2025年2月28日金曜日

【連載】現代評論研究:第3回・私の戦後感銘句3句(3)藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美

 ●―1 近木圭之介の句/藤田踏青

汽船が一つ黒い手袋から出て航く  昭和27年作「ケイノスケ句抄」所収


 圭之介は昭和9年に門司鉄道局に入社しているので、これは関門海峡の風景からイメージしたものであろう。黒い手袋は機関手のそれであり、夕景の中でのそれであり、戦後という時代を象徴するそれでもあろうか。それ故、汽船とはある意味で新たな世界、新たな希望へと、いつかは明るみへと出で立つものとして託された存在のようにも思える。

 画家としての圭之介は数多くのイラストや挿画を描いているが、氏の画風の基調は「黒」である。モノクロの世界では、白い背景の空白感と相俟って、まるで俳句における大いなる空白、「虚」と対峙する極限化された詩語のように「黒」が据えられている。つまり「黒」は氏の芸術の源泉であり、詩的認識の根源でもある。そして、この立体的な詩的空間は青春時代に夢中で読んだJ・コクトーの影響も多いのであろう。


黒。意識の統一                 平成5年作


 このエピグラム風の宣言こそが氏の芸術意識を端的に物語っているように思える。意識の統一としての「黒」がアイデンティティを主張しているからだ。


心のきれっぱし黒く蟻になり地を這う   昭和25年作

月夜楽器が黒いケースにおさまる     昭和29年作

自画像の中にあって黒いその船      昭和32年作

月夜に野犬化する黒い一匹の周辺     昭和41年作

思想は黒い実私の中にこぼれているだけ  昭和60年作


 これ等、黒い「蟻」「ケース」「船」「一匹」「実」は各々に、氏自身に内在するものであり、混沌とした自意識を客観的に分析しつつ、最終的には原郷としての氏自身へ回帰してゆく構成となっている。形象化された「黒」の切断面は、氏自身をも傷つけているのだが、結局は真の「黒」そのものに収斂されてゆく。つまり、氏の意識の統一こそは「黒」なのである。

 この門司港の職場には、ほろほろ酔うた山頭火が何度も顔を出したようである。それは其中庵(小郡)を発って九州の旅に出る時の通り道でもあったからであろう。また門司埠頭から東上遍歴する為に乗船する山頭火を見送りにも行った事もあるそうだ。その圭之介居の庭には山頭火の句碑が二基建てられている。


へうへうとして水を味ふ   山頭火

音はしぐれか        山頭火


その山頭火へ圭之介は今も語りかけているようである。


あの雲がおとした疑問 山頭火何処へ   圭之介 昭和57年作


●―2 稲垣きくのの句/土肥あき子

まゆ玉やときにをんなの軽はづみ


 1970年「現代俳句15人集」(牧羊社)に名前を連ね、きくのの第3句集『冬濤以後』が出版された。あとがきによると1966年から1969年秋までの3年間の作品が所収されている。句集とは生まれ変わるための禊のようなもの、とはよく言われるが、きくのの出版サイクルはすべて3年である。人間の細胞がおおよそ6年で大きく入れ替わるといわれることを考えると、その半分の周期で生まれ変わり続けるきくのの俳句にかける情熱は相当なものである。また、俳人協会賞を受賞した前句集を超える作品をまとめる前提は、かなりのプレッシャーになるのではないかと思うところだ。

 しかし、60代になったきくのの作品には、先の第1、第2句集よりずっと穏やかな呼吸が伝わってくる。前句集の痛々しいまでの率直な心情の吐露を経て得た切り口に、おおらかな艶が加わった。掲句にあるようなリズムの良さに加え、まゆ玉の色彩と、天から降るようなゆらめきによって、下五の「軽はづみ」を単なる無思慮ではなく、万やむを得ず囚われてしまうものとして明るく際立たせる。わが身を顧みながら、軽はずみにも思えたいくつかのできごとを、反省や忘却したいものとしてではなく、人生にきらきらと振り注ぐ光りのように感じているのだ。

 寄り道も後戻りもあった人生に、少しばかり肩をすくめながら、いくつかの軽はずみと思われたできごとも、ひとつひとつ愛おしんで振り返っているのである。〈牡丹もをんなも玉のいのち張る〉〈別れにも振向くはをんな冬木の芽〉などにも、掲句と同じ感情が働いている。

