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2024年9月27日金曜日

■連載【抜粋】〈俳句四季8月号〉俳壇観測259 岡本眸と有馬朗人の全句集――昭和一桁世代の総括  筑紫磐井

 短期間の間に全句集が立て続けに刊行された。『岡本眸全句集』(ふらんす堂2024年5月21日)と『有馬朗人全句集』(角川書店2025年5月28日)である。いずれも、兜太、龍太らのいわゆる戦後派世代の次の昭和一桁世代である作家である。戦後派世代の華々しさに比べ、やや地味であるが昭和俳句を作りだした大事な作家たちだ。その業績も全句集で伺う限り『岡本眸全句集』は10句集を収録、『有馬朗人全句集』も10句集を収録し500頁前後の大冊となっている。ちょうどいいタイミングなので2つの全句集を並べて紹介してみたい。


岡本眸全句集

 岡本眸は昭和3年1月、東京都江戸川区で生まれる。本名は朝子。日東硫曹株式会社に入社し、社長秘書を務める。職場句会で富安風生、岸風三楼の指導を受け、「若葉」「春嶺」に投句する。昭和46年第一句集『朝』を上梓し、第11回俳人協会賞を受賞する。その後10冊の句集を上梓し、現代俳句女流賞、蛇笏賞、毎日芸術賞を受賞。55年には「朝」を創刊し、毎日俳壇選者を勤める等精力的な活動を勤める。平成20年以降静養に入り、28年「朝」を終刊し、30年9月15日に逝去。

 私が俳句を始めた頃に最初に読み、かつ華々しく取り上げられた第1句集『朝』の印象は今も変わらない。特に眸のあとがきと風生の解説は逸品である。句集上梓の直前に子宮癌手術のために入院、「女のごみ箱」(これは立派な差別用語なのだが眸自身がこう言っている)と言われる癌病院婦人科病棟に入院した患者たちと、そうした絶望的な環境の中で家族を思いやる主婦の姿を描き、激励されていくのである。一方風生の解説は「エスカレーターがこわくて乗れない」「生卵をかどにぶつけて割るというわざができない」というかまととぶりと、句集名を本名に因んで強引に「朝」とつけさせ、風生に解説まで書かせるというしたたかさが共存しているのが嫌味でなく師弟の信頼を語っている。


霧冷や秘書のつとめに鍵多く『朝』

立冬の女生きいき両手に荷『冬』

残りしか残されゐしか春の鴨『二人』

浅草へ仏壇買ひに秋日傘『母系』

黄落の干戈交ふるごとくなり『十指』

飲食のことりことりと日の盛『矢文』

子に五月手が花になり鳥になり『手が花に』

母方の祖母より知らず麦こがし『知己』

本当は捨てられしやと墓洗ふ『流速』

温めるも冷ますも息や日々の冬『午後の椅子』

(『岡本眸全句集』には、平成16年の毎日の一句と日記記事を収録した『一つ音』)(平成17年11月ふらんす堂)が番外で載る)


 岡本眸と富安の関係を見ると、4S世代と昭和戦前生まれ世代の不思議な関係が以前から気にかかってしょうがなかった。もちろん4S世代はそれぞれ次世代(子世代)を育成してきたが、意外に次世代に対してクールな関係を保ってきたようである。富安風生と加倉井秋を、山口誓子と橋本多佳子、水原秋櫻子と加藤楸邨や篠田悌二郎、山口草堂(石田波郷は例外)などとの関係はそのように見える。ところが、4S世代とその孫世代は惚れ込んでいるような濃密な愛情を示しているように見える。富安風生と岡本眸、山口誓子と鷹羽狩行、水原秋櫻子と福永耕二と特別な関係が浮かび上がってくるように思われる。


有馬朗人全句集

 有馬朗人は昭和5年9月、大阪市住吉区で生まれる。父母共に俳人で特に母籌子(かずこ)は後年関西の名門雑誌「同人」を主宰する。朗人は東京大学に入学し、理学部教授、東京大学総長、理化学研究所理事長を経て、参議院議員、文部大臣、科学技術庁長官などを歴任した。国立大学法人化やゆとり教育を主導した。日本の大学の窮乏化を警告した『大学貧乏物語』は余りにも有名。

