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2025年10月24日金曜日

【予告】第50回現代俳句講座 |「昭和百年 俳句はどこへ向かうのか」

「現代俳句」誌において企画した、『私が推す「現代俳句」五⼈五句/協会役員アンケート』の結果を踏まえ、⾒えてきた現代俳句の姿。

その総括とそれを踏まえての俳句の「現在位置」、そして「未来」を考えていきます。

俳句はどうなっていくのか、AIとの共存は出来るのか?

ディスカッションを通じて皆様もご⼀緒に想像してみませんか


【パネラー】

筑紫磐井×神野紗希×柳生正名


2025年11月24日(月・祭日)

13時30分~16時45分(受付は13時より)


◇会場

ゆいの森あらかわ「ゆいの森ホール」

東京都荒川区荒川二丁目50番1号

電話 03-3891-4349

都電荒川線「荒川二丁目」徒歩1分

東京都メトロ千代田線「町屋駅」、京成線「町屋駅」徒歩8分

交通アクセス - ゆいの森あらかわ


◇定員

100名(うち荒川区民定員20名。申込順。定員になり次第締め切ります)


主催:一般社団法人現代俳句協会

共催:荒川区



2022年6月17日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(13)

 第45回現代俳句講座「季語は生きている」 筑紫磐井講師/

11月20日(土)ゆいの森あらかわ


(2-5)前衛のまとめ

 以上は、もっぱら新興俳句と前衛俳句という用語の使用開始の時点における違いを眺めて来ました。いわばターミノロジー問題です。ただそのためには、新興俳句と前衛俳句というより、新興と前衛の使用開始時点を眺めてみる必要がある事、俳句だけではなく他のジャンル(短歌や詩、芸術)との比較を眺めてみる事が重要であると思います。それにより新興俳句と前衛俳句の違いと共通点が浮かび上がってくると思うのです。

 そうした意味では、前衛俳句とは何かを閉鎖的に考えても意味がないように思います。堀田氏が言うように、当時の前衛(俳句)はもはや伝統(俳句)である、ということになるのでしょうが、しかし、逆に私が申しあげたように「当時の前衛は今の前衛ではない」と考えた方がいいかもしれません。これは往時の前衛を懐かしむか、前衛の前向きな発展と見るか、郷愁を伴う情緒問題と見るかどうかという違いでしかないかもしれません。

 俳句新空間の本号で小野裕三氏が「ある言語とある言語は、決してすべてが等しく結ばれてはいない。例えば、英語ではよく使うけど、日本語にはそれに該当する一語がない、という単語がある」と体験談を述べていますが、実は新興俳句も前衛俳句も言葉としてはこれに見合う外国語を持っていないのが実態ではないでしょうか。

       

 次は前衛俳句の「内容」を考えてみます。前衛俳句を海外から流入したと考えると、高踏派、象徴派、未来派、ダダイズム、立体派、超現実主義、イマジズム等が前衛と通説では言われています。しかし新興文学についても、矢張り通説ではプロレタリア文学、未来派、表現派、超現実派などと言われています(もちろん人によってその内容はそれぞれ差があるようです。新興芸術派などプロレタリア文学を排除していましたが)。新興俳句と前衛俳句とをこうした定義で区分するっことはなかなか難しいようです。新興俳句と前衛俳句はその歴史性に負っているという事が出来そうです。

 手近な手掛かりになるのは、川柳です。川柳は、他のどの定型短詩よりも早く新興を叫んだのです。新興川柳が生まれてから、新興短歌も、新興俳句も生まれました。新興川柳なかりせば果たして新興短歌・新興俳句も生まれたかどうかわかりません。では前衛は?そもそも前衛川柳という言葉が存在していないようです(小池一博は『はじめまして川柳』で「現代川柳」は「革新川柳」、「前衛川柳」と受け取られていた、と述べていますが、一般的通念となってはいないようです)。前衛詩から前衛短歌が、そして前衛俳句が生まれていますが、とうとう前衛川柳は生まれていないようです。新興、前衛という言葉だけの論争はこんなところも踏まえる必要がありそうです。

 もう少し歴史を眺めてみましょう。そもそも、俳句も短歌も日本語で構成されているわけですから、俳句や短歌における「前衛」は日本語で解決できるはずです。

 さかのぼれば、中世は「前衛と伝統」の対立に相当するものが、「新儀非拠」の基準で語られています。藤原定家と六条家をめぐる論争の中で生まれた言葉であり、もともとは定家の歌に対する批判用語として使われたのですが、定家一派が歌壇を圧倒するとともに新しい理念として理解できるようになります。今風の言葉に言い換えれば、「新儀」とは新興、「非拠」とは反伝統と理解できます。こうして中世歌壇は新興反伝統一色になったのです。もちろん中世歌壇が定家以上の成果を生まなかったのは、新興反伝統のせいではなくて、月並みとなった新興反伝統によるものと思われますす。それは、赫々たる成果を上げた新興俳句が沈滞したのと同じ理由だと思います。

         

 ここで2-1に戻っていえば、前衛をだれが親殺ししたかということが大事になります。親殺ししたことによって、新しい運動が生まれるのです。むしろ親殺しされたことが、前衛の名誉となるのです。しかし、前衛の親殺しは(前衛の創始者である)金子兜太がなすべきことではないでしょう。兜太の次の世代こそ、「新俳句――新傾向――新興俳句――前衛俳句」に責任を持つべきでしょう。

 もちろん俳句四季の前衛特集が間違っていったというわけではありません。おそらく、編集者の意図は、私が図示するところ、「新俳句――新傾向――新興俳句――前衛俳句」をもって前衛という考え方を持っていたのだろうと思います。いや、そうした答えを期待しての特集であったと思います。私はかつてこれらをコントロ・コレント(反流・逆流)と呼んでみましたが、こうした反流は必ずあるものなのでしょう。その意味では、前衛は永遠に不滅なのです。その証拠に誰に聞いても、戦後の俳句は伝統と前衛だと言ってきます。


【注】全くの余談となりますが、前衛のまとめの号となるので、前回の記憶術の補足をしておこうと思います。誰も知らない話――私と山口誓子しか関心がない話ではあります。先に記憶術の系譜を、井上円了、渡辺彰平、渡辺剛彰と書いておきました。これを少し解説しておきましょう。

 井上円了は僧籍にありながら哲学を学び東洋大学を創始しました。大学で哲学・倫理学を教授するとともに、哲学の実用に関心が深かったようです。そうした傾向がよく表れたのが、妖怪学講義と記憶術講義(又は失念術講義)で、アカデミックから見たら不思議な研究を行っています。ちなみに妖怪学は、怪しげな怪奇哲学ではなく、世の中の妖怪現象にすべて合理的な解説を施し、そのあとに残った不思議な現象こそが(人間がまだであったことのない新しい)哲学に値すると考えたもののようです。合理的な考えであり、その意味ではカント哲学に近いかもしれません。

 井上円了の記憶術に関しては、

『記憶術講義』明治27年

『新記憶術 : 活用自在』大正6年

があります。

 渡辺彰平は学校にも入らず苦学の末に弁護士となった立志伝中の人で、井上の著書から学んで新しい記憶術を開発しました。生涯の著作は多いのですが、初期のものは記憶術に関するものです。渡辺の記憶術が弁護士の資格試験の受験に相応しあったことを示しているようです。後の渡辺剛彰の記憶術の手法の過半がこの時期に完成していたようです。

『心理応用記憶力発現法』大正12 

『万有記憶論』大正14 

 渡辺剛彰は東大文学部から司法試験に合格し、弁護士の傍ら膨大な記憶術の著作や講演を行い、記憶術の父と言ってもいい人となりました。現在色々行われている●●式記憶術の手法は、渡辺の講習会で記憶術を学んだ人たちが改良した手法だと言われています。主な著書だけでも次の通りあり、『記憶術の実際』は100版を超えるベストセラーとなっています。

『記憶術の実際 : 早く覚えて忘れぬ法』1961 

『英語の記憶術』1961 

『記憶する技術』1966 

『新しい記憶術 : 電話番号から司法試験まで』1970 

     ・・・・

『大学受験の記憶術』1982

『即戦力をつくる記憶術』1987

『一発逆転ワタナベ式記憶術』1996


 このように、現代の記憶術は渡辺父子が開発したものですが、この親子は双生児のような人生を送っています。二人は近代詩吟の祖と言われる木村岳風に師事し、渡辺彰平(雅号を詩吟学院時代は岳神、吟道学院時代を龍神)は岳風の創始した日本詩吟学院の後継者として理事長を務め、その後日本吟道学院を創設し初代理事長となり、渡辺剛彰(岳神→吟神)が二代目を継いでいます。弁護士、記憶術、詩吟と多くの分野で父子協業している稀有な例であります。あるいは、弁護術、記憶術、詩吟の発声法が共通するところがあるのかもしれません。

2022年5月27日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(12)

  第45回現代俳句講座「季語は生きている」筑紫磐井講師/

11月20日(土)ゆいの森あらかわ


(2-4)誓子の前衛批判

 前衛俳句論争は、「俳句の難解性について」のあと、大きな転換を迎えます。朝日新聞が前衛特集を始めたのです。俳句にとどまらず社会全体の動きとして、「前衛を探る」という企画が始まりました。前衛は、すでに述べたように前衛俳句にとどまらず、➀建築➁グラフィックデザイン③写真④音楽⑤工芸⑥詩⑦映画⑧演劇⑨推理小説⑩絵画⑪俳句⑫いけばな⑬墨象⑭彫刻⑮テレビドラマ⑯漫画⑰日本舞踊⑱記録映画作家⑲小説があり、当然、短歌もそうです。

 この時、俳句で取り上げられたのは金子兜太と堀葦男で、兜太は東京版で加藤楸邨が、葦男は大阪版で山口誓子が論じましたが、誓子は葦男に批判的でした。誓子は葦男を前衛俳句の有能な実験者としながらも、葦男の考えている前衛俳句を俳句として見ることは誤りだと述べています(1960年10月11日)。

 何分堀葦男に限っての批評、短い文章でもあるので十分に言い尽くしていないところがあります。しかしこれを補う主張が見えます。山口誓子は、1961年6月12日の朝日新聞に「前衛俳句への疑い/前衛詩の切れはし?/金子兜太氏に問う「俳句性」」という記事を書いています。

 ここで誓子は、前衛俳句を連想で結び付けてゆく作り方だといいます。このやり方を吉岡實の詩に例に類似を見て、前衛俳句はシュルレアリスムとどう違うのか、俳句性はどこに行ったのかと問いかけます。この記事の直前の5月31日に朝日新聞に掲載された金子兜太の「現代俳句への誘い」を引き、前衛俳句における俳句性の欠如を論駁しています。最終的には金子が引いた、兜太・兜子・葦男の作品を「無意味であるから意味を持つ」のだろうと評しています。10月の論考以上に6月の誓子の論は前衛俳句に批判的です。特にその主張は、前衛俳句における意味のなさ、俳句性のなさから前衛詩の切れはしに過ぎないと酷評しています。

