俳句と作者との「距離」が近い。見たもの、在るもの、だけでなく、自分の身体で感じたものを貪欲に表現しているから。生々しくてスリリングでどきどきする。だけど湿っぽくはない。俳句形式に忠実であるところと、作者自身の個性、さらに言えば力量に依るのだろう。
なつはづきさんの個性の一つとして、片仮名の使用が効果的という点がある。片仮名特有の響きがリズムを作り出し、音にも文字にも余裕をもたらす。そこで生まれる「渇き」によって、俳句のなかの作者自身の気持ちが薄まり、読者は過剰な胸やけを起こさずに済む。
ティンパニーどんどん熊ん蜂が来る
チンアナゴみな西を向く神無月
イリオモテヤマネコ梅雨の月匂う
カナリアや踏絵に美しき光沢
キーンと夜ツキノワグマが振り返る
次に、身体の感覚。痛覚、聴覚、触覚等々、総動員して詠む。肉体の全てを使って詠む。肌、歯、肺、読者は急にその存在を意識させられ、同時に作者の身に起こったであろう出来事を追体験する羽目になる。十七音を読むだけで、こんなにも不穏な(とあえて言いたい)胸の高鳴りを感じさせてもらえるとは。
夏あざみ二度確かめるこの痛み
右手から獣の匂い夏の闇
花疲れ鳴りっぱなしのファの鍵盤
はつなつや肺は小さな森であり
片恋や冬の金魚に指吸わせ
合鍵を捨てるレタスの嚙み心地
なつはづきさんとは、よく句会をご一緒する。特に気になるはづき俳句、それは何と言っても恋の句だ。俳句をするなら、とにかく恋を詠まないと。なつはづきさんも、きっとそう思っているに違いない(ご本人に確かめたわけではないけれど)。ただし、恋は単なる記号である。音程や、水着や、ミモザや、キリンとくっついて。記号として詠まれる恋は、本来の切実さとは一旦切り離され、逆に作者と読者をぐんと近づけてくれる。その結果、なつはづきさんは自分の思いを読者に無事届けているというわけだ。
音程のぐらぐらの恋夏帽子
さっきまで恋をしていた水着脱ぐ
ミモザ揺れ結末思い出せぬ恋
梅雨曇りキリンのような恋人と
とは言うものの、思いを届けるためには、丁寧で、真摯でなければならない。なつはづきさんは、詠んで、詠んで、詠みながら、いつもとても丁寧だ。そんなふうに詠まれた言葉が、この句集「ぴったりの箱」にはぎゅうぎゅうに詰まっている。よけいな飾りもひけらかしも一切ない。でも、みっちり思いの詰まった箱。温かくて豊潤な、重みや感触や匂いが、心のなかに、てのひらに、いつまでも残る。
いぬふぐり聖書のような雲ひとつ
やわらかい言葉から病む濃紫陽花
梅真白母をフルネームで呼ぶ日
少女にも母にもなれずただの夏至
水たまりは後ろ姿であり葉月
思い出に光が足りぬ石蕗の花
ふきのとう同じところにつく寝癖
前髪と前髪触れて木の実降る
綿棒で闇をくすぐる春隣
0 件のコメント:
コメントを投稿