 一方俳句では、昭和21年に「ホトトギス」に初入選。東大に入学した25年に「夏草」に入会し、山口青邨に師事。また東大ホトトギス会にも入会。高橋沐石らと「子午線」を創刊。平成2年「天為」を創刊・主宰。東大俳句会の指導も行う。国際俳句交流協会会長。昭和62年年俳人協会賞、平成16年加藤郁乎賞、19年 詩歌句大賞、24年 詩歌文学館賞、30年 毎日芸術賞、蛇笏賞を受賞する。令和2年12月6日自宅で急死した。


水中花誰か死ぬかもしれぬ夜も『母国』

新涼の母国に時計合せけり『知命』

光堂より一筋の雪解水『天為』

中国に妖怪多し夕牡丹  『耳順』

漱石の脳沈みゐる晩夏かな『立志』

浅草の赤たつぷりとかき氷『不稀』

ひざにゐて猫涅槃図に間に合はず『分光』

ソーダ水巴里に老いたる女かな『鵬翼 四海同仁』

春の夜の雪となりゆくオペラかな『流轉』

いづこにも釈迦ゐる国の朝涼し『黙示』

(以下略)

※詳細は「俳句四季」8月号参照

2022年2月11日金曜日

【抜粋】 〈俳句四季2月号〉俳壇観測229 コロナ解除——有馬先生を偲ぶ会・各賞表彰式  筑紫磐井

  コロナ状況の中でもうすぐ二年が経つ。何度も感染の波が押し寄せ、特に強烈な第五波は多くの人々を萎縮させた。人の集まる活動はことごとく中止され、俳壇もご多分に漏れなかった。しかし十月から理由は不明であるが急激に感染者は減少し、様々な制約が解除された。これから通常の生活に戻れるかも知れないと思っている最中、海外はまだ収束の様相を見せず、更にオミクロン株という強烈な新型種が登場し、外国人の渡航が全面禁止になった。現在はアクセルとブレーキを踏んでいるような気持ちで、自粛と復活がこもごも進んでいる。俳壇関係でどのように自粛と復活が進んでいるかを眺めてみよう。


有馬朗人先生を偲ぶ会(十一月二九日)

 有馬朗人氏が亡くなったのは令和二年十二月六日であった。有馬氏の活動は広範であったから、例えば研究者たちの偲ぶ会は東大や理研が中心となって行われたようだが、俳人の会は一年にわたって自粛されていた。そろそろ一周忌を迎えようとする十一月二九日に「有馬朗人先生を偲ぶ会」がオークラ東京で開かれた。三〇〇名近くの来賓会員を迎え、会食が付いての着席の式は、この二年間で記憶にないほど盛大な規模の会であった。殆どコロナ下での制限を感じさせないものであった。この会の責任者である西村我尼吾氏と話をした。西村氏は私が俳句を始めたばかりの時から面識があるので、いろいろな話を腹蔵なくできた(西村氏は当時東大法学部の学生であった)。彼によれば、正に奇跡的な会合だったと言っていた。恐らく一か月前でも後でもずれていたら開けていたかどうか分らない。西村氏自身国際機関の重職にあり、赴任地からの帰国を促され、十二月からはまたインドネシアに戻らねばならないと言っていたから個人的にも綱渡りのスケジュールであった。

 偲ぶ会前日には同人総会が開かれ今後の運営体制が決まったと披露された。有馬ひろこ夫人が副主宰、西村我尼吾(代表同人)対馬康子(最高顧問)、大屋達治(編集顧問)、福永法弘(同人会長)、日原傳(編集顧問)で、西村氏が課題句選者、対馬・大屋・福永・日原氏が毎月交替の天為集選者というこの1年間の体制を引続き継続することとなったそうだ。著名な俳人がなくなりいくつかの結社に分裂している例が最近は多いが、部外者にはとまどうことも多い。はっきり継承されているのは分りやすいことだ。中心人物たちが有馬氏の遺志を明確に認識し、共有できているからできることだろうと思う。

 偲ぶ会自身は献花の後、俳人協会の大串会長、現代俳句協会の宮坂特別顧問、玉藻の星野名誉主宰の悼辞が行われた後、西村・対馬・大屋・福永・日原氏らの幹部による開会の辞、献杯、追悼の辞・閉会の辞が執り行われた。天為一家・有馬一家らしい盛大な偲ぶ会であった。残念ながらひろこ副主宰は出席されなかった。

