな 飯田龍太


 見てもわかるようにどこにも風土は存在しない。境川村に住んだ龍太ですら風土は詠んでいない。彼らが詠んだのはすべて風景である。戦後俳句の活動とは、思想を詠むことでもなく、主題を詠むことでもなく、ただひたすら風景を読むことに明け暮れてきたのである。

    【注】近代日本にとって重要な契機は、志賀重昂の『日本風景論』(明治27年刊)ではなかったかというのが、私の仮説だ。日本の山岳家の祖小島烏水が『日本風景論』を手に日本アルプスを探索したのはその小さなエピソードに過ぎない。

 前出の私の評論と前後して出た大室幹雄の『志賀重昂『日本風景論』精読』(岩波現代文庫)は志賀の業績を矮小化している。その理由を、①根拠なきナショナリズム、②志賀の科学的知識は浅薄である、③風景の本質は日本古来の煙霞僻にすぎない、とあげている。

 もともと①について言えば、ナショナリズムはどんなナショナリズムも根拠なきものであり不合理きわまりないのだから、それをもって志賀を糾弾する理由にはならない。また、一方で、明治のナショナリズムが功罪いずれに傾いているかは分からないのであり、現在ナショナリズムが否定されている世界で唯一の国家、戦後日本の評価基準で眺めても意味がないのである。一方、②と③は『日本風景論』の成立の根拠に遡らなければ分からない。

 そもそも『日本風景論』のようなものは何故書かれたのか。何を根拠にこんなユニークな本を書こうとしたのか。大室も誰もそのことを教えてくれないので、私なりに類書を当たってみた。英国の政治家・銀行家にして博物学を趣味とするジョン・ラバックが著わした“The beauties of nature and the wonders of the world we live in”(1892年。和訳名『自然美と其驚異』)は『日本風景論』(1894年刊)の2年前に出ている。内容は、動物→植物→森林と原野→山岳→水→河と湖沼→海→天、とミクロからマクロへ視野を広げてさまざまな風景を描いている。内容は科学的記述と文学作品をつづった啓蒙書であり『日本風景論』によく似ている。特に、その「山岳」の章は、『日本風景論』そのままといってよいから、この本の影響はかなり濃密なものがあるといってよいであろう。ところでラバックは、その後、“The scenery of Switzerland”(1896年『スイス風景論』)、“The scenery of Switzerland”(1896年『スイス風景論』)を著わしているが、このような国別風景論は、ラバックに志賀は先立っていることになる。

 もちろん先蹤に、地質学者アーキボルド・ゲイキイの“The scenery of Scotland”(1865年『スコットランド風景論』)があったろうが、これはむしろ科学書に近いから科学と文芸の融合はラバックならではの業績であった。

 何を言いたいのかといえば、ラバックの『自然美と其驚異』の影響を受けたとはいえ、『日本風景論』は世界で最初の国別風景論の本であったのではないかということだ。思想が風景を切り出す、最初の現場を示してくれているのだ。

        *

 大室のいう、②科学的知識の浅薄さ、③日本古来の煙霞僻にすぎない風景観は、啓蒙のあり方、細分化された科学的ディテールから文化への発展を示しているように思われる。大室は、志賀の著書の新しさは、ただ一点、煙霞や雲霧、雲烟ついった古びた死後を水蒸気と呼び直した一点にだけあったのだといってさしつかえない、とこれまた批判するのだが、いや逆に、こうした単純な一元化こそ明治の精神であった。そしてこうした無茶な単純化を経ないでは西欧思想の翻訳は不可能だったのである。今も我々の周辺には単純化の結果の無茶な西洋思想の残骸が残っているではないか。かと言って、科学的知識は大学が機能し始めた当時山ほどあったはずであるが国民を感動させ、動かす知識には全くなっていなかった。無茶な一元化は国民の心を動かしたのだ。そして多分、当時の人々に必要なのは、翻訳された欧米の風景(立ち返って言えば風景思想)ではなくて在来の日本と連続した風景思想であった。それを実践し得たのも志賀しかいなかったのである。

 ラバックで思い出すのは英国民の、こうした分化した知識を総合する能力だ。話は飛ぶが、国際連邦を提案したH・G・ウエルズは、そもそもこの運動の前提となる「世界史」が存在しないことに気付いた。このために数十人の専門家に原稿を書かせ、それをウエルズが自らの思想に基づいて、一切専門家の意見を入れず書き改めた。分かりやすい、思想の一貫した啓蒙書とはこのように出来るという一例である(いまなら著作権の関係で決してできない手法である)。これがかの有名な『世界文化史大系』である。英国民は啓蒙書編纂のノウハウをこのように獲得したのだが、一時代の日本中の青年の血を熱くさせた啓蒙書『日本風景論』の編纂もこれに似た方針があったはずだ。「②科学的知識の浅薄さ」はことさらな分化した科学を排除する総合性に、「③日本古来の煙霞僻」は西洋の美意識を日本の山水に融和させる意志とみてよいのだろう。

 だから大室の指摘するちょっと変わった煙霞僻の中に明治の新しい精神が息吹いているのである。


○鮭捕り網を斜陽に曝す石狩江村の晩、奥州訛りの漁唱、雪の如き荻花の間に起こる。

○夜雪初めて霽れ、分明に認め得たり屯田村の灯火三四点。


 こうして生まれた明治20年代の風景に、俳句の風景も乗らずにはおかない。『日本風景論』以前の、子規の「かけはしの記」(明治24年)、「はて知らずの記」(明治26年)は芭蕉の奥の細道の亜流を一歩も出ていない。しかし、河東碧梧桐の『三千里』(明治39~40年)は『日本風景論』を踏まえ、さらに克服した全く新しい文学であり、風景であった。ここに『日本風景論』の過渡的な意義を認めるべきである。では、虚子は?この間虚子は全然旅行などしていない。風景の主体的な形成に全く没交渉だったのである。明治の精神が作り上げた新しい風景を、受動的に俳句に取り込んでいただけであった。


堀本

《 風景論の参考書 》

 風景論の参考書としては、まず、明治期、古典的な名著志賀重昂の『日本風景論』(明治27初版・現在近藤信行校訂 岩波文庫)、これは影響の大きい一書であるが、今読んでも愉快で刺激的である。 


一 日本には気候海流の多変多様なる事

二 日本には水蒸気の多量なる事

三 日本には火山岩の多々なる事

四 日本には流水の侵蝕激烈なる事 (『日本風景論』緒論)


 よって、日本風景は「瀟洒、美、跌宕(てっとう=豪放の意)」との特徴を持ち火山や水蒸気に美の根拠を持つ。〈霧時雨不二を見ぬ日ぞ面白き 松尾芭蕉〉(同書)。重昂は、この句を例に出して、霧や雨の水蒸気が生む風景、また見え隠れする景物の趣きを語る。「科学的」説明の間に挿入されるかなりの分量の詩文、俳諧句。この論述構成のあり方は、いささか奇書の感じもするのだが、本書のいわば浪漫的なナショナリズム、これこそ日本固有の風景だという発見と熱っぽい主張が、知識青年達におおきな影響を与えた。

 松岡正剛の『山水思想』(2003・五月書房)『花鳥風月の科学』(2004・淡交社)、には「花鳥風月」などのモードに分けて、日本人の美意識を解剖している。特に「風」」の章の探求が魅力的で、彼によれば、「風」は一種のメディア(情報)のシンボルである。風景とは何か、と言うテーマでの切り口は、諸家によって予想以上に多様である。


《 風景句の戦後性—「焦土」の風景》

 風景の書き方で戦前とあまり変わらないところを抜き出してみた。いろいろみてゆくと、廃墟や焦土にも豊かな景を見出しているところ、感動を覚えるほどである。日本人の精神世界では(少なくとも今までは)あるいはそれが、物質的な貧しさが埋蔵する見えぬ富に気づかせてくれるのかもしれない。


山茶花やいくさに敗れたる国の・日野草城  

明日如何に焦土の野分起伏せり・加藤楸邨 

焦土の辺晩涼は胸のあたりに来・森澄雄 

焼跡に遺る三和土や手毬つく・中村草田男


《風景句の戦後性—川柳集より「富士山」の詠まれ方》

富士山を取り合わせた句は風景句の好例になる。『近江砂人川柳集』(昭53・番傘川柳本社)番傘創立七十周年記念出版より。


お召艦その背景に富士の山   (昭14)

焦土あはれ流聯(いつづけ)をした店の跡  (昭21)

富士山にわが機の影がくっきりと (昭37)

聖火行く富士も声援する中を   (昭39)

元日の富士おごそかにあり石油危機(昭49)


 戦前は国の権威を美しく飾り、戦後は焦土での生活の背景に聳えている。いまならばプチナショナリズム、というところ。富士山の配し絵にすることの気持ちよさ、が伝わる。


《風景句の戦後性—「富士山」の俳句》

 俳句では、おおむね「富士」そのものをおおいなる「日本の風景」として称揚し対象化しようとする。それらの句が類型的でありながら単なる叙景をこえた完成度を獲得しているところも、戦前戦後とも変わらない。


元日や一系の天子富士の山  内藤鳴雪(明治の句)

立秋の麒麟の脚が富士を蹴り 須藤 徹(平成の句)


 須藤徹は戦後世代である。彼のキリンは動物園から抜け出して、巨大な神獣「麒麟」の風格を持つ。しかもウルトラマンのようにこの名山にケリを入れる。(しかし、これもやはり富士山の賛美と読みとられる。)


雪の富士高し地上のものならず  山口誓子

ばら色のままに富士凍て草城忌  西東三鬼

富士秋天墓は小さく死は易し  中村草田男  


 俳人の風景観も「富士」の神聖化からはまだぬけだしていないだろう。「焦土—荒廃」から立ち上がるために、「富士」という永遠の山への詠み方がまもられたのである。これは、俳句の方法的特質とのみはいえない。富士に代表される日本の風景の普遍の美を信じているゆえか、あるいはこれが日本的思考法というべきなのだろうか?


註1:『現代俳句の世界④:山口誓子集』「俳論 一」

【連載】現代評論研究:第4回 ―テーマ:「死」その他―:藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

 ●―1近木圭之介の句/藤田踏青

漁村で酒と蟹を食べ自殺論聞きながら   昭和53年


 ストア派の自殺容認論とは異なり、ショーペンハウアーの有名な「自殺論(自殺について)」では「自殺のもたらす個体の死は、決して意志の否定による解脱を達するものではない」「虹を支えている水滴が次々に交代しても、虹そのものはそのまま残るようなものであって、自殺は愚行に過ぎない」と説かれている。この自殺論をそのまま掲句に適用は出来ないが、薄暗い漁村での1シーンが自殺を客観的にみるか、自己の背景に刷り込ませるようにみるか、という両方の面で表現されている。しかし「世界が私の表象であるかぎり、いかなる客観であっても主観による制約を受けている*」のであれば、やはり後記の如く読むのが妥当であろう。「漁村」「酒と蟹」「自殺論」という言葉の流れから湿潤的なドラマの展開も予想される。「小指がきれいだ 死ぬことないのに(昭和63年)」の作品が其れに近いものかもしれない。


死んでうしろ姿のいつまでも見えて 行く   昭和15年


 種田山頭火が松山の一草庵で死去した際の悼句であり、当然「うしろ姿のしぐれてゆくか」の山頭火の句が下地にあり、先にも述べた山頭火のうしろ姿の写真も二重に被さってみえてくる。そして一字空白がもたらすものは、此岸と彼岸との別れであり、去ってゆくうしろ姿をも示唆しているかの如く。


天に独り龍にてあり水に独り月にてあり    昭和51年


 この年、師である荻原井泉水が91歳で逝去し、「龍翁井泉水逝く」と題した悼句である。龍とは圧倒的な定型俳壇の中にあって、自由律俳句を主張し続けた井泉水の孤軍奮闘の姿を示しており、その昇龍の様をも示しているのであろう。そして「空を歩む朗々と月ひとり  井泉水」の作品をも踏まえてもいる。

 井泉水は長生であったが、圭之介はそれ以上に長生し、平成21年に97歳で没した。しかしその最晩年まで創作力の衰える事は無かった。


己れは己れへ消えるため 風むきえらぶ    平成19年

今を生き。それだけに生き 終るか      平成19年

私という単純にうごく 影だった       平成20年

あれは船 海峡へ来た一つの月        平成20年


 前二句は圭之介95歳、後二句は96歳の時の作品である。空白や句読点の使用法など、晩年に至る程に詩的傾向を示しているのも見逃せない。そして既に「死」を意識した自己存在というものに静かに向き合っている姿がそこにある。「船」はかつて金沢から下関へやってきた自己そのものであり、「月」は関門海峡に永遠に留まる自己というアイデンテイテイなのであろう。

    *ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

ひとの死や薔薇くづれむとして堪ふる


 『冬濤』に収められた「ひとの死ー」と前書された5句のなかの1句である。

 きくのが生涯を貫いた愛は秘めたるものであったため、恋人の死を待って初めて作品となって明かされた。

 きくのは実業界のさる人物に世話になっていた。彼女を住まわせた赤坂の800坪の屋敷には川が流れ、橋が掛かっていたというから、その大物ぶりは想像できよう。しかし、相手に家庭があることで、きくのは一切をベールに覆ってきた。明治初期には妻以外の配偶を法的に認めていた時代があり、「世話をする、される」という関わりを、現代の関係に簡単に置き換えることはできないが、妻と同じような強い結びつきがありながら、決して妻の座につくことはできない間柄が、どれほど不自然で悲しいものであったかは想像に難くない。

 恋人が死の間際にいることを知っても、傍らにいることができなかった日々はまさに身を切る思いだったことだろう。恋人の死の寸前に詠まれた7句はかくも苦しく、救いがない。


まゆ玉にをんな捨身の恋としれ(『冬濤』所収)

逢ひし日のこの古暦捨てられず( 〃 )

たまゆらの恋か枯木に触れし雲か( 〃 )

永遠は誓へず冬木雲を抱く( 〃 )

出さざりし手紙ひそかに焼く焚火( 〃 )

忘れよと忘れよと磯千鳥啼くか( 〃 )

冬浜の足跡かへりみる未練( 〃 )


 数日後とうとう愛する人が亡くなったことを人づてに聞く。掲句を含め、その5句には悲しみをたったひとりで堪えるきくのがいる。


先立たる唇きりきりと噛みて寒(『冬濤』所収)

残されて梅白き空あすもあるか( 〃 )

ひと亡しと思ふくらしの凍はじまる( 〃 )

ひと亡くて枯木影おくかのベンチ( 〃 )


 そして次の1句で、彼女は恋人と永遠の訣別を告げた。


恋畢る二月の日記はたと閉ぢ(『冬濤』所収)


 このとき、きくの60歳。こうしてきくのには隠すべく恋もなくなり、あとはひたすら長々と横たわる時間が残された。そして2年後の1968年、


噴水涸れをんなの欠片そこに佇つ(『冬濤以後』所収)

噴水涸れ片身そがれてさへ死ねず( 〃 )


と、水を噴かぬ噴水を見ては、残されたわが身をはかなむ時代を経て、


死場所のなき身と思ふ花野きて(『冬濤以後』所収)


と、つぶやく。

 1976年、もっとも仲のよかった弟を亡くす。


うつせみや残されて負ふひとの業(『花野』所収)

花野の日負ふさみしさは口にせず( 〃 )


と、凛と言い放ってきたきくのの口から、ついに


かなかなや生れ直して濃き血欲し(『花野』所収)


という言葉がこぼれた。濃き血とは、夫、子供、孫という平凡な血統であり、結婚や子供という家族を持つことが叶わなかったきくのの、詮無い夢であったのだろう。

 自ら選んだ女優という職業、恋人との生活による自由と不自由。生涯を通じて好んで詠んだ牡丹を並べてみると、きくのの化身のように見えてくる。

 40代のきくのの作品に登場する牡丹は、華やかに身を持ち崩す。


落日のごとく崩れし牡丹かな(『榧の実』所収)


 50代では絢爛たる美しさは輝きを放つ。


牡丹の百媚の妍をうたがはず(『冬濤』所収)


 60代になると、牡丹もこれで楽じゃないのよ、という詠み方にしずかに変わり、


牡丹もをんなも玉のいのち張る(『冬濤以後』所収)

忽然とくづる牡丹であるために( 〃 )


 70代では、震える姿で現れる。


冬牡丹つひのしぐれに濡るるかな(『花野』所収)


 きくのが残した最後の牡丹は75歳の作品である。


寒牡丹五時の門限閉ざしけり(「俳句研究」昭和56年5月号)


 生の象徴、女の化身でもあった牡丹はついに、扉の向こうの花となった。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

白魚をすすりそこねて死ぬことなし


 昭和55年作、遺句集『無畔』(*1)所収。掲句は〈死期といふ水と氷の霞かな〉および、前回の感銘句の3句目としてあげた〈死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒〉の間に記載された齋藤玄の絶句3句のひとつである。初出はともに玄の主宰誌「壺」誌6月号。そのときの表題が「死期」であったことを考えると、玄にとってもはや「死」および臨終は近しいものであったといえよう。

 表題句ともなった〈死期といふ水と氷の霞かな〉は、永田耕一郎が言うように「風土感覚と季感を合一し、すべてを大自然のあるがままの姿にゆだねた、崇高な作品」(*2)、ととらえることもできる。病床に明け暮れた晩年の玄にとって、〈死期〉すなわち臨終とは単なる命の終わりというよりも空中に浮遊する水滴が日の光をうけて天空を赤く染める霞のようなものだったのである。水と氷が太陽の光という条件によって霞になるように、死もまた、生命の一過程をあらわす状態に過ぎない。臨終を実感したことがなくともそうした認識を読むことで読者は来たるべき自己の死を仮想体験しつつ、日常から解放された気分を味わう。そこに詩を読む快楽がある。それこそ、永田がいうように「大らかさと、やすらかさ」(*3)をこの〈死期といふ水と氷の霞かな〉から感受することもできるだろう。

 一方で掲句には「大らかさと、やすらかさ」といった高みは感じられず、むしろ滑稽な作者の横顔が透けて見える印象の方が強い。それは〈すすりそこねて〉という措辞に作者の慌てた表情が想起されるためかもしれない。〈白魚をすす〉るという行為、すなわち食べるということは、他者の命を奪い、死に転換することで自身の生の連続性を獲得するという峻厳な営みでもある。だが、〈すすりそこねて〉とは、他の命を取り込むことに失敗したのであり、いわば生の連続性が中断されていることを意味している。つまり仮死状態である。だが玄は〈死ぬことなし〉と飛躍する。病者にとって食べられないことは死を早めることに直結する。無理にでも食わねば命を永らえることは難しい。そうした生に執着する病者であるならば、感傷におぼれて甘えることもできたはずだ。しかし玄は自身を凝視したうえで、〈死ぬことなし〉と突き放して見せた。〈死期といふ水と氷の霞かな〉の句を得ている玄にとって死とは、〈水と氷〉が霞になるように存在形態の一変化に過ぎないのである。よって〈死ぬことなし〉とは、そうした死生観に裏打ちされた断言と見ることができるだろう。この断言があることによって、ある種の軽みを読者に印象付けている。さらには〈白魚を〉〈すすり〉〈そこねて〉〈死ぬこと〉とすべてS音から始まる語を文節の頭にすえたことによって、リズムが生まれていることも軽みを印象付けるのに関係しているだろう。末尾の〈なし〉にもS音が使われており、〈白魚〉のS音に戻ってゆくような、ある種の循環構造を持っている。

