●―3,7,10 第3回戦後俳句史を読む/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井
筑紫:今回は時間の関係もあり、次次回のテーマ「風土」について論じておきたいと思う(次回のテーマ「死」についてはすでにかなりの原稿が集まっているため)。今までは「戦後俳句を読む」で登場した作品・作家を中心に鼎談を行ったものだが、今度は「戦後俳句を読む」が書かれる前に、3人でそのテーマについて議論してみたいと思ったものである。ただあまり方向付けをしすぎてもいけないので、打ち合わせることもなく、3人が3人、それぞれの視点から論じてみた。作品鑑賞をされるにあたって参考にしていただければ興味深いと思う。
北村:第2回に採りあげた草城・憲吉などを都市派とすると、対照的にいわゆる地方にこだわった俳人がいる。たとえば斉藤玄、佐藤鬼房、成田千空。住んでいる土地と一体化して多くのの佳句を読んでいる。風土と言う土台を離れなければ、俳句は少ない言葉で多くのことを語る装置である。歳時記は言葉の型式にとどまらず、民俗学や生態学などを包摂している。しかし私の志向を述べると、風土描写にのみとどまるのは何か立体性に欠ける。そこで現実的な日常性を脱して国家・反国家といった方向に上昇する道はあるだろう。俳句というミニマルな器の中では、そのような観念的な上昇も表象(象徴的な表現)を通して詠まれることになるだろう。
しかし私はもう少し大きな時間・空間を期待してきた。いわばSF(science fiction というよりも speculative fiction)の俳句化である。むろん、これも表象を通して詠まねばならない。しかし完全に離陸してしまうと、落着きのない空疎なものとなる。
詩客の中で飯田冬眞 の採りあげた齋藤玄の句を見ると、一つの道が見える。玄は風土に浸りながらも、より普遍的なものを詠んでいる。飯田の挙げる
たましひの繭となるまで吹雪きけり
の前後にも
まくなぎとなりて山河を浮上せる
雪積むを見てゐる甕のゆめうつつ
など、死者に成り代わった視線がある。俳句にもエロス志向とタナトス志向があるのだ。もうすこし詩の考え方で言うと、これらの句は、俳句のうちではもっとも象徴詩となっているのではないだろうか。芭蕉の句には象徴性があるとされるが、玄はその要素を純化させたと言えそうである。(ついでながら、芭蕉の象徴性が、野口米次郎の介在によって内外の詩の運動に大きな影響を与えたとの、堀まどかの詳細な論考 がネットにある。そこに記された自由詩と俳句相互の影響の往還は大変興味深い。)その代わりに玄が捨てた、というより無縁であったものは俳諧性であろう。子規本人の意図は奈辺にあったかは分からぬが、結果としてラディカルな正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」をくさし 、ほぼ有季定型を守るなど、模範的な正統派の顔を見せるが、豈 weekly に富田拓也が記した玄の来歴 を見ればそう単純な人ではないようだ。玄自身、内外の詩の洗礼を受けている。富田の文章には「13歳の頃から谷崎潤一郎、永井荷風小説を愛読し、萩原朔太郎、ボードレールの詩を耽読。その後も日本文学、海外文学を濫読。中原中也、ランボー、ヴェルレーヌ、リルケなどを愛踊していた」とある。教養は象徴的な現代詩に距離が近いのである。
もう一つ風土ということで付言すれば、齋藤の行き着いた死者の視座に立つモノクロの世界と、安井浩司の汎神論的色彩を纏ったカオス、北方を領土とする俳人の対比も面白そうである。
旱畑にんげん湧くをたまゆらに 斎藤玄
大地に湧きし魚は河に棄てられん 安井浩司
筑紫:風土の前に風土俳句について述べておこう。風土俳句とは、昭和34年の角川俳句賞で村上しゅらが受賞した「北辺有情」を契機として生まれた俳句の傾向で、地方在住の作家による土地固有の自然と人間の生活をテーマにした俳句をいう。石田波郷が「村上しゆら君は角川俳句賞受賞以来、風土俳句の選手のように見られてゐる」と呼んでからこの名称が一般化した。この、「テーマにした」がくせ者で、昭和40年代ころまでは進歩的な俳句とは常にテーマを持つことが当然と考えられ、それがある時期は社会性俳句となり、あるいは狭義の前衛俳句(金子兜太)として展開したが、その一種の流れと見てよい。したがって俳句にテーマが顧みられなくなって以来風土俳句も衰退している。
風土そのものは、地域に住む作者(飯田蛇笏、前田普羅など)である限り風土を反映した作品を発表せざるを得なかったが、どちらかといえばプレ風土俳句の作家たちは、風土に寄り添った諷詠俳句、風土をテーマとはせず背景とした詠み方が主流であった。
これが変貌したのは、戦後登場した社会性俳句により、地域に住まない作者(能村登四郎、沢木欣一ら)が自らの居住する地域以外の地域(岐阜白川村、能登塩田)を旅行することにより風土をテーマとして句作することから始まったようである。風土を読んだ社会性俳句と風土俳句の相違は、地域に居住するか否かという点と、特に前者が倫理的態度(滅びゆく村や苛酷な肉体労働への同情)をもって望んでいる点であると考えられる。
いずれにしても、風土をテーマに選択した社会性俳句が、そのジャーナリスティックな反響から地域在住の作家に影響を与えて風土俳句は生まれたものと考えてよい。角川俳句賞では、木附沢麦青、山崎和賀流、加藤憲曠などが風土俳句の流れにあるといわれる。