 自身を潔癖に見つめつづけたきくのが、あるいはどの女性も同じ弱さを持ち合わせていることを知ったのかもしれない。彼女のさらけ出してきた傷は、時代をこえて多くの女性が思い当たるものであり、それを誰に言うこともなくささやかな自己愛をもって癒してきた。女たちは、その性の強靭さやもろさ、あるいはずるさや哀しさについて、まるごと肯定するきくのに、なにより安堵し、安らぐのである。


●―4 齋藤玄の句/飯田冬眞

死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒


 昭和55年作、句集『無畔』(*1)所収。感銘句の3句目は「見る」ことにこだわり続けた玄の絶句をとりあげたい。玄にとって「見る」こととは何であったのだろう。見たものを俳句にする。あるいは、見えるものを俳句にする。さらには見えるように俳句にするという手法を多くの俳人は用いている。この絶句は齋藤紬夫人が病床の玄の口許に耳を寄せ、きれぎれの言葉を聴き取って筆録したものという。だとするならば、病床で玄は「死」を見たのだろうか。

 掲句の鑑賞に入る前に、この句が詠まれた背景を、つまり、昭和55年5月8日に永眠するまでの、玄の最晩年の軌跡を全句集の年譜を参考にたどってみる。昭和55年の玄は、新春の頃から発熱と腹痛に襲われ、1月22日に北海道旭川市の唐沢病院に再入院する。翌日手術を受けたが直腸がんが再発、諸臓器に転移しており絶望状態となっていた。だが、この間も絶えず句作・選句に傾注し、見舞い客には枕頭でのお見舞い句会を命じるのが常であったという。4月10日、前年の3月に刊行した第5句集『雁道』に対する第14回蛇笏賞授賞が決まる。病床で受賞の報を聞いた玄は、「今回の『雁道』では、純粋にナイーブに句作一途に専念できた」(*2)と語っている。

 そして、蛇笏賞受賞後、病のために目が見えなくなった玄は、主宰誌「壺」の投句を一句一句、紬夫人に読み上げさせて選句したという。玄の凄まじいまでの俳句への執着を物語るエピソードである。「見る」ことにこだわり続けた玄にとって、失明という身体的困難が作風に変化をもたらしたことは想像に難くない。

 玄は『雁道』命名の由来を句集の「あとがき」に次のように記す。

『雁道』(かりみち)という集名は、雁の通る道という意で命名した。雁道は、雁が通る時にはそれと知られる。また雁が通らなくともそこに存在する。時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごとくである。これは今後の私の命のありようと、俳境のありようを示唆しているような気がする。(*3)

 もちろん、『雁道』の「あとがき」を記述した時点で玄はまだ、〈花山椒〉の句は得てはいない。しかし、掲句の〈死が見ゆるとはなにごとぞ〉の一節を読むとあきらかに見えない死を見ている玄がいる。玄にとって「死」は他者の「死」であって、「見える」ものであった。前夫人、石田波郷、石川桂郎、相馬遷子などの死を作品化してきた玄にとって、「死」は「無くて在るがごとく」のものであったはずだ。客観的な他者の死であったからこそ「見える」ものであった。たが、自己の死を見たものはいない。玄は病による意識の混濁と覚醒のはざまで、不可視の死をすでに光を失った眼の奥底で見てしまったのだ。そのとき病床でつぶやいた独白が〈なにごとぞ〉という驚愕の一語であった。自身の「死」を見てしまった玄は、驚愕したと同時に恥じたのではないか。理性の人でもあった玄は幻視をみた自身をはにかみつつ、健康であった頃に見た〈花山椒〉を思い浮かべたのだろう。それは「山椒」の古称である「はじかみ」からの連想であったのかもしれない。病のせいでとうとう幻まで見てしまった。そんな玄の含羞が〈花山椒〉に託されているように思えてならない。

*1 『無畔』昭和58年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載
*2 『俳句』昭和55年6月号 角川書店刊
*3 『雁道』昭和54年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載


●―5 堀葦男の句/堺谷真人

蝉はたと肩にいまわれ森の一部


 句集『山姿水情』(1981年)所収。

 夏。森の中をそぞろ歩いていると、一匹の蝉がはたと肩にとまった。瞬間、蝉も我も等しく大いなる森の一部であることを俳人は直観する。まるで自己自身が森の木々のひとつになってしまったかのような、自然とのホリスティックな合一感覚。蝉を肩にとまらせたまま、木洩れ陽の中に凝然と立ちつくす作者の「そのとき」をまざまざと追体験させる句である。

