黒田杏子第一句集『木の椅子』【増補新装版、2020年11月刊、コールサック社】をやっと再読できた。私は、黒田杏子先生の訃報に愕然と項垂れたのを思い出す。やっと黒田杏子第一句集『木の椅子』【増補新装版】を読み返すことができるようになった。まだまだ丁寧に言葉一語一語を読み解くには、精進し甲斐がありすぎますが、ゆっくりとですがこつこつと丁寧に句集鑑賞をしていきます。合掌。
帯文の瀬戸内寂聴の『木の椅子』の中から。「私はいくつも短編小説になる核をもらった。たとえば、〈かもめ食堂空色の扉の冬籠〉。こんな句を見ると、私のイメージは無限に広がっていく」と賛辞を贈る。
この黒田杏子第一句集『木の椅子』は、現代俳句女流賞と俳人協会新人賞を受賞している。
その現代俳句女流賞の選評において満場一致で受賞となる。
その選考委員の言葉を先ず記しておきたい。
飯田龍太は、「明るい感性の魅力」と題し、「生得と思われる明るく若々しい感性がのびのびと示され、読後の印象がまことに爽やかである。完成そのものに瞭かな向日性がある。見たもの、感じたものに余分の粉飾をつけないのがいい。」と述べる。
鈴木真砂女は、「溢れる新鮮味」と題し、その作品は新鮮味に溢れている。多少荒削りなところも無いではないが、読む者の心を引きつけるものがある。旅行吟も多くその若さから来るのだろうか自由奔放に詠みまくっている。この受賞がきっかけとなりぐんぐん延びてゆくだろうと述べる。
森澄雄は、「闊達と清新と」と題し、従来の受賞者にはない、まだ俳句にもの怖じしていない闊達さと清新さがある。正念場はこれからだが、いわばその未知数を多分にもったこの新人に期待したいと述べる。
この他、野沢節子の「感想」や細見綾子の「選評」の言葉のそれぞれに言葉の花束が手向けられている。
そうそうたる選考委員たちの高評価に負けないだけの黒田杏子の志、その後、大きく飛翔し、現代の俳壇を代表する作品群を創造し続けている。そして俳句の選者としても優れた俳人たちを励まし、新しい俳人と俳句の発掘に当たられてきた。
この第一句集の増補新装版という多面的に、この句集の俳句を検証がなされ、こののちの俳人たちの第一句集再販でのあり方の検証を世に問う事にも一石を投じている。
私の読後感は、何よりも黒田杏子俳句の勢いと感性に圧倒された。
どの俳句にもきらりと光る趣きがあって選び応えがあり過ぎて逆に嬉しい悲鳴を上げた。
十二支みな闇に逃げこむ走馬燈
第一句集の第一行の句にして走馬燈を詠み、高く遠くへ出帆の志を抱く黒田杏子の大らかなる快活さ。俳句への情熱の新風が吹いた。走馬燈とは、影を利用した照明器具。この俳句では、二重の意味性がある。十二支がみんな闇に逃げ込むように影の動感を見事に言葉にスケッチして魅せる黒田俳句の力量。さらにさまざまなビジョンが脳裏に現れては過ぎ去るさまから人間、誰もが晩年の死の訪れを迎えるときに思い描くであろう人生を私は、この句から俳句は小説にも匹敵する物語を喚起しうることを思い知るが、現在進行形で俳句界を牽引している、黒田杏子ならではの壮大な俳句の展開だ。
かもめ食堂空色の扉の冬籠
かもめ食堂とは、何だろうか。絵画のように読み解くのもいいかもしれない。意味性を安易な答えを出さないことで読者は、長い歳月をかけて絵画のように多様に読み込まれ受け継がれていくのだろう。私の俳句観賞だと冬籠の扉を開いてみた。魚の漁で航海し続ける海人たちの船に群がるように鷗たちが浮遊し、漁のおこぼれの魚を狙っている。二つの時空を結ぶ。かもめ食堂への扉は、俳句によって繋がっている。想像して欲しい。この俳句の読者が、十年も百年も千年も経た冬籠りのある日の扉から飛び出してくるのだ。そこからは、それぞれの俳句観賞と物語が展開していく。
小春日やりんりんと鳴る耳環欲し
小春日の化粧台に向かう女性が、りんりんと鳴る耳環、イヤリングをしたいと呟く。その小春日のその日を占うように女性は、自身を装っていく。装いに特化した女流俳人ならではのこんな俳句は、いかが。
獅(しし)撃つて秩父祭待つばかり
猪を撃って秩父祭を待つ猟師と祭を囲む人模様が鮮やかに秩父の風土を彩っていく。
