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2025年1月10日金曜日

澤田和弥句文集特集(3-1➀)第3編 澤田和弥論 1 津久井紀代の部

 ➀(澤田和弥一周忌に寄せて〉こころが折れた日 澤川和弥を悼む 津久井紀代[天為28年5月号]


 澤田和弥のこころが折れた日は革命前夜だったのか。

 改めて第一句集『革命前夜』を読む。

 この『革命前夜』を書いた時、すでに和弥は「こころが折れる日」を予感していた。

 理由はいくつも掲げることが出来る。        

 句集名『革命前夜』の命の文字だけ大きく傾いて書かれている。著者名澤田和弥の文字の上にはなぜ血の跡が飛び散っているのか、疑問が残る。

 見開きから静かに目次に眼を移す。

 青竜、朱雀、白虎、玄武、とある。これは天の四方を司る四神である。つまり天の隅々の神様への挨拶と取れる。

 さらに句集あとがきに眼を移すと、そこには「ありがとう」「ありがとう」の文字が多いことが気になる。

 知人友人には「僕の人生は君たちのおかげで色彩を得ることができたよ」と。「こんな弱い僕をいつも、どんなときでも、あたたかく見守ってくれる両親、兄夫婦に心から、最大級の御礼を申し上げます。本当にありがとう。あなた方がいなければ、私はここまで生きてこられなかった。ありがとう。本当にありがとう。」と締めくくる。

 三十五年間という人生の挨拶を『革命前夜』の日にすでに行っていると取っても不思議はない。

 なぜ革命前夜に心が折れたのか。彼の言い知れぬ「やさしさ」ゆえであった。

 三十五年に凝縮された澤田和弥の俳句に傾ける情熱を紐解く。


 『革命前夜』の最初と最後の句を見る。


  故郷の桜の香なり母の文

  ストーブ消し母の一日終はりけり


である。

 これは三十五年問常に母の匂いを感じていたのである。言い換えれば母は常に和弥とともにいたのである。ストーブという日常をもってくることにより和弥もまた、母と共にあったのである。

 更に見ていくと晴よりも褻のものに目を留めているのである。


  壊れてゐたる少年の風車

  空缶に空きたる分の春愁

  このなかにちりめんじやこの孤児がをり

  風船を割る次を割る次を割る           

  蛇穴を出で馬鹿馬鹿しくなりけり           

  箸割つて箸の間を春の風

  卒業や壁は画鋲の跡ばかり


 「青竜」の項より挙げた。

 ここに見られる「虚無感」は「あきらめ」とも取れる。少年の「風車」は和弥にとって、「壊れてゐた」のだ。「空缶」と「春愁」とのあいだに生じる虚しさにはまだ救われる余地はあった。

 たくさんのちりめんじやこの中の一つは、世の中から取り残されたと感じる「われ」ととるべきものであろうか。

 なぜ風船を割らなければならなかったのか。その答えが「割る」を三つかさねたところにある。そんな自分が馬鹿川鹿しくなった時の虚無感は、箸を割った時の間から更に感じ取ることが出来る。晴れやかであるはずの「卒業」は硬質な「画鋲の跡」ばかりだったのか。 「革命」としての「詩」としてはあまりにもさみしい。                  

                             

  咲かぬといふ手もあつただらうに遅桜 

  春愁のメールに百度打つわが名

  陽春や路傍の石が全て笑ふ

  椿拾ふ死を想ふこと多き夜は

  おばあが来たり陽炎より来たり


 和弥に何かあったのか、などと詮索することは無意味だ。

 ここに経験したであろう「挫折感」は、さらに和弥の「革命」へとしての「詩」を深めたのか疑問が残る。和弥にとって「おばあ」は母親にはない「ともしび」であったのだ。シルエットが確としない「陽炎」の中の「おばあ」は和弥に取って最後の救いであった。


  革命が死語となりゆく修司の忌

  海色のインクで記す修司の忌

  修司忌や鉛筆書きのラブレター

  船長の遺品は義眼修司の忌

  廃屋に王様の椅子修司の忌

  折りたたむ白きパレット修司の忌

  修司忌へ修司の声を聞きにゆく


 「修司忌」より挙げた。

 『革命前夜』がここから始まったとすると「革命」は青春に満ちていたはず。「海色のインク」「鉛筆書きのラブレター」「王様の椅子」「白きパレット」、ここから青春の革命は始まるはずであった。しかし幾度の挫折が和弥のあまりの「やさしさ」ゆえにこころが「折れて」しまったのだ。


  若葉風死もまた文学でありぬ

  或る人に嫌はれてゐる聖五月

  とびおりてしまひたき夜のソーダ水

  東京に見捨てられたる日のバナナ

  太宰忌やぴょんぴょんとホッピング

  プール嫌ひ先生嫌ひみんな嫌ひ

  蟬たちのこなごなといふ終はり方


 「朱雀」の項より挙げた。

 ここにきて和弥のこころはすでに折れている。「死もまた文学」と突き放す。「或る人に嫌はれてゐる」という感覚は、すでに和弥のこころを離れて独り歩きを勝手にしている。

 「とびおりてしまひた」いという叫び、和弥を救えなかったのか。すでに「見捨てられた」と言い切る。傾倒した太宰を「ぴょんぴょんとホッピング」と書いた。ここにはすでに心が折れきっている。「嫌ひ」をこれほどはげしく重ねたことはすでに世の中をあきらめていると取れる。だから蟬の死を「こなごなといふ終はり方」と書いた。この時点で救える余地はなかったのかと考えるのは当然であろう。


  秋めくやいつもきれいな霊柩車


 「白虎」より挙げた。

 ここではすでに「霊柩車」を美化している。恐ろしいと思う。


  手袋に手の入りしまま落ちてゐる

  冬めくや母がきちんと老いてゆく

  外套よ何も言はずに逝くんじやねえ

  マフラーは明るく生きるために巻く


 「玄武」の項より挙げた。

 ここでは「母がきちんと老いて」いることを確かめている。

 「外套よ何も言はずに逝くんじやねえ」は自分をすでに他者として客観視している。

 和弥は「真の革命とは何か」を突き詰めた最後に、「死」という結論を自らに出した。一本のマフラーだけが彼の首を離れぽつねんと取り残された。


『革命前夜』より 澤田和弥自選十句


  薄氷や飛天降り立つ塔の上

  佐保姫は二件隣の眼鏡の子

  革命が死語となりゆく修司の忌

  廃屋に王様の椅子修司の忌

  太宰忌やぴょんぴょんとホッピング

  プール嫌ひ先生嫌ひみんな嫌ひ

  秋めくやいつもきれいな霊柩車

  蜘蛛の囲に蜘蛛の屍水の秋

  寒晴や人体模型男前

  ストーブ消し母の一日終はりけり




澤田和弥句文集特集(3-1➁)第3編 澤田和弥論 1 津久井紀代の部

 ➁澤田和弥は復活した  津久井紀代


 一年前の『天晴』夏号で澤田和弥追悼特集を組んだところ大きな反響があった。これは五月修司忌に合わせたものである。修司の忌は即ち澤田和弥の忌日でもあった。『豈』代表筑紫磐井に稿を依頼したところ「澤田和弥は復活する」と題して澤田論を展開してくれた。それ以前から澤田和弥のただ一つの句集である『革命前夜』を評価していたことを知っていたからである。『天晴』夏号の発刊が六月十日。そのあと筑紫は「俳壇」六月号、「俳句四季」六月号とつぎつぎと澤田に触れ、この一年さまざまなところで澤田論を展開してきた。また自らのブログに「澤田和弥論集成」として、十三回にわたって澤田和弥論を展開した。直近では二〇二〇年一月十四日「連載 澤田和弥」(第六回―七)において『若狭』に連載された「俳句実験室 寺山修司」に触れ、「澤田の最後の思い出は寺山にあった」という論を展開。澤田の連載は四回で終わったこと、体調を崩し、文章を書く気力は蘇らなかったようだ、と結論づけている。『若狭』に掲載された最後の作品として、


 冴返るほどに逢ひたくなりにけり

 菜の花のひかりは雨となりにけり

 白梅を抱え諦めている瞼かな


があげられている。この作の数か月あと澤田は自決した。ここには人間としての自分を放棄し、諦めだけが記されている。

 特記すべきは革命前夜のあとがきである。「これが僕です。僕のすべてです。澤田和弥です。」と言った言葉をもとに筑紫はつぎのように分析している。

 「これ」以後の澤田和弥 ― 新しい「これ」も我々は完璧に語ることが出来る。なぜならば新しい「これ」以後もう作品を作ることがないからだ、と結論づける。つまり澤田和弥を伝説として語ることが出来るようになったのである。

 筑紫が『天晴』の紙面で、「澤田和弥は復活する」と宣言して一年。筑紫磐井は見事に伝説の人として澤田和弥を復活させたのである。

 澤田和弥が俳壇で知られるようになったのは第一句集『革命前夜』を上梓してからだ。師である有馬朗人は「新風を引きおこす」という言葉を使って期待は大であったがそれは見事に裏切られた。

 私は筑紫が「連載澤田和弥論集成」のなかでおもしろいことを言っていることに注目した。『革命前夜』は決して全共闘世代の革命とは違うようだ。どこか「革命ごっこ」が漂う、と言っていることだ。全く同感なのだ。

 澤田は中学生の頃、自宅のテレビから流れる寺山修司特集に大きく衝撃を受けた。修司の「とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩」に衝撃を受けたのである。澤田は「中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない」と述べている。澤田は「革命が死語となりゆく修司の忌」と詠んだ。澤田は修司に憧れ修司にならんと必死でもがいたが革命という言葉は澤田にとって死語になったのである。

 先に述べた筑紫の言葉に戻ろう。筑紫の言う「革命ごっこ」という言葉が身に沁みるのである。なぜならば澤田は「雪割や死にたき人がここにもゐる」と述べ、「春昼は春の昼なり嗚呼死にたし」といい、「生きるはずもなきわたしが蟻の中」「こほろぎ鳴け此岸はつまらなたった」と述べ、自らを「生くる子が首吊る子へとなりし冬」と記している。私は筑紫に「革命ごっこ」と言わしめたのは澤田の生き方が「甘え」に起因しているからだと考える。澤田は文学においても「死」という言葉は散見するが「生きる」という言葉は見当たらない。澤田にはいじめられても挫折しても常に帰る場所があったということでないだろうか澤田自身平成三年九月号『天為』において、家は良い意味でも悪い意味でも守られ場所であった」と言い、家の外は戦場あった」と述べている。澤田の死はいじめられっ子だったからではない、生きることへの「甘え」が澤田を死に至らしめた要因であると結論付けたい。


澤田和弥句文集特集(3-1➂)第3編 澤田和弥論 1津久井紀代の部

 ➂澤田和弥のこと         津久井紀代


 この度、『研究会の進め方』が発端となり、このまますでに忘れられていた和弥に光を当てていただいた。

 私は澤田との接点はなく、2-3度会う機会があったが、印象はうすく、確としない姿がぼんやりとあるのみである。

 よって、私は『天為』の中の澤田の文学に触れることが唯一の接点であった。

 しかし、澤田の句は何か気になる、何かを常に訴えているようであった。通常では「自分」は一句のうらがわにあるのが常であると思っていたが、澤田はその常識を破ったのである。「自分」をつねに文学として吐き続けたのが澤田和弥ではなかったのか。次の句を見れば明らかだ。