 春の到来を告げる〈白魚〉のぴちぴちと躍動する姿と〈すすりそこねて〉ぼんやりしている病者の対比、哀れさや感傷を寄せ付けない凝視の果てに得た生命観が〈死ぬことなし〉という無欲な断言を生み、それがある種の救いとなって読む者に「死」を実感させる句となっている。玄にとって死とは「時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごと」き(*4)ものであった。まさに半透明の白魚のように。


    *1 『無畔』昭和58年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載
    *2 『俳句』昭和55年8月号 「斎藤玄追悼」所載、永田耕一郎「水と氷」角川書店刊
    *3 同上
    *4 『雁道』昭和54年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載


●―5堀葦男の句/堺谷真人

陰画学級透し視れば革命前の鏖死(おうし)


 句集『火づくり』所収「祖国愛憎」の句。

 古色蒼然たるネガフィルムに写った級友たちの集合写真。透かし見れば毬栗頭の少年たちがまだあどけなさの残る顔でカメラのレンズを見据えている。しかし、それら友垣の多くは、あるいは戦陣に死し、あるいは不治の病に斃れ、若くして世を去ってしまったのだ。あたかも革命の成就を見届けることなく弾圧され散っていった志士たちのように。

 「鏖死」とは見慣れない熟語であるが、「鏖殺」が「みなごろし」であるから、「鏖死」は「みなごろしにあう」というほどの意味であろう。「横死」と同音なのは、不慮の死、非業の死というニュアンスが込められているものと解したい。

 掲句が作られたのは敗戦から遥かのち『火づくり』出版直前。一方、同じ句集の開巻第一章「風の章」(1941年から1948年までの作品を収録)には、「母校旧情(神戸一中同窓会誌に)八句」と前書きされた一連の作品がある。過ぎ去った学生生活をなつかしく回思する7句のあと、締めくくりにさりげなく置かれた句がにわかに読む者の肺腑をつかむ。そこには戦没者300万人余という大量死のone of them には決して還元することのできない一回限りの個人の生と、それにまつわる輝かしい記憶が鮮烈に刻印されているからである。


タックルを振り切り駆けり戦死せり  『火づくり』


 ここで改めて年譜を繙くと、青年期の葦男は近しい肉親との死別を立て続けに経験している。1937年8月13日 父・駿次郎 急逝。1942年7月 4日 兄・進 病歿。1944年7月 7日 弟・治 戦死。この間、1941年10月には胸部疾患の疑いで葦男本人が日本赤十字兵庫療養院に入院。以後1年をここで過ごし、兄・進の新盆も病院で迎えることとなった。


新盆のすぐ飛ぶ紙の位牌かな     『火づくり』


 病癒えて社会復帰を果たし、1944年6月にめでたく婚約した葦男を次に待っていたのが、海軍主計少佐としてサイパン島にあった弟・治の戦死の報である。


簾押して弟めける夜風かな      『火づくり』


 葦男は理智の人であった。かけがえのない人たちの死に際しては、哭泣するよりもむしろ透き通るように静謐なかなしみをその大きな双眸に湛えて微笑していたように思う。行年91歳で最愛の母・あいが他界したときの句は、とりわけその感が深い。葦男は多くの愛する人たちの「それぞれの死後」を大切に生きたのである。


灰に帰しいまふくよかな母のこる   『堀葦男句集』


●―9上田五千石の句/しなだしん

 上田五千石の死の一句といえば〈萬緑や死は一弾を以て足る〉を挙げるのが順当であろう。だがこの作品についての評はすでに潤沢であり、その評の大半を占めるであろう“「死」と生命力の象徴である「萬緑」の鮮明な対比”に対して、私は反論も、新しい論拠も今のところ持ち合わせていない。

 五千石は「死」を忌み嫌い、「萬緑」の句の自註に“「死」はわが俳諧の忌字”と記し、句集『田園』のあとは「死」という言葉が表出する句は作らなかったというのが定説だ。それは父を早くに亡くしていること、戦時という死と隣り合せであった生い立ち、それに起因する人生観、宗教観に関係するところかもしれない。

 ちなみに『田園』では〈萬緑や死は一弾を以て足る〉となっているが、自註での表記は〈萬緑や死は一弾を以つて足る〉と「つ」が足されている。これでこの句の読みが〈もってたる〉であって、〈もてたりる〉ではないことが明確になっている。また、この句の表記で「万緑」となっているのは誤りである。

     ◆

 さて、次の4作品は、句集『天路』の巻末に並べられたものである。


     九月一日 四句

夜仕事をはげむともなく灯を奢り五千石

芋虫の泣かずぶとりを手に賞づる

色鳥や刻美しと呆けゐて

安心のいちにちあらぬ茶立虫


 詠んだ日は、平成9年9月1日。つまり五千石が、突然に死を迎える前夜の作品なのだ。

『上田五千石全句集』(*1)の上田五千石年譜(上田日差子編)の平成9年の項によれば、


2日夜、自宅で原稿執筆のあと倒れる。同日午後10時10分「かい離性動脈瘤」のため、杏林大学付属病院で逝去。満63歳10か月余。


とあり、また『天路』の上田日差子によるあとがきには、


父のあまりに早すぎた他界ではありましたが、俳句と師との出会いにより、いのちに生かされ、俳句を信仰することで幸せな生涯を全うしたのだと、今は思うばかりです。(中略)亡くなる前夜作の父の句を揚げて、父の「生きるをうたう」よろこびを偲びたいと思います。


とある。

 この“「生きるをうたう」よろこび“とは間近で父五千石を見て育った、日差子氏ならではでの言葉である思う。実は「生きるをうたう」こそが、五千石の「眼前直覚」の秘められたテーマであると、私は思っており、それがこの〈あとがき〉から十分読み取れるのである。

     ◆

 〈九月一日 四句〉は、五千石の作品として見ると取り立てて秀作といえるものではないだろう。ただこの作品が奇しくも遺作になることは、本人も夢にも思っていなかったことが、逆に死というものを如実に顕しているようで、ぞっとする。

 人間は死をまぬがれない。そしてその「死」は時に唐突に訪れる。それは大震災や日常に起こる様々な事件事故に係わる可能性が、誰にもあるということ。常に「死」と隣り合わせにある命、その命を精一杯燃やすことが、いのちある者の使命といえる。


    *1 『上田五千石全句集』 平成15年9月2日 富士見書房刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

新涼や「死んで貰う」と高倉健


 『増補楠本憲吉全句集』<拾遺作品>に載っているが制作年代不明。

 俳句では、「新涼」は秋の季語。「涼し」は夏であるのに、「新涼」は秋の季語であるのは不可解である。暑いのは夏、涼しいのは秋に決まっている。俳人の因習はかくも怖ろしい。

 問題は、そんな季語論ではない。この「新涼」は、一般人の「涼しいこと」だと仮定しても、それは何となく映画館の大画面にふさわしい季節の言葉である。特に野外であると、それも夜の青葉の騒ぐ広場であると一層効果的だ。

 そこで健さんが極めつけのせりふ、「死んで貰います」とつぶやく。こんな映画をリアルタイムで見ていたころ、楠本憲吉がまだ存命で俳句を詠んでいたというのは不思議な感じがする。もっともっと昔の人のような気がしていたからだ。

 今回の主題「死」で詠まれた俳句16句の中で最も軽やかな俳句が楠本憲吉のこの句ではないかと思う。憲吉にとってはこの程度の死がちょうどよい。重苦しい死はふさわしくないからだ。この時殺されるのが天津敏だとすれば、シリーズの次の回ではまた不死鳥のように生き返って健さんに殺される宿命にあるのだ。死とはいっても1回限りの死ではないから、実に軽やかである。どうやって美しく死ぬかに監督も俳優も工夫を凝らす。そうした「死」なのだ。

 「死んで貰ふ」ではなくて「死んで貰う」もいい。決して健さんは、「死んで貰ふ」とは言わないからだ。「明治一代女」のようなせりふは健さんにはふさわしくない。俳句とはこのように細かく読むものなのだ。

     *    *

 先日、楠本憲吉が創刊した雑誌「野の会」の創刊500号記念大会に招かれて出席した。「詩客」で久しぶりに俳句を発表された安井浩司氏も、遠く秋田から来られていて久しぶりの話をさせていただいた。その後挨拶のために壇上に上がり見わたすと、一面華やかな感じがした。参加者も多かったが、参会者に女性が多く、その女性が皆それぞれに高価そうな和服を着ていたからだ。俳句の会でこんな和服の花盛りを見たことはない。いかにも、灘萬専務(長男だが社長でなく専務)の楠本憲吉らしい会と思われた。


●―12三橋敏雄の句 / 北川美美


手をあげて此世の友は來りけり


 「あの世」と「この世」。書かれていないのに書かれているように読める作品。逆転の回路である。読者の中にそれを呼び起こさせようとしているのではないか。概念として投げ込まれた言葉は、個々の読者の中で観念となる。詩歌の本領であろう。書かれていない「あの世」。「あの世」の友は来ない、「この世」の友だからこそ生きて手をあげてくる。両方事実である。

 「あの世」の概念は、古代エジプト文明からあり、死後に世界があるというのは、生きるものに「魂」があると信ずる所以であり尊厳である。英物理学者・ホーキング博士が、「天国や死後の世界は実在しない」と述べた記事(*1)は、死んだ本人が「あの世」を感じるかという視点であり観点が異なるが、元も子もなくなる。「あの世」は、残されたものが想う古代からの死生観だ。

 作品、風貌からの三橋敏雄は、肉體と精神の「健全さ」が「死」を遠く感じさせ、それ故、「この世」のリアルがある。頑強な體が三鬼、誓子、重信(*2)とは別の大物にした理由の一つと思える。三橋の「死」には、陸・海・空にひろがる大らかなものがある。


死の國の遠き櫻の爆發よ       『まぼろしの鱶』

たましひのまはりの山の蒼さかな   『眞神』

死水や春はとほくへ水流る

散る花や咲く花よりもひろやかに   『長濤』

死に消えてひろごる君や夏の空    『疊の上』

肉體に依つて我在り天の川      『しだらでん』


 遠い「あの世」に友がいる。「この世」に残された僕からみえる風景がある。

 「この世」により「あの世」を潜ませ、「友」をよりリアルにする。省略、読みの飛躍により、いかに句に現実感を与えるか、それは俳句形式そのものに立ち向かう行為であると思える。三橋作品が、リアリティを持つという実感は、氏が「夢の句」を嫌い、認識の薄い「聖五月」という語を俳句に使用することを非常に嫌ったという証言とも一致する。(*3) 

 掲句は、『巡禮』の6句目に収められている。(*4)

第二回「腿高きグレコは女白き雷」第三回「山山の傷は縱傷夏來たる」に続き、またも係助詞「は」を使用している句である。


    *1)Stephen Hawking ‘There is no heaven; it's a fairy story’ Sunday 15 May 2011 Guardian, U.K.
    *2)西東三鬼、山口誓子、高柳重信。それぞれ療養歴あり。
    *3)「三橋さんは夢の句が嫌いだった。」故・山本紫黄談。「聖五月」を嫌ったことは、同じく山本紫黄、桑原三郎・池田澄子からの証言。
    *4)『巡禮』製作1978(昭和53)年(1979 南柯書局)。一頁一句A6判小句集。偶数頁の右上、奇数頁の左上に、仏頭のような挿絵を置く。永田耕衣の絵である。自ら間奏句集と名付け50句を収録。限定250部。


●―13 成田千空の句/深谷義紀

人が死にまた人が死に雪が降る


 句集「人日」所収。

 千空には、個別の人間の「死」を対象とした作品が多数ある。例えば、若い時分に指導を受けた吹田孤蓬の死を詠んだ、


こほうさんと言ひて泣きけり梅雨の家    「白光」


や、夫人の母親が101歳の天寿を全うした際の、


雪よりも白き骨これおばあさん       「十方吟」


などである。さらには自身の辞世の句とも言える、


寒夕焼けに焼き亡ぼさん癌の身は


も記憶に残る。

 だが、こうした個別の人間の死ではなく、雪国とりわけ津軽の厳しい自然環境のなかで懸命に生き、そして死んでいった有名無名の人々の死を対象としている点で、掲出句は異なる意味を持つ。

 この作者らしく、句意は平明である。だが一句に籠められた想いには深いものがある。

 上五から中七にかけての「人が死に」というフレーズのリフレイン、そしてそれをつなぐ「また」という措辞に、この土地で生き抜くことの厳しさを受け止める覚悟が看て取れよう。しかし、そうした各々の死、あるいは残された人々の悲しみとは無関係に、今日も津軽に雪は降り積もる。読後、何ともいえない切なさがこみ上げたことを覚えている。しかしその感情を喚起したのは、掲出句が持つ、謂わば“乾いた抒情”である。こうしたごつごつとした手触りの、しかも抜きん出て骨太の句こそが、却って最も抒情的だといえるのではないだろうか。例えば、同じ内容を現代詩で表現しようとすれば、たぶん可能かもしれないが、恐ろしく長いものになるだろう。掲出句はそれをたった17文字で描き切った。俳句形式の底力を見る思いがする。

 そしてこの句の背景には、何と言っても津軽の風土が控えており、それが一句を支えている。何より人の「死」が生の営みの終焉である以上、大なり小なり「死」はその風土を反映したものになる筈である。だから「死」をテーマとした作品は、風土と直結し、風土そのものを詠んだものとなる場合があっても不思議ではない。掲出句はその好例である。結局、津軽の風土に生涯拘り抜いた千空にとっては、「死」も風土の一部だったといえるのではないだろうか。


●―14 中村苑子の句 1./吉村毬子

 中村苑子は、今年生誕百年である[本稿は2013年2月22日金曜日掲載。編者注]。そして、一月五日には、十三回忌を迎えた。

 あの世と此の世を行き来する、妖艶な女流俳人として名を馳せた、苑子の五十年余りの俳句人生と作品を、今一度、検証してみたいと思う。古典、軽み、癒しの俳句とは対極にある凄絶な俳句が彼女の代名詞となってはいるが、初期時代は、「春燈」で有季定型の基礎を学び、晩年は、静かな達観、無常を詠いあげながら、{生前葬}という形をとり、俳句人生に幕を閉じた。その数奇な女流俳人の世界を、一人でも多くの方に堪能して頂きたいと思う。十年ではあるが、苑子に教えを受けた貴い時間を反芻しながら、書き進めたいと思っている。


苑子略歴

大正二年  (一九一三)静岡県伊豆に生まれる。

昭和十九年 (一九四四)戦死した夫の遺品に句帳を見つける。

昭和二十二年(一九四七)幾つかの俳誌へ投句。「鶴」石橋秀野選に入選など。

昭和二十四年(一九四九)久保田万太郎の「春燈」に入会。

昭和三十三年(一九五八)高柳重信の要請に応じ、「春燈」を辞して「俳句評論」を創刊。自宅が発行所。

昭和四十七年(一九七二)尊敬する三橋鷹女没す。

昭和五十年 (一九七五)第一句集『水妖詞館』刊行。現代俳句協会賞受賞。

昭和五十一年(一九七六)第二句集『花狩』刊行。

昭和五十四年(一九七九)第三句集『中村苑子句集』刊行。集中の「四季物語」で現代俳句女流賞受賞。

昭和五十八年(一九八三)高柳重信急逝。「俳句評論」終刊を決意。

昭和六十一年(一九八六)富士霊園に苑子の墓「わが墓を止り木とせよ春の鳥」の隣に高柳重信の墓を建立。墓碑銘は「わが尽忠は俳句かな」

平成元年  (一九八九)福山市郊外に高柳重信の句碑建立。 

平成五年  (一九九三)第四句集『吟遊』刊行。

平成六年  (一九九四)』吟遊』で詩歌文学館賞、蛇笏賞受賞。

平成八年  (一九九六)第五句集『花隠れ』刊行。

平成九年  (一九九七)「花隠れの会」を開催、俳壇からの引退を表明。

平成十三年 (二〇〇一)肝臓障害のため死去。


1. 喪をかかげいま生み落とす竜のおとし子


 第一句集『水妖詞館』の第一句目である。竜とは、神話や民話に登場する実在しない生物である。日本では、十二支にも選ばれ、{竜の落とし子}という名の魚類までいる。しかし、掲句には水族館で見るあの愛らしさは感じられない。この句の「竜のおとし子」は、前者の、実在しないが、神話の対象として昔から日本人に馴染みの深い方であろう。

 生み落とされた「竜のおとし子」は、「喪」を負っていると云う。生を与えられた瞬間から死へ向かうのは必然であるが、喪をかかげながら、竜は生み落とされたのだ・・・。即ち、此の世とあの世を行き来する女流俳人と、決定づけられた『水妖詞館』の句群を充分に意識して第一句目に置かれたのであろう。苑子自身の身体感覚に伴う詩への方向性、詩は生死であること、そして、生は死への始まりであること。まさしく、それを物語る一句であり、句集を開いた瞬間から苑子俳句に引き込まれる、妖しき予兆の一句でもあるのだ。 そして、「竜のおとし子」は、『水妖詞館』そのものであり、喪をかかげて、私は今、この句集を生み落とすのだと告げているのである。


吉村毬子略歴(1962年生まれ。神奈川県出身。1990年、中村苑子に師事。(2001年没まで)。1999年、「未定」同人。2004年、「LOTUS」創刊同人。現代俳句協会会員。2017年没。享年55。)

2025年2月28日金曜日

【連載】現代評論研究:第3回・私の戦後感銘句3句(3)藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美

 ●―1 近木圭之介の句/藤田踏青

汽船が一つ黒い手袋から出て航く  昭和27年作「ケイノスケ句抄」所収


 圭之介は昭和9年に門司鉄道局に入社しているので、これは関門海峡の風景からイメージしたものであろう。黒い手袋は機関手のそれであり、夕景の中でのそれであり、戦後という時代を象徴するそれでもあろうか。それ故、汽船とはある意味で新たな世界、新たな希望へと、いつかは明るみへと出で立つものとして託された存在のようにも思える。

 画家としての圭之介は数多くのイラストや挿画を描いているが、氏の画風の基調は「黒」である。モノクロの世界では、白い背景の空白感と相俟って、まるで俳句における大いなる空白、「虚」と対峙する極限化された詩語のように「黒」が据えられている。つまり「黒」は氏の芸術の源泉であり、詩的認識の根源でもある。そして、この立体的な詩的空間は青春時代に夢中で読んだJ・コクトーの影響も多いのであろう。


黒。意識の統一                 平成5年作


 このエピグラム風の宣言こそが氏の芸術意識を端的に物語っているように思える。意識の統一としての「黒」がアイデンティティを主張しているからだ。


心のきれっぱし黒く蟻になり地を這う   昭和25年作

月夜楽器が黒いケースにおさまる     昭和29年作

自画像の中にあって黒いその船      昭和32年作

月夜に野犬化する黒い一匹の周辺     昭和41年作

思想は黒い実私の中にこぼれているだけ  昭和60年作


 これ等、黒い「蟻」「ケース」「船」「一匹」「実」は各々に、氏自身に内在するものであり、混沌とした自意識を客観的に分析しつつ、最終的には原郷としての氏自身へ回帰してゆく構成となっている。形象化された「黒」の切断面は、氏自身をも傷つけているのだが、結局は真の「黒」そのものに収斂されてゆく。つまり、氏の意識の統一こそは「黒」なのである。

 この門司港の職場には、ほろほろ酔うた山頭火が何度も顔を出したようである。それは其中庵(小郡)を発って九州の旅に出る時の通り道でもあったからであろう。また門司埠頭から東上遍歴する為に乗船する山頭火を見送りにも行った事もあるそうだ。その圭之介居の庭には山頭火の句碑が二基建てられている。


