はづきさんの「ぴったりの箱」の中はぎゅうぎゅう詰めではない。まだ多少の余裕がある。しかし箱の四隅の陵は正しくしっかりとしている。はづきさんのその「ぴったりの箱」の中には一枚一枚丁寧にたたまれた来し方が詰まっている。「等身大のわたし」なのである。
「等身大のわたし」を紐解いていくと、まづ虚子の伝統俳句の真逆にいることがわかる。
いぬふぐり聖書のような雲ひとつ
象の背に揺られ春まで辿り着く
はづき俳句の季語には季語性がないのである。「犬ふぐり」と「聖書のような雲」との余白に注目すべきだ。「聖書のような雲」は身体感覚が捉えた実景であろう。一方「いぬふぐり」とは関係性はないのである。二つを関係づけているものとして、余白が重要な役割を果たしている。つまり「いぬふぐり」は、はづき自身であることだ。そこには等身大としての「はづき」が存在するのである。「いぬふぐり」を紐解いてゆくと、道端に人知れず咲いている小さな花、まるでお星さまのようだ。見上げると雲が一つ。「聖書のような雲」だと捉えたのである。はづきの感性が捉えた「聖書のような雲」なのである。
「春」があたかも象の背に揺られてくるような錯覚を覚える。「春」という言葉を象徴的に捉えた一句となっている。この不思議な象徴性もはづきさんを支配し得ているのである。
約束は確かこの駅黄砂降る
春の水まずはくすくす笑いから
花粉症恋なら恋で割り切れる
春雷やカレー粉入れるには早い
清明や自転車隅々まで磨く
夏木立儀式のように降り向いて
はづき俳句の特徴にまづ素材の新しさを挙げねばならない。従来にない言葉が生き生きと描かれている。俳句独特の湿潤性からは遠いところにある。あかるくからっとしていることにも注目しなければならない。従来の俳句の常識をくつがえし、俳壇にあたらしい風を起こしたのである。
「約束は確かこの駅」から「黄砂降る」への表現の斬新さに注目すべきであろう。「春の水」を「くすくす笑う」という新しい感覚でとらえている。「花粉症」のもやもや感、なにか割り切れぬ感覚を恋に発想を転換したところは注目すべき点である。「春雷」から「カレー粉」への発想の転換、日常の行為を詩に転換することにおいて稀有な存在であろう。
身体から風が離れて秋の蝶
からすうり鍵かからなくなった胸
晩秋の木々一本はフランスパン
音のない思い出あまた毛糸編む
鯛焼の芯冷め切っている重さ
はつなつや肺は小さな森であり
はづきさんほど身体感覚に優れている俳人はいないであろう。五感をふるに使って、「秋の蝶」や「からすうり」をなんなく「胸」のなかに引き入れてしまうのである。「晩秋の木々一本一本はすでにはづきの胸のなかでフランスパンとして立っているのである。夜更けて毛糸を編んでいる。思い出には確かに音はない。鯛焼きの芯の冷めきった重さは身体が覚えている過去の内面であろう。肺が小さな森であるという感覚は新鮮だ。
豚まんの身ぐるみ剥がす酷暑かな
夏雲や振る手は明日にはみ出して
夏帽を足して完璧な青空
図書館は鯨を待っている呼吸
狐火や絵本に見たくないページ
思い出をいくら積み上げても案山子
はづきさんは人生を等身大で生きている人だ。つまり人の痛み、もののあわれに敏感であるのだ。身ぐるみ剝がされている豚まん、明日にはみ出した手不気味な手、夏帽を足してはじめて完璧な空になるのだ。図書館に充満する息苦しい空気、絵本の中に見たくない狐火もある。思い出をいくら積み上げても案山子は案山子でしかあり得ないのである。ここには生きていることへの虚無感が描かれている。
荒星やことば活字になり窮屈
まだ脱げる言葉があって寒卵
綿棒で闇をくすぐる春隣
はづきさんにとって、ぴったりの箱の中に活字を閉じ込めるにはあまりにも窮屈なのだ。まだまだこれからも、新しい言葉を等身大で紡いでいくことの出来る人だと思う。
小さな綿棒で大きな闇をくすぐりながら。
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