春愁や溢るるものはみな崩れ

魂漏らさぬように口閉づ花疲れ

生きてゐることに怯えて立夏かな

生も死もどつちょつかずの夏に入る


 『天為』平成24年作品コンクールの作品の中から挙げた。

 生きていることに怯えている様子が窺える。

 私は作品としての澤田がずーと気になっていたが、『天為』の中から澤田の作品に触れる人は現れなかった。

 このままで終わらせたくないと思い、一周忌の五月に(彼が自殺した日)に「こころが折れた日」と題して『革命前夜』の論を展開し、『天為』誌上に発表した。また、例会で「修司の忌即ち澤田和弥の忌」を発表した時、初めて有馬先生が「いい文章を書いてくれてありがとう。惜しい人を亡くした」とみんなの前で話されたのが唯一のすくいであった。


 生きていることに怯え、どっちつかずの生と死の間でもがき続けたのか、あらためて検証してみた。

 彼の根底に「いじめられた」ことがあった。文学の中で必死にもがいたが、そこから抜けだすことが出来ないまま自らの命を自分の手で断った。和弥は次のように記している。

 「中学に入ってとにかくいじめられた。同級生、後輩、教師、私の卒業アルバムは落書きだらけである。・・・いじめられることはそれほどまでに苦しい。死という選択肢を私は敢えて否定しない。社会にでてからもいじめに遭った。」

 彼は文学として心のうちを吐き出さなければ生きていけなかった。必死にもがいた。筑紫氏の言うところの「「新撰21」の影響をうけつつ独自の道を模索しつづけたようである」の発言には少し疑問を禁じえないが、「様々な媒体に挑戦した」ことは事実で、すべてのことが中途半端に終わっていることが、「死」への道を加速したのであろう。筑紫氏の指摘の「その行く先は茫漠としていた。若い人らしい行方のなさだ」には同感する。

 澤田の寺山への傾倒が見えて来たので記しておく。

 筑紫氏の「澤田は自らも寺山修司への傾倒を語り、句集にもその痕跡を残したがしかし作品として寺山の傾向が強かったとはあまり感じられない、・・寺山の系譜を確認し続けたといった方がよいかもしれない」という発言に答えたものである。

 澤田は『天為』のコンクール随想の中に次のように書いている。

 「最晩年の二年間を特集した番組が片田舎の我が家のテレビに流されたのは私が中学生の頃のこと。寺山の死からすでに十一年の歳月が流れていた。ぼんやりとテレビを見ていた私は不意に我を忘れた、亡我。寺山と出会った。それは両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっ子にはあまりにも衝撃的であった。いや。衝撃そのものだった。早速、地元の本屋へ行った。『寺山修司青春集』。生まれて初めて、血の流れる生きた「詩」と対面した。

 とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩

 私の詩を汚すものは憎きいじめっ子たち。中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない。中学の時の「想像という名の現実」。いつも寺山に教えられているばかりだ。彼に憧れながら、私は彼にはなれない。一体これから先、何ができるのだろうか。俳句はそれを教えてくれるのか。わからないことが多すぎる」。

 両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっこ。寺山に救いを求めたが、「彼に憧れながら、私は彼になれない」と自ら結論を出している。

 生と死の隣り合わせの人生の中に寺山に一条のひかりをよすがに、文学の中に自らを吐き出すことに拠って、和弥はかろうじて35歳の命を全うした、といえる。

2024年10月25日金曜日

『澤田和弥句文集』特集(0-1)はじめに 澤田和弥句文集について  津久井紀代

澤田和弥を後世に伝えようと先頭を切ったのが筑紫磐井であった。

このプロジェクトに参加させていただいたことを光栄に思う。


この度渡部有紀子を中心に『澤田和弥句文集』が東京四季出版より出版された。

「澤田和弥」として一冊に纏められたもので、後世に残る一書となっていることを喜びたい。この一書は、澤田とほぼ同年代の人が同年代の目線で編まれていることがこの句集のありかたとして優れている点である。

句文集は第一句集『革命前夜』のすべてを掲載している。私は澤田の仕事は『革命前夜』で完結していると捉えている。その点においてこの「句文集の」の冒頭に置かれていることに意義を感じている。句集あとがきに澤田は「僕のすべてです」「これが澤田和弥です」と自らも書き記している。

有馬朗人の序によると「時の日や寿司屋一代限りとす」を挙げ、「家業を継がぬことへのコンプレックスがある」と指摘している。さらに「祖父板前父板前僕鎌鼬」を挙げ、「祖父・父よりの家業を継がないというか、継ぐ力の無いことに対する自虐心が屈折して表されている」と指摘している。最後に「あまりにも繊細な気持ちの持つ若者」と指摘している。有馬はあときがに「澤田和弥がこの『革命前夜』をひっさげて俳句のそしてより広く詩歌文学に新風を引き起こてくれることを心から期待し、かつ祈る」と締めくくっている。澤田和弥には届かぬまま自ら幕を閉じた。

「羽蟻潰すかたち失ひても潰す」「咲かぬといふ手もあっただろうに遅桜」「卒業や壁は画鋲の跡ばかり」「手袋に手の入りしまま落ちてゐる」挙げればきりがない。恐ろしいと思う。どうして澤田はここまで自分を責めつけねばならなかったのであろうか。そのことを師である有馬朗人が答えを出している。「自虐心の屈折」である。理由は「あまりにも繊細な気持ち」である。

この「句文集」を通して、あまたのことに気づきがあった。そう、もう一度この世に生きた澤田和弥」を思い起こしてくれ機会をあたえてくれた貴重な一書である。

一方この句文集にすこし物足りなさを感じていることは否めない。

発起人である筑紫は自らのプログに「十三回に渡って澤田和弥論を展開した。さらに、「澤田和弥は復活する」として、「俳壇時評」十二年六月号「松本てふこと澤田和弥」、「俳句四季」六月号」、「天晴」二〇二一年六月号、にそれぞれ展開している。

さらに、「俳句時評」に「遅ればせながら澤田和弥追悼」仲寒蝉、平成二十五年の「句集評」に澤田和弥第一句集「革命前夜」読後感「言葉のダンデズム」を遠藤和若狭男の論も見逃せない。

これらの資料は澤田を語る上に非常に貴重な資料である。

このらの「論」があってこそ「澤田和弥」は「澤田和弥」たらしめているのではないかと考える。

2022年3月11日金曜日

澤田和弥論集成14(第7回) 澤田和弥は復活した  津久井紀代

 一年前の『天晴』夏号で澤田和弥追悼特集を組んだところ大きな反響があった。これは五月修司忌に合わせたものである。修司の忌は即ち澤田和弥の忌日でもあった。『豈』代表筑紫磐井に稿を依頼したところ「澤田和弥は復活する」と題して澤田論を展開してくれた。それ以前から澤田和弥のただ一つの句集である『革命前夜』を評価していたことを知っていたからである。『天晴』夏号の発刊が六月十日。そのあと筑紫は「俳壇」六月号、「俳句四季」六月号とつぎつぎと澤田に触れ、この一年さまざまなところで澤田論を展開してきた。また自らのブログに「澤田和弥論集成」として、十三回にわたって澤田和弥論を展開した。直近では二〇二〇年一月十四日「連載 澤田和弥」(第六回―七)において『若狭』に連載された「俳句実験室 寺山修司」に触れ、「澤田の最後の思い出は寺山にあった」という論を展開。澤田の連載は四回で終わったこと、体調を崩し、文章を書く気力は蘇らなかったようだ、と結論づけている。『若狭』に掲載された最後の作品として、

 冴返るほどに逢ひたくなりにけり

 菜の花のひかりは雨となりにけり

 白梅を抱え諦めている瞼かな

があげられている。この作の数か月あと澤田は自決した。ここには人間としての自分を放棄し、諦めだけが記されている。

 特記すべきは革命前夜のあとがきである。「これが僕です。僕のすべてです。澤田和弥です。」と言った言葉をもとに筑紫はつぎのように分析している。

 「これ」以後の澤田和弥 ― 新しい「これ」も我々は完璧に語ることが出来る。なぜならば新しい「これ」以後もう作品を作ることがないからだ、と結論づける。つまり澤田和弥を伝説として語ることが出来るようになったのである。

 筑紫が『天晴』の紙面で、「澤田和弥は復活する」と宣言して一年。筑紫磐井は見事に伝説の人として澤田和弥を復活させたのである。

 澤田和弥が俳壇で知られるようになったのは第一句集『革命前夜』を上梓してからだ。師である有馬朗人は「新風を引きおこす」という言葉を使って期待は大であったがそれは見事に裏切られた。

 私は筑紫が「連載澤田和弥論集成」のなかでおもしろいことを言っていることに注目した。『革命前夜』は決して全共闘世代の革命とは違うようだ。どこか「革命ごっこ」が漂う、と言っていることだ。全く同感なのだ。

 澤田は中学生の頃、自宅のテレビから流れる寺山修司特集に大きく衝撃を受けた。修司の「とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩」に衝撃を受けたのである。澤田は「中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない」と述べている。澤田は「革命が死語となりゆく修司の忌」と詠んだ。澤田は修司に憧れ修司にならんと必死でもがいたが革命という言葉は澤田にとって死語になったのである。

 先に述べた筑紫の言葉に戻ろう。筑紫の言う「革命ごっこ」という言葉が身に沁みるのである。なぜならば澤田は「雪割や死にたき人がここにもゐる」と述べ、「春昼は春の昼なり嗚呼死にたし」といい、「生きるはずもなきわたしが蟻の中」「こほろぎ鳴け此岸はつまらなたった」と述べ、自らを「生くる子が首吊る子へとなりし冬」と記している。私は筑紫に「革命ごっこ」と言わしめたのは澤田の生き方が「甘え」に起因しているからだと考える。澤田は文学においても「死」という言葉は散見するが「生きる」という言葉は見当たらない。澤田にはいじめられても挫折しても常に帰る場所があったということでないだろうか澤田自身平成三年九月号『天為』において、家は良い意味でも悪い意味でも守られ場所であった」と言い、家の外は戦場あった」と述べている。澤田の死はいじめられっ子だったからではない、生きることへの「甘え」が澤田を死に至らしめた要因であると結論付けたい。

2021年9月17日金曜日

【連載】澤田和弥論集成(第6回の1)

(【俳句評論講座】 共同研究の進め方 澤田和弥のこと――「有馬朗人研究会」及び『有馬朗人を読み解く』(その2))

1)澤田和弥のこと

                                               津久井紀代


 この度、『研究会の進め方』が発端となり、このまますでに忘れられていた和弥に光を当てていただいた。

 私は澤田との接点はなく、2-3度会う機会があったが、印象はうすく、確としない姿がぼんやりとあるのみである。

 よって、私は『天為』の中の澤田の文学に触れることが唯一の接点であった。

 しかし、澤田の句は何か気になる、何かを常に訴えているようであった。通常では「自分」は一句のうらがわにあるのが常であると思っていたが、澤田はその常識を破ったのである。「自分」をつねに文学として吐き続けたのが澤田和弥ではなかったのか。次の句を見れば明らかだ。