へうへうとして水を味ふ   山頭火

音はしぐれか        山頭火


その山頭火へ圭之介は今も語りかけているようである。


あの雲がおとした疑問 山頭火何処へ   圭之介 昭和57年作


●―2 稲垣きくのの句/土肥あき子

まゆ玉やときにをんなの軽はづみ


 1970年「現代俳句15人集」(牧羊社)に名前を連ね、きくのの第3句集『冬濤以後』が出版された。あとがきによると1966年から1969年秋までの3年間の作品が所収されている。句集とは生まれ変わるための禊のようなもの、とはよく言われるが、きくのの出版サイクルはすべて3年である。人間の細胞がおおよそ6年で大きく入れ替わるといわれることを考えると、その半分の周期で生まれ変わり続けるきくのの俳句にかける情熱は相当なものである。また、俳人協会賞を受賞した前句集を超える作品をまとめる前提は、かなりのプレッシャーになるのではないかと思うところだ。

 しかし、60代になったきくのの作品には、先の第1、第2句集よりずっと穏やかな呼吸が伝わってくる。前句集の痛々しいまでの率直な心情の吐露を経て得た切り口に、おおらかな艶が加わった。掲句にあるようなリズムの良さに加え、まゆ玉の色彩と、天から降るようなゆらめきによって、下五の「軽はづみ」を単なる無思慮ではなく、万やむを得ず囚われてしまうものとして明るく際立たせる。わが身を顧みながら、軽はずみにも思えたいくつかのできごとを、反省や忘却したいものとしてではなく、人生にきらきらと振り注ぐ光りのように感じているのだ。

 寄り道も後戻りもあった人生に、少しばかり肩をすくめながら、いくつかの軽はずみと思われたできごとも、ひとつひとつ愛おしんで振り返っているのである。〈牡丹もをんなも玉のいのち張る〉〈別れにも振向くはをんな冬木の芽〉などにも、掲句と同じ感情が働いている。

 自身を潔癖に見つめつづけたきくのが、あるいはどの女性も同じ弱さを持ち合わせていることを知ったのかもしれない。彼女のさらけ出してきた傷は、時代をこえて多くの女性が思い当たるものであり、それを誰に言うこともなくささやかな自己愛をもって癒してきた。女たちは、その性の強靭さやもろさ、あるいはずるさや哀しさについて、まるごと肯定するきくのに、なにより安堵し、安らぐのである。


●―4 齋藤玄の句/飯田冬眞

死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒


 昭和55年作、句集『無畔』(*1)所収。感銘句の3句目は「見る」ことにこだわり続けた玄の絶句をとりあげたい。玄にとって「見る」こととは何であったのだろう。見たものを俳句にする。あるいは、見えるものを俳句にする。さらには見えるように俳句にするという手法を多くの俳人は用いている。この絶句は齋藤紬夫人が病床の玄の口許に耳を寄せ、きれぎれの言葉を聴き取って筆録したものという。だとするならば、病床で玄は「死」を見たのだろうか。

 掲句の鑑賞に入る前に、この句が詠まれた背景を、つまり、昭和55年5月8日に永眠するまでの、玄の最晩年の軌跡を全句集の年譜を参考にたどってみる。昭和55年の玄は、新春の頃から発熱と腹痛に襲われ、1月22日に北海道旭川市の唐沢病院に再入院する。翌日手術を受けたが直腸がんが再発、諸臓器に転移しており絶望状態となっていた。だが、この間も絶えず句作・選句に傾注し、見舞い客には枕頭でのお見舞い句会を命じるのが常であったという。4月10日、前年の3月に刊行した第5句集『雁道』に対する第14回蛇笏賞授賞が決まる。病床で受賞の報を聞いた玄は、「今回の『雁道』では、純粋にナイーブに句作一途に専念できた」(*2)と語っている。

 そして、蛇笏賞受賞後、病のために目が見えなくなった玄は、主宰誌「壺」の投句を一句一句、紬夫人に読み上げさせて選句したという。玄の凄まじいまでの俳句への執着を物語るエピソードである。「見る」ことにこだわり続けた玄にとって、失明という身体的困難が作風に変化をもたらしたことは想像に難くない。

 玄は『雁道』命名の由来を句集の「あとがき」に次のように記す。

『雁道』(かりみち)という集名は、雁の通る道という意で命名した。雁道は、雁が通る時にはそれと知られる。また雁が通らなくともそこに存在する。時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごとくである。これは今後の私の命のありようと、俳境のありようを示唆しているような気がする。(*3)

 もちろん、『雁道』の「あとがき」を記述した時点で玄はまだ、〈花山椒〉の句は得てはいない。しかし、掲句の〈死が見ゆるとはなにごとぞ〉の一節を読むとあきらかに見えない死を見ている玄がいる。玄にとって「死」は他者の「死」であって、「見える」ものであった。前夫人、石田波郷、石川桂郎、相馬遷子などの死を作品化してきた玄にとって、「死」は「無くて在るがごとく」のものであったはずだ。客観的な他者の死であったからこそ「見える」ものであった。たが、自己の死を見たものはいない。玄は病による意識の混濁と覚醒のはざまで、不可視の死をすでに光を失った眼の奥底で見てしまったのだ。そのとき病床でつぶやいた独白が〈なにごとぞ〉という驚愕の一語であった。自身の「死」を見てしまった玄は、驚愕したと同時に恥じたのではないか。理性の人でもあった玄は幻視をみた自身をはにかみつつ、健康であった頃に見た〈花山椒〉を思い浮かべたのだろう。それは「山椒」の古称である「はじかみ」からの連想であったのかもしれない。病のせいでとうとう幻まで見てしまった。そんな玄の含羞が〈花山椒〉に託されているように思えてならない。

*1 『無畔』昭和58年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載
*2 『俳句』昭和55年6月号 角川書店刊
*3 『雁道』昭和54年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載


●―5 堀葦男の句/堺谷真人

蝉はたと肩にいまわれ森の一部


 句集『山姿水情』(1981年)所収。

 夏。森の中をそぞろ歩いていると、一匹の蝉がはたと肩にとまった。瞬間、蝉も我も等しく大いなる森の一部であることを俳人は直観する。まるで自己自身が森の木々のひとつになってしまったかのような、自然とのホリスティックな合一感覚。蝉を肩にとまらせたまま、木洩れ陽の中に凝然と立ちつくす作者の「そのとき」をまざまざと追体験させる句である。

 「ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒」の項でも触れたように、葦男は晩年に至るまで作品の形象性を重視し、実作においては対象をよく見ることを自他に課した。漫然と眺めるのではなく、みとめる、つまり、「見て止める」「しかと見とどける」ことを求めたのである。


しなやかな枝の全長雪を置き   『山姿水情』

散り敷いて桜紅葉の表がち    『山姿水情』

水勢に真向ふ山女魚ひとつは外れ 『朝空』

鴨万羽いま十数羽天に弧を    『過客』

柚子の宙しんと黒棘みどり棘   『過客』


 『朝空』(1984年)は生前最後の句集、『過客』(1996年)は歿後に編まれた遺句集である。還暦を過ぎた頃から葦男の俳句視力には一層磨きがかかり、とりわけ吟行などの嘱目詠において遺憾なく発揮された。彼に師事した山本千之(元「一粒」代表、故人)は喟然として歎じていう。

ことばによって「かたち」を成すに当たって類型的になることを避けようとすると、通常のレベルを超える観察力を要請される。このような仕方の一つに精密描写とも云える、より突っ込んだ観察がある(中略)何人も同じ景色を見ていたのに、ここまで精しく書いたのは先生だけであった。(「一粒」堀葦男追悼号 1993年より)

 これらの作品を読むたびに筆者は中唐の詩人・銭起の五言絶句「銜魚翠鳥」を連想する。「有意蓮葉間(意は有り蓮葉の間)、瞥然下高樹(瞥然として高樹より下る)、擘波得潜魚(波を擘きて潜魚を得)、一点翠光去(一点翠光去る)」カワセミの敏捷さと青い宝石の如き姿を活写する銭起は尋常ならざる動体視力の持ち主であるが、葦男の透徹した観察眼は時にこれに肉薄するのだ。

 ここで冒頭の作品にもどる。

 かくの如く平素より対象を凝視することに務めていた葦男が森の中で遭遇したのは、蝉の不意打ちであった。対象をとらえたのは視覚ではない。蝉が肩にぶつかる軽い衝撃と、薄い夏物の生地を通じて肌に伝わる爪の感触、そして森全体との合一感覚。一句をくっきりと立ち上がらせているのは、意志的・能動的・集中的な凝視ではなく、却って偶発的・受動的・全身的な感受なのである。

 蝉の句はこちらから摑みに行った句ではない。あちらから飛び込んできた句である。葦男がしばしば口にした「俳句を授かる」ということを何よりも端的に物語る作例であるといえよう。


●―8 日野草城の句/岡村知昭

妻子を担う片眼片肺枯手足


 第8句集「銀」(しろがね)所収。「草城頑張れ」の前書が付く。この1句の直前には「蠅生れ身辺錯綜す家事俳事」が置かれ、直後には高浜虚子の見舞い(前書には「五月二十三日 虚子先生を草舎に迎ふ」とある)を自宅「日光草舎」に迎えたことを詠んだ3句「新緑や老師の無上円満相」「先生の眼が何もかも見たまへり」「先生はふるさとの山風薫る」が続く。「銀」は草城亡き後にまとめられた句集であるのだが、まるで自らの手で一集を編んだかのような計らいを感じさせる並びとなっているのが、私にとってはなんとも興味深く思われる。妻子を養わなければならない勤めを果たすどころか、妻子の手を煩わせなければならない闘病の日々、その中でもとどまることのない俳句への情熱。そんな数々の「身辺錯綜」に溢れる日々のさなかに訪れた旧師とのようやくの「和解」に喜ぶ草城の姿が、作品の配列を通して、ある時間の流れを形作っているように見えるからだ。

 草城にはいまこのとき、数多くの人々が与えてくれるさまざまな支えによって自らの存在が成り立っていることを十分にわかっている。横臥しかない自分に代わって一家を支えるだけにとどまらず、夫の励ましになればとの気持ちから自らも俳句を作るようになった妻(日野晏子の俳句についてはいずれ取り上げてみたい)、「新興俳句の系譜を愛し、病める草城を重んじる」(伊丹三樹彦『人中』あとがきより)との深い師への思いをもって、すでに自由の利く体ではなくなった自分が主宰者である「青玄」の元に集ってくれる若者たち。それぞれの立場で自分を支えてくれる人々の姿を横臥しながら目の当たりにしながら、草城としてはなんとかこの想いに応えなくてはとの気持ちに駆られただろうことは想像に難くない。そのために何をすべきかを考えたとき、横臥の毎日を送る自分にできるのはただ俳人「日野草城」であり続けること。これこそが妻や俳句の仲間たちに報いる唯一の手立てなのでは、との想いが湧いてきたのではないかと思われてならないのだ。だから「草城頑張れ」との前書はいまここにある自分自身への励ましであり、「妻子を担う」とはたとえ体の自由を失っていようが、これからもずっと俳人「日野草城」であり続けることへの意思表示でもあったのだ。

 ただ、病床にある自らが抱くさまざまな思いに裏打ちされて詠まれたものでありながら、この1句からはいわゆる「境涯詠」が持つ求心的な雰囲気とは異なる、一種の軽さを帯びているように見える。この1句をはじめとして晩年(すなわち戦後)の草城の作品はいわゆる「境涯詠」のカテゴリーから読まれているのだが、その「境涯」の詠みぶりの視点は、自分と周辺に起こっている現象をそのままに像としての造形に向けられているように思われる。さらなる体の異変や家族や仲間たちのさまざまな姿も、それらすべてが起こるべくして起こったこととして受け止められて、それぞれの作品に立ち現れているのだ。この強い作句姿勢があればこそ、虚子の見舞いを詠んだ3句の中に決して虚子が受け付けるはずのない無季の句を入れられたのだ、「何もかも見たまへり」なのは自分自身が虚子へ向けたまなざしでもあるからだ。横臥の病床から「妻子を担」ねばならない「片眼片肺枯手足」の草城は、自分を支えてくれる家族や俳句仲間の前で、強い自信をもって俳人「日野草城」であろうとし続け、その姿勢を最後の瞬間まで見事に貫き通してこの世を去った。


●―9 上田五千石の句/しなだしん

 第1回で、昭和29年、五千石は神経症を患っていたことは書いた。

この件についてある人物によって書かれた文章がある。それは、句集『田園』の復刻版に付録の「交響集」の、鷹羽狩行による「伝承の使者―上田五千石論」(*1)という評論の一部である。

(前略)大学二年のときの強烈な精神衰弱であろう。
第一に下宿先の大井町で羽田から低空でくるジェット機音に屋根ごと揺すぶられ、空襲の恐怖を感じて夜中に幾度か寝床をとび出したという。第二は何でも人並以上に出来る彼は、何でもできることは実は何にもできないのではないかという不安を抱き、何をやればいいのかという方向失調の強迫観念が次第に募る。第三は女性に対する欲求不満、これは死ぬほど苦しく、また実際に死のうと思ったらしい。

と、なんとも歯に衣着せぬ物言いである。同じ時代に真剣に俳句に取り組んだ先輩で、いわば同士である狩行ならではの物言いなのであろう。

         ◆

 かくして7月17日、秋元不死男に出逢い、その夜には神経症は吹き飛んでしまった訳だが、吉原市(現富士市)唯称寺の「氷海」吉原支部発足の会では、秋元不死男の講演「俳句表現の生命」を聴き、そして句会に参加する。

 この際、五千石の句は秋元不死男選人位に入選する。


星一つ田の面に落ちて遠囃子   五千石(昭29年作)


 それがこの句である。「遠囃子」は季語としてやや微妙だが、遠く聞こえる祭囃子と思うと「祭」の範疇に入ろううか? または「星」が「落ちて」で、流星を詠んだ句になるだろうか? 時期は盛夏、場所は青田になっているであろう田園の道である。“星がひとつ田に落ちて”は夏の夜のファンタジーであって、遠く聞こえる祭囃子が現実のものと読むのが、やはり自然かもしれない。この句は、句集にも収録されておらず、もちろん自註にも掲載されていない。

         ◆

 いずれにしてもこの句が五千石の俳句へのめり込んでゆく記念すべき句である。

「ゆびさして」の星の句が句集『田園』の一句めに置かれ、この27年のこの句も「星」の句であることは、とても興味深い。

 ちなみに五千石には多くの星の句があるが、昭和18年、五千石10歳のときの「少年新聞」への投稿、入選句〈探照燈二すぢ三すぢ天の川〉もまた星の作品である。

*1 鷹羽狩行「伝承の使者―上田五千石論」は昭和44年2月「俳句」に掲載されたもの。


●―10 楠本憲吉の句/筑紫磐井

天に狙撃手地に爆撃手僕標的


 狙撃手は文字通り鉄砲で標的を狙うプロフェッショナルだが、爆撃手はあまり聞いたことがない。軍隊用語で言うと、航空機爆撃の際の爆弾投擲の専門家(標的に合わせて爆弾落下の条件を設定する者)を言うらしいが、なぜ「地」なのか。むしろ障害物を破壊する爆薬筒を匍匐しながら運んだという爆弾三勇士のようなものがふさわしい。しかしこの爆薬筒という武器は工兵部隊が使うもので、敵陣や鉄条網、地雷を爆破する兵器であるから人を標的にすることはない。調子よく読み進めるのであまり矛盾を感じないが、調子に騙されて論理はよくつながらない。逆に言えば詩歌は調子さえよければ論理など重要でないことの証拠になるかも知れない。「天に狙撃手」「僕標的」、要はこれだけを伝えればよいのだが、調子よく対句を使って明るい戦場を描いている、いや戦場のような環境にある人生をカラリと描いている。爆撃手は判然としないものの、いずれにしろ、僕の命を狙う危険な奴ばかりだからだ。これも前回同様62年の作品だから晩年の作品、死の前年の作品である。死の標的は自分である。「死ねばただ一億分の一人 水引草」「冬バラ瞑想「侮る勿れ汝が死に神」」などが同年作品であるが、論理的であるだけ詩歌としての飛躍がなく感銘句にあげるようなものではない。

 62年の作品としては前回の「郭公や」とこの「天に狙撃手」をもって憲吉の代表句としてあげておきたいと思う。63年、なくなる年ともなるとさすがに入院生活が続くためか、師の草城の晩年のような沈痛な句が見られるようになるが、これは憲吉にふさわしくない。憲吉の晩年は明るく調子よく軽薄であってほしいのだ。

 そもそも憲吉は師の草城をどう見ていたのだろうか。55年にこんな句がある。

師の句いよいよ懐かしかぐわし草城忌


 前回、堀本・北村と「戦後俳句史を読む」で草城と憲吉の比較を論じてみたところであるが、これは憲吉自ら草城についての感慨の一句である。論評と違って、本当に草城のすべてを現わしているかどうかは不明であるが、かえって散文の論理を越えて直感的に草城の一面を描いている的確さがある。憲吉にとって「かぐわし」い存在の草城は決して晩年寝たきりの草城の姿ではないだろう。やはり大正末期から昭和初期にかけての、才気溢れた草城、それこそ「ミヤコホテル」を詠んだ草城ではなかったか。当時相変わらず憲吉はこんな句を詠んでいる。


女体塩の如くに溶けて夜の秋 52年

若き人妻春昼泳ぐごと来る  53年

風花やいづれ擁かるる女の身 55年


 まるで「ミヤコホテル」なのである。


●―11 赤尾兜子の句/仲寒蝉

ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう  『玄玄』


 最終句集『玄玄』の掉尾に置かれた句。昭和56年、兜子は不眠やアキレス腱の傷あとの痛みなどに悩まされていたが3月17日自宅付近の阪急電車の踏切で事故に遭い急逝した。享年56歳、一説には自死であったという。

 『赤尾兜子全句集』は作られた順に編まれている。最初に『稚年記』、ついで『蛇』『虚像』『歳華集』そうして最後が『玄玄』である。しかし刊行されたのは『蛇』(昭和34年、34歳)、『虚像』(昭和40年、40歳)、『歳華集』(昭和50年、50歳)、『稚年記』(昭和52年、52歳)の順であった。なぜ晩年になって初学の頃の作品集である『稚年記』を出版したのか。あとがきで兜子は「周囲の、度重る誘ひにのつて」遺書として父に手渡した句稿、父も亡くなり「三十年あまり筐底にねむりつづけて」いた句稿を湯川書房から出版することにした旨を書いている。『歳華集』の後、兜子はそれまでの無季も辞さず破調の多い新仮名遣いの俳句から有季定型、歴史仮名遣いのそれに回帰(?)していた。そのことと自分の初学の頃の有季定型、歴史仮名遣いの句稿を世に出そうと決めたこととは無関係ではないように思われる。

 その晩年の有季定型、歴史仮名遣いの俳句たちは作者の突然の死によって整理されないまま残った。ただ次の句集上梓の意志は固まりつつあり、句集名を『玄玄』にしたいということを周囲に告げていたと言う。『玄玄』は兜子の死後に編まれたためにそれまでの4句集と異なり本人の編集を経ていない。

『赤尾兜子全句集』のあとがきに和田悟朗は次のように書いている。

最後の一句、「ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう」は、没後かなりの日数がたってから、兜子の日記から発見された作品の一つで、その執筆は逝去のほんの数日前に当たる。そこに書きこまれた句は、その時の心情をそのまま書き連ねたものが多く、その中からこの一句だけをとくに恵以夫人の許可をえて、事実上の絶句として添えることにした。全巻を通じて唯一の未発表作品である。