 「ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒」の項でも触れたように、葦男は晩年に至るまで作品の形象性を重視し、実作においては対象をよく見ることを自他に課した。漫然と眺めるのではなく、みとめる、つまり、「見て止める」「しかと見とどける」ことを求めたのである。


しなやかな枝の全長雪を置き   『山姿水情』

散り敷いて桜紅葉の表がち    『山姿水情』

水勢に真向ふ山女魚ひとつは外れ 『朝空』

鴨万羽いま十数羽天に弧を    『過客』

柚子の宙しんと黒棘みどり棘   『過客』


 『朝空』(1984年)は生前最後の句集、『過客』(1996年)は歿後に編まれた遺句集である。還暦を過ぎた頃から葦男の俳句視力には一層磨きがかかり、とりわけ吟行などの嘱目詠において遺憾なく発揮された。彼に師事した山本千之(元「一粒」代表、故人)は喟然として歎じていう。

ことばによって「かたち」を成すに当たって類型的になることを避けようとすると、通常のレベルを超える観察力を要請される。このような仕方の一つに精密描写とも云える、より突っ込んだ観察がある(中略)何人も同じ景色を見ていたのに、ここまで精しく書いたのは先生だけであった。(「一粒」堀葦男追悼号 1993年より)

 これらの作品を読むたびに筆者は中唐の詩人・銭起の五言絶句「銜魚翠鳥」を連想する。「有意蓮葉間(意は有り蓮葉の間)、瞥然下高樹(瞥然として高樹より下る)、擘波得潜魚(波を擘きて潜魚を得)、一点翠光去(一点翠光去る)」カワセミの敏捷さと青い宝石の如き姿を活写する銭起は尋常ならざる動体視力の持ち主であるが、葦男の透徹した観察眼は時にこれに肉薄するのだ。

 ここで冒頭の作品にもどる。

 かくの如く平素より対象を凝視することに務めていた葦男が森の中で遭遇したのは、蝉の不意打ちであった。対象をとらえたのは視覚ではない。蝉が肩にぶつかる軽い衝撃と、薄い夏物の生地を通じて肌に伝わる爪の感触、そして森全体との合一感覚。一句をくっきりと立ち上がらせているのは、意志的・能動的・集中的な凝視ではなく、却って偶発的・受動的・全身的な感受なのである。

 蝉の句はこちらから摑みに行った句ではない。あちらから飛び込んできた句である。葦男がしばしば口にした「俳句を授かる」ということを何よりも端的に物語る作例であるといえよう。


●―8 日野草城の句/岡村知昭

妻子を担う片眼片肺枯手足


 第8句集「銀」(しろがね)所収。「草城頑張れ」の前書が付く。この1句の直前には「蠅生れ身辺錯綜す家事俳事」が置かれ、直後には高浜虚子の見舞い(前書には「五月二十三日 虚子先生を草舎に迎ふ」とある)を自宅「日光草舎」に迎えたことを詠んだ3句「新緑や老師の無上円満相」「先生の眼が何もかも見たまへり」「先生はふるさとの山風薫る」が続く。「銀」は草城亡き後にまとめられた句集であるのだが、まるで自らの手で一集を編んだかのような計らいを感じさせる並びとなっているのが、私にとってはなんとも興味深く思われる。妻子を養わなければならない勤めを果たすどころか、妻子の手を煩わせなければならない闘病の日々、その中でもとどまることのない俳句への情熱。そんな数々の「身辺錯綜」に溢れる日々のさなかに訪れた旧師とのようやくの「和解」に喜ぶ草城の姿が、作品の配列を通して、ある時間の流れを形作っているように見えるからだ。

 草城にはいまこのとき、数多くの人々が与えてくれるさまざまな支えによって自らの存在が成り立っていることを十分にわかっている。横臥しかない自分に代わって一家を支えるだけにとどまらず、夫の励ましになればとの気持ちから自らも俳句を作るようになった妻(日野晏子の俳句についてはいずれ取り上げてみたい)、「新興俳句の系譜を愛し、病める草城を重んじる」(伊丹三樹彦『人中』あとがきより)との深い師への思いをもって、すでに自由の利く体ではなくなった自分が主宰者である「青玄」の元に集ってくれる若者たち。それぞれの立場で自分を支えてくれる人々の姿を横臥しながら目の当たりにしながら、草城としてはなんとかこの想いに応えなくてはとの気持ちに駆られただろうことは想像に難くない。そのために何をすべきかを考えたとき、横臥の毎日を送る自分にできるのはただ俳人「日野草城」であり続けること。これこそが妻や俳句の仲間たちに報いる唯一の手立てなのでは、との想いが湧いてきたのではないかと思われてならないのだ。だから「草城頑張れ」との前書はいまここにある自分自身への励ましであり、「妻子を担う」とはたとえ体の自由を失っていようが、これからもずっと俳人「日野草城」であり続けることへの意思表示でもあったのだ。

