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2019年12月13日金曜日

句集歌集逍遙 バームクーヘンでわたしは眠った もともとの川柳日記/佐藤りえ

本書は春陽堂書店のホームページで1年間連載された『今日のもともと予報』をもとにした、柳本々々さんの川柳と短文、安福望さんのイラストレーションからなる本である。ちなみに現在おなじ春陽堂書店のホームページで「週刊もともと予報」が連載されている。

副題が「もともとの川柳日記」ということで、ページ(または見開き)ごとに冒頭に川柳が1句、それに続いて日記本文としての短文が続き、安福さんのイラストレーションが伴っている。文章の長さはまちまちで、20文字足らずのこともあれば、600字を超えているところもある。日記の内容は「したこと」や「考えたこと」「思い出したこと」「ひとから聞いたこと」など多岐にわたる。その日の出来事、というより、柳本さんの脳内で絶えず流れている川から、その日にひょいと掬われた水なのだろう、と思う。

そうした多岐にわたる話題、というか考えのなかに、これまた多岐にわたることごとが引用されてあらわれる。カフカ『審判』。フランソワーズ・ポンポン。浅沼璞。漱石。ベンヤミン。レムの『ソラリス』。映画『クレイマー・クレイマー』。ヒエロニムス・ボス。モリアーティー教授。チェーホフ『ワーニャおじさん』。
引用されるのはその日の本題となったことの背景だったり、きっかけだったりするものだ。

「もともとの川柳日記」は、日々を割り当てられた短いエッセイというのでなく、これはやはり日記だろう。肉体を以てしたことのみが日に記すべきことであるはずがなく、繰り返しになるが、脳内で絶えず流れている川から汲みうるその日の水が、ここには脈々と記されているのだろう。

短文そのものが詩のような箇所も随所にみられる。

わたしは、またうそをつきそうになる。
うそはつきたくなかったから、わたしは、
星ひろう。なんでもひろわないでねときみにいわれる。「はい」とこたえる。
(9/11)

ひらがなの多い表記を読み違えないよう、拾うように読んでいくと、「なんでもひろわないでね」が窘めを含意しているように見える。「なんでもひろわないでね」を「なんでもない」に見間違えそうになる。たどたどしく読んでいく時間感覚が、直前の「星ひろう」「「はい」とこたえる」のさっぱりした時間感覚と拍子が違って、時計が狂ったような異次元感覚を味わう。

安福望さんのイラストレーションが本書を絶妙に彩っている。イラストレーションは全ページに添えられている。単純にその物量にも驚く。
安福さんの絵は鉛筆のような軽快なタッチの明確な線と、透明水彩や色鉛筆の、透明度の高い色彩が特徴的だ。線は明確なのにフォルムがどこか曖昧でおもしろい。熊、栗鼠、人間、猫、なにかを被った生き物っぽいものなどが、広大な色彩のなかに、わりあい小さくあらわれることが多い。

透明水彩は発色が美しく、明度の高い色や淡彩が幅広い表現を生み出すものであるが、同時に色面にムラができやすく、筆触のあとが残りやすい。そうしたムラ、にじみが画面にいろどりと生き生きした感じを与えているのが興味深い。

人生の間隙を突いて読むのによい本、と直感する。
ちょうどこの年の瀬、クリスマスをひかえて、また、クリスマスを越えて、年の瀬をかみしめて読むのに適していると思います。
最後に好きな句をいくつかひきます。

あまいだめなにんげん
(苺のにおいがしてる)  (8/3)
へー魂にも歯があるんだ  (10/3)
秋のポテトサラダ女の子が好きな女の子  (11/14)
春という汚い手書きで始まる詩  (3/1)

(春陽堂書店)2019年8月28日刊

2018年10月26日金曜日

【100号記念】思い出すことなど(1) I thank youありがとうあなた   北川美美

※サブタイトルを <I thank you ありがとうあなた> とした (2018.11.15)

100号。 

BLOG俳句新空間としてスタートした2014年10月17日に筑紫さんの<創刊について>掲載があり初心に戻ることが出来ありがたい。この日の俳句時評に外山一機さんと堀下翔さんの名前があり、現在は休載が続いているが俳句時評の筆者の皆さまの名前が躍動感をもって蘇ってきた。

思い起こすと、時評欄は、「詩客」当時の高山れおなさん選出のメンバーに声を掛け、承諾してくださったのが外山一機さんと湊圭史さんだった。

現在、外山一機といえば、“時評”というイメージがある。社会的事象あるいは事件と現行の俳句を結びつけ、創作の根底にある時代背景を記録する視線は今も変わらない。群馬県出身と伺っているので、上毛新聞記者から作家に転向した横山秀夫が少しタブる。俳句社会小説…が生まれてくるのか否か…。あくまで個人的妄想。

湊さんの時評にはトレンディ情報が盛り込まれ、将棋の電脳戦や英語俳句の回などが思い出される。ふと英語俳句からオノヨーコの人気詩集「grapefruits」を書棚から出してみて読み直す機会が持てた。オノヨーコの詩は俳句の音律が元になっているのかも、と気が付く。オノヨーコの80年代個展「踏絵」のときに作品に書が含まれ、それに関連して御本人が学習院時代に俳句を詠んだということを話されていた。私の中での湊さんはオタク感とオシャレ感の狭間をさわやかにゆくウィットに富んだ筆者像がある。

時評とは、筆者と読者のチャンネルが一致する時、面白いのだと思う。そのツボは狙ってハマるわけでもなくハマる。俳句や川柳の人の文章は、物を見るその視点が面白いのだろう。まぁいわゆる変な視点なのだろう…。

湊さんの後任をしばらく探していたところ、邑書林の島田牙城さんから高校生で書ける青年がいるという情報を頂き、連絡をとってみたのが、旭川から上京する前の堀下翔さんだった。高校生とどう接してよいのか緊張したことを思い出す。いろいろなやり取りの後、書いてみたい、という前向きな回答をいただき、大学生の俳句時評がはじまった。

堀下さんが大学一年生になった直後の2014年4月25日が初掲載だった。その後、堀下さんは石田波郷俳句賞の新人賞を受賞され、狛江にお祝いに出向きそこで初めて堀下さんと挨拶し、会場にいたたくさんの参加者は、現在”若手俳人”とテレビでお見かけしたりする。堀下さんは現在、大学を卒業されて研究課程にすすまれているようだ。

堀下さんが時評を書く二あたり質問をした先輩に外山一機さんと松本てふ子さんがいらしたらしい(とお二人に伺った)。時評師弟関係ともいえ素直に質問できる純心な素質が堀下さんにはあるのだろう。時評には堀下さんの洞察眼ともいえるスナイパーさとそれにともなう研究心が伺える。特に文法を踏まえた読みは信頼が持て、末は俳文学者なのか…と堀下さんの創成期に当時評欄で活躍していただいたことが読者の皆様の記憶の中に残るといいなと思う。ご本人所属の同人誌「里」での俳句時評は一冊にまとまるらしい。おめでとうございます。

そして、外山さんの後に、登場していただいたのが柳本々々さんだ。柳本さんは兎に角、文章が淀みなく湧き出てくる。ツイッターを通してあるいは葉書などに絵を描かれて送ってくださったりする。柳本さんの文体あるいは絵からなのか、私の中では、文章を読み始めると水森亜土的なわくわく楽しい世界が広がる。柳本さんは、ご自身が命名された<短詩時評>、そして<およそ日刊俳句新空間>を場として気に入っていただけたようで、それはもう沢山書いて頂きました。いまでも楽しく拝見しています。

俳句が俎板に乗る”評”…という目で読まれる時評ゆえに書き手に緊張が伴う。

執筆者の皆様のご尽力に感謝申し上げます。
そしてたまに俳句新空間を思い出していただけるとありがたいです。

※各執筆者の名前でタグ検索するとその執筆者の記事が読めます。

2017年5月5日金曜日

【短詩時評40】ちょっと気になっただけです/柳本々々

「現代俳句協会創立70周年記念事業 青年部第149回勉強会 【読書リレー「ただならぬ虎と然るべくカンフー】」において田島健一さんの句集『ただならぬぽ』を読ませていただくという機会をいただいた。そのときの経験から、〈俳句を読む〉という行為をめぐって、のちに、断片的に、さまざまなことを思った。これはその、後日にあらわれた〈俳句を読むこと〉と〈読むこと〉をめぐる「ちょっと気になっただけ」の断片である。

    *

自分にとって色川武大という存在は長い間凄く大きな存在としてあったが、ただ色川武大をどう読めばいいかわからずずっと色川のそばをただ何年もうろうろしていた。田島健一さんの句集を読む作業を通してとつぜん色川の読み方がわかったが、しかし俳句を通してわかる小説表現とはいったいなんなのだろう。俳句を読むという行為は、なにか、ひとの、読む経験を、変質させてしまうようなところがあるのだろうか。〈読む〉ことそのものをとらえかえしてしまうような。俳句を〈読む〉行為は、〈読むこと〉そのものを〈読み直す〉ことにもつながっているのではないか。わたしが、読み直される。

    *

そもそも、ものが「見える」というのはある意味で幻想なんです。たまたまそういうふうに「見えて」いる。「見えてしかたがないもの」があって。意味のレベルじゃなくて、泥んこ。/田島健一『オルガン』2号、2015年」

    *

橋本直さんの岡村知昭さん句集『然るべく』の講座をきいていてはっとしたのが、橋本さんがそこで〈読むことをしくじる可能性〉のような事を話されていたことだった。うまく読むことはできるかもしれない。しかし、うまく失敗しながら読むことはどのように到達できるのだろう。俳句はそれを時に要請する。俳句を、うまーく読んだときに、俳句は、こう言うかもしれない。おまえそれちがうよ。おまえそれなんかちがうよ、と。わたしは、聴いている。

    *

わたしは小さな田舎町を散歩していた。突然私は心臓部に強い衝撃を受けた。それは事物の境界を崩壊させ、定義をばらばらに分解し、事物や思考の意味をなくさせてしまった。わたしはつぶやいた。これ以外に、これ以外に真実はなにもないのだ、と。/イヨネスコ『過去の現在 現在の過去』」

    *

だから私が今回現代俳句協会のイベントでいちばん勉強になったのは、読むこと、読みの経験とはどのようなものなのだろうということをとても考えさせられたことだった。多摩図書館でわたしはそれをかんがえていた。それはあの一日の一貫したテーマだったと思う。俳句を読む行為は、ふだんの読む行為をとらえ返し、再考させる。読む経験に変質を迫る。ときどき机につっぷしそうになる。人生でたった一冊でもほんとうに〈読む〉ことができた本があったのかどうか。いろんな本を読んだけれど。わたしは、耐えている。

    *

なぜ、私は読んだらそれについて何かを言わなければならないと思うのか。私は何かを言うために読んでいるのか。なぜ、 黙って、反芻するようにただひたすら読もうとしないのか。/山城むつみ「文学のプログラム」」

    *

生駒大祐さんが私の隣で「この句を《ただたんに》読むこともできると思うんです」と言われた時に、山城むつみと小林秀雄の事を思い出した。数年前にこの時評で書いたのだが、読むということは、読むことをいったん放棄することであり、書き写すことなのではないか。それはボルヘスもドン・キホーテを通して語っていた。メナールさんを通して。メナールさんが提出していた《ただたんに》の経験。読む、とはときに、読まないこと、読むことをしくじらせながらたどりつくということ。生駒さんは言う。「たまねぎを切る。ただたんに見る、たまねぎの切った断面をただたんに見る。ちがいますか」 私は、聴いている。

    *

白鳥定食いつまでも聲かがやくよ/田島健一

    *

俳句を読む行為は、その読みの行為のなかに《失敗の経験》を含ませていく行為でもある。うまく読めれば読めるほど、失敗やしくじりが伸びしろとして広がっていく。その意味で俳句の読み手になる事は大失敗に自ら身を投じていく行為でもある。しかし実は読むことの原体験ってそういうものなのではないか。この読むことをめぐる失敗はどこかで消えてしまう。しかし、俳句はそれを想起させる。思い出せ、という。読むことの死をわすれるなと。田島健一さんの句集は、詩=死を思い出せ、で始まり、詩=死を忘れるな、で終わっていた。