 兜子の人生を離れて好きに解釈すれば「ゆめ」は誰かと誰か、例えば夫婦同士、友人同士といった二人の見る夢が異なっているということか。その場合の夢は眠って見る文字通りの夢と言う意味かもしれないし所謂未来のビジョンと言う意味での夢かもしれない。しかし考えてみれば見る人が違えば夢が異なるのは当たり前。別の見方をすれば同一人物が別の機会に見る二つの夢が全く違うということかもしれない。例えば気分が高揚している時と落ち込んでいる時に見る夢というように。

 蕗の薹は春になると真っ先に地面を割って顔を出す。これから過ごしやすい、いい季節に向かうという希望を込めた季語と言える。それに蕗の薹は蕗の子供であるからどのように成長していくのか未知数なのだ。二つの夢と蕗の薹との取合せは、従って将来の可能性、それも明るい可能性を示唆する。兜子の悲しい最後を想い合わせると、この句が全句集の最後に置かれていることが実に大きな救いのように思われる。


●―12 三橋敏雄の句/北川美美

山山の傷は縱傷夏來る


 環境は、人格形成に加え、作品に大きな影響を及ぼす。三橋敏雄の出生地・東京都八王子市は、西南には富士山、南には山岳信仰として名高い大山、そして丹沢山系が臨める。古くから宿場町として栄え、織物産業を中心に物流中継地としても発展した。筆者の出身地・群馬県桐生市とも、その織物文化交流は古く、八王子・大善寺境内の機守神社が桐生・白滝神社から勧請された記録もある。

 三橋には山を詠った句が多い。「裏山に秋の黄の繭かかりそむ」(『眞神』)「蝉の殻流れて山を離れゆく」(『眞神』)「山を出る鼠おそろし冬百夜」(『眞神』)「山里の橋は短し鳥の恋」(『長濤』)など。三橋敏雄の眠る墓地、八王子・吉祥院の高尾山が見渡せる高台に句碑「たましひのまはりの山の蒼さかな」(『眞神』)が建立されている。どの山の句からも山を背に角帽の三橋青年の姿が見えてくるようだ。掲句は『疊の上』に収められている。

 縦傷とは何か。開腹手術の場合、縦切りは、視野が広く手術しやすく、緊急手術はほぼ縦切りになるらしい。横切りは術後に傷が目立たないというメリットがある。縦傷とは深く跡が残る傷である。山の縦傷。伐採でむき出しになった「不整合」という地層(ジュラ紀=約1億4000万年前)がみえたのだろうか。山の縦傷から太古がむき出しになり、自然破壊への警告とも読める。そこに人を灼く夏がまた来る。 

赤蜻蛉わが傷古く日を浴びて (『鷓鴣』)

 一方、「傷」という言葉が一致している上掲句と並べてみると、不思議と「傷」の意味が同じにみえてくる。一瞬にしてついた昔の深い傷、夏から秋になると思い出すもの―「戦争」と結びつけるのは短絡だろうか。戦争は思い出したくない過去であると同時に、決して消えることのない歴史的事実だ。「傷」とは、ゆるぎない「過去の事実」に因るものである。

 『鷓鴣』と『疊の上』は制作年として10年以上の開きがあるが、「赤蜻蛉」の句を土台とし、「山山の傷は縦傷」の句が生まれたと思える。技法としては、前回(第二回)の「腿高きグレコは女白き雷」と同様、「は」の使用に注目している。

 三橋敏雄のような大正末から昭和初めに生まれた世代が「戦中派」とよばれ、注目されるようになったのは、昭和30年代初めのことだ。働き盛りの30代40代である。「もはや戦後ではない」(1956年)という言葉は、「戦前」のレベルを超えることは易しいがその先容易ではないという意味だった。「戦後」という言葉は使われつづけてきたが、3.11の震災を契機に、「戦後」から「災後」に変わるという論考(*1)がある。「災後」が文字変換トップにくる日も近いのか。注目していきたい。

 「傷」それは、「過去の刻印」ということに気付く。


*1)「災後政治の時代」(読売新聞2011年3月24日文化欄)御厨貴(みくりや・たかし):政治学者、東日本大震災復興構想会議議長代理

【新連載】現代評論研究:第3回・戦後俳句史を読む【総合座談会】/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井

 ●―3,7,10 第3回戦後俳句史を読む/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井

筑紫:今回は時間の関係もあり、次次回のテーマ「風土」について論じておきたいと思う(次回のテーマ「死」についてはすでにかなりの原稿が集まっているため)。今までは「戦後俳句を読む」で登場した作品・作家を中心に鼎談を行ったものだが、今度は「戦後俳句を読む」が書かれる前に、3人でそのテーマについて議論してみたいと思ったものである。ただあまり方向付けをしすぎてもいけないので、打ち合わせることもなく、3人が3人、それぞれの視点から論じてみた。作品鑑賞をされるにあたって参考にしていただければ興味深いと思う。

北村:第2回に採りあげた草城・憲吉などを都市派とすると、対照的にいわゆる地方にこだわった俳人がいる。たとえば斉藤玄、佐藤鬼房、成田千空。住んでいる土地と一体化して多くのの佳句を読んでいる。風土と言う土台を離れなければ、俳句は少ない言葉で多くのことを語る装置である。歳時記は言葉の型式にとどまらず、民俗学や生態学などを包摂している。しかし私の志向を述べると、風土描写にのみとどまるのは何か立体性に欠ける。そこで現実的な日常性を脱して国家・反国家といった方向に上昇する道はあるだろう。俳句というミニマルな器の中では、そのような観念的な上昇も表象(象徴的な表現)を通して詠まれることになるだろう。

 しかし私はもう少し大きな時間・空間を期待してきた。いわばSF(science fiction というよりも speculative fiction)の俳句化である。むろん、これも表象を通して詠まねばならない。しかし完全に離陸してしまうと、落着きのない空疎なものとなる。

 詩客の中で飯田冬眞 の採りあげた齋藤玄の句を見ると、一つの道が見える。玄は風土に浸りながらも、より普遍的なものを詠んでいる。飯田の挙げる

たましひの繭となるまで吹雪きけり

の前後にも

まくなぎとなりて山河を浮上せる

雪積むを見てゐる甕のゆめうつつ

など、死者に成り代わった視線がある。俳句にもエロス志向とタナトス志向があるのだ。もうすこし詩の考え方で言うと、これらの句は、俳句のうちではもっとも象徴詩となっているのではないだろうか。芭蕉の句には象徴性があるとされるが、玄はその要素を純化させたと言えそうである。(ついでながら、芭蕉の象徴性が、野口米次郎の介在によって内外の詩の運動に大きな影響を与えたとの、堀まどかの詳細な論考 がネットにある。そこに記された自由詩と俳句相互の影響の往還は大変興味深い。)その代わりに玄が捨てた、というより無縁であったものは俳諧性であろう。子規本人の意図は奈辺にあったかは分からぬが、結果としてラディカルな正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」をくさし 、ほぼ有季定型を守るなど、模範的な正統派の顔を見せるが、豈 weekly に富田拓也が記した玄の来歴 を見ればそう単純な人ではないようだ。玄自身、内外の詩の洗礼を受けている。富田の文章には「13歳の頃から谷崎潤一郎、永井荷風小説を愛読し、萩原朔太郎、ボードレールの詩を耽読。その後も日本文学、海外文学を濫読。中原中也、ランボー、ヴェルレーヌ、リルケなどを愛踊していた」とある。教養は象徴的な現代詩に距離が近いのである。

 もう一つ風土ということで付言すれば、齋藤の行き着いた死者の視座に立つモノクロの世界と、安井浩司の汎神論的色彩を纏ったカオス、北方を領土とする俳人の対比も面白そうである。

旱畑にんげん湧くをたまゆらに     斎藤玄

大地に湧きし魚は河に棄てられん    安井浩司

筑紫:風土の前に風土俳句について述べておこう。風土俳句とは、昭和34年の角川俳句賞で村上しゅらが受賞した「北辺有情」を契機として生まれた俳句の傾向で、地方在住の作家による土地固有の自然と人間の生活をテーマにした俳句をいう。石田波郷が「村上しゆら君は角川俳句賞受賞以来、風土俳句の選手のように見られてゐる」と呼んでからこの名称が一般化した。この、「テーマにした」がくせ者で、昭和40年代ころまでは進歩的な俳句とは常にテーマを持つことが当然と考えられ、それがある時期は社会性俳句となり、あるいは狭義の前衛俳句(金子兜太)として展開したが、その一種の流れと見てよい。したがって俳句にテーマが顧みられなくなって以来風土俳句も衰退している。

 風土そのものは、地域に住む作者(飯田蛇笏、前田普羅など)である限り風土を反映した作品を発表せざるを得なかったが、どちらかといえばプレ風土俳句の作家たちは、風土に寄り添った諷詠俳句、風土をテーマとはせず背景とした詠み方が主流であった。

 これが変貌したのは、戦後登場した社会性俳句により、地域に住まない作者(能村登四郎、沢木欣一ら)が自らの居住する地域以外の地域(岐阜白川村、能登塩田)を旅行することにより風土をテーマとして句作することから始まったようである。風土を読んだ社会性俳句と風土俳句の相違は、地域に居住するか否かという点と、特に前者が倫理的態度(滅びゆく村や苛酷な肉体労働への同情)をもって望んでいる点であると考えられる。

 いずれにしても、風土をテーマに選択した社会性俳句が、そのジャーナリスティックな反響から地域在住の作家に影響を与えて風土俳句は生まれたものと考えてよい。角川俳句賞では、木附沢麦青、山崎和賀流、加藤憲曠などが風土俳句の流れにあるといわれる。

 むしろ、社会性俳句作家とも風土俳句作家とも考えられていない馬酔木の相馬遷子は、長野県佐久市という辺鄙な地域に在住し、後進的な長野の地域医療に身を置いて自然と人間を(憤然と)詠み続けている点で、社会性を持ち風土性を持つむしろ過渡的な作家であるといえよう。

 いずれにしても、①風土諷詠俳句(蛇笏、普羅さらには飯田龍太など)、②旅行者による社会性俳句、③地域在住者による社会性俳句、そして④いわゆる社会性俳句などのように座標軸をはっきり定めない限り風土を論ずることは難しいのではないか。


堀本

《俳句に於ける「風土」「風景」》 

 各自の「風土像」→「風土観」の違いや、関心ある対象作家の違いが見えてきた。北村虻曳が、ユニークな論理の運び方で、今ここに住み感受して居る人間の内面と、表現された風景(俳句)とをむすびつけている。また筑紫磐井は「風土俳句」という今まで私があまりコミットしていない枠組みを教えてくれた。

 おりからの東日本の大災害で地の相貌は破壊された、および原発事故に伴うテクノロジー社会の停滞はいつかは恢復するかも知れぬものの、そう簡単にはゆかないようすである。言えることは、戦後俳句の当初のテーマと今の状況を「風土」の変貌というコンセプトの内で重ねてみると、表現のあり方をかんがえる重要な契機ともなるはすだ。

《敗戦時の句 例示》 

 戦後の風景は、まず原爆による破壊と空襲による都市の焦土として象徴的にあらわれる。 戦後と言うモチーフをかぶせた俳句の展開はそれと軌を一にしている。戦後の日野草城や楠本憲吉がまず眼前に置いた都会はそういう風景であり。その奧には戦前から依然として見慣れた日本的な景観や季節のめぐりへの郷愁や再発見がある。

明日如何に焦土の野分起伏せり・加藤楸邨  (『野哭』(昭和23松尾書房)

山茶花やいくさに敗れたる国の・日野草城  (『旦暮』・昭和24星雲社)

ニコライの鐘の愉しき落葉かなー戦終わりければー・石田波郷 (『雨覆』昭和23七洋社)

炎天の遠き帆やわがこころの帆・山口誓子  『遠星』(昭和22創元社)

国の阿呆 ただ撩乱と雪雫・冨澤赤黄男  『蛇の笛』(昭和27三元社)

地平より原爆に照らされたき日・渡辺白泉  『白泉句集』(昭和50書肆林檎屋)

星よ地に星孤児を得ん地に触れよ・高屋窓秋  『石の門』(昭和28酩酊社)

いつせいに柱の燃ゆる都かな・三橋敏雄  『まぼろしの鱶』(昭和41)

焦土の辺晩涼は胸のあたりに来・森澄雄  『雪欅』(昭和29書肆ユリイカ)

兄逝くや空の感情日に日に冬・飯田龍太  『百戸の谿』(昭和29書林新甲鳥)

夏浪か子等哭く声か聴えくるー敗戦3句の内—三橋鷹女 『白骨』(昭和27鷹女句集刊行会)

焼跡に遺る三和土や手毬つく・中村草田男  『来し方行方』(昭和22自文堂)

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む・金子兜太  『少年』(昭和30「風」発行所)

蚤虱詩性拳銃餓死議事堂・鈴木六林男  『荒天』(昭和23雷光俳句会)

 いずれも昭和20〜25年ぐらいまでに書かれ、「焦土」を眼前にして暗然としている俳人の心象風景でもある。この時期の社会的関心「戦後」を投影した風景。

《風土の固定性と浮遊性》

混乱した風土の恢復を求めめざして、戦後史が始まった。戦後俳句の表現史はどうなっていったのだろう。

 草城や憲吉の俳句を特徴づける都会性の奧には依然として見慣れた日本的な自然が存在していた。都会のイメージには、情報文化の氾濫等のよって、生活からすこし浮き上がったオシャレな一種の浮遊感と言うべきものにくるまれているところ、幻想であってもそれは地方からでて来て都市を支える人たちを引きつけた魅力であろう。都会もまた一個の仮想の風土を形作っている。

 現在、自然からの攻撃と原子力の害とを同時に受け、基層にある故里の風景が毀れたのであるから、いわば日本の大地が丸ごと浮遊し彷徨をはじめたのだ。これからは都会も地方も「浮遊する風土」として生きざるを得ない。そして筑紫が言うジャーナリズムの生長、情報の多様化を促すかも知れない。それがまさに戦後の帰結である現在の文化風土なのだ。今度の災害が、日本語文化圏のわれわれに大きな表現の課題をつきつけている、のは確かなことである。腰をすえてかからねばならない。

筑紫:実は「風土」と対にして、「風景」についても考えてみたかった。前者の主観性やナショナリズムの視点、後者の客観性やインターナショナルな視点の差は面白い。論者として言えば、前者は和辻哲郎、後者は志賀重昂であり、今や前者が圧倒的に分がよいのであるが、こと俳句に関して言えば、俳句一般論と親近度が高いのは風土ではなくて風景のはずである。風土俳句は現在ではごく一部の傾向にすぎないが、花鳥諷詠を含めて日本中の俳句の大半は風景俳句である。当たり前すぎてまだ誰も気づいていないのであるが。似た概念である風土と風景がなぜこれほど違った効果を持つのかを考えてみると興味深い。

 冒頭で述べたように、次次回のテーマ「風土」にどのように今回の議論が反映されるかも楽しみなのだが、それと対局的な「風景」はむしろ次回のテーマ「死」にふさわしいようである。編集者の特権として、次回原稿を今読ませてもらっているが、これこそ風景なのである。死は風土ではない。

2025年2月14日金曜日

【連載】現代評論研究:第2回・私の戦後感銘句3句(2)[執筆者]藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、山田真砂年、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美

 ●ー1近木圭之介の句/藤田踏青

虚構ノ美シサ触レレバ風ニナル


 「層雲自由律二〇〇〇年句集」(平成12年刊)所収の、作者が81歳の平成5年の作品である。掲句については以前「豈」にも書いたが、俳句は現実に触発された思いによって創られるが、現実的な世界を具体的に描く段階から発し、非現実的な虚構の世界を抽象的、シュールに描く段階へと、創作の意図のベクトルは拡大され、多様化されてゆく。そしてその虚構の美しさを保証するものはあくまで言葉のリアリティでなければならない。即ち、言葉が拘束するのである。

 「虚構と現実」とは「文学の真実」にも相通じるものであり、その根底には人間の存在が横たわっている。文学には限界は無い。延いては表現方法と内容にも限界は無い。虚構とは表現技術の一方法なのであり、文学(俳句)だけではなく、芸術の全ての行為は虚構である、との言も過言ではない。そこに全ての本質が込められているのだから。

 掲句は漢字とカタカナの表記であるが、これは圭之介が画家としてデッサン風に描いたからでもあろう。特にカタカナ表現は虚構の構築過程のメタファーに相当するものであり、その裏に硝子の如き脆さをも秘めている事を示唆している。またそれによって「虚構ノ美シサ」と「風」が印象鮮明に浮かび上がってくる効果もあろう。そしてその虚と実の世界に「往きて帰る心」が余すところなく表現され尽くしているとも言えよう。

 圭之介の詩「パレットナイフ」(「近木圭之介詩画集」平成17年刊)に次の様なものがある。


Ⅰ 現象は飛躍の中で虚構

  感受性は非存在の座から訴える

Ⅱ よどむ思念はいつか変貌

  偽りの衣装

  演技のなかで透視される実体


 ここでも虚構と現実が相互に照応しあっているのがわかる。詩人として、画家として、俳人として、圭之介は吐き続けるのである。


ドコ切ッテモ日曜ノ午後 曖昧ナ狂イ   平成5年作

イノチ詩語吐ク 微量ノ毒吐ク      平成9年作


 荻原井泉水は層雲第一句集<生命の木>(大正5年刊)において「芸術より芸術以上へ」と主張し、戦後もその求道的な「層雲の道」を説いたが、圭之介は「芸術より更に芸術そのものへ」との志向へと深めて行ったものと考える。それ故、晩年の井泉水の方向性とは異なった独自の作風となっていった。


●―2稲垣きくの句/土肥あき子

バレンタインデーか中年は傷だらけ


 1963年第一句集を上梓した直後、「春燈」主宰久保田万太郎を亡くす。そのわずか3年後の1976年に出版された第二句集『冬濤』で俳人協会賞を受賞する。句風に大きく方向転換が見られるのは、万太郎の死が影響していることを感じさせる。

 句集には1965年、まだアンカレッジ経由で世界旅行をしていた時代に、パリ、ローマ、サンフランシスコと賑やかな旅吟が混じる。〈夏帯にたばさむものやパスポート〉〈甃よし夏足袋のふみ応ヘ〉〈ゴンドラの波きて匂ふ水も夏〉と、それはまるで渡り鳥が係留地に点々と立ち寄っているような軽やかな詠みぶりである。

 また、そののち、あきらかに恋人との死によって永遠の別れが訪れる。恋人を失ってのち、きくのは秘めたる愛を作品へと解放した。恋ほど軽くなく、情念ほど重くない、そして背徳の悲しみを背負ったきくのの愛は、完全な幕引きにならない限り、俳句にもエッセイにも個人を特定することができないよう配慮してきたものだった。

 掲句は「ひとの死ー」と前書された連作に続くものである。不二家のハートチョコレートが発売されたのが1971年、このあたりから日本にバレンタインデーが定着したといわれる。掲句は1966年の作品であることから、まだ一般にバレンタインデーがなんのことかも、よく分からない時代である。

 しかし、前年ヨーロッパ各地を旅行してきたきくのにとって、それが愛の日であることはじゅうぶんに意図し、さらに誰もが聞きなれない言葉であればあるほどふさわしい斡旋だった。

 「そうか、今日は愛の日か…」と恋人を失った日々のなかで思うきくのは、傷だらけになったわが身をつくづくと見回し、名誉でも災難でもない、ただひたすら自分でつけてきた傷にそっと触れている。


