眞矢ひろみ氏の句集『箱庭の夜』を鑑賞。Jazzに詳しくはないが、あとがきに記されたジョン・コルトレーンの「至上の愛(A Love Supreme)」を聴きながら鑑賞させていただいた。宝石のような一音一音が重なり合い、時に激しく、熱く、優しく心に降り注がれる。そして、句集の言霊と響き合う。
屈折光掬えば海月かたち成す
光の速さは1秒間に30万km。ただし、これは真空中を通る場合であり水などの物質であれば光の速さはそれより遅くなる。これが光の屈折の原理だ。直線的で硬質的な屈折光といかようにも姿形を変化させることの出来る水や海月との対比が面白い。掬った水の形が、水中を浮遊するコケティッシュな海月だったという発見か。作者が持つ感性豊かな詩魂がそこにある。
鬱なればさりげなく過ぐ花野道
中七の「さりげなく過ぐ」により、心の有り様が迫ってくる。秩序づけられた安定した世界の喪失により不安を抱え堅く閉ざされた心は「花野道」を直視はしない。意識的に遠ざけようとする心理が働き「さりげなく」とはするものの、真意は真逆だ。「花野道」に自我を投影してしまうだろう不安感を抱きつつも、それを超えてゆこうとする勇気をそこに見る。「鬱」と「花野道」の取り合わせが中七により絶妙な距離感を保ち、心象風景を創出している。
山襞に鬼らしきもの秋闌ける
日本最初の百科事典とも言える『和名類聚抄』には「鬼」について、物に隠れて形が顕われることを欲しない「隠(オン)」の音が、後に「オニ」となったと記されているらしい。つまり姿の見えないものを人は「鬼」とし、時に自らが持つ醜悪さや弱さ、人の世の歪みを映し出してきたようだ。秋闌ける山襞の陰影に、人間の心の内なる孤独や弱さと哀しみを見る。故に、陰と陽、山襞は美しい景として広がりをみせるのであろう。
日を集め日に遠くあり石蕗の花
「石蕗の花」の花言葉は「困難に負けない」。日影でも常に緑色の葉っぱを茂らせている丈夫な性質に由来するからだそうだ。確かに、日影でも緑の葉に黄色い花が映える。この句の面白さは、謎掛けのような上五「日を集め」、中七「日に遠くあり」という調べ。煩くなりがちな二つの動詞は、石蕗の花に焦点を定め見事に着地している。見たままの景を詠むが故に、景は広がりを見せ生き生きとした命が感じられる。
星生まる空蝉の背を割れば
星の爆発と蝉の羽化するその瞬間の命のエネルギーを感じる。時間的な対比で言えば、あまりにもスケールが違いすぎるが、蝉の幼虫が羽化する瞬間にも宇宙の彼方では数多の星が生まれては死んでいき、蝉も短い命を繋ぎながら命のバトンを渡している。「生」のあとには「死」があるからこそ命は輝く。万物に宿る命を賛美する秀句。まさに、その一瞬一瞬を捉える俳句の醍醐味がここにある。
箱庭に息吹き居れば初雪来
「箱庭」という制約のある空間は、まさに定型短詩の俳句と同じだ。故に無限の世界がそこに広がる。「息」は作者の日常の大切な一つ一つの思いや言葉であり、今を生きる証とも言えよう。そして、「初雪」という季語からは高揚感が伝わってくる。どうして、眞矢氏が俳句を詠みつづけているのかという問への答えがここにある。
2021年2月12日金曜日
【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】11 鑑賞 眞矢ひろみ句集『箱庭の夜』 池谷洋美
2021年1月29日金曜日
【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい 】10 書評 眞矢ひろみ句集『箱庭の夜』(前編) 堀本吟
【Ⅰ】 プロローグ 「箱庭」とは何か
はじめて句集を開くときにはいつもそうなのだが、まず、最初の印象句を少し抜書きしておく。最初覚えた印象句は最後まで覚えているものだ。
鋭角に昏きをくぐる初燕 (第一章認知)P010
春宵の咆哮か我が心音か (第一章認知)P012
牡丹雪ほのぼの耄けてみたいもの (第一章認知)P014
箱庭に息吹き居れば初雪来 (第一章認知)P037
浮き沈む豆腐のかけら冬銀河 (第二章決意)P072
ゐることを禍津日としてかげろへる (第三章追求)P088
端居して方形の世の恐ろしき (第四章賛美)P138
ページ順不同。ゆったりした感慨や、独特な時間性、存在の不安、風景の美しさが、いろいろ。心地よくて入りやすいな、と思うときと、意味はシンプルなのにどうも拒絶されているとおもったり。壮大だが実は卑近、と、鍋の豆腐をつつきながら、換気のために窓をあけ、天の川を探しながら微笑みたくなる。
たとえば、最初の句「ほのぼの」は身につまされる。
次の句には立ち止まる。(この作中人物は、なぜこんな奇妙な動作をしているのだろう)。
「箱庭」は、江戸時代からの遊びのもので夏の季語(季物)である。それを初冬までという短からぬ時間を眺めてる。「息吹く」主は作者であるか作中人物であるか。この息が初雪に変わるのだろうか?まるで雪女の息吹であるかのように。しかも作中の人物像や心理状態が見えてこない。ここに現れる風景の日常感はなくなり、非日常むしろ変異現象だ。
私は、いつの間にか、「箱庭」それ自体と、「箱庭」にこだわる作者について、自分の思いを巡らせ始めている。集題に採られているキーワード、内容の句群に入り込む前に だが、そこに至る前に気になることがでてきた。
句集の章には、英語と日本語で、たとえば《第一章Regognition 認知》と名付けられている。これは、現代ジャスの巨匠であるジョン・コルトレーンの「至上の愛」というアルバムの構成を参考にした、という。泥縄式だが、You Tubeでそのアルバムをしらべたところ、両面全33分の組曲だそうだ。私が目にしたものでは以下のよう。
パート1:承認(Acknowledgement)/ パート2:決意(Resolution)
パート3:追求(Pursuance)/ パート4:賛美(Psalm)
句集では、最初の第一章だけが違っていて(意味は大体同じ)、後は、おなじ語彙である。音楽の領域にはまったく無知である私にはこの構成にどういう意味があるのか、また、句集の中でこういう配列にこめた重要さがよく飲み込めない。ジャズやこの曲に耽溺してきたにちがいない作者の感興からみたら、すこし逸れたところで読んでしまうかも知れないが。私の関心はコルトレーンより「箱庭」から入ってゆく。
文化的概念としての「箱庭」は、今の日本では、馴染み深い疑似庭園のみではなく、精神医学的意味付けも一般的になっている。作者の帯の文はまさにそのことに触れて、しかも句集のコンセプトにしている。いまの現状ではきっとまだ異色の「箱庭」観をもってそのことを主題にした一冊である。だから、ここにある句群はいかにも従来の俳句の観念を踏襲するかに見えて伝統を固守した典型のものではない。そういう作品もあるのだが、それも一度視点をずらすと、例えば、上記の「初雪来」では、一句が終わったときに、世界の虚実が反転しているのである。
良くも悪くも、そのことがこの句集の最大の特長であり、ここで述べるべきことだろうと思うのである。
① 書物も箱
喩えてみれば、書架(本箱)だって箱の変形である。かなりの数の句集がある。一冊の中には、それぞれ何百もの俳句が、それらもそれなりの文脈の必然性をもって一句となり、配列されている。ページが開かれ、あらためて誰かの視線を浴びるときにはそれらは読まれて新たな意味も加えられる。このような本箱や本の中身を一箇所にまとめると、まるで入れ子の箱である。各ページは、方形の箱の中の「庭」であり、山川草木や村落都邑、全てがおさまっている世界。
脳内も頭蓋骨に仕切られた箱・庭である。そもそも知の源泉である意識世界は、混沌状態を出ようとして自分の居場所を探し、ふさわしい棚や箱や引き出しを見つけて収まる。箱庭に似た入れ物は、他にもあり、遊び心に沿いながら、人の精神に広い意味を与えている。日本人が、庭園や茶室に至る路次を愛し、それを真似て庭先に箱庭や盆景盆栽などミニ自然を創ってきた、この生活芸術(と言ってもいいだろう)を愛でてきた心情そのものの中に、息を吹きかけるとまではゆかなくても、ある内面的な思索を呼び起こす要素がある。箱庭は、外に現れ自然になぞらえた脳内風景だ、と考えたほうがいい。
だから、いまさらユングや河合隼雄を持ち出さなくてもいいようなものだが、彼ははっきりと、ユングの「箱庭療法」のような意味あいに近い、と書いている。
なぜか?伝統的な概念では盛り込めない内部の自然を彼はさらに求めたのであろう。
しかり、自然との同化の方向でのみ考えれられがちな従来の伝統的な「箱庭」の呪縛を彼はとりのぞく必要があったはずだ。
② 箱庭文化―外界を収縮し、内界を拡げる
日本文化のなかで出来あがっている「箱庭」を視ていくと、自然界を縮小し変形して身近に置きたい願望からきているものらしい。同時に、庭園から戸外の自然の方向に広がってゆく地形の想像力とは別に、せまい頭の中の思いを外化して広げたり変形したりのあげく、しだいに可視化される精神の地形物にも転じられてゆく。
ちいさく、箱庭や盆栽や、生花、風景画などの造形物となったばあい、我々は屋外や庭先で或いは縁側に端居してそこに向き合う。居ながらにして狭い場所に入り込む、そこで広い世界を想像する。縁側の端っことか広くない庭の一隅にそっと置かれているさらにコンパクトな「小さな庭」は、まさに異界であるが、自分を惹きつけてやまない。
③ 囲いー箱庭の条件として
「箱庭」であることの重要な条件は、一つには「囲い」が要ることであろう。
それら囲いの中に置かれるモノたち、山川草木、花鳥、岩石のような物質、そして人間も。それらが一定の条件やルールを与えられ、その囲いの中で違う異次元時空の存在物として新たに生きてくる。囲いが在ることで「箱庭」は、作っている人にも観ている人にも、知らぬ世界の自分を覗く開放してくれるのだ。
映画やパソコンを持っていなかった時代でも、飛行機や新幹線がなかった時代でも、コロナがはやっていなくても、居ながらにして、私達は、箱庭で、眼の旅心の旅をしていたのである。この作り物の世界の秘めたる牽引力を、私は不思議に思い始める。
④ 歳時記では夏の季語「箱庭」 しかし・・
「箱庭」がいつどのような経過で夏の季語となったのか、詳しくは知らない。が、人間にはゆっくり休んだり考えたりする時間帯が必要なものだ。夏は、閑居人が、疑似自然を楽しむ余裕が少しは持てた季節なのだろう。現代では、「箱庭」の文化的な役割が広くなってきていると、逆に、そこから、「箱庭」が伝統的用法を抜け出して、詩語としての応用も不自然ではなくなる。
俳句も、まさに、そのように精神世界を表現するちいさな箱庭として機能しはじめる。
眞矢ひろみは、ユングの箱庭療法を持ち出しても、それほど深い意味合いではないのだろうが、この語彙をつかって、精神世界の在る状態を表現しているのである。
俳句のなかで機能する「箱庭」を、そのようにひろげて捉えることの賛否はそれぞれだろうけれど、眞矢ひろみの位置づけは、「箱庭」と言葉のパラダイムの転換にひとしい。私は、ひじょうに納得するところがあった。
更に、彼は「極私」の世界とわざわざ言う。箱庭づくり(俳句づくり)の行為は、昼間の社会性から解き放された作者が真夜中に行うたった一人の行為でもある。 「自分だけ」の世界がありうるかどうかは別として、句のなかには、「われ」「わたくし」が閉じこもろうとしている意味の句がかなりある。自分に、あえて囲いを作っているのかも知れない。、「端居して方形の世の恐ろしき」は、句集全体の中で一句独立のはずの他の句に複雑な陰影を与えている。どうしてこのような俳句がなり立ったのだろうか?