    *

「白鳥定食は現実界そのものなんですよ」という小津夜景さんの言葉。「だからいつまでもえいえんに輝くんですよ。たどりつかないから」

    *

国際電話とは、いったいなんなのか。

    *

積極的に失敗すること、読むことの死にちかづくこと、それが詩に転轍されることというのはどういうことなのか。

    *

「もしもし。あの、すみません。やぎもとです」

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会場のいちばんうしろ、いちばん奥で、田島さんが聞いている。いちばん奥できいている田島さん。みずからが白鳥定食そのものとなって、ことばがたどりつくかたどりつかないかわからないおくで、季語のように、すわって、聴いている。

    *

鶫がいる永遠にバス来ないかも/田島健一

    *

「安福望さんに、『鶫』ってなんて読むんですか、ってきかれたときに、それは『ひよどり』って読むんですよ、って言ったんですよ。でも、後で調べたら『つぐみ』だった。だから、安福さんはいまでも『鶫』を『ひよどり』って読んでいるはずです。そういうことがあるんですよ。生きてると」

    *

「たとえば紅茶椅子というものがあったとしますよね。で、紅茶椅子を持ってきてくださいと言ったときに、はいわかりました、と言われて、持ってきてこられてしまったらまずいわけです。やばいなと思うわけです」と話すわたし。聴いている生駒さん。

    *

例えば村上春樹の『ノルウェイの森』の主人公は突然冒頭プルーストのように航空機の中で回想をはじめるのだが、しかし、かれはその回想から戻ってこられなくなる。〈かれ〉は、みずからの回想を読むことをはじめ、『ノルウェイの森』を語り、想起しているのだが、しかしその〈読むこと〉に失敗したのだ。回想に失敗してしまったひとりの男。ビートルズの「ノルウェーの森」の歌詞のように部屋にひとり取り残されたおとこ。

    *

かれの居場所は最終的には世界のどこにも位置づけられない電話ボックスのなかにある。そこからいますぐきみに会いたい、きみにどうしても会いたい、と愛するひとに呼びかける。かれは、回想を失敗し、回想を読むことも失敗し、場所の確保も失敗し、愛に失敗し、それでもどこでもない場所から呼びかける。もういちどやりなおしたい、読み直したい、と。

    *

どこに、ゆくのか。

    *

私は症状である竹の秋/阿部完市

    *

ホワイトボードに向かって田島健一句集における季語と現実界のイメージを図解するわたし。ふと手をとめて「キ語のキっていう字が書けないんですけど、どうしましょう」と困った顔をして生駒さんをみるわたし。生駒さんが指をさしだし、宙に書いてくれる。、と。

    *

白鳥定食いつまでも聲かがやくよ/田島健一

    *

このしくじりながらも呼びかける行為は、俳句を読む行為にも似ている。変な話だが、俳句を読む行為と村上春樹『ノルウェイの森』(を読む行為)は似ている。あらゆる失敗や挫折を経験したどりついてしまったそのどこでもない場所から、それでもこう読みましたこう読むしかなかったんですよと呼びかける行為。

    *

凄く乱暴に言うと、俳句主体と初期の村上春樹主体は〈ぼんやり〉や〈僕にはわからない〉〈やれやれ〉などの理解への到達しがたさが少し似ているところがあるんじゃないかと思ったりする。「古池や蛙とびこむ水の音やれやれ」と村上春樹も言っていたような気がするのだ。ただ、これは。ちょっと気になっただけです。

    *

「--私自身、よくわからないのです。私はいつも理屈で筋道をつけようとしないものですから、気持の中をご説明できません」
医者は小さく頷いた。/色川武大「狂人日記」」

    *

ここには、わけのわからないことが、いっぱいあるわ。だけど、ほんとうは、なんでもじぶんのなれているとおりにあるんだと思うほうがおかしいのじゃないかしら?/ムーミンママ「ムーミン谷の夏まつり」」

    *

鴇田智哉さんの句に「人参を並べておけば分かるなり」がある(池田澄子さんのピーマン句、田島健一さんの玉葱句と比較すると面白いかもしれない。鴇田さんは野菜を並べて有無を言わせず「分か」らせる)。この「分かる」の「やれやれ、世界はなるようにしかならないのだ」感は村上春樹のような奇妙な世界肯定感がある。

    * 

村上春樹の初期の小説がもつ〈気分〉、たえずさまざまなことを理解しそこね失敗しながら、たどりついてゆく場所にたどりついてゆかざるをえない〈気分〉、それは俳句を読むことに少し似ている。「ねじまき鳥と火曜日の女たち」の僕は妻との関係に失敗し猫をさがすことに失敗しなにか致命的な事柄になんとなく失敗する。

    *

ワタナベ・ノボル
 お前はどこにいるのだ?
 ねじまき鳥はお前のねじを
 巻かなかったのか?/村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」」

    *

読むことと失敗をめぐる経験。俳句を読むことと失敗をめぐる経験。でも。これは。

    *

ちょっと気になっただけです。




2017年4月16日日曜日

【短詩時評39話】安福望さんと柳本々々で個展「詩と愛と光と風と暴力ときょうごめん行けないんだの世界」でギャラリートークとして話したこと/やぎもともともと

今、帰りの新幹線なのですが、きょう(4月15日土曜日)イラストレーターの安福望さんの個展でギャラリートークをしてきました。場所は大阪の北浜、NEW PURE+です。

うまく話せたかどうかわからないところがあり、だんだんわたしも話しながら、(わたしはつまらないことを話しているんじゃないか)と思い、「すいませんわたしはもしかしたらつまらないことを話してるかもしれません」と謝ったりもしたのですが、ただやすふくさんは興味深いことを話していたような気がするので、何点かその話の要点をまとめてみようと思います。

ひとつは、やすふくさんは、主に短歌をもとに絵を描いているのですが、展示になると少し変わった心境になると言います。なんというか、言葉に対する違和感がでるというのです。言葉をどう配置したらいいのかたいへん悩むそうです。ただすっきり納得したことがあって、それは神楽坂の展示のときに、壁そのものに直接言葉を書きつけられたときだそうです。

それって、でも、壁に文字を書きつけるのだから、もう文字というより、壁の染みというか、壁の絵、壁画みたいになるっていうことですよね、ことばが。このやすふくさんが納得できたという壁画という観点は、もしかしたらやすふくさんの絵を見直す観点としてもきょうみぶかいのかなとも思いました(ある意味、《野蛮》ですが、しかしやすふくのぞみの性質は《野蛮》というキーワードもあるのかもしれません。ゲリラやアナーキーでもいいですが)。

やすふくさんの絵は、緻密なリアリズムで構成されているというよりは、桜があり、宇宙があり、熊があり、舟があり、男の子がいるという象徴的な操作がしゅんかんてきにわかるように構図が構成されています。これは、ツイッターでスクロールしながら洞窟の奥で壁画でもみるように、火のなかで、ゆらめくなかで、ぱっとみたときでも把持できる象徴表現としての絵です。やすふくさんの絵はもしかしたら壁画的なんじゃないだろうか、あなたもしかして壁画画家(へきががか)なんじゃないですか、と思いました。「へきががか!?」

そうすると、なぜ動物とひとがあたかも対等に一枚の絵にいすわっているのかもわかるような気がするんじゃないかと。昔の、神話的な思考のなかで、考えることもできるんじゃないかと。これはトークのなかでの直感ででてきた話なので、あくまでひとつのアイデアですが、やすふくさんが壁に親和性を見いだしていたのはおもしろいなと思いました(ちなみにギャラリーのオーナーの方もたまたま中沢新一さんの話をされていたのもきょうみぶかかったです)。

もうひとつは、すこし関係していますが、やすふくさんの絵のひとと動物、おとこ、おんなは、支配/被支配の関係がないんじゃないかということです。これは、トークのなかで、やすふくさんの絵における男らしさ・女らしさってなんだろうという話がでたなかでのことですが、やすふくさんの絵にはそうした男らしさや女らしさがどこか解体されている感じがあるんじゃないだろうか、だとすれば、それは、支配する側と支配される側の関係が明確に描かれない、熊とひとが並んだり、おとことおんながせなかあわせになっていたり、そうした関係のあいまいさをそのままに描いているからじゃないかという話になりました。

ジェンダーが明確に打ち出されるのは、おそらく、支配/被支配の関係がもっとも強く打ち出されたときだからです。

やすふくのぞみの絵における《らしさ》の所在はどうなっているのか、という問い。女らしさ、男らしさ、ひとらしさ、動物らしさ。

まとめると、トークで話した少なくともふたつの話題は、安福望はほんとうに《紙》に描いているのか、もしかしたら《壁》に描いていたんじゃないかという言葉とイメージをめぐるメディアを含めた問い直しがひとつ。もうひとつは、やすふくさんの絵のなかにおける支配する者と支配される者の関係は解体されているんじゃないか、まったいらな世界なんじゃないかという《らしさ》をめぐる問いかけがふたつめです。

もうひとつ、最後につけたすと、やすふくさんは、「思っていることをしていない」というマルクスのような複雑なことばをさいごに発言していました。これにはわたしも驚いていったいこのひとはなにをいうのだろうと思いましたが、ただ《思っていることをしていない》ことで、複雑な内面のねじれをたたえながら、シンプルでぱっとつかまえられるやすふくリアリズムが絵として展開されているのはとてもきょうみぶかいと思いました。中沢新一さんやレヴィ=ストロースが言うように、トーテムポールや昔話や神話のなかのいっけんシンプルな関係が、複雑な構造をおりなしている場合があります。

そういう、アースダイバーのようにイメージの古層にもぐりながらやすふくのぞみの絵をかんがえることもできるのではないかと、いま、名古屋を過ぎながら考えています。

来てくださった方、最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。


●宣伝【柳本々々×安福望の本】

2017年5月1日発売予定
予約受付中‼


内容紹介
ツイッターのDMでの会話を本にしました。
御前田あなた@anata_omaeda(柳本々々)と食器と食パンとペン@syokupantopen(安福望)の会話辞典


柳本 にゃにゃあだって伝わるかどうかわからないものね。

安福 にゃにゃあも伝わることあるかもしれないですね。一回だけとか。

柳本 じゃあ、コミュニケーションは奇跡なんだ。

「にゃあにゃあ」
裏表紙より


ブックデザイン:駒井和彬

著者について
柳本々々(やぎもと もともと)
1982年新潟県出身。岩田多佳子『ステンレスの木』、野間幸恵『WATER WAX』、竹井紫乙『白百合亭日常』、『猫川柳アンソロジー ことばの国の猫たち』、徳田ひろ子『青』、中家菜津子『うずく、まる』等の著作に寄稿。

安福望(やすふく のぞみ)
1981年生まれ。イラストレーター 『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』

2017年3月31日金曜日

tanshijihyo 38/758/yagimotomotomoto

  


五七や七五を日本人の生理的リズムだとする幻想はみんなで嵌る落とし穴としてあります。歌人たちも、高校での教育の現場も、短歌を考えたりおしえたりするうえで、五音や七音が日本語の詩にとって自然だ、生理的リズムだという考えを出発点とします。けれども、……ほんとうにそう断定してことを進めてよいか、五音や七音が日本語の詩によって生理的だという「リズム」論には、決定的な証拠が何もありません。この思い込みをうたがうことから開始しなければ、さきは望めない、と思います。七と言い、五と言い、すべては文化的、歴史的所産ではありませんか。詩的な携帯のために内在的に選びとられる文化的成立なのだというに尽きます。  (藤井貞和『構造主義のかなたへ-『源氏物語』追跡』笠間書院、2016年)

ちょっと今日は定型と指を折ること(数字)に関して考えてみたいと思うんです。

『川柳杜人』(253号、2017年3月)に飯島章友さんが「川柳と遵法」という定型とルールをめぐる論考を書かれていました。

飯島さんは任意で柳誌一冊を分析・集計し、その柳誌の句のなんと4割が「おおよそ五・七・五でないフォルム」ということを導きだしました。ただそれは飯島さんの「体感」としては「ごくごく一般的な割合」だとも述べています。

それには飯島さんなりの理由があって、たとえば五八五という中八になったとしても、たとえ2音の音であっても1音として素早く読んでしまう場合も多々あるからだと言います。たとえばわたしたちは「しんかんせん」の「せん」をわざわざ「せ・ん」とはっきり発音はしません。「しんかんせ(ん)」と読む場合もあるからです。