 偲ぶ会と併せて、天為十二月号は「有馬朗人一周忌特別号」が特集され、稲畑汀子・宇多喜代子・高橋睦郎氏らの一周忌に寄せる言葉と、堀切実・川本皓嗣・西村我尼吾の鼎談「俳句とは何か」が掲載された。有馬氏生前から面識のある人々であり、このテーマも有馬氏が暖め続けたテーマであり、三〇頁にわたる対話は読み応えがある。一年間にわたっての渾身の活動と言うべきであろう。


現代俳句協会表彰式(一〇月三〇日)

(中略)


俳人協会表彰式(六月二六日)

(中略)


 このように、おずおずと従来の生活に戻りつつあるようだが、令和四年になったからと言ってすぐに画期的に状況が改善出来るわけでもなさそうだ。しかし、句会や大会などを切望する声は強い。私も、現代俳句講演会(一一月二〇日)に参加したが、五〇人近い会場に聴衆の集まっている姿を見ると、昔なら何の不思議もないこの光景に、ついつい感動してしまった。令和四年がよい年であることを祈りたい。

※詳しくは「俳句四季」2月号をお読み下さい

2021年1月29日金曜日

連載【抜粋】〈俳句四季2月号〉俳壇観測217 有馬朗人氏の突然の逝去——若き日にアメリカの大学図書館にかよって見つけた大発見  筑紫磐井

 三つの顔を持つ男
 有馬朗人氏の突然の訃報が入ってきた。十二月六日、享年九十。主宰誌「天為」では新年号から新しい連載「全ての人に教育を」を始めているし、大半の総合誌の一月号には新春詠を寄せている。誰にとっても予想外の逝去だったのである。
 あまたいる俳人の中でも、有馬氏は世間的には取り分けて知名度が高かった。それは俳人としてのみならず、科学者として、文部大臣として、東大総長として多面な顔をもっていたからだ。文化人として最大の名誉である文化勲章も受賞している。もちろんこれは科学者としての受賞であり、俳句の面ではないのは本人としては残念だったらしいが。
(中略)私は一九九八年にインタビューをしている(「俳句界」一九九八年八月「いま俳句に思うこと」)。ここで面白い話を聞いている。それまでの人生を回顧して、自分(有馬)の第一の立志は十五歳の時でそこで物理学に志し、これは成功した。五十歳の時に第二の立志をし、六十歳までに更に学問に新しいものを加えようとしたがこれは完全に失敗した。

有馬 (略)なぜかというと、十年は短か過ぎる。十年のうちに学んで十年のうちにその成果を出して刈り取ろうなんて無理でした。そこへもってきて理学部長だとか、いろんなものをやるようになったから、ますます駄目でした。そこで六十になった時に、どうしたかというと、九十歳まで生きることにする、というのが第一次の志(笑)。三十年を与えてくれ!天よ、我を三十年、生かしめよ(笑)。」

 その理由は十年間仕込むことに使えば何とかなる、あとの十年でそれを実現する方向にもって行く、最後の十年で楽しもうと。その約束通り、九十歳で人生を全うされた。本望であったと言えるのではないか。

有馬朗人氏の原点
 有馬氏は東京大学に入られて、山口青邨に師事し「夏草」に投稿していた。青邨門では古舘曹人との交友が長く、曹人との関係から、結社を超えた雑誌「子午線」に参加、さらに俳人協会若手の句会「塔の会」に参加して視野を広げていった。しかし、これだけでは有馬氏の世界は生まれてこない。

有馬 (略)私は率直に言って、前衛も伝統もそんなに差はないという認識を持っています。ご質問から逸脱してしまうけれど、私自身は西東三鬼にいちばん影響を受けたんです。少なくとも精神的な影響はね。
筑紫 それは初めて伺います。
有馬 ご存じないかた多いと思う。もちろん虚子とか青邨、それから草田男、誓子からも常識通り影響を受けましたけれど、中でも感覚的な鋭さという点で、西東三鬼だったんですね。詩の方は完全に西脇順三郎たった。西脇順三郎の感覚が、私に一番ぴしゃっとくるところでしたね。そういう意味で考えてみると必ずしも、「ホトトギス」あるいは「夏草」という伝統の中に浸っていたからといって、そういう伝統的な手法で俳句を作っていたとは言えないと思うんですね。例えば「水中花誰か死ぬかも知れぬ夜も」とか、よく青邨、採ってくれたと思いますよ。あるいは「砂丘ひろがる女の黒き手袋より」なんていうのもあります。こういうのは、一方で西脇的なもの、一方で三鬼的な世界に憧れていたわけですね。そうしてみると私は、必ずしも伝統と前衛とが、ぴしゃっと分かれてしまうものじゃなくて、どこかで詩というものを媒体にしてつながっているだろうと思っていたわけですね。ただ、ある時期からそれを反省しだした。『天為』よりちょっと前ですが、「鶴」の連中に影響を受けてね。」