    *

 えてして戦いに巧みな者は、自らの戦いの中にとんでもない弱点を発揮するものです。誓子もこの轍を免れません。ここでわき道によらせていただきたいと思います。

 実は誓子は、この文章の冒頭に不思議な前置きを置いています。


 「ひところ記憶術に関する書物が相次いで出版されたとき書物好きな私はみな買って目を通した。その中でもいまでも忘れられないのは『記憶術の実際』という書物に書いてあった連想結合法のことである。物を順に結び付けて覚える方法で、たとえば「富士山・トラック・時計・スイカ・こうもりがさ・ソーセージ」は

富士山がトラックに衝突した

トラックに柱時計がかけてある

スイカにこうもりがさを突き立てた

こうもりがさの柄がソーセージだ

と覚えるのである。

 これらの章句は前衛俳句によく似ている。前衛俳句とどこが違うのであろうか。私はそれを前衛俳句作家に問う前に、自分で問うて自分で答えよう。」


 ここから、前衛俳句は連想(記憶術の連想結合法)で結び付けてゆく作り方だというのです。少し記憶術を馬鹿にしている節もうかがえますが、わざわざ記憶術に着目して比較したところは面白く思います。特にこの部分は私にとって興味深いです。

 なぜなら私も誓子とほぼ同じ時期に記憶術に関心を持ち、特に『記憶術の実際』を熟読していたからです。中学1年生の時代でした。

 渡辺剛彰著『記憶術の実際』(主婦の友社36年刊)は、哲学者井上円了の教えにヒントを受け父君彰平が開発した記憶術を渡辺氏自ら実験開発した手法です。その成果は突然現れ、劣等生から突然優等生に躍り出、東大文学部に合格、文学部(法学部ではありません)在学中に難関の司法試験に合格し弁護士を開業、NHKの「私の秘密」でデモンストレーションを披露、以後通信講座(ユーキャンの前身)の「記憶術」の講座は大人気だったそうです。ただこの記憶術は人によって適不適であったようで、私にはあまり向かなかったようです。

 こうした意味で『記憶術の実際』に注目した誓子には敬意を表しますが、果たしてそれを十分に理解していたかはやや疑問に思います。なぜなら、渡辺式記憶術は、「連想結合法」だけではなく、「外連想術」という別の手法も展開しているからです。「連想結合法」を誓子はかなり正確に理解していますが、『記憶術の実際』で最も大事で、奥義にあたるものが誓子の触れていない「外連想術」なのです。「連想結合法」は誓子が述べているように物を順に結び付けて覚える方法ですが、それはあくまで人為的な結合なのです。しかし、「外連想術」は自然発生的な連想を進め、一度その連想ができると一気に記憶の鎖が出来上がるという方法なのです。その意味では、自然な人間の「意識の流れ」に沿ったものだったのです。だからこの外連想こそがシュルレアリスムの、そして前衛俳句の源流といってよいと思います。

 私が『記憶術の実際』に関心を持ったのは、渡辺記憶術が実は「記憶とは連想である」という仮説に基づいていたからです。誓子が言っている「意味」や「俳句性」は論理の世界であり、人間のもう一つの大きな世界が「連想」であると思われるからです。誓子の『記憶術の実際』を使った批判は誓子の考える「意味のある俳句」を明らかにしましたが、逆に『記憶術の実際』が明らかにした連想の世界を排除してしまっていることも明らかにしてしまったのです。言い換えれば、前衛俳句とは意識の流れ俳句であったということでしょうか。

2022年5月13日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(11)

第45回現代俳句講座「季語は生きている」/筑紫磐井講師

11月20日(土)ゆいの森あらかわ


【筑紫回答】

(2-3)前衛の歴史

  新興俳句の変遷を踏まえてみると、前衛の歴史もある程度見えてくると思います。前衛も新興同様近代になって使われるようになりましたが、新興より限定的な意味を持って使われていたようです。

➀前衛はもともと軍事用語で英語のadvance guard, vanguard、フランス語のavant-gardeです。ただ意外に意味は限定的で、単に前方にいる部隊というだけではなく、「行軍する兵隊の安全を保護し、その進路を捜索し、障害物を除去し、又命令の旨趣に従い、あるいは敵を襲撃し、あるいはこれを撃退し、或いは頃刻の間抗拒をなし、以て本軍をして戦闘の準備をなさしむるに任ずべきもの」(野外演習軌典)とあります。このことから、本隊があっての前衛ということがわかります。

➁そんなことから、労働運動における前衛として、「労働階級に対する前衛としての●●党」(あえて当時の検閲に従って伏字を使ってみます)と定義したことにより、プロレタリア運動の担い手をさすようになっています。社会や階級を先導する集団という意味です。各国共産党はしばしば自らを前衛党と位置付けているようです。また社会主義時事評論誌や戦後の共産党理論誌に『前衛』と名付けられてます。

 このような中で、プロレタリア系の文学に前衛という呼称が使われているようです。

〇プロレタリア前衛小説戯曲

〇前衛文芸全集

〇前衛芸術選集

③従って、単に前に位置する、とか先進的な、という意味ではなかったのです。ただ日本では、テニスのnet player、front playerを前衛、バレー、バスケットのforwardを前衛と呼ばれていました。少し誤解があるようです。

    *

 こうして(文学上に)前衛の意味がいち早く用いられたのは、欧米の小説戯曲や詩であり、翻訳を通して日本でも紹介されます。詩人たちが挙げている例としては、具体的には、高踏派、象徴派、未来派、ダダイズム、立体派、超現実主義、イマジズム等といわれています(第三の「新興」に似ています)が、こうした詩人たちの考え方に共感したのはまず歌人だったようです。1955~60年にかけて「短歌研究」や「短歌」の誌上で前衛短歌の問題が取り上げられます。詩人、小説家だけではなく(俳句雑誌ではなく、短歌雑誌で前衛論争に)俳人も参加しているのは面白いことですが、やはり論争の中心は、塚本邦雄、菱川善夫らの歌人でした。

 1957年の金子兜太の造型俳句論以前の短歌関係の論文・記事を見てみましょう。


●前衛短歌

(参考)現代に於ける前衛の意味 北園 克衛 日本短歌 1951.7

前衛精神と短歌 加藤 克巳  短歌研究  1955.7

前衛短歌の方法を繞って / 大岡信 ; 塚本邦雄 短歌研究 1956.3 

特集 前衛と民衆の芸術 前衞の位置 短歌研究  1956.8

  ただこれだけの唄/塚本邦雄

  前衛の場について/鮎川信夫

  自明の理/山本太郞

  思想の韻律/孝橋謙二

  短歌の中の現代詩/上田三四二

  前衛短歌の規定/菱川善夫

  勞働の實感と表現/佐多稻子

  民衆短歌の母胎/武川忠一

  療養者と個性/竹安繁治

前衛短歌の規定 菱川 善夫  短歌研究  1956.9 

前衛と伝統 高尾 亮一  短歌研究  1957.4

昭和詩の前衛運動 北園克衛  短歌研究  1957.4

政治と文学と前衛の課題 吉本隆明 他 短歌研究  1957.5

前衛短歌のすべて(塚本邦雄氏に応えて) 斉藤 正二 短歌 1957.10 

モダニズム・前衛派・難解派の諸問題 岩田 正 他 短歌 1957.10

(以下参考)

前衛批判に応えて(対談) 塚本 邦雄 他  短歌  1959.4

特集・前衛の次にくるもの 星野 徹 他  短歌研究 1960.1

リアリズムと前衛の問題--新人論争 短歌  1960.6

前衛短歌私見 小野 十三郎  短歌研究 1961.4 


 さて次に俳句における前衛の登場を眺めてみましょう。明らかに前衛短歌の後に前衛俳句は登場しています。


●前衛俳句

俳句の造型について 金子兜太 俳句 1957.2

難解俳句とは何か(特集) 俳句 1959.2

難解俳句特集をめぐって 俳句 1959.3

(前衛俳句批判・寺山修司/前衛作家10人集への感想・志城柏)

難解派の現況レポート 俳句 1959.12

「前衛を探る」(俳句) 加藤楸邨・山口誓子 朝日新聞 1960.10.11

前衛俳句への疑い  山口誓子 朝日新聞 1961.6.12


 前衛俳句という言葉の戦後の初出について言えば、「前衛俳句について」(高柳重信 現代俳句 1949.10)がありますが、この論文によって前衛俳句の烽火が上がったということではないようですので、一応通説に従って上に掲げた論文・記事によって前衛俳句は登場したと考えておきましょう。特徴的なことは、前衛俳句の始まりといわれているにもかかわらず、「前衛俳句」のことばが一般的に普及し始める前に造型俳句とか難解俳句とか呼ばれており、朝日新聞によって初めて広く使われることになったと言えましょうか。もう少し厳密に言えば、歌人寺山修司によって前衛短歌になぞらえて呼ばれたのがはじめと言ってもよいようです)。

       *

 以上のような前衛の発生の経緯をたどると次のようなことが言えると思います。当然広く、軍事や労働運動を踏まえての前衛の考察です。


(1)前衛の原義には組織分業が存在している。それは、本隊(軍事にあっては陸軍本部・大隊、労働運動にあっては労働者階級、文芸にあっては社会や大衆)と前衛部隊である。

(2)前衛は、前衛のためにあるのではなくて、本隊が任務を全うするために存在するものである。

(3)したがって、前衛が本隊になることは絶対にありえない。それは前衛の存在意義に反するからである。万が一起こったとしたら、それは前衛運動とは関係のない組織であり、本隊の否定となる(この過程でしばしば独走し、専制主義が生まれる例がある)。

(4)前衛は本隊のためにあるのであるから、独自の固定的戦術・作戦はあり得ない。

  1)陸軍の「野外演習軌典」にあるように、目的達成のため状況に応じてありとあらゆる戦術・行動をとらねばならない。そこには軍事活動以外のものまでが含まれる。

  2)特に、時々の本隊の要請に応じて、前回の戦術がすべて否定されたり、まったく異なる妥協を要請されることは日常茶飯と考えなければならない。

  3)まとめていえば、昨日の前衛は今日の前衛ではなく、今日の前衛は明日の前衛ではないのである。

(5)さらに非情なことを言うようであるが、前衛は本隊のためにあるのであるから、本隊によって前衛が殲滅されることもあり得る。本隊が存続するため、後方支援を断ち切られたりして前衛は切り捨てられることもしばしばある。前衛と本隊の関係は非情なのである。

(6)しかし一方で、前衛が存在せず、裸の本隊だけで軍事や労働運動、文芸活動をすることは不可能である。戦術遂行者が存在しないからである。従って、確かに不安定・不確定ではあるものの、前衛は永遠に不滅である。なぜなら前衛が存在しない本隊など早晩滅亡するからである。