 ただ、病床にある自らが抱くさまざまな思いに裏打ちされて詠まれたものでありながら、この1句からはいわゆる「境涯詠」が持つ求心的な雰囲気とは異なる、一種の軽さを帯びているように見える。この1句をはじめとして晩年(すなわち戦後)の草城の作品はいわゆる「境涯詠」のカテゴリーから読まれているのだが、その「境涯」の詠みぶりの視点は、自分と周辺に起こっている現象をそのままに像としての造形に向けられているように思われる。さらなる体の異変や家族や仲間たちのさまざまな姿も、それらすべてが起こるべくして起こったこととして受け止められて、それぞれの作品に立ち現れているのだ。この強い作句姿勢があればこそ、虚子の見舞いを詠んだ3句の中に決して虚子が受け付けるはずのない無季の句を入れられたのだ、「何もかも見たまへり」なのは自分自身が虚子へ向けたまなざしでもあるからだ。横臥の病床から「妻子を担」ねばならない「片眼片肺枯手足」の草城は、自分を支えてくれる家族や俳句仲間の前で、強い自信をもって俳人「日野草城」であろうとし続け、その姿勢を最後の瞬間まで見事に貫き通してこの世を去った。


●―9 上田五千石の句/しなだしん

 第1回で、昭和29年、五千石は神経症を患っていたことは書いた。

この件についてある人物によって書かれた文章がある。それは、句集『田園』の復刻版に付録の「交響集」の、鷹羽狩行による「伝承の使者―上田五千石論」(*1)という評論の一部である。

(前略)大学二年のときの強烈な精神衰弱であろう。
第一に下宿先の大井町で羽田から低空でくるジェット機音に屋根ごと揺すぶられ、空襲の恐怖を感じて夜中に幾度か寝床をとび出したという。第二は何でも人並以上に出来る彼は、何でもできることは実は何にもできないのではないかという不安を抱き、何をやればいいのかという方向失調の強迫観念が次第に募る。第三は女性に対する欲求不満、これは死ぬほど苦しく、また実際に死のうと思ったらしい。

と、なんとも歯に衣着せぬ物言いである。同じ時代に真剣に俳句に取り組んだ先輩で、いわば同士である狩行ならではの物言いなのであろう。

         ◆

 かくして7月17日、秋元不死男に出逢い、その夜には神経症は吹き飛んでしまった訳だが、吉原市(現富士市)唯称寺の「氷海」吉原支部発足の会では、秋元不死男の講演「俳句表現の生命」を聴き、そして句会に参加する。

 この際、五千石の句は秋元不死男選人位に入選する。


星一つ田の面に落ちて遠囃子   五千石(昭29年作)


 それがこの句である。「遠囃子」は季語としてやや微妙だが、遠く聞こえる祭囃子と思うと「祭」の範疇に入ろううか? または「星」が「落ちて」で、流星を詠んだ句になるだろうか? 時期は盛夏、場所は青田になっているであろう田園の道である。“星がひとつ田に落ちて”は夏の夜のファンタジーであって、遠く聞こえる祭囃子が現実のものと読むのが、やはり自然かもしれない。この句は、句集にも収録されておらず、もちろん自註にも掲載されていない。