 成功したかどうかは別として、あらゆる方面に関心を持つと言うことは、ホトトギスにはない特色である。指導した東大俳句会や「天為」で育った若手達は決して型にはまらなかったのもうなずけるのである。

※詳しくは「俳句四季」2月号をお読み下さい。

2020年4月10日金曜日

【俳句評論講座】テクストと鑑賞⑤ 渡部テクスト(2)

【テクスト本文】
鑑賞 幻想の俳人 有馬朗人
                   渡部有紀子

 既刊の句集を全て読み通して、有馬朗人という作家は幻想を詠むことに長けているとつくづく感じた。こう書いてもおそらくすぐに肯定的な反応を得られることはないだろう。なるほど、これまで有馬朗人が評価される際には、単なる旅行者の眼を超えた海外詠しかり、豊富な知識に裏打ちされた知的操作に富む句しかり、全てに(良い意味での)「教養主義」(筑紫磐井「三つの視点―『不稀』を読む―」「天為」平成十七年四月号)という賛辞が送られてきた。

 だがここで一度足を止めて考えたい。有馬朗人は単なる「教養」の一言だけで片付け得る俳句作家なのだろうか?もちろん、原子核物理学の世界的研究者であり、八十代後半となった現代に至るまで常に海外の教育機関より招かれ、一時は文部科学大臣として国の教育行政にも携わり、世界の神話や宗教、詩学、歴史といった各方面への造詣が深いことは有馬朗人のゆるぎない知的好奇心とたゆまぬ努力の賜物である。しかし、それだけでは単なる「物知り」の俳句作家にすぎず、豊富な知識を披歴しただけの俳句では難解と評されるだけに終わっていただろう。

 ふらここのきしみ輪廻を繰り返す
 大寒やアダムと神の指の距離
 蝶はがれ舞ふや最後の審判図


 第八句集『鵬翼』のあとがきにおいて有馬朗人は俳句を「自然中心のアニミズム的思想に基づいた文化活動」と定義付けている。ここから筆者は、日本とは文化の異なる海外であっても、各地の地理的条件が織りなす自然の景物の中に生命の秩序を見出すアニミズム的発想が当てはめられることに有馬朗人は気づいたのだと、かつて指摘した。(渡部有紀子「有馬朗人 海外詠の方法」『有馬朗人を読み解く⑧ 鵬翼』二〇一九年)
 眼前の実景に潜む「何者かの気配」を察知する感覚で一句に仕立てているのが朗人俳句の世界である。知識はそれらを引き出すための手段に過ぎない。ふらここの軋む音の繰り返しは輪廻転生を思い起させ、神が最初の人間アダムに命を吹き込む瞬間の、まだ指の触れあわぬ僅かな距離こそが大寒と有馬朗人は我々に提起する。そして、最後の審判が描かれたフレスコ画より剥がれおちた絵具の切片が蝶となって舞う幻想世界へ我々を誘い込む。
  このような句の作り方は急に会得されたものではなく、第一句集『母国』の頃から既にあったことが認められる。

 梨の花夜が降る黒い旗のやうに (『母国』)
 蜥蜴走り去り時計の針となる (『母国』)
 影を売るごと走馬灯を売る男 (『母国』)


 『母国』より三句引いた。この頃はまだ知的操作による作品は少なかったものの、現実とは異なる世界の存在を確かに感じさせる。

 水中花誰か死ぬかもしれぬ夜も (『母国』)
 冴ゆる夜を鈴振り行きぬ凶神 (『知命』)


 「死」「凶神」と他所からやってくるものを捉える感覚の鋭さを即物的に一句に仕立てている。夜や影は朗人に句を作らせる格好の舞台装置である。
 第一句集『母国』の前書きで、山口青邨は朗人の作品に「メルヘンとか、童話とか、牧歌とか、さういふ叙情に豊かだ……童話的とか童心といふことは詩の古里」という言葉を贈った。実景をただなぞるのではなく、そこから想起される詩世界を作り上げていくことを、有馬朗人は最初から志向していたと言えよう。そのような朗人が三十歳代で最初に渡米して以降、諸外国の自然の景物に触れる中でその土地の人々の生活の基底にある宗教や神話・伝承に関心が向いていったのは不思議ではない。