もちろん一句が別の一句に連動しているのではないが、たがいに照応し合うと言ったらいいだろうか、この句集の中の俳句達も、ひとつひとつが箱庭の景として光を浴び、ひとつひとつが閉ざされていながら、じつは、一句の内部深くにうずくまっている「私」の姿が照らし出される、しかも、それは、眞矢自身の姿ということでもない。じつに不思議な「方形」の世界である。
外界の広さを縮小して表していると同時に内面の広い場もそこに啓いているのである。
⑤ ユング心理学「箱庭療法」的造形物としての箱庭
そして、もうひとつ、余人の句集とは違う要素が在る。眞矢が主張していることは、それは、季語としての「箱庭」のイメージを離れて、ユング心理学の重要なツールである「箱庭療法」のあの「箱庭」の概念の方向へと傾いていること。これには著者自身の注釈がある。集題となっている「箱庭」は、作者自身が帯文で規定するところでは、以下のごとく。
「句集のタイトルとした〈箱庭〉は
言葉 イメージ 音などの素材を配して 景や文脈などを構成 造形する場であり
極私的なものです
場とは申しても 江戸後期に流行し夏の季語でもある〈箱庭〉のような仮想空間の類
ではなく
むしろ現代 ユング派の心理療法に使われる〈箱庭〉の機能そのものに近いかも知れま
せん
勤め人として仕事を終えて帰宅し 遅い夕食をとり 家族も寝静まる夜更け過ぎ
箱庭にさまざまな素材が群がります」
「日常の中でふと気付いたり 思い出す 些事ですがかけがえのないものです」
眞矢ひろみ(「箱庭の夜」に寄せて・帯・裏文)
というようなことである。(cf.この帯に書かれた文には句読点がない。詩文のようなスタイルだ。)
この説明を読んで、私にはいっそう興味が湧いてきた。作者眞矢ひろみが「箱庭」で句をつくる場合には、歳時記の中の季感濃厚な事物であり語彙であることよりも、それを、むしろ精神の情況を表す「キーワード」として捉えている。さらに、彼の俳句の作り方を説明するときも、「箱庭療法」をメタファーのように浸かっている。この作者の理屈で進むならば、彼の場合は、「箱庭」づくりは「俳句」づくりとおなじような行程をたどるはずだ。俳句を組みたてる言葉の場、と言う位置づけでもあるのだ。
しかも、作者のこだわりからすれば、「極私」的な場所、すなわち人生経験や生活経験、あるいはその感覚的な記憶が発想の元だということである。ここでユングの「箱庭」づくりと我々日常人の「俳句」づくりが、かなり強くつながってくる。クライアントだけの極私のものである「箱庭」は、ただひとりの医者に見られてその判断や診断を仰ぐ。振り返って表現の場でも、作品のテキストをはさむ作者と読者の絶対的な「ワタクシ」対「ワタクシ」の関係が生まれているはずである。
このように、眞矢ひろみの考える「箱庭」は、一般的な意味での季語性に加えて現代的な認識を被せられている。
歳時記の中にすでにある季語の単なる拡大解釈ではなく、大袈裟に言えば概念の転換をきたす、このような「箱庭」、俳句における季語とは何か、と言う古くて新しい議論のひとつの焦点にもなろう。
現代俳句のなかで、いまもって、少数派、であり異端とされている無季俳句、キーワード俳句(と仮に呼ぶ)などの、方法の延命を考えている者にとっては、この視点は、非常に興味深い考え方である。
句集のなかの俳句は、整然とカタチを守って端正な有季定型で作られている。ところが、「さまざまな素材が群がります」「日常の中でふと気付いたり 思い出す 些事ですがかけがえのないものです」というその「素材」は、じつにさまざまの「些事」である。身辺のことから百鬼夜行の世界にもおよぶなまなましいものである。
⑥ 閑話休題 日本語俳句の異文化性
もうひとつ、これも大きな特徴であるのだが、眞矢ひろみは「英語俳句」から入ったと書いている。外国語で「俳句」を書く、これがどの程度広がっているのか、私は知らない。俳句の翻訳はかなり広がってきているが、日本人が英語などでそれを志す例も(知ってはいるが)、創る方はまだ少数であるはず。しかし、日本語の俳諧や俳句への注目は、明治期の「フランスハイカイ」からはじまって、いまや英語そのほかの外国語で書かれている。「俳句」と言う名の短詩への関心の広がりは、それに関わると否に関わらず、一種の根拠をもっている。
ただし、私自身は、いまのところ日本語以外の俳句を、表現としてどう理解するのか、ということが詳しくは言えないのである。
眞矢の創る(書く)日本語の俳句からは、生理や情感がつきまとう日本語俳句とはすこし違った印象を受ける。それは、出発点からして、私達がうたがうことなく使っている生得(?)の日本語ではなく、それ以外の言語圏から日本語を選び取っているからではないからだろうか?彼の俳句の日本語の正確さ(と言っていいだろうか?)が、なんとも不思議だ。外国語圏からみた日本語自体の異文化性(といってもいい)、そんなものをかすかにでも感じさせるところが、却って魅力になっているのである。
で、そろそろこの不思議に端正なの日本語俳句の異端者、「眞矢ひろみ」と言う、ほとんど未知である俳人のつくった「箱庭=句集」そのものに入ってゆきたい。
【2】この世の端に居る気分。
何回もあえて繰返しているが、この句集には、不思議な感じが漂う。「私」の位置が奇妙だ。作者の個人的な経験に根ざしているらしい素材でも虚構の手触りが強い。
この句集のキーワードは、いったいなにか?手さぐりにでも触りたくなってくるのだ。
その「箱庭」の中身は、多様な素材を使いこなしたもので、端正で季語の使い方、五七五の収め方など正統派で奇をてらわない。意味内容も、まじめでありユーモアもあり、写生的でもあれば境涯的でもある。唐突にあの世の生き物も出てくる。ユング心理学、英語俳句から出発して日本の俳諧史を研究し始めた、と言うから英語の実力はおして知るべし。
わざわざ「極私」と作者がいう措辞が、その心の振幅が、俳句にずいぶん集約されている。作者の予想外の効果、嘘っぽい諧謔を生んでいたりする。
上に挙げた以外にも、「似て非なる赤富士のごと坐る人(P064)」「導尿のさきっぽ鬼火の蠢いて(P118)」など、かなり妖しく且つ面白い。
① 「箱庭」を詠み込んだ句
句集中に、箱庭を詠んだ句例は以下の二句しかでてこない。
イ) 箱庭に息吹き居れば初雪来 (第一章認知)P017
ロ) 大袈裟なことばかり箱庭の夜 (第三章追跡)P138
初めの「イ」句の方は、伝統的なイメージ遊びとしての「箱庭」でも通用する。夏の季語「箱庭」として読んでしまう。とは言うものの、中七で唐突にでてくるこの「息吹きおれば」という行動、これはいったいなんだろう?見つめている姿勢から身をかがめて息を吹く人の動作に移る。ホコリでも払っているのだろうか?いや、その息が、はじめての雪を呼んだのである。そのとき、突如風景は雪景色(冬)にかわる。まるで雪女の息のようなこの転換に妖しさが生じる。
「箱庭に息吹き居れば」・・普通ならば、次の文節(中七)では冬の季節には飛ばない。
むしろこの唐突な転換を拒否されるかも知れない。しかし、ここで、世界の時空が妖しい転換をきたす、これはとても衝撃的な幻想の景色だ。
だいたい「箱庭」なる夏の「季語」自体が、季語体型の中で、どうしてこれが「夏の季語」になっているのかが、私には不思議なことの一つだ。
夏と限定する根拠が希薄な気がする。昔ながらの「箱庭」を眺めているにしても、眞矢がことわつているような、例えば「ユング」的認知を投じて、そこから文学的な想像をひろげたほうがわかりやすい。
この句では、息吹く動作が、自分にしかわからない動機のものであるから、「極私」的であると言える。。しかし、最後の「初雪来」にであったとき、その前の息には、「白息」という意味が引き出されてきて、冬の季節感が横溢する。箱庭の在る生活やそれに伴う人情の気配が潜在してしまい、この句は、とても清冽な初頭の「初雪」の風景となっている。「季重なり」だから主題となる季節を決めねばならないが、ここでは、「箱庭」から「初雪」へパラレルに季節の推移が書かれる。書かれているのはむろん季節の推移だろう、しかし、季節の重なりだけではなく、「箱庭」の概念の重なりが重要である。境に立ち別の世を呼び寄せる役割をしている。
これは、一般的に「季重なり」で片付けられる読み取りでは不十分である。「箱庭」の仮想空間から季語性が取り払われてもう少し強烈な魔法ランドになったと、読んだほうがいい。「箱庭」をキーワードにして、季感として「初雪」を添えているので、この句には二つが次元の違うキーワードの世界、が存在することになる。
後の「ロ」の句は、夜中の一人遊びと言える「箱庭療法」に傾く心理が強い。この「箱庭療法」は「俳句づくり」の比喩として使われている。これを比喩として使うことが句集のコンセプトである。作者や作中人物は、かなり覚めた視線で「大袈裟だなあ」と思ってそれを観ている。
だが、この視線の強さ。一体、誰が何のために「箱庭」をつくっているのだろうか?見え(視て、あるいは、観て)ている人と作った人は同じなのだろうか?それはともかくそこに生まれる「大袈裟なことばかり」という感慨に、切実さとおかしみがある。
私の考えでは、この「箱庭」は従来の一般認識にある「季語」を超えているのだが、これがあるから、夏の風物詩として、読者にあまり抵抗感を與えることなく「箱庭」の句として受け止められるだろう。しかしながらこの場合も、むしろ俳句作者としては、「大袈裟なことばかり」という読者には理解し難い主観性の強い措辞があるので、「ロ」の「箱庭」は「イ」程は徹底していないが、無季に近いものとして使われている。
② 「箱庭」は、季語か?
ところで、「箱庭」を詠んだ俳句作品は、眞矢ひろみだけではない。
最近。こういう句をみた。箱庭の死角は上方にあった。
ハ) 箱庭に箱庭の空なかりけり 滝川直広
(『木耳』《Ⅲ箱庭の空》の章》P082・令和元年年七月 文學の森)
それから、下記の川柳作家の最近作品に、囲いの縁取りについて、こんな句があった。
二) 輪郭の国から戻れないアリス 月波与生
(合同小句集『Picnic』No.1(2020/11・太郎冠者)
眞矢ひろみの執着は、「箱庭」ではない別の言葉でも言い換えられるかもしれない、と、「囲い」「輪郭」のその概念との連想関係も考えてみた。人間が社会的な規範(「囲い」)の呪縛から解放されたとき、個人となったときの「輪郭」はどう自覚されるのだろうか?そのような関心は、作者にも私達にも重要な精神的意味をもつだろう。この川柳句の「アリス」が、二つ世界の境界つまり「輪郭」のなかにもう入り込んでしまって、オウチに帰れないでいる、その窮屈さが俳人が持つ「箱庭」のこのような関心のあらわしかたに通じている。眞矢ひろみは、夜の(昼間ではなく)「箱庭」の世界へ赴く。
滝川直広が発見した「箱庭」の頭上には「空」がないことを、その中のフィギュアたち は、いつ気がつくのだろう?
「箱庭」は、俳人にとっては、すでに、歳時記世界以上(以外)の意味をここに含み、季感以上の象徴的なオブジェになっている。
「箱庭」の俳句を作るときには、この生活文化の道具が、思念(主観)を揺さぶる場合があることを、この二つの句は示している。
③ 「端に居る」ときの気分
縁側の端、または窓辺で、屋内で外の涼気をあじわうこと。これが、夏の季語だということがわかるのであるが。しかし、これらの俳句をひと味ちがうものにしているのは、世界の端に居る、という危うい感覚が湧くからである。
「端居」を取り合わせる俳句は、大正期から作られ始めた、と山本健吉編『基本季語五〇〇選』(講談社学術文庫・1989年3月)には書かれてある。
以下のような例句がある。この季語が、作る側にとっては、単なる夕涼みの意味を超えて、そうとう内面的な抽象的な世界を引き出しているのだ。
端居してただ居る父の恐ろしさ (素十)
端居の祈(いのり)夙(つと)に亡き友かも知れず (草田男)
端居して旅にさそはれゐたりけり (秋櫻子)
眞矢は、このような先例の季語感覚を引きついでいる。
しかし、もっと「極私」的に書こうとするのだが、それはどういうふうに展開されているのだろうか?