春愁や溢るるものはみな崩れ

魂漏らさぬように口閉づ花疲れ

生きてゐることに怯えて立夏かな

生も死もどつちょつかずの夏に入る


 『天為』平成24年作品コンクールの作品の中から挙げた。

 生きていることに怯えている様子が窺える。

 私は作品としての澤田がずーと気になっていたが、『天為』の中から澤田の作品に触れる人は現れなかった。

 このままで終わらせたくないと思い、一周忌の五月に(彼が自殺した日)に「こころが折れた日」と題して『革命前夜』の論を展開し、『天為』誌上に発表した。また、例会で「修司の忌即ち澤田和弥の忌」を発表した時、初めて有馬先生が「いい文章を書いてくれてありがとう。惜しい人を亡くした」とみんなの前で話されたのが唯一のすくいであった。


 生きていることに怯え、どっちつかずの生と死の間でもがき続けたのか、あらためて検証してみた。

 彼の根底に「いじめられた」ことがあった。文学の中で必死にもがいたが、そこから抜けだすことが出来ないまま自らの命を自分の手で断った。和弥は次のように記している。


 「中学に入ってとにかくいじめられた。同級生、後輩、教師、私の卒業アルバムは落書きだらけである。・・・いじめられることはそれほどまでに苦しい。死という選択肢を私は敢えて否定しない。社会にでてからもいじめに遭った。」


 彼は文学として心のうちを吐き出さなければ生きていけなかった。必死にもがいた。筑紫氏の言うところの「「新撰21」の影響をうけつつ独自の道を模索しつづけたようである」の発言には少し疑問を禁じえないが、「様々な媒体に挑戦した」ことは事実で、すべてのことが中途半端に終わっていることが、「死」への道を加速したのであろう。筑紫氏の指摘の「その行く先は茫漠としていた。若い人らしい行方のなさだ」には同感する。

 澤田の寺山への傾倒が見えて来たので記しておく。

 筑紫氏の「澤田は自らも寺山修司への傾倒を語り、句集にもその痕跡を残したがしかし作品として寺山の傾向が強かったとはあまり感じられない、・・寺山の系譜を確認し続けたといった方がよいかもしれない」という発言に答えたものである。

 澤田は『天為』のコンクール随想の中に次のように書いている。


 「最晩年の二年間を特集した番組が片田舎の我が家のテレビに流されたのは私が中学生の頃のこと。寺山の死からすでに十一年の歳月が流れていた。ぼんやりとテレビを見ていた私は不意に我を忘れた、亡我。寺山と出会った。それは両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっ子にはあまりにも衝撃的であった。いや。衝撃そのものだった。早速、地元の本屋へ行った。『寺山修司青春集』。生まれて初めて、血の流れる生きた「詩」と対面した。


 とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩


 私の詩を汚すものは憎きいじめっ子たち。中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない。中学の時の「想像という名の現実」。いつも寺山に教えられているばかりだ。彼に憧れながら、私は彼にはなれない。一体これから先、何ができるのだろうか。俳句はそれを教えてくれるのか。わからないことが多すぎる」。


 両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっこ。寺山に救いを求めたが、「彼に憧れながら、私は彼になれない」と自ら結論を出している。

 生と死の隣り合わせの人生の中に寺山に一条のひかりをよすがに、文学の中に自らを吐き出すことに拠って、和弥はかろうじて35歳の命を全うした、といえる。

2021年8月27日金曜日

【新連載】澤田和弥論集成(第5回)

 (【俳句評論講座】共同研究の進め方――「有馬朗人研究会」及び『有馬朗人を読み解く』(その1) 津久井紀代・渡部有紀子)より転載

【津久井紀代】

1.一作家を究めるということ

                津久井紀代

 この稿を興すきっかけになったのが評論家坂本宮尾の一通の手紙からである。そこには次のように書かれている。「ついに朗人句集十冊読破、すばらしい。偉業ですね。とりわけ独りで読むのではなく多くの人に学ばせ楽しみながら作業したところがほんとうに立派。おめでとうと百回言いたい。」というものである。率直にこころが震えた。この研究はこれで良かったのだとやっと自分にけりをつけることが出来た。

 坂本の言うところの偉業とは「有馬朗人全句集10巻を読み解く」という壮大な計画を立て、五年余をかけてこの度読破したことを差すものである。

 この計画は『天為』同人故澤田和弥の発言に依るものである。これを実行に移したのが『天為』同人内藤繁である。有馬先生の了承を得て、丁度『一粒の麦』の評論集を出したばかりの筆者が講師として招かれた。

 この計画がどのように進められたかを残っていた当時の資料から検証してみたい。

 結論を急ぐと、この計画が成功した理由には大きく次の三つことを挙げることが出来よう。

1.坂本が言うように独りではなくみんなで読み解いたということである。このことはすでに『天為』誌上において対馬康子が指摘していることでもある。有馬朗人研究会をはじめるにあたり「勉強会の目的」を掲げた。「有馬朗人の新しい世界を創り上げる。朗人に関する今までの知識は筆者が伝えるので、その上で新しいことを発見する。新しい眼で朗人俳句を見ると、意外な発見がある。そこが勉強会の目的である。その成果を一回ごとに出す。それにはみんながひとつになること。」と掲げたのである。

2.一回ごとの成果として、一つの句集が終わるたびに一冊づつ本にまとめて出版した。

これは最初から決めたことではないが研究を進めていく上において「纏めておきたい」という思いから、出した結論である。しかし、一冊出したがすべて個人の資金でやるという事は大変なことであった。途中なんども挫折したが、研究会会員の熱意が勝り、ここまでやっと出版することが出来た。最初の『母国』『知命』については筆者一人の著書として纏めたものである。理由として講義は筆者が主で進行していたためである。『天為』の三冊目に入ったころ、会員の一人から発言があった。「講師ばかりの発言でななく、みんなの意見を活発にしたい」というものであった。私はここで一つの成果を得た、と思った。三冊目は会員一人が一句づつ有馬朗人の句について論じたものを掲載した。この頃からノンリーダーの方式を採用した。一人一人全員で割り当てられた句について論じるという形式になった。これも一つの成果であったと確信する。会員は一回ごとに膨大なレジメを作成し発表したのである。

3.五年余という時間を人数は増えても挫折者がでなかったことの理由として、「有馬朗人の俳句を読み解く」という事のみに終わらなかったことである。その背景にあるものに膨大な時間を費やしたことに拠るものであろう。一例を挙げる。

 まづ第一句集『母国』に触れると略歴として年代、年齢、東大入学、東大ホトトギス入会、夏草入会、「子午線」創立にに参加、古館曹人、高橋沐石との交流。背景として 前半10年間アルバイトの連続、生活に追われ、疲れ果て、電車の中で立ながら眠った青春。生き抜くための励ましは俳句と物理の他なにもなかった。初めての海外出張シカゴアルゴンヌ研究所とその周辺のこと。俳壇での『母国』の評価、同年代鷹羽狩行、上田五千石、原 裕、について述べた。

 このように全体を把握した後に、一句一句について鑑賞を試みた。

 更に、「山蚕殺しし少年父となる夕べ」の句については斎藤茂吉が下敷きにあること

から斎藤茂吉について多くの時間を費やした。「水中花誰か死ぬかもしれぬ夜も」に

対しては、山口青邨の「ある日妻ぽとんと沈め水中花」を揚げ、山口青邨に膨大な時間

を使った。西東三鬼の即物的手法についても学んだ。「運河淀む蝙蝠己れの翳おそれ」では塚本邦雄と二物衝撃に触れた。「冬の夜も影ひくいとど草城死す」からは、大正後期没個性時代ホトトギス沈静期の無人時代に草城が突如現れたことから、大正時代初期に頭角を現した虚子の四天王について例句を挙げながら読み解いた。

 第二句集『知命』については主に聖書に触れながら海外俳句に多くの時間を使った。

 第三句集『天為』については海外からみた日本の伝統の美について論じた。

 繰り返すがこのように句集を読み解きながらその背景に多くの時間を費やしたことが

五年余という時間の重みになっていると思われる。

 この稿を書いているとき、井上弘美さんより『読む力』(角川)をいただいた。そこには次のように書かれている。

 「名句は誕生したときから光を宿している。しかし、その光を感じとったり引き出したりする読み手がいなければ、光は孵らない。光を放つ一句と出合える喜びは何ものにも代え難い。・・・しかし、そんな一句に出合ったとき、その輝きがどこから生まれるのかを読き解き、誰かに伝えて感動を共有したいといつも思う。」

 この一文に出合って、この五年間は無駄ではなかったことを確認できた。さらに「・・ある世界史の先生がようやく教科書の内容が絵巻物のように、途切れることなく一枚物として、自分の中でつながりました、と晴れやかに語ったことがあった。」と述べている。

最後に成果として言えることはこの井上弘美が言う様に「有馬朗人」が絵巻物のように一枚物として会員全員の心の中に繋がったことである。有馬朗人にとって決して満足のいくものではないことを承知しているが、この10冊を読み解くという作業を終えた後、会員がいかなる論を展開していくかが今後の課題である。すでに渡部有紀子が名乗りをあげている。

 私自身もこのままで終わるつもりはない。すでに論点はきまっているが、3年くらいをかけてじっくり取り組みたいと考えている。

つれづれなるままに


【渡部有紀子】

2.「有馬朗人研究会」について

                   渡部有紀子


 有馬朗人研究会は、「天爲」の有志たちが始めたもので、平成二十六年九月より令和元年十一月までの五年間、毎月一回休むことなく開催した。

 この会の設立には、天爲の浜松支部同人、故澤田和弥が大きく関わっている。

 和弥氏の第一句集『革命前夜』出版を記念しての句会を神奈川県藤沢市で行った際に「結社の中の若手を育成するにはどうしたらよいだろうか?」という相談を和弥氏にしたところ、「主宰である有馬朗人の全ての句集を徹底的に読み解く研究会をすると良い」という助言を得た。

 これに応えて研究会の設立準備を進めていた頃、有馬朗人の作品百句について論評をまとめた著書を出版したばかりだった東京の同人、津久井紀代氏と知遇を得ることができ、氏を講師役に迎えての研究会が始まった。会の代表は神奈川の同人、大西孝徳氏である。

出席者は神奈川県内の「天爲」同人・会員で毎回十三名前後。同時期に東京でも開設された会の五名を合計すると、全会員は約十八名であった。

 また、研究会では各句集が終了する毎に会員各自の学んだことを記した冊子を発行した。この度、「俳句新空間」に掲載の機会をいただいた本稿は、もともと第十句集『黙示』についての冊子に寄稿した原稿である。よって文中には、それまで発行した第一句集から第九句集についての報告冊子での内容を踏まえて書かれた箇所も多い点はお許しいただきたい。

 所属する結社主宰の句集に対し、主に結社内の人々に発表する論考であることから、どうしても「師の礼賛」あるいは、有馬朗人本人が過去の著作やインタビューの中で語ったことを「師の言葉」として無条件に受け入れてしまうといった傾向から逃れることはできなかったという反省もある。

 それでも有馬朗人という一人の俳句作家の作品を全て読み解いたことで、二十代・三十代から現在の八十代に至るまで、師が俳句を通じて志向した一本の線のようなものがおぼろげながらも見えてきたこと、有馬朗人俳句はこれまで巷でよく言われてきたような学術的な知識の豊富さのみでは語り得ないのではないかと気づけたのは大きな収穫であった。これをいかに結社外の人々にも説得力ある論に展開していけるかは、今回の筑紫磐井先生、角谷昌子先生からの御評でご指摘いただいた点をしっかりと受け止め、論考を重ねていきたいと思う。まだまだ不勉強の身ではあるが、これからも両先生はじめ「俳句新空間」、俳人協会「評論講座」の皆様よりご鞭撻いただければ幸いである。