そして飯島さんは小池光さんの「短歌にあっては、4+3≠3+4なのである。数学でいう共約役関係は成り立たない」という言葉を引いて、「マツモト/キヨシ」と「キヨシ/マツモト」の音のリズムは同じではないということを紹介しています。たしかに口に出せばわかりますが、数字はおなじでもリズム感は違いますよね。となると、定型って指を折っていてはだめかもしれないわけです。

  ここで分かったことは、変格や準格は定型のバリエーションとして見なされる、ということ。たとえ正格でなくても定型なのです。もはや、最近五・七・五定型が乱れている、などとはいえなくなりました。
   
(飯島章友「川柳と遵法」『川柳杜人』253号、2017年3月)

昔、ある鼎談で、わたしの記憶がたしかならば、斉藤斎藤さんが、短歌は指を折ってつくるものではないんじゃないか、と言われていたことがあって、それがずっと忘れられないんですね。どういうことなんだろう、とずっと考えていて。ふつうは短歌をつくりはじめるとき、指を折って、57577をちゃんと数えてつくりはじめますよね。でも、そうでもないらしい。その答えが飯島さんと小池さんの上の説明にあるような気がするんですね。数はおなじでも音律は違う場合がある。

片山由美子さんが「字余り」いついてこんなふうに書かれています。

  字余りはどこまで許されるのでしょうか。ひとつの目安になるのが、四分の四拍子三小節ということです。一拍に二音を当てはめると一小節は八音、全体では二十四音になります。
  (片山由美子『俳句のルール』笠間書院、2017年)

これはおもしろいですよね。俳句って575の17音に見えるんだけど、実は、口に出して唱えているときは、888の24音になっているということなんです。なんでかというと、定型のリズムは休止がつくるものであり、俳句を口にだして読むときに休みの音もそこにちゃんと入れて読んでいるからです。

だから、もし字余りの場合でも、24音以内であれば、

  字余りは、文字通り余ってはみ出すという印象を与えますが、実際には圧縮されるのです。長いフレーズは速く言う、そのことに尽きます。
 (片山由美子、同上)

となると、指を折ってつくるというよりは、どういう速度やリズムをつくりたいかが定型詩をつくるときに必要なんじゃないかということがだんだんわかってきます。

たとえば定型内部の独特なゆれのリズムを言わば不安な生命感覚のようにうみだしている歌人に岡野大嗣さんがいます。

  ひやごはんをおちゃわんにぼそっとよそうようにわたしをふとんによそう  岡野大嗣
   (「わたしだけのうるう」『大阪短歌チョップ2 メモリアルブック』2017年2月)

  ひやごはんを/おちゃわんにぼそ/っとよそう/ようにわたしを/ふとんによそう

わたしなりに区切ってみたんですが、一見定型にあてはまらなそうにみえて、67577とほぼ定型どおりになっています。だから実は定型からそんなにぶれていないんですが、6音の不安な出だしから「ぼそ/っと」で定型がまたがっていくあたりで不安なリズムが増幅される仕掛けになっています。定型のゆれていく使用=仕様によって、「ひやごはん」的生の不安でしかし凝り固まったありかたが醸成されています。これは定型の内部のゆれのリズムとして考えることができるんじゃないかと思うんですね。

また飯田有子さんのこんな短歌があります。

  たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔  飯田有子

  たすけてえだげね/えさんたすけてに/しかわもうふのた/ぐたすけてよなか/になでまわすかお

と88888になっています。88888なので、さきほど片山さんが書かれていたように非常に早口で息せき切って読まなければなりません。しかしそのせいで、性急なヘルプな感じがとても強くでてきます。一首をすべて読むころには酸素も薄くなり、ほんとうにじぶんが助けてというかんじになる。ひっぱくします。

もしかしたら飯田さんのこの歌は、意味内容で解釈する歌ではなく、純形式的な歌ではないかとおもったんです。意味ではなくて、形式の歌だと。形式が「たすけて」と言っている歌なんだと。リズムが「たすけて」といっている。

こんなふうに定型というのは実は指を折っていてもアクセスすることのできない〈なにか〉の場合もあります。そしてそうした定型自身が〈なにか〉としてつねにうごめいているからこそ、その奥にふおんな〈なにか〉が生まれるのかもしれません。

たとえばそれは、青木亮人さんが描いたような、到達できないなまなましい〈なにか〉です。ゆびの、もっと、おくの。おく、の。

  作者が考えた唯一の正解はどちらかでなく、どちらも混じりあいながら生々しく読者に迫るのが「俳句」といえます。単に五七五や季語のある句でなく、何か奇妙なものの発見や一種の驚き、違和感やずれのような実感がやけに漂う作品であり、それまで当然と信じ、疑問に感じなかったことが何かの体験を契機に「…?」と感じ、常識や先入観が不安定に陥った瞬間の生々しさが読者に伝わってくる、その《何か》が宿っていれば「俳句」であり、自由律や無季句でもそういう手触りがあれば「俳句」である、とひとまずいえるでしょう。
  (青木亮人『俳句のルール』同上)





2017年3月18日土曜日

【短詩時評37戒】なかはられいこの覚悟、小池正博の十戒、表現者の決意/柳本々々

あれこれ本を読んでいると、たまたま違うひとが・同じ時期に・同じことを言っていた、というシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)に出会うことってありますよね。

このシンクロニシティは心理学者のカール・ユングが言っていた概念なんですが、ユングが人類の共通の基盤としての〈集合的無意識〉に眼を向けたように、偶然の一致というのは実はなんらかの背景や基盤が生成されているしゅんかんに起こるんじゃないかとも思うんです。なにかの背景が生まれているときに起こるものだと。

今回わたしが川柳においてみたのは、なかはられいこさんと小池正博さんの発言におけるシンクロニシティでした。

名古屋市のねじまき句会による『川柳ねじまき』3号が2017年1月に発刊されました。

  完璧な春になるまであとひとり  なかはられいこ

  つつつつつ、つっつっつっつあと少し  中川喜代子

  この町を毎日去っていく電車  瀧村小奈生

  幸福の王子の足もとに眠る  妹尾凛

  クリストファーと名付けたくなる朝がある  魚澄秋来

  ゴミ入れるゴミ箱もゴミ年の暮れ  安藤なみ

  湯気の中鎌倉大仏座り込む  犬山高木

  完成までカーブが続く枯野原  青砥和子

  おたがいの白の深さをたしかめる  米山明日歌

  向き合ってきれいに鳥を食べる夜  八上桐子

  もう少しで中途半端にたどり着く  三好光明

  絶望が袋の中で動いてる  丸山進

  飛行機雲すっきり伸ばす股関節  猫田千恵子

  まずは資料請求たんぽぽ咲く国へ  二村鉄子

『ねじまき』のみなさん各人がみずからのワールドを展開されているので『ねじまき』の特徴を一言で言い表すのは難しいんですが、あえて言ってみるならば、〈悪意〉だと思うんですね。

これは私も今言ってみて意想外だったんですが、ただ今各人の連作を読みながら自分の気になる句を一句ずつ抜き出していくそのなかで、〈悪意〉を感じたんですね。これは誤解されないように急いでいうといい意味での悪意です。世界をずらす力としての悪意(ちなみに私は現代川柳と悪意の問題はとても重要なのではないかと考えています。悪意は表現の源かもしれない)。

たとえば上のなかでは、安藤さんや八上さん、丸山さん、三好さんの句がわかりやすいかもしれません。ただ例えばなかはらさんの春の句にしても、春に対する悪意とみることもできると思います。春に「完璧」を求めるなんてそれはひとつの悪意なんですから。悪意とは、世界を〈斜めから見る〉まなざしです。

ところで、今回の『ねじまき』は今までと違い、句会の実況中継をやめて代わりに「ねじまき句会を実況しない」というなかはられいこさん、二村鉄子さん、瀧村小奈生さんの三人が川柳を具体的に「読むこと」について話し合う記事が載っています(ちなみにこの「実況しない」というタイトルも特徴的ですよね)。この記事でわかるのは「ねじまき句会」が非常に「読むこと」を意識/重視している句会であることです。作る、だけでなく、読む、ということについてもあわせて考える。それもねじまきの特徴だと思います。

「ねじまき紀行」という記事のなかでなかはらさんのこんな発言が紹介されています。

  「かく」の平仮名表記が議論の対象になった。「書」という題でも「描」という題でも出せる句である点で、どちらかに決める「作者としての覚悟が足りない」というなかはら発言が飛び出す。

短歌や川柳では表現としてあえてひらがな表記にすることがありますが、それは文脈によっては「覚悟が足りない」と思われることがある。ひらがなが多様性として効果を発揮することもあれば、表現者の決意の有無の問題として問われることもある。

ここでは、表現者としての〈覚悟〉が問われています。わたしたちはなにかをつくる際にそれそのものだけでなく、それをめぐる〈覚悟〉をかたちづくる必要がある。

この〈覚悟〉について偶然まったくおなじ時期におなじような発言をしていた川柳作家がいます。小池正博さんです。『川柳木馬』(150・151号合併号、2017年1月)に「川柳の言葉をめぐる十五章」という表現者のための十戒のような記事を書いています。小池さんの言葉から箇条書きにして私がまとめてみたいと思います。

  1、俳句と川柳との混淆をどう考えるか。俳句と川柳の混淆については歴史的な経緯があり、それを踏まえることなく作句するのはいかがなものか。

  2、口語と文語をどう使い分けるか。口語文体とはいま使われている話し言葉そのものではなく、どのような口語を使うかについては意識的でなくてはならない。

  3、どの言葉によって一句は川柳になるのか。どの選択によって類想を打ち破るのか。

  4、連作と単独作をどのように使い分けるか。どのように連作としての時間意識をつくっていくのか。

  5、意味か、イメージか。理屈だけでなく、イメージで想像すること。大胆な飛躍もふくめて。そこに読みの可能性もある。

  6、川柳で一人称をどう使うか。一人称を安易に使用すると効果がなくなってしまうことがある。「俺」も「僕」もどっちも使いたい、でいいのか。

  7、その言葉は本当に自分の言葉なのか。これまでの先行く表現者たちががもうそれは言葉にしていたのではなかったか。

  8、下五で答えを出してもいいのか。答えは完結になりそこで閉じてしまうこともある。いいのか。

  9、メタファーの句はもう古くないか。メタファーの書き方は便利だが、もう古いと思う。

 10、家族詠をどのように詠むか。誰でも詠む題材にもかかわらずどう新鮮さを出すか。

 11、どのように同じ単語を二度使うか。反復の問題。

 12、川柳で二人称をどう使うか。「君」や「あなた」をどう意識して取り入れる/取り入れないか。

これらはあくまで小池さんの言葉から私がまとめたものなんですが、小池さんはこの記事の最後にこんなふうに書かれています。

  さまざまな川柳があり、さまざまな書き方がある。借り物ではない「私の言葉」を発見することは表現の出発点である。既にこういうものだと知っている「私」ではなく、言葉に現れてくる未知の「私」である。

ここにも私は表現者の〈覚悟〉への問いかけがあらわれていると思います。

なかはらさんと小池さんの二人の覚悟をめぐる発言からわかるのは、なにか。それは覚悟というのは大上段からふりかざすものではなく、言葉の細かさに宿るものだということです。

なかはらさんはひらがな表記の話を、小池さんは句作の上での語彙の選択や組み立ての話をしていました。

覚悟というのは決して表現者の内面や心情の問題ではない。そこに近いんだけれども、でもそうでもない。言葉を配列し、組み立て、構成していく際の細かな部分にあらわれてくるものだ。そうお二人が言っているように思ったんです。そしてその細かさがだんだんに重ねられ、体系化されていくことで、その世界観ができあがってくるのだと。それを決意と呼んでもいいかもしれない。

現代川柳が他ジャンルを意識しながら多様化していく過渡期に、あらためて表現者の覚悟をめぐる発言がなかはらさんと小池さんから時期をおなじくして出たことはとても興味深いことだと思ったんです。

だから、おもったんです。本を閉じたときに。家をでるまえに。書いておかなければ、と。

  魅力的な作品に出会うたび、その一句がどのような経緯で生まれたのかを知りたいと思う。どのように言葉が選ばれ、どのように言葉と言葉が繋がれ、どのように一句として立ち上がったのか。知りたくてうずうずする。
  読むことは愛なのだ。
   (なかはられいこ「秋の真昼の品定め」『ねじまき』3、2017年1月)