ホ)端居てふ窮屈や世を踏み外す (第三章追求)P096
へ)端居して方形の世の恐ろしき (第四章賛美)P138
ト)逃げきって間のおきどころ夕端居 ( 同 ) P145
縁側は、狭い、今にも庭に転び落ちそうだ、しかし、煩雑な昼間から逃げ切ってしばしの「間」を縁側の端っこに坐っている。この「間」の出し方も面白い。「端」という線状の場所に、狭いけれどゾーン(地帯)の広さをあたえるものである。家屋(内)と庭(外)の境を、このように抽象的に言い換えたのは作者の機知でもある。逆に、このはざま(間)が廊下や縁側が、二つの世界の分岐になる。
作者の心情の裡では、縁側に坐って向きあう世界はきっと箱庭、文字通り「方形」の世の際(キワ)に坐ってゐる、という想像である。
現実の世と箱庭の方形の世の際、せり上がってくる「箱庭」と「端居」の句を集めると、まさしく大人のファンタジーの在りどころが、見えてくる。
くつろぎのときではあるがおそろしい。窮屈だ、恐ろしいとは思うことも何と大袈裟な。(二の①-ロ)の含みは、「端居」の句などに具体的な姿を表している。
一見くつろいでいる姿勢で居ながら、「窮屈」「恐ろしき」「逃げ切つて」という感情のつよい措辞に、個人的な私的な情感が生のまま吐露されている。「夕方」「端居」「間」、という時間や場所はマージナル(境界的)であり、それゆえ、人は昼間の「窮屈さ」から逃れて憩うことができるのである。先述引用した文章では、全く自分だけの思いに浸ることのできる時間帯「夜」にゆくために、こんな想像をしている。たしかに、箱庭遊びは昼間の労働の時間帯には不可能なことなのである。
そして、夜への入り口、夕方、昼と夜が入れ替わるこの時間帯は、あの世とこの世、自分と他人の境がわからなくなり、人間ではないあやかしのモノの影も見える。ここがまさに「私」のやすらぐ「極地」なのだろう。ぼんやりと庭を見ているのが平凡なサラリーマンであろうが詩人であろうが、ともかくこの世の端で、箱庭を他界としか見据えることが出来ないものとして、語られる。
日常生活者が別の世界を求める願望の揺曳がじつにうまく掬い挙げられている。それが句集の雰囲気を決めてゆくのである。けれども、それが客観写生でもなく日常詠でもない、まったくの観念劇でもない。強いて言えば、自分が今ここに居ることの不思議さの感覚の映像化と言えようか。
この句集は、そういう自己探求のキワ(際、極)にあらわれている。奇異であり、稀有であるが、あり得るものだ、と思えてくるのであった。こうして、キーワード「箱庭」の意味やその形態からは、いくつかのイメージの転用や発展につながるのである。
【3】快活と恐怖
作者の想像力の動きに、いくつかのパターンが在ると思い始め、作者も無意識にしろそれに従って、作句していることを感じ取った。目次の整序の仕方がユニークであることも気になったが、それは、締めくくりのあたりで後述するとして、私は、最初まず、印象付けられた記憶したのは、次のような、柔らかで抑制が効いている作品群であった。とてもナチュラルな感慨を與える。これらは、安心して読める例句だ。
① 昼間の俳句ー生活時間の書き方
イ) 菜の花や汽笛は遠くぼうと鳴る (第一章認知) P012
ロ) 牡丹雪ほのぼの耄けてみたいもの (同) P014
ハ) 浅春のオムライスの天破れゐる (第二章決意) P046
二) 浮き沈む豆腐のかけら冬銀河 (同) P072
なんとはない場面が、まさに、最初にでてきた「大袈裟」こととしてデフォルメで面白さを醸している。
句柄はしずかだ。技法的も季語と内容が自然な感じで付いていて、俳句として破綻をみせない。人為的な関係はでてこないが、それをあまり出さないかたちで、「物」に託して心情の機微や人間の生活を掬いとっている。
イ)。童謡ではみかんの花咲く丘で汽笛を聴くのだが、作者が住む愛媛県の瀬戸内海の小島か海辺の村だろうか?菜の花畑の広がりが目に浮かぶ。「汽笛が鳴る」ときの音「ぼお」には、自分のいま在る時間の流れがかむさる。既視感も計算済みだろうが、感情を汽笛が流れるとおさにダブらせるだけの、広い菜の花畑も必要だ。
ロ)。どういう老い方、死に方をするのか?疾風怒涛の若い日を過ぎた年代が持つ思い。それが「ほのぼの」と言う副詞のなかに込められている。「認知症」などと無粋な言い方ではなく、昔はやった小説の「恍惚の人」である。微苦笑をさそうこの感興が、誰でもおちいる普遍的なものであるところが、この句の共通観念、ポイントである。
ハ)。「浅春のオムライス」。これは取合せがいい。くわえてオムレツの形状から「天が破れる」と突拍子もないイメージの飛躍。句集にはおなじような機知が随所に発揮されるユーモラスであるとともに雄大。
二)。この句もその宇宙規模の大袈裟な機知で成功している。銀河の冴える冬の夜に鍋を囲む地上の食卓がいつのまにかこの逆転劇。「冬銀河」との取り合わせは、遠近法を狂わせ、大小の比較も混乱する。鍋料理の「豆腐のかけら」は、「浮き沈み」している星のかけらを想像させた。銀河系の全貌は、誰も見たことがないのに、すべての星が、ホッカホカであるかも知れない。そうとうのユーモアセンス。このように、どこにでもある日常性そのものの素材であっても、突然別の世界に飛ぶ。この感覚の動きが幅広い、また、それを俳句に組み込むときの作者の気持ちが、日々生きてゆくかけがえのなさ、という温みの在る身近な動機から発している。
② 在ることの重さ 美しさ
この作者は端正さが好きだ、抑制も見事だ。背景にあるはずのギトギトした俗事はここには出てこない。素材も詠み方も美しい。それは、存在の美しさへの発見とオマージュである。というような、絵画のような風景句。
ホ) 秋の水光の粒を塗しけり (第一章認知)P031
へ) 瑠璃空を滲ませのぼる花辛夷 (第二章決意)P051
ト) 在ることのはかなき重さ遠花火 (第三章追求)P101
チ) あかつき闇の漆紅葉の気高さよ (第四章賛美)P150
ホ)。水のかがやきを「光の粒に塗れる」と形容質感の表現。印象派の極点に生まれたシュールリアリズム絵のようでもある。「月蒼し質量生むといふ粒子・(第一章認知)P030」と言う句も、それ自体のカタチを持たない「月光」に物質の性格をあたえる。
へ)。「花辛夷」が「瑠璃空」を「滲ませ」る。花と空の境の輪郭をぼやかせるのである。線の動きに目をつけて描いたところが非凡である。高々と木の先まで咲くさまを「のぼる」と形容したのは、風の動きが花を左右に揺らすさまに縦の動線を持ち込んだのである。空と花辛夷が一枚の平面上にならび、しかもそれが絵の中で動いている。辛夷の花に瑠璃色の空が接し、滲んで、それは花びらの端から滲んでくるのだろうか。高いところに風が吹いているから花びらが揺れて、その花の揺れかたを見つめていると、視線が上方に移動するのである。このうごき、境界が滲んでゆくありさまがうつくしい。じっと観ている作者の執心が(こうなるはずだという願望)が伝わる。「はくれんの碧空ずらす力かな」(P133)も同じところを見ているのだろう。
ト)。これも興味深い。光の尾を引いてはかなく消えてゆく花火の火。その火自体に重さがある、と言う。大空で火花が消えるという現象にも、あるかなきかの「重さ」がある。遠い「花火」の光や音についても、それ自体が「重さ」を持ってる、という。その重さについて、どこか断定の強さがある。
この句では、現象すること、「在ること」を突き詰めようとしている。しかしあるいは、「在ることのはかなき重さ」は、自分のことだろうか。存在をいかなる自覚のもとに、自分で納得するのか、この内省の句は句集には散見する、作者の実存的な自問につながるものとしても読める。
チ)。「あかつき闇の漆紅葉の気高さよ」。私のイチオシの一句。この句でも「気高さよ」が唐突であるゆえに句が活きている。「あかつき闇」はまだ夜の色が濃い時刻、しかし、全くの闇ではなく、かすかに明けの光や色をまじえてはんなりしはじめた闇であるときに、ふと漆の木(大きなまっすぐした大木)の見事な紅葉が浮かんでくるのに眼を止めた。闇の中の赤い木に出会ったときに、彼は「気高さ」を感じた、これは絶対的な主観である、その紅葉の立つすがた全体の景色を「気高い」とおもってそう表現した。それは、自分だけの感動ではあるが、自然が自らを追い詰めて極点に達したときのすがたを、人間の感性が全身でうけとめて発された表現である。
漆は、木も美しいが、漆器になるともっと美しい。「japan」と呼ばれていたこともある。日本の漆器の塗りの光沢には玄妙な「あかつき闇」の形容がぴったりかも知れない。
この「漆紅葉」をえらんだことで、作者の他の俳句の「産土」や「まほろば」への憧れにかすかにつながってくる。仮の意見でるが、こういうところに「英語俳句」から出発した俳人の「日本発見」への模索を感じ取る。以上の例句。掲出の句は、どれも、感興の高まりを直接に形容することで詩的な存在に浄化されている。どれも、眼前の現象をその感動のままに書いてるようだが、喚起する世界が幅広い。いろんな方から視点を当てると、句が表す以上のものがなにかの境界を越えて現れる。使われる言葉の輪郭にそれが滲み出ているのであって、読者がなかなかそこに気が付かないのである。
③ 閑話休題ーここで一休み
この句集は、私には最初に読んだときの感想がつぎつぎとひろがってきており、このようになぜ表現するのかとその動機をつぎつぎ尋ねたくなるような魅力的な句集である。私の手持ちの言葉では指摘し得ぬところにも、作者の触手がのびているような気がしてきた。 ◯父と母(妣)。◯他界の生き物(鬼)。◯われー在ること。◯うぶすなとまほろばの輪郭。◯音や声の登場、などにかかわる不安な魅力的な句がみられる。しかし、句例などを十分に整理してみるにはもう少し時間がほしい。本文も、すでに予定以上に長くなってしまったので、ここで一段落して、ひとまず筆を置きたい。(続く)2020年12月末日
2021年1月8日金曜日
【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】9 箱庭の夜に寄せて 西村我尼吾
天為主宰の有馬朗人先生が亡くなって、無性に松山のことが懐かしくなった。眞矢ひろみがしまなみ海道99のinternational haiku conventionの国際俳句コンテストで衝撃の最優秀賞を獲得したのが1999年の松山宣言を発出した年であった。有馬先生は当時文部大臣であり科学技術庁長官でもあった。国際俳句コンテストの審査委員長であり、この会議で―俳句よりハイクへーという歴史的基調講演をおこない松山宣言の基本的方向性を示された。受賞者の眞矢ひろみが愛媛県庁職員井上さんであることは不覚にも知らなかった。そのあと眞矢ひろみと西村我尼吾は運命共同体の一員として、松山宣言の実現に向けて正岡子規国際俳句賞ほかの幾多の賞を作り、加戸守行知事の愛媛県の新政策を猛烈に推進していった。最優秀作品は次の通り。
reflected 映っている橋の明かりが
bridge lights share the calm sea クラゲと分けあう
with jellyfishes 凪いだ海面
世界各国からの多くの英語の俳句の応募の中、日本人が最優秀賞を取ったことが画期的であり、その内容も日本人にしてやっと理解できる花鳥諷詠や、伝統的な俳句の世界とは一線を画した、世界で通用する普遍性を備えた優れた短詩形文学作品であった。なんとも言えないリリシズムがただよい、まるでアメリカのある街の風景のように心に迫ってくる作品であった。