むしろ、社会性俳句作家とも風土俳句作家とも考えられていない馬酔木の相馬遷子は、長野県佐久市という辺鄙な地域に在住し、後進的な長野の地域医療に身を置いて自然と人間を(憤然と)詠み続けている点で、社会性を持ち風土性を持つむしろ過渡的な作家であるといえよう。
いずれにしても、①風土諷詠俳句(蛇笏、普羅さらには飯田龍太など)、②旅行者による社会性俳句、③地域在住者による社会性俳句、そして④いわゆる社会性俳句などのように座標軸をはっきり定めない限り風土を論ずることは難しいのではないか。
堀本:
《俳句に於ける「風土」「風景」》
各自の「風土像」→「風土観」の違いや、関心ある対象作家の違いが見えてきた。北村虻曳が、ユニークな論理の運び方で、今ここに住み感受して居る人間の内面と、表現された風景(俳句)とをむすびつけている。また筑紫磐井は「風土俳句」という今まで私があまりコミットしていない枠組みを教えてくれた。
おりからの東日本の大災害で地の相貌は破壊された、および原発事故に伴うテクノロジー社会の停滞はいつかは恢復するかも知れぬものの、そう簡単にはゆかないようすである。言えることは、戦後俳句の当初のテーマと今の状況を「風土」の変貌というコンセプトの内で重ねてみると、表現のあり方をかんがえる重要な契機ともなるはすだ。
《敗戦時の句 例示》
戦後の風景は、まず原爆による破壊と空襲による都市の焦土として象徴的にあらわれる。 戦後と言うモチーフをかぶせた俳句の展開はそれと軌を一にしている。戦後の日野草城や楠本憲吉がまず眼前に置いた都会はそういう風景であり。その奧には戦前から依然として見慣れた日本的な景観や季節のめぐりへの郷愁や再発見がある。
明日如何に焦土の野分起伏せり・加藤楸邨 (『野哭』(昭和23松尾書房)
山茶花やいくさに敗れたる国の・日野草城 (『旦暮』・昭和24星雲社)
ニコライの鐘の愉しき落葉かなー戦終わりければー・石田波郷 (『雨覆』昭和23七洋社)
炎天の遠き帆やわがこころの帆・山口誓子 『遠星』(昭和22創元社)
国の阿呆 ただ撩乱と雪雫・冨澤赤黄男 『蛇の笛』(昭和27三元社)
地平より原爆に照らされたき日・渡辺白泉 『白泉句集』(昭和50書肆林檎屋)
星よ地に星孤児を得ん地に触れよ・高屋窓秋 『石の門』(昭和28酩酊社)
いつせいに柱の燃ゆる都かな・三橋敏雄 『まぼろしの鱶』(昭和41)
焦土の辺晩涼は胸のあたりに来・森澄雄 『雪欅』(昭和29書肆ユリイカ)
兄逝くや空の感情日に日に冬・飯田龍太 『百戸の谿』(昭和29書林新甲鳥)
夏浪か子等哭く声か聴えくるー敗戦3句の内—三橋鷹女 『白骨』(昭和27鷹女句集刊行会)
焼跡に遺る三和土や手毬つく・中村草田男 『来し方行方』(昭和22自文堂)
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む・金子兜太 『少年』(昭和30「風」発行所)
蚤虱詩性拳銃餓死議事堂・鈴木六林男 『荒天』(昭和23雷光俳句会)
いずれも昭和20〜25年ぐらいまでに書かれ、「焦土」を眼前にして暗然としている俳人の心象風景でもある。この時期の社会的関心「戦後」を投影した風景。
《風土の固定性と浮遊性》
混乱した風土の恢復を求めめざして、戦後史が始まった。戦後俳句の表現史はどうなっていったのだろう。
草城や憲吉の俳句を特徴づける都会性の奧には依然として見慣れた日本的な自然が存在していた。都会のイメージには、情報文化の氾濫等のよって、生活からすこし浮き上がったオシャレな一種の浮遊感と言うべきものにくるまれているところ、幻想であってもそれは地方からでて来て都市を支える人たちを引きつけた魅力であろう。都会もまた一個の仮想の風土を形作っている。
現在、自然からの攻撃と原子力の害とを同時に受け、基層にある故里の風景が毀れたのであるから、いわば日本の大地が丸ごと浮遊し彷徨をはじめたのだ。これからは都会も地方も「浮遊する風土」として生きざるを得ない。そして筑紫が言うジャーナリズムの生長、情報の多様化を促すかも知れない。それがまさに戦後の帰結である現在の文化風土なのだ。今度の災害が、日本語文化圏のわれわれに大きな表現の課題をつきつけている、のは確かなことである。腰をすえてかからねばならない。
筑紫:実は「風土」と対にして、「風景」についても考えてみたかった。前者の主観性やナショナリズムの視点、後者の客観性やインターナショナルな視点の差は面白い。論者として言えば、前者は和辻哲郎、後者は志賀重昂であり、今や前者が圧倒的に分がよいのであるが、こと俳句に関して言えば、俳句一般論と親近度が高いのは風土ではなくて風景のはずである。風土俳句は現在ではごく一部の傾向にすぎないが、花鳥諷詠を含めて日本中の俳句の大半は風景俳句である。当たり前すぎてまだ誰も気づいていないのであるが。似た概念である風土と風景がなぜこれほど違った効果を持つのかを考えてみると興味深い。
冒頭で述べたように、次次回のテーマ「風土」にどのように今回の議論が反映されるかも楽しみなのだが、それと対局的な「風景」はむしろ次回のテーマ「死」にふさわしいようである。編集者の特権として、次回原稿を今読ませてもらっているが、これこそ風景なのである。死は風土ではない。