 もちろんこれは本隊が現代文学である場合のことです。伝統芸能であるならば、前衛など必要ないでしょう。

       *

 さてこのような前衛派はその後どうなったでしょうか。話題を少し戻してみましょう。「前衛俳句」が登場した当初の資料――朝日新聞が特集した「前衛を探る」です。この時取り上げられた俳句以外の他分野の前衛の人々とはどんな人たちであったでしょうか。


➀建築(菊竹清訓)

➁グラフィックデザイナー(杉浦康平)

③写真作家(東松照明)

④音楽(武満徹)

⑤工芸(清水洋)

⑥詩(吉岡實)

⑦映画(大島渚)

⑧演劇(浅利慶太)

⑨推理小説(星新一)

⑩絵画(堂本尚郎)

⑪俳句(金子兜太・堀葦男)

⑫いけばな(中川幸夫)

⑬墨象【注】・書(磯部翔風・榊莫山)

⑭彫刻(毛利武士郎)

⑮テレビドラマの演出家(和田勉)

⑯第三の新漫人(真鍋博)

⑰日本舞踊(西崎みどり)

⑱記録映画作家(羽仁進)

⑲小説(倉橋由美子)

【注】墨の造形美を追究する芸術


 19分野の21人です(俳句と墨象・書では東京版と大阪版で別の人物が挙げられています)。私は他の分野には疎いので、自信をもって紹介できる人ばかりではありませんが、それにしてもこれだけの人が前衛として紹介されていたのです。現在見ていただくと、もはや前衛を超越した、一流の芸術家ばかりのように思えます。「昨日の前衛は今日の前衛ではない」といったのはこういう意味なのです。こういう文脈で見ると、金子兜太も前衛の枠をはみ出したことがよくわかると思います。いや前衛である必要などなかったはずです。

 それにしてもこうした顔ぶれを見る限り前衛運動は決して無意味だったとは思えません。


【注1】伝統について

 俳句より先に前衛運動に突入した短歌では、初期の関心は、前衛と伝統ではなく、前衛と大衆性だったようです。多くの特集ではこれらについて何らかの言及がされています。

 ちなみに前衛と対立する「伝統」が俳壇で議論され始めたのは、草間時彦「伝統の終末」(俳句1970.4)、能村登四郎「伝統の端に立って」(俳句1970.12)などからです。総合誌として、伝統と前衛に関して議論を盛り上げたのは「俳句研究」で、前衛と伝統の深堀に大きく貢献しました(あるいは伝統の探求に貢献したと言えましょう)。角川書店の「俳句」はあまりこうした特集をしていません。


伝統と前衛・交点を探る(座談会)俳句研究 1970.3.~4.

俳句の伝統(特集)俳句研究 1971.5

俳句の伝統と現代(特集)俳句研究 1971.8

伝統俳句の系譜(特集)俳句研究 1972.7

伝統と前衛――同じ世代の側から(座談会) 俳句 1973.1

現代俳句の問題点――俳句伝統の終末・物と言葉など 俳句研究 1975.4


【参考】現代俳句について

 現代俳句は戦後になって盛んに用いられたと思っています。現代俳句協会、「現代俳句」などです。

 もちろん、現代俳句という言葉は、戦前もあることはあるのですが、戦後ほど多くは用いられず、かつ意味も単純な時代区分の意味が強かったようです。つまり、当時の本を読むと、子規の俳句―現代俳句という対照での比較で現代俳句も用いられていたようです。ところが、戦後の現代俳句は、「現代を詠む」、「現代社会を詠む」という意味に代わっているようです。

 その契機は、桑原武夫の「第二俳句――現代俳句について」だろうと思っています(もちろんこれに先駆けて石田波郷編「現代俳句」という雑誌が出たりはしていますが)。俳人が、俳句は 「現代を詠」まねばならない、「現代社会を詠」まねばならないと強迫観念にとらわれだしたのは第二芸術の影響が大きかったと思います。「現代を詠」まねば現代文学ではないと思い始めたのです。もちろん俳句が現代文学である必要は必ずしもありません。しかしそんなことをいったら、当時の文学界では完全に潮流から遅れる物となることは明らかであったからです。文学者にとって、それは「第二芸術」といわれるよりもっとつらいことでした。

(続く)

2022年4月29日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(10)

  第45回現代俳句講座「季語は生きている」筑紫磐井講師/

 11月20日(土)ゆいの森あらかわ


【筑紫回答】

(2―2)前衛について(まず前史としての新興俳句から) 

 新興俳句について言えば例えばこんな批判があります(「馬酔木」令和3年10月号の100周年特集)。

  今井聖氏は、現代俳句協会の『新興俳句アンソロジー・なにが新しかったか』について、「新興俳句」の中に、秋桜子、楸邨、波郷を含めていることを批判しています。「虚子が秋桜子の主観よりも素十の客観写生の方に組みしたのが「ホトトギス」離脱のきっかけとなったのであるから秋桜子は「新興俳句」の初動を担ったとまずは考え、ならばそこに所属した俳人も「新興俳句」の俳人として考えてもいいという理屈である」と解説し、これに対し高野ムツオ・神野紗希の集中での発言につき「二人の論旨の展開はかなり強引に感じられる」と裁断しています。

 坂口昌弘氏は「秋桜子と「馬酔木」の系譜は新興俳句に括ってはいけない」という長い題で、「「『現代俳句大辞典』では「新興俳句」について「「『ホトトギス』から『馬酔木』の独立したことに伴い新しい俳句運動が起こり、これを新興俳句(金子杜鵑花の命名という)と呼んだことに由来する」「秋桜子が無季俳句批判を行い新興俳句運動から離脱したとされている」と筑紫磐井は書く、川名大は『戦争と俳句』で「馬酔木」を新興俳句誌としている、しかし秋桜子が新興俳句運動を始めたことやその運動から離脱したという事実は全くない。」と述べます。

 しかし彼らが言っている「新興俳句」とは何なのでしょうか。どうやって発生し、どういう意味を持って使われたかを吟味することもなく、無季俳句批判を行った秋櫻子だから新興俳句ではないというのか明らかでありません。

       *

 このようなことになるのは新興俳句には確とした意味がなかったいということにあります。新興とは何なのでしょうか。

 新興とは近代になって多く用いられた言葉で、比較的多義的に使われているようです(この構造の用法は法「興」寺とか元「興」寺とか飛鳥時代には用いられていますが)

 明治時代の古い用例は、新興国とか新興階級として登場するようです(ブルンチュリー『国家論』明治22年)。面白いのは、社会運動家の山川均が新興階級を「滅亡階級と新興階級」と対比していることです(山川均『井の底から見た日本』大正13年)。新興階級をこのように定義することは目から鱗が落ちる思いです。そうです、新興でないものは滅びると考えるべきなのです。

 文学関係の用例を見てみましょう。明治・大正時代の日本文学史を見ると、新興文学という言葉が偶然出てきますが、その最初は意外なことに鎌倉時代文学(平家物語や五山文学)をさしているようです。確かに公家の時代から、武家の時代になって大きく文学は変わりましたから新興という言い方もあり得たでしょうからなるほどと納得しますが、この新興文学は新興俳句とはあまり関係ないようです。

 その意味で明治時代に最初に登場する新興文学は、自然主義文学及びそれ以降の新しい文学をさしていたようです(片上伸『生の要求と文学』 大正2年)。これは時代区分というよりは、ちゃんとしたサブスタンスのある文学分類でした。このことからも、今日の我々からはあまり実感できませんが、自然主義という文学思想がいかに近代日本に大きな影響を与えたかがわかります。しかしこの新興文学も新興俳句とはあまり関係ないようです(むしろ新傾向俳句とは関係があるかもしれません)。

 第二の新興文学は第一次世界大戦の直後(あるいはその末期)に登場して使われるようになります。既存の秩序が破壊され、大衆が文学活動の中心に踊りだしてきた時代です。これは余りサブスタンスがある用語ではなく、まさに第一次大戦後文学と同様で、当時噴出した様々な雑多な文学傾向を包含していました。当然ロシア革命後に盛り上がってプロレタリア文学も含まれます。これはすべてではありませんが、新興俳句にそれなりの影響を与えていると思います。

 たとえば、大正6年には「新興文芸叢書」というシリーズが出、大正11年には「新興文学」という雑誌が出ています。特に第一次世界大戦後の世界的な風潮の中で現れた「新興文学」は、ダダイズム、プロレタリア派、表現主義、モダニズムなど雑多な運動が寄り集まったもので、その影響も大きかったと思います。

 しかし、致命的な影響を与えたのは関東大震災でした。第三の新興文学です。関東大震災の直後、復興・再興、そして新興という言葉が生まれています。もちろん、復興・再興と新興では微妙にニュアンスが違ってきます。

 「復興」では、物理的な建設の意味が強いです。使われるときは大体、「帝都復興」のような意味で使われますから都市の再建築という意味です。

 これに対して「新興」は社会的システムの再建築・創造の意味が多く、新興勢力、新興都市、新興工業、新興産業などと使われます。昭和7年の新興満州国(このほかにも独逸、露西亜、支那にも新興の名が冠せられます。イギリスやアメリカで言われない点が特徴的です)はその最たるものです。

 しかし、新興の場合は物理的な建造より幅広く、精神活動にまでさらに拡大されます。[精神的な新興]の例を年を追って紹介します。様々な著作のタイトルに上がっているものから選びました。まさに「新興ブーム」といってよいでしょう。


大正13年:人と芸術社『新興戯曲叢書』

大正13年:教育の世紀社『新興芸術と新教育』

大正13年:新興社『新興獨逸文學叢書』

大正14年:田中五呂八『新興川柳詩集』

大正14年:新興教育(「日本及日本人」)

大正14年:中央美術社『新興芸術の烽火』

昭和2年:新興詩人(「文藝」)1927

昭和3年:平凡社『新興文学全集』

昭和3年:新興科學社『新興科学の旗のもとに』

昭和4年:河東碧梧桐『新興俳句への道』

昭和4年:「新興短歌集」(改造社『現代短歌全集』) 

昭和4年:美術社『新興版画選』

昭和5年:新潮社『新興芸術派叢書』(小説)

昭和5年:短歌月刊編集局『新興歌人叢書』

昭和5年:木星社書院『訳註新興文学叢書』

昭和5年:新興建築(「建築画報」) 

昭和6年:刀江書院『新興芸術研究』

昭和7年:理想社『新興哲学叢書』

昭和7年:新興写真(『写真の構図』)

昭和9年:新興仏教(「現代仏教」)


 この中で最もよく知られているのは「新興芸術派」です。新感覚派の後に生まれ、川端康成や吉行エイスケ等のモダニズム文学を生みました。

 一方俳人にとって気にかかるのが碧梧桐「新興俳句への道」で「新興俳句」という言葉が最も早く使われていますが、碧梧桐によれば、出版社(春秋社)によってつけられた名前で、本当は「短詩への道」とつける予定であったと書かれているので、新興の流れからは外しておいた方がいいようです。短詩型文学においては「新興川柳」が先陣を切っており、「新興」のさきがけの名誉を獲得しています。

 こうして短詩型においても次々と新興は生まれました。しかしこの文脈において新興とは、関東大震災の瓦礫の中で立ち直ろうとする一種のキャッチフレーズであったわけで、高邁な理想があったわけではないでしょう。それぞれのジャンルで、新興●●が生まれた時、それぞれのジャンルの理念、歴史を踏まえて皆の潜在意識の中にあった欲望が投影されたものとなりました。それは使われた時期、年によっても、あるいは個人によってもコンセンサスがあったわけではありません。今日の新興は明日の新興ではなかったのです。

        *

 「新興俳句」についてみるとこんなことが言えるようです。

 昭和9年頃までは新興俳句はまず自由律俳句で使われていたようです。

 俳壇一般に普及したのは昭和10年になってからのようです。特に注目したいのは、馬酔木の新鋭加藤楸邨の評論で、「新興俳句批判(定型陣より)」(俳句研究昭和10年3月号)、「新興俳句の将来と表現」(俳句研究同4月号)、「新興俳句運動の誤謬」(馬酔木同10月号)、「新興俳句の風貌」(馬酔木昭和11年1月号)と新興俳句の論争は一手に加藤楸邨が引き受けていることです。それも決して新興俳句に対する全面的な批判ではありません。最も特徴的なのが「新興俳句の風貌」で、ここで楸邨は新興俳句作家として9名を上げ作品を紹介しているが、その筆頭に水原秋桜子と山口誓子をあげているのです!