2017年2月10日金曜日

【短詩時評さんじゅうご】歌人・鳥居さんのドキュメンタリーを観ること-ひらがな、から-/柳本々々


  慰めに
  「勉強など」と人は言う
  その勉強がしたかったのです  鳥居

2017年2月7日、NHKで「NEXT 未来のために「響き合う歌~歌人・鳥居と若者たち」」という番組が放送されました(再放送です)。

で、私が以前から鳥居さんの歌でとても気になっている歌があって、

  けいさつをたたいてたいほしてもらいろうやの中で生活をする  鳥居
   
(岩岡千景『セーラー服の歌人 鳥居 拾った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語』KADOKAWA、2016年)

という歌なんですが、この歌のやっぱりいちばん気になる点というのは〈ひらがな〉が採用されている点だと思うんです。このなかで漢字なのは「中」と「生活」だけで、あとはぜんぶ〈ひらがな〉で綴られることによって〈現実感覚〉がない。「けいさつ」も「たたく」も「たいほ」も「ろうや」も〈むこう〉にあるできごとのように思います。

でも、「生活」という漢字が最終的にくることによって、この歌は「生活」が始まります。そしてその「生活」から遡行するかたちで「けいさつ」や「たたく」や「たいほ」や「ろうや」のリアルが出てくる。つまり、この語り手にはそれまで「生活」というものがなかった。もっと言えば、「中」といえるような〈シェルター〉がなかった。「中」も「外」もない場所で暮らしていた。

だから、ひらがなと漢字の差異もどうでもよかった。生活がない、というのはそういうことだから。ところが「けいさつをたたいてたいほしてもらいろうやの中」というシェルターに入れてもらったしゅんかん、「生活」が生まれ、ひらがなと漢字の差異をやっと〈気にかけることのできる〉安全圏に入った。だから、漢字変換することができた。

鳥居さんにとって〈生活〉とはなによりも〈文字〉であり〈書く行為〉なんじゃないかと思ったんです。

それでこのひらがななんですが、ドキュメンタリーの最初に鳥居さんの自己紹介文が出てくるんですね。ちょっと引用します。

  はじめまして。
  私の名前は 鳥居と 云います。
  私は 小学校中退で ホームレスで 孤児。
  とても とても 貧乏です。
  ……
  おばあさん と おじいさんは
  おかあさんを 虐待して
  おかあさんは、
  私を 虐待しました。
  おかあさんは、トラウマに苦しみ
  私が 小学生のときに
  灰色になって
  自殺してしまいました。

ここでちょっと注意してみたいのがやっぱり〈変換〉のありかたなんです。たとえば「鳥居と 云います」の「云います」は「いいます」でも「言います」でもなく、「云います」とあえて「云」という漢字が採用されています。変換が気遣われていることのあらわれです。

ところが「おばあさん」「おじいさん」「おかあさん」はひらがなであらわされ、のっぺりしています。しかも彼らが主語になってつく動詞は「虐待」という重い現実のことばです。ここには主語と動詞のあいだに奇妙なギャップがあり、読者は必然的にそこに注意を向けなければならなくなります。

ここにあらわれているのは上の短歌にもみられたような〈文字への気遣い〉からくる〈なにか〉です。その〈なにか〉はわからないけれど、しかし、文字変換のありかたの凸凹によってわたしたちは〈ここ〉でなにかを読みとらねばならないことを意識させられるように、思うんです。だとしたら、それは、なんなのか。

ドキュメンタリーのなかで鳥居さんが学生たちに述べられた言葉があります。

  この教室のみなさんでホームレスの人を見かけたことがないっていう人、手をあげてください。すぐそばにいるのに、私たちは、その人の世界を知らないですよね。自分が仲介者というか媒介者というか、役目が、使命があるんじゃないかなと思って。

鳥居さんはわたしたちがふだんきづいていながら・きづかないようにしていることに・きづかせようとしています。なにかの〈圧〉で。

〈仲介者〉になるとは、言葉の変圧器にみずからの言葉そのものを変えることもかもしれません。その意味で、〈ひらがな〉はわたしたちに〈圧〉のなにかを考えさせます。

ひらがな、ってなんだろうと、おもうんです。わたしたちは幼い頃、それしか知らなかったはずなのに、つかいなれていたはずなのに。そして、いまでも、つかえるはずなのに。


  目をふせて
  空へのびゆくキリンの子
  月の光はかあさんのいろ  鳥居



*短歌の表記は番組の表記にしたがいました。



NEXT 未来のために「響き合う歌~歌人・鳥居と若者たち~」》 NHKのサイト



  

2017年1月26日木曜日

【短詩・時評・3・4】オムライス・巨神兵・古仏・膜・グッピー・挫折・パチンコ屋・影・美少年・ゼリー・裸・意味-『川柳サイド Spiral Wave』の一視点-/柳本々々

  わたしの顔を見よ。わたしの名は「そうだったかもしれない」である。「もはやない」、「遅すぎる」、「さらば」とも呼ばれている。
  (アガンベン『涜神』)

小池正博さんが編集している柳誌『川柳サイド Spiral Wave』(私家本工房、2017年)が刊行されました。飯島章友さん、川合大祐さん、小池正博さん、榊陽子さん、兵頭全郎さん、わたしの各川柳30句が掲載されています。

  オムライスみんなこわくはないのかな  飯島章友「徘徊ソクラテス」

  巨神兵いい筋肉はやわらかく  川合大祐「インブリード」

  古仏から目玉が落ちる時刻だね  小池正博「人体は樹に、樹は人体に」

  膜という膜いもうとの紙やすり  榊陽子「ユイイツムニ」

  グッピーのピーが拡散されつくす  兵頭全郎「天使降る」

  挫折とプロフェッショナル挫折は違う  柳本々々「そういえば愛している」

で、ですね。この柳誌にはもう各川柳作品に加えて、小池正博さんが選出した「現代川柳百人一句」も掲載されています。その「現代川柳百人一句」に対して飯島章友さんが中村冨二の次の句を例にあげながらこんなことを書かれています。

   美少年 ゼリーのように裸だね  中村冨二

  わたしの認識からすると、冨二といえば「パチンコ屋 オヤ 貴方にも影が無い」を代表句とするのが定番なんです。正直、食傷気味になるくらい。だけど小池さんは、2010年代の「偏向」した目から冨二の代表句を選出しなおしたのだと思います。あくまでも推測ですが、小池さんが若い俳人や歌人と交流してきた経験から「いまならこれだ!」と敢えて掲出句を選んだ。そんな気がするのですね。
  (飯島章友「【お知らせ】「川柳サイド Spiral Wave」販売」『川柳スープレックス』(2017年1月20日)

飯島さんは「パチンコ屋」の句から「ゼリー」の句への〈定番〉の変更を「小池さんが若い俳人や歌人と交流してきた経験」からの「偏向」と書かれたけれど、じゃあ具体的になにが〈変わったのか〉を考えるのは少し興味深いと思うんです。それは今川柳というジャンルがどんなふうに動いているのか、どうみられようとしているかの一端があるかもしれないと思うからです。

たとえばこの冨二の句の〈変更=偏向〉を例に取るならば、

  パチンコ屋 オヤ 貴方にも影が無い  中村冨二

の句は〈実存的〉です。「影」があるかどうかというのはそのひとがそのひととして〈どう〉生きているかというそのひと固有の存在をめぐる問題なので、現実の存在としての、実存的な問題だと言えます。パチンコ屋にいるわたしにもあなたにも影がない。でもそのことを「オヤ」と指摘してきたときに、影のないわたしやあなたの存在感が逆説的に浮かび上がってきます。《ある・なし》が問題になっているからです。

一方で〈美少年ゼリー〉の句は、《ある・なし》が問題なのかではなく、《ある》こと、たとえば「美少年」の「裸」がどんなふうにさらなる《ある》ことへと《拡張・拡散》していくが問題になっています。実存的な問題はここにはなく、プレーンで平坦な「ゼリー」のような緩やかさがあります。存在のある・なしではなく、存在の拡張が問題になっている。ただし、「美」や「ゼリー」という修辞のようにそれは〈偏った〉拡張です。その意味でも「影」のような普遍性のレトリックではなく、〈偏った〉レトリックの句が選ばれているとも言えます。

まとめてみると、冨二の句の選出の〈変更=偏向〉からうかがえるのは、普遍的実存文学としての現代川柳を偏向拡張文学としての現代川柳へ移譲する試みと言えるかもしれません。偏向拡張というテーマを考えたときに、どうしてこの冊子のタイトルが「サイド」という〈偏り〉があるのか、〈スパイラルウェーブ〉という〈拡張〉があるのかがわかってくるような気もします(ほんとうのところはわたしもわからないですが)。

これはそもそも「現代川柳百人一句」じゃないか、冨二の一句だけからみて百句全体のことを言うなんて、と思われる場合もあるかもしれませんが、もしかすると現代川柳には、「影」という〈奥行き〉の追求だけでなく、「ゼリー」的な〈ずれ〉の探求というテーマも〈そもそも〉抱えていたのかもしれません(そういう現代川柳の〈ゼリー的な要素〉に気がついていたのは、川柳というジャンルの〈外部〉の人間が、たとえば俳句の小津夜景さんが川柳SF論として〈気づいていた〉のかもしれません。その意味で飯島さんが今回の〈選出の偏向〉を〈小池さんの他ジャンルとの交流〉の観点からとらえたのは興味深いと思います)。

現代川柳のゼリー性。たとえばおなじ「現代川柳百人一句」から。「思慕」が「意味」へと〈ゼリー〉のように変異する句。

  二週間経ったら思慕は意味になる  樋口由紀子
    (「現代川柳百人一句」『川柳サイド Spiral Wave』私家本工房、2017年)




2017年1月13日金曜日

新春特集 71/2 … 柳本々々、中家菜津子、竹井紫乙、野間幸恵、川合大祐、岩田多佳子、徳田ひろ子、安福望


新春特集 71/2



0/8・・・柳本々々

パレード  柳本々々

わたしが寄稿させていただいた7人の方々に作品をお願いし、各著作をめぐる制作話を自由に書いていただいた。7は7名の7に、1/2は私の拙句になっている。掲載順は、刊行順とした。

タイトルは、フェリーニの映画『81/2』のもじりだが、『81/2』では一見無関係なエピソードが時空を超えてつながってゆき、最終的にすべての時間を胚胎したパレードへとなだれ込んでいく。だから今回もパレードを志向している。

わたしはパレードが好きだ。街でパレードをみかけると、後ろにこっそり並んでついていく。ときどき、取り押さえられることもあるが、たいていは、パレードはわたしにかまわず、続く。わたしの後ろに歩きはじめるひともいる。そうすると、もう、わたしはパレードの正式な一員である。パレードはどんどん、過去に、未来に、長くなる。パレードはわたしに話しかけてくる。おまえの過去は、未来は、いまは、どうでしたか、と。わたしは、あるきつづける。それがパレードへの答えになるような気がするからだ。

パレードは、つづく。

歩きながらわたしはふとかんがえる。もしかしたら、川柳や俳句や短歌が並んだ句集や歌集というのはパレードなのではないかと。いやそれだけでなく短詩のアンソロジーというものはパレードなのではないか。

一見無関係な一句一句の、一首一首の、ひとりひとりの歩みが、歩いているうちに、列をなし、関係しあってしまうこと。

生きるということ、〈ただ〉生きるということは、パレードになだれ込んでいくことに近い。
生きているだけで、ひとはパレードになれる。

特集とは、特別に集める、ということなのだから、それはひとつのパレードになる。未来から過去からあつめられたひとびとのパレード。

パレードのいちばん後ろを歩いていたのはわたしである。あとがきを書くとはそういうことだと思う。うまく歩けるように、よそ見をしないように、はぐれないように、前をむいて歩いた。川柳、俳句、短歌、絵とジャンルはそれぞれ違うけれど、なんらかのパレード的な、広がっては集まっていく、ゆっくりとしたつながりがここにはあるように思う。短詩とはパレードではないか。それが今回の企画で言いたいことである。ただ言いたいことを言うために立ち止まると、パレードからはぐれてしまう。わたしは、歩きつづける。パレードは、つづく。


1…中家菜津子


   *やぎもとは詩歌集『うずく、まる』(書肆侃侃房、2015年6月)の挿絵を担当。


【短歌作品】


Library/書斎  中家菜津子


D.H.ロレンス 翻訳伊藤整 発禁本に*******(ゆきはふりつむ)