【俳句界4月号より転載】

 天為「有馬朗人研究会」最終回  令和元年十一月二十六日(火) ユニコムプラザさがみはらに於て


 有馬朗人研究会は「天爲」浜松支部同人、故澤田和弥の助言により神奈川県の有志たちが始めたもので、主宰有馬朗人の全句集を読み解く会である。

 講師役に同人津久井紀代を迎え、平成二十六年九月に藤沢市総合市民図書館会議室にて第一回をもち、以降、月一回定例的に五年間休むことなく開催した。出席者は毎回十三名前後。同時期に東京でも開設された会の五名を合計すると、全会員約十八名である。

 物理学者である有馬朗人は、研究機関の委員や理事などの仕事で海外に出向くことが多く、これまで米国、欧州、中東、南米、特に中国での作品を発表している。「天爲」同人には中国からの留学生も多いが、留学生向けの寮の運営関係者が本研究会に参加。中国で詠まれた句に深い洞察を与え、大いに刺激となった。

 「漢詩や外国の歴史について調べるきっかけとなった」「国内作品には、古事記だけでなくアイヌや沖縄の神話も詠み込まれていて、新たに知ることが多かった」「ごきぶりなどの忌み嫌われがちな生物にも的確な写生を与え、科学者としての冷静なまなざしを感じる」と、いった発言が会員から寄せられた。

 また、各句集が終了する毎に会員各自の学んだことを記した冊子を発行。最終の第十句集『黙示』については、二〇二〇年三月の発行となった。最後にこの冊子より会員の論考を一部抜粋する。


 「朗人俳句についてよく言われることは、海外俳句と日本での作との間に差がない……つまり「平常心」という事である」(津久井紀代 『同シリーズ⑨ 第九句集 流轉』より)

 「朗人俳句は……上六、中八、下六など、俳句を音のバランスで創り上げている」((澤田和弥 『同シリーズ① 第一句集 母国』より)

 「(〈ねこじやらし神々もまたたはむれて〉について)日本独自の俳諧味……一神教の風土では、森羅万象、至る所に神々がいるというのは、ほとんど生まれない発想」(大西孝徳 『有馬朗人を読み解く⑤ 第五句集 立志』より)

 「その土地の歴史や風俗、人々の暮らしに思いを馳せて、重層的な句作りを行っている点が非凡」(杉美春 『同シリーズ⑨ 第九句集 流轉』より)

 「(<万霊雪と化して原爆ドームかな>について)作者は物理学者として……慙愧に堪えない……「万霊雪と化して」の言葉が心の叫びとして響きわたる」(妹尾茂喜 『同シリーズ⑥ 第六句集 不稀』より)

 「眼前の自然風景の中にある隣りあう二つの世界の存在を読者に感じさせる詠み方であれば、海外、日本国内を問わず詩情豊かに且つ、読者にも判りやすい俳句が作れることを朗人主宰は発見した」(渡部有紀子 『同シリーズ⑧ 第八句集 鵬翼』より)

(報告:渡部有紀子)

2021年7月9日金曜日

【新連載】澤田和弥論集成(第2回)津久井紀代

 (澤田和弥一周忌に寄せて〉 

 こころが折れた日 澤川和弥を悼む 津久井紀代[天為28年5月号]

 

 澤田和弥のこころが折れた日は革命前夜だったのか。

 改めて第一句集『革命前夜』を読む。

 この『革命前夜』を書いた時、すでに和弥は「こころが折れる日」を予感していた。

 理由はいくつも掲げることが出来る。        

 句集名『革命前夜』の命の文字だけ大きく傾いて書かれている。著者名澤田和弥の文字の上にはなぜ血の跡が飛び散っているのか、疑問が残る。

 見開きから静かに目次に眼を移す。

 青竜、朱雀、白虎、玄武、とある。これは天の四方を司る四神である。つまり天の隅々の神様への挨拶と取れる。

 さらに句集あとがきに眼を移すと、そこには「ありがとう」「ありがとう」の文字が多いことが気になる。

 知人友人には「僕の人生は君たちのおかげで色彩を得ることができたよ」と。「こんな弱い僕をいつも、どんなときでも、あたたかく見守ってくれる両親、兄夫婦に心から、最大級の御礼を申し上げます。本当にありがとう。あなた方がいなければ、私はここまで生きてこられなかった。ありがとう。本当にありがとう。」と締めくくる。

 三十五年間という人生の挨拶を『革命前夜』の日にすでに行っていると取っても不思議はない。

 なぜ革命前夜に心が折れたのか。彼の言い知れぬ「やさしさ」ゆえであった。

 三十五年に凝縮された深田和弥の俳句に傾ける情熱を紐解く。


 『革命前夜』の最初と最後の句を見る。

  故郷の桜の香なり母の文

  ストーブ消し母の一日終はりけり

である。

 これは三十五年問常に母の匂いを感じていたのである。言い換えれば母は常に和弥とともにいたのである。ストーブという日常をもってくることにより和弥もまた、母と共にあったのである。


 更に見ていくと晴よりも褻のものに目を留めているのである。


  壊れてゐたる少年の風車

  空缶に空きたる分の春愁

  このなかにちりめんじやこの孤児がをり

  風船を割る次を割る次を割る           

  蛇穴を出で馬鹿馬鹿しくなりけり           

  箸割つて箸の間を春の風

  卒業や壁は画鋲の跡ばかり


 「青竜」の項より挙げた。

 ここに見られる「虚無感」は「あきらめ」とも取れる。少年の「風車」は和弥にとって、「壊れてゐた」のだ。「空缶」と「春愁」とのあいだに生じる虚しさにはまだ救われる余地はあった。

 たくさんのちりめんじやこの中の一つは、世の中から取り残されたと感じる「われ」ととるべきものであろうか。

 なぜ風船を割らなければならなかったのか。その答えが「割る」を三つかさねたところにある。そんな自分が馬鹿川鹿しくなった時の虚無感は、箸を割った時の間から更に感じ取ることが出来る。晴れやかであるはずの「卒業」は硬質な「画鋲の跡」ばかりだったのか。 「革命」としての「詩」としてはあまりにもさみしい。                  

                             

  咲かぬといふ手もあつただらうに遅桜 

  春愁のメールに百度打つわが名

  陽春や路傍の石が全て笑ふ

  椿拾ふ死を想ふこと多き夜は

  おばあが来たり陽炎より来たり


 和弥に何かあったのか、などと詮索することは無意味だ。

 ここに経験したであろう「挫折感」は、さらに和弥の「革命」へとしての「詩」を深めたのか疑問が残る。和弥にとって「おばあ」は母親にはない「ともしび」であったのだ。シルエットが確としない「陽炎」の中の「おばあ」は和弥に取って最後の救いであった。


  革命が死語となりゆく修司の忌

  海色のインクで記す修司の忌

  修司忌や鉛筆書きのラブレター

  船長の遺品は義眼修司の忌

  廃屋に王様の椅子修司の忌

  折りたたむ白きパレット修司の忌

  修司忌へ修司の声を聞きにゆく


 「修司忌」より挙げた。

 『革命前夜』がここから始まったとすると「革命」は青春に満ちていたはず。「海色のインク」「鉛筆書きのラブレター」「王様の椅子」「白きパレット」、ここから青春の革命は始まるはずであった。しかし幾度の挫折が和弥のあまりの「やさしさ」ゆえにこころが「折れて」しまったのだ。


  若葉風死もまた文学でありぬ

  或る人に嫌はれてゐる聖五月

  とびおりてしまひたき夜のソーダ水

  東京に見捨てられたる日のバナナ

  太宰忌やぴょんぴょんとホッピング

  プール嫌ひ先生嫌ひみんな嫌ひ

  蟬たちのこなごなといふ終はり方


 「朱雀」の項より挙げた。

 ここにきて和弥のこころはすでに折れている。「死もまた文学」と突き放す。「或る人に嫌はれてゐる」という感覚は、すでに和弥のこころを離れて独り歩きを勝手にしている。

 「とびおりてしまひた」いという叫び、和弥を救えなかったのか。すでに「見捨てられた」と言い切る。傾倒した太宰を「ぴょんぴょんとホッピング」と書いた。ここにはすでに心が折れきっている。「嫌ひ」をこれほどはげしく重ねたことはすでに世の中をあきらめていると取れる。だから蟬の死を「こなごなといふ終はり方」と書いた。この時点で救える余地はなかったのかと考えるのは当然であろう。


  秋めくやいつもきれいな霊柩車


 「白虎」より挙げた。

 ここではすでに「霊柩車」を美化している。恐ろしいと思う。


  手袋に手の入りしまま落ちてゐる

  冬めくや母がきちんと老いてゆく

  外套よ何も言はずに逝くんじやねえ

  マフラーは明るく生きるために巻く


 「玄武」の項より挙げた。

 ここでは「母がきちんと老いて」いることを確かめている。

 「外套よ何も言はずに逝くんじやねえ」は自分をすでに他者として客観視している。

 和弥は「真の革命とは何か」を突き詰めた最後に、「死」という結論を自らに出した。一本のマフラーだけが彼の首を離れぽつねんと取り残された。


『革命前夜』より 澤田和弥自選十句

  薄氷や飛天降り立つ塔の上

  佐保姫は二件隣の眼鏡の子

  革命が死語となりゆく修司の忌

  廃屋に王様の椅子修司の忌

  太宰忌やぴょんぴょんとホッピング

  プール嫌ひ先生嫌ひみんな嫌ひ

  秋めくやいつもきれいな霊柩車

  蜘蛛の囲に蜘蛛の屍水の秋

  寒晴や人体模型男前

  ストーブ消し母の一日終はりけり

2021年4月9日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】15 等身大のわたし  津久井紀代

  はづきさんの「ぴったりの箱」の中はぎゅうぎゅう詰めではない。まだ多少の余裕がある。しかし箱の四隅の陵は正しくしっかりとしている。はづきさんのその「ぴったりの箱」の中には一枚一枚丁寧にたたまれた来し方が詰まっている。「等身大のわたし」なのである。

 「等身大のわたし」を紐解いていくと、まづ虚子の伝統俳句の真逆にいることがわかる。


 いぬふぐり聖書のような雲ひとつ

 象の背に揺られ春まで辿り着く


 はづき俳句の季語には季語性がないのである。「犬ふぐり」と「聖書のような雲」との余白に注目すべきだ。「聖書のような雲」は身体感覚が捉えた実景であろう。一方「いぬふぐり」とは関係性はないのである。二つを関係づけているものとして、余白が重要な役割を果たしている。つまり「いぬふぐり」は、はづき自身であることだ。そこには等身大としての「はづき」が存在するのである。「いぬふぐり」を紐解いてゆくと、道端に人知れず咲いている小さな花、まるでお星さまのようだ。見上げると雲が一つ。「聖書のような雲」だと捉えたのである。はづきの感性が捉えた「聖書のような雲」なのである。

 「春」があたかも象の背に揺られてくるような錯覚を覚える。「春」という言葉を象徴的に捉えた一句となっている。この不思議な象徴性もはづきさんを支配し得ているのである。


 約束は確かこの駅黄砂降る

 春の水まずはくすくす笑いから

 花粉症恋なら恋で割り切れる

 春雷やカレー粉入れるには早い

 清明や自転車隅々まで磨く

 夏木立儀式のように降り向いて


 はづき俳句の特徴にまづ素材の新しさを挙げねばならない。従来にない言葉が生き生きと描かれている。俳句独特の湿潤性からは遠いところにある。あかるくからっとしていることにも注目しなければならない。従来の俳句の常識をくつがえし、俳壇にあたらしい風を起こしたのである。

