2024年9月27日金曜日

■連載【抜粋】〈俳句四季8月号〉俳壇観測259 岡本眸と有馬朗人の全句集――昭和一桁世代の総括  筑紫磐井

 短期間の間に全句集が立て続けに刊行された。『岡本眸全句集』(ふらんす堂2024年5月21日)と『有馬朗人全句集』(角川書店2025年5月28日)である。いずれも、兜太、龍太らのいわゆる戦後派世代の次の昭和一桁世代である作家である。戦後派世代の華々しさに比べ、やや地味であるが昭和俳句を作りだした大事な作家たちだ。その業績も全句集で伺う限り『岡本眸全句集』は10句集を収録、『有馬朗人全句集』も10句集を収録し500頁前後の大冊となっている。ちょうどいいタイミングなので2つの全句集を並べて紹介してみたい。


岡本眸全句集

 岡本眸は昭和3年1月、東京都江戸川区で生まれる。本名は朝子。日東硫曹株式会社に入社し、社長秘書を務める。職場句会で富安風生、岸風三楼の指導を受け、「若葉」「春嶺」に投句する。昭和46年第一句集『朝』を上梓し、第11回俳人協会賞を受賞する。その後10冊の句集を上梓し、現代俳句女流賞、蛇笏賞、毎日芸術賞を受賞。55年には「朝」を創刊し、毎日俳壇選者を勤める等精力的な活動を勤める。平成20年以降静養に入り、28年「朝」を終刊し、30年9月15日に逝去。

 私が俳句を始めた頃に最初に読み、かつ華々しく取り上げられた第1句集『朝』の印象は今も変わらない。特に眸のあとがきと風生の解説は逸品である。句集上梓の直前に子宮癌手術のために入院、「女のごみ箱」(これは立派な差別用語なのだが眸自身がこう言っている)と言われる癌病院婦人科病棟に入院した患者たちと、そうした絶望的な環境の中で家族を思いやる主婦の姿を描き、激励されていくのである。一方風生の解説は「エスカレーターがこわくて乗れない」「生卵をかどにぶつけて割るというわざができない」というかまととぶりと、句集名を本名に因んで強引に「朝」とつけさせ、風生に解説まで書かせるというしたたかさが共存しているのが嫌味でなく師弟の信頼を語っている。


霧冷や秘書のつとめに鍵多く『朝』

立冬の女生きいき両手に荷『冬』

残りしか残されゐしか春の鴨『二人』

浅草へ仏壇買ひに秋日傘『母系』

黄落の干戈交ふるごとくなり『十指』

飲食のことりことりと日の盛『矢文』

子に五月手が花になり鳥になり『手が花に』

母方の祖母より知らず麦こがし『知己』

本当は捨てられしやと墓洗ふ『流速』

温めるも冷ますも息や日々の冬『午後の椅子』

(『岡本眸全句集』には、平成16年の毎日の一句と日記記事を収録した『一つ音』)(平成17年11月ふらんす堂)が番外で載る)


 岡本眸と富安の関係を見ると、4S世代と昭和戦前生まれ世代の不思議な関係が以前から気にかかってしょうがなかった。もちろん4S世代はそれぞれ次世代(子世代)を育成してきたが、意外に次世代に対してクールな関係を保ってきたようである。富安風生と加倉井秋を、山口誓子と橋本多佳子、水原秋櫻子と加藤楸邨や篠田悌二郎、山口草堂(石田波郷は例外)などとの関係はそのように見える。ところが、4S世代とその孫世代は惚れ込んでいるような濃密な愛情を示しているように見える。富安風生と岡本眸、山口誓子と鷹羽狩行、水原秋櫻子と福永耕二と特別な関係が浮かび上がってくるように思われる。


有馬朗人全句集

 有馬朗人は昭和5年9月、大阪市住吉区で生まれる。父母共に俳人で特に母籌子(かずこ)は後年関西の名門雑誌「同人」を主宰する。朗人は東京大学に入学し、理学部教授、東京大学総長、理化学研究所理事長を経て、参議院議員、文部大臣、科学技術庁長官などを歴任した。国立大学法人化やゆとり教育を主導した。日本の大学の窮乏化を警告した『大学貧乏物語』は余りにも有名。

 一方俳句では、昭和21年に「ホトトギス」に初入選。東大に入学した25年に「夏草」に入会し、山口青邨に師事。また東大ホトトギス会にも入会。高橋沐石らと「子午線」を創刊。平成2年「天為」を創刊・主宰。東大俳句会の指導も行う。国際俳句交流協会会長。昭和62年年俳人協会賞、平成16年加藤郁乎賞、19年 詩歌句大賞、24年 詩歌文学館賞、30年 毎日芸術賞、蛇笏賞を受賞する。令和2年12月6日自宅で急死した。


水中花誰か死ぬかもしれぬ夜も『母国』

新涼の母国に時計合せけり『知命』

光堂より一筋の雪解水『天為』

中国に妖怪多し夕牡丹  『耳順』

漱石の脳沈みゐる晩夏かな『立志』

浅草の赤たつぷりとかき氷『不稀』

ひざにゐて猫涅槃図に間に合はず『分光』

ソーダ水巴里に老いたる女かな『鵬翼 四海同仁』

春の夜の雪となりゆくオペラかな『流轉』

いづこにも釈迦ゐる国の朝涼し『黙示』

(以下略)

※詳細は「俳句四季」8月号参照