●-4齋藤玄の句/飯田冬眞

たましひの繭となるまで吹雪きけり


 昭和52年作、句集『雁道』(*1)所収。第14回蛇笏賞の選者の中では、森澄雄が感銘句のひとつにあげただけだが、没後30余年を経てもなお、歳時記の用例に取り上げられることが多い句。齋藤玄の代表句という者もいる。前回の〈おのおのの紅つらならず曼珠沙華〉と比べると写実の目とは異なるが、何かを見ている作者はたしかに表出されている。何を見ていたのか、それを探るのが今回のテーマでもある。この句について玄は、自註(*2)にこう記す。


「吹きまくる吹雪の中で、僕の魂は雪で真白になってゆく。その上にまた雪が吹きつけて重なってゆく。魂まで繭のようになってしまった」


 しかし、読者には「魂まで繭のようにな」るとはどういうことなのかが判らない。見たものを追体験できるような作り方ではないからだ。前回の〈曼珠沙華〉の句は対象を見ることで生まれた。群がり咲く曼珠沙華を見て「一団の火」のように感じた「紅」の色ではあるが、子細に見ると一花一花、個々の持つ紅色に差異があることを発見した。その認識の結果を〈つらならず〉という語を用いて曼珠沙華の本質を描き出すことに成功した。見たものを見せることで共感が生じたのだ。

 見ることは対象を認識するための過程のひとつである。五感を駆使した句は、表出された言葉を手がかりにして作者のつかみえた認識に遡及しやすくなるため「開かれた俳句」といえるだろう。いっぽう、認識そのものは、五感の架け橋を用いなければ、伝達することは困難である。「閉じた句」とは多く、認識そのものを詠んだ際に付与される評言といえるだろう。そうした「閉じた句」を鑑賞する際に手がかりとなるのが象徴的な語、イメージではないだろうか。

 掲句の場合、手がかりは多いように思える。〈たましひ〉〈繭〉〈吹雪〉。なかでも季語の「吹雪」には、作者の住地が北海道であることを踏まえれば、風土と魂の相克という図式化した鑑賞に誘い込む陥穽すらある。だが、この句から感じるのは、風土の呪縛から解き放たれた詩魂の飛翔などといった空疎なものではない。もっと切実なものだ。

 句集の配列をみると、この句の前に「病む妻の侘助の番をするでなし」があり、三句あとに「きさらぎの誰の忌ならむ髪ばさら」がある。そこから作句時期を敬愛していた相馬遷子の一周忌(1月19日)を含む一月中旬ないし下旬と類推してみたい。作者が、友の一周忌を契機にして、自身の病や妻の病から漠然と感じ取っていた「死」という見えないものを凝視することで受け止めた命のありようを詠んだものと言えないだろうか。つまりこの句における〈吹雪〉とは、老病死といった生きることの苦しみ、とりわけ「死」への恐怖を表し、それを感じ続ける〈たましひ〉とは作者を含む命あるもの。〈繭〉とはそうした感じやすい命を包みこみ、保護する悟性そのもの。いうなれば、「死」の恐怖を感じ続ける〈たましひ〉が「死」であり「生」でもある〈繭〉を生み出したのだ。繭とは「死」であり「生」でもある両義的な存在。だが「生」や「死」に翻弄されることはない。〈繭〉という象徴的な語から読み取れるのは、凝視した果てに到りついた作者の境涯であり、命を見続けることの永遠性である。見ることは次の生への過程のひとつという認識そのものを詠んだ奇跡の一句である。

 冒頭に記した「何を見ていたのか」という最初の問いに答えるならば、「命を見ていた」ということになるだろうか。

*1 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●ー5堀葦男の句/堺谷真人

沖へ急ぐ花束はたらく岸を残し


 出航する貨客船。色とりどりの紙テープが宙に舞う。やがてテープは次々と切れ、人々の手から青い波間へと滑り落ちてゆく。餞の花束を高く振りつつ沖へと遠ざかる船客たち。一方、船上から望む埠頭には、見送りの一群の後方で立ち働く荷役の人々の姿があった。

 葦男は神戸育ちである。小学生の頃から、夏冬の休暇に父と神戸~横浜間を海路旅行し、詩情を蓄積されたという。大学卒業後は大阪商船に入社、はじめ神戸支店、ついで大阪本社に勤務した。海や船は特別親しい存在だったのである。

 しかし、彼が入社した1941年に太平洋戦争が勃発、翌年には国家総動員法に基づく特別法人船舶運営会が設立され、海運業界も国家統制の中へと組み込まれてゆく。1947年、肺患を抱える葦男は劇務に耐え切れず転職。棉花関係の職場を選んだのは、仕事の性格上、海彼とのかかわりを温存できるという淡い期待があったためかもしれない。

 冒頭の句も『火づくり』(1962年)所収。句集最末尾の「祖国愛憎」中、船舶を素材とした6句のひとつ。20音節の破調だが、「寒暮の波になぶらせ離心軽い吃水」「灯漏らすキャビン鋼より緻密な沖指しつつ」など他の5句に比べ、表現は際立って平易であり、記憶に残りやすい。

 ここで、『火づくり』上梓と同年、第10回現代俳句協会賞を受賞した葦男のコメントを聞こう。


 だんだんと俳句の特質が、時間性よりも空間性に、詠唱性よりも形象性にあることが分って来るにつれて、本格的なデッサンを身につけたいと思うようになり、虚子はむろんのこと現代の先輩作家の技法を句集から学ぶことに努めた。

(「俳句研究」1963年1月号所載「受賞のことば」より)


 「沖へ急ぐ」は受賞作品「砂礫の涯」50句に採録されている。が、連作とも見える他の5句の姿はそこにはない。句の取捨を左右したものは何か。筆者は「詠唱性から形象性へ」というテーゼに背馳することを、他ならぬ作者自身が行ったのではないかと見る。「オキエイソグハナタバハタラクキシオノコシ」この句は破調であるにも拘らず、同音や類似音を巧みに配し、詠唱性に優れる。景は淡白である。「本格的なデッサン」というよりも余白の多い略筆である。その余白に響くのは海風に遮られて切れぎれに届く家族や友人の声であり、岸壁に打ち寄せる波の音であり、船荷や起重機の稼動音であり、そういったもろもろの音声(おんじょう)が混淆する海上のサウンドスケープなのである。

 神戸市の海岸通には1922年竣工の商船三井ビルディング(旧大阪商船神戸支店)が現存する。渡辺節の設計によるこの優美なオフィスビルは、西向き入口のドアの上部にブロンズ製の欄間がある。中央には追い風を孕む帆船を描いた円盤状のレリーフ。周囲は透かし彫りの青海波文様である。筆者は葦男遺愛の白銅の文鎮を目睹したことがある。藍碧の青海波の上を飛び急ぐ5羽の金色の千鳥。

 思えば、四海波静かなることを寿ぐこの意匠ほど海を愛した葦男にふさわしいものはない。そして平和希求という戦後日本の原点にもその思いはどこかでつながってゆくのである。


●―6富澤赤黄男の句/山田真砂年

爛々と虎の眼に降る落葉  富澤赤黄男


 句集『天の狼』(昭和16年8月1日発行、旗艦発行所、発行者水谷勢二(砕壺))の巻頭に置かれた句であり、富澤赤黄男の代表句の中の一句である。

 この句集は、逆年順に編まれており、もし編年であれば掉尾を飾る句であったろう。何故逆年順にしたかは興味あるところだ。

 さて、この句には句集『天の狼』における赤黄男の特徴が顕著に現れている。

 密林の中で飢えと孤独に耐えながら、眼の中には飢えを満たすべく獲物を希求する燃えるような光を湛えて待ち続ける虎、時折視界のなかに動くものは音もなく天上から降ってくる緑の葉。ここには黄色と黒の鮮やかな虎の縞模様や炎のような眼の光り、そしてひらひらと舞い落ちる緑という、すでに多く人に指摘をされている色彩感覚が、また孤絶感が現れており、赤黄男ファンのみならず多くの人を魅惑する。

 落葉を緑色と捉えることに違和感をもつ人もあろう。それは落葉を季語として解釈しているからである。

 赤黄男は『俳句を詩の特殊とする所以を一つに十七音形式に置いて、この最大の俳句性を確保する限り、本質的伸展の為に季題を必ずしも要せずとする方向に、より自由と発展を期待できるやうである。・・・新興俳句は、純粋の俳句を文学しつつあるものであり、この十七音定律たる最大の俳句性を捨てては俳句は存在し得ない。』と「新興俳句将来の問題」(「旗艦」昭和10年5月)と述べているように、この時期の赤黄男は、詩としての俳句で死守すべきは定型であり、季語は必須ではない。従って赤黄男自身はこの落葉を季語として認識していない。


密林の詩書けばわれ虎となる


の句もあり、また赤黄男が兵役についていたときに中支の野戦病院に入院したことを考慮すると、この虎は南支の密林が相応しい。とすれば季語としての枯れた落葉ではなく密林に緑のまま散る落葉でなければならない。

 さらにもう一つの特徴は、爛々(らんらん)のように同じ音の重なる言葉の使用である。


瞳に古典紺々とふる牡丹雪

銃聲がポツンポツンとあるランプ

向日葵の貌らんらんと空中戦


など全217句中およそ一割、十句に一句の割合で同音を重ねる言葉が使われている。そしてそのほとんどが擬態語であるが、十七音の制限のある定型では、多くの言葉を要さず、詩情を感覚的に伝え読み手の心の琴線を共鳴させるためには効果的な方法である。

 この句は私の中で燦然と輝く金字塔として存在し続けている。



●―8青玄系作家(日野草城)の句/岡村知昭

高熱の鶴青空に漂へり 日野草城


 第7句集「人生の午後」所収。この句が書かれた昭和24年は日野草城にとっては大きな転機の年であった。まず2月には「風邪を引き、高熱と激しい咳嗽が続いた。相当応へ、以後ずつと臥たきりとなつた」(「人生の午後」各章前の前書きより)。4月には休職中の会社を正式に退職、25年の会社員生活にピリオドを打つ。直後にはその後の生活の拠点となった大阪池田の自宅「日光草舎」へ転居する。9月には第6句集「旦暮」(あけくれ)を上梓。そして10月にはいよいよ主宰誌『青玄』が創刊される。病状の悪化、退職、転居、刊行に創刊と1年間に身辺で起こった大きな変化の数々を、草城はただ病の体を横たえて迎えるほかなかった。『青玄』創刊も自らの手に寄るものではなく、草城主宰誌の創刊を望む若者たちの手によってようやく形作られたものであった。

 句集「人生の午後」において「鶴」が登場する作品としては、この句のすぐあとに「鶴咳きに咳く白雲にとりすがり」があり、翌年25年には「病む鶴の高くは翔ばぬ露日和」「病む鶴の老足露にまみれけり」「病む鶴に添うてなまめく妻の鶴」といった作品がある。これらの作品中に登場するどの「鶴」も病を抱え込み、天高く飛べない存在として立ち現れるというところで、「句の中に流れる孤独な悲傷のなまなましさ」(大岡信)が作品中からにじみ出ているのはまぎれもなく、その後の草城が送った病床での日々と重ね合わせる形で読まれるのも、それはそれで致し方ない感じを受けるのだが、この1句の「高熱の鶴」にはその他の「病む鶴」たちとは微妙に異なった雰囲気を漂わせながら、草城の想念によって形作られた内なる青空を飛んでいるかのような印象を私に抱かせてやまない。

 草城と「鶴」はこの1句において、どちらもが「高熱」を発しながら天地の狭間で真正面から向かい合っているのだが、このとき高熱を発する草城の「高熱の鶴」への対し方は、今ある己自身をなんとしても見届けようとする強い意志によって貫かれている。確かに漂う「鶴」はこれからどうなってしまうのだろうか、との懐疑は自身にとって強く感じずにはいられないものがあるだろうが、それでも青空に「鶴」あり、地にわれ草城ありとの把握を徹底して貫くことにより、ほかの「病む鶴」たちの登場する作品には見て取りにくい、強い求心力をこの1句は獲得した。それは境涯的な読みを誘いながら、同時に安易な作者と作品との一体化を跳ね除ける強靭さにもつながっている。「高熱の鶴」を通じての求心力の把握によって、草城は人生の大きな転機を迎えた自分自身の、俳人としての新たな方向性を見出していける自信を手に入れられたのではないかと私には思われてならないのだ、西東三鬼が病床で生死をさまよう中から詠んだ「水枕ガバリと寒い海がある」を「私の俳句は、この句によって開眼した」と述べたように。

 青空から遠ざかる生活を余儀なくされながら俳人としての転機を迎えた草城は、『青玄』創刊号に「俳句は東洋の真珠である」との名高い言葉を寄せる。それは自らの俳句観のあるべき展開を指し示すとともに、「病む鶴」たる自分と若き「鶴」たち、それに自らの闘病の日々を支える妻子とが新たな青空へ飛び立つにあたっての宣言でもあった。没後、草城の忌(昭和31年1月29日)の異称として「凍鶴忌」「鶴唳忌」(かくれいき)が考えられたと、伊丹三樹彦は「日野草城全句集」の栞で記している。


●―9上田五千石の句/しなだしん

木枯に星の布石はぴしぴしと   五千石『田園』(昭32年作)


 第1回で触れた「ゆびさして」の句から一年後、この句は生まれている。

この句について五千石は自註(*1)で、


冬の夜空は星の繁華街になる。名のある星座は競って店開きする。


と記している。

 この句は「氷海」の昭和33年3月号に初出する。ただ、句集『田園』に掲載されたそれとは違っているのである。


木枯に星の布告はぴしぴしと   五千石


 違っているのは一文字。「告」と「石」である。ただその意味は大きく違っていると言わざるを得ない。「布告」は「(政府から)一般に知らせること、告げること」。一方「布石」は「囲碁で作戦を立てて要所に石を配すること、将来のために用意すること」である。

 句集『田園』でこの句を読んだとき、冬の空を碁盤に見立てて、星を碁石のように「ぴしぴし」と置く、そんな風に鑑賞して、冬の厳しい寒さが感じられ、「布石」という言葉がとても生きていると思ったのだが、原作で五千石が意図していたところは違ったようだ。

 原作の「布告」を信じて読むと、木枯が吹いて星々が一斉に光りを増し、主張を始めた――、そんな風に読める。それもひとつの星の在りようを詠っているとは思うが…。ちなみに自註のコメントは、原作の意図に近いような気が私にはする。

       ◆

 この句がいつ改められたのか、調べるすべがない。(いや五千石のことだからどこかに書かれているものがあるのかもしれないが)いずれにしても最終的には「布石」として残されたわけで、それは「布告」よりも「布石」が、五千石の心中でも優ったからに他ならないだろう。

 それにしても、一字の違いの大きさを思い知らされた作品である。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

郭公や過去過去過去と鳴くな私に


 最晩年に近い昭和62年7月の作品。翌年1月に入院し、12月には亡くなっている。だから一見、郭公の鳴き声を模倣しただけの悪い洒落のような句に見えるが、この前後には死を意識した句がいくつか詠まれており、この「過去」には作者の生涯を振り返ったほろ苦い思いがこめられている。


万緑叢中死は小刻みにやってくる

黄落激し滅びゆくものみな美し

死んでたまるか山茶花白赤と地に


 過去の回想を迫る郭公に作者は拒絶を示すのだが、開口音(ア行音)と調子のいいリズムで、暗さをあまり感じさせない。晩年は明るい派手さの中に死の匂いを撒き散らしているのだが、そんな憲吉の晩年が好きである。『隠花植物』よりは『孤客』が、さらにそれよりは『方壺集(未完作品)』の方が好きである。

 掲出の句、なるほどどこか軽薄である。いや憲吉の句は総じてすべて軽薄である。しかし悪い感じはしない。軽薄な調子の良さにしか語れない真実もあることがこれらの句を見ていると分かる。死はことごとく深刻でなければならないわけではない。軽薄な死や軽薄な遺言はその人の持って生まれた宿命だ。それぞれの持ち味を生かした言葉こそが真実の言葉なのである。

 「もっと光を」(ゲーテ)や「喜劇は終った」(ベートーベン)も悪くはないが、私たちの身近にそんな荘重な言葉の似合う人間は決して多くはない。私の友人などにゲーテやベートーベンなどいるはずもないからだ。臨終の席であってもそんな言葉を聞いたらぷっと吹き出さずにはいられないだろう。身の丈に合わない言葉は言わないに越したことはない。とすれば、ふっと思い出さずにはいられない憲吉の晩年の軽薄な句は、その人となりを語る印象深い句というべきであろう。

       *     *

(余談)戦後俳句史総論の鼎談を行っている堀本氏から日野草城の話を持ちかけられ、憲吉との関係についてちょっと触れてみる機会があった。思うに、草城は「ミヤコホテル」に代表される若い時代こそが軽薄の頂点であった(その意味で晩年に重い療養俳句を詠んで過ごしたことは、正統的な俳句人生であったと言えよう)作家だが、彼の弟子の憲吉は晩年が軽薄であるという点で似ているようでずいぶん違いがある。年取ってから覚えた道楽のような、ちょっと気まずく、滑稽な、しかし同年配の者には羨望に満ちた思いが湧いてくるのを禁じ得ない。どうだろうか、若い日の軽薄は鼻持ちならないものだが、晩年の軽薄は許せるものがあるように思うのだが。


●―11赤尾兜子の句/仲寒蝉

大雷雨鬱王と会うあさの夢  『歳華集』


 はっきり言って第2句集(年代順では3番目)『虚像』を読み進むのは結構つらい。だがその苦痛にこそ兜子の俳句を余人のそれから画然と区別せしめる秘密が存する。


ふくれて強き白熱の舌吸う巨人工場


などはまだしもイメージが浮かびやすく分りやすい方である。それにしても7-9-7というリズムはもはや俳句と呼べるぎりぎりの地平まで来ている。


毒人参ちぎれて無人寺院映し


は字数の上では大人しいが先の句より意味を追いにくく(抑も意味を追ってはいけない類の句であろうが)イメージも結びにくい。毒人参、無人寺院というイメージの重なりにこそ一句の要があるのだろう。


解く絹マフラーどのみちホテルの鯛さびし


にはドラマ性を感じる。結婚披露宴の一齣でもあろうか、いきなり鯛が出て来る所が何となく滑稽でもある。

 さて第3句集の『歳華集』は恐らく大方の見る所の兜子の代表句集ということになるのではないか。気力も名声も充実していた時代。年表風に記すと…昭和33年、現代俳句協会員となり高柳重信らと「俳句評論」創刊。昭和34年、第1句集『蛇』刊行。昭和35年、「渦」創刊。昭和36年、中原恵以と結婚、第9回現代俳句協会賞受賞、これが引き金となって協会が分裂し俳人協会が設立された。昭和40年、『虚像』刊行。

 こうして前衛俳句の一方の雄としてその立場を確かなものとしていった兜子が昭和50年、満50歳の誕生日を期して上梓したのがこの第3句集『歳華集』であったのだ。序文を大阪外国語学校時代からの莫逆の友、司馬遼太郎が、さらに大岡信から「赤尾兜子の世界」、塚本邦雄から「神荼吟遊」という文章を寄せられるという実に豪華な句集であった。

 『虚像』のまわりくどい表現からは余程分りやすく読みやすい句風になっている。子の病気や豪雨による被害など家族の出来事、西洋を含む各地への旅行、司馬遼太郎や陳舜臣(大阪外国語学校の1年先輩)との交流も詠まれていて内容からも親しみやすいものとなっている。先に「大方の見る所の兜子の代表句集」と書いたが、所謂前衛俳句の雄としての兜子は鳴りを潜めているのでその意味からは反対意見も多いことと思う。