ちびくろと怒りの葡萄 ブラックのブックバンドで綴じてパレード

黄昏が(ぼくの車はよろよろだ、ドロレス・ヘイズ)文字、、を吸い込む

一部分塗り潰されたキンドルとあなたに忍びよる言葉狩り

瞼からやぶかれて、ゆき 抱きあえばベッドに硬い本が散らばる


         (初出 詩誌『びーぐる~詩の海へ』33号「玉繭の間取り」より(一部改稿))

【詩歌集『うずく、まる』をめぐって】

 うずくまる途上で  中家菜津子
第一詩歌集『うずく、まる』(2015年書肆侃侃房)を振り返った時、一番、記憶に残っていること。それは巻頭歌を書き下ろすことになって、歌を五十首以上詠んでも、監修の加藤治郎さんに「現代短歌の水準ではない」と言われたことだ。それからは、とにかく歌集を一気に再読した。斉藤茂吉、前川佐美雄、塚本邦雄、岡井隆、葛原妙子…。写実的な描写と、観念あるいは感情とのバランス、その一点に視点を定めて読んでいった。私の思う現代短歌の美しさは、一首が観念に傾いても倒れることのないだけの具象を伴う、けれど、やじろべいではなく綱渡りのように危ういこと、そういう漠然とした思いが溢れてきて力が湧いた。水準と言われたら、水を渦にして短歌の世界の最高潮に溺れてみる。苦しかったことが、今では一番楽しかった思い出だ、深謝。

 セメントと砂利を速やかに混ぜあはすシャベル冷えつつ途上の光 葛原妙子『葡萄木立』

【中家菜津子・プロフィール】
 なかいえ・なつこ。さいたま市在住。未来短歌会所属(ニューアトランティスopera欄)。第一回詩歌トライアスロン・グランプリ受賞。現代詩と短歌の融合を模索中



2…竹井紫乙


   *やぎもとは句集『白百合亭日常』(あざみエージェント、2015年10月)のあとがきを担当。

【川柳作品】


バトンリレー  竹井紫乙

何もかも捨てない廊下に箪笥

日本語は聞きたくないの猫と犬

遺伝子は組み替えられたはずなのに

肥大化が止まぬ娘と息子なり

モルヒネや私と分身赦す旅


【句集『白百合亭日常』をめぐって】


 てんてん  竹井紫乙
川柳を始めて約八年程で第一句集を作成することになり、師である時実新子に選句を依頼するにも句数が少なく、必死で毎日句作せねばならなかった。おそらくあの作業をさせることも、師の思惑だったように思う。飛ぶように売れるはずもない句集を自費で作るということは、自分で自分に重しを付けるようなもの。

それでも第二句集は必ず作成するつもりでいた。その作業を終えれば、師への最低限の恩返しはしたことになる。そういう句集を作りたかった。

柳本々々からあとがきの原稿を受け取った時、作業が成功したことを確信した。
時実新子と柳本々々を繋ぐ点々としての役割は無事完了したわけで、私は今とても自由である。


【竹井紫乙・プロフィール】


  •  たけい・しおと。1970年 大阪生まれ。1997年 川柳を始める。2005年 句集「ひよこ」。2015年 句集「白百合亭日常」。「びわこ番傘」会員。ブログ「白百合亭日常」

 

3・・・野間幸恵


   *やぎもとは句集『WATER WAX』(あざみエージェント、2016年3月)のあとがきを担当

【俳句作品】


 太郎のことは  野間幸恵

漂えばいらん・いらくは開く音

失望はやわらかいパンのままかしら

近江まで音色はつづく知性かな

平面を次々広げ午後3時

くりかえす太郎のことは電車だね


【句集『WATER WAX』をめぐって】


 風船から  野間幸恵
今回の句集を出してから気分はずっと大きな風船の中にいます。第1と第2の句集の時は発行と同時に次なる俳句を求めて作り始めていましたが、今回は走れない。その理由は分かっています。句集制作の途中で俳句の同志ような人が突然亡くなったからです。発行まではなんとか頑張りましたがその後、風船に入ってしまいました。

以前、庭の大きな木が一本枯れたとき、植木に疎い私は狼狽えました。枯れたまま置いておけず、根元から抜くこともできなくて、幹を地面近くで切りました。その結果できた空間の大きいこと。慄きながら唖然としたまま放置してしまったのです。すると近くの樹木が見えない速度で枝葉を伸ばし、気がつくと以前とは違う景色だけれど、いつのまにかさみしい空間が無くなっていました。
私もそんな感じで彼女の居なくなった空間を一年近くかけて埋めてきたのかもしれない。同じ景色ではないことを自分に言い聞かせながら。

生きていること、俳句を作り続けることは違う景色を受け入れていくことなのだと、風船から出ようとしてます。


【野間幸恵・プロフィール】

  •  のま・ゆきえ。1951年、大阪在住。句集「ステンレス戦車」「WOMAN」「WATER WAX」



4・・・川合大祐


   *やぎもとは句集『スロー・リバー』(あざみエージェント、2016年8月)の選句作業を担当。

【川柳作品】


 2017年前夜祭  川合大祐

椅子のないメトロン星の座り方

必殺の・ぼくらの・ために・死ねビーム

よく練った即興曲だいますがり

無人機の中にかがやく蠅の王

よく当たるドロップキック前夜祭


【句集『スロー・リバー』をめぐって】


 スロー・リバーなんかこわくない  川合大祐
『スロー・リバー』のあとがきに「うな丼のタレが余ったら送ってね」と書いた。「あれどういう意味?」とよく聞かれることになったが、あれ、吾妻ひでおさんの『うつうつひでお日記』での「ポテトチップがあまったら送ってね」というギャグをパクったんである。大体においてこういう方針の句集だと思って頂くとありがたい。ありがたいと言えば、おかげで全国各地からうな丼のタレを送ってもらった。やはり関ヶ原を境にして味が違ったし、フランスのタレはセーヌの味がした。中には空き瓶をくれて、「これでうな丼を食べたつもりになってください」とあったので、白紙を送り返して「これで読んだつもりに」……。噓ですが全体的にそんな句集です。


【川合大祐・プロフィール】

  •  かわい・だいすけ。1974年長野県生まれ。2001年より「川柳の仲間 旬」所属。2016年、第一句集『スロー・リバー』。ブログ「川柳スープレックス」共同執筆者。



5…岩田多佳子
   
*やぎもとは句集『ステンレスの木』(あざみエージェント、2016年10月)の跋文を担当。

【川柳作品】


 三角なとき  岩田多佳子

沸点のとてもマンモスな鞄 
      
えんぴつの芯はときどき鳥の糞

罫線がほほえむ爪を切りながら     

下流からひゅるひゅると上るくちびる

放電をしながら草を食む教授



【句集『ステンレスの木』をめぐって】


 だって・・  岩田多佳子
句集に向かい、いままでの句を厳選しだしたころ、なぜか「序文」や「あとがき」は無しでもよいと思っていた。「要らない」という選択肢もあってもいいのではないかと・・。前田一石さんの選句。もうそれだけで覚悟が出来て、私の脳回路はすでに助走しはじめていた。そんな中でご縁があった竹井紫乙さん。彼女からいただいた句集「白百合亭日常」。柔らかい感覚の読後感。「跋文」の柳本々々さんのすんなりフィットしていて、なおかつ存在感は存分にありながら延々とつづく文。「跋文」?新しい感触だった。特に々々さんの文章は不思議な響きをもっていて本文にすこしも邪魔をしていない。むしろベーキングパウダーだと思った。「ステンレスの木」で新たな々々さんに出会えて、嬉しいショックだったのは言うまでもない。 

        
【岩田多佳子・プロフィール】

  •  いわた・たかこ。2004年から川柳をはじめる。元「川柳黎明舎」同人。京都市出身、在住



6…徳田ひろ子


   *やぎもとは句集『青』(川柳宮城野社、2016年10月)の装画を担当。

【川柳作品】


 嘘  徳田ひろ子

雷の真下で嘘はうつくしい

絶対音感嘘つきだけが寄って来る

嘘っぽい話が好きなピロリ菌

雪のんのん嘘をつくにはちょうどいい

問三の嘘の定義を述べなさい



【句集『青』をめぐって】


 文字力  徳田ひろ子
去年の11月に初めての句集をだした。川柳を始めてもうそろそろ30年近くなるが、句集なんて暇な後期高齢者が出すものと思っていたし、川柳をこんなしつこくやれると思っていなかった。句も何かに残す事もしなかったし昔の句など書き捨て、川柳なぞいつ辞めてもよかった。考えが変わったのは先だって亡くなった親友が寄越した遺品の中にあった彼女の個人誌。発刊から亡くなる迄の20数年間分を見てからだった。中には昔の私がいた。即吟や句会、大会での私の句があった。忘れていた当時が鮮やかに甦って胸が詰まった。書き手が亡くなったのに文字として残ったものは長い旅をして誰かに感動を与え誰かの希望、道標となれるのだと、その時初めて気がついた。ぐずぐず、もたもたしてる場合じゃない、句集を出そう! この思いを活字として残そう。

5年の長い長いスランプとブランクをその時私は完全に振り切った。


【徳田ひろ子・プロフィール】

  •  とくだ・ひろこ。1956年青森生まれ。昭和天皇が下血入院した年に川柳に足を踏み入れてしまう。現在岩手県盛岡市玉山在住、近くに石川啄木記念館がある。おかじょうき川柳社、いわて紫波川柳社、川柳宮城野社、川柳柳山泊、川柳 湖、川柳ふらすこてん、川柳北田辺、ネット川柳会はじめの一歩など



7…安福望 (+1/2 柳本々々)


   *2017年2月にやぎもとと共著『きょうごめん行けないんだ』を刊行予定。

【絵】




あなたが見せてくれた宇宙はまだ無臭 (絵:安福望、句:柳本々々)



【『きょうごめん行けないんだ』をめぐって】


 言いにきたんだ  安福望
本には「きょうごめん行けないんだ」というタイトルをつけましたが、このタイトルには、「あしたは行けるかもしれない」という意味が含まれています。でもあしたになったらまた「きょうごめん行けないんだ」と言うかもしれません。その意味も含まれています。でも、わざわざ会いに行った上で、「『きょうごめん行けないんだ』と言いにきたんだ」とあなたの前で言うかもしれません。そういう意味も、含まれています。

【安福望・プロフィール】

  •  やすふく・のぞみ。イラストレーター。短歌が好きで一日一首、短歌から絵を描く。『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』が発売中








参照付録

2016年12月23日金曜日

【短詩時評33は年末企画で裏の雑談の後編】幸福について 安福望×柳本々々

【かかしの幸福について】

安福 やぎもとさんはオズの魔法使いのかかしが好きなんですよね。

柳本 ええ。ドロシーにいちばんはやくあえるのがいいなとおもって。ぜったいにいちばんはやくあえたひとがなかよくなるんですから。

安福 なるほど。いちばんはやくあえたひとがなかよくなるっていいですね。

柳本 映画で、ドロシーが別れるときに、かかしに、あなたがいちばん好きだった、っていうんだけど、そんなことよくいうなあとおもって。ライオンとかブリキがいるのに

安福 えっ、そんなこというんですねライオンとブリキショックですよ

柳本 でもしらない土地ではじめてともだちになったひとだからまあしかたないよねとおもって。ただそのときに自分はもしかしてブリキのほうにいるんじゃないかなとはちょっと心配になったんだけど

安福 ブリキのほうに……。

柳本 ええ………。

安福 ………。


【眼鏡の幸福について】

安福 やぎもとさんは眼鏡歴何年なんですか? 私は0年です。

柳本 そんなに実はないんですよ。ずっと裸眼の人生だったので。でもだんだん眼鏡って仮面みたいでいいなとおもって。それでさいきんかけてますけどかけるようになるともうずっとかけてますね。だからかけてみてシャア・アズナブルっていうひとのきもちが少しわかったというか。

安福 ……………。

柳本 ただよくみえなくてりょうてをばたばたしたり、柱にしがみついてることもあるけど。

安福 あっ、そうなんですね。ちょっとそっちの可能性も思ってたんですよ。

柳本 柱にしがみつく可能性をですか?