 「約束は確かこの駅」から「黄砂降る」への表現の斬新さに注目すべきであろう。「春の水」を「くすくす笑う」という新しい感覚でとらえている。「花粉症」のもやもや感、なにか割り切れぬ感覚を恋に発想を転換したところは注目すべき点である。「春雷」から「カレー粉」への発想の転換、日常の行為を詩に転換することにおいて稀有な存在であろう。


 身体から風が離れて秋の蝶

 からすうり鍵かからなくなった胸

 晩秋の木々一本はフランスパン

 音のない思い出あまた毛糸編む

 鯛焼の芯冷め切っている重さ

 はつなつや肺は小さな森であり


 はづきさんほど身体感覚に優れている俳人はいないであろう。五感をふるに使って、「秋の蝶」や「からすうり」をなんなく「胸」のなかに引き入れてしまうのである。「晩秋の木々一本一本はすでにはづきの胸のなかでフランスパンとして立っているのである。夜更けて毛糸を編んでいる。思い出には確かに音はない。鯛焼きの芯の冷めきった重さは身体が覚えている過去の内面であろう。肺が小さな森であるという感覚は新鮮だ。


 豚まんの身ぐるみ剥がす酷暑かな

 夏雲や振る手は明日にはみ出して

 夏帽を足して完璧な青空

 図書館は鯨を待っている呼吸

 狐火や絵本に見たくないページ

 思い出をいくら積み上げても案山子

  

  はづきさんは人生を等身大で生きている人だ。つまり人の痛み、もののあわれに敏感であるのだ。身ぐるみ剝がされている豚まん、明日にはみ出した手不気味な手、夏帽を足してはじめて完璧な空になるのだ。図書館に充満する息苦しい空気、絵本の中に見たくない狐火もある。思い出をいくら積み上げても案山子は案山子でしかあり得ないのである。ここには生きていることへの虚無感が描かれている。


 荒星やことば活字になり窮屈

 まだ脱げる言葉があって寒卵

 綿棒で闇をくすぐる春隣

 

  はづきさんにとって、ぴったりの箱の中に活字を閉じ込めるにはあまりにも窮屈なのだ。まだまだこれからも、新しい言葉を等身大で紡いでいくことの出来る人だと思う。
 小さな綿棒で大きな闇をくすぐりながら。

2020年5月15日金曜日

【俳句評論講座】 共同研究の進め方 澤田和弥のこと――「有馬朗人研究会」及び『有馬朗人を読み解く』(その2)

(1)澤田和弥のこと
                                               津久井紀代


 この度、『研究会の進め方』が発端となり、このまますでに忘れられていた和弥に光を当てていただいた。
 私は澤田との接点はなく、2-3度会う機会があったが、印象はうすく、確としない姿がぼんやりとあるのみである。
 よって、私は『天為』の中の澤田の文学に触れることが唯一の接点であった。
 しかし、澤田の句は何か気になる、何かを常に訴えているようであった。通常では「自分」は一句のうらがわにあるのが常であると思っていたが、澤田はその常識を破ったのである。「自分」をつねに文学として吐き続けたのが澤田和弥ではなかったのか。次の句を見れば明らかだ。

春愁や溢るるものはみな崩れ
魂漏らさぬように口閉づ花疲れ
生きてゐることに怯えて立夏かな
生も死もどつちょつかずの夏に入る


 『天為』平成24年作品コンクールの作品の中から挙げた。
 生きていることに怯えている様子が窺える。
 私は作品としての澤田がずーと気になっていたが、『天為』の中から澤田の作品に触れる人は現れなかった。
 このままで終わらせたくないと思い、一周忌の五月に(彼が自殺した日)に「こころが折れた日」と題して『革命前夜』の論を展開し、『天為』誌上に発表した。また、例会で「修司の忌即ち澤田和弥の忌」を発表した時、初めて有馬先生が「いい文章を書いてくれてありがとう。惜しい人を亡くした」とみんなの前で話されたのが唯一のすくいであった。

 生きていることに怯え、どっちつかずの生と死の間でもがき続けたのか、あらためて検証してみた。
 彼の根底に「いじめられた」ことがあった。文学の中で必死にもがいたが、そこから抜けだすことが出来ないまま自らの命を自分の手で断った。和弥は次のように記している。

 「中学に入ってとにかくいじめられた。同級生、後輩、教師、私の卒業アルバムは落書きだらけである。・・・いじめられることはそれほどまでに苦しい。死という選択肢を私は敢えて否定しない。社会にでてからもいじめに遭った。」

 彼は文学として心のうちを吐き出さなければ生きていけなかった。必死にもがいた。筑紫氏の言うところの「「新撰21」の影響をうけつつ独自の道を模索しつづけたようである」の発言には少し疑問を禁じえないが、「様々な媒体に挑戦した」ことは事実で、すべてのことが中途半端に終わっていることが、「死」への道を加速したのであろう。筑紫氏の指摘の「その行く先は茫漠としていた。若い人らしい行方のなさだ」には同感する。
澤田の寺山への傾倒が見えて来たので記しておく。
 筑紫氏の「澤田は自らも寺山修司への傾倒を語り、句集にもその痕跡を残したがしかし作品として寺山の傾向が強かったとはあまり感じられない、・・寺山の系譜を確認し続けたといった方がよいかもしれない」という発言に答えたものである。
 澤田は『天為』のコンクール随想の中に次のように書いている。

 「最晩年の二年間を特集した番組が片田舎の我が家のテレビに流されたのは私が中学生の頃のこと。寺山の死からすでに十一年の歳月が流れていた。ぼんやりとテレビを見ていた私は不意に我を忘れた、亡我。寺山と出会った。それは両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっ子にはあまりにも衝撃的であった。いや。衝撃そのものだった。早速、地元の本屋へ行った。『寺山修司青春集』。生まれて初めて、血の流れる生きた「詩」と対面した。

 とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩

 私の詩を汚すものは憎きいじめっ子たち。中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない。中学の時の「想像という名の現実」。いつも寺山に教えられているばかりだ。彼に憧れながら、私は彼にはなれない。一体これから先、何ができるのだろうか。俳句はそれを教えてくれるのか。わからないことが多すぎる」。


 両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっこ。寺山に救いを求めたが、「彼に憧れながら、私は彼になれない」と自ら結論を出している。
生と死の隣り合わせの人生の中に寺山に一条のひかりをよすがに、文学の中に自らを吐き出すことに拠って、和弥はかろうじて35歳の命を全うした、といえる。

(2)【筑紫磐井&渡部有紀子Q&A】

Q(筑紫)この研究会の発足にあたり亡き澤田和弥氏が関与していたことは意外でした。彼の句集『革命前夜』を読み、何回かの手紙のやりとりをさせて頂きましたが、俳句に熱意を持つ一面で非常にナーバスなところもある人のように感じておりました。結果的に直接お会いする機会はありませんでした。有馬主宰の序文に書かれた「『革命前夜』をひっさげて・・・広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待し、かつ祈る」も果たされない期待となってしまったのですが、『革命前夜』後の澤田氏の遺志は、この研究の成果で『有馬朗人を読み解く』である程度達せられたのかと思います。
 当時の経緯をもう少し詳しくお話しいただけますか。この研究を読みつつ彼を偲ぶよすがとしたいと思います。

A(渡部)結社の大事な先輩であり、個人的な恩人である和弥氏に注目していただきありがとうございます。本研究会発足の直接のきっかけとなったのは、先に述べた通り和弥氏を招いての藤沢での句会でした。
 句会の幹事をしていた天為の同人、内藤繁氏によると彼を選者に招こうと決めた理由は二つあったとのことです。

(1)当時、「天為」誌上で連載されていた「新刊見聞録」での和弥氏の原稿が、それまでの結社若手のとは全く違っていたこと。句集・俳論に限らず短歌や美術についての書籍を積極的に取り上げ、いわゆる読ませる文体で紹介していたこと。
(2)第一句集『革命前夜』を上梓した際に厳しい内容の礼状を出しところ、即返事が届き論争を仕掛けてきたこと。

 上記の点から彼の飽くなき俳句への探求心を感じ、神奈川県の結社会員、特に若手同人たちに刺激になればと彼を招いたそうです。よって、後に有馬朗人研究会発足のきっかけとなったアドバイスも、「神奈川県の若手を育てる良い方法は何か」という質問に対しての回答でした。
 句会当日は彼の地元である静岡県浜松市の他結社から足を運んだ人もあり、和弥氏は時間ぎりぎりまで全投句にコメントをする熱の入れようでした。当時、安定した公務員の職を辞したばかりと聞いていたので、俳句に何かをつかもうと必死にもがいているようにも感じました。
 研究会発足後も数回は浜松から出席してくださいましたが、やはり「余裕がない」との理由で途中からお見えにはなりませんでした。和弥氏が研究会へ期待されたことが達成できたのか、今となっては確かめようもありませんが「一人の作家を徹底的に読み解くのです」という彼の言葉通りのことは出来たと思っています。後は、参加者各自がこの成果から一歩進んで特定のテーマを見つけ深めていくことが重要でしょう。

(3)【澤田和弥追悼】同人誌「のいず」最終号寄稿
 澤田和弥さんのこと   
                                  渡部有紀子


 今回追悼文を書かせていただく人の中で、私は澤田和弥さんとは一番短いお付き合いだと思う。二〇一三年七月に刊行された第一句集『革命前夜』について、俳誌「天為」で一句鑑賞文を書かせていただいたことが和弥さんとの初めての接点だった。それから、翌年の三月には神奈川県の天為湘南句会に選者をお越しいただいたり、メール通信の句会にもお誘いいただいたりと、常に結社の先輩として非常に親切なご指導をいただいた。湘南句会の直後に句会の若手育成のためによい方法はないかと相談した時は、結社主宰の有馬朗人の全句集を徹底的に読む読書会をと、発案してくださった。後輩や周囲の人のためには、惜しみなく知恵と労力を提供し、常に一生懸命に生きている人。私はそういう印象を受けた。
 その印象は、短期間しか和弥さんに接することの出来なかった私の誤解かもしれない。だが、かつて和弥さんが書かれた句集評論の中には、あえて誤読を行うと断った上で、その理由を「俳句作者は己の作品の50パーセントしか作りえない。十七音というきわめて小さな詩型はそれしか許さない。残りの50パーセントは読者に委ねるしかない。つまり俳句という詩型がきわめて特殊である点は、作者と読者の共同作業によって、初めて100パーセントの作品に完成させられるということにある。」(“金子敦第四句集『乗船券』を読む” 「週刊俳句」二〇一四年二月十六日号)と、述べている箇所がある。私のように一年半という限られた期間だけ、直接和弥さんの発言を聞き、手紙やメールをやりとりした者にとっては、やはり和弥さんが残して下さった印象で五十パーセント、後の五十パーセントは私の乏しい想像力で補われた記憶に過ぎず、大部分は誤解であることを引き受けるしか無いのだろう。