当時はライトバース全盛時で、虚子の客観写生などが王道のように語られていた時代である。その本家本元である愛媛県が、国際俳句 などという怪しげなものを掲げ、シュールリアリズム宣言以来の文学宣言を出すなどということは狂気の沙汰であると考えらていた。そのような破天荒な新政策を、愛媛県の改革を行うという観点から、加戸知事は許し、県の若手たちから形成される特定重要新政策遂行委員会に委ねたのである。それまでは愛媛県が新政策を行うことは極めてまれなことであった。眞矢ひろみはまさにその中核的メンバーであった。「箱庭の夜」に同じ青年将校であった我尼吾が「無駄なことはするな」とひろみに言ったとされているが、当時余りに多くの罵詈雑言をだれかれとなく浴びせていたので、いまならパワハラでとうに免職されているであろうが、思い出せない。ひろみはシュアでシャープなひとなのでとても無駄なことをするとは思えないからである。デビットバーレイさんを正岡子規国際俳句賞選考のための調整委員に推薦したのも眞矢ひろみであったと思う。
それからもう20年以上が立ってしまった。そのうち2008年以来、東アジアの経済統合を実現するための国際機関であるERIA(東アジアアセアン経済研究センター)を設立し、事務総長としてアセアンサミットのシェルパ機関として議長国を支え、世界で13位にランクされる国際経済政策シンクタンクに育て上げるために13年の歳月をインドネシアのジャカルタで費やしてしまった。コロナの猖獗する世界で若き日の熱い文学的記憶が呼び起こされたのは、眞矢ひろみの「箱庭の夜」を康子に知らされたからであった。この20年以上の時間の果てに眞矢ひろみの俳句はその時の姿のまま、まるで時間が止まってそのまま我尼吾の前に現れたかのような鮮烈な印象を与えた。ジャカルタでは完全に英語の生活である。www.eria.orgを見てもらえば、我尼吾の生活は推測できると思うが、眞矢ひろみの句集のチャプターがRecognition,Resolution,Pursuance,Psalmと洒落ている。こちらでは俳句を共時的に東洋哲学の立場からdeconstructionする作業に没頭し、高野山の幾多の高僧に教えをいただいた。空海の真言哲学や井筒俊彦から多くのものを学んだが、それ等の視座から箱庭の夜を眺めてみると、実に若々しい句集である。Rrecognitionとは自心の源底に俳句認識を至らせることである。Resolutionとは俳句的に即身することである。Pursuanceとは井筒の言葉を借りれば、有本質的分節をさかのぼり、自信の源底に到達した後、禅の目指すようにそのレベルでもう一度現実世界に戻ってくる無本質的分節のことである。そしてPsalmとは瑜伽の状態で存在の第一原理を感じ取ることである。つまり空海の声字実相義の世界、ちょうど私が愛媛にいたときに出版した処女句集「官僚」のあとがきに書いた世界をその時の同志である眞矢ひろみが実践してくれていたことを感じたのである。官僚は眞矢ひろみにも読んでもらったが、その時のわれわれの共有した時間が突然蘇ってきたのである。
屈折光掬えば海月かたち成す
炎天や一人ひとつの影に佇つ
読初の闇墜ちのことエヴァのこと
春曙光二度寝の夢に妣の坐す
幾千代の腐乱の裔や白牡丹
逆張りのミセスワタナベ明易し
かげろふの無方無縁の海に翔ぶ
補助線を跨ぎこれより枯野人
哲学を愛す霜夜に母の香す
大袈裟なことばかり箱庭の夜
玉虫になると退職挨拶状
灯は遠く鬼火か終の団欒か
眞矢ひろみが退職の年を迎えるとは信じられない。自分も年を取っていることを忘れていた。
2021年1月1日金曜日
眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス
2020年12月25日金曜日
【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】8 「箱庭の夜」読んではみたけれど・・・~俳句初心者が読むために~ 佐藤 均
(与太郎)
俳句になじみがありません。短詩という形式自体になじみが薄い。ほとんど無いに等しい。自分の本棚を見ても、それらしいのは「日本童謡集」、「日本唱歌集」、「啄木歌集」、「アイヌ神謡集」が全て。無理をすると茨木のり子のいくつかの詩集があるが、これはもともと後藤正治氏の「清冽」に触発されたからという具合だ。だから「箱庭の夜」も、決してスラスラと進むものではなかった。
(三河町の叔父)
それだけ読んでいれば大丈夫。世界最短詩である俳句は、すべてを言い尽くすことはできないし、作り手も最初からそんなこと考えてない。写生を唱えた正岡子規にしてもそうだ。作者が提供するのは、いわばヒントのようなもの。漱石に言わせれば扇の要。読者にも積極的に参加してもらう、つまり読者が自分なりの読みをしてもらわないと完結しない。短いから読むのは早くても、読み解くまでには長く掛かって当然だ。
この句集は、少なくとも意味内容は取れる句が大多数と思うけど。一昔前の俳句には、全く不明のものも多かった。音韻だけを念頭に置いた俳句とかね。
(与太郎)
これでも、わかりやすい方なのか。日本の伝統文化には能とか、茶の湯とか、受け取る側の色々な意味での参加を前提としているような分野があるけど、それらと同じか。
(三河町の叔父)
俳句を「自由詩」とした詩人だっている。日本に限らず、もともと詩は重層的で多義性を特徴にしていると言えるんじゃないかな。「薔薇の名前」という映画にもなった小説で有名なウンベルト・エーコは、芸術作品は享受者の積極的な介入によって意味内容が発見される「開かれた」形態としている。それは、万人が享受できるという意味で、限りなく公平なものだ。逆にその性質を活かして、平等な寄合の形態、無縁の結界空間として、場を重んじたのは日本独特の伝統かもしれない。短連歌に始まり、中世の花の下連歌、近世の俳諧の連歌、現在のWEB句会にまで脈々と通じるもの。
(与太郎)
読んで感じたこと、としか言えなくても良いのかな?
(三河町の叔父)
大丈夫。もともと一義的、絶対的な読みなどありえない。そもそも、俳句の源流である長連歌のポイントは「三句放れ」にある。同じ文言の句を、全く違う情景として捉え直すことを要諦とする文芸など、世界各地の、どの時代にも類がない。比較文学の先生の受け売りだけどね。一句独立といいつつ、俳句には「俳諧の連歌」発句としての名残りがあるのかもしれない。
(与太郎)
俳句を発句のように楽しむというのは、歴史倒錯というか、逆行というか、
(三河町の叔父)
俳句に限らず、詩は本来、いろんな読み方ができるということ。俳句の先生が作句にあたって「全てを言いきるな」とか「自分で結論を出すな」とか言うことがあるけど、そのことと関連している。芭蕉だって「いひおほせて何かある」と言ってる。
誤解無いように付け加えると、「読み」にもアングル、深度があることは当然のことだ。芝不器男の「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」の鑑賞を虚子が発表して、一躍注目されたことは有名だ。言葉に従って、いかに深く読むかということは、多義性とは別の次元の話だよ。空想レベルで読み解けば、自分勝手な独善解釈というか、妄想になってしまう。
作者は何を伝えようとしたのか、何に心を動かされたのか、元々そんなものは無いのか。100%読み解くことはありえない。でもね、目の前の俳句をこう読めば俄然輝き始める。全く取っ掛かりのない、どこが良いのかわからないような句でも、アプローチの仕方を変えると頭のなかにスッと入ってくる。そういう経験は俳句に限らず短歌や詩、絵画や音楽でもよくあることだよね。そういう読みを披露することが鑑賞であり、良い鑑賞とは、思いもかけなかった切り口、深度で作品にアプローチしたものだと思うんだ。
(与太郎)
少し気が楽になったかな。それでは、単なる感想ということで話そう。
一つは切り取った情緒、ということ。句のつながりといったものに何か意図するものがあるのかどうかはわからないが、印象として残るのはひとつひとつの句の中に切り取った風景情景だ。ただ明らかな風景情景とはいいがたいので、私としては、情緒といいたい。
(三河町の叔父)
俳句は叙情詩か叙景詩か、このことを議論するだけでも千夜はかかってしまいそう。伊藤比呂美は、詩の役目として「うた」「かたり」「まじない」の3つを挙げている。「まじない」は言葉でものを動かそうとするもので、叙情でも叙景でもない第三の機能。俳句にもあるかもしれない。脇道に逸れたね。ここでは、具体的に俳句を読んでみよう。
秋空へつづく白線引きにけり
例えば、この句。構成要素としては、秋空、白線、つづく、引く、この4つしかない。意味も表現も全く秘密めいたものはなく、単純明快だ。上から下まで一つの散文のようにも読める。しかし、君が指摘したように、単に情景を描いたものとは思えない。情景を読者に伝えようとするならば、記述内容の具体性が乏しすぎる。もちろん、五七五の十七音字で言えるはずもないけど。
白線とは何のことか、何のために誰が引くのか、秋空につづくとはどういう状況を指しているのか、等々について情報不足。職場や学校で、上司や教師に状況を伝言するのなら、少なくとも「何の」白線を、「誰が」なぜ「引いた」のかぐらいは必須の情報として伝えないといけない。小中学校の作文で、5W1Hを書きなさいと教わるけど、それが書かれていない。
でもね、逆に言えば、作者にとって、十七音字の制約のなかで、状況を正確に描写することよりも、別のことが大事だったわけだ。白い線が、舗装道路に引くセンターラインか、立て看に書く白マジックだろうが、白テープを画鋲で貼り付けようが、どうでも良いというか、それは読者の想像にお任せしますということ。現実の景色は句作りの発起点になったかもしれないが、言葉にした以上、ノンフィクションじゃあるまいし、ファクトにこだわることに大した意味はない。どうぞ想像力を奮い立たせて、ご自分が最も楽しめるように読み取ってください・・・ということ。
(与太郎)
でも作者としては、俳句を創作する以上、どこかに「思い」というか「感動」というか、人に伝えようとするものがあるはずだ。
(三河町の叔父)
伝えようとするかどうかは別にして、確かにあるだろう。テーマというと大きくなりすぎるから、モチーフと言ったの方が近いかな。作り手の創作動機となったもの、君の言う情緒といってもいいかもしれない。句を鑑賞する場合、この情緒の有りどころがわかれば、読むための重要な情報となる。
この句の場合どうだろう。「白線」を引くこと、これがまず第一、しかもその白線は秋空に「つづく」状態にあること、これが第二だ。作者はたとえ現実から遠ざかろうと、言葉を紡いで何ものかを伝えようとする。
(与太郎)
著者が句集の帯に書いてるけど「日常のなかでふと気づいたり、思い出す、些事ですがかけがえのないもの」をモチーフにしてるらしい。
(三河町の叔父)
白い線が空に向けて引かれる・・・という状況が、非日常の特異な体験といったものでは無いだろう。むしろ一般生活でよく見かける、他愛もない風景といえる。実際の景としては「運動会のため、校庭に学生が白のラインパウダーを引いて、振り返ってその線を見ると、線の先に秋空が広がっていた・・・」なんていうところかな。
(与太郎)
飛行機雲のことかと思った。
(三河町の叔父)
ああ、そうか。でも、それだと「つづく」という語が活きてこない。普通に読めば、白線と空は別の場所にあって、空は線の延長線に繋がる景じゃないといけない。秋空だから、よく晴れた天高い青空が先にある。一方、線を見る主体の視点はこちら側にあり、空に向けて引かれる白線を目で追うことになる。こちらと空を繋げる白線が引かれることに驚いたという感まである。振り返ると、足元まで引いてきた白い線のその先に秋空が広がっていた・・・と読むこともできる。
秋の空は当然晴れわたってはいるが、哀愁を帯びている。もう盛りを過ぎて、衰退に向かうことへの諦めであり、晴れ渡っているからこそ哀しみは一層深くなる。こういう読みは中学か高校の国語の授業でよく聞いたはずだ。このあたりは「秋空」という季語の持つ力が背景にある。そこに真っ白い線が空へと伸び上がっている。空に線は接しているか微妙だ。微分積分の授業で教わった「無限」の概念のように、空に対してずーっと近づいていくのだが、決して繋がることはない線。自分で引いてきたと思っていたが、悠久の彼方では繋がることが宿命付けられている線。こんなふうに読むと、この白線がイメージとして読み手の心に残り、寓意ではないが、何かの暗喩にも思えてくるから不思議だ。私としては、秋と白色はつき過ぎの感があって気になるけどなあ。ちょっとした言葉の切れっ端のような句だけれども、読み進めると、どんどん奥が深まる感じ。ドライブ感。これが俳句を読む醍醐味だろう。