         ◆

 いずれにしてもこの句が五千石の俳句へのめり込んでゆく記念すべき句である。

「ゆびさして」の星の句が句集『田園』の一句めに置かれ、この27年のこの句も「星」の句であることは、とても興味深い。

 ちなみに五千石には多くの星の句があるが、昭和18年、五千石10歳のときの「少年新聞」への投稿、入選句〈探照燈二すぢ三すぢ天の川〉もまた星の作品である。

*1 鷹羽狩行「伝承の使者―上田五千石論」は昭和44年2月「俳句」に掲載されたもの。


●―10 楠本憲吉の句/筑紫磐井

天に狙撃手地に爆撃手僕標的


 狙撃手は文字通り鉄砲で標的を狙うプロフェッショナルだが、爆撃手はあまり聞いたことがない。軍隊用語で言うと、航空機爆撃の際の爆弾投擲の専門家(標的に合わせて爆弾落下の条件を設定する者)を言うらしいが、なぜ「地」なのか。むしろ障害物を破壊する爆薬筒を匍匐しながら運んだという爆弾三勇士のようなものがふさわしい。しかしこの爆薬筒という武器は工兵部隊が使うもので、敵陣や鉄条網、地雷を爆破する兵器であるから人を標的にすることはない。調子よく読み進めるのであまり矛盾を感じないが、調子に騙されて論理はよくつながらない。逆に言えば詩歌は調子さえよければ論理など重要でないことの証拠になるかも知れない。「天に狙撃手」「僕標的」、要はこれだけを伝えればよいのだが、調子よく対句を使って明るい戦場を描いている、いや戦場のような環境にある人生をカラリと描いている。爆撃手は判然としないものの、いずれにしろ、僕の命を狙う危険な奴ばかりだからだ。これも前回同様62年の作品だから晩年の作品、死の前年の作品である。死の標的は自分である。「死ねばただ一億分の一人 水引草」「冬バラ瞑想「侮る勿れ汝が死に神」」などが同年作品であるが、論理的であるだけ詩歌としての飛躍がなく感銘句にあげるようなものではない。

 62年の作品としては前回の「郭公や」とこの「天に狙撃手」をもって憲吉の代表句としてあげておきたいと思う。63年、なくなる年ともなるとさすがに入院生活が続くためか、師の草城の晩年のような沈痛な句が見られるようになるが、これは憲吉にふさわしくない。憲吉の晩年は明るく調子よく軽薄であってほしいのだ。

 そもそも憲吉は師の草城をどう見ていたのだろうか。55年にこんな句がある。

師の句いよいよ懐かしかぐわし草城忌


 前回、堀本・北村と「戦後俳句史を読む」で草城と憲吉の比較を論じてみたところであるが、これは憲吉自ら草城についての感慨の一句である。論評と違って、本当に草城のすべてを現わしているかどうかは不明であるが、かえって散文の論理を越えて直感的に草城の一面を描いている的確さがある。憲吉にとって「かぐわし」い存在の草城は決して晩年寝たきりの草城の姿ではないだろう。やはり大正末期から昭和初期にかけての、才気溢れた草城、それこそ「ミヤコホテル」を詠んだ草城ではなかったか。当時相変わらず憲吉はこんな句を詠んでいる。


女体塩の如くに溶けて夜の秋 52年

若き人妻春昼泳ぐごと来る  53年

風花やいづれ擁かるる女の身 55年


 まるで「ミヤコホテル」なのである。


●―11 赤尾兜子の句/仲寒蝉

ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう  『玄玄』


 最終句集『玄玄』の掉尾に置かれた句。昭和56年、兜子は不眠やアキレス腱の傷あとの痛みなどに悩まされていたが3月17日自宅付近の阪急電車の踏切で事故に遭い急逝した。享年56歳、一説には自死であったという。

 『赤尾兜子全句集』は作られた順に編まれている。最初に『稚年記』、ついで『蛇』『虚像』『歳華集』そうして最後が『玄玄』である。しかし刊行されたのは『蛇』(昭和34年、34歳)、『虚像』(昭和40年、40歳)、『歳華集』(昭和50年、50歳)、『稚年記』(昭和52年、52歳)の順であった。なぜ晩年になって初学の頃の作品集である『稚年記』を出版したのか。あとがきで兜子は「周囲の、度重る誘ひにのつて」遺書として父に手渡した句稿、父も亡くなり「三十年あまり筐底にねむりつづけて」いた句稿を湯川書房から出版することにした旨を書いている。『歳華集』の後、兜子はそれまでの無季も辞さず破調の多い新仮名遣いの俳句から有季定型、歴史仮名遣いのそれに回帰(?)していた。そのことと自分の初学の頃の有季定型、歴史仮名遣いの句稿を世に出そうと決めたこととは無関係ではないように思われる。

 その晩年の有季定型、歴史仮名遣いの俳句たちは作者の突然の死によって整理されないまま残った。ただ次の句集上梓の意志は固まりつつあり、句集名を『玄玄』にしたいということを周囲に告げていたと言う。『玄玄』は兜子の死後に編まれたためにそれまでの4句集と異なり本人の編集を経ていない。