俳人死す新茶の針ほど細き文字
和弥逝く色紙に酒とさくらんぼ


 和弥さんは筆まめな人だった。恰幅のよい体型と違って、手紙には先の細いペンで、所謂「とめ・はね」を忠実に守って書いたような生真面目で繊細な文字がびっしりと連なっていた。いつも決まって掛川茶が同封されていたが、同人誌『のいず』創刊の際は、創刊祝の返礼にと色紙を二枚くださった。退廃的な寺山修司の世界に憧れていた和弥さんには拒絶されそうではあるが、どうしてもその色紙には、瑞々しい光を放つ、甘酸っぱいさくらんぼを供えたいと思ってしまう。

瓶麦酒王冠きれいなまま開ける
王冠の歪まぬままの壜麦酒


 和弥さんはお酒好き、とりわけ麦酒が大好きだったようだ。「天為」の平成二十四年作品コンクールでは、麦酒を詠んだ先人達の俳句をとりあげた「麦酒讃歌」という随想で入賞している。先に述べた有馬朗人句集の研究会でも、皆で食事をした際は、昼間のファミリーレストランで、メニューを手に取るなり真っ先に麦酒を探して注文し、下戸の私を内心呆れさせたものである。とは言え、私が知る限りでは、酒に酔って乱れるようなことはない、終始朗らかな呑み方だった。それは昼間だった故か、それともやはり私の誤解なのか。もう少し機会があったら、よく冷えた瓶麦酒を王冠が歪むくらい勢いよく開けて、和弥さんのグラスに注ぎながら、俳句の話が聴きたかったと思う。私はウーロン茶専門なので、万が一、和弥さんが酔い潰れてしまっても介抱できただろう。

和弥死すこんなに五月の空真青
風五月手を振止まぬ弥次郎兵衛


 短期間しかお付き合いがなかった為、和弥さんについて私が誤解していることも多々あり、しかも同じ結社の先輩でもあるので、あまり馴れ馴れしいことは書かないでおこうと思っていた。だが、和弥さんが私に与えてくださったアドバイスや親切は、たった一年間だけでも私にとっては和弥さんという人物が、大切で尊敬すべき句友であると思わせるのに十分だった。
 最後に結社の先輩には失礼ながら、年齢は一つしか違わないという事実に甘えて、本音を吐露することをお許しいただきたい。和弥さん、あなた、死んでる場合じゃないですよ。もっと俳句を見せて欲しい、もっと俳句評論を書いて欲しい。あなたなら出来ることが沢山あります。あなたの句や評論がどれほど他の人たちを驚かせ、時には呆れさせ、同時に潔いまでにタブーをぎりぎりのところまで詠むあなたの作句態度や才能に圧倒されていたか。その青臭いほどの一途さと生真面目さに懐かしさと憧れを抱いていたか。和弥さん、あなた、これからでしょう?死んで今、何をしているのですか?


(4)【『革命前夜』 一句鑑賞( 渡部有紀子)】

咲かぬといふ手もあつただらうに遅桜 和弥

 和弥さんの句集を入手した日の夜、旧友が自宅を訪ねてきた。急ごしらえ出した泡雪寒を食べる頃になって、テーブルの上にあった句集を手に取った彼女の目が掲句の頁で止まった。「不思議な魅力のある句ね」と。彼女には俳句の心得がある訳ではないのだが、掲句の平明でストレートな表現が心を捉えたようだ。「何となく共感できるの」「咲くか咲くまいか迷っていたけど、咲いてみたら案外良いこともあるかもしれないって、思いきって咲いてみる決心というのな」と、コメントしていた。私はそれを聞いてなお、この句に不思議さを感じた。咲かぬという手だって?もし仮に花にも人間と同じような心があったとして、そんなの咲いてみて初めて知る事じゃないか!咲いてこそ、他の木や花がまだ咲いていないこと、あるいは花を愛でる人間達が咲きかけて結局散ってしまった花を嘆くこと、それらを認識した時に初めて、「咲かない」という選択も自分にはあったことを知るのではないのか。植物の花弁は温度と日照時間数が一定に達すれば開いてしまう。そこには「やめる」という意思が入り込む余地などない。しかるべき時期が来たから咲くのだ。初めて何かを為すというのもそれに近いと思う。今回は和弥さんの第一句集。「これが私です」と後書きにあるように、初めて和弥さんが自分を世に問うた第一歩である。問いかけずにいられなかったのだろう、今が和弥さんにとっての最適な時期だったのだから。十八歳から二十九歳までの玉句を収めた第一句集に続き、次なる三十歳代の第二句集を是非とも期待する。件の友人も「止めていいけど思いきってみたら良いことあるかもなんて決心つくようになったのは、三十路越えちゃってからよ」と、明るく笑っていたのだから。
(渡部有紀子)

(5)【参考】2015年7月24日(BLOG「俳句新空間」)
澤田和弥の過去と未来  /筑紫磐井


 未見の人であったが気になっていたのは澤田和弥氏であった。『超新撰21』の時から候補にはあがっていたが、結果的に見送ってしまっていた人である。特にその後、句集『革命前夜』を上梓され、いい意味でもそうでない意味でも、『新撰21』の影響があった人ではないかと思っている。

 『新撰21』等に入らなかったことについて西村麒麟氏から、『新撰21』がこれだけたくさんの新人(42人。小論執筆者まで入れれば80人。さらに『俳コレ』まで登場した)を発掘してしまうと、このシリーズに入らなかったことそれ自身が逆の差別をされてしまったような気になる、と企画者の一人に対する注文とも不満ともつかぬ発言をしたことがある。これは澤田氏にとっても同じ思いであったかもしれない。

 逆に言えば、入らなかった御中虫、西村麒麟、最近の例でいえば堀下翔などは、すでに『新撰21』(例えば神野紗希、佐藤文香)を超越してしまった世代といえるのではないかと勝手に思っている。『新撰21』といえども企画者3人の独断と偏見に満ちた選考で上がった名前であるから、これら3人の枠組みの中でしつらえられている。御中虫、西村麒麟、堀下翔はこうした企画者に反発して自分たちの枠組みで自分たちの登場の場を確保したのだ。

 以前、俳句甲子園に苦言を呈したのは、もちろん若い高校生たちが俳句に関心を持ってゆくのはありがたいが、彼らは、俳句甲子園企画者のルールに従い、枠組みの中で競っているのであって、自分たち独自のルールを作り上げたわけではない。以前の高校生は――つまり寺山修司などは、自分たちで同人雑誌を創刊し、全国の高校生を結集し、中村草田男などと交渉して俳句大会を開催していった。そうした活動と俳句甲子園とはずいぶん違うのだということである。もちろんどちらがいい悪いとは言わない、より多くの高校生俳人を結集させるには俳句甲子園方式はかなりいい手法かもしれないが、寺山流ではないのは間違いない。

 『新撰21』から外れた動きを眺めるために、今回【アーカイブコーナー】で、御中虫、西村麒麟の活動を掲げてみた。これは明らかに「上から目線」を完全には排除できなかった(他の俳人たちに比べれば余程努力したつもりだったのだが、完全には排除出来ないのだ)『新撰21』に対する、反『新撰21』の活動であったと思っている。いや、ほどほどに妥協し、揶揄しながら自分たちの主張を断固として貫徹している。『新撰21』が存在しなくても自分たちの存在は明らかになっていると思っている人達であろう。

 澤田は『新撰21』の影響を受けつつ、やはり独自の世界を模索し続けたようである。実に様々な媒体に挑戦している。私の関係するところでは、「豈」「俳句新空間」に登場しているし、その行く先は茫漠としていた。若い人らしい行方のなさだ。

 澤田は自らも寺山修司への傾倒を語り、句集にもその痕跡を残したが、しかし作品として寺山の傾向が強かったとはあまり感じられなかった。むしろ早稲田大学を通して、寺山の系譜を確認し続けたといった方がよいかもしれない。彼のライフワークになると思われたのは(悲しいことにわずか4回で中断してしまったが)、遠藤若狭男の主宰する「若狭」に連載し続けた寺山修司研究(「俳句実験室 寺山修司」)だ。これが完成していたら、寺山と澤田の関係はもっと濃密に見えたかもしれない。

 本人が存命している時の句集『革命前夜』と、亡くなってしまったあと読む句集『革命前夜』は少し趣が違っている。前者が今まで書かれた句集評の大半なのだが、後者を「俳句四季」10月号の座談会で取り上げ試みる予定であるが(齋藤愼爾、堀本祐樹、角谷昌子と座談)、妙に物悲しいものに思える(既に『革命前夜』は版元で売り切れ絶版となっている由)。有馬朗人氏の、「『革命前夜』をひっさげて俳句にそしてより広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待し、かつ祈」るという、わずか2年前の序文がどうしようもない違和感を醸し出す。なぜなら今日のこの状況を誰も知らないからだ。私は当初、こんな句を選んだがそれは未来のある人の句としての鑑賞だ。

    佐保姫は二軒隣の眼鏡の子
    黄落や千変万化して故郷
    冬の夜の玉座のごとき女医の椅子


 実は死の予告のような句を選んでしまった。詳細は「俳句四季」10月号を見て頂きたい。だからここでは、『革命前夜』後の作品を掲げて締めくくりたい。澤田和弥の未来がどうあったか(亡くなっても作者としてはまだ未来があるのだ。後世の読者がどう評価するかは我々の思惑を越えているのだから)、考えてみたい。御冥福をお祈りする。

    人間に涙のかたち日記買ふ   「若狭」より
    菜の花のひかりは雨となりにけり
    春夕焼文藝上の死は早し   「週刊俳句」角川俳句賞落選句より
    復職はしますが春の夢ですが
    女見る目なしさくらは咲けばよし


(6)【「俳句四季」二〇一五年一〇月号 [座談会]最近の名句集を探る40】

▼澤田和弥句集『革命前夜』


筑紫 最後の句集は洋出和弥さんの第一句集『革命前夜』(邑書林)です。
 出版されたのは少し前で、平成二五年の七月です。澤田さんは昭和五五年生まれ、学生時代は早稲田大学の俳句研究会に所属していました。平成一八年に「天為」に入会し、二五年に「天為」新人賞も取って、これからという時だったのですが、この第一句集を出して二年後の今年の五月に三五歳で亡くなられました。
 この句集はもう亡くなったことがわかっていて読むと、少し読み方が変わってくるのではないかと思うんですね。それを踏まえて幾つか句を紹介します。
 「冬夕焼燃え尽きぬまま消え去りぬ」。まさに澤田さんそのものを詠んでいるような句で、今読むと印象的です。
 「言霊のわいわい騒ぐ賀状かな」。ちょっと不気味な感じがします。「マフラーは明るく生きるために巻く」は今読むとシニカルにも読めますね。「秋天に雲ひとつなき仮病の日」。職場で悩む事もあったのかもしれません。「生前のままの姿に蝿たかる」「地より手のあまた生えたる大暑かな」。鬱々とした感じが胸に迫ります。
 こういう句ばかりだと湿っぽくなってしまうので「黄落や千変万化して故郷」。故郷に戻ってきてほっとした気持ちが窺えます。「冬の夜の玉座のごとき女医の椅子」は豪華でいいですね。
 有馬朗人さんが序文に「この『革命前夜』をひっさげて俳句にそしてより広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待」と書いているのですが、二年後に亡くなってしまう事を考えると悲しく響ききます。

齊藤 この句集には「修司忌」の句が二十句人っているけれども、僕が辛うじて採ったのは「革命が死語となりゆく修司の忌」の一句。全体的に寺山修司の影響はあまり感じられないですね。寺山だったら同人物の忌を二十句も作りはしない。世界で最愛の人が亡くなっても、せいぜい一句でしょう。二十句は死者に対して冷淡です。
 採った句は「シスレーの点の一つも余寒かな」。シスレーの点描画を「点の一つも余寒」と表現するのは面白い。「接吻しつつ春の雷聞きにけり」。これは「聞きいたり」としたい。