(与太郎)
もう少し情緒について言いたい。
私は音楽を聴くのが好きだ。意識して聞き始めてもう50年近くになる。ジャンルは問わない。都はるみからフクウエ・ザゥヲセ(アフリカの親指ピアノ奏者)までがモットーである。
さて、私は音楽、曲の中で重要なのは繰返しだと思っている。かなり乱暴だが、移調転調といった技法も広い意味では繰返しだと最近思う。繰返しが情緒を作る。別な言葉では直感と言ってもよいと思う。だが中には繰返しを意識させない音楽もある。私にとってはドビュッシーのピアノ曲がそうだ。
俳句ではどうだろうか。繰返しはない。もし俳句に繰返しがあったら、漫談のネタにはなるだろうが、俳句として成り立つのかは定かではない。この辺については教えていただければ幸いである。句の中で、情景は切り取られそこにあるだけである。たくさんの句が並べられているのを読み進む感覚は、繰返しのない音楽を聴く感覚に似ていた。不安定なもの、嫌なものではないが、軽い船酔いに近いもの。
(三河町の叔父)
まず、一般的に俳句は一句を単位として扱われる。複数の俳句から、例えば句集とか連作シリーズと銘打った俳句の集合体から、傾向のようなもの、方向性などが取りざたされることはあるが、一つひとつの句は各々独立して扱われる。つまり句集に含まれる俳句の全体的な連続性、統一性といったものはあまり問われないし、作り手も頓着してないのではないか。句集の性格として、全体を読んで何らかのものを読み取る、それこそ情緒を受け取るということにはなっていない。
この「箱庭の夜」も著者が「三十年にわたる句作の私的記録」と書いているが、一般的には、俳人が一定の期間を区切って、この期間に作った俳句を句集にしましたっていうのが多い。更にこの句集は、「変遷こそ真」と著者があとがきに書いたように、色々な作り方をしてきた俳句をそのまま掲載しているようだ。だから、小説のように一つの物語を筋に従って読んでいくような、読みの仕方を固定して各々の句を鑑賞するということができない。いわば多種多様な一句一句の船に乗ってしまうと、海に慣れてない読者は、君のように船酔いを起こしてしまうことだってある。
もちろん、掲載句を何らかの視点から編集することは可能で、その仕方によっては、読む側が読みやすくなるかもしれない。「箱庭の夜」は四章構成で、コルトレーンの「至上の愛」の章編成にヒントを得たと筆者があとがきに書いている。各々の章の中は、句集によくあるけど、四季によって分類掲載されている(無季は各章の最後に掲載)。ところが、著者も書いているように、四章の区分基準が読者にはわからない。
(与太郎)
第一章「認知」第二章「決意」第三章「追求」第四章「賛美」という章の名前から推察すると、ある方向性に気づいて、色々試して、納得できるところまで達した・・・こういう道筋が推察できるけど、掲載されている俳句から、その経緯を辿ることができない。単なる時系列とも違うように感じる。コルトレーンの「至上の愛」は、東洋インド神秘主義とかユダヤのカバラ思想の影響とか言われているけど、そのこととどう関連してるのか、余計にわからなくなってしまう。
(三河町の叔父)
断っておくけど、君は俳句に繰返し(リフレイン)はないと言ったが、句集全体ではなく、個別の句に視点を移すと、修辞(レトリック)としてはかなり使われている。詩の技法はつまるところ「オノマトペ」と「リフレイン」に尽きると断言している人だっているぐらいだ、
大空は大地の中なり田水沸く (大:意味内容)
日を集め日に遠くあり石蕗の花 (日:単語、音)
納豆汁の納豆が好き逆もそう (納豆:単語、音、意味内容のずらし・反復)
父ひとりリビングにゐる五月闇 (i音:父の「ち」、ひとりの「ひ」、リビングの「リ」、ゐるの「ゐ」) など
何をリフレインするかによって、著者の狙いももちろん違う。音のリフレインはリズムを整え、意味を強めたり、なめらかな印象を与えたりすると言われているけどね。俳諧の連歌では、畳語(いろいろ、行き行きて・・・)をよく使っていたし、短歌や現代詩でも多く使われている。
納豆汁の句などは、いわばレトリックに遊ぶ感が強い。下五「逆もそう」とは、納豆の入った納豆汁も好きの意であろう。いわば、トートロジー、内容の裏返し、反復でしかない。昔の言葉で言えばナンセンスだ。面白いと感じるかどうかは読者に依るだろう。
(与太郎)
学生のころから持っていた「俳句」を外れるような、これが俳句なのか、これが詩なのかと感じたものを敢えて挙げると、
外灘にかげろふブラックスワンかな ブラックスワンは金融用語。想定外に発生する事象
逆張りのミセスワタナベ明易し ミセスワタナベは金融市場の俗語。日本の一般投資家
県道にミミズのたうつ電波の日 電波の日は6月1日 総務省所管の一般には知られていない記念日
彼岸へと仮線貸方いのち借方さくら 貸方借方は、貸借対照表(バランスシート)の書式、項目
など、一般的に知られてないような言葉、特定分野の専門用語を使っている句で、眼目というか、表現し伝えようとしているものが様々或いは不明で、これが不安定で揺れ動いている感じというか、不安になってくる原因かもしれない。(笑)
(三河町の叔父)
なるほど、君の船酔いの原因がわかってきた。この句集を読んでいるうちに、学校で「文学とは」「詩とは」と教わったことから外れているような感触を持ったのだろう。しかし俳諧の連歌が盛んな江戸期は、ナンセンス、パロディ、ジョーク、いわば何でもありの状態だった。近代・明治に入って子規が俳句を「文学」としたときから、短詩型は眉間に皺を寄せるようなものになった・・・と言えば言い過ぎかな。でもね、大和言葉、雅語に限られていた「連歌」に対して、いわゆる俗語にまで語彙を広げて作られたのが「俳諧の連歌」であり、そのことが短詩型の表現を大幅に拡充して生気を与えた。とにかく「俳」、変わったことをやろうということが脈々と引き継がれている。
いみじくもディヴィット・バーレイ氏が句集の帯で「思いがけない遊びの世界を繰り広げ」と指摘しているが、納豆の句とか君が挙げた句を指しているのじゃないかな。バーレイ氏の母国は北アイルランド・イギリスで、「フィネガンズ・ウェイク」を書いたジェイムズ・ジョイスをはじめ多くの詩人を輩出し、俳句とも縁の深いイマジズム発祥の地でもある。言葉遊びの感覚は、俳諧の連歌ばかりでなく西洋詩の伝統においても、特に変わったことでも遺棄すべきことでも無い。むしろ、詩の親戚と言えるだろう。
逆に、遊びとは反対に向かった句もある。
家族捨て魚になりたき寒夜かな
第一章「認知」に掲載の句で、内容や形から、比較的初期の句ではないかと想像する。一つの情景や言語空間を造形するような句が多い中で、身辺の独白とも、ぼやきとも受け取れる句である。こういうのを境涯俳句とでも言えばよいのか。結核や乳がんなどの闘病生活を綴った一昔前の境涯短詩とはだいぶ趣が違うけど。日中の出来事を、夜遅く自宅の薄暗いところから見つめ直し、舌の上で言葉を転がしている様子が目に浮かぶ。楽しい句会や吟行などで句を作っているのではなく、深夜の書斎で作句している著者の姿を想像してしまう。
でも、夜だから暗い印象ばかりかというと、そうでもない。句集では、諧謔味の強い口語俳句など、色々な句作りをしていて、ライトバースのような軽いタッチの句も多くある。読み方も句によって変えないと、君のように船酔い状態になるかもしれない。
大袈裟なことばかり箱庭の夜
箱庭を夏の季語と捉えるかどうか判然としないが、句集の名前を配して、自分の句作りの姿を自嘲的に描写したとも読める。重層的に読むことができる、典型的な俳句だ。自分の信じる一つの作句方法に、一生を通じて執着する人もいれば、色々な作り方を楽しむ人もいる。俳句との付き合い方は人それぞれ、千差万別だろう。
(与太郎)
句集を通じて感じたものとして、もう一つは色だ。一読ではわからないので、再読してみた。一つ一つの句には、赤なり青なりの色が詠まれているが、全体の色は、やはり「箱庭の夜」だ。真っ暗、真っ黒ではない。ボーと何かに照らされている。輪郭をたどれないわけではないが、だが明確ではないので、様々にたどれる。雨はない。普通に考えたら月夜なのだろうが、月自体は見えない。受ける印象は「箱庭の夜」であって、「夜の箱庭」ではないと、私は感じる。スペイン語で言えばOsculoか。句集全体としてはやはり夜の色なのだろう。やはり全体は「箱庭の夜」なのだろう。
(三河町の叔父)
光と闇が神と悪魔の領域。色が、光の波長の反射・吸収度と知覚する受容体に依存するとすれば、浮世の領域ということになるのだろうか。明と暗、昼と夜が句に詠まれる中で、君が句集全体から朧夜のように何かに照らされていような夜をイメージしたことは、作り手の立ち位置を感じ取っているのかもしれない。色々な趣向、方向性、含意を句に持ち込み、もちろん一筋縄では読めない句が多いが、私が感じるのは、作り手は暗い場所からものを見ているように感じる。
君が拘った色に関しては、白玉、白梅、青饅など季語を含めて、白そして青(蒼・紺)がよく使われている。先に挙げた「秋空につづく白線・・」においても、白色がポイントとして用いられていた。
はくれんの碧空ずらす力かな
この句では、碧空の青と白木蓮の白の対比がそもそものモチーフになっている。はくれんの白は、アイボリーがかったオフホワイト系の白色。因みに花言葉として挙げられているのは「気高さ」「高潔な心」「慈悲」等である。そもそも白色とは、全ての可視光線が乱反射したときに、人がその表面を知覚する色である。古来、すべての色を拒絶する有り様に、人は純粋性、高い精神性を認めていたことになる。
白木蓮は花を咲かせるとき、葉は無く、枯木のような枝の先に白い豪華な花弁を上空に向けて広げる。土地からの栄養をすべて、木としての先端にある花弁の開花に注ぎ込む。ゆっくりと、見るたびに花弁を広げていく容姿、動きに生命の力強さを感じたのだろう。一方、開いていく、或いは風に揺れる花弁によって、場を譲ることになるのは碧空である。白い花弁が開く動きに従い、碧空はそそくさと脇に追いやられる。それを「ずらす」と表現した。無論、レトリックとしての矛盾と誇張を併せ用いている。ずらしてなどいないし、はくれんに力があるわけでも無い。しかし読み手は納得してしまう。あの白木蓮ならそのぐらいのことやるかもしれないと。それは、詐欺とわかっていても、真正面から堂々と嘘をいわれると思わず同意してしまう人間心理に似ている。「ずらす力かな」と大袈裟に、誇張して言い切った効果ともいえる。
他にも、次のように色を使った句があり、色の持つイメージ喚起力に依っている。
身の奥の青き焰といふ余寒
敗戦記念日産土に挿す黒き傘
大岩を割る青蔦のうねりかな
白靴の片割れ大正偽浪漫
煮つめれば人魚は蒼く枯木立
(与太郎)
うーん、少しは腑に落ちてきたような。初めて、なじみの薄い俳句の本を読むということは、決してスラスラと進むものではなかった。本書の著者略歴にもある通り、奇を好むせいか何を詠んでいるのかわかりかねることが多かったし、また私自身が著者以上に性怠惰であるから、季語の意味も調べることもなければ知らない言葉(たくさんある)を辞書で引くこともせず済ませてしまった。俳句素人代表として、感じたことを言わせてもらった。
(三河町の叔父)
俳句は極端に短いために、それを補うための仕掛けが開発されている。季語などはその代表選手だろう。俳句を読む前の段階で、季語の意味するところ・本意や、これまで当該季語が使われた有名な俳句を少しは読んでおくと、鑑賞がとてもしやすくなる。アプリオリな知識がある程度必要なことは、奇異な感じを受けるかもしれないけどね。確かに面倒だけど、絵の展覧会に行くと、絵が書かれた背景などをキュレーターがわかりやすく解説してくれるけど、あれと同じだ。