 面白いのは昭和11年で、この年刊行された単行本の宮田戌子編『新興俳句展望』で「新興俳句結社の展望」(藤田初巳)と「新興俳句反対諸派」(古家榧子)が載っていますが、「新興俳句結社の展望」ではその筆頭に「馬酔木」が、「新興俳句反対諸派」ではアンチ新興俳句の「新花鳥諷詠派」として秋桜子と誓子を上げています。一冊の本の中でのこの混乱が、新興俳句をめぐる当時の混乱を如実に示しているようです。これには昭和11年の秋櫻子の無季俳句批判の影響があるようです。

 つまり昭和10年に水原秋桜子も馬酔木も間違いなく新興俳句でした。昭和11年から次第に怪しくなって行くきます。これさえ分れば、今井・坂口の批判御問題はわかるはずです。

 付記すれば、今井・坂口氏は様々な人々の回顧録を引用しているようですが、回顧録は個人があとづけで歴史を解釈しているものです。もちろん、回顧者の頭の中にある記憶ですから貴重であることは違いありませんが、これの使い方には一種特別な配慮が必要です。つまり、事実そのものを語っているのではなく、事実を踏まえた新しい歴史であるのです。

(続く)

2022年4月8日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(9)

 (2‐1)前衛について(総論)

【筑紫】

 赤野さんの質問にお答えし、前衛俳句について書こうと思っていたところ、折よく「俳句四季」4月号では「特集:前衛俳句とは何か――21世紀の「前衛」を考える――」が掲載されたので、これを例に少し考えてみたいと思います。堀本吟、秋尾敏、今泉康弘、岡田和美、川名大、田中亜美、千倉由穂、西川火尖日野百草、堀田季何、森凛柚の各氏が論じていますが、おおむね、➀前衛とは●●であるという基準のもとに論ぜられています。例外は➁堀本氏の論で、ここでは前衛俳句が生まれてくる歴史的経緯を語っています。もちろん➀の「●●」が正しければそれはそれで生産的ではあるでしょうし、➁も果たしてそこに掲げられたものが(事実であるのは当然とした上で)それで必要十分な例が挙げられているかどうかは十分吟味の必要があります。しかし一応そこに注意しながら眺めてみたいと思います。

 堀本氏は、前衛俳句の誕生を運動としてとらえ、金子兜太の寒雷系と関西新興俳句系の出会いから「新俳句懇話会」が作られ、「十七音詩」「縄」という雑誌を媒体として、関西前衛グループが発展した考えているようです(西川氏の論旨も堀本氏に近くなっていると思います)。そして、堀本氏は、金子兜太「造型俳句論」、堀葦男「抽象俳句」、赤尾兜子「第三イメージ論」に具体的理論的展開を見ています。これだけからでもひとくくりで前衛俳句とは何かを定義するのは難しいことが分かると思います。

 ある程度歴史的分析と言ってもよい堀本氏の分析から行っても前衛俳句の定義は難しいことがわかり、その上で➀の各氏の論を見ると、かなりその置いている基点が異なっていて一つの結論に重なることはないように思われました。例えば、それぞれの論で言及されている作家は、河東碧梧桐、渡辺白泉、富沢赤黄男、高柳重信などが挙げられていますが、彼らが前衛に影響は与えたことに間違いはないでしょうが、彼ら自身が前衛であるかどうかはあまりはっきりしません。各氏の論はもちろん色々独創的な見方はあるものの、「前衛俳句のコンセンサス」は難しいと思われるのです。もちろん、これは前衛俳句に懐疑的な赤野さんには予想出来たことだと思います。

    

 そこで、前衛問題に入る前に、少し近代俳句におけるこうした俳句理論の行方を眺めてみたいと思います。

 近代俳句は正岡子規に始まりますが、写生を唱えたとされる子規の俳句は、日本派などと呼ばれる一方で「新俳句」という名称も用いられています。

 子規没後、虚子と碧梧桐が別の道を歩き、碧梧桐一派の俳句は「新傾向」と呼ばれました(命名は大須賀乙字です)。

 虚子が俳句に復帰したのちホトトギスが俳壇の主流派となりましたが、水原秋櫻子の造反により、「新興俳句」が生まれます。「新興俳句」は早々に、秋櫻子・誓子は独自の道を取り、「京大俳句」や「天の川」を中心に展開されます。「新興俳句」には入りませんが、人間探求派もやはり新しい俳句の動きとして数えておくべきでしょう。

 戦後は、「第二芸術」による俳句否定論、やがて社会性俳句が俳壇を席巻しましたが、その後は前衛俳句が登場するということで、戦後俳句はすすんできました。

 こうしてみると、通俗的図式として

  新俳句――新傾向――新興俳句――前衛俳句

が浮かび上がり、常に新しいブームが起きているようです。もちろんこれはポンチ絵風なイメージであり、実際はこんな単純なものではないことは当然です。しかしあまり研究風に細かい迷路に入ると全体が見えにくくなることがあります。ポンチ絵であっても、ある程度真理を伝えるものがあると思います。

 そしてこれで言いたかったのは、常に新しいものが出てくるということだけではなく、多くの場合は前の代を克服することによってエネルギーを獲得してきたと言えるということです。虚子の客観写生・花鳥諷詠が営々と続いてきたのと対照的です。前衛の歴史は、「親殺しの歴史」と言えるでしょうか。

 ただ注意しなければならないのは、常にこうした新しい動きの名前は、あいまいで何も定義されないで使われ始め、論争と実作が進む中で理念が生まれ始めるたようだということです。

   *

 その意味では、前衛俳句と同様に新興俳句もそうしたあいまいさがあるようです。いや実は前衛俳句の実験は、新興俳句ですでに行われていたようなので、まず新興俳句からそうした事実を確認してみたいと思います。

(続く)

2022年3月25日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(8)

 第45回現代俳句講座「季語は生きている」筑紫磐井講師/

11月20日(土)ゆいの森あらかわ


【赤野氏】「伝統」「前衛」について

「近代人にとって王道(伝統)は我慢のならない桎梏であるところから、常にそれに対する反攻を繰り返しています」

というご意見については、かなり違和感を感じます。どちらかといえば、近現代人にとって伝統とは、ご都合主義的な権威付けの手段の側面が強いと思われるからです。

 たとえば現代日本で「伝統俳句」といった場合、無季や社会詠、破調は含まれないものとして扱われることがほとんどでしょう。しかし、それは「ホトトギスの伝統」であって、俳句、俳諧の「伝統」ではありません。現代の目から見れば新興俳句、前衛俳句もすでに「伝統」である上、子規や俳諧の時点ですでに無季、社会詠、破調などは含まれていた要素です。

 したがって、現代のいわゆる「伝統俳句」を高柳重信に倣って「偽伝統派」と呼んでもよいのですが、そもそも伝統というものは現代から遡及して設定されるものだ、という基本的性質をよく表す事例と考えるべきなのかもしれません。

 同時に「前衛」というのもよくわからなくなっています。現代において、「前衛俳句」の意味するところはは、かつての前衛俳句というお手本のある「スタイル」となっています。要は練習すれば誰でも(出来不出来はともかく)真似できるものです。「前衛」の本来的意味からすれば、そんなものを前衛とは言わないでしょう。

 まあ言ってもいいのですが、少なくともそういった「偽伝統vsスタイル前衛」では、ヘーゲル的な価値ある対立になるとは思えません。

 「伝統俳句vs前衛俳句」というアングルは、昭和の一時代には機能したのかもしれませんが、現代においては賞味期限切れといわざるを得ないのではないでしょうか。あるいは、この対立は「現代俳句」というジンテーゼとしてすでに解消した、といっていいのかもしれません。

 ヘーゲルと書きましたが、一般論として、ある種の対立や競争が物事を前進させるエネルギーになることはあるでしょう。ただし、どんな対立や競争でもいいというものではありません。米国流成果主義競争を真似て荒廃していった日本の労働環境などはわかりやすい例でしょう。

 では現代において価値のある、機能する対立とはなにか、ということになりますが、まだ私も確立した見解は持っておりません。あえて言うなら、「文学vsビジネス」が主要な対立になってくるのかな、という予感はあります。この対立自体は古くからありますが、現代では俳句のビジネス化が進むことにより、新たな形で浮上してくるのではないかと思います。

 現代における価値ある対立軸については、筑紫様のご意見をさらに伺えれば幸いです。


 【筑紫】

(1)伝統について

 伝統という言葉を用いているのは古いことではありません。また、現在色々論争する際に便利だから使っているのであって初めから伝統ありきではないということが大事です。伝統という言葉を使って何を言っているのかが大事なのだと思います。

 王道(伝統)に違和感を感じるというのは理解できます。私が言いたいのは、代表的伝統俳句主張者(虚子)が提唱している「題詠」こそが俳句の王道(始原)だということです。伝統などということは枝葉末節かもしれません。

 私が思うところ、俳句(というよりは俳諧、いや誹諧)の根源は題詠ですし、文学そのものが題詠でなくては生まれなかったと思います。北欧のサガや中国の楽府、記紀の古代歌謡、ユーカラや沖縄歌謡などがその根拠です。「イリアス」もそうした痕跡が見えるようです。作者の個性がにじみ出る紫式部やシェークスピアが出るのはそのはるかずっと後です。