 創造ブラフマーの微笑みに蝶生まれ継ぐ
 サーカスや白夜の空へ身を投げる
 語部の黙深かりし遠雪崩


 右の三句はそれぞれミャンマー、ウクライナ、秋田県横手市での句だが、蝶の羽化や空中ブランコ、語部を囲む子どもたちといった場面設定によって、読者は我々の生きる世界のすぐ隣にあるもう一つの世界へと入り込む。有馬朗人が専門とする物理学では、直接手に触れることはできなくても確かにそこにあるらしきものの存在は、原子核の融合や粉砕といった働きかけによって発生する粒子やガンマ線の計測によって確認されるという。朗人俳句においてもまた、作者から働きかけられた句の言葉によって我々読者の胸中に景が立ち上がる時、幻想世界の存在が確かなものとなる。
 同時にもう一つ重要な点は、朗人俳句はそこに永住しない者、やがて去る者としてのドライな視線を強く感じさせることである。第一句集『母国』に〈異邦人どうしが分つ木椅子の冷え〉〈落葉掃く黒人肌を輝かし〉とあるように、アメリカ滞在中の一時期、黒人の多く住む地区に居を構えたことがあったが、これは自らを異邦人と認識するからこそ、黒人差別の実態を【知りたい】と願い、西洋文化の根底にあるキリスト教的思想を聖書から【学ぶ】。徹底的な他者としての自覚から「乾いた抒情」は生まれている。

 十戒を得し地の井戸の雪解水 (『知命』)
 街あれば高き塔あり鳥渡る (『知命』)
 水温むガリア戦記の大河かな (『黙示』)

 幼少時より大阪、野田、橋本、浜松、そして東京と住まいを変えることが多かったからだろうか。転居の理由も後半は、実父の病や逝去といった自分の力では及ばないことに依ったからだろうか。常にどこに行っても朗人俳句にはその土地の者になろうという気負いや土にまみれたような匂いが感じられない。歴史的、神話的なモチーフに絶妙な季語を付けることで、その土地の人々の生活を垣間見しているかのような感覚を読者に抱かせる。両親については、第十句集『黙示』においてこれまで以上に多く作品が掲載されている。

 父母の流寓の地や獅子ばやし
 あの窓に父の魂魄夕桜
 梨の花流寓の地に残る家
 もらひ風呂せし遠き日や梨の花
 父焼きし野辺のはづれの菫草


 具体的に親と交わした言葉や遺品などを詠むことはせず、ただ事実だけを淡々と述べ、ここでも乾いた抒情に徹している。

 蠍座のマヤの森より這ひ上る (メキシコ)
 夏の蝶白し韓方医薬街 (韓国)
 斧沈め白夜の森の小さき湖 (オランダ)


 句集『黙示』は第五十二回飯田蛇笏賞だけでなく、第十七回俳句四季大賞も受賞した。選考委員の一人である星野高士は、海外詠の作品については、読者が未体験の地名であると深く鑑賞するのが難しいのではないかという危惧を抱いたが、『黙示』の作品に関しては、自分もそこの地を訪ねたくなるほどの力を感じたと述べている。これは、句の詩情に惹かれたからに他ならないのだが、もし実際にその土地に足を運んだとしても、俳句に描かれた景色そのものに出会うことはおそらく難しいだろう。有馬朗人の乾いた抒情によって差し出された景は、読者と作者の間にのみ存在する詩の世界なのだ。
 有馬朗人は第一句集『母国』にある「黒い旗のやう」な夜や「死」「凶神」といった別の世界からやってくるものに魅せられた経験から、諸外国の神話や聖書、、古代史を読み漁った。そこで得た知識は、やがて詩情豊かな幻想に満ちた句の世界へと結実したのだ。有馬朗人の俳句は読者を魅了してやまない。

