●―3,7,10:戦後俳句史を読む 第2回/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井(司会)
筑紫:俳句では「師系」という言葉がしばしば言及される。しかし詩の人々にはこの言葉は理解しにくいだろうむしろ、戦後俳句にあっては俳句の集団(しばしば雑誌名)として捉えた方が分かり易いと思う。ちょっとここで、今回の「戦後俳句を読む」で特に相関度が大きいそうした集団を眺めておこう。以下の通りだが、それぞれの集団を指導した作者としては草城(執筆者岡村。以下同)、赤黄男(山田)、憲吉(筑紫)、兜子(仲)に今回の連載は集中しており、これらの相互の関係を理解しておくとそれぞれの鑑賞も理解しやすいのではないかと思う。
このうち、「旗艦」は「京大俳句」とならぶ戦前の新興俳句の代表的な雑誌である。
今回は「戦後俳句を読む」で取り上げている16人の作家のうちから、特に注目する作家の活動から戦後というものを考えてみたいと思う。その際、上のような関係にも鑑み、また北村、堀本の二人との事前の話も総合すると、早い時期に日野草城に焦点をあてる意味があるように思う。
北村:日野草城について桂信子編著『日野草城の世界』(梅里書房)を読んだ。そこにある200句を見ると、戦前と戦後には大きな差がある。初期の句には、文化的生活をふまえた軽快さがある。そうした句は、機知に富んでいるし、いわば「そつなく」できあがっているというのが私の最初の感想である。しかし戦後の句には、そのような自在さは無くなり、ある種の難渋する様、それを何とか越えようとする様が詠まれはじめる。
晩涼や木を挽ける音挽き切りし
鳴きしぶりつつゐたる蝉鳴きとおる
冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり
生きるとは死なぬことにてつゆけしや
敗戦に加え、病と休職の境遇がより「もの」を凝視することを強いたのである。岡村が選んだ掲出句はその始まりの句であろう。寒さの中に裸で立つ「寒い赤」の山茶花、敗戦の国土を象徴する。
堀本:モノの凝視や写生を虛子に学んだのだが、もともと、草城は、蕪村の句《お手討の夫婦なりしを衣更》に俳句開眼したと言う面白いエピソードがある。「物語性」を取り込んだ新しさはそういうところにも感じ取られる。高濱虛子には〈舌端に触れて夜霧の林檎かな〉で感覚的な把握を注目された。これも草城のセンスのモダニズムがはやくからみとめられたあかしである。その延長にある「ミヤコホテル」(昭和9年、「俳句研究」)は、結婚の日常的なあり方を風俗小説ばりの連作(物語)にしている。「ミヤコホテル論争」は、ゆくりなくも時実新子の『有夫恋』をめぐるスキャンダラスな反応を想い出させる。これには秋元不死男、西東三鬼は肯定的、久保田万太郎、中村草田男は断然反対の立場だった。水原秋桜子は、「草城君のこれが連作の標本になったら困る」、というような趣旨で批判的だった。なお、詩壇では、室生犀星が賞賛、萩原朔太郎に勧めたが、朔太郎は懐疑的だった。(以上は、伊丹啓子『日野草城伝』2000・沖積舎、参昭。
しかし草城はまた「俳句は詩の一分野である」「究極に於て間接に一般芸術に於ける鑑賞表現を云為することになる」(ホトトギス大正11,10)(松井利彦『近代俳論史』(昭和41・桜楓社))という見解も披露している。
「戦旗」創刊号の「宣明」(昭和10年)では
吾人ハ新精神ヲ奉ジ、自由主義ニ立場ヲトル。・・・陳套ノ排除、詩靈ノ恢弘ニ在リ。俗流ノ手ヨリ俳句ヲ奪還シ、以テ純正ナル文学的発展ヲ作品ト理論トノ上二実現セシメムコトヲ期ス。定型ハ・・・死守スベキ社稷ナリ。(以下略)。(伊丹公子《日野草城ー早熟にして晩成》より抜粋)
と述べ、虛子の方向とは公然とそれてゆく。翌年昭和11年、「ホトトギス」から除名される。
この言挙げのもとで、無季俳句、連作俳句、戦火想望俳句などを発表。俳句の詩性を追究してゆく。この時期の連作のモチーフがだんぜん面白い。《事務風景》。《愛しき消費—ありがたきボーナス》《退職期》《浄房》(トイレでの排尿のことを句にしている)。他に口語、外国語をひらがなで書く、等々。スタイルが多彩である。ただ、強固な社会正義やイデオロギーをもった人ではなかっただろう。「京大俳句」の顧問にもなるが、統制のすすむ過程で、次第に沈黙してゆく
筑紫:ふうん。
堀本:戦後の第一声『旦暮』巻頭に誌された有名な箴言「俳句は 諸人旦暮(もろびとあけくれ)の詩(うた)で ある」、時代の文化風潮や庶民感覚の先端を覚る感性はおとろえていないのではないだろうか。