 ご都合主義的な権威付けという批判や「伝統俳句」への拒否は、現代人として当然のことだと思いますが、我々の俳句の根源は明治からさらにさかのぼって江戸時代、連歌を介すれば平安時代にまで到着するのです。それらの人々の考えや感覚をなしにして俳句を考えることは難しいのではないかと思います。我々は何と言おうとも芭蕉の桎梏の中で模索しているのですから。現代人だからこそ拒否感を感じるので、古代人には拒否感はなく、ないしは関心がない(そもそもなんでそんな議論をするのかわからない)ということになると思います。

 その際使われるやすい自由という言葉もありがたい言葉ですが、自由そのものを我々は見る事が出来ません。何かから解き放たれるから自由なのであり、芭蕉から自由、江戸月並から自由、虚子から自由、新興俳句や前衛俳句から自由と言われて意味が初めて分かるのではないかと思います。現在の我々は何から自由にあるべきでしょうか。

 自由であるために必要なのは時代認識だと思います。伝統と前衛の対立が普遍的に間違っていたかと言われればそんな証明はなかなか難しいように思います。あの時代にあっては意味のある対立だったのでしょう。その時代の時代認識が問題です。では現在の時代認識から言えばいかなる対立事項があるかと言えば、様々な考え方があると思います。確かに、伝統と前衛の対立ではないように思えますが、その行く先は様々です。ご指摘のように「文学」vs「ビジネス」という考え方もあるでしょうが私はあまりしっくりきません。なんとなく一般文学論化している感じがあるせいかもしれません。

 私の感覚では、多分それを考える前提は、「俳句無風時代からの自由」を考えないといけないように思います(自由というよりは建設かもしれません)。

 全く思い付きなのですが、そんな中で、「俳句上達法」vs「鬱」は対立軸としてあり得るかとも思います。俳句の行動のモチベーションを何と考えるかという対立軸です。コロナだけではなく、高齢者は生活の不安から鬱になり、若い人は非正規雇用により鬱になっているようにも思います。気になるのは若い俳人が時折死んでいることです。澤田和弥や吉村鞠子、木村リュウジ等の名前が思い浮かびます。その原因は私が思っているのとは違うかもしれませんが、現代を象徴しているようにも思えます。

 とはいえ、これらは一種のメタファーですし、「俳句上達法=ビジネス」vs「鬱=文学」と還元すれば、ご高説に似てなくはないでしょうし、さらに「伝統=俳句上達法=ビジネス」vs「前衛=鬱=文学」と見ればお定まりの伝統と前衛の対立にも引き当てる事が出来るかもしれません。

 もちろん責任持って言える話ではありませんが、よく捕まえきれない時代を捕らえるためには、こんな風にさまざまに機軸をいろいろずらして考えてみて、帰納して行く先を考えてみるのも一つの方法のように思えます。

(続く)

2022年3月11日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(7)

第45回現代俳句講座「季語は生きている」筑紫磐井講師/

11月20日(土)ゆいの森あらかわ


【赤野氏質問】帚木に影といふものありにけり」(虚子)について

 「題詠」によって生まれた名句の代表としての揚句ですが、山本健吉の評ははっきりいってよくわかりません。

 『帚木は「影といふものありにけり」といった具合に立っているものなのである』(山本健吉『挨拶と滑稽』)といわれても、今の目からみればなんのこっちゃでしかなく、現代の批評としては通用しないでしょう。

 かといって健吉にセンスがないのかというとそうでもなく、偶然か意図的かはわかりませんが、掲句は「視覚詩」として非常に効果的に出来ているのです。

 会場の質疑で少し述べましたが、この句は横書きでは魅力が出ません。縦書きでこそ現れる効果があるのです。

 まず「帚木」はそれ自体、木の形状をよく表した図形として機能しています。そして、無意味な引き伸ばしに見える「といふものありにけり」は地に長く落ちた木の影を視覚的に錯覚させる効果があるのです。つまり、語の意味と視覚が合一したことにより、強い説得力を生んでいるのが揚句の魅力といってよいでしょう。山本健吉はこういった魅力は感じていたが、実作経験が乏しかったこともあって言語化できなかったため、あのようなよくわからない評となったのではないでしょうか。

 同様の効果は夜半の「滝の上に水現れて落ちにけり」についてもいうことができると思います。

 句の構造による視覚効果はこれまであまり取りざたされてきませんでしたが、佳句名句と呼ばれるものの中に駆使されている例は少なくないと考えています。無論、構造がすべてという話ではなく、要素としてということです。


【筑紫】

 ご説にある程度共感いたします。健吉はいいセンスでこの句を取り上げているのですが、説明はあまり俳句の本質を理解が出来ていないのではないかと思います。実作が欠如しており、頭倒れしているように思います。ただこの句を取り上げた功績は大きいです。

 そもそも健吉は、名著と言われる『現代俳句』を執筆するにあたって、その冒頭に虚子を置いています。そしてその虚子の項目の冒頭に「箒木」の句を置き、他のどの作家、どの句よりもたくさんの紙面を使って鑑賞しています。それくらい大好きだったのです、論理ではないでしょう。その後『現代俳句』改訂版を作るときに、スコープを近代全体とするために、子規と漱石を加えています。これが、我々が今読むことのできる『現代俳句』です。健吉にとっては現代俳句とは、虚子であり、「箒木」の句であったわけです。

 健吉と言えば人間探求派座談会が有名ですが、この座談会を読むと健吉が人間探求派をプロデュースしたという説は納得できません。ここでは草田男が暴走して延々と議論を展開し、楸邨が丁々発止とやりあい(ここのやり取りは面白いです。「あなたの言うことはよくわかります」と言って、相手の言うことを全然聞かず、自分の論理を押し付けてきますから)、当時古典派・韻律派に転向中であった波郷は沈黙を守っています。健吉は二人のやり取りに口をはさむこともできずにいます。健吉が言った言葉は、これは「人間の探究(ママ)」ですね、というぐらい。まあジャーナリストらしいネーミング感覚は持っていましたが。だから健吉は人間探求派を作るつもりなどなく、草田男・楸邨に引きずられてしまったようです。健吉が人間探求派をプロデュースしたというなら、その後の編集ぶりからみて聖戦俳句や従軍俳句もプロデュースし、大いに戦意高揚を図ったと言わなければならないでしょう。

 むしろ健吉は、編集時代の後半において古典俳句の特集を組むようになり、戦後の「挨拶と滑稽」(ほとんど芭蕉論と言ってよいでしょう)につながる能力を磨いてゆくようになります。

 「帚木」の句の虚子の創造プロセスは、赤羽根さんにお答えした第5回に引用した通りです。「俳句」1月号の座談会で、こうしたプロセスをたどることは作者の論理であって、どう読めるかとは別だ、と高柳氏に批判されましたが、虚子の創造プロセスを見てはいけないとしたらおかしなことです。色々な読みの中に、虚子の創造プロセスもあることは否めないからです。

 それから、現代において何が必要かと言ったら、「読み」か「作る自分」が大事かという二者択一はあまり適切ではないように思います。ただ私自身にとっては、俳句無風時代の現代にあってはむしろ「作る自分」の優先度が高いように思います。人間探求派も新興俳句も、造型俳句も何を作るかを真摯に考えていたから、あまり問題は変わらないわけです。

 のみならず、虚子の創造プロセスを知ることによって題詠法の名句創造の秘密が明らかになるように思います。これは従来の字句解釈法では決してできない発見だと思います。

       *

 「横書きの魅力」はこの句に関してはよくわかりません。「一月の川」の句は間違いなく縦書きである必要がありますが(縦書きにより魅力が増すという意味で。すべての構成する字句が鏡文字ですから)、「箒木」の句はそこまで明白な魅力が感じられません。これは99%横書きで俳句を書いている私との感覚のずれかもしれません。

2022年2月25日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(6)

 第45回現代俳句講座「季語は生きている」       筑紫磐井講師/

11月20日(土)ゆいの森あらかわ


【赤羽根氏質問】

 さて、追加質問の件、今頃で申し訳ありません。

 私がお聞きしたいと思っていることは以下の3点です。(2点については回答済み)


3.「一月」の必然性について。


どうぞよろしくお願いいたします。


【筑紫】

     一月の川一月の谷の中(初出「俳句」44年2月号「明るい谷間(30句)」)


 この句は「一月」であって「正月」ではないことに注目すべきです。

 暦と言って、1月、2月、3月、4月・・・と思い浮かべるのは、西洋暦に慣れ親しんだ現代人の感覚です。芭蕉以来、明治の半ばまでは、暦は、正月、2月、3月、4月・・だったのです。もちろん、睦月、如月、弥生・・・という異名はありましたが、東洋を通じてのスタンダードは、正月、2月、3月、4月‥だったのです。

 そもそも暦の歴史は古く、王朝ごとに年の初めは変わったとされ、それを夏正(11月)・殷正(12月)・周正(1月)と呼んでいたように、年の初めを「正」というのです。

 明治5年の改暦に伴い太陽暦が採用され、1月、2月、3月、4月・・・の名称が採用されましたが、日本全国までそれが普及するまではだいぶ時間がかかりました。明治初期には改暦反対の一揆さえ起っています。なぜなら太陽暦に合わせて、民衆の行事を政府は実施させようとしたからです。旧暦を支えていたのは農村部の民衆だったからです。

 なぜこのようなことを言っているかと言えば、民衆の生活を踏まえたものではない暦の言葉「一月」は本来季題(伝統的な季節の題)でなかったからです。「一月」には何の本意もありません。俳句の言葉ではなかったのです。明治中期から進歩的歳時記には、「一月」が立項されましたが、逆に「正月」が削除されました。その典型は虚子の歳時記で、その経緯は西村睦子『「正月」のない歳時記』に書かれています。

 いずれにしても歳時記に一月が立項されても多くの俳人の意識はそれに追いつかず、一月の名句はなかなか生まれてきませんでした(最も新しもの好きの御先走りはいつの時代でもいるもので、新題としてせっせと詠む一部の俳人はいましたが)。

 日本の農村部の意識を決定的に大きく変えてしまったのは、敗戦でした。農村の生活改善の過程で、GHQの意向を受けて大きく農村は変わっていきました。衛生の改善、男女平等などいいこともたくさんありましたが、古い文化の断絶は進みました。おそらく正月意識が希薄になり、一月が普及したのはこうした背景があると思います。

 いいすぎになるかもしれませんが、一月の普及の裏側には正月の絶滅があるかもしれません。

 こんなことがあると、「一月の川」は正月を拒否している山河であることがわかってくると思います。情緒的な正月ではなく、無機的な一月の山河があるわけです。一月の季語には、正月行事の匂いは感じられません。そしてそれは、「一月の川一月の谷の中」という句に実にぴったりとあてはまるように思います。川と谷以外何もないというためには、冬でなければなりません。厳冬のイメージが必要です。12月は、日は極まっています(当時で日が一番短い)がまだ寒さの極致ではないようですし、「じゅうにがつ」では饒舌です。2月は、すでに春が萌し始めているという伝統があります。