『赤尾兜子全句集』のあとがきに和田悟朗は次のように書いている。

最後の一句、「ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう」は、没後かなりの日数がたってから、兜子の日記から発見された作品の一つで、その執筆は逝去のほんの数日前に当たる。そこに書きこまれた句は、その時の心情をそのまま書き連ねたものが多く、その中からこの一句だけをとくに恵以夫人の許可をえて、事実上の絶句として添えることにした。全巻を通じて唯一の未発表作品である。

 兜子の人生を離れて好きに解釈すれば「ゆめ」は誰かと誰か、例えば夫婦同士、友人同士といった二人の見る夢が異なっているということか。その場合の夢は眠って見る文字通りの夢と言う意味かもしれないし所謂未来のビジョンと言う意味での夢かもしれない。しかし考えてみれば見る人が違えば夢が異なるのは当たり前。別の見方をすれば同一人物が別の機会に見る二つの夢が全く違うということかもしれない。例えば気分が高揚している時と落ち込んでいる時に見る夢というように。

 蕗の薹は春になると真っ先に地面を割って顔を出す。これから過ごしやすい、いい季節に向かうという希望を込めた季語と言える。それに蕗の薹は蕗の子供であるからどのように成長していくのか未知数なのだ。二つの夢と蕗の薹との取合せは、従って将来の可能性、それも明るい可能性を示唆する。兜子の悲しい最後を想い合わせると、この句が全句集の最後に置かれていることが実に大きな救いのように思われる。


●―12 三橋敏雄の句/北川美美

山山の傷は縱傷夏來る


 環境は、人格形成に加え、作品に大きな影響を及ぼす。三橋敏雄の出生地・東京都八王子市は、西南には富士山、南には山岳信仰として名高い大山、そして丹沢山系が臨める。古くから宿場町として栄え、織物産業を中心に物流中継地としても発展した。筆者の出身地・群馬県桐生市とも、その織物文化交流は古く、八王子・大善寺境内の機守神社が桐生・白滝神社から勧請された記録もある。

 三橋には山を詠った句が多い。「裏山に秋の黄の繭かかりそむ」(『眞神』)「蝉の殻流れて山を離れゆく」(『眞神』)「山を出る鼠おそろし冬百夜」(『眞神』)「山里の橋は短し鳥の恋」(『長濤』)など。三橋敏雄の眠る墓地、八王子・吉祥院の高尾山が見渡せる高台に句碑「たましひのまはりの山の蒼さかな」(『眞神』)が建立されている。どの山の句からも山を背に角帽の三橋青年の姿が見えてくるようだ。掲句は『疊の上』に収められている。

 縦傷とは何か。開腹手術の場合、縦切りは、視野が広く手術しやすく、緊急手術はほぼ縦切りになるらしい。横切りは術後に傷が目立たないというメリットがある。縦傷とは深く跡が残る傷である。山の縦傷。伐採でむき出しになった「不整合」という地層(ジュラ紀=約1億4000万年前)がみえたのだろうか。山の縦傷から太古がむき出しになり、自然破壊への警告とも読める。そこに人を灼く夏がまた来る。 

赤蜻蛉わが傷古く日を浴びて (『鷓鴣』)

 一方、「傷」という言葉が一致している上掲句と並べてみると、不思議と「傷」の意味が同じにみえてくる。一瞬にしてついた昔の深い傷、夏から秋になると思い出すもの―「戦争」と結びつけるのは短絡だろうか。戦争は思い出したくない過去であると同時に、決して消えることのない歴史的事実だ。「傷」とは、ゆるぎない「過去の事実」に因るものである。

 『鷓鴣』と『疊の上』は制作年として10年以上の開きがあるが、「赤蜻蛉」の句を土台とし、「山山の傷は縦傷」の句が生まれたと思える。技法としては、前回(第二回)の「腿高きグレコは女白き雷」と同様、「は」の使用に注目している。

 三橋敏雄のような大正末から昭和初めに生まれた世代が「戦中派」とよばれ、注目されるようになったのは、昭和30年代初めのことだ。働き盛りの30代40代である。「もはや戦後ではない」(1956年)という言葉は、「戦前」のレベルを超えることは易しいがその先容易ではないという意味だった。「戦後」という言葉は使われつづけてきたが、3.11の震災を契機に、「戦後」から「災後」に変わるという論考(*1)がある。「災後」が文字変換トップにくる日も近いのか。注目していきたい。

 「傷」それは、「過去の刻印」ということに気付く。


*1)「災後政治の時代」(読売新聞2011年3月24日文化欄)御厨貴(みくりや・たかし):政治学者、東日本大震災復興構想会議議長代理