ともあれ「極端に早熟な」作家は、終戦をむかえ、「極端に晩年の成熟」(どちらも山本健吉評)という時代へはいる。
昭和24年「靑玄」(日野草城主宰)を創刊し、桂信子、伊丹三樹彦、公子、楠本憲吉らが傘下に集う。病床の日々で詠んだのが<高熱の鶴青空に漂へり>である。今回岡村が取り上げているので参照してほしい
草城は、日常詠と境涯俳句に没したといわれながら、こういうところに、冨澤赤黄男、高柳重信。林田紀音夫、楠本憲吉など反骨の詩性を啓発した新興俳句の始祖の風格をみせている。
日野草城と言う作家個人の面白さは、時代や世相の変化を持ち前の感覚に取り込み内面化したところにある。
筑紫:モダニズムという価値観が評価できるかどうかについて私はやや懐疑的である。むしろ俳句史的に面白いのは、高浜虚子の低調な客観写生時代→4Sの個性的時代という直接的な移行ではないことである。間に、草城が入っていることである。4Sの先輩に草城はあたり、草城に負けまいとするライバル心が4Sの活躍の原動力となっていた。それは東大俳句会の復活以前に草城が中心となった京大俳句会の発足と活躍があることも同様である。新興俳句の代名詞である「戦火想望俳句」も火野葦平の「麦と兵隊」の読後俳句として草城が提案した表題であった。ジャーナリスティックで人騒がせな、時代に先駆ける精神こそ草城の前半生の基調であり、モダニズムはたまたまそうした基調の下位的な属性に過ぎなかったように思われる。
余計な話だがホトトギス裏面史では、大正13年に高浜虚子はホトトギスを水野白川男爵に5万円で譲渡、白川が経営、虚子が選句(選句料100円と言われている)、草城が編集にあたるという動きがあったという。不幸にしてこの動きは中途で断絶したが、これが成功していたら、あるいは全く違った昭和俳句史が出現していたかもしれない(当然、草城が編集するホトトギスは新興俳句雑誌化していたはずである)。このことからも、堂々と虚子と渡り合える立場に草城がいたことになるが、それは草城のジャーナリズムに対する感性の良さによるものであったろうと思う。モダニズムよりはるかのそのほうが重要であると思うのだが。
堀本 :その逸話は面白い。磐井の推測は十分考えられる。でも、草城は状況の読みが早い、それから、やんちゃではあっても無益な争いはしない性格だったように見受ける。虚子の近くではあまり過激にはしなかっただろうとも思うが。
北村:「日野草城の世界」に収録された宇多喜代子の文によると、昭和11年のホトトギス除籍から終戦までの時期は、作品は通常無視される。が、宇多はこの時期が彼の思想にとってまた俳句の歴史上重要であるという。彼のサラリーマンとしての生活が新しい題材と無季の俳句を推進したのである。そして虚子・ホトトギスの唱える花鳥諷詠との訣れに至ったのである。つまり草城を三期に分ける。いま彼の作品を見ても大きな驚きはないが、彼は第二期で虚子を振り切り未踏の域に歩み出し、それが俳句の転機をもたらした。その後の世界に我々がいるからもう驚かないのである。
ところで私がテレビで見かけた「俳句甲子園」の議論は、おおむね草城第一期の延長上にあるような気がする。作品の技巧、新しい機知、伝統の知識など脱帽であるが、既成の俳句批評の言葉で絡め取られる。議論は俳句の世界を広め、深めるものには見えない。
しかし、バブル崩壊、パラサイト、ロースト・ジェネレーション等の問題に加えて、この大震災・放射能禍。文芸の世界に大きな影響を及ぼして行くだろう。かつて都市のサラリーマン生活が草城の句を変えたように。
堀本 俳句甲子園の彼らに、われわれの年代の屈折を求めてもしかたがない。でも、彼らは優秀ですよ。将来多方向に化けるかもしれないし。また、おっしゃるように、都会に広範に潜在しているはずの若年のニート達が、何か独得な思想や表現をきりひらくかもしれない。
筑紫:今回の楠本健吉の鑑賞でも述べたことだが、草城は若い時代を「ミヤコホテル」で代表される軽薄な俳句で注目を浴びた。軽薄とは上に述べた下位的な属性のひとつであるモダニズムよりはるかに俳句の本質により近いものではないかと思う。新興俳句時代を経て、戦後は闘病を余儀なくされたこともあり、真面目な作品に移行している(正岡子規の姿を彷彿とさせる英雄的な姿だ)。しかし、弟子の憲吉は晩年の作品こそが軽薄だ。個人の生理からすると、進歩、深化してゆく草城の変化の方が健全なのだろう。