安福 いや、仮面の可能性です。

柳本 フェリーニの映画『81/2』がすきで、あの映画もまあ眼鏡映画なんですよね。あとマルクス兄弟とかウディ・アレンも眼鏡映画かなとおもう。ひとはだれしもマントをつけて前に出たいとかってやっぱあるんじゃないですかね。変装癖というか。ギブスを意味もなくつけてたりだとか。錫杖を握りしめてたりだとか。

安福 ああ、なんかわかります。眼鏡かけてると、眼鏡のひとになれますね。

柳本 眼帯をしたいとかいろいろあるとおもうんですよね。羽根帽子とか、鍵フックとか。

安福 船長のほう行ってますけど、でも会うひと会うひとに、どうしたんですか? ってきかれますよ。

柳本 そこは照れくさそうにするんでしょうね。

安福 ………………。


【生の幸福について】
安福 やぎもとさん、短詩時評で一時期死についてたくさん書いていたじゃないですか。竹井紫乙さん(http://sengohaiku.blogspot.jp/2016/09/tanshi27.html?m=0)とか小坂井大輔さん(http://sengohaiku.blogspot.jp/2016/09/tanshi26.html?m=0)とか。死って希望がありますか?

柳本 死に希望はないですよ。

安福 希望ないですか。

柳本 ないと思いますよ。でも死に近い場所に希望があると思います。ぎりぎり近い場所に。そういう場所にかえって生もたたずんでいるんじゃないでしょうか。

安福 ぎりぎりちかい場所かあ。

柳本 こないだふらふらまちを歩いていてそう思ったんです。これちょっとまずいかな、と思いながら。でもそれはそれでいいかなとおもって。

安福 ふらふら歩いてたんですか。あるいてそうですね。いいとおもいます。

柳本 いい、って……。でもふらふらオッケーだとはおもったんですよね。そういうときも人生にはあるのかなって。

安福 ふらふらオッケーかあ。あり、なんだろうか…。


【眼の幸福について】

柳本 さいきんヘンリー・ダーガーの画集みながらダーガーってどうしてあっちの世界にいるようにみえるんだろうって考えてたんです。奈良美智さんにはそれはないでしょう。

安福 たしかにダーガーはとんでますね。人にみせるつもりまったくなかったからかな。

柳本 奈良さんみてるとでもこっちへの意識ありますよね。

安福 なんですかね。やっぱり他者の眼を意識するかしないかじゃないですか。目の量かな。

柳本 あ、そうだ。それですよ。

安福 目の量? ああ、そうかあ。奈良さんのはじっとみてきますね。目は重要ですね。

柳本 やすふくさんの眼って●なのにじつはだんだんそれを大きく誇張することでやすふく的内面をもってきちゃってるとおもうんですよね。

安福 え、持ってきちゃってますか?

柳本 だからやすふくさんの●についてなにか書くのだとしたらたぶんもうすこしつっこんでかかなきゃならないんですよね。ただの●じゃなくてたぶん成長してる。たぶんそれは●を繰り返し描くうちにじぶんの文法としてとりこんだんだとおもいますよ。なんか●ばっかりになってきたな。

安福 おおなるほどねもうすこしききたいですけど

柳本 でも涙がでたじてんで●が変質したんだとおもいますね●も成長するんですよ。

安福 でもたしかに、奈良さんも眼が大きくなっていってるとおもう。たいてい大きくなっていくんじゃないかな


【幸福について】

安福 ちょっと幸福について考えてみると、幸福って、幸福なときはわからないですね。なくなってから、あの時幸福だったって思い出す気がしました。だから死ぬ直前に幸福について語るのが一番良さそうですね。全部終わってからじゃないと幸福わからない気がして。

柳本 死ぬ直前にすごく安っぽいことを思い出してがーんと思いながらしんでいく場合もあるとおもうんですよね。あたためますかってコンビニできかれてるシーンとか。いやいやこんなシーンいいよ、ってかんじで。いやこの思い出ちがうから、みたいに。もうこうなんていうかお花畑とかで手をつないであははははってお弁当食べてるシーンとかがいいのに。でもコンビニでなにげなくあたためますか、だいじょうぶですみたいに答えてるどうでもいいような風景が死の直前に流れるとか。

安福 それでふと思ったんですけど、フシギな短詩のミムラさん(http://haiku-new-space03.blogspot.jp/2016/10/blog-post_18.html?m=0)の短歌みたいな別に思い出したくもないこと思い出しそうって思いました。死ぬ直前ってたぶん、目を閉じてそうで。音だけ聞こえて、その音によって思い出すものが違いそうです。そうなると死ぬ場所が重要になりますね。なんかいい音の聞こえるとこがよさそうですね。眠ってるときも眼を閉じてるけど、聞こえてくる音で夢がかわったりしますよね。ふだん視覚って一番重要だけど、夢の中だと音が重要なんですよね。おもしろいですね。

柳本 あ、ほんとにそうですね。そうか、夢のなかでは聴覚がだいじになるってたしかにそうですね。ひとは耳を閉じられなかったからこそ、そこに幸福も不幸も受けとめざるをえないなにかがあるのかもしれませんね。目だと閉じちゃうからシャットダウンしちゃうから。

安福 でも、そうかあ、幸福も不幸も耳からやってくるんですね。なるほどです。
御前田あなたさんがみたくないものをみえないようにする魔法をみにつけたといっていたけれど、耳も聞きたくないものをきこえないようにする魔法がいりますね。ちなみに幸せって辞書ひくと、運。めぐりあわせ。って書いてあって、幸せって運なのかって思いました。

柳本 えっ、辞書に、幸せとはめぐりあわせだと書いてあったんですか。あ。ああ、そうなのか。そうなんですね。理解しました。
めぐりあわせってじぶんでシャットダウンできないことじゃないですか。だからしあわせの場所って耳にちかいのかもしれないですね。めぐりあわせっておもしろいなとおもったのが、基本的には意志と無関係なところですよね。もちろん努力とか意志でめぐりあわせをひきよせることはできるんだけど。でも運とか運びって努力ともちがうんですよね。だからこれからは、しあわせってなんですか、ってきかれたら、じきにわかるものですよ、って言おうとおもう。ああちゃんと幸福論の話ができたじゃないですか。よかった。

安福 しあわせ、辞書でひいてよかったです。あ、ちなみに辞書は学研現代新国語辞典改訂第四版のでひきました。これまだつづきがあって。不幸をあとでひいたら、よくないことや苦しいことがあって、めぐまれないこと。ってなってたんですよ。そうか、じゃあ幸せってめぐまれることかと思って、恵まれるをひいたんです。恵まれるをひくと、運よくよい物事を与えられるってなってました。二番目の意味が幸せである。でした。幸せってひとからもらうんかなと思いましたよ。火と一緒やなあって。いつかもらえるんですよ、きっと。信じてたらもらえるんじゃないですかね。だから、やぎもとさんがいうように、じきにわかるものだし、時機にわかるものですね。幸福は火をたくように時期が来たらとつぜんやってきますよ。

柳本 ああ、幸福は火なのか……。もうこれ以上わたしがよけいなことをいわないうちに次のパートにうつりましょう。


【蛸の幸福について】

安福 やぎもとさんの岩田多佳子さん(http://haiku-new-space03.blogspot.jp/2016/10/blog-post_28.html?m=0)の回のフシギな短詩、納得だったんですよ。わたしをばらばらにし、世界をいきいきさせるって。

やぎもとさんの文章よんで、ステンレスの木でわたしやたら蛸のことかんがえてたんですけど、なんでかわかりました。やっぱりこの句集のなかの私って蛸だなあって思ってしまいました。蛸とかの軟体動物って、足きってもまた再生するんですよね。

柳本 ああそうか。精神分析的主体って蛸的なのかなあ。おもしろいですね。

安福 うん。

逃亡をはかる親指いっぽん  岩田多佳子 
両腕を一年干したままの窓  〃

の句って切り落とされてるのに血が流れてないかんじがしてて不思議だったんですけど、蛸の足で考えたら、切って世界に置いていったとしてもまた再生するからそんなたいしたことじゃないですよね。

柳本 あ、ほんとだ。そうか。

安福 あとですね、

ひだり眼がナミブ砂漠から戻る  岩田多佳子

の句を読むと、なくした眼が戻ってきたりするんですよね。世界へ眼だけ偵察にいったみたいに感じました。

一本目の足がノサップ岬にある  岩田多佳子

この句だと、世界のいろいろなところに私の足跡、痕跡を置いていってる感じがしました。

母体から離れていこうとしてる腕  岩田多佳子

も母体が宇宙船のイメージがあって、腕は偵察船として離れていこうとしているみたいって思いました。

柳本 うーん、なんかすごいですね。納得です。

安福 あと、「わたしをばらばらにし、世界をいきいきさせる」ってわたしの一部を世界にお供えしているような感じもしました。
世界にわたしを差し出してるような。わたしを差し出すと世界っていきいきしだすんですね。

柳本 ああたしかにね、たかこさんの句集読んでいて、そういう感触ありました。世界にわたしを投げ込んでいくというか。ダイヴしていく感覚。うーん、そうかあ。すごい。

安福 あの、

だぶだぶの着物で立っている歴史  岩田多佳子

をもう一度考えると、この着物のだぶだぶって私を世界に差し出しつづけたから、身体が小さくなって昔の着物がだぶだぶになってしまったのかなって思いました。

柳本 安福さん、解釈師ですね。おもしろい。

安福 「ステンレスの木」というタイトルの句集だけど、柔らかいものがたくさんでてくるの不思議ですね。「ステンレスの木」っていうのはふにゃふにゃな私の理想の私なんですかね。この句集の中の私ってステンレスみたいな硬質でまっすぐな私になりたいんでしょうね。

柳本 ああ、そうなのか。ってこんかい、納得して相づちしか打てなかったので次のパートでがんばります。


【俳句の幸福について】

安福 俳句の話で、野間幸恵さんの『WATER WAX』を昨日寝る前に読んでたんですよ。俳句って、世界を剪定してるようなきがしました俳句は世界を調理してるというか

柳本 「なる」の文学ではないですよね、俳句は。川柳は「なる」の文学な気がするなあ。変身ものというか。だから川柳なら、古池をみたらカエルといっしょに飛び込んでいくとおもうんですよね、俺も俺もって。
そういうふうに「なっ」ていくというか

安福 「なる」かあ、

もう二度と馬は霧で出来ている  野間幸恵

をよんで、「もう二度と」と「馬は霧で出来ている」の間になんかめっちゃいろいろあったんじゃないのって思っちゃいました

柳本 その解釈おもしろいですね(笑)

安福 「もう二度と」と「馬は霧で出来ている」の間ごっそり抜けてるっておもったんですよ

つまづいて360度が旅人  野間幸恵

でワープ感じたんですよ。つまづいて ワープして 360度が旅人にって感じが

柳本 おもしろいなあ。この句集はたしかにアクロバティックなんですよね。で、なんでかっていうと、たぶん、言葉が水になっちゃってるからだとおもう。それが醍醐味というか。文法も液体化しちゃってるとういか。言葉や意味や文法の水漏れがおこってる。

安福 あ、さいごの

この世でもあの世でもなく耳の水  野間幸恵

がなんかすごくしっくりしました。耳に水はいったら、傾けないと水でてこないじゃないですか、耳から。その身体を傾ける感じが、なんかこの世でもあの世でもないかんじと合ってるなって。傾くってどっちでもないかんじがして。そうそう、横書きなのも水って横にひろがるから、横書きなのかなって

柳本 ああ、そうかも。たしかにプールみたいなかんじしますね。だから野間さんの俳句をよむと、俳句ってそもそもなんなんだってかんがえはじめますよね。それも思考が水化していくというか、俳句そのものが決壊するんですよね、ダムみたいに。それもおもしろい。水ももししゃべることができたらこういうんじゃないかな。「ぎゃくに、おもしろい」って。

安福 …………。


【雑談の幸福について】

安福 これいま話してることも記事になっていくんですか。

柳本 なっていきますね。この「なっていきますね」もいまなっていってますね。

安福 こういうのってでもあれですね、自分の意外性ってじぶんじゃわかんないですね。

柳本 そうかもしんないですね。

安福 ひとにいわれないとじぶんのことわからないです。

柳本 相手が、あっそんなこというんだ、にいつも活路があるきがしますね。それはひいては、自分はそんなことかんがえてたのか、につながっていくきがする。

安福 あ、それいいことばですね。ではその言葉で今年をおわりにしましょう。

柳本 あ、そうですね。じゃあ、そ

安福 それでは、よいお年を。


(画:安福望)