角谷「聞きいたり」だとずっと接吻が続いている感じですね(笑)。

齊藤 接吻するか、雷を聞くか、どちらかに専念せよということです。「短夜のチェコの童話に斧ひとつ」。寺山修司は斧を随分詠んでいるから、その影響かもしれない。「幽霊とおぼしきものに麦茶出す」「母も子も眠りの中の星祭」「終戦を残暑の蝉が急かすなり」「香水を変へて教師の休暇明」「金秋や蝶の過ぎゆく膝頭」などを採っています。
 「狐火は泉鏡花も吐きしとか」。泉鏡花と狐火は確かに合うしこのままでも面白いけど僕なら「狐火は泉鏡花を吐きしとか」とやりたい。「も」と「を」の一字で内容は反転する。

堀本 僕は澤田さんとはフェイスブックで繋かっていて、ある俳句の催しに参加しませんかと声をかけて貰った事がありました。結局都合が合わなくて行けなかったんですが、お会いしたかったですね。
 『革命前夜』というタイトルは、自分の内側でまず革命を起こしたい、という澤田さんの気持があったんじやないかなと思います。若くして亡くなられた事でどうしても句に後から意味が付加されて読まれてしまうんですが、できるだけ作品そのものをニュートラルに捉えたいと思って読みました。
 「恋猫の声に負けざる声を出す」。恋猫は実際うるさいんですよね。それに負けないように声を出す。すごく切実な声にも思えるし、楽天的に取ればユーモアとエロチシズムを感じます。
 「空缶に空きたる分の春愁」。春愁の句としてテクニカルな詠い方をしているのですが、同時に彼の繊細さが出ている一句です。「卒業や壁は画鋲の跡ばかり」。卒業の嬉しさよりも寂しさを詠んだ所がいいなと思います。
面白い句で「伽羅蕗や豊胸手術でもするか」。「豊胸手術でもするか」という軽い言い方に上五が渋い「伽羅蕗」で、日常の食べ物からいきなりメタモルフォーゼするようなところへ飛んでいく、そういう面白さがあります。「外套よ何も言はずに逝くんじやねえ」。友人に呼びかけるような、もしくはつぶやくような一句なのですが、これも亡くなってから意味が出てくる句ですね。自分が死を感じた時に、他人の事がよく見える時があると思うんです。そういう心理の働きがこの句でも見えていると思います。例えば中上健次が宮本輝さんに最後に会った日の別れ際に、「宮本、お前、長生きしろよな」と言ったという話があります。その一年後に中上健次は亡くなるんです。そういう事を思い出して、胸が締め付けられた一句でした。
 この句集を読めて良かったと思います。と同時に第二句集も読みたかったですね。

角谷 私はなるべく亡くなった事を先入観として持たないように読みました。でもタナトスの影がどうしてもちらついてくるんですね。例えば「椿拾ふ死を想ふこと多き夜は」「若葉風死もまた文学でありぬ」。田中裕明さんの最後の句集『夜の客人』に「糸瓜棚この世のことのよく見ゆる」という彼岸に足を踏み入れているような句かありますが、それに近いものを感じました。
 『革命前夜』といっても前衛的な句はあまりなくて抒情的な句が多い印象です。「半烏に銃声響き冴返る」には弛みのない硬質な叙情があります。「拘置所の壁高々と雪の果」。青年期の特徴とも言うべきこの世との隔絶感ですね。緊迫と弛緩の対比で作られているのが「薄氷や飛天降り立つ塔の上」。
 「鳥雲に盤整然とチェスの駒」。「チェスの駒」という整然としたものと「鳥雲に」のような柔らかく自在なものを取り合わせる。この取り合わせはこの方の持っている精神性から発せられているのかなと思いました。
 「修司忌」の句は齋藤さんが仰ったようにあまり採れる句はなかったです。「目」にこだわっている印象が強く、「船長の遺品は義眼修司の忌」など、凝視の作家だと思います。

筑紫 実はもう一つ所属している結社誌「若狭」では修司論を連載し始めてたんですよね、亡くなってしまったので四、五回で終わってしまいましたが。恐らく修司への意識の仕方は作品そのものからはあまり見えないけれど、評論の形で見えてきたかもしれない。

角谷 亡くなられると次第に忘れられてしまうことがあるので、こうやって語られる機会は大事だと思います。

筑紫 これからも澤田さんの俳句が語り継がれていって欲しいと思います。

(7)澤田和弥の最後とはじまり
                    筑紫磐井

 「狩」の同人遠藤若狭男が27年(2015年)1月に俳句月刊雑誌「若狭」を創刊している。遠藤は、若狭、つまり福井県の出身の人で、早稲田大学を出て学校の教師をしていたが、若くから詩や小説など多角的な活動をしていた。同じ早稲田の先輩である寺山修司の心酔者でもあった。
 ところでこの「若狭」に澤田和弥は創刊同人として参加しているのである。遠藤が、早稲田の先輩であり澤田が大学院在学中に所属した早大俳研の指導顧問であり、寺山への共感者ということが澤田参加の大きな動機となったのであろう。「若狭」へは、遠藤との個人的つながりだけで入会したのではないかと思う。従って入会の経緯はこの二人しか知らない。しかも、入会の年に澤田はなくなっているから、俳句の発表も僅かである。1~4月号と6~7月号であり、7月号で逝去が告知されている。
 特筆すべきは1~4月号まで澤田は「俳句実験室 寺山修司」(1頁)を連載していることである。むしろこの文章を執筆するために「若狭」に入会したと言ってもよいかも知れない。継続した澤田の文章としての最後のものと言うべきであった。やはり澤田の最後の思いは寺山にあったというべきであろう。
 この間の事情を知りたいと思ったが、何と言うべきであろう、遠藤若狭男自身は30年(2018年)12月に亡くなり、「若狭」も廃刊されてしまったから、伺う手がかりもない。ほとんど時期を一緒にして亡くなった師弟は寺山つながりだけで我々のもとに「若狭」という資料が残っているのだ。
 「俳句実験室 寺山修司」は寺山の一句鑑賞であるが、

豚と詩人おのれさみしき笑ひ初め 寺山修司(29年)
目つむりて雪崩聞きおり告白以後(30年)
十五歳抱かれて花粉吹き散らす(50年)
父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し(48年)

など僅かこの4句を鑑賞し、「俳句実験室 寺山修司 第四幕」は終了している。翌五月号では編集後記で遠藤は「好評を博している「俳句実験室 寺山修司」の著者である澤田和弥氏が体調を崩されてやむなく休載となりました。一日も早い回復を願っています。」と告知している。俳句も五月に欠詠し、六月に復詠している。文書を書く気力は蘇らなかったようである。7月に最後の俳句作品(七句)が載せられている。

冴返るほどに逢ひたくなりにけり  澤田和弥
菜の花のひかりは雨となりにけり
白梅を抱き締めている瞼かな


 「若狭」三月号では寺山の「十五歳抱かれて」の句を取り上げて鑑賞している。高校時代の作品として掲げられる『花粉航海』が実は四〇歳を過ぎてからの作品(つまり「新作」)を多く載せていることが巷間知られているが、それでも澤田はこの句を寺山の「未刊行」の句ではないかと推測する。それは十五歳という年齢が寺山の創作活動のスタートに当たるからだ。真実は寺山本人しか知らないが、そのように読み解く澤田の心理は分からなくはない。
 そしてこの鑑賞を読むと、澤田の「白梅」の句と構造が似ていることに気付く。澤田のこの最後の句を寺山に重ね合わせると、澤田の俳句人生のスタートとも見えてくるのだ。
澤田の『革命前夜』は決して全共闘世代の革命とは違うようだ。どこか「革命ごっこ」が漂う。それはしかし寺山にも似てはいなくはない。革命よりは革命ごっこの方が一般大衆には分かり易いのだ。革命前の露西亜のプーシキンは、革命と革命ごっこを行きつ戻りつした。革命史『プガチョーフ反乱史』と革命期の恋愛小説『大尉の娘』を同時並行して執筆した。『プガチョーフ反乱史』(この書名はロシア皇帝ニコライ一世の命名になるという)は革命家にとっての教科書となった、しかし一般大衆に愛されたのは『大尉の娘』だった。
      *
 澤田から生前、句稿が送られてきている。『革命前夜』(2013年刊)収録の後、角川俳句賞に応募して落選した「還る」(2011年)「草原の映写機」(2013年)「ふらんど」(2014年)、第4回芝不器男俳句新人賞に応募した無題の100句である。『革命前夜』後の澤田和弥を語るのに決して少ない量ではない。『革命前夜』で「これが僕です。僕のすべてです。澤田和弥です。」といった、「これ」以後の澤田和弥――新しい「これ」を我々は語ることが出来る。我々自身について、我々は語ることが出来ない。なぜなら我々が提示する、「これ」が全てではないからだ。しかし我々は今や安心して澤田和弥を語ることが出来る。「これ」以外に澤田和弥はないからだ。ようやく澤田和弥を伝説として語ることが出来るようになっているのである。

2020年4月24日金曜日

【俳句評論講座】共同研究の進め方――「有馬朗人研究会」及び『有馬朗人を読み解く』(その1) 津久井紀代・渡部有紀子

【津久井紀代】
1.一作家を究めるということ
                津久井紀代

    
 この稿を興すきっかけになったのが評論家坂本宮尾の一通の手紙からである。そこには次のように書かれている。「ついに朗人句集十冊読破、すばらしい。偉業ですね。とりわけ独りで読むのではなく多くの人に学ばせ楽しみながら作業したところがほんとうに立派。おめでとうと百回言いたい。」というものである。率直にこころが震えた。この研究はこれで良かったのだとやっと自分にけりをつけることが出来た。
 坂本の言うところの偉業とは「有馬朗人全句集10巻を読み解く」という壮大な計画を立て、五年余をかけてこの度読破したことを差すものである。

 この計画は『天為』同人故澤田和弥の発言に依るものである。これを実行に移したのが『天為』同人内藤繁である。有馬先生の了承を得て、丁度『一粒の麦』の評論集を出したばかりの筆者が講師として招かれた。
 この計画がどのように進められたかを残っていた当時の資料から検証してみたい。
 結論を急ぐと、この計画が成功した理由には大きく次の三つことを挙げることが出来よう。

1.坂本が言うように独りではなくみんなで読み解いたということである。このことはすでに『天為』誌上において対馬康子が指摘していることでもある。有馬朗人研究会をはじめるにあたり「勉強会の目的」を掲げた。「有馬朗人の新しい世界を創り上げる。朗人に関する今までの知識は筆者が伝えるので、その上で新しいことを発見する。新しい眼で朗人俳句を見ると、意外な発見がある。そこが勉強会の目的である。その成果を一回ごとに出す。それにはみんながひとつになること。」と掲げたのである。