ただ個人のなかに歴史が埋め込まれるとすると、晩年に軽薄な俳句を詠んだ憲吉の方が戦後俳句史そのものを顕現しているように思われる。戦後俳句、特に昭和50年代以降の俳句は憲吉の設けたモデルに従って進んでいるのではないか。俳句の作者が有名人となり、テレビに出演し、カルチャー教室を持ち、料理番組でうんちくを語り、子供俳句の指導をするのはすべて憲吉が始めたモデルである。
しかしその憲吉の晩年のモデルになっているのは、若かりし日の草城であるように思われる。師系というものは争えない。北村が最後に掲げた現代俳句の現象は草城、憲吉の流れの中で見ると納得できる。「俳句甲子園」が当時開かれていたら、草城、憲吉も喜んで審査に参加していたのではないか。師弟にわたるジャーナリズム感覚の鋭さを感じた。
堀本:私の考えでは、草城を俳句のモダニズムの旗手(むしろ始祖のひとり)、とおさえることは原則点として重要だと思うのだ。そこから、余人が追随できないメディア人たる個性も育ってきたのではないだろうか。草城の「自由主義」、というのは、根本は、大正リベラリズムや昭和のモダニズムの機運をうけている、俳句ではこれは客観写生に対する「方法の自由」、ということになる。ただ、筑紫がもちだしてきたジャーナリズム感覚というのは、なるほど、いわれてみればわかるので、新たな切り口だろう。
筑紫は、日野草城や楠本憲吉に対しては、俳句一句の深みをあじわうそのこととよりも、関係をつないで行く行動性に目を向けている。そこに不満を感じる。
北村:今回憲吉の句を少し見た。それで思ったことは、日本の女をあたかも季語のように詠んでいて、鮮やかである。その中に磐井の採りあげたような句が混じっている。それがまたしゃれた感じをあたえる。
私が、草城の初期から憲吉、甲子園俳句の流麗なることに物足りなさを感じるのは、彼らの論には否定性が薄いと言うことである。否定性が軽快であるというべきかもしれぬが。磐井の師系の図で言えばやはり、薔薇(赤黄男)─俳句評論(高柳重信)─渦(兜子)の流れの方に目がいってしまう。これは私が軽みよりも濃厚を好むからだ。しかし、すべて草城が土壌を作ったと言うことは納得できた。中期以降それをあまり作品の形で残せなかったとしても。
筑紫:「戦後俳句を読む」のシナリオからゆくと、16人の作家の中に正式には草城は入っていない。岡村が、青玄系作家ということでまっさきに取り上げたことによってこの鼎談でも話題にすることになった。しかし、広範な系譜から行っても、今後様々な作家を論じる度に立ち返ってもいい作家だと思う。
今回私が宇多喜代子などに代表される一般的な考え方にちゃちゃを入れているのは、新興俳句というものをあまりにストイックに見すぎるのは―――北村の「私が軽みよりも濃厚を好むからだ」というのはよく理解できるが―――、客観的俳句史からすると危険だという気持ちがあるからだ。新興という言葉を使った用語には、龍胆寺雄、吉行エイスケなどが組織した反プロレタリア文学的な「新興芸術派」もあれば(おそらく日野草城は最もそれに近い)、国策に沿った「新興満洲」(山口誓子の第2句集『黄旗』では、<黄旗は新興満洲帝国の国旗である>と書いている)、あるいはもっと危険な「新興ナチス」といった言葉が当時の新聞では踊っていた。新興俳句作家を否定するのではないが、「新興」には注意深くありたいと言う気がする。
ジャーナリズム的性格を取り上げたのは今回おかど違いであるような気もするが、新興俳句が改造社の「俳句研究」の支援を受けて伸長したことを忘れてはならないと思うからだ。特に改造社という化け物的性格が、新興俳句にどのような影響を与えたかをいつか考えてみたいと思っている。月刊誌「改造」で左翼的知識人の圧倒的支持を受け、『資本論』『マルクス・エンゲルス全集』を出し、一方でファシズムに迎合して対極の『ムッソリーニ全集』を出し、植民地経営を支援する雑誌「大陸」を刊行し、軍部と結託して爆発的人気を呼んだ『麦と兵隊』を出版し、昭和の万葉集と言われた『新万葉集』を刊行し、反戦主義者バートランド・ラッセルやアインシュタインを招聘し、治安維持法違反となる横浜事件で解散させられるという不可解な経営方針を持つこの会社は、岩波書店と全然別の意味で新興俳句の性格を見定めるのに重要だと思うからである。堀本の私に対する批判はそれなりに甘受するが、ジャーナリズムの枠組みは、師系や結社以上に俳句作家の思想を拘束しているのではないか。40年近く俳句をやってきて、大家たちの戦後俳壇におけるパフォーマンスを見てきた私なりの結論である。
今回話題が拡散してしまったが、それはそれではいかにも草城的であったかもしれないという気がする。それくらい一筋縄ではいかない作家として、また改めて草城を論じてみたいと思う。
(その2 了)