2021年4月23日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】16 他者の光景~やさしさと共感力に支えられて  菅野れい

  まだまだ俳句初心者の域を出ない私が、『くれなゐ』という魅力的ではあるが初心者にとっては厳しく険しい山に、恐る恐る登ってみた。やはり道は険しかった。私などには到底語ることのできないような句の数々が聳え立っていた。それらについては、諸先生、諸先輩方の論を読ませていただきつつ、これからさらに勉強していきたいと思っている。

 ただ、読み進めていく中で、登山中、前から来た人に「こんにちは」と声を掛けられた時のような、ふっと心和む瞬間があった。それは、次に挙げるような〝他者の光景〟を詠んだ句に出会った時のことである。ここでは、それらの句について述べてみたい。

毛糸帽被りて才気消されけり

 ふだんは才気走って凛とした強気の人。それがある時、毛糸帽を被って現れた姿を見ると、なぜか少し老け込んで弱々しく見えた。おや、この人にもこんな面があったのか…と、小さな驚きとともに何とも言えない愛おしさまで感じてしまう。

蜜豆の豆を残して舞妓はん

 茶店か何かで偶然隣り合わせた舞妓さん。ふと見ると、蜜豆の豆だけきれいに食べ残されている。「あらあら、好き嫌いをして…。綺麗に着飾っていても、やっぱりまだ半人前の子どもなのねえ。」と、くすりと笑ってしまう。

はこべらや一人遊びの独り言

 相手がいないので、独り言を呟きながら一人遊びをしている子。遊びに夢中になっているからこそ出る独り言なのだろうが、なぜともなく切ない。誰に顧みられることもなく風に吹かれているぺんぺん草だけが話し相手なのだろうか?

吊革に立寝の人や遠花火

 帰宅時間帯の電車の中。ふと見ると、前に立っている人が吊革にぶら下がってウトウトしている。シャツの襟元は崩れ、上着には皺が寄っている。きっと昼間の勤めで疲れ切っているのだろう。どこかで賑やかに行われている花火大会などとは縁遠い、勤め人の悲哀…。

泡消えしビールの前のふたりかな

 ついだビールに手もつけないまま、泡が消えてしまうほどの時間が流れたのだろう、それも多分、重苦しい沈黙の時が…。この二人はどんな間柄なのだろう?二人の間に何があったのかしら?ついつい気にかかって、そっと見つめてしまう。

手話の子の手も笑ひをり花木槿

 誰と話しているのだろう。自分の耳が不自由なのか、それとも相手だろうか。いずれにしても、普通の会話よりもどかしく不便そうに思える手話。でも、この子は楽しそうにそれを操っている。手の、指の動きが、本人の笑顔同様、きらきら笑っているようだ。傍で咲き乱れている木槿の花も、まるで一緒に笑っているよう…。時としてマイナスイメージを纏ってしまうこともある〝手話〟を、こんな素敵なものにしているこの子に拍手。

ぶら下げて女遍路の荷沢山

 ふつうは、背に一つ腰に一つの荷姿で、手には杖一本だけのお遍路さん。ところがこの女遍路さんは、さらに手にもう一つ二つ荷物をぶら下げている。荷沢山は女の性(さが)。どこに行くにも、ついついあれこれと荷物が増えてしまう。遍路旅でさえ…。

彫物の皺む太腿踊りけり

 祭りで踊っている老人。尻端折りの裾から覗いている皺んだ太腿には、彫物の痕が見える。昔は威勢を誇っていたであろうそれも、今では皺の中で見る影もなく色褪せている。けっして平穏ではなかった来し方が偲ばれる、それでも踊り続ける老人に、「頑張ってきたんですね、お疲れ様でした」と声を掛けたくなる。

握る手を握り返さぬ受験の子

 試験会場に送り出す子の手を握りながら、「頑張ってね」とエールを送る。ところが、力強く握り返してくるはずの手は、力なく握られたまま…。余程緊張しているのか、不安のあまり心ここにあらずなのだろうか?心配が募る。何も言わず会場に向かう後ろ姿に、もう一度「頑張って」と呟く。

普段着の父母若し七五三

 七五三の光景。子どもは綺麗な晴れ着で着飾っているのに、付き添う両親は普段着。まだ年若く収入も少ない夫婦は、子の晴れ着を整えるのがやっとで、自分たちの装いにまで手が回らない。でもこの夫婦はそんなことはお構いなし、子どもの晴れ姿に満足しながら写メでも撮っているのだろう。若く健気な親心に乾杯。


 いずれの句も、それぞれの景を淡々と描写し、特に自分の思いを語っているわけではない。にもかかわらず、それぞれの句からは、作者の「どうしたのかしら…」と心配げに見つめる顔、「素敵ね!」と賛嘆する顔、「あらまあ…」と微苦笑する顔等々が浮かび上がってくる。そして読み手も、その場の景やそれによって呼び起こされる様々な思いを共有し追体験することができるのである。

 もちろんそうさせているのは、季語をはじめとする語句の巧みな選び方、それらの配置の妙、描写に当たっての思い切った省略、その他私などには思いも及ばぬほど多くの作句上のテクニックの力に相違ない。しかし、それ以上にこれらの句を成り立たせ支えているのは、他者のちょっとした仕草や様子、その小さな意外性にまで気づくことのできる力、そこからそれらの人々の思いや背景にまで思いを致し、そっと思いを寄せることのできる力=人としての優しさ、共感力なのではないかと思う。

 そんな優しさと共感力に支えられた句だからこそ、それらに出会った時、私の心もふっと和み、安らいだのだと思う。最初に書いたように、まだまだ勉強途中の私であるが、これらの句に励まされ背中を押してもらいながら、高き山『くれなゐ』をこれからもしっかりと読み込んでいきたい。


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