一方、東京で普通の生活をしている君が、知らない季語や言葉が多かったということは、逆の意味で問題だな。俳句の言葉が日常生活と離れてきているということだ。君が専門としている音楽は、もともと音に意味を伴わない。そのために容易に海外の音楽などと交流・交歓もできる。言語は生来意味を伴うから、そう簡単にはいかない。そのうえ歴史的にみても、意味内容などはどんどん変化してしまう。どんなに新しい文体、語彙を使ったとしても、数十年もすれば陳腐化してしまう。でも、だからこそ魅力があるともいえる。
ネットで表現がとても短くなり、若い人たちは新しい言葉を使い、また新しい使い方をしている。その速度はますます速くなっていて、俳人は大変だ。「不易流行」の流行が速すぎるし、何が不易なのかもあやふやになっているかもしれない。でも、よくわからないから、どんどん変わっていくから、俳句は面白い。そう感じてくれると本望だけど。
参考:この稿は、句集の著者(真矢ひろみ)を含む俳句関係者に行った取材等をベースにして、対談形式にまとめたものです。
2020年12月11日金曜日
【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】7 『箱庭の夜』雑感 藤岡紙魚男(古書はるか堂店主)
この稿では、俳句初心者ではあるが永年活字に親しんできた一読書子として、印象に残った句を中心に感想を述べてみたい。
蒼天をピアノに映し卒業す
末黒野に空の真青の始まれり
この二句は青と黒の鮮やかな色彩を感じさせるとともに、春の明るさと未来を思わせる。私の卒業式にも、確かに蒼天はピアノに映っていたと感じさせる句である。
「やあ失敬」と朧月夜を後にせり
テレビ句会でよく拝見した金子兜太氏の人物の特徴を、「やあ失敬」という四文字で一瞬に切り取った巧さ、金子氏の声が聞こえるように感じた。
静物の傾ぐ昼過ぎ蟻地獄
ぼうたんの蕊震へをり白日夢
真夏の時間が止まった世界を「静物の傾ぐ」と表現して面白いと感じた。ダリの『記憶の固執』の世界か。また次の句は、初夏に牡丹の蕊が震えるのを見ているうちに、いつしか催眠術にかかったように脱力感を覚えて、そのまま白日夢の世界に。まるで鏡花の世界のようでもある。
在ることのはかなき重さ遠花火
苦界には始めと終わり秋深む
こうした死を意識した内面の世界に切り込んだ二句も印象深かった。第二章(決意)の途中にある一句に、
ステージⅢとてみつ豆の甘さかな
とさらり詠まれているが、それが句集全体の通奏低音として流れているのは間違いないように思われる。
ぼうたんの揺るるは虐殺プロトコル
虐殺プロトコルは、伊藤計劃のSF小説「虐殺器官」で提示された概念と思われる。詩歌でもよく取り上げられる豪華な花、牡丹を、このカルト的SFのモチーフである言葉と配合させている。その大胆さに驚いた。
次に、句集を通じて感じた、俳句の傾向について述べたい。
大丈夫青饅が好きならば
白玉の歪み好きです不惑です
窪地フェチ春を清らに言えません
相撲協会危機管理局ヒアシンス
句集には、揚句など口語調の俳句が少数ではあるが含まれており、ユーモアを感じる句が多かった。それも所謂下ネタまである。江戸期の俳諧を思えば、この程度は許容範囲で、むしろ大人しいレベルなのだろう。
「鬼」の出てくる句が多いのも特徴となっている。鬼の文字が出てくる俳句は全章にわたって十一句あり、うち六句は鬼を直接描写している。総数三〇〇の句の中で、この数は極めて多いように感じる。
鬼の腕を濡らすひとすじ春の水
夢に来て海馬に坐る春の鬼
花影の妣より少しずれて鬼
揚句はいずれも春の句であり、生命の息吹を感じる。鬼に対する作者の捉え方は、大ヒットしている「鬼滅の刃」などに見られるような魔物、妖怪の類とは違い、宿神と人の間に立つ精霊のように捉えているように思う。安定した日常世界にやってくる、異界からの来訪者であり、魂の再生をもたらすものある。春の水が腕を濡らし、人間の脳の中心である海馬に来て座るのは、このような鬼の力を暗示している。それは、折口信夫の「まれびと」を思った。
初空やマレビトを待つがらんどう
マレビトを待つ末黒野の端っこに
そのことを裏付けるように、まれびとが揚句に登場する。空疎になったもの、空虚な心に魂を注入するのがまれびとであり、人は聖なるものとして登場を待ちこがれ歓迎する。それは秋田の「なまはげ」のように、祭りや宗教行事に登場する鬼の性質である。
虚子の忌や百鬼夜行の美しきこと
鬼をそのように捉えるとすれば、この句の読みも変わってくる。虚子の忌は四月八日、春たけなわの時期である。百鬼夜行といえば京都であろうか、花も盛りの真夜中、魑魅魍魎、もののけ、鬼どもの群れ・行列に出会すのである。しかし著者は、元来、見たものは命を落とすといわれる夜行を美しいと賛美しているのだ。単なる幻想の描写というより、喩或いは一種のイメージのようにも読める。
虚子の忌と百鬼夜行を繋ぐものを思えば、虚子をまれびと、または折口が芸能論で言及した「翁」のような存在として位置付けているのではないか。能の冒頭に出てくる「翁」は彼岸と此岸を結び、場を設える。とすれば、百鬼とは虚子周辺の多くの文人等を指すものと思われる。俳人はもちろんのこと、漱石まで含めてその多士済々は、虚子の存命中から現在に至るまで周知のとおりである。虚子(の霊)が古代からの基層、伝統との中継ぎとして場を整え、鬼たちはおどろおどろしくも、まことに美しい多彩な世界を繰り広げている・・・・そのようなストーリーを彷彿とさせる。私は、虚子が昭和初期に高弟たちと行った吟行「武蔵野探勝会」を思い浮かべた。この句を通じて、読者は、良くも悪くも、虚子の大きさに思いを馳せるのではないか。
夜神楽の死にゆく鬼の淡きこと
人に魂をもたらした後、鬼は山へ、常世の国へ戻る。夜神楽を見る者には、その死がまことに呆気なく感じられる。しかし、それは当然のことであり、もともと異界の住人が出処に戻るに過ぎない。神や魂を得た英雄に追われて姿を消すことは、形としては死であるが、いわば宿命であって、諦観はあるにしても悲嘆とは無縁である。
実のところ、私はこの鬼に某俳人の姿を重ね合わせた。先の揚句で鬼を俳人と読んだ影響かもしれない。ただし「精魂を傾ける」という一般的な意味での鬼である。半世紀を超えて俳句に真摯に向き合い、病を得てからの日常は過酷を極めたはずだが、淡々として句作を続け天寿を全うした。
句に取り上げる素材、モチーフの面から、マクロ・宇宙とミクロ・動植物との配合による句が印象に残った。
星よりの細き光を蜘蛛渡る
光る蜘蛛の巣の上を、蜘蛛が渡っていく。星の光とする以上、夜の場面であろう。無論、巣を照らす星からの光を特定することはできない。星が光っている以上、蜘蛛の巣も照らしているはずという想念に過ぎない。この想念の延長線に、数千光年も離れた星からの微細の光と、地球上のミクロの世界に生きる蜘蛛との邂逅に至り、それを「渡る」という実態に見出している。
光年の先行く秋の道をしえ
金星にふれて末枯はじまりぬ
星こぼる朴の落葉の裂け目より
同様に、宇宙と動植物の接点を取り上げた句である。「先行く」「ふれる」「裂ける」という言葉が、邂逅を演出して両者を「繋ぐ」描写になっている。
月天心アポトーシスの始まりぬ
趣は少々異なるが、これもマクロ・ミクロ取り合わせと言える。アポトーシスは、あらかじめ計画・予定された細胞の自死活動を指す。癌細胞はアポトーシスが起きず、増え続けることによって生物に死をもたらす。月の威力・慈愛であろうか、アポトーシスが「始まる」ことは、癌患者にとって朗報となる。伝統を踏まえた月と、ミクロの世界で億万の細胞が直面するイベント「自死」との配合である。
終わりに俳句初心者としての思いを述べて拙稿を閉じることとしたい。
俳句が現代でも文芸上の有力な表現手段として存在ひを維持し得ているのは、作者の鋭敏かつ繊細な神経が潜在的に捉えている様々な危うさ(肉体的、精神的危機といっていいのかもしれない)に形を与えることができる表現行為だからだと私は思っている。定型短詩という極端に窮屈な枠の中ではロジックで語ることが出来ないために、ときには難解、晦渋な語彙・表現が飛び出す。そしてそれがまた魅力でもある。
この稿で取り上げたのはほんの一部に過ぎないが、この句集には、そうした意味で多彩な表現方法で作者の危機に形を与えた秀句が数多く収録されていると感じた。
2020年11月27日金曜日
【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】 6 人とこの世への恩愛に満ちた句集『箱庭の夜』について 神谷 波
『箱庭の夜』は陰影に富んだ句集である。「闇」「鬼」「影翳陰」といった語が多用されていて、作者の心象風景がありありと描写されている。先に挙げた語が多用されるとたいていは俗で平板な句になりがちである。本句集の場合、そういう句も見られるが成功している句の方が多い。
父ひとりリビングにゐる五月闇
虫の闇病む子に火遊び教へませう
炎天や一人ひとつの影に佇つ
やさぐれるとは木蓮の翳のこと
階段に魄の陰干し垂れてをり
鬼の腕を濡らすひとすじ春の水
夢にきて海馬に坐る春の鬼
作者の本領は、人とこの世への恩愛に満ちた句に発揮されている。
県道にミミズのたうつ電波の日
電波に身悶えするミミズへの憐れみ。
寄り道をして虫の音に沈みゐる
柵から逃れ自身を取り戻す大切なひととき。
父と子とコンビニ弁当初茜
コンビニ弁当で祝う男二人だけの新年、寂しさを共有して。
花透くや母胎の中のうすあかり
「花透く」は、命のはじまりの神秘である「うすあかり」を実感させてくれる。
浮き沈む豆腐のかけら冬銀河
鍋の中で浮いたり沈んだりしている豆腐のかけらのなんといじらしいことか、「冬銀河」によっていじらしさがありあり。
いちはつや人魚の匂ひする人と
青紫色の花を咲かせるいちはつは群生するので海を連想させる、雨後であれば尚更。
「いちはつ」の辺で、いつか海に戻ってしまうかもしれない「人魚の匂ひする人」とのかけがえのない時間。
他には怖い句もある
春の宵おひねりが飛ぶ空爆も
義体にも微熱かむなぎ凍る夜は
煮つめれば人魚は蒼く枯木立
愉快な句も
逆張りのミセスワタナベ明易し
2020年11月13日金曜日
連載【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】5 青の印象 前北かおる
眞矢ひろみさんの句集『箱庭の夜』を一読して、青色や青い空、青春時代が繰り返し詠われていることに注目しました。こうした作品には、タイトルの「箱庭」や「夜」という言葉と少し違った一面が見てとれます。寒色系のクールさを保ちながらも、開放的な世界が広がっているところに魅力を感じました。以下、いくつかの句を取り上げて鑑賞を試みます。
蒼天をピアノに映し卒業す
「卒業」が季題で春。グランドピアノの蓋に、窓の外の空が映っているのでしょう。不思議ですが、その音が聞こえてくるようには思われません。長い式典の途中、ふと周囲への意識が遮断され感慨に浸っていたのでしょうか。その時、視線の先にあったピアノに映っていた「蒼天」が目に焼き付けられたのです。静けさの中に明るい前途がはっきりと示されているようで頼もしいです。
いっせいに命を囃す植田風
「植田風」が季題で夏。植えたばかりの稲の苗が青々と風に吹かれている様を、このように詠ったのでしょう。もちろん、苗だけを「命」と言っているのではなくて、木々や鳥、虫そういった環境すべてを風が渡り「囃」していくのです。田植えの頃は、動物も植物も盛んに活動する時期にあたります。その生命の営みを、「いっせいに命を囃す」と力強く讃えています。
磐座に載せるものなき涼しさよ