●―12三橋敏雄の句/北川美美

腿高きグレコは女白き雷


 新興俳句は、モダニズム的要素を取り入れ、コスモポリタンで妖艶。それまでにない俳句の世界を築いた。弾圧事件により終息という記録をみるが、その意志は今日にも受け継がれている。掲句は『まぼろしの鱶』に収められ「昭和三十年代」の作品である。グレコとは、宗教画家のエル・グレコともいえるという宗匠の話を耳にしたことがあるが、三橋がニューヨークでジュリエット・グレコを見て得た句であるらしい。1960年三橋40歳の時、日本丸にて寄港した地であろう。日本の海外渡航は1964年に自由化されている。ジュリエット・グレコ。(Juliette Gréco)フランス人シャンソン歌手。今も歌いつづける。

「腿高き」という外人女性のとらえ方、「女」と指摘する危険さ、「白き雷」(「しろきらい」と読むと予想)の百合が香りたつような閃光。まるで競争馬のような気品を持ち三橋の前に立つフランス人女性が目に浮かぶ。五七五のリズムの中、作者の鋭い感性により洒脱な詩として浮かび上がっている。季語がどうだのという説明は陳腐に過ぎない。ジュリエット・グレコは第一回引用の「日はまた昇る」(アーネスト・ヘミングウェイ作)の映画に出演している。

 技法的特徴は係助詞「は」にある。「グレコは女」。「グレコ」が「女」であることを強調し、題目を示す。そこに三橋の錬金術が冴える。「グレコ以外は女ではない」というところか。

「は」の使用について既にその特徴が明らかにされているのは、下記の句である。


出征ぞ子供ら犬も歓べり (『太古』)

出征ぞ子供ら犬は歓べり (『まぼろしの鱶』)(『靑の中』)


 『太古』発表当時(昭和16年)、時勢を配慮して手直しをしたものを後に原形に戻したと考えられている。(*1)「も」であれば、全ての人々が喜び、「は」であれば「子供ら犬は」以外の人は喜んでいないことになる。(*2)

 優れた作家は助詞の使用が巧みと言われるが、係助詞「は」の使い方に顕著な句が三橋にはある。脳裏でリフレインを起こさせる句たちである。これについては、改めて触れさせていただく。

 結社を持たない三橋は俳壇と微妙に距離を置いていたように感じる。人気作家というより一部の熱狂的支持者を持つ作家という印象が強い(現在も)。超特装本も限定刊行された。『靑の中』後記に記載のあるコーベブックス(南柯叢書)(*3)の元編集者・装丁家である渡邉一考氏が経営する赤坂のモルト・バー「ですぺら」(*4)の壁面には「船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな」(高柳重信)と並んで掲句の色紙がある。

 余韻と残像を残しつつ、ふと日常を忘れさせてくれる句である。


*1)『俳句評論』昭和52年11月号 三橋敏雄特集  『「太古」および「弾道」の秀句』 松崎豊

*2)『休むに似たり』 池田澄子著

*3)1963-2002年に営業の神戸に本社のあった出版社。加藤郁乎、永田耕衣、マルセル・プルース、須永朝彦などの本を出した。

*4)「ですぺら」東京都港区赤坂3-9-15 第2クワムラビル3F Open: 18:00-26:00 定休:日曜・祝日 TEL:03-3584-4566


【連載】現代評論研究:第2回 【総合座談会】戦後俳句史を読む/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井(司会)

●―3,7,10:戦後俳句史を読む 第2回/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井(司会)

筑紫:俳句では「師系」という言葉がしばしば言及される。しかし詩の人々にはこの言葉は理解しにくいだろうむしろ、戦後俳句にあっては俳句の集団(しばしば雑誌名)として捉えた方が分かり易いと思う。ちょっとここで、今回の「戦後俳句を読む」で特に相関度が大きいそうした集団を眺めておこう。以下の通りだが、それぞれの集団を指導した作者としては草城(執筆者岡村。以下同)、赤黄男(山田)、憲吉(筑紫)、兜子(仲)に今回の連載は集中しており、これらの相互の関係を理解しておくとそれぞれの鑑賞も理解しやすいのではないかと思う。

 このうち、「旗艦」は「京大俳句」とならぶ戦前の新興俳句の代表的な雑誌である。

 今回は「戦後俳句を読む」で取り上げている16人の作家のうちから、特に注目する作家の活動から戦後というものを考えてみたいと思う。その際、上のような関係にも鑑み、また北村、堀本の二人との事前の話も総合すると、早い時期に日野草城に焦点をあてる意味があるように思う。

北村:日野草城について桂信子編著『日野草城の世界』(梅里書房)を読んだ。そこにある200句を見ると、戦前と戦後には大きな差がある。初期の句には、文化的生活をふまえた軽快さがある。そうした句は、機知に富んでいるし、いわば「そつなく」できあがっているというのが私の最初の感想である。しかし戦後の句には、そのような自在さは無くなり、ある種の難渋する様、それを何とか越えようとする様が詠まれはじめる。


晩涼や木を挽ける音挽き切りし

鳴きしぶりつつゐたる蝉鳴きとおる

冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり

生きるとは死なぬことにてつゆけしや


 敗戦に加え、病と休職の境遇がより「もの」を凝視することを強いたのである。岡村が選んだ掲出句はその始まりの句であろう。寒さの中に裸で立つ「寒い赤」の山茶花、敗戦の国土を象徴する。

堀本:モノの凝視や写生を虛子に学んだのだが、もともと、草城は、蕪村の句《お手討の夫婦なりしを衣更》に俳句開眼したと言う面白いエピソードがある。「物語性」を取り込んだ新しさはそういうところにも感じ取られる。高濱虛子には〈舌端に触れて夜霧の林檎かな〉で感覚的な把握を注目された。これも草城のセンスのモダニズムがはやくからみとめられたあかしである。その延長にある「ミヤコホテル」(昭和9年、「俳句研究」)は、結婚の日常的なあり方を風俗小説ばりの連作(物語)にしている。「ミヤコホテル論争」は、ゆくりなくも時実新子の『有夫恋』をめぐるスキャンダラスな反応を想い出させる。これには秋元不死男、西東三鬼は肯定的、久保田万太郎、中村草田男は断然反対の立場だった。水原秋桜子は、「草城君のこれが連作の標本になったら困る」、というような趣旨で批判的だった。なお、詩壇では、室生犀星が賞賛、萩原朔太郎に勧めたが、朔太郎は懐疑的だった。(以上は、伊丹啓子『日野草城伝』2000・沖積舎、参昭。

 しかし草城はまた「俳句は詩の一分野である」「究極に於て間接に一般芸術に於ける鑑賞表現を云為することになる」(ホトトギス大正11,10)(松井利彦『近代俳論史』(昭和41・桜楓社))という見解も披露している。

「戦旗」創刊号の「宣明」(昭和10年)では


 吾人ハ新精神ヲ奉ジ、自由主義ニ立場ヲトル。・・・陳套ノ排除、詩靈ノ恢弘ニ在リ。俗流ノ手ヨリ俳句ヲ奪還シ、以テ純正ナル文学的発展ヲ作品ト理論トノ上二実現セシメムコトヲ期ス。定型ハ・・・死守スベキ社稷ナリ。(以下略)。(伊丹公子《日野草城ー早熟にして晩成》より抜粋)


と述べ、虛子の方向とは公然とそれてゆく。翌年昭和11年、「ホトトギス」から除名される。

 この言挙げのもとで、無季俳句、連作俳句、戦火想望俳句などを発表。俳句の詩性を追究してゆく。この時期の連作のモチーフがだんぜん面白い。《事務風景》。《愛しき消費—ありがたきボーナス》《退職期》《浄房》(トイレでの排尿のことを句にしている)。他に口語、外国語をひらがなで書く、等々。スタイルが多彩である。ただ、強固な社会正義やイデオロギーをもった人ではなかっただろう。「京大俳句」の顧問にもなるが、統制のすすむ過程で、次第に沈黙してゆく

筑紫:ふうん。

堀本:戦後の第一声『旦暮』巻頭に誌された有名な箴言「俳句は 諸人旦暮(もろびとあけくれ)の詩(うた)で ある」、時代の文化風潮や庶民感覚の先端を覚る感性はおとろえていないのではないだろうか。

 ともあれ「極端に早熟な」作家は、終戦をむかえ、「極端に晩年の成熟」(どちらも山本健吉評)という時代へはいる。

 昭和24年「靑玄」(日野草城主宰)を創刊し、桂信子、伊丹三樹彦、公子、楠本憲吉らが傘下に集う。病床の日々で詠んだのが<高熱の鶴青空に漂へり>である。今回岡村が取り上げているので参照してほしい

 草城は、日常詠と境涯俳句に没したといわれながら、こういうところに、冨澤赤黄男、高柳重信。林田紀音夫、楠本憲吉など反骨の詩性を啓発した新興俳句の始祖の風格をみせている。

 日野草城と言う作家個人の面白さは、時代や世相の変化を持ち前の感覚に取り込み内面化したところにある。

筑紫:モダニズムという価値観が評価できるかどうかについて私はやや懐疑的である。むしろ俳句史的に面白いのは、高浜虚子の低調な客観写生時代→4Sの個性的時代という直接的な移行ではないことである。間に、草城が入っていることである。4Sの先輩に草城はあたり、草城に負けまいとするライバル心が4Sの活躍の原動力となっていた。それは東大俳句会の復活以前に草城が中心となった京大俳句会の発足と活躍があることも同様である。新興俳句の代名詞である「戦火想望俳句」も火野葦平の「麦と兵隊」の読後俳句として草城が提案した表題であった。ジャーナリスティックで人騒がせな、時代に先駆ける精神こそ草城の前半生の基調であり、モダニズムはたまたまそうした基調の下位的な属性に過ぎなかったように思われる。

 余計な話だがホトトギス裏面史では、大正13年に高浜虚子はホトトギスを水野白川男爵に5万円で譲渡、白川が経営、虚子が選句(選句料100円と言われている)、草城が編集にあたるという動きがあったという。不幸にしてこの動きは中途で断絶したが、これが成功していたら、あるいは全く違った昭和俳句史が出現していたかもしれない(当然、草城が編集するホトトギスは新興俳句雑誌化していたはずである)。このことからも、堂々と虚子と渡り合える立場に草城がいたことになるが、それは草城のジャーナリズムに対する感性の良さによるものであったろうと思う。モダニズムよりはるかのそのほうが重要であると思うのだが。

堀本 :その逸話は面白い。磐井の推測は十分考えられる。でも、草城は状況の読みが早い、それから、やんちゃではあっても無益な争いはしない性格だったように見受ける。虚子の近くではあまり過激にはしなかっただろうとも思うが。

北村:「日野草城の世界」に収録された宇多喜代子の文によると、昭和11年のホトトギス除籍から終戦までの時期は、作品は通常無視される。が、宇多はこの時期が彼の思想にとってまた俳句の歴史上重要であるという。彼のサラリーマンとしての生活が新しい題材と無季の俳句を推進したのである。そして虚子・ホトトギスの唱える花鳥諷詠との訣れに至ったのである。つまり草城を三期に分ける。いま彼の作品を見ても大きな驚きはないが、彼は第二期で虚子を振り切り未踏の域に歩み出し、それが俳句の転機をもたらした。その後の世界に我々がいるからもう驚かないのである。

 ところで私がテレビで見かけた「俳句甲子園」の議論は、おおむね草城第一期の延長上にあるような気がする。作品の技巧、新しい機知、伝統の知識など脱帽であるが、既成の俳句批評の言葉で絡め取られる。議論は俳句の世界を広め、深めるものには見えない。

 しかし、バブル崩壊、パラサイト、ロースト・ジェネレーション等の問題に加えて、この大震災・放射能禍。文芸の世界に大きな影響を及ぼして行くだろう。かつて都市のサラリーマン生活が草城の句を変えたように。

堀本 俳句甲子園の彼らに、われわれの年代の屈折を求めてもしかたがない。でも、彼らは優秀ですよ。将来多方向に化けるかもしれないし。また、おっしゃるように、都会に広範に潜在しているはずの若年のニート達が、何か独得な思想や表現をきりひらくかもしれない。

筑紫:今回の楠本健吉の鑑賞でも述べたことだが、草城は若い時代を「ミヤコホテル」で代表される軽薄な俳句で注目を浴びた。軽薄とは上に述べた下位的な属性のひとつであるモダニズムよりはるかに俳句の本質により近いものではないかと思う。新興俳句時代を経て、戦後は闘病を余儀なくされたこともあり、真面目な作品に移行している(正岡子規の姿を彷彿とさせる英雄的な姿だ)。しかし、弟子の憲吉は晩年の作品こそが軽薄だ。個人の生理からすると、進歩、深化してゆく草城の変化の方が健全なのだろう。

 ただ個人のなかに歴史が埋め込まれるとすると、晩年に軽薄な俳句を詠んだ憲吉の方が戦後俳句史そのものを顕現しているように思われる。戦後俳句、特に昭和50年代以降の俳句は憲吉の設けたモデルに従って進んでいるのではないか。俳句の作者が有名人となり、テレビに出演し、カルチャー教室を持ち、料理番組でうんちくを語り、子供俳句の指導をするのはすべて憲吉が始めたモデルである。

 しかしその憲吉の晩年のモデルになっているのは、若かりし日の草城であるように思われる。師系というものは争えない。北村が最後に掲げた現代俳句の現象は草城、憲吉の流れの中で見ると納得できる。「俳句甲子園」が当時開かれていたら、草城、憲吉も喜んで審査に参加していたのではないか。師弟にわたるジャーナリズム感覚の鋭さを感じた。

堀本:私の考えでは、草城を俳句のモダニズムの旗手(むしろ始祖のひとり)、とおさえることは原則点として重要だと思うのだ。そこから、余人が追随できないメディア人たる個性も育ってきたのではないだろうか。草城の「自由主義」、というのは、根本は、大正リベラリズムや昭和のモダニズムの機運をうけている、俳句ではこれは客観写生に対する「方法の自由」、ということになる。ただ、筑紫がもちだしてきたジャーナリズム感覚というのは、なるほど、いわれてみればわかるので、新たな切り口だろう。

 筑紫は、日野草城や楠本憲吉に対しては、俳句一句の深みをあじわうそのこととよりも、関係をつないで行く行動性に目を向けている。そこに不満を感じる。

北村:今回憲吉の句を少し見た。それで思ったことは、日本の女をあたかも季語のように詠んでいて、鮮やかである。その中に磐井の採りあげたような句が混じっている。それがまたしゃれた感じをあたえる。

 私が、草城の初期から憲吉、甲子園俳句の流麗なることに物足りなさを感じるのは、彼らの論には否定性が薄いと言うことである。否定性が軽快であるというべきかもしれぬが。磐井の師系の図で言えばやはり、薔薇(赤黄男)─俳句評論(高柳重信)─渦(兜子)の流れの方に目がいってしまう。これは私が軽みよりも濃厚を好むからだ。しかし、すべて草城が土壌を作ったと言うことは納得できた。中期以降それをあまり作品の形で残せなかったとしても。

筑紫:「戦後俳句を読む」のシナリオからゆくと、16人の作家の中に正式には草城は入っていない。岡村が、青玄系作家ということでまっさきに取り上げたことによってこの鼎談でも話題にすることになった。しかし、広範な系譜から行っても、今後様々な作家を論じる度に立ち返ってもいい作家だと思う。

 今回私が宇多喜代子などに代表される一般的な考え方にちゃちゃを入れているのは、新興俳句というものをあまりにストイックに見すぎるのは―――北村の「私が軽みよりも濃厚を好むからだ」というのはよく理解できるが―――、客観的俳句史からすると危険だという気持ちがあるからだ。新興という言葉を使った用語には、龍胆寺雄、吉行エイスケなどが組織した反プロレタリア文学的な「新興芸術派」もあれば(おそらく日野草城は最もそれに近い)、国策に沿った「新興満洲」(山口誓子の第2句集『黄旗』では、<黄旗は新興満洲帝国の国旗である>と書いている)、あるいはもっと危険な「新興ナチス」といった言葉が当時の新聞では踊っていた。新興俳句作家を否定するのではないが、「新興」には注意深くありたいと言う気がする。

 ジャーナリズム的性格を取り上げたのは今回おかど違いであるような気もするが、新興俳句が改造社の「俳句研究」の支援を受けて伸長したことを忘れてはならないと思うからだ。特に改造社という化け物的性格が、新興俳句にどのような影響を与えたかをいつか考えてみたいと思っている。月刊誌「改造」で左翼的知識人の圧倒的支持を受け、『資本論』『マルクス・エンゲルス全集』を出し、一方でファシズムに迎合して対極の『ムッソリーニ全集』を出し、植民地経営を支援する雑誌「大陸」を刊行し、軍部と結託して爆発的人気を呼んだ『麦と兵隊』を出版し、昭和の万葉集と言われた『新万葉集』を刊行し、反戦主義者バートランド・ラッセルやアインシュタインを招聘し、治安維持法違反となる横浜事件で解散させられるという不可解な経営方針を持つこの会社は、岩波書店と全然別の意味で新興俳句の性格を見定めるのに重要だと思うからである。堀本の私に対する批判はそれなりに甘受するが、ジャーナリズムの枠組みは、師系や結社以上に俳句作家の思想を拘束しているのではないか。40年近く俳句をやってきて、大家たちの戦後俳壇におけるパフォーマンスを見てきた私なりの結論である。

 今回話題が拡散してしまったが、それはそれではいかにも草城的であったかもしれないという気がする。それくらい一筋縄ではいかない作家として、また改めて草城を論じてみたいと思う。

(その2 了)

2025年1月24日金曜日

【連載】現代評論研究:第1回・戦後俳句史を読む【総合座談会】  北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井(司会)

 ●―3,7,10:戦後俳句史を読む/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井(司会)


音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢         兜子

汝が胸の谷間の汗や巴里祭         憲吉

ゆびさして寒星一つづつ生かす       五千石

古里 石も眠い              圭之介

妻をころしてゆらりゆらりと訪ね来よ    新子

歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に       きくの

肉体を水洗ひして芹になる         寿美子

空蝉の脚のつめたきこのさみしさ      千空

おのおのの紅つらならず曼珠沙華      玄

山茶花やいくさに敗れたる国の       草城

ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒  葦男

日にいちど入る日は沈み信天翁       敏雄

 

筑紫磐井:いよいよ、「戦後俳句を読む」が始まったが、第1回目の1句鑑賞を読み終わったところ(今回は山田真砂年は原稿未到着)で、いささか気が早いが「戦後俳句とは何なのか」を語ってもらいたい。

北村虻曳:俳句について人と話し始めた頃、自分の句を披露したところ、「これはどういう意味か。もし貴男自身が句の主体だったりしたら最悪だ」と言われた。私はその最悪を意図していたのだが。これで自身を直接的に出すことは、ある種の俳人のタブーに近いことを悟った。俳句は、基本的に事物を詠み、場合によってはそれに自己が投影されるという方式である

 一方近年出席している歌会では、とくに断らないかぎり主体はほぼ作者とみなすと言う意見をよく耳にする。作者の登場は普通のことなのである。作者でないとしてもほぼ人は登場する。すると表される事柄に時代性の差や個性はあっても、多くの人の腑に落ちるのである。川柳はそういう意味では短歌よりも徹底している。人の行動原理を確認したり、発見したりすることが主流である。これに飽き足らなくて抵抗する柳人も存在するが