【筑紫追加】

 前回で、「名前があってこそ名句になる」にお答えさせていただきましたが、龍太の「俳句は無名がいい」というっ言葉があるので少し補足させて頂きたいと思います。

 「俳句は無名がいい」と言っても「一月の川」の句はやはり龍太の名前がなければ世に出ないことは間違いありません。高柳重信や中村苑子がこの句を見出したのは、龍太の名前がついていたからでしょう。「一月の川」の句が有名になったればこそ出た龍太のセリフのように思います。

 ではなぜ、龍太が「俳句は無名がいい」などと言ったのかということを忖度すると、これは龍太流の俳句の作り方を述べているように思えます。秋櫻子や誓子のような個性がぎらぎらした作り方(実は案外「馬酔木」や「天狼」には類型的な俳句が多いのは面白いですが)を最善のものとせず、もっとふっくらとした作り方を求めているように思うのです。

 そしてこのふっくらとした作り方こそ、虚子が進めた題詠法、――つまり題を使って山ほどの類想句を詠んだ挙句に突然恩寵の様に出来上がる傑作と似たような作り方ではないかと思います。虚子は、「玉藻」の研究座談会で、龍太や波郷の俳句を「我が方の俳句と近い 」とほめています。秋櫻子や誓子のほめ方とは明らかに違うのです。

    *

 以上色々腑に落ちないことがあるかもしれませんが、それはよくわかります。ですからこの論は私の考え方を押し付けようというのではなく、新しい考え方を導入し、共に進歩したいと思っているからであり存分にご批判いただきたいと思います。


(続く)

2022年2月11日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(5)

第45回現代俳句講座「季語は生きている」 筑紫磐井講師/

11月20日(土)ゆいの森あらかわ


【赤羽根氏】

お世話になっております。

先日はご本を2冊もお送りいただきありがとうございました。

私が普段接している俳句とは全然違う世界に只々驚嘆しています。

(秋尾先生からは洗脳されていると苦笑されています。私自身はマニア化している感じです。)

さて、追加質問の件、今頃で申し訳ありません。

私がお聞きしたいと思っていることは以下の3点です。


1.「一月の川〜」の句は飯田龍太という名前があってこそ名句になると先日伺いました。

 もし、筑紫先生が句会で初めてこの一句と出会った場合、当然飯田龍太という名前はありませんが、どのように選をされるでしょうか。

2.この句は、筑紫先生が分析された型のことを除けば「川」「谷」しかないということですが、読み手によって、その景には何らかプラスされている可能性があります。

 (過去の論争では、「雪」「ヘリコプター」なども登場していました。)

 筑紫先生のイメージされるこの句の景で、「川」「谷」以外に見えているものがありましたら教えていただけますでしょうか。


【筑紫】

 多分私の出ている句会では取らないと思います(笑)。一般的に、句会は文芸批評をする現場ではないと思いますから。句会では名句ができる環境ではない、句会では名句が評価される仕組みはないと思うからです。やはり句会というのは興業の場であり、そのざわついた雰囲気を楽しむのが第一の目的であると思います。

 申し上げておけば、Aという句会で特選に入り、Bという句会では無点になるという場合はよくありますが、それはその句会の指導者が優れているかどうかではなくて、連衆の構成も含めて句会の雰囲気が受け入れるかどうかで結果は全く違った結果になります。

    *

 「一月の川」を受け入れる句会は私たちが知っている通常の句会(例えば当季雑詠句会)とはかなり違う句会だと思います。この句が特殊な句であることはお分かりになると思いますが、通常の句会にはなじまない句であるという気がします。むしろホトトギスの題詠句会に「一月」の題で出されてこそ初めて生きてくるように思えます。「一月」の題で、参加者があれやこれや考え、大半が面白くもない類想句しかできない中でこの句が回ってきたときに、ふっととってしまうような句です。

 「一月」の句が出来た環境はよく知りません。「俳句」から原稿依頼が来たときに、机の前で作ったようにも思えますが、にもかかわらず、この句は、題詠句でできる要件をいくつか持っているように思います。まず頭の中だけで作ったように思えます。手持ちの素材が全くないからです。逆に言えば、吟行などで余計な情報を入れることがないと想像できます。雲母系の人は、龍太の住む山廬の風景を省略し消去し生まれたという考え方をする人が多いようですが、この解釈をするとこの句から様々な元の風景――夾雑物を含んだ現実の生々しい山梨県境川村の狐川という見栄えのしない枯れ川を復元してしまいます。雲母系の方の解釈はそうではないかと思います。あるいは「雪」や「ヘリコプター」まで見えてくるかもしれません。私は、むしろゼロから作られたのがこの句ではないかと思います。

 だから「一月の川」の句ができるプロセスは虚子の次のような作り方と非常に似ていると思えます。これは、


  箒草露のある間の無かりけり

  帚草おのづからなる形かな

  箒木に影といふものありにけり

  其まゝの影がありけり箒草


の句に関して述べたものですが、「一月の川」の句に非常によく似ていることがわかると思います。龍太の頭の中でもこのようなプロセスが存在したとみることはできるのではないでしょうか。少なくとも、箒木の周りに、「雪」や「ヘリコプター」が見えることはありません。


 〈自分は今箒草を頭の中に描き出してみて一つの好ましい景色を想像してみている。箒草の風を受けずにまっすぐに突っ立っているさまも想像してみたが、それなどはすでにいくども頭の中を往来した景色であって、どうも注意をその一点に集めるには力が弱いような心持ちがした。反対に箒草が嵐のために倒れてその吹き倒れたものが起き上がろうとして曲がった形になった場合も想像してみたが、それも心をひかなかった。箒草の踏石のほとりに生えているさま、物干の柱のそばに生えているさまなどを想像してみたがもとより問題にならない。〉

 〈夕陽が西の山にはいると同時に影はついになくなってしまう。夕暮れの色が地上をおおって来る。がしばらくして月がのぼる。また長い影が地上に生まれる。月が天に高くのぼるころになると影がほとんどなくなり、月が西に傾くにしたがってまた反対の側に影が伸びる。月が山に入るにしたがってその影はなくなる。また夜明けがはじまるという順序である。

 四六時中こんな単調な変化が繰り返されるのであるが、気がついてみるとその間に一度も箒草に露の下りているのを見たことがない。見たことがないということを体験したのではないが、箒草というものを瞑想することによって、この露のないということに気がついてみると、それがこの草をいかす一つの方法であるような心持ちがする。実際露があってもかまわない。露がないと見ることが、箒草を頭の中に再現してみる際に有力な働きをなすように思う。そこでこういう十七字が生まれる。

  箒草露のある間の無かりけり


 〈それから日がのぼったり月がのぼったりするにつれて影が生じる。日や月が天に高くのぼるにしたがって影が濃くなり短くなり、日や月が西天に傾くにしたがってまた影が伸び、ついにまたなくなってしまうということなどは、ただ箒草に限ったことではなくて何にでもあることである。庭の梅の木でも松の木でも、また石灯籠でも手水鉢でも、日蔽いの柱でも門柱でも、地上にありとあらゆるところのものはみな同じ状態を繰り返しているのである。そんなことを問題にするということは根底から間違ったことではないかという意見が出るだろう。それについて自分はなおいうべきことをもっている。

 箒木というものは形の正しいものになると、まことに気持ちよく中央の部分が膨らんで上に至ると少しつぼまっている。その形と同じような影を地上に落とすということがきわだって目にうつる。ことに、庭木とか石灯籠とか日蔽いの柱とか門柱とかいうものになると、植込みになったり他の附属物があったりなどして、目にうつるその物はもとよりその物という感じがするが、その影はとけあって何だか分からぬものになってしまうのが普通である。ところが箒草になると、何もない庭のまん中にただひとつ生えていることがよくあり、烈日がこれを照らす時分に、地上に黒い影を落としているというその影も、また一個の明確な存在である。箒草を想像する時分にどうしてもこの影というものをなおざりにすることはできない大切な条件であるような心持ちがする。そこでこんな十七字を作ってみた。


  箒木に影といふものありにけり


 また影そのものの特別の性質を讃美するような心持ちでこんな句を作ってみた。


  其まゝの影がありけり箒草


 (中略)特に箒草の影法師は、箒草に付随した、箒草を性質づけるところの重要な一つの存在であるといわなければならぬのである。〉


(次に続く)

2022年1月28日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(4)

 45回現代俳句講座「季語は生きている」筑紫磐井講師/

1120日(土)ゆいの森あらかわ

 

【赤野氏】「題詠」システムについて

  「ホトトギス」では「題詠」によって佳句が生まれるという構造については興味深く拝聴しました。ただ、それが季語、季題によるものであるという点については、また別なのではないかと感じました。たとえば、新興俳句では連作がよくされましたが、富澤赤黄男の「ランプ」

落日に支那のランプのホヤを拭く 

やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ

灯はちさし生きてゐるわが影はふとし

靴音がコツリコツリとあるランプ

銃声がポツンポツンとあるランプ

灯をともし潤子のやうな小さなランプ

このランプ小さけれどものを想はすよ

藁に醒めちさきつめたきランプなり

や、渡辺白泉の「支那事変郡作」における

繃帯を巻かれ巨大な兵となる

繃帯が上膞を攀ぢ背を走る

繃帯の中の手足を伸ばしてゐる

繃帯の瞼二重に天を瞠む

繃帯が寝台の上に起き上る

から、それぞれ

・やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ

・繃帯を巻かれ巨大な兵となる

といった名句が生まれたメカニズムも「題詠」と同様のものと思えます。すなわち、季語、季題に関わらず、ひとつのテーマに集中して多作する際に思わぬ佳句、名句が生まれる傾向があるということではないでしょうか。

 これは「方法」ですので、季語を季題、季感いずれに捉えるかに関わらず取り入れ、活用することができると思われます。

  もちろん、特定の季題に結社全体で取り組む集団の大きさが重要なのだ、ということもできますが、それは「一将功成りて万骨枯る」システムということですね。果たして今後、そういった運営が持続可能かどうかは疑問が残りますし、おそらく作家意識の高い俳人ほど離れていくでしょう。

 

【筑紫】

 私の理解では、題詠と連作は制作動機においてかなり異なるものと考えます。

 「題詠」とは句会において一つの題について探求する文学の共同作業形式で、この中で膨大な類想作品を生産し、その結果として究極の名句を作り出す方式です。これは講演の時紹介した通りです。「一将功成りて万骨枯る」システムと言われるかもしれませんが、さりとて非民主的というかとそうでもなく、誰でも句会や雑詠欄に参加した人は「一将」になれるわけですから、民主的な競争原理が働いています。

 「連作」はこうした制約がないのですが、それでも発生的にみて、題詠的連作と、非題詠的連作があり、ご指摘の連作は後者であると思います。なぜなら、これらは題詠句会に出せる類想作品ではなくて独善的な作品(これは文学的批判ではありません。類想がないということを裏返しただけです)ですから題詠とは言えないわけです。