「涼しさ」が季題で夏。この磐座は、上が平たくなっているのでしょう。森の中に祀られているものもありますが、これはどこか山の上とか見晴らしの良いところにあるように思われます。ひょっとすると、ここに神が降臨して座ったというような伝説でもあるのかもしれません。それはともかく、作者は、何を載せるでもなくただ岩として鎮座する姿に「涼しさ」を感じたのです。その上に何もない爽快感が率直に詠われていて、共感できました。
意味に飽く少年少女夏の果
「夏の果」が季題で夏。その日にやるべきこと、その年に避けて通れないイベントが次々やって来る、それが少年期です。常に何かに追われ、さしあたっての進路を選んでいくだけでも大変な忙しさです。同時に、それを行うことの意味、自分は何者かという問いにも向き合わなければなりません。追われながら立ち止まることを迫られれば、逃げたくなるのも無理のないことです。「少年少女」たちは、夏休み、真空状態におかれて、ふと全てを投げ出したくなったのでしょうか。考えてみれば、これは誰もが通ってきた道であり、身に覚えがないこともありません。「少年少女」とモデルをぼかしているのは、読者それぞれの封印した記憶をよみがえらせる仕掛けかもしれません。
2020年10月30日金曜日
【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】4 時空を超えたドラマツルギー 山本敏倖
眞矢ひろみ氏とは「豈」、「俳句新空間」、「皐月句会」の繫がりで面識はない。
ただジャズ好きで、ジョン・コルトレーンファンということで、不思議なご縁を感じた。
想えばかの摂津幸彦もかなりのジャズファンだったと聞く。
句集『箱庭の夜』は、氏が俳句に興味を抱いてより三十年近くを経て、満を持して
の第一句集である。
句集名は句集中の
箱庭に息吹き居れば初雪来
大袈裟なことばかり箱庭の夜
からとったと思われるが、箱庭については帯文で「・・・・江戸後期に流行し夏の季語でもある〈箱庭〉のような仮想空間の類ではなく、むしろ現代 ユング派の心理療法に使われる〈箱庭〉の機能そのものに近い・・・・。」との表記がある。つまり単なる季語ではなく、言葉としてその属性部分からのイメージを掬い取って欲しいとのことだろう。
また章立ては、ジョン・コルトレーンの最高傑作と言われているアルバム「至上の愛」を
参考にしたらしい。
① 認知 ② 決意 ③追求 ④賛美
の四章からなっており、これはかのドラマツルギーを心得た、起承転結の構成法と読み取れる。
まずは巻頭と巻軸の句
指切りをしたい今宵のいぬふぐり
水音の言葉となりぬ初寝覚
果実の形が犬のふぐりに似ていることから付けられたいぬふぐりが、春の宵、おそらく風にでも揺れたのだろう、指切りをしたい気分にさせた。初寝から覚めたときかすかな水音が言葉となって届いた。日常の中から詩的瞬間を抽出。季語とのコラボにより二句ともそれぞれの詩的深度を確立している。
各章から四句ずつ恣意に曳く。
① 認知
屈折光掬えば海月かたち成す
木下闇まず鎖骨から出でにけり
鳥葬の骨砕くるも秋の声
私などいない気がする冬の航
まっすぐな太陽光なのだが、自身の内面の何かが反映したのだろう屈折光に見えた。その光を水面の水ごと掬えば、水面下のぼんやりとしていた海月がはっきりとした形を現した。光と影により存在を浮き彫りにする一寸景。
木下闇があり、そこから出るときまず鎖骨から出る自分がいた。色彩感をベースにした自身の行動認識。
鳥葬で残った骨を砕いたにもかかわらず、どこからか秋の声した。五感の感触から発する秋のイメージ。
寒さの厳しい冬の航路、そこにいるのだがいない気がしてしまう私。自身の喪失感。
屈折光と海月、木下闇と鎖骨、鳥葬と秋の声、私と冬の航、いずれも意外な配合からなる自身の存在に対する不安感の認知により、詩情を稀有なものにしている。
② 決意
魂におかえりなさい梅真白
花透くや母胎の中のうすあかり
半円の冬の銀河を行かんとす
風花にゐる産道をゆく如く
無垢な魂におかえりなさいと、おそらくこの世のすべての汚れに対してだろう呼びかけている。傍らにはその純真さを象徴するように真っ白な梅が。背景のメッセージ性を白梅の香りと共に漂わせていて巧み。
満開の桜が光の加減で透くように見えた時、母胎の中で意識したであろううすあかりを感応した。胎内回帰のイメージが広がる。
秋とは異なる情趣と語感の有る冬の銀河。その半円の姿を仰ぎ、その冬銀河の道を行こうとしている。冬銀河への探求心と詩的決心。
風花の中にゐる。まるで母の胎内から出てくる時の産道を通過している気分で。
どの句も特殊な情景を作者独自の感性で再構築しており、作者自身の方位と決意が表白されている。
③ 追求
身の奥の青き焔といふ余寒
形代の大楠に倚る白日傘
在ることのはかなき重さ遠花火
頻伽聞く土星を過ぎしあたりより
自身の身体の奥にチロチロと燃える青き焔に余寒を感受する、特異な感性。
身代わりとしてあるいは神霊の代わりとしてある形代のような大楠に倚りかかる白日傘。まるで何かを聞き出そうとするように。大楠の精霊への敬慕。
遠く一瞬にして咲き消える遠花火。そこに自身を含めた存在することへの、はかない重さを実感している。遠花火の開く瞬間のひたむきな美への探究心。
頻伽は迦陵頻伽の略。仏教で雪山または極楽にいて、美妙な声で鳴くという想像上の鳥。その想像上の鳥の声が、土星(別名サターン)を過ぎしあたりより聞こえたという、まったくのイメージ上の二物の存在を配合し、次なる造型美を読み手に想像させようとしている一句。
追求のテーマをそれぞれの形で表白。他の句を含め、しっかりとした具象的なイメージにより、その存在の詩的追求をしている。
④ 賛美
瑠璃天は御霊に狭し揚雲雀
虚子の忌や百鬼夜行の美しきこと
月守にならぬかといふオムライス
仮の世のゐるといふこと寒椿
瑠璃色のガラスのような空は御霊にとっては狭いと思われるのだが、それを打ち破るかのように雲雀が揚がる。御霊の存在への一寸感。
かの高浜虚子の忌に、たまたま垣間見たであろう百鬼夜行が美しく感覚された。百鬼夜行への逆転の審美眼。虚子との取り合わせにより、大いなるアイロニーを感受。
花守でなく月守にならぬかというオムライス。オムライスの色彩と月の有り様が、幾分の滑稽感をもって絵画的。
寒中の真っ只中に懸命に咲く寒椿。しかしここは仮の世と見、そこにゐると考えることで、その寒々とした生き様もまた一興と見る。
章のラストは、起承転結の結として表面的には、懐疑性を打破し、逆説的美学、軽い滑稽感やこの世を俯瞰しながらも、一句一句の空間を賞賛賛美し、普遍的領域への足掛かりにしている。
また句集中の特異な存在として、すべてが漢字の一句。
純日本風虐殺命令油月
水蒸気により月の周囲が油を流したように見える季語油月の斡旋が絶妙。その作用により上五、中七の措辞が、虐殺の歴史と気分のイメージからなる絵巻を展開させ、油月との絡みでその在り様を追求している。
追悼句としてかの金子兜太への一句。
「やあ失敬」と朧月夜を後にせり
兜太の人間性と存在感が凝縮されており、山本健吉の云う、「挨拶」「滑稽」「即興」の 「挨拶」を実践している。
そして句集中最も不思議な存在として、戦艦大和の句、三句がある。
戦艦大和 四月七日出撃
菊水を舷に涼月添ひにけり (第二章)
戦艦大和 豊後水道通過
左舷より菊の御紋にわたくし風 (第三章)
戦艦大和 鹿児島沖轟沈
水底の黄泉平坂月を待つ (第三章)
なぜここで戦艦大和の三句なのか今一ピンとこなかったが、出撃、通過、轟沈の前書きから起承転結ではなく、日本の能や人形浄瑠璃などで使われる序破急の構成法が浮上し、戦艦大和の悲劇を再現することで、歴史的事実からの、②決意、③追求のテーマを含んだドラマツルギ―を感応した。
句集全体を通して大きく俯瞰して見るに、作者はどうやらイメージとして中有(衆生が死んで次の生を受けるまでの間。期間は日本では四十九日)に立って作句しているように感覚される。むろん例外句はあるが、多くは中有から現世と魂魄の両方の世界を注視し対比させ、そこに人間存在の意味を探り出そうとしている気がしてならない。つまりそこが現時点における、作者眞矢ひろみ氏にとっての箱庭なのである。
本句集は眞矢ひろみ氏の、俳句に触れてから約三十年近くの珠玉の集大成であり、ジョン・コルトレーンのアルバムからの構成法に乗っ取った、時空を超えたドラマツルギ―を俳句形式を通じて表白した稀少な一巻と言えよう。これを基にさらなるひろみワールドの飛躍を期待してやまない。
2020年10月16日金曜日
【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】 3 夢幻の虹の世界 藤田踏青
作者は現在「俳句スクエア」「豈」同人。ネットサイト「俳句新空間」「俳句飄遊」などに参加し、ネット中心に表現活動を行っている。
帯には、「言葉、イメージ、音などの素材を配して、景や文脈などを構成、造形する場であり、極私的なもの」とあり、「ユングの〈箱庭〉の枠内での自己表現に近い」とある。それは佐佐木幸綱の「空間的にいえば、ある断定をもって宇宙全体を表現し、・・・・時間的なことをいえば、現在というものを徹底的に表現することによって、それが永遠に逆転すること」の潔さ、という定型観にも相通じるものがある、と思う。つまり、空間とはイメージ、断定とは言葉、徹底した現在が極私と言えよう。
コルトレーンの「至上の愛」を参考にしたとある章立てにそって鑑賞してみる。
第一章〈認知〉
三日待て春泥に息吹きかけて
牡丹雪ほのぼの耄けてみたいもの
春泥も牡丹雪もうつろい易い存在。それゆえ作者の自意識が自他ともへと語りかけているのであろう。
蜉蝣の十万億土をひろびろと
山襞に鬼らしきもの秋闌ける
蜉蝣も鬼もある意味で小さな存在である。そうしたものと大きな存在(十万億土、秋)との交錯が安寧をもたらしているかのようである。
己が影を求めぬものに青鷹
この句からは芭蕉の「鷹一つ見付けてうれしいらこ崎」の句が想起される。鷹の、しかも青鷹の孤高・孤独感が滲み出ている。
しののめに凍星ひとつ紺絣
飯田龍太の「紺絣春月重く出でしかな」の句と対照的な内容でありながら、何故か通底するものがあるようにも思われる作品。
第二章〈決意〉
幾千代の腐乱の裔や白牡丹
句作においては攝津幸彦に影響されたとあり、掲句は明らかに幸彦の「幾千代も散るは美し明日は三越」の句を意識していると思われる。腐乱=散る、であるが、掲句の手法は蕪村的であり、幸彦のは諧謔に傾いている。
意味ならば草かげろうにお聞きなさい
夕花野いのちの円周率測ろ
口語調で軽妙な感覚があるが、むしろ無意味の意味を示唆しているのでは。
首垂れればわが真中より冬の川
極月の女衒にまぎれ押すものよ
自己存在を見尽せば、自ずと心底から本質というものが浮かび上がってくるのではないであろうか。たとえそれが認めたくないものであっても。
第三章〈追求〉
左舷より菊の御紋にわたくし風
戦艦大和、豊後水道通過、の前書きがあり、作者の住む愛媛県がその地に面している。「左舷より」の措辞により、大和を望む位置関係が推し量られる。二年前、私も鹿児島・枕崎の大和慰霊碑から海の彼方を見つめていた。
白靴の片割れ大正偽浪漫
まるで土門拳のモノクロ写真の世界を覗くようで、「白靴」の印象の強さと「大正偽浪漫」のイロニーが絶妙。
月天心アポトーシスの始まりぬ
補助線を跨ぎこれより枯野人
両句共に死の様式の一つ(プログラム細胞死)に関連したものであろう。時空間での追求には厳しいものがある。
階段に魄の陰干し垂れてをり
この句も幸彦の句「物干しに美しき知事垂れてをり」「階段を濡らして昼が来てゐたり」を意識したものであると思う。しかし掲句には「陰干し」というように、なぜか逆転の発想が込められているように思われる。
大袈裟なことばかり箱庭の夜
句集題ともなった「箱庭の夜」であるが、その極私的な様相が大袈裟な、と見事にイロニーに曝かれているようである。
第四章〈賛美〉
夢に来て海馬に坐る春の鬼
薄化粧の兄引きこもる修司の忌