《附録:人生のテーマ曲10選》

【安福望の10曲】

1、映画『マグノリア』Save Me
2、映画『マグノリア』Wise Up
3、映画『LIFE!』space oddity
4、映画『喜劇とんかつ一代』とんかつの唄
5、小泉今日子「My Sweet Home」
6、ネクラポップ「人間の屑」
7、クレイジーケンバンド「コロ」
8、SPARTA LOCALS「POGO」
9、ZONE THE DARKNESS 「奮エテ眠レ」
10、あがた森魚「佐藤敬子先生はザンコクな人ですけど」


【柳本々々の10曲】

1、カヒミ・カリィ「Cat from the Future」
2、東京ナンバーワンソウルセット「夜明け前」
3、ボブ・ディラン「stuck inside of mobile with the memphis blues again」
4、椎名林檎「月に負け犬」
5、明和電機「明和電機社歌」
6、三上寛「小便だらけの湖」
7、ゲーム『ファイナルファンタジー1』の「カオス神殿のテーマ」(植松伸夫)
8、スピッツ「トンガリ'95」
9、映画『八つ墓村』の「道行のテーマ」(芥川也寸志)
10、矢野顕子「すばらしい日々」(奥田民生)

2016年12月9日金曜日

【短詩時評32は年末企画で裏の雑談の前編】価値について 安福望×柳本々々



(『かばん』2016年12月号の特集「描く短歌」において編集人のながや宏高さんの提案により、イラストレーターの安福望さんと「絵と短歌とペン」という対談をさせてもらった。「安福望さんはいかにして安福望さんなのか」という〈対談〉は〈雑談〉としてもう少し続いたので、〈裏の雑談〉としてこちらに収録させてもらうことになった。ちなみに特集チーフも務めさせていただいた『かばん』2016年12月号は初の電子出版の試みもしているのでぜひお読みいただければ幸いです。特集「描く短歌」の執筆陣として、岡野大嗣さん、久真八志さん、少女幻想共同体さん、唐崎昭子さん、東直子さん、光森裕樹さん(五十音順)に絵/文をかいていただきました)

【パジャマの価値について】

柳本々々 うん、いい言葉ですね。「今のペンの方がより楽しい」。安福さんのその言葉で今回の対談を終わりにしましょう。

安福望 …………………。

柳本 …………………。

安福 ………。

柳本 ………………。

安福 ……あの、今年のやぎもとさんの「短詩時評」に「蛇、ながすぎる」っていう「名前の練習」がありましたね。

柳本 あ、はい…。

安福 ……読みました。それを読んで俳句のことを考えたんですが、俳句ってきっちりしっかりしてるなっておもってたんですよ。名詞で終わるからだとおもうんですけど……。

柳本 ……あ、そうか、たしかに季語って「浮いてこい」とかそういう特殊な季語もあるけれど、名詞が多いかもしれませんね。わたしも、短歌・俳句・川柳の違いって、音数というよりは、季語があるか・ないかじゃないかとさいきん少し思ったんです。季語があることでシステムががらっと変わってしまう気がして……………。

安福 「蛇、ながすぎる」のタイトルの話で名詞=体言でおわるタイトルは堂々としているっていう話があって、そうか俳句って堂々としてるのかもって思いました。それで「こころ」は「ここれ」に活用できないってはなしで、俳句の中の季語も変化できないものですよね。夏の季語が秋の季語に変化できないなって…………………。

柳本 …ああほんとですね! だからある意味で季語がないたとえば川柳だと倒錯ができるというか、すこし《狂う》ことができるんですよね。あぶないひとになれるというか。季語の活用不可能性っていうのはそういうのを逆に阻止するところがあるのかもしれないって思いますね。俳句をしているひとは長生きをするってどこかで読んだことがあるんですが、もしそれがほんとうなら、それが季語のシステムなんじゃないかって思うことがあるんです。倒錯しないというか。《健康》になるというか………………。

安福 ………あと、ライトノベルのタイトルがどんどん長くなっているってはなしで、新海誠さんの映画『君の名は。』の「。」はめちゃくちゃ長くなりそうだったから、無理やり「。」を入れて長くなるのをとめたのかなっておもいました。やっぱりいつまでたってもあの「。」気になるんですよね。

柳本 あ、そういえば、『君の名は。』も庵野秀明さんの『シン・ゴジラ』もタイトルがかえって短いですよね。過去のパッケージを使ったリメイクってそういう意味では「今」のむやみやたらな長さに拮抗することができるかもしれませんね。過去は変えられないし、短かった。そこから、はじまる。しかも句点の「。」があるの意味深ですね。ほんとだ……。

安福 ……………。

柳本 ……………価値かあ…。

安福 ……………。

柳本 …………………。

安福 あ、そうだ、やぎもとさんの『フシギな短詩』の荒木飛呂彦さん村上春樹さんの回なんかもそうだと思ったんですけど、美術館から絵をもちだして、そとで話してるかんじなんですよ。美術館で絵を鑑賞するんじゃなくて、外にもちだしたうえで話すっていうのか…。

柳本 ああ……なんかこう、電話で話してるかんじですかね。電話口で話す感想文というか。もしもし、あのね、というかんじの。電話口だからときにパジャマでまじめなことをしゃべってる感じもあるくらいの。

安福 ああ……そうかも……。

柳本 …………。もしもしかあ。…………いや、価値かあ…。

安福 ……。


【価値について】


安福 あ、そうそう対談の映画の話もそうだったんですけど、やぎもとさんとお話してから、いろんなことってもう一回もどってくるんだなって思いましたよ。いままではそんなもどってくるとおもってなかったので。ながれてくかんじでした

柳本 あ、そういえばわたしも、たとえば、斉藤さんの、歩く短歌って、図書館でであったのが、2010年かなあ、それくらいなんです。それから投稿するのに三年かかったし、そこからそのさいとうさんの短歌の感想かくまで、つまりきょうまで三年かかったんだけど。ああまた戻ってきたんだなとおもって。出会い直し、ってことかな。出会い直す、ってすきなんです、あの、ヘレン・ケラーがね、unlearn って単語をつかっててつまり、学んだことをもう一回ほどいて学びなおすってことなんだけど。出会いも、なんどもほどいて、もういっかい出会い直すんじゃないかとおもって

安福 ほんとですね。出会い直し、いいですね。

柳本 価値にきづくってそういうことかもしれないですね

安福 あ、ほんとだ。そうですね。ほどいてもっかい出会いなおすとまたべつのこととつながりますね。

安福 さいとうさんの短歌なんですけど、やぎもとさんの「船」を定型詩とみるのなるほどなあって。星に降りたら歩くしかないように歩いたの星って読者なのかな。

柳本 ああそれおもしろいですね。

安福 短歌が星におりたら、勝手によまれてくかんじ。

柳本 そうなのかもしれないですね。

安福 でも最初、ひきこもりの歌かなっておもいました。船のなかだと、他者とコミュニケ―ションとるのに手紙かくしかないかなってそこから、星にでたら、歩いて他者に直接あうしかコミュニケーションできないから、歩くしかないように歩いたのかなってなんかだれかと出会いたいような歌に思いました

柳本 のりべんのうたもあるくうたですよね。

安福 あ、ほんとですね。誰かに会うかもって歩いてたら、ぶちまけられたのりべんしか会えなかったのかな。でものりべんがあるってことは、だれかいたんですよね。タイミングがわるかったですね。

柳本 わたしがおもうのは、歩くのって、その場所のルールをうけいれるしかないんだなとおもって。のりべんがぶちまけられててもルールなんですよ。うけいれるしかない。じぶんのものがたりにはできない。よけるしかない。

安福 あ、そうかよけるしかないんですよね。

柳本 ぶちまけられたのりべんばっかじゃないかとおもって、この世界は。たとえばシンゴジラもなんできたかはわからないけれど、ぶちまけられたのりべんだとおもう。巨大不明生物に名前をつけたところでどうにもならない。災害もそうですよね。

安福 ああ、そうですね。

柳本 ルールが最適化できない部分がこの世界にはぜったいあるんですよ。ルールが最適化できないもの。それがぶちまけられたのりべんだとおもう。

安福 ほんとよけるしかないんですね。

柳本 だれかが傷つかなきゃ成立しない世界がある。防護服きて作業しないと成立しない世界。

安福 そうですね。みんな幸せってないです。

柳本 なんでしょうこれはのりべんってきづいてものりべんが修復できるわけじゃないですよ。その意味でひとは「歩くしかないように歩く」ことしかできない。

【太宰治の価値について】

安福 やぎもとさん、フシギな短詩で東さんをとりあげられたじゃないですか。

柳本 ああそうですね。そのころ『十階』をずっと読んでいて勇気をもらっていました。なんだろう、この東さんの日記のなかには、ひとが生活のなかで〈書く〉こととどのように共に暮らしていくかがいろんなかたちで書かれているように思うんですよ。それがすごく好きですね。好きだし、勇気づけられる。書くことってちょっと〈十階〉に暮らすようなことだと思うんですよ。すこし地上からは離れている。でも天上ってわけでもない。十階特有の風が吹き、雨が降り、陽がさしこんでくる。そういう〈すこしだけ〉高い異界のような場所で暮らすこと。

安福 わたし、30歳のときにはじめて個展したんですけど、ブックカフェみたいなところで。作品と一緒にすきな本も何冊かもっていったんですよ。そのとき『十階』ももっていきました。あと笹井さんの歌集も。東さんの本、はじめて読んだの『十階』だと思います。

柳本 あ、そうなのかあ。東さんの《ふたしかさのなかにあるたしかさ》みたいなものにぐっと引き込まれたんですよ。

安福 東さんのフシギな短詩よんでて、これやぎもとさんの文章よまないとわたし全然読めない歌でした。だからなるほどと思いながら読みましたよ。それで、なんでこの歌読めないのか考えてたんですけど、「桜桃忌」と「フィンガーボウル」がわたしには遠い言葉なんですよね。普段使わない言葉。

柳本 ああそうですね。

安福 あの東さんの歌はなんか取り残されたかんじがするんですよね。しかも姉がもどってこないきがする。それでもわたしはなにかを語ろうとしている。なんのためだろう、ってかんがえたんです。わたしも姉は帰ってこないんだろうなって思いました。この姉、死んでんじゃないのって。

柳本 桜桃忌に太宰治だから死のイメージにあふれてますねたしかにね。

安福 出かけてゆきました、だから家からって最初思ったんですけど、家にフィンガーボウルあるのかなっておもって、どっかレストランとかで姉とごはんたべてそこにあったんかなフィンガーボウルっておもって、それが姉と会ったさいごなんだろうなって。

柳本 ええっ! すごい面白い解釈しますね。びっくりと納得がいちどにきた。

安福 それでこれは妄想すぎるんですけど、フィンガーボウルわたしどこでであったかなって考えたら、結婚式のときにテーブルにあった気がしたんですよね。それでこれ姉が結婚する歌なのかもってちょっと思いました。姉妹でだれかの結婚式についこの前まで一緒にでて同じテーブルにいたはずなのに、気付けば姉が結婚式してるという。結婚すると女性って名前がかわるじゃないですか。それって、旧姓の自分が死ぬかんじがして。それと同時に新しい名前の自分が生まれるんですよね。

柳本 ああ、その発想はありえるかもしれないですね。

安福 「桜桃忌」と「フィンガーボウル」の間に「姉」がいるんで、桜桃忌とフィンガーボウルが姉を召還したような気もしました。姉がでかけた記憶を、ですかね。何か思い出すって、一つの単語じゃなくて、二つ以上が重なったら、別のものを思いだすのかなと思いました。こう思ったのも桜桃忌とフィンガーボウルが遠い単語だから、「姉は出かけてゆきました」だけがわたしには近くて浮き上がってみえたんですよ

柳本 ああそうかあ。やすふくさんがフィンガーボールになじみがないってところから引っ張り出された解釈なのがとてもいいと思いましたね。つまりこう自分のなかのちょっとした生きてしまった違和というか、日常的気付きから解釈をしていったというか。そうかあ、そういう解釈もできるのかあ。東さんの短歌はそのひとの所属しているジェンダーとか階層とかで意味が少しずつ変わってくるのがいいなっておもうんですよね。だからわたしの立場から読めば太宰治から読んでああいう解釈になったし、やすふくさんの立場から読むと結婚式とかからそういう解釈になる。そういうのってとてもおもしろく感じるし、忘れちゃいけない部分なんだろうなって思います。