【角谷昌子・鑑賞と批評】
 簡単ですが、気づいたことを書かせていただきます。

 渡部さんには、俳人協会新鋭評論賞への応募はじめ、評論講座にも熱心にご参加いただいています。このたびは、さっそく師事されている有馬朗人論をご提出されたことを嬉しく思います。
 「幻想の俳人」とのタイトルは、心惹かれるものの、「幻想」とは、現実からかけ離れた想念、との認識があるので、そのテーマをどのように論じてゆかれるのか、とても興味がありました。
 まず、冒頭段落ですが、「知識に裏打ちされた知的操作に富む句」とのご指摘は、もう少し説明を要するかとも思います。かつて中村草田男が山口誓子、金子兜太や、ほかの俳人の作品に対して「知的操作」を恣意的な態度だと強く批判していたので、孫弟子の自分としては、この言葉につい、マイナスの反応をしてしまいます。
 また、筑紫磐井氏の「教養主義」との評価も、「賛辞」とお書きですが、もしかすると筑紫氏の論が揶揄かとも受け取られてしまうので、積極的かつ肯定的な解説が必要かとも思います。(もちろん、このあとを続けて読んでいけば、肯定的な評価と分かるのですが)

P2 「ふらここ」「アダム」「最後の審判図」の例句のすぐあとに、鑑賞を入れて、それから持論を展開されると、読者を引き込むことができると思います。
 タイトルに「鑑賞」とあるので、ほかの引用句すべてに対しても、ご自身の鑑賞を入れたいです。おそらく、紙幅が限られているか、今回提出された「鑑賞 幻想の俳人」に、さらに肉付けして有馬朗人論を執筆されるおつもりなので、鑑賞は省略されているのでしょう。

 第一句集『母国』は、有馬氏にデラシネの思いがあり、かえって祖国へのいとしさがかきたてられ、作者の存在が強く顕ち現れた句集です。有馬氏の句集の中では、ことに現代詩的手法の反映した一集だと思います。この句集に「知的操作」は薄いようなご印象とお書きですが、どうでしょうか。

P6 「幻想世界の存在が確かなものに」との記述があります。もうすこし納得できる解説が欲しいところです。また前述した通り、引用句には、鑑賞が必要でしょう。鑑賞から読者は、その俳人の世界にますます魅力を感じることができます。せっかく引用されているのに、鑑賞がなくて俳句を挙げるだけだと、その句集の存在も薄くなります。(ですので、『黙示』に関する論考との読者の意識も低くなります)
 ここでは、キーワードの一つ「乾いた抒情」としての対象との距離感や客観性を鑑賞で示してから、持論を展開していただいたら、いかがでしょう。

 最終段落、蛇笏賞・俳句四季賞両賞受賞に至った第十句集『黙示』についての結論で、「知識」から「詩情豊かな幻想に満ちた世界に結実」との評価ですが、少々急ぎ過ぎている印象です。やはり紙幅のためと思いますので、全体の構成を考え、『黙示』にウエイトを置いた評価を丁寧に結語したいところです。

 以上、感想を思いつくまま、書かせていただきました。「幻想」と「虚」の世界は違うのでしょうか?イマジネーションの飛躍、土着よりも、さらに洗練に向かい、知的世界を昇華させる朗人俳句をぜひさらに論考していってください。
 最後に、筑紫さんの「教養主義」との賛辞について、また次のような山本健吉の言葉など、先人の評論を盛り込むとさらに立体的になるかと思います。

(たとえば、一例として、次の言葉がご参考になれば幸いです。)
山本健吉:〇「伝統あるいは歴史的形成作用に結びつくことによつて、個性が無私の普遍的表現を獲得」する。
     〇「土地の精霊との唱和」によって「叙景詩がたんに個性的な叙景的感動たるに止まらず、没個性的な条件を充たすことのうちに、詩の社会的機能を果たす」
     〇(芭蕉について)「詩としての普遍性・永遠性を志向した結果、改作することによつて事実を裏切る」「詩は現実が動機となつて創りだされるものであるが、同時に事実を拒絶することによつて始めて作品となる」