虫の闇病む子に火遊び教へませう
自己の裏返しとしての春の鬼、引きこもりの兄、病む子、といった因縁世界への鋭い視点。いわゆる私小説とは異なった観念の世界の私小説のようである。
端居して方形の世の恐ろしき
道をしへ死んでゐることををしへられ
生きているとは、死ぬこととは、への問いかけのような句である。特に前句の「方形の世」は「箱庭」に通じるものなのではないか。
冬の虹水脈果つるあたりより
水音の言葉となりぬ初寝覚
見ること、聞くこと、感じること、すべては夢幻の如く・・・・。静謐な世界に浸る。
2020年9月25日金曜日
【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】2 『箱庭の夜』鑑賞 朝吹英和
【宇宙との合一感】
光年の揺らぎの果てや春の虹
光年の果てに寒月返しけり
「家族も寝静まる夜更け過ぎ箱庭に様々な素材が群がります」と述べる作者の俳句の素材は日常生活の一齣から宇宙への思いに到るまで幅広く多彩であるが、取分優れた絵画や音楽に通底する宇宙との合一感に満ちた秀句が印象的である。
ミクロコスモスである人間とマクロコスモスの自然とが四季の循環律を底に持つ俳句を通して内的に結合している。儚い存在の象徴でもある虹を「光年の揺らぎの果て」と対比させた発見の妙に得心する。句集中に頻発する「夢」・「虹」・「光」に託した作者の思いが鳴動する宇宙と共振する。
【永遠に繋がる瞬間】
星よりの細き光を蜘蛛渡る
透徹した写生眼によって眼前の景から悠久の時空への思いが広がり、小さな生命を慈しむ作者の優しい心根に感銘する。人生は儚いがゆえに今この瞬間を大切にして生きる作者の態度が読み手に確りと伝わって来る。無常に流出する時間を人生にとって価値ある永遠のものに転化せしめるのが芸術であり、俳句もまた然りである。「夢」には将来への希望や願いが存在すると同時に儚さの象徴でもある。生死、聖俗、陰陽、善悪・・・すべからく対極が重層し併存する世界にあって人生における夢は永遠に繋がる。
太古より夢つづきをる白夜かな
【自同律の不快】
冬の日の歪むあたりを行かむとす
半円の冬の銀河を行かむとす
掲句に接して「自同律の不快」、即ち絶えず満たされぬ魂を持つ事が宇宙の原理であり自らの行動規範であるとする埴谷雄高の哲理を思った。「自同律の不快」から脱却するためにはクオンタム・リープ(不連続的な飛躍)が必要であり、左様な時空転位を成し遂げるためには常に自らの存在に対する疑義と変貌に向かう意思が肝要である。そうした意思を結晶させた俳句を挙げて見たい。
家族捨て魚になりたき寒夜かな
在ることのはかなき重さ遠花火
補助線を跨ぎこれより枯野人
端居てふ窮屈や世を踏み外す
身ぬちなる自分は他人桜餅
玉虫になると退職挨拶状
作者にとっての〈箱庭の夜〉とは社会的存在としての個人が群れから自己を取り戻すための思索の場なのであろう。日常生活で遭遇した様々なものを些事として無視するのではなく掛け替えのないものとして認識する事が作者の作句態度に通底している。
【鎮魂の誠】
作者自ら極私的なものとして位置付けている〈箱庭〉で想起された戦艦大和に関する三句は句集中で異彩を放っている。戦後七十五年が経過して、作者や私も含めて戦争を知らない世代にとって戦艦大和の悲愴な最期に到る連作は作者の反戦への意思の強さを物語る。
「水底の黄泉比良坂」の措辞は深い鎮魂の誠の証左である。
菊水を舷に涼月添ひにけり(四月七日出撃)
左舷より菊の御紋にわたくし風(豊後水道通過)
水底の黄泉比良坂月を待つ(鹿児島沖轟沈)
【闘病】
ステージⅢとてみつ豆の甘さかな
月天心アポトーシスの始まりぬ
ガン病棟へ寒一灯の力寄す
闘病の様子をモチーフとした俳句はご自身の事なのか、ご家族や友人なのかは別として読み手の心に鋭く刺さり込む。ガンの進行状態を示すステージⅢ、厳しい現実に直面したればこその蜜豆の甘さ。ガン遺伝子の増殖を抑制したり、アポトーシス(細胞死)を誘導するガン抑制遺伝子の研究が進んでいると聞く。中天高く輝く月の光に照らされてこそアポトーシスへの期待が高まるのであろう。更に「寒一灯」の凝縮された光はガンとの闘いを勇気付けてくれる。
【心象の淵への沈降】
〈箱庭の夜〉で只管思いに耽る作者の脳裏には現実から心象世界の淵へ沈降・転位する梯が明滅している。覚醒した幻想性ともいうべき繊細な感受性が光る。
花透くや母胎の中のうすあかり
寒月や羊水にたつ波の音
炎天や一人ひとつの影に佇つ
【スケルツォ】
〈箱庭〉での思索の時の流れに時折出現する軽やかで諧謔味に溢れた句もまた味わい深い。
老衰をひたすら思ふ海鼠かな
瑠璃天に海鼠は小言を云ふらしい
ジュースとは粉末でした夕すずみ
【凱風快晴】
季節感に溢れた爽やかな句に接すると樹海の先の赤富士と鰯雲を描いた葛飾北斎の名作「凱風快晴」から受ける感動にも似て晴れやかな気分になる。
葉脈に水の力や春キャベツ
あら塩は地中海産秋刀魚焼く
秋空へつづく白線引きにけり
「あとがき」で作者は「令和元年の節目に取りまとめた当句集は、平成における私的記録そのものであり、私にとって備忘録とも言えるものである」と記しているが、「箱庭の夜」には満たされぬ魂の持ち主である作者の常に対象と真摯に向き合う美意識が感知される。
2020年9月11日金曜日
〔新連載〕【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】1 「平成の微光」―眞矢ひろみ論― 松本龍子
眞矢氏の第一句集『箱庭の夜』は令和二年三月にふらんす堂から発行されている。収録内容の内訳は第一章〈認知〉六十八句、第二章〈決意〉七十六句、第三章〈追求〉八十六句、第四章〈賛美〉七十句、三百句が入っている。この四章の題名はジョン・コルトレーンのアルバム『至上の愛』を参考に制作年順を解体してタイトルごとに再構成して収録している。
では各章の作品を任意に抽出しながら『箱庭の夜』を見ていくことにしよう。
まず、第一章で〈認知〉を象徴している句の観賞をしてみようか。
鋭角に昏きをくぐる初燕
菜の花や汽笛は遠くぼうと鳴る
もう合はぬデニムの陰干し修司の忌
父ひとりリビングにゐる五月闇
秋空につづく白線引きにけり
秋空へつづく白線引きにけり
一読、「詩情」を感じる。秋の澄み切った空までつづく白線を引いているという句意。甲子園の試合前の準備のために、係員が白線を引いている光景か。それとも運動会の準備のために先生が徒競走の白線を引いているのかもしれない。作者は先生の視線に同化して一緒に雲の上まで舞い上がり、裸足で白線の上を駆け抜けている。
次に、第二章で〈決意〉を象徴している句の観賞をしてみよう。
浅春のオムライスの天破れゐる
花透くや母胎の中のうすあかり
太古より石楠花揺らす虚なるもの
青のない色鉛筆や原爆忌
浮き沈む豆腐のかけら冬銀河
花透くや母胎の中のうすあかり
一読、「静謐な囁き」が聞こえてくる。遠い記憶の母胎の中の薄明かりのように、桜の花が透き通って美しいという句意。三島由紀夫が『仮面の告白』で子宮に居た記憶を書いていたが、これもそんなデフォルメされた「記憶」なのだろう。〈母胎の中の〉が淡いトーンを想起させる。
さらに、第三章で〈追求〉を象徴している句の観賞をしてみよう。
春の月墜ちるものみな縁取らる
父の日や灯を背にすれば父の影
在ることのはかなき重さ遠花火
迎火に翳まだ人のかたちして
補助線を跨ぎこれより枯野人
迎火に翳まだ人のかたちして
一読、祈りの「浮立」を感じる。〈迎火に〉は陰暦七月十三日。盆に入る夕方、先祖の精霊を迎えるために門前で焚く火のこと。その迎火にまだ〈人のかたち〉をしている〈翳〉が出ているという句意。生者が死者の魂をいかに思い出すかによって、〈翳〉となり光となって輝くのだろう。死者を忘れないとうことは自分の原点を忘れないということである。
最後に、第四章で〈賛美〉を象徴している句の観賞をしてみよう。
薄化粧の兄引きこもる修司の忌
道をしへ死んでゐることをしへられ
大いなる余白を晒す無月なり
月守にならぬかといふオムライス
水音の言葉となりぬ初寝覚
道をしへ死んでゐることをしへられ
一読、「声なき声」が聞こえてくる。個人的にはこの句集の中で一番好きな句である。〈道をしへ〉は山道にいて、人が近づくと飛び立ち、先へ先へと飛んでいくのでこの名がついた昆虫。〈死んでゐること〉は死について自分の意識の中で見届けられない状況を表している。実は既に亡くなって子孫たちの「守護神」として良い道を教えていると解釈できる。東日本大震災で亡くなった人たちにはこういう「霊魂」が多いのではなかろうか。
第一句集には作家の全てが入っていると良く言われる。眞矢氏自身の言葉によると「平成における私的記録そのものであり、私にとって備忘録とも言えるものである」と平成という日本の「衰退の時代」を生き抜いた〈魂の変遷〉が収められている。
では、平成の〈私的記録〉ならばそれを象徴する「キーワード」が盛り込まれた句を拾ってみようか。
父と子とコンビニ弁当初茜(認知)
摘み草や時給換算するJK(決意)
逆張りのミセスワタナベ明易し(決意)
夕月夜アイフォンシックス解体す(決意)
外灘にかげろふブラックスワンかな(追求)
立夏たりユニクロに立つ父の霊(追求)
あえかなるテロの予感や百舌鳥の舌(追求)
スマホみな閉じゆく音といふ淑気(追求)
愛国を語るJK夢違え(追求)
春の宵おひねりが飛ぶ空爆も(賛美)
ガン病棟へ寒一灯の力寄す(賛美)
掲句を味わってみるとモチーフの鮮度、鋭い社会批評、大衆分析を感じる。作者の「時代の気分」を見届けようとする「新しみ」への挑戦と「風雅の誠」を高く評価したい。しかし試行錯誤のために、任意で抽出した平明な佳句に比べると「開放性」に欠けるきらいがある。レトリックを使用する場合、「キーワード」に字数を取られ「矛盾・誇張」に無理が生じることで、形式の構造的な問題に直面している。俳句が〈日常詩〉ならば、「時代の季語」の発見という方向もあったかもしれない。
最後に、作者の顔が見える「前書き」のある句を拾ってみよう。
悼 金子兜太
「やあ失敬」と朧月夜を後にせり(認知)
石槌山、愛媛
天に打つ峰雲はるか石の槌(認知)
高野山、和歌山
大人小人御霊ひとしく御意のまま(認知)
戦艦大和、四月七日出撃
菊水を舷に涼月添ひにけり(決意)
ドナウ川、ハンガリー
爽やかに血肉流る筑前煮(決意)
上海、中国
外灘にかげろふブラックスワンかな(追求)
戦艦大和、豊後水道通過
左舷より菊の御紋にわたくし風(追求)
悼 澤田和弥
かげろふの無方無縁の海に翔ぶ(追求)
戦艦大和 鹿児島沖轟沈
水底の黄泉平坂月を待つ(追求)
退職挨拶状
月守にならむ産土に還るまで(賛美)
ボカラ、ネパール
闇汁の闇の内なる神々よ(賛美)
これらの句を眞矢氏の「人生の景色」として眺めると朦朧としたフィルターをどう読みとればよいのか。〈魂の季節〉とでも呼ぶべき謎の秀句が並ぶ。特に異様な光を放っているのは〈戦艦大和〉の出撃から轟沈までの句である。
眞矢氏の言葉では「川崎展宏の〈「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク〉を「本歌取り」として連作のモチーフにした」ようである。この句と攝津幸彦の〈南国に死して御恩のみなみかぜ〉を触媒にして「付け句」を施したところに秘密がありそうである。
作者も私も昭和の高度成長の中で学生時代を送り、企業人としてバブル、二度の大きな震災を経験した。何とかこの時代を駆け抜けてきた印象は平成に入って日本人は「余裕」を失い、日本自体が「縮小」してしまった。その意味で〈戦艦大和〉は象徴としての一個の日本人の「魂の形」と言えないだろうか。
句集『箱庭の夜』は「縮小」した平成の日常空間を離脱した「灯火」とも言える。心理学的には「潜在意識」から反射する「いのちの微光」なのだろう。私の眼には『箱庭の夜』から立ち昇る雲気の中に作者の「昭和の心象風景」、つまり「生の原郷」が透けて見えてくる。