【指先からソーダの価値について】

安福 フシギな短詩で小津夜景さんの記事よんだんですけどね、たしかに記憶ってゼリーな気がしました。なんでなんですかね。なぜかゼリーがぴったりですよね。

柳本 夜景さんでフシギな短詩を書くならゼリーだなとはなんとなくずっと考えていたんですよ。でも書けるかなあとかなんとなく考えていて。それで俳句の福田若之さんの小津夜景さんと記憶をめぐる文章を読んだときになんとなく、ああそうかそういうことなのかと自分が書きたいことがわかりはじめて。それでも、あれやっぱりちがうかもとめげたりもしたんですが、夜景さんの『フラワーズ・カンフー』を読んだときに、あ、そうか、やっぱりいいんだ、とまたわかりはじめて。でもサイダーの句はぜんぜん想定していなかったんですよ。でも書き始めたときに、あ、サイダーなんだな、これでいいんだなっておもって。

安福 サイダーをほぐすってできるんじゃないかなって思いました。サイダーって炭酸がはいってるじゃないですか、炭酸と水にほぐすことができそうな気がして。

柳本 いや、サイダーをほぐすことができると思えるなんてひと、あんまりいないんじゃないかな(笑)。あの、なんだっけ、「牛乳をかむ」とかってありましたよね、あれはなんだったんだろ、なんかすごくふしぎな表現ですよね。牛乳かめないだろ、っておもうんだけど、でもなんかなんとなくこどものころそういう表現があった。

安福 サイダーって炭酸と水じゃなくて炭酸とシロップが入った水だから、ほぐしても白紙の状態のただの水にはならないなって思って、ほんとだ、書き込まれた状態だ、やぎもとさんの言うとおりだなって思いました。

柳本 あ、それおもしろいですね。あ、そうか、サイダーって無色だけど、炭酸があるからすでに無色じゃなくて書き込まれているんですね。それおもしろい見方ですね。そうか、だからひとって炭酸に惹かれるんですかね。

安福 サイダーのあの炭酸の泡って、やぎもとさんがゼリーが記憶っていっていたように、私には記憶のように思うんですよ。なんとなく。

柳本 ああそれもおもしろいですね。炭酸の泡ってパッケージングだから、記憶のパッケージングと重なるのかな。やすふくさんにいわれていまかんがえたら、あ、そうなのかなって。今日マチ子さんが炭酸を印象的なかたちで描いていたけれど、あれも学生時代っていう記憶のパッケージングですよね。どこか無責任で、でもあぶないことをしちゃうと責任が発生してとりかえしがつかなくなっちゃうような、そういうなにか刺激的で、でも美しい、はかない時代。

【名前の価値について】

安福 やぎもとさんもフシギな短詩で書かれていた穂村弘さんの「夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう」の短歌のことを思い出して、これずっと夢の中でお会いしましょうだと思ってたんですけど、光ると消えるから夢から醒めるってことなのかなって。だから夢の外で会いましょう、現実で会いましょうってことなのかなって思いはじめました。「夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。」の後ろについてる「。」がずっと気になってたんですよね。「夢は音がないから嫌いだよ なんでなんにもしゃべってくれなかったの?/石井僚一」も好きなんですけど、この短歌と「夢の中では~」の短歌は矛盾してしまうなってずっと考えてたんです。「夢の中では~」の短歌は夢で喋ると光るが一緒っていってるから、夢の中で喋ったりするのか。音があるってことなのかって。作者が違うけど、好きな短歌は同じ世界にいてほしいなって勝手な気持ちでいて、気になってたんです。この二首がずっと。

柳本 ほむらさんの短歌もでも音がないですよね光ることがしゃべることっていうのは音がないことですよね。夢のなかの音ってたしかにかんがえてみるとおもしろいな。そういえば夢のなかの音ってどうだったかな。光は聴覚じゃないものね。またいろいろみえてきましたね。

安福 あ、そうかあ、ほむらさんのも音がないのか。しゃべるからあると思ってました。光ること、自分が光ってるっていうのはわからなさそうですね。ひとが光ってるのはわかるのだろうけど。なんか怖い世界ですね、夢って。わたし、夢のなかで音ないんですよね。だからいしいさんの短歌よんで、そうそうっておもったんです。たしかに音ないなって。夢で光を感じるときって起きる時だった気がしました。でもそうしたらいつも夢ではなにをみてるんだろうっておもいました。「夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと」って夢の中だと音が光になるんですよね。やっぱり音がないのかな。なんか普通によんだら、最初からそう書いてるやんかってなりますね。ぐるぐる考えすぎてるのかな。

柳本 ただこれそもそもぐるぐるですよね。しゃべることは光ることなら、光ることに音が与えられるので。

安福 あっ、ほんとだ! あの少し関係あるかもしれないんですが、やぎもとさんの名前、「々」ってね、漢字だと思ってたんですけど、記号なんですね。読めないって音がないってことなんですね。々って無音なんですね。名前なのに音がないってかっこいいなっておもいました。

柳本 たしかにそういわれるとふしぎですね。音がないのかあ。じゃあそこで消えるんですね。ああそうか、じゃあしゃべることはひかることを一字であらわすと々になるのかあ。夢って々のことなんですね。名前なのに音がないっておもしろいですね。あ、そうだ、「やぎもと」さんってはじめから呼ばれたことがないんですよ。たぶん、ひとりくらいじゃないかな、はじめからそうよんでくれたの。いつも、やなぎもとで。だからもともと間違えられた名前としてこの世界でいきてるんだってきもちはこどものころからあったような気がしますよ。「々」って「どう」や「おなじ」の変換ででるんですが読みにくいし打ち込みにくいから恐縮してるんですねいつも。で、やっぱりときどき問い合わせももらうんです。この名前はなんなのかと。それも恐縮しているんですが。「あとがきの冒険」で山田露結さんのことを書いたときにあっと思い出したんだけど、私の筆名、曾祖父の筆名を使っているんですよ。短歌とか川柳をしていたひとで。でも、まあ、曾祖父はいったいどういう気持ちでこんな名前をつかってたんだろうと思うことはあるけれど、名前が手にいれられなかったのかもしれませんね。けっきょく。名前の価値ってなんなんだろう。名前の幸福とか。だからもしドロシーにくっついてオズの国にわたしがいくなら、オズの大王からもらうのは「名前」ですよね。

安福 々と光と音かあ。たしかになんかむすびつきそうですね。々って目にはみえてるのに、音が、名前がないってふしぎですね。夢のなかだと々は光ってそうだ。やなぎもとの「な」を封印するもののような気もしてきました。々って。なんだろ打ち消すためのもの? やなぎもともともとさんって言いにくいですよね、やぎもともともとさんがやっぱりしっくりきます。々々かあ。なんかカタカナみたいでもありますね。

柳本 自己紹介のときとかあいてに余計な心的ショックあたえたくないから、今でも柳本です、ってさらっということにしてます。

安福 心的ショック(笑)。

柳本 出オチみたいになるので。やなぎ・ほん、っていう柳・本でもよかったんですけどね。ただ、ホンさんってちょっとアジアになっていきますからね。

安福 アジアになりますね(笑)。

柳本 やぎ・もと、とかね。まあそもそも、やぎがおかしいんですよ。柳はやぎじゃないんだから。

安福 ああ、そうですよねふしぎですね

柳本 先祖がかってによみにくいって抜いたらしいんですよ。

安福 えっ、そうなんですね!

柳本 もうめちゃくちゃなことになってますよ、みょうじもなまえも。

安福 めちゃくちゃから生まれた々々ですね。

柳本 ……!?

【だぶだぶの価値について】

安福 「あとがきの冒険」や「フシギな短詩」で取り上げていた岩田多佳子さんの川柳なんですが。

柳本 はい、句集『ステンレスの木』ですね。

安福 あの句集って木だけじゃなくて、水も出てきますよね。あ、そういえば、やぎもとさんは水をめぐって野間幸恵さんながや宏高さんのも書いてましたよね。

柳本 短詩で水ってなんか重要なキーワードみたいですね。たぶん、水って濡れると形質がもとにもどらないそういう宿命観みたいなものがあるのと、あと水ってどこにでもいけちゃう柔軟性や越境性をもってるからだとおもうんだけど。それは野間さんとながやさんから学んだことです。

安福 うん、水ね。それで、岩田さんの句集の水の句なんですが、

  産まれたわ四十トンの水と朝  岩田多佳子

でその前の前の場所に、

  満水のサクラ並木の栓を抜く  岩田多佳子

こういうふうにあって、木が水になっていくのかなって思いました。木と水って字似てるなってこの前気付いたんですけど、岩田さんもそんなこと考えたのかなって。

柳本 世界の根っこにあるものとしては木も水も原理的な形質ですしね。

安福 ええ。最後の方に水がでてくるのが気になったんですよね。木になれない木が水になるのかな。

柳本 この句集ってなんていうかな、人があんまり出てこないんですよね。出てきてもないがしろにされちゃうというか。この句集の跋文を書かせていただいたんだけど、書いているときはずっとエコ文学批評みたいなものを意識していました。思い出していたとういうか。あとよく南方熊楠のことを思い出したり読んだりしていました。

安福 この句集、木→林→森と木を植えていったけれど、木って木になれないやつとかでてきて、更生施設にいかせたりするからめんどうだなって気付いてステンレスを使うんかもって思いました。

柳本 この句ですね、

  木々になれない木の更正施設  岩田多佳子

これはじめみたときヤンキー句なのかなあって一瞬おもったけど、でもやすふくさんの解釈がいいと思いますね。エンジンの木の句ありますよね。

  エンジンの掛かったままの木が並ぶ  岩田多佳子

これ読んだとき、ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』って戯曲を思い出したんですよ。ハムレットが革ジャンを着てバイクに乗るやつ。あるいはカウリスマキの映画『ハムレット』を。あれは現代の設定でテレビに首をつっこんで死ぬひととかたしか出てくるんだけど、そういうデジタルパンクというか。

安福 あ、そうそう。『ハムレット』といえば未亡人がでてくるけれど、

  だぶだぶの着物で立っている歴史  岩田多佳子

を読んだとき、なんか怖い句だなっておもったんですよ。そしたらやぎもとさんが「あとがきの冒険」で亡霊のことを話していて、「はっ」となりました。この句、未亡人に亡き夫の着物を着せられる未亡人の新しい恋人みたいって妄想しました。「はっ」として未亡人の妄想してしまいました。

柳本 ああなるほどね、着せられてる感なんだ。だぶだぶって。合わない服を着せられるとき、ぴっちりかだぶだぶだものね。しかもこの歴史って私的な歴史っていうかそういう恋人みたいな場合があるのか。こわいですね。それは。「だぶだぶ」ってそんなふうにみると恐怖が生まれる場合があるんだ。おそろしいだぶだぶですね。でもひとってひとの「だぶだぶ」を理解しえないですよね。そのひとが誰とであってどんなふうに生きてきたのかなんてわからない。ひとと出会うとそういうだぶだぶと出会うこともあるんだ。たとえば誰かと出会ってもそのひとがどんな「だぶだぶ」をもっているかなんて理解しえない部分もあるんだから。だんだんいい感じでおそろしくなってきましたね。これは。まいったなあ。…………。

安福 ……だぶだぶの価値かあ……。

柳沢 ……価値かあ。

安福 あの、すいません、柳沢さんって……誰ですか。



(後編の「幸福について」に続く)


《附録:青春の映画10選》

【安福望の日本映画10選】
1、岡本喜八「殺人狂時代」
2、吉田大八「桐島、部活やめるってよ」
3、川島雄三「洲崎パラダイス赤信号」
4、黒沢清「CURE」
5、横浜聡子「ジャーマン+雨」
6、鈴木清順「陽炎座」
7、濱口竜介「ハッピーアワー」
8、三池崇史「殺し屋1」
9、深作欣二「仁義なき戦い」
10、渋谷実「悪女の季節」

【柳本々々の世界映画10選】


1、ダニエル・シュミット「ラ・パロマ」
2、ベルイマン「ある結婚の風景」
3、カウリスマキ「浮き雲」
4、タルコフスキー「惑星ソラリス」
5、キアロスタミ「桜桃の味」
6、アンゲロプロス「ユリシーズの瞳」
7、クストリッツァ「アンダーグラウンド」
8、キェシロフスキ「トリコロール 白の愛」
9、フェリーニ「81/2」
10、グリーナウェイ「フォールズ」