 そこで選ばれた句を作者との距離ということで、直裁に自己を投影しているものから、象徴性の高くして、自己を離れた抽象に至っているものといった感じで並べて見た。


憲吉・新子・きくの・寿美子・五千石

千空・玄・草城

圭之介・敏雄・兜子・葦男


とでもなろうか。

 しからば、これらの句の「戦後性」はどうであろうか。普通に考えると前に並べたものが時代を越えた普遍性があるということになろうが。案外、新子や寿美子のような句は戦前には詠まれにくかったという気がする。女性は時代には正直というべきか。一方後に並べた句は前衛的なのであるが、戦前のダダイスト詩人などとの親近性を感じる。抽象的な一種の前衛性は必ずしも新しさと比例するものではないのだ

 でも題材から見ると、兜子・葦男の句は、映像や音楽の時代を感じさせる点で、戦後の社会のものであると感じる。兜子の「音楽」から私が聞くのはジャズのジミー・スミスである。また葦男の詠んだものは、堺谷が実際に作者から聞いたように、御堂筋であってもよいし、工場、あるいは通勤の群衆の風景でもよい。戦後の工業社会の風景を想起させる

この二人と巴里祭という時代の言葉が入っている憲吉の句をのぞけば、題材は「世は変われど人性は変わらず」と言った姿を描いている。それぞれ表現の仕方に新しい発見と独自性があるから皆さんが取り上げられたのであろう

堀本吟:今回の鑑賞でうかがえる戦後俳句の特徴のひとつは《開放感》である。風俗、ジェンダー、文化の全てに浸透する変化に応じている。混沌、流動の時代の「実感」「写生」「日常」「想像力」とは何か、と考えさせる。戦時の抑圧からの解放は自国の敗北という痛みをともなう。そういう伝統への反省としての「前衛俳句」の登場があろう。またそれぞれ方法を自由に模索できる時代になって、創作の姿勢がのびのびしている

 次は《男女、性にかかわる表現の自由》だが、西東三鬼と楠本憲吉は。風俗や日常に潜む欲望への果敢な俳句化が興味深い。自由律と川柳については後で述べたい

 三番目が《抒情表現、「星」にシンボリックな希望を託するありかた》に注目した。特に青春は、今を詠うことが未来への指標だ。戦後出発の時期に重なり、五千石の句にその典型的表現をみいだす

 最後に《多様な方法の模索、だが全く「新しい」言語風景はない》という感じだ。かろうじて兜子の内部意識世界の幻景が独創的なぐらいだ。しかし、一句一句は面白かった。作られた時代には気がつかなかった視点からの発見があり、それによって句が甦っている、という爽やかな快感にとらわれた

筑紫:「戦後俳句を読む」を企画した段階では、いささか軽い俳句鑑賞的読み物になるのではないかと思ったが、メンバーは十分事前研究もし、本格的な戦後作家論を執筆するという態度で望まれているので驚いた。戦後俳句史研究会が発足したと見ても良いかもしれない。しかし、ひとつ言っておけば膨大な資料が全てではないような気もする。私の書いたもので恐縮だが、楠本憲吉の「巴里祭」の句には憲吉の自句自解があり、これによれば銀座のキャバレーのホステス(ご丁寧に店の名前、女の名前まで入れている)の胸の汗だととくとくとして書いているのだが、こんなものは不要である。触発のメカニズムは分かっても、「読む」ではないからだ。時代文脈を読み取ることができるかどうかが大切だろう。お二人の指摘もそういった点にあると思う

 さて、おそらく今回の「戦後俳句を読む」の最も大きな特徴のひとつは、少ないながらも、川柳、自由律俳句作家を含めて戦後俳句をまとめて読もうとしたことだと思う。圭之介、新子という顔ぶれは、詩歌梁山泊の詩人、歌人以上に、俳人にとって衝撃的なのではないか。(種田スガル、清水かおりの参加した)『超新撰21』で狙ったところを「戦後俳句を読む」でいっそう明確にしたということになろう。今回は戦後俳句史論の初回なので特にこの点に絞って論じてもらいたい。まず、時実新子からお願いする

北村:私は最初新子の掲出句を「自分の中の妻を押し殺して俺のところにやってこい」と詠んでいた。しかし彼女はやはり吉澤氏の読みを期待しているのだろう。新子は誰かに成り代わって詠むことは得意ではなく、まっすぐ詠むだろうから。ところで吉澤氏の指摘するように、新子の作中人物はフェイク新子なのである。新子の自由の象徴である。この仮構の主体は新子以上に新子であり、純化された姿であるという逆説も成立する。川柳人が意識的に「実際の自分に近い仮構の作中主体を作り上げた」(吉澤)ことは画期的であったのではないだろうか

堀本(新子川柳の虚構性)

「〈心の真実〉ではなく作中主体の仮構性にこそ、この句の現代的な価値があるのではないか。そのような読み方をすることによって、この句は一個人の〈心の真実〉という呪縛からもっと広い読みの世界に向かって解放されると私は思う。」(吉澤久良)

 時実新子は、ジェンダーの面から理解や誤解がなされる作家であるが、吉澤がそれを技法的に読み解いたのはすぐれている

 しかし、新子が、べたな私生活暴露ではないフェイク新子を創造した言葉の天才であるとしても、いくつか問題点がでてくる

 時実新子の川柳も、プラスマイナスいずれも時代の価値観の枠内であるから、内容は殆ど自己追求、自分をまるごと作品世界にいれこむいわば私小説空間である、近代以後の文芸全般、自身の内面をうちだし虚構化する、その方法を採っていたから。そのことが創作倫理の根幹にあった。だから、新子は、全く新しいことをしたわけではない、自身も読者もその全てが自己告白だとは思っていなかったはずだ

 なぜ、『有夫恋』は大衆にうけたかである。これがベストセラーになったのは、当時の女性観の中で、不倫の恋も辞さない悪女ぶりが、女性の秘める欲望を表したもの。新子の心の中の「自由の象徴」(虻曳)に私小説に近い大衆小説風だからこそ安心して感情移入できた

北村:私の考えでは、大衆は私小説を事実の告白と受け止めていたのではないか。また「大衆の憧れ」と言っても複雑だ。反感に裏打ちされた憧れだから。女性の人気者の人気とはそういうことが多いのだ。私の内に大衆が住んでいるから分かるのだけれど

堀本:読者は、時実新子を悪女に見立てることで遊んでいた、とは言えないか。半分ぐらいはほんとかな、とかおもって。一見川柳の中では新しくみえる新子の自己像の古さ(それが悪いというわけではない)が見えてくるのではないだろうか

 それから、自己像(=アイデンティティ。私性もその一部)は、完全に描きうるものではない。だから、表現の仮構(虚構化)がもとめられる。「ゆらりゆらりと妻を殺して」は、夫である男に、関係の解体をせまっているのであるけれど、「妻」である自分と自分の「夫」との関係も両方こわれる。これは、自分も含めた女性一般の抱く「愛」の理想像(?)ともいえる。新子の面白さは、古い恋愛観の中で、一番悪女の面を強調した自己像を創造し、こういう自己解体まで表現してしまった、と言うことだと思う

筑紫:世の常、「俳句」と「川柳」があるように言われているが、たしかにそうかもしれないがそれ以前に「俳句の読み」と「川柳の読み」があり、それを踏まえて「俳句として詠まれた作品」「川柳として詠まれた作品」、その結果としての「俳句」と「川柳」が存在していると見ることができるということだ。吉澤(今回不参加)の鑑賞は時実の読みを既製の読みから開放しようとしているようである。説得力があると共に、既製のジャンルからは危険視される試みになるかもしれない。とはいえそれは、五七五形式に「俳句の読み」があると思っていたものが実はそれが極めてローカルなものに過ぎず、パラレルワールドとしての「短歌の読み」「詩の読み」もあることを失念していたことに気づかせてくれる意味で貴重な提言かもしれない。いずれにしても、こうした契機は時実だからこそ生まれるのであろう。時実については俳句の側こそ学ぶことが多そうだ。いい連載を期待している

 次は近木圭之介についてであるが、川柳以上に自由律俳句についてはよく知らなかったことに我ながら愕然としている。たぶん、論者のお二人についても同様だと思うが。思うに、時実新子の場合と違って、圭之介については埋もれた作家を再発見するやり方で鑑賞が進むのだろう。

北村:具体的な作品に早速入りたい。「古里 石も眠い」を見ると、いつか私の不確かな記憶に染み込んでいるトリスタン・ツァラ?の詩の一節「村の根元で石垣が倦怠を編んでいた」を思い出す。このような発想は昔へさかのぼれるだろう。圭之介は実際にも明治生れであるが。独自性はやはり含蓄に賭けた型式にあるのだろうか。

堀本:圭之介「古里」の句は草城句の世界とおなじ自然にいるはずだが、「石も眠い」という表現は「眠い」のに緊張感を与える喩(メタファー)である。永遠のハイマート、かつちいさな存在の悠々たる自由など存在全体(古里)の「喩」だ。

 詩形の特徴については、藤田踏青の解説が丁寧で啓発された。短律の世界では、極小字数をあまる大きな意味世界のイメージは、「喩」のふくらみに預ける面が強い。でも、これに成功すると「自由律俳句」の一見律にならない律がふわっと立ち上がってくれる。自由律俳句のこの繊細かつ悠々たるタッチは戦前戦後をつうじて変わらない魅力だ。一句一律という考え方は定型俳句にはない。思考と律を媒介する要素として「喩」との関係を考えると、ここから学ぶところが大きい。

筑紫:この第1回目の感想は?

北村:川柳、自由律俳句は、独自の課題と魅力があるのに、とかく等閑視されてきたので、この二人の鑑賞者の起用は適切かつ画期的。俳句にとっては自己の詩形をみなおす絶好のチャンスである。カリスマ新子と自由律の戦後作家が登場して興味深い。

堀本:同感。

筑紫:ありがとう。一応今回はここで終わりたい

(「戦後俳句を読む」(第1回)了)※。

【連載】現代評論研究:第1回・私の戦後感銘句3句(1)  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美

はじめに

 2011年から数年間、BLOG「詩客」(「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」)の俳句部門で「戦後俳句を読む」の企画を実施してきた(その後、BLOG「俳句空間」、BLOG「俳句新空間」に継続)。既に10年以上が経ち改めてそれらを読み直したいという希望も出されたことから、俳句作品(当時は川柳作品も多くの参加者があった)を中心に復活しようとしたものである。方針を固めて連絡を取り、了解の取れた方を中心に掲載しようとするものである。出来ればその後新しく参加される方も募集したいと思っている。

 近年『●●●の百句』の企画が好評に進んでいるが、こうした企画に先駆けたものとしての連載であったと考えている。読者のご支援を期待したい。


[執筆者]

藤田踏青【近木圭之介】、土肥あき子【稲垣きくの】、北村虻曳【戦後俳句史総論】(総合座談会に掲載)、飯田冬眞【齋藤玄】、堺谷真人【堀葦男】、山田真砂年【富澤赤黄男】(今回欠稿)、堀本吟【戦後俳句史総論】(総合座談会に掲載)、岡村知昭【青玄系の作家】、しなだしん【上田五千石】、筑紫磐井【楠本憲吉】、仲寒蟬【赤尾兜子】、北川美美【三橋敏雄】


●―1:近木圭之介の句/藤田踏青


古里 石も眠い


 「ケイノスケ句抄」(昭和61年発行)の中の昭和55年の作品である。明治45年に生まれた圭之介(旧号:黎々火)は小学校1年生までの7年間、金沢の地で育った。そして1年生が終了した後、山口県長府市の伯父の許へ養子となり移り住んでいるので、この古里は金沢を指しているのではないか。叙情を抑え句材とする物「石」を冷静に描写する事によって「古里」への思いを円環的に形象化している。そして埋もれ去った時間の中で古里は眠りに居り、石もまた掴みどころ無く眠いのである。

 この句は4・3・3のリズムの十音であり、自由律俳句での所謂短律句である。荻原井泉水が主張した自由律俳句では、大正末から昭和初期にかけて短律の句が数多く作られ、その主宰する俳誌「層雲」では昭和4年に層雲第7句集が「短律時代」と称して刊行されているほどである。代表例としては次のような句がある。


 咳をしても一人(9音)  尾崎放哉  大正14年

 草も月夜   (6音)  青木此君楼 大正15年

 陽へ病む   (4音)  大橋裸木  昭和6年


 井泉水の主張では「俳句は一つの段落を持っている一行の詩である」(「新俳句入門」より)とあり、上掲の句なども構成的に二句一章の構造をもち、意味上の句切れと音調上の句切れを共に備えている。圭之介は昭和7年に「層雲」に入門しているので、当然そのような新しい短律の世界を見つめてはいるが、放哉や山頭火とは異なる詩性を尊重する短詩的傾向の作品開拓へと進んでいったのである。

 自由律俳句の短律については高柳重信が次の様に言及している。「大正時代にはロマンチックな人道主義と、ほとんど純粋無垢に近い社会主義と、繊細で厭世的な魂が縋りつくように求めるストイックな信仰と、それぞれに当時の社会状況を反映した俳人たちが、真剣に一途に精神の火花を散らした一時期であった。それ等の俳人たちにとって、この時代は、少なくとも主観的には、どうしても書かずにおれぬと信ずる何かがあまりにも多かったため、十七字の桎梏から解放された自由な短詩型は、まさに手頃な表現の具であったろう。・・・・中略・・・・自虐的なまでにストイックな信仰心を高めてしまった人たちは、おのずから寡黙をあいするようになり、十七字の俳句定型よりも更に言葉を惜しむ短律へと傾斜してゆくのであった」(「俳句形式における前衛と正統」より)。これは多分に放哉や山頭火を念頭に置いた論であろうが、短律という形式は戦後においても掲句のように脈々と生きづいており、戦後は信仰心というよりはより一層詩的な方向へと展開されていった。

 また、圭之介は昭和16年と昭和53年の2回「層雲賞」を受賞しているが、戦前戦後を通じて二度の受賞者は「層雲」では氏ただ一人である。その2回目の受賞の前年(昭和52年)の作品に次の様なのがある。


古里では黄昏が咽喉から溢れて来た


 これは前掲の作品とは異なり、二十一音の長律の作品である。自由律俳句の本義である「一句一律」の主張は当然、このように一人の作者の中で短律と長律の並存という可能性をも秘めているのである。

 尚、氏の没後(平成22年)に刊行された「日没とパンがあれば」では掲句はそれぞれ「古里 眠い石も」「能登で黄昏が喉まであふれてきた」となっているが、その詩画集的な趣きを考えると、俳句臭を取り去り、詩的に推敲した為かも知れない。


●―2:稲垣きくのの句/土肥あき子


歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に


 きくのの句集は生前3句集、没後1句集、計4句集ある。このたび3回続く感銘句の鑑賞は、それぞれの句集から一句ずつ取り上げていきたい。

 掲句は1963年に刊行された第一句集『榧の実』に所収されている。「春燈」に投句を始めた1946年から1962年まで、40〜50代の作品が収められている。「春燈叢書第18輯」とある本句集は、扉の木版画に当時「春燈」の表紙も手がけていた川上澄生、題字は宮田重雄という瀟酒な装丁であり、句集というより、上質の和菓子の箱のようにも見える。とはいえ、そこに並ぶ俳句は甘い菓子を思わせるものは少ない。

 掲句から見えてくるのは一人の女である。他人の手を借りずに、女が一人でできるものは数あれど、指の包帯ほど厄介なものはない。片手で押さえながら、歯も動員し、最後に作る結び目にくっと力を入れるときの視線は、確かに宙を見上げるかたちになる。それもどちらかというとぶざまな姿であると自認しつつ。

 きくのは短い結婚生活を経て、20代を映画女優として自活の道を得た。役柄を見ると、女客などが多く、大きな役でも主役の姉あたりであることから、スターというほどではないが、それでも10年間に45本という出演本数は立派な女優として活躍していたことを意味するものである。また、これは一般の明治生まれの女性の典型からは外れた人生でもある。結婚、出産、子育てという周囲の常識から見ると、遥か遠くの銀幕の女性であり、きくの自身「一般とは違う女」であることをじゅうぶんに意識していただろう。そして、そろそろ30歳になるという頃、女優を辞め、俳句を始める。仕事を辞める直接のきっかけが何であれ、己の美や老いをもっともはっきり自覚する職業であることを思うと、30歳は潮時と考えたのかもしれない。

 きくのの作品には生活感がないと言われてきたというが、女優であった経験が自身の運命をごく客観的に見る術を身につけたのだと思われる。ストーリーがあり、背景があり、役者がいる。これらを実生活のなかでも、自然と感知していたのではないかと思われる。

 掲句に漂う空気は孤独であるが、対極に渡り鳥を自由の象徴としてはばたかせることによって、大きな空間が生まれた。雲に紛れる彼らの目指す先の安住の大地へ、思いを馳せる。包帯の白が実に映像的である。

 同句集に収められる〈夏帯やをんなの盛りいつか過ぎ〉〈似合はなくなりし薄いろ鳥雲に〉〈つひに子を生まざりし月仰ぐかな〉などからも、現実を静かに見つめ、嘆き悲しむ見苦しい姿は決して出さず、かといって目を閉ざすわけでもない妙齢の女が凛として佇っている。



●―4:齋藤玄の句/飯田冬眞


おのおのの紅つらならず曼珠沙華 昭和50年作 句集『雁道』所収


 曼珠沙華を見るとき、どのように見ているだろう。まずは畦一面を真紅に染めて咲く曼珠沙華の一群が視界に飛び込んでくる。その次に焦点を絞ってゆくと、ひとつひとつの曼珠沙華の姿と色に行き着く。曼珠沙華の花の色を言葉で表すならば「紅」としか言いようがない。しかし、一本一本の真紅の曼珠沙華の「紅」の色はどんなに群がり、蘂と蘂が錯綜するほどに咲き乱れても、決して、隣で咲く曼珠沙華と同じ「紅」の色ではないのだ。曼珠沙華の「紅」の色は隣の紅を乱さず犯さずに咲き盛っている。全体では真紅一色に見える曼珠沙華も一花一花の「紅」の色は微妙な異なりを身にまとっている

 言葉と実態のもつ微妙な差異を凝視することで曼珠沙華の実相を見つけ出し〈おのおのの紅つらならず〉と表現し得たところにこの句の独自性があるように思う。言われてみれば確かに曼珠沙華の姿は、そうとしか言いようがない。まさに写実の鋭い目によって、曼珠沙華の本来の姿を描いて見せた一句といえる

 齋藤玄は「凝視と独白の作家」であると前回紹介したのだが、この句は、彼の「凝視」の側面をよく表している句だと思う。曼珠沙華の人口に膾炙した句と比較するとそれがよくわかる。試みにいくつか挙げてみる。


つきぬけて天上の紺曼珠沙華   山口誓子

曼珠沙華落暉も蘂をひろげけり  中村草田男

西国の畦曼珠沙華曼珠沙華    森澄雄

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子  金子兜太


 どれも秀抜な句であることはまちがいないのだが、曼珠沙華そのものが鮮烈であるゆえに〈天上の紺〉〈落暉も蘂をひろげ〉〈西国の畦〉〈腹出し秩父の子〉といった景物あるいは背景を引き合いに出すことでしか作品世界の均衡を保てなくなっている。つまり、私たちが名句だと思っているこれらの句は、読者が抱く曼珠沙華に対するあるイメージを引用することではじめて作品として成り立っている作り方なのだ。俳句とはそういうものであるのかもしれず、大方はそうした詠み方、作り方でよいのだが、齋藤玄は対象を見て視て観て見尽くして自滅するか、そこから対象本来の姿をつかみとることに成功するかのきわどい作り方をしている作家なのである。掲句はもちろん成功例なのだが、他の作品について言うと「凝視」することで対象と一体化した挙句に作者が透けて見えすぎる嫌いがある。たとえば同じ『雁道』の〈色として白梅の白なかりけり〉などは、〈白梅の白〉を凝視した結果〈色として〉〈なかりけり〉という理屈を詠むという自滅の道をたどってしまっている。いわゆる「理に落ちる」というやつだ。掲句は、他の背景、景物をいっさい用いずに曼珠沙華だけを見てその「紅」をとおして〈つらならず〉という曼珠沙華そのものの姿に肉薄した結果、命と命のありかたの実相、関係性の真理といったものの一面を言いとめているようにも読めるのだが、いかがだろうか?