【筑紫磐井・鑑賞と批評と論争】
  渡部有紀子「鑑賞 幻想の俳人 有馬朗人」を読むにあたって少し予備情報を入れておきたい。
 津久井紀代氏を中心とした有馬朗人研究会という勉強会があり、有馬朗人氏の10冊の句集『母国』から『黙示』までを解読した研究が行われた。その成果は、句集1冊ごとに解読本1冊が出されると言う成果が出され、本年4月8日の奥付で『有馬朗人を読み解く⑩ 第十句集『黙示』蛇笏賞受賞作』が刊行されている(私の手元にはもう少し早く頂いているが)。この『有馬朗人を読み解く⑩』では参加者20名ほどの名前が挙がっており、共同研究なのであるが、その最初から最後まで参加している一人が渡部有紀子氏なのである。
 『有馬朗人を読み解く』シリーズは句集1冊ごとに鑑賞・研究されているが、これを横軸とすれば、いきおい句集を通覧した縦軸の評論がなされてしかるべきである。他の人たちがどのようにのぞまれているかは分からないが、その中でいち早く縦軸論文として書かれたのが「鑑賞 幻想の俳人 有馬朗人」なのである。
 その意味では『有馬朗人を読み解く①~⑩』が背景にあることを知って読むのが望ましい。この論では数句集から任意に作品が抜粋されているが、それは恣意的ではなく『有馬朗人を読み解く①~⑩』を踏まえて選ばれていることはよくよく承知しておきたい。
      *
 問題は切り口であろう。既に角谷氏が的確な論評を総論風に書かれて頂いているので、少し個別の話題について言及して見たい。私に係わる事なのでやや辛口になるかもしれないがお許しいただこう。
 渡部氏は、私が「天為」に書いた評論を引いて、「全てに(良い意味での)「教養主義」という賛辞が送られてきた」と言われている。これに対し角谷氏は、「筑紫磐井氏の「教養主義」との評価も、「賛辞」とお書きですが、もしかすると筑紫氏の論が揶揄かとも受け取られてしまう」と述べられている。これは論者である私の日頃の発言・行動から要らざる議論を呼んでしまっているのかもしれず、いたく反省しているところである。
 ただそれはそれとして、教養主義と言った理由は、私自身有馬氏は教養主義以外の何物でもないと感じたこと、そして教養主義がかつての大学の理念として至上の価値を持っていただろうことを申し上げたかったからである。数年前に、俳句講座のシリーズの監修・執筆をしその題名を決める段で、私が「教養」講座がいいのではないかと提案したところ、大学教授たちは猛反発をした。既に、教養という言葉は大学で十分胡散臭いものとしての価値観が定着していたのだと実感した。ただ当時の社長が強引に私の案を推し、『俳句教養講座』3巻が角川から発刊されている。しかしその後の教育行政を考えてみると、教養を捨てたことは間違いだったのではないかと思っている。たぶん有馬氏も同感だと思う。平成10年8月号の「俳句界」に載っている私が有馬氏に行ったインタビューでは、意外なことに他の誰よりも三鬼が好きだったこと、青邨のドイツ教養主義の影響を受けていること等を語っている。
 もう一つは、第八句集『鵬翼』のあとがきで有馬氏が述べている、俳句は「自然中心のアニミズム的思想に基づいた文化活動」という発言を渡部氏は高く評価しているが、充分な検討が必要であるように思われる。本人が言った言葉だからと言って、有馬氏を律する金科玉条となるわけではないだろう。物理学者としての有馬氏(特に教養主義の有馬氏)からどのような思考経路でアニミズムが出て来るか、渡部氏自身の言葉で説明してもらわなければならない。アニミズムの主唱者である金子兜太や稲畑汀子や小澤實(不思議なことに皆人文科学系だ)とは少し違うはずである。
 以上、論争を期待します。
    *
 少し冒頭に戻って、有馬朗人研究会についていうと、「俳句界」の4月号でこの研究会のレポートが載っており、澤田和弥氏の助言によって始まったものだと書かれていたのを見て感慨を禁じえなかった。『有馬朗人を読み解く①』を探してみてみると、確かに澤田和弥氏の名前がある。しかし澤田氏は、『有馬朗人を読み解く①』が出る直前に亡くなっている。澤田氏は有馬氏の序文を頂いた第1句集『革命前夜』を平成25年に出し、平成27年に亡くなっているのである。まさに革命前夜に、革命を見ることなく逝ったのである。今彼が種をまいた成果がこのように結実していることを彼は知らない。渡部氏ならずとも好いが、一度こうした研究会の顛末を書いてほしいものだ。せっかくの試みが忘れられてしまうかもしれないからだ。
 (澤田和弥氏は早稲田大学の出身で、同級生の高柳克弘を俳句に誘ったと言うように若い世代のかなめ役を果たしており、結社を超えて期待を担っていた。「週刊俳句」には彼に対する追悼文が多く寄せられている。「天為」の他に、大学の先輩である遠藤若狭男氏の「若狭」にも所属していたが、その遠藤氏も、澤田氏を見送ったのち平成30年に亡くなった。現代史もどんどん過去のものとなってゆくのだ)