細やかで瑞々しく丁寧に俳句を詠もうとする黒田杏子俳句の観察眼は、その新人の時期においても顕著であり、ひときわ異彩をはなっている。比喩(直喩も暗喩も)のダイナミックさも俳句の壮大さを展開していて重要な見どころだと思う。
金柑を星のごと煮る霜夜かな
金柑を煮るときの包丁の切り込みを星のごとくと捉えることで霜夜の厳かな世界観を喚起する。
李咲き母の割烹着の白さ
李(すもも)の花が咲いた。その季節の母の割烹着姿の眩いほどの白さ。鮮やかな描写力。
月の稲架古墳にありてなほ解かず
月の稲架と古墳を並べたダイナミックな表現力。その夜の
雄大な月と稲架と古墳の融合を以ってしてもその古墳の鍵穴の謎は、解けることがない。
はにわ乾くすみれに触れてきし風に
埴輪(はにわ)は、古墳時代の日本に特有のやきもの。その埴輪を乾かすのは、今、そよいできた野の菫に触れてきた風なのよっという瑞々しい感性のアンテナ。
野分して絵馬の願のおびただし
野分けとは、秋の台風の古い呼び名。その野分けの到来で絵馬の馬がはしゃぎ出す。その絵馬に書かれた人びとの願いは、つぎつぎと風の中でおびただしく鳴り出す。
小春日や木馬に傷のおびただし
小春日の木馬に陽気に浮き上がる傷。そのおびただしさを見出す。
雪片のまつげに積もる鶴の村
鶴の舞う村には、容赦なく降積る雪だが、雪の一片がそこに佇む人間のまつげにクローズ・アップされることで荘厳な物語を鮮やかに浮き上がらせる。
白葱のひかりの棒をいま刻む
台所に差し込む日の光を白葱の放つ光。今、その両者をつかむ瞬間の詠みっぷり。すべてが過去になってゆく今を丁寧に意識下に置いた。
亀の子のみなその石に執着す
ひとつの石に執着するように亀の子の群れるさまには、ユーモアさえ感じる。この明るいユーモアこそが作者の逞しさ。
ボンベイの日暮は茄子のいろに似る
この表現力に脱帽。全く脱帽。
はたはたを干せば低しや雲の群
「はたはた」は、北日本で良くとれるはたはた科の食用の海魚。その魚類の存在感から北国の風土の荘厳さが浮き上がる。
蜆堂の内はあかるし雪時雨
蜆堂の内部まで雪時雨が照らし出して明るいという気付きは、詩眼。
風囲して鶏の眼をとぎすます
風へ囲いをする環境の変化に鶏の眼がとぎすまされてゆく瞬間をキャッチした観察眼。
手花火も連絡船の荷のひとつ
この丁寧な観察眼そのものが、俳句の醍醐味となってゆくのだ。
日に透けて流人の墓のかたつむり
流人のさびしげな墓にも日は射し込んで、そこにとどまる蝸牛が涙のように日を纏う。
俳人として出会った風景や人物、さらに心の模様を私は出会いの財産と呼びたい。
心をこめ紡ぎだした俳句による出会いの財産を黒田杏子は、脈々と心を通わせつぎつぎと俳句にしてゆく。彼女の人生の豊穣に私は、ただただ憧れ、俳壇のこのトップランナーの背中を見失わないように俳句に精進してゆく。次の句に心象を織り交ぜた黒田杏子俳句の豊かな財産を御堪能ください。
そして私は言いたい。・・・・・俳人よ!「高く高く遠く遠くへ。俳句の海原に大きく出帆の志を抱け」と。
短夜の金魚は己が鰭に棲む
ごきぶりの罠組み立てて誕生日
仕事休みたき日なり都鳥ま白
黄落は火よりもはげし一葉忌
現世もかの世もかなし火を焚きて
丹頂が来る日輪の彼方より
三茶花も白封筒もつめたしや
語り継ぐ絹市のこと十二月
一月の汚れやすくてかなしき手
荷風の川北斎の川冬鷗
旅鞄つめ替へてをり春の雷
蟬しぐれ木椅子のどこか朽ちはじむ
ひとひとり碑裏にかくす昼の虫
打水やいづこより湧く人の群
わさび田の冬の手帳を埋めつくす
春雷のゆかたにわたる夜をひとり
たつぷりと暮れてしまひぬ桐の花
火を焚くや軍手のいろの海かもめ
おとうとと髪切虫に耳澄ます
大粒の星に摘み足す山椒の芽
おとうとの忌日をつつむ青しぐれ
母の幸何もて糧る藍ゆかた
ふるさとの水はうましや夏燕
身を容れてかなかなの谷暮れんとす
【初出】
「藍生」(令和三年八月号、第三十二巻第八号)の特集『木の椅子』増補新装版を読む
「俳人よ!高く高く遠く遠くへ俳句の海原に出帆の志を抱け。」(黒田杏子第一句集『木の椅子』(豊里友行)