2.一回ごとの成果として、一つの句集が終わるたびに一冊づつ本にまとめて出版した。
これは最初から決めたことではないが研究を進めていく上において「纏めておきたい」という思いから、出した結論である。しかし、一冊出したがすべて個人の資金でやるという事は大変なことであった。途中なんども挫折したが、研究会会員の熱意が勝り、ここまでやっと出版することが出来た。最初の『母国』『知命』については筆者一人の著書として纏めたものである。理由として講義は筆者が主で進行していたためである。『天為』の三冊目に入ったころ、会員の一人から発言があった。「講師ばかりの発言でななく、みんなの意見を活発にしたい」というものであった。私はここで一つの成果を得た、と思った。三冊目は会員一人が一句づつ有馬朗人の句について論じたものを掲載した。この頃からノンリーダーの方式を採用した。一人一人全員で割り当てられた句について論じるという形式になった。これも一つの成果であったと確信する。会員は一回ごとに膨大なレジメを作成し発表したのである。

3.五年余という時間を人数は増えても挫折者がでなかったことの理由として、「有馬朗人の俳句を読み解く」という事のみに終わらなかったことである。その背景にあるものに膨大な時間を費やしたことに拠るものであろう。一例を挙げる。

 まづ第一句集『母国』に触れると略歴として年代、年齢、東大入学、東大ホトトギス入会、夏草入会、「子午線」創立にに参加、古館曹人、高橋沐石との交流。背景として 前半10年間アルバイトの連続、生活に追われ、疲れ果て、電車の中で立ながら眠った青春。生き抜くための励ましは俳句と物理の他なにもなかった。初めての海外出張シカゴアルゴンヌ研究所とその周辺のこと。俳壇での『母国』の評価、同年代鷹羽狩行、上田五千石、原 裕、について述べた。
 このように全体を把握した後に、一句一句について鑑賞を試みた。
 更に、「山蚕殺しし少年父となる夕べ」の句については斎藤茂吉が下敷きにあること
から斎藤茂吉について多くの時間を費やした。「水中花誰か死ぬかもしれぬ夜も」に
対しては、山口青邨の「ある日妻ぽとんと沈め水中花」を揚げ、山口青邨に膨大な時間
を使った。西東三鬼の即物的手法についても学んだ。「運河淀む蝙蝠己れの翳おそれ」では塚本邦雄と二物衝撃に触れた。「冬の夜も影ひくいとど草城死す」からは、大正後期没個性時代ホトトギス沈静期の無人時代に草城が突如現れたことから、大正時代初期に頭角を現した虚子の四天王について例句を挙げながら読み解いた。
 第二句集『知命』については主に聖書に触れながら海外俳句に多くの時間を使った。
 第三句集『天為』については海外からみた日本の伝統の美について論じた。
 繰り返すがこのように句集を読み解きながらその背景に多くの時間を費やしたことが
五年余という時間の重みになっていると思われる。
 
 この稿を書いているとき、井上弘美さんより『読む力』(角川)をいただいた。そこには次のように書かれている。

 「名句は誕生したときから光を宿している。しかし、その光を感じとったり引き出したりする読み手がいなければ、光は孵らない。光を放つ一句と出合える喜びは何ものにも代え難い。・・・しかし、そんな一句に出合ったとき、その輝きがどこから生まれるのかを読き解き、誰かに伝えて感動を共有したいといつも思う。」

 この一文に出合って、この五年間は無駄ではなかったことを確認できた。さらに「・・ある世界史の先生がようやく教科書の内容が絵巻物のように、途切れることなく一枚物として、自分の中でつながりました、と晴れやかに語ったことがあった。」と述べている。
最後に成果として言えることはこの井上弘美が言う様に「有馬朗人」が絵巻物のように一枚物として会員全員の心の中に繋がったことである。有馬朗人にとって決して満足のいくものではないことを承知しているが、この10冊を読み解くという作業を終えた後、会員がいかなる論を展開していくかが今後の課題である。すでに渡部有紀子が名乗りをあげている。
 私自身もこのままで終わるつもりはない。すでに論点はきまっているが、3年くらいをかけてじっくり取り組みたいと考えている。

つれづれなるままに

【渡部有紀子】
2.「有馬朗人研究会」について
                   渡部有紀子


 有馬朗人研究会は、「天爲」の有志たちが始めたもので、平成二十六年九月より令和元年十一月までの五年間、毎月一回休むことなく開催した。
 この会の設立には、天爲の浜松支部同人、故澤田和弥が大きく関わっている。
 和弥氏の第一句集『革命前夜』出版を記念しての句会を神奈川県藤沢市で行った際に「結社の中の若手を育成するにはどうしたらよいだろうか?」という相談を和弥氏にしたところ、「主宰である有馬朗人の全ての句集を徹底的に読み解く研究会をすると良い」という助言を得た。
 これに応えて研究会の設立準備を進めていた頃、有馬朗人の作品百句について論評をまとめた著書を出版したばかりだった東京の同人、津久井紀代氏と知遇を得ることができ、氏を講師役に迎えての研究会が始まった。会の代表は神奈川の同人、大西孝徳氏である。
出席者は神奈川県内の「天爲」同人・会員で毎回十三名前後。同時期に東京でも開設された会の五名を合計すると、全会員は約十八名であった。
 また、研究会では各句集が終了する毎に会員各自の学んだことを記した冊子を発行した。この度、「俳句新空間」に掲載の機会をいただいた本稿は、もともと第十句集『黙示』についての冊子に寄稿した原稿である。よって文中には、それまで発行した第一句集から第九句集についての報告冊子での内容を踏まえて書かれた箇所も多い点はお許しいただきたい。
 所属する結社主宰の句集に対し、主に結社内の人々に発表する論考であることから、どうしても「師の礼賛」あるいは、有馬朗人本人が過去の著作やインタビューの中で語ったことを「師の言葉」として無条件に受け入れてしまうといった傾向から逃れることはできなかったという反省もある。
 それでも有馬朗人という一人の俳句作家の作品を全て読み解いたことで、二十代・三十代から現在の八十代に至るまで、師が俳句を通じて志向した一本の線のようなものがおぼろげながらも見えてきたこと、有馬朗人俳句はこれまで巷でよく言われてきたような学術的な知識の豊富さのみでは語り得ないのではないかと気づけたのは大きな収穫であった。これをいかに結社外の人々にも説得力ある論に展開していけるかは、今回の筑紫磐井先生、角谷昌子先生からの御評でご指摘いただいた点をしっかりと受け止め、論考を重ねていきたいと思う。まだまだ不勉強の身ではあるが、これからも両先生はじめ「俳句新空間」、俳人協会「評論講座」の皆様よりご鞭撻いただければ幸いである。

【俳句界4月号より転載】
 天為「有馬朗人研究会」最終回  令和元年十一月二十六日(火) ユニコムプラザさがみはらに於て

 有馬朗人研究会は「天爲」浜松支部同人、故澤田和弥の助言により神奈川県の有志たちが始めたもので、主宰有馬朗人の全句集を読み解く会である。
 講師役に同人津久井紀代を迎え、平成二十六年九月に藤沢市総合市民図書館会議室にて第一回をもち、以降、月一回定例的に五年間休むことなく開催した。出席者は毎回十三名前後。同時期に東京でも開設された会の五名を合計すると、全会員約十八名である。
 物理学者である有馬朗人は、研究機関の委員や理事などの仕事で海外に出向くことが多く、これまで米国、欧州、中東、南米、特に中国での作品を発表している。「天爲」同人には中国からの留学生も多いが、留学生向けの寮の運営関係者が本研究会に参加。中国で詠まれた句に深い洞察を与え、大いに刺激となった。
 「漢詩や外国の歴史について調べるきっかけとなった」「国内作品には、古事記だけでなくアイヌや沖縄の神話も詠み込まれていて、新たに知ることが多かった」「ごきぶりなどの忌み嫌われがちな生物にも的確な写生を与え、科学者としての冷静なまなざしを感じる」と、いった発言が会員から寄せられた。
 また、各句集が終了する毎に会員各自の学んだことを記した冊子を発行。最終の第十句集『黙示』については、二〇二〇年三月の発行となった。最後にこの冊子より会員の論考を一部抜粋する。

 「朗人俳句についてよく言われることは、海外俳句と日本での作との間に差がない……つまり「平常心」という事である」(津久井紀代 『同シリーズ⑨ 第九句集 流轉』より)
 「朗人俳句は……上六、中八、下六など、俳句を音のバランスで創り上げている」((澤田和弥 『同シリーズ① 第一句集 母国』より)
 「(〈ねこじやらし神々もまたたはむれて〉について)日本独自の俳諧味……一神教の風土では、森羅万象、至る所に神々がいるというのは、ほとんど生まれない発想」(大西孝徳 『有馬朗人を読み解く⑤ 第五句集 立志』より)
 「その土地の歴史や風俗、人々の暮らしに思いを馳せて、重層的な句作りを行っている点が非凡」(杉美春 『同シリーズ⑨ 第九句集 流轉』より)
 「(<万霊雪と化して原爆ドームかな>について)作者は物理学者として……慙愧に堪えない……「万霊雪と化して」の言葉が心の叫びとして響きわたる」(妹尾茂喜 『同シリーズ⑥ 第六句集 不稀』より)
 「眼前の自然風景の中にある隣りあう二つの世界の存在を読者に感じさせる詠み方であれば、海外、日本国内を問わず詩情豊かに且つ、読者にも判りやすい俳句が作れることを朗人主宰は発見した」(渡部有紀子 『同シリーズ⑧ 第八句集 鵬翼』より)

(報告:渡部有紀子)

Q(筑紫).ある作家の句集をまとめて読む方法としては、今回の『有馬朗人を読み解く』のように通時的に、1冊ごとに句集を読んでゆく方法と、すべての句集を通じて同一季題・同一テーマを比較する方法があると思います。俳句評論講座で角谷さんが例として取り上げた桂信子「激浪ノート」(1976年刊。その後、邑書林句集文庫『山口誓子句集 激浪』1998年刊付録として復刻)が後者にあたりますが、誓子の俳句の内部構造を剔抉する名著となっています。実は『有馬朗人を読み解く』のように通時的に句集を読んでゆく作業が進んでいれば、同一季題・同一テーマを比較する研究も進めやすいと思いますが、何かヒントになる発見がありませんでしたか。こうした全句集をまとめての特定のテーマについての漏れない分析を進めて頂ければ興味深いと思います。

A(渡部). 共同作業によって有馬朗人の全句集通読は完了しました。ご指摘のように、これを第一段階として、研究会のメンバー各自が何らかのテーマを決めて論考を深めていくのが第二段階となるかと思います。同一の季題・同一のテーマを前句集の中で見つけ、その変遷を指摘するのも興味深いと思います。その際、有馬朗人という作家のこれまでの半生をも踏まえた俳句の世界にフォーカスしていくのか、それとも同時代の作家たち―上田五千五石、鷹羽狩行などーと比較して当時の俳壇の様相を描きだすのか、アプローチが大きく二つに分かれると思います。個人的には、有馬朗人の俳句は初期作品より見受けられる「夜」―昼に見えるものは隠されて、昼に見えないものが見えてくるーのイメージがずっと続いていると感じています。

【筑紫磐井】
 俳句評論講座で様々な話題が出来ましたが、共同研究の進め方も話題の一つになりました。ちょうど講座に参加されていた津久井さん、渡部さんが「有馬朗人研究会」を実施され、その成果として有馬氏の句集10冊を『有馬朗人を読み解く』①~⑩として刊行されたので、講座参加者の皆さんの参考になるのではないかとその記経緯をご執筆頂きました。
 実は、これもこの講座に参加されている中西さんと私も相馬遷子の共同研究を行い、『相馬繊子――佐久の星』とまとめ上げたことがあるので、必要があればそれらを紹介したいと思います。
 今回は鑑賞と批評はありません。