 題詠がいいのか、連作がいいのかはその人の価値判断ですが、少なくともどちらかが文学でありどちらかが文学ではないなどと批判してもしょうがないことです。知っておきたいのは、題詠と連作を同じ基準で論じる意味はあまりないということです。

 ただ、題詠から連作が生まれたという関係は当然あるわけです。昭和初頭に水原秋櫻子が連作を提唱しましたが、この時の連作を初出にさかのぼり丹念に比較研究すると、秋櫻子は、虚子の題詠句会に提出した句をのちに連作として編集しなおしたことがわかります。つまり「制作動機」は題詠で、「編集動機」が連作であったわけです。山口誓子についても似たようなものではなかったかと推測します。

 これが上に述べた、「題詠的連作」です。制作動機が連作ではなかったわけです。題詠には、題詠句会が不可欠で、当然季題が中心となります。なぜ、題詠が季題でなければならないのかはこうした理由です。

 「非題詠的連作」では題詠句会が存在しないわけです(題詠句会は全く不思議はありませんが、連作句会などというのは詩の発表会のようなもので句会の形態としてはあり得ないでしょう。ちょっと気味悪いですよね)から、季題以外の主題になっておかしくはありません。現に馬酔木で誓子が選を行った連作作品欄では題は季題ではありません。

 ちょっと余談になりますが、正岡子規は句会を「一題十句」という形式でやりました(これは蕪村に倣ったものであると言われています)。一つの題を出して十句を投句し、句会で披露するわけです。結果的にその中の一句が句集などに収められました。「鶏頭の十四五本もありぬべし」は有名ですが、この時の句会では今では誰も知らない八句があったと言われています。

 子規が俳句改良で大成果を上げた後、短歌の改良に進みましたがこの時「一題十首」を発表しています。「瓶かめにさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり」などがありますが、これは連作10首です。

 子規は、俳句では「一題十句」でほかの句は捨てて究極の1句を残したのですが、短歌では連作を残しています。これは俳句と短歌の違いを示してくれて興味深いですが、一方で題詠と連作の子規の考え方も示してくれるようです。子規は、鶏頭の「一題十句」を連作として残せるとは考えていなかったようなのです。

      *

 後段について感想を申し上げます。文学システムとはいかに「万骨を枯らして一将の功を成らせるか」のシステムだと思います。文芸雑誌の編集長は日々「万骨(たくさんの読者を集めて)を枯らして一将の功を成らせる(同時代を代表するごくわずかの作家を養成する)か」の努力をしており、文学の王道であると考えます。その成果が、俳句にあっては草田男であり、兜太であると思います。それは、今後も続く永遠不滅の原理だと思います。結社も同人雑誌もこれは変わらないと思います。そうでなければ雑誌など出せませんから。「ホトトギス」も「馬酔木」も、「豈」も「海程」もその点は変わらないと思います。違いはそのシステムを運営する動機が、主宰者の恣意や経営的判断か、それとも文学的確信・良心に基づいているかの違いでしょう。その責任はすべて編集長(主宰)が負います。

2022年1月14日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(3)

45回現代俳句講座「季語は生きている」筑紫磐井講師/

1120日(土)ゆいの森あらかわ 

 (承前)前回と重複する話題もあり、ややくどいと思われるかもしれないが、補足して読んでいただければ、二人の意図もわかりやすくなると思う。

 

【赤羽根めぐみ氏】筑紫先生は「一月の川一月の谷の中」について、龍太の表現の特色

・句末の「〜の中」

・愛用の言葉「一月の〜」

・反復繰り返し「〜の〜の」

のトリプル効果で「内容以上に形式が重い句」、そして「内容から言えば、むしろ無内容」と述べられています。

 

【筑紫】私が、

・句末の「〜の中」

・愛用の言葉「一月の〜」

・反復繰り返し「〜の〜の」

と述べたのは、この句は構造分析をするのに向いていると考えたからですが、結局この句が構造的な俳句であることを述べたかったのかもしれません。龍太に構造的な俳句を作る意図があったとすれば、その流儀は兜太の造型俳句と全く異なっていたということはできないかもしれないと思うのです。

 

【赤羽根めぐみ氏】同時に、題詠から生まれたことも大事なポイントになっています。

 

【筑紫】一月の川の句が題詠でできたかどうかは、「箒木に」「滝落ちて」の句と違ってはっきりはしていないと思いますが、その発想形式から行って題詠に分類したものです。題詠行為そのものより、題詠構造を利用して俳句を作る、これも造型俳句の一種と言えるかもしれません。

 同じ伝統派とされる能村登四郎(どちらかというと、草間時彦と並んで当時の伝統俳句の理論的主柱でしたが)が、兜太の造型俳句論のはるか以前に、龍太俳句に造型的手法を指摘していました。我ながらいい指摘だと納得したものです。

 

【赤羽根めぐみ氏】形式で考えるならば、取り合わせの一句なのかなと考えました。

 

【筑紫】繰り返しになりますが、取り合わせと考えるとこの句は「現代俳句」ではなくなってしまうように思われます。現代俳句作家で、作る際に取り合わせを考えている人はどれくらいいるのでしょうか。結果的に取り合わせになっているように見えるかもしれませんが、それは作者の動機とはなっていないのではないかと思います。

 

【赤羽根めぐみ氏】それではなぜ、「季語は生きている」という季語についてのご著書の中で(しかも第二章の最後の一行で)この一句が取り上げられているのか。

 

【筑紫】題詠では、季題の題詠が重要な要素をなしています。それは、歳時記・季寄せや季題別句集(江戸時代の句集は大半がこれでした)と密接に関係しているからで、季題が題詠の不可欠要素をなしていたと考えるからです。ホトトギス派(これも実は近・現代俳句派の一種です。徹底した季題題詠俳句を完成したのですから)もこの考え方に従っています。

 ホトトギス以外の現代俳句派にあってはそうした桎梏はないはずなのですが、不思議なことに俳句入門書では相変わらず季題による俳句の詠み方が説かれる入門書が多いようです。現代俳句だから自由に詠めばよいわけなのですが、なぜか俳句の詠み方を説明するときに、季題や題詠に引きずられています。こと季題季語については現代俳句も、一部を除いてほとんどホトトギス派に帰順したように見えます。その意味では虚子は偉大であったのでしょう。

 学校で詩を書く授業の時に先生は思ったことを自由に書きなさいと言います(実はこれがとんでもなく難しいのですが。実は生徒は何も思っていないからです。がそれはそれとして)。ただ俳句の授業になると、思ったことを自由に書きなさいと言いません。これって何かおかしいですよね。そこに俳句の秘密があるというのが私の発見です。

 実はもともと俳句は思ったことを自由に詠んではいけない文学なのです。俳句は題詠でまず詠まなければなりません。これが第一歩です。しかし、題詠では変り映えしない、新しいものが読めないと感じた時に、俳人は桎梏の外側に出ます。しかし完全に詩の世界に入ってしまっては、俳句のアイデンティティが保たれません。何人かの作家は、ぎりぎりの線を行くことを選びました。だから「一月の川」の句は厳密には題詠の句ではありませんが、題詠の方法論を十分に使った現代俳句となるのでしょう。それで何なのかと言えば、実は未だかつて誰もやったことのない新しい俳句がここに生まれます。ですから、題詠が重要なのでもなく、取り合わせや一物仕立てが重要なのではなく、「未だかつて誰もやったことのない新しい俳句」であることが重要なのです。

[補足]題詠の本質や連作との差異については、次回赤野さんへの回答の中で触れたいと思います。

 

【赤羽根めぐみ氏】それを《本質的類想句》と筑紫先生は書かれていますが、例えば山本健吉のようにあえて言葉にしなくても、季語「一月」の一物仕立ての句として存分に味わい尽くされているからではないかとも考えました。

 この句で季語「一月」を語るには、実際「川」と「谷」しか存在しません。しかし、作者の居住地とか経歴とか、もっと言えば作者名、それらが無くても、読む人の心に届く一句ではないかと私は考えます。

 

【筑紫】おっしゃる通りですが、何もなくても「読む人の心に届く一句」とするためには、実は「何が必要なのか」を深く考えてみる必要があるように思います。「川」と「谷」しか存在しないように見えますが、実はそこに構造(ないし構造を引き寄せる意識)が存在していると思います。逆説的になりますが、実は、「川」も「谷」もなくても構造(意識)さえあれば俳句は存在するのではないかと考えます。「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」には花も紅葉もありませんが、それを許容する構造があります。

 

【赤羽根めぐみ氏】筑紫先生はご著書『飯田龍太の彼方へ』で、こう書かれています。

 

「龍太の俳句について言えば、もちろん龍太の世界を写していることも重要なのだけれど、それが読者の世界をも写せているかどうかが一流の作品かどうかを決める分かれ道だろうと思うのである。もし「一月の川」の句に読者の自然観、文学観が見えてきたとしたらーそれで初めて十分に現代を代表する名句と成り得てゆくわけである。」

 

 一物仕立てか、あるいは取り合わせか、はあくまでもきっかけで、この二択で答えが出る句ではないと重々承知し、かつ支離滅裂で申し訳ありません。

 「一月の川一月の谷の中」は私が最も尊敬する一句で、実作者としても読者としてもこの一句で磨かれたい思いがあります。

 どうぞよろしくお願いいたします。

 

【筑紫】「一月の川」の句が名句であるのかどうかは、実は未だに私にもよくわからないのです。「名句」って何でしょうか。ただ、この句ほど俳句とは何かについて考えさせてくれる現代俳句はないと思います。少なくとも私に、『飯田龍太の彼方へ』をこの一句だけで書いてみる気にさせてくれた記念すべき句であります。この句について考えることは、現代俳句を間違いなく豊穣にしてくれると思います。

 (多彩な質問をありがとうございました。私自身も頭を整理する事が出来ました。実はこの講演と質疑の直後、「俳句」1月号の新春対談に臨み、高柳氏から私の考え方に対する批判を受けております。新春対談なので余り突っ込んだ議論とはなっていませんが、赤羽根さんとの質疑を見ていただければ少し私の言いたかったことをご理解いただけるかもしれません。特に、将来を展望する座談会ではありましたが、「一月の川」の句が結構重要な話題となっております。現代俳句を論ずるにあたって最も重要な句であることが浮かび上がってくると思います)。

2021年12月17日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(2)

第45回現代俳句講座「季語は生きている」筑紫磐井講師/

11月20日(土)ゆいの森あらかわ 


【赤羽根めぐみ氏質問】

―――私は、飯田龍太の「一月の川一月の谷の中」についてお聞きしたく思っております。

筑紫先生のご著書の中の用語ではない言い方でお聞きしますが、「一月の川一月の谷の中」は一物仕立ての句でしょうか、あるいは取り合わせの句でしょうか。(ここでは、あえてこの二択とさせていただきます。)