●―5:堀葦男の句/堺谷真人


ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒


 第一句集『火づくり』(1962年)所収。最終章「火の章」、「潜在空間」と題する25句の劈頭に置かれた作品である。広く人口に膾炙した堀葦男の代表作であり、究極の抽象表現は昭和三十年代前衛俳句のひとつの到達点を示す。安西篤は『現代の俳人101』(2004年)の中でこの句について「原色のタッチの力感でひた押しする抽象画のバイタリティを感ずる。アクションペインティングのような力強さだ。当時の時代相の低暗部にあるマグマを感覚的に表現し得た句でもあった」と書いている。的確な鑑賞であろう

 葦男は、終生、俳句表現の形象性を重んじた。句座では「心のすがたを、物のかたちで書く」という言い回しを好んで用い、時に言語遊戯や観念性に流れる連衆をやんわりと誘掖した。その葦男がこの句では黒以外の色彩と形状とを悉く消去しているのだ。互いに相摩し、相撃ちながら押し寄せて来る夥しい黒の氾濫。怒濤のような運動エネルギーだけを、作者の側もいわば「力づくで」書き切ってみせたのである

 ところで、筆者は生前の葦男から、この句の誕生の契機となった体験について直接聞いたことがある。「夕方、御堂筋を歩いていた。ふと顔を上げると、淀屋橋方面から夕闇を背景にして猛然と走って来る自動車の群が目に入った。煌々たるヘッドライトの光以外は一様に黒い塊。それがあとからあとから際限もなく押し寄せて来るさまは圧倒的だった」と

 大阪市を南北に貫く6車線の御堂筋は、1970年の1月から南進のみの一方通行となった。同年4月に開幕した大阪万博による交通量の増大が予想されたため、渋滞緩和策として、市内の南北方向の幹線道路が一方通行化されたのだ。葦男が目にしたのは南北双方向に自動車が流れていた御堂筋である。職場は大阪市東区(現・中央区)備後町の綿業会館内にあった。綿業会館から西に300mほど行くと御堂筋にぶつかり、淀屋橋はそこから北に約800mという位置関係だ。葦男は御堂筋に沿う東側の歩道を北向きに歩いていたと思われる。帰宅中だったのであろう。いや、仕事関係の酒席があって北新地方面までゆく途中だったのかもしれない。いずれにせよ、前衛俳句の極北に屹立するこの記念碑的な一句は、近現代大阪の大動脈ともいうべき御堂筋の夕闇の中で胚胎したのである

 以下、余談。葦男の職場から御堂筋に出て、淀屋橋と正反対、南へ500mほど行くと、真宗大谷派難波別院(南御堂)がある。その近く、御堂筋の東側側道と中央4車線を隔てるグリーンゾーンに小さな石の柱が立つ。刻まれているのは「此附近芭蕉翁終焉之地ト伝フ」の文字。芭蕉が客死した花屋仁左右衛門の旧宅跡だ。昭和初頭の御堂筋拡幅工事により、旧宅跡は路面にせり出す格好になってしまった。元禄七年の秋、一人の老俳諧師があまたの門人たちに囲まれて今生最後の幾日かを過ごした永訣の地を、3万台以上の自動車が今日もまた駆け抜けてゆく


●―6:富澤赤黄男の句/山田真砂年(今回は休載)


●―8:日野草城の句/岡村知昭


山茶花やいくさに敗れたる国の


 『青玄』という雑誌が日野草城の存在なくしては決して生まれなかったことを思うとき、これから「『青玄』の作家たち」の作品の数々を考えていくときに、まず取り上げるべき作家は草城こそがもっともふさわしいはずである。そしてこれから取り上げる1句こそ、草城の俳句への復帰を飾る第一歩であると同時に、草城を慕う若者たちにとっては『青玄』創刊への大いなる助走のはじまりとして、それぞれの立場がその後さまざま変わることはあっても決して忘れることのできない大切な存在、まさしく「感銘句」としてあり続けた。私にとっての「『青玄の作家たち』へのアプローチもまた、日野草城の「山茶花」の1句から始めることにしたい

 草城がこの一句を詠んだのは昭和20年11月11日、大阪は豊中の小寺正三の自宅で開かれた第1回「まるめろ俳句会」でのこと。草城がこの1句を詠むまでの様子は、この日の句会に参加していたひとりである楠本憲吉は翌年創刊した「まるめろ」の創刊号で次のように書いている


 本道をそれて道が下り坂にかかった時、左手の籔の茂みの中に山茶花の灌木がぽっかり浮き出たように咲いているのに目を引かれ、振り返りざまに眺めていると

「オヤ、山茶花が咲いていますね

 と穏やかに言われた。それはいかにも穏やかな先生の声だった

        (引用は『日野草城全句集』栞所収の「先師草城のことども」より)


 楠本憲吉はもちろんのこと、伊丹三樹彦、桂信子といった他の参加者たちが一挙手一頭足を食い入るように見つめ続けていた中で草城が発した「穏やか」な声、「穏やかに」語られた言葉。「穏やか」な一瞬から詠まれた草城の1句が参加者に強い印象を残したであろうことは想像に難くないし、いま彼ら彼女たちが立っているこの場のありようを「いくさにやぶれたる国」と広い視線で捉えるときのあまりの穏やかさも、参加者たちをまた驚かせるに十分だったはずである、まぎれもなくこの国は「いくさに破れ」たのだとの思いを「穏やか」な詠みぶりを通じて草城は突きつけてきたのだから。そんな参加者たちの驚きをよそに、草城はこの1句に対しての名乗りを「又しても如何にも穏やかに言われた」と憲吉は書き残している。名乗りは幾度も繰り返され、この日の句会の最高点となった

 8月15日周辺の句で「おもひきや戦をとざすみみことのり」「戦果つ残る暑さのきびしきに」と詠んだ草城にとって、「敗れたる国」と敗戦をはっきりとした言葉で表すことへの逡巡は多少はあったかもしれない。だが自らの目の前に立つ若者たちのまなざしの熱さを前にして、自らが再び俳句に拠って立つ意思がより確かなものとなったことを深く実感したところから、草城の「いくさに敗れたる国」での再出発が始まった。それはこの日出席した憲吉、三樹彦、信子にとってもまた同じだったのだろう。草城の「穏やか」さの中に秘められた熱さを受け止めるところから始まったそれぞれの戦後。だが草城と若者たちの想いがひとつの雑誌として形になるまでにはあと3年の月日を要したのだった


●―9:上田五千石の句/しなだしん【「星」の句からみる五千石の真実(1)】


 前のプロローグ(自己紹介)にて


ゆびさして寒星一つづつ生かす   五千石(昭31年作)


を第一句集『田園』から挙げ、私の愛誦句であることは書いた。

 この句の特筆すべきは、とても能動的であること。「ゆびさして」「生かす」のだ。見上げた夜空に星を一つ見つける。一つ見つけると目がどんどん闇に慣れてゆき、また一つ、また一つと星を見出すことができる。五千石はその行為を「生かす」と言いきった。それも、星の一つ一つを確認するように「ゆびさして」である。

        ◆

 このとき、五千石はきめらく星を「ゆびさして」「生か」したいほどの心持ちにあったのだろうと推察する。

 この句について五千石は、自註(*1)に次のように書いている。


俳句によって、自分という存在が、ハッキリしてきた。

そうなると自分を中心に宇宙の全てが、いきいきしはじめた。


 実は、五千石は一浪のあと入学した上智大学二年の春頃、いわゆる神経症に悩まされていたのだ。

 五千石は、著書『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「俳句との出会い」のなかで、次のように記す。


大学二年の夏休みを、私は一か月も早くとらざるをえませんでした。

神経症が高じて、どうにもならなかったからです。(中略)

死は私に直面していました。


 そんな状況にあった五千石は、帰省後に母の導きにより、秋元不死男の俳句に出逢う。

 同書によれば、後日、五千石が参加した俳句会は「忘れもしない、昭和二十九年七月十七日のこと」で、「私を苦しめぬいた神経症は、その夜をもって完全に雲散霧消、神経症の患者ではなくなった」という驚くべき事象の日であり、「かくて秋元不死男は私のいのちの恩人」となったのだ。

 さらに続けて「ゆびさして」の句にふれ、


俳句によって、初めて私自身と巡り会うことができたのでした。

言葉をかえて言えば、”私の中の自然を大切にする”ことを知ったということです。 

今日の私の生き方と私の俳句観は、すべてそこから導かれてくるのです。


と述べている。

 ちなみに7月17日の俳句会というのは、秋元不死男が出席した吉原市(現富士市)での「氷海」吉原支部発足の会であった。この件についてはまた別途述べたいと思う。

        ◆

 「ゆびさして」の句が成ったのは、先の神経症の件が起こった昭和29年5月頃から数えておよそ1年8カ月後、ということになろうか。この句は、五千石の、俳句開眼の一句であり、自我開眼の一句、そして「いのちの一句」でもあったのだ。

 若き五千石の青春が迸っている作品である。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』 角川学芸出版刊


●―10:憲吉の句/筑紫磐井


汝が胸の谷間の汗や巴里祭


 憲吉の極めつけといってよい句である。しばしば、この「巴里祭」の句以外憲吉には何も残っていないではいないかと批判する人がいるが、そうした人に限って憲吉の「巴里祭」に匹敵する程の句を持っていたためしがない。この句に匹敵する名作はそう簡単には見つからないのである。もちろんわたしは以下の連載で、「巴里祭」の句以外憲吉には何も残っていないという迷信を打ち壊したいと思うのであるが、その意味でも1回目に取り上げるべき句だと思う。


 「巴里祭」とは、7月14日のフランス革命記念日のことであるが、もはや風俗としては何の痕跡も残っていないのではなかろうか。この句の詠まれた背景には、憲吉の若かりし時代、彼と同世代が背伸びをして見たであろうルネ・クレールの「巴里祭」(Quatorze Juillet 1933年フランス映画)を抜きにしては語れない。内容は巴里祭の前後の男女の他愛ないものがたりだが、灘万のボンボンとして生まれ、慶応大学を出て、やや前衛風のかっこいい俳句をつくる憲吉にはふさわしい映画だ。上演はたぶん憲吉12,3歳の頃である(遠藤周作が同級生だ)。だから、この映画を見なくなった現代では共感が乏しくなるのも致し方ない。


 映画巴里祭の流行った二・二六直前の騒然とした時代の、少しエロチックな、しかし明るい時代雰囲気は、戦後の同じような時代を生きている憲吉にピッタリする。「谷間の汗」で上気している若い女の生理までもがにおい立ってくるのは、この作家特有の観察眼である。この作者の句に登場する女たちはみな個性的で美しい。(作者による卑俗な自解があるが興ざめなのでここでは紹介しない。)


 出典は『楠本憲吉集』(昭和42年)、昭和28年の作品。


●―11:赤尾兜子の句/仲寒蝉


音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢  『蛇』


 少し前までは兜子と言えばこの句しか知らなかった。意味が分っていたかと問われると自信はなく、好きかと問われるとさほど好きでもなかったが、何故か気になる句であった。いわく言い難い不思議な雰囲気をたたえ好悪の彼岸にあるような句であった。

 兜子の句を字余りという観点から見ると、初学の頃の『稚年記』はほぼ定型遵守、『蛇』の最後の章「坂」あたりから字余りの句が8割を越え、次の『虚像』では9割以上が字余り、それが『歳華集』の最後あたりで減少し、死後に編まれた最終句集『玄玄』ではまた定型が多くなる。仮名遣いも初期の『稚年記』は歴史仮名遣い、『蛇』『虚像』『歳華集』など全盛期の句集は新仮名遣い、最後の『玄玄』はまた歴史仮名遣いに戻るのでこのことと字余りとが明らかに連動している。その意味では掲出句は7-7-5と字余りながら同じ『蛇』に収められた「ゆうべ真つ白い玉巻キヤベツ抱いて思うことないぞ」「場末の木椅子にちぢれ毛絡ませ記者ら酔う」「ナイフが掠める檻の汚れた空で蒸す夜景」などと比べれば随分と大人しい印象である。

 兜子の句は言葉を尽くして細部を描写しているように見えても同じ時代の所謂「写生」を目指した句とは全く印象が異なっている。詳しく描かれることと分りやすいこととは別次元の問題だということを思い知らせてくれる。先に挙げた3句を例に取っても「ゆうべ…」は白い玉巻キャベツというはっきりしたイメージを抱かせるものの何を「思うことない」のか判然としないし、「場末の…」はかなりの細部描写であるのに木椅子の置かれた場所が屋内なのか屋外なのか不明なので記者達は宇宙空間のどこかにでもいるような無重力感がある、「ナイフ…」に至っては一つ一つの単語の意味は追えても総体としてのイメージは非常に漠然としており何故この語とこの語が結び付くのか謎のまま放り出されている。

 そのような句に混じって掲出句があるということを知った上で読み解いてみよう。名詞4つと動詞2つから成り字数の割には意味が凝縮された感がある。これだけ言えば充分だろうと思えるほど言葉は尽くされている。でありながら頭の中で容易に像が結べない。読者はゴツンゴツンと言葉にぶち当たりながら自分の位置を考えつつ進んで行かなくてはならない。幾つかの謎が読者の前に立ちはだかりなかなかスムーズに前へ進めないのだ。

 音楽とはどのような?ベートーヴェンの交響曲みたいに重々しいものか、それともこれの書かれた昭和30年代前半に流行った春日八郎の『お富さん』や石原裕次郎の『俺は待ってるぜ』のような流行歌なのか。岸は川岸か湖岸か、或いは海の岸か。「侵しゆく」の主体は蛇なのか飢なのか。勿論それは読者に委ねられているのだから鑑賞は自由なのだが、書かれているのが尋常の光景でないだけに夢でも見るかのような印象がある。むしろその曖昧模糊を狙っているとも言える句なのである。

 赤尾兜子の句の造りは見た物、経験した事をなるべく素直に「単純なる叙述(虚子)」によって表現する行き方からは対極にある。掲出句をもしも作者が実際に目にした出来事と仮定すれば、例えば川岸を獲物を探して蛇がくねりながら進んで行く、その向こうに公園があってゆったりしたムード音楽が聞こえて来る、といった情景を思い浮かべればよい。これを俳句に仕立てるのに音楽や飢といった言葉は不要である。ただ川岸とそこを進む蛇を簡潔に表現すればよい。ところが兜子は背景に音楽を漂わせ、蛇を飢えていると看破し、あえて「侵しゆく」という措辞を選んだ。そのことにより句はどうなったか?良くなったか否かは読者の考え方次第。しかし少なくとも川辺を進む蛇を詠んだ凡百の俳句とは全く異なる世界観を持った句に変身したことだけは確か。あたかも音楽に合わせて湾曲する川岸をパックマンのように蛇が齧ってゆく、その飢は留まる所を知らず蛇は岸の続く限り地の果てまでも進んでゆく…と言ったところだろうか。


●―12:三橋敏雄の句/北川美美


日にいちど入る日は沈み信天翁


 人は一生を通じて、「こころ」という不思議な作用に左右される。時代、環境に翻弄されながら「こころ」を持つ「人」として成長していく。経過する時の中で肉体、脳が老いていく。記憶の中にとどめたくない事象に遭遇し、年齢とともに「こころ」が磨り減っていく。それでも日(陽)は昇り、日(陽)は沈み、一日が展開する。生きる者に、朝が来て、昼が来て、夜がくる。そして、春が来て、夏が来て、秋が来て冬になり一年が終わる。人も動物も植物も営みを繰り返えす

 掲句は、三橋敏雄 句集『眞神』(ま(・)かみ ※注)31句目に収められている。昭和44年、敏雄49歳の時の作である

 『眞神』には全体を通し不思議な時間軸が流れる。浮遊した時の中で、身体的といえる言葉を通しタイムスリップしたような世界に引き込まれていく。現代詩とも、絵画とも、映像とも共通する、それまでになかった17文字の世界が展開し、次の句へと連鎖するような錯覚をし、不思議な迷宮を体験する。『眞神』は生生流転の人間世界、自然界を背景にしている

 上五中七のたった十二音節「日にいちど入る日は沈み」において、地球の自転を潜ませ日没から日昇までの時間経過を暗示している。繰り返しながら、日々失っていく何か。「日」という陽に対し、「沈む」という陰。全滅の危機に瀕する「信天翁」(あほうどり)の、「天」を「信」ずる「翁」という表記。使徒のような鳥が重く沈む日(陽)をみている。視点は鳥である。読者が鳥になったような錯覚を起こす。読者は、自分の人生や時代を思いつつ、ただこの句を前に自分を投げ入れるのではないだろうか

 アメリカの「失われた世代」(ロスト・ジェネレーション)とは、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの小説家に代表されるような20代に第一次世界大戦中に遭遇し、従来の価値観に懐疑的になった世代をいう。『日はまた昇る』(原題:The Sun Also Rises)は、ヘミングウェイの出世作として有名だ。その序文に記された言葉を引く

 傳道之書(アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』谷口陸男訳


 「世は去さり世は来きたる地は永久とこしなへに長存たもつなり 日は出いで日は入いりまたその出いでし處に喘あえぎゆくなり(略)」


 上記の言葉は、旧約聖書 第一章であるが、これには省略されている冒頭箇所がある。「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

 これを掲句に結びつけると、神の使徒「信天翁」は、いっさいの空にいる自由な阿呆(あほう)。崇高でありユニーク。『眞神』には所々にシャーマン的な存在が登場するが、注意しなければならないのは、『眞神』は物語ではない。俳句集である。読者が慣れ親しんできた言葉を使用しながら、俳句形式の中で読者を別の世界へ連れて行く三橋の冷静で巧みな術がある

 戦争という体験は、三橋に多くを語らせず、しずかに、海から陸をみるという視点をもたせた。大人は泣き叫ばず日常を淡々と生活できる。大人は考えることができる。大人は時間を操作できる。掲句は、大人であること、人生の時間について改めて想いをめぐらす一句である


※注)『眞神』の読み方は、様々あるようだが、筆者は「ま(・)かみ」と読む。


【補足】北川美美は2021年1月14日になくなった(享年57)が、BLOG俳句新空間の創始者・管理人であり、「戦後俳句を読む」においても三橋敏雄作品を鑑賞し、これをもとに『「眞神」考』刊行(2021年ウエップ刊)にまとめた。この連載研究の趣旨をもっともよく体した論者であった。

 この連載で友人たちと切磋琢磨しながらまとめた論考が単行本として完成したものであり、この連載研究がどのように発展したのかは北川美美を比較対照して眺めることによりよく理解できると考え、物故者ではあるがこの連載復活に当たり掲載させていただくこととした。ただし、この連載の後、北川は三橋論を「ウエップ俳句通信」で再連載し、更に『「眞神」考』原稿の段階でまとめなおしたので、北川の最終見解とは少し異なるところがあるので注意されたい。