【筑紫】批評用語の難しいのは、批評用語の背負っている時代の思想が抜けきらないことかと思います。「一物仕立て」「取り合わせ」も、現代の俳句を論じるときに、江戸俳諧の思想がどこかに滲み出てきてしまう問題があるように思われます。

「一物仕立て」「取り合わせ」には俳句を仕立て上げるという俳諧的な思想が前提となるように思います。ですから、俳句は文学である、俳句は詩であると考える人たちにとって、自らの作品を「一物仕立て」「取り合わせ」と評されても困惑することが多いと思います。

それでも「取り合わせ」の方は明治の子規により、「配合」と言い換えられていますが、言い換えと同時に俳句を仕立て上げるという俳諧的な思想は拭い去られたように思います。なぜなら子規の「配合」は、俳句という詩が言葉の組み合わせでできているという前提(これは極めて近代的発想です)から、言葉の組み合わせはいずれ尽きてしまうのではないかという問題意識に始まり、江戸以来の俳諧・明治の俳句の組み合わせをすべて提示しようとする科学的意識が働いていたように思います(その先には明治の新俳句では、新しい配合を作り出そうという意思が働いています)。子規の江戸俳諧10万句の句を分類しつくした「俳句分類」という壮大な事業はそうした成果であると思います。だから、そうした研究から生まれた用語が「配合」であり、子規は常に新配合を志していたと言えるでしょう。

その意味では、「一物仕立て」か「取り合わせ」かという問いは、龍太の句が俳句を仕立て上げるという俳諧的な思想が前提としているかどうかという問いに答えてから出てくる問いということになると思います。正直いって私は龍太の句が俳句を仕立て上げるという俳諧的な思想が前提というようにお答えできないので、この二択は難しいというのがお答えになるかと思います。

ただそれだけではあまりにもぶっきらぼうなので補足させていただきます。「配合」はやがて碧梧桐、乙字へと議論が進み、講演でお話しした乙字の新しい季語論、「季感象徴説」に進むのですが、その過程で季語の用法の「暗示法」の発見にたどり着いたのです。一種の象徴的使用法となっているのですが、実はこの手法を一番有効に使ったのが人間探求派であると思います。


      鰯雲人に告ぐべきことならず      加藤楸邨

  蟇長子家去る由もなし         中村草田男


 鰯雲、蟇も象徴的使用法であることは明らかです。作家が詠みたい主題があり、これに文学的効果を持たせるための暗示的使用として季語がおかれているのです。これは厳密にいえば子規の「配合」の延長ではありますが、子規の関心からはだいぶ離れ(まして取り合わせからはすっかり離れ)、主題を意識した詩的な表現法となっています。

 問題はさらに拡散します。楸邨、草田男の象徴的使用法に、表現論として現代の俳句のあるべき方法として反対提示されたのが金子兜太の「造型俳句論」であったのです。「造型俳句論」は花鳥諷詠や新興俳句が仮想敵であるのではなく、人間探求派が仮想敵でした――その敵は自分の師である加藤楸邨であり、さらに言えば楸邨のもとで育った(造型俳句提唱前の)兜太自身であったと思われるのです。従って「造型俳句論」とは、懺悔の書、自己批判の書であったと理解します。

 そう考えると、龍太の句は、俳諧的な思想ではないことはもちろん、人間探求派の象徴的使用法でもありません。私はむしろ、龍太には同時代の空気を吸った兜太の影響こそ強いのではないかと思っています。こんなことを言うと驚くかもしれませんが、龍太の「一月の川」の句は造型俳句なのだと言ってみたいと思います。その構造性、無意味性、現代性から行っても、「一物仕立て」でも「取り合わせ」でも「配合」でもない造型俳句なのだというのが私の結論となるのですが、いかがでしょうか。


[補足]

ご質問に沿って少し話題を拡散させれば次の質問にどう答えるでしょうか。例えばこんな問いは成り立つでしょうか。

①短歌には「一物仕立て」の短歌、「取り合わせ」の短歌があるか

②詩には「一物仕立て」の詩、「取り合わせ」の詩があるか

③小説には「一物仕立て」の小説、「取り合わせ」の小説があるか

多分否でしょう。このようにみると「一物仕立て」「取り合わせ」の俳句かどうかは、俳句固有の問いのように思われます。短歌、詩、小説にはない、というよりはこんな発想さえわかないのではないかと思います。我々が思いこんでしまっている俳句という枠組みにはぴったりするのですが、俳句以外では成り立ちません。その意味では、あまり批評の普遍性はないように思われます。逆にここを問い詰めてゆくと、俳句とは何かより、我々が俳句をどのように考えてしまっているのか、という答えが出てくるように思います。非常に興味深い問題ですが、ただこの問題は、冒頭に掲げたように少し問題がずれてしまうので、別の場に改めて考えてみた方がいいですが。

(以下続く)

2021年11月26日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(1)

45回現代俳句講座「季語は生きている」筑紫磐井講師/

11月20日(土)ゆいの森あらかわ


現代俳句協会の現代俳句講座が久しぶりに会場で開かれることとなった。

内容は、「季語は生きている」と題して、「季題」と「季語」の違い、それぞれの誕生の歴史、季題派の俳句の作り方と季語派の俳句の作り方の違い、そしてこれによる二つの派による新季語の可否、新季語の作り方、季重なりの可否、忌日季題・季語の厳密さの違いなどの応用編を述べ、最後は題詠俳句の究極とは何かを考えた。

講演の後は、赤野四羽、赤羽根めぐみ氏を交えて季語に関する質疑応答を行った。

この講演は「現代俳句」誌への掲載や、後日のビデオ配信があり得るとのことなので、具体的内容はそれを待つこととして、あらかじめ赤野四羽、赤羽根めぐみ氏からいただいていた質問で、回答できなかった事項を挙げて述べてみたいと思う。


【赤野四羽氏質問】

――蕪村にみられるように、俳諧では季重なりの佳句が多くありますが、現代は忌避されているといってよい状況です。季重なりがこれほど避けられるようになった経緯はどういったものでしょうか。

【筑紫】近代になって季重なりが忌避されるのは句会の構造があるかもしれません。近代の句会は正岡子規から始まります。句会の方式は10題10句と1題10句の方式がありますが、後者が中心となりました。句会で集まると1つの題で10句を皆が持ち寄り互選するという方式です。例えば、


  鶏頭の十四五本もありぬべし      正岡子規


は子規庵で開かれた句会で、「鶏頭」の題で10句(実際この時は9句しか提出していません。体調のせいでしょうか)提出して選句されたものです。

 虚子の時代になると、1題10句では時間的にも長くなるせいか、1題4~5句が多くなります。東大俳句会の句会には次のような句を虚子は出しています。


  帚草露のある間の無かりけり

  帚草おのづからなる形かな

  其まゝの影がありけり帚草

  帚木に影といふものありにけり


 このように一つの題に集中した作句法を取るとどうしても、複数の季題が入る余地がなくなります。これは忌避しているというより題詠という方法をとるための免れがたい傾向だと思います。

 これに対して、題の出題のない、当季雑詠の句会が生まれると、季節を描くために自由に季語を駆使するようになり、ことによると2つ、3つの季語が入るようになります。馬酔木系の俳人や句会、雑詠になると季重なりが盛んにおこなわれるようになります。講演で上げた、


  郭公や瑠璃沼蕗の中に見ゆ  水原秋櫻子

  白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ   古沢太穂


がそうです。

 ただ最近のマニュアル化した俳句入門の教え方では季重なりを忌避することが多いようです。これは題詠のような信念のある忌避でもなく、季感尊重のような自由な表現でもない、俳句制作沈滞のようにも思えます。 


――いわゆる超季の方向性は、有季との対立というよりは統合や総合であると思いますが、いかがでしょうか

【筑紫】「超季」という概念はよくわかりません。世の中には、有季の俳句と無季の俳句しかないので、あえて超季と言わず、有季・無季で考えていいのではないかと思います。そのうえで有季・無季の総合を考えてみると、それぞれの流儀を駆使して名句を作ることに尽きると思います。

有季・無季の差よりは、題詠と季感季語のほうが差は大きいと思います。しかし言っておきますが、題詠で生まれる名句は決して季感季語で生まれる俳句にはなりませんし、季感派の人は題詠の名句を作ることが出来ません。それぞれの舞台で名作を作り、それを合わせて現代の名句が出来上がると思います。競い合うべきでしょう。


――国際俳句いわゆるHAIKUが俳句に与える影響は今後どうなっていくでしょうか

【筑紫】それぞれの言語が独自の短詩型を生みます。これはまことに結構なことだと思います。正岡子規俳句大賞を取ったフランスの詩人ボンヌフォアは、欧米では詩は思想を詠むものでありしたがって長編でなければならないという固定感観念があった。自分は詩の断片にきらめきを見つけたと言っており、これが授賞の理由となっています。

ただ、英語のHAIKU、ドイツ語のHAIKU、フランス語のHAIKU、中国語のHAIKU、韓国語のHAIKUをHAIKUでくくってもなかなか生産的な原理は生まれないように思います。英語の言語構造が英語圏の短詩型(HAIKU)を生み、中国語の言語構造が中国語圏の短詩型(HAIKU)を生みます。当然日本語の言語構造が日本語圏の短詩型(HAIKU)を生みます。それぞれの言語構造は特殊ですから、特殊な短詩型を生みでしょう。特に日本語はいわゆる助辞(助詞や助動詞)という特殊が言語構造を持っていますから、比較は難しいです。

 この点を考えると翻訳の問題が大きくなります。翻訳の可能な短詩型同士は多少影響しあうことはあるかもしれません。

例えば、名詞と動詞の塊でできている


  七月の青嶺まぢかく熔鑛炉       山口誓子

  朝はじまる海へ突込む鷗の死      金子兜太


は他国のHAIKUと影響しあうことがあるかもしれません。翻訳がしやすいからです。兜太がノーベル文学賞を受賞できるかもしれないと言われた根拠です。しかし、助詞・助動詞が重きをなす句や言語構造を持つ


  鶏頭の十四五本もありぬべし      正岡子規

  白牡丹といふといへども紅ほのか    高浜虚子


は適確な翻訳はほとんど不可能でしょう。ノーベル文学賞を受賞する可能性はないと思います。


――題詠というのは連句や付句からあるもので、どちらかというと先祖がえり的なのではないか。

【筑紫】連句や付句は題詠と関係ないように思います。むしろ、和歌(特に100の題を詠む百首歌)、さらには歌合せから題詠は誕生していると思います。中国では楽府詩集、沖縄歌謡はこれに近いものと思います。

先祖がえりというと悪い意味にも受け取れますが、むしろ題詠はあらゆる文学の母胎であり、それがなかりせば文学(特に短詩型)が生まれないほど貴重であり、王道であるといえると思います。ただ近代人にとって王道(伝統)は我慢のならない桎梏であるところから、常にそれに対する反攻を繰り返しています。現代俳句は常に反乱の連続であり、完成してはならないものだと思います。