2021年11月26日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(1)

45回現代俳句講座「季語は生きている」筑紫磐井講師/

11月20日(土)ゆいの森あらかわ


現代俳句協会の現代俳句講座が久しぶりに会場で開かれることとなった。

内容は、「季語は生きている」と題して、「季題」と「季語」の違い、それぞれの誕生の歴史、季題派の俳句の作り方と季語派の俳句の作り方の違い、そしてこれによる二つの派による新季語の可否、新季語の作り方、季重なりの可否、忌日季題・季語の厳密さの違いなどの応用編を述べ、最後は題詠俳句の究極とは何かを考えた。

講演の後は、赤野四羽、赤羽根めぐみ氏を交えて季語に関する質疑応答を行った。

この講演は「現代俳句」誌への掲載や、後日のビデオ配信があり得るとのことなので、具体的内容はそれを待つこととして、あらかじめ赤野四羽、赤羽根めぐみ氏からいただいていた質問で、回答できなかった事項を挙げて述べてみたいと思う。


【赤野四羽氏質問】

――蕪村にみられるように、俳諧では季重なりの佳句が多くありますが、現代は忌避されているといってよい状況です。季重なりがこれほど避けられるようになった経緯はどういったものでしょうか。

【筑紫】近代になって季重なりが忌避されるのは句会の構造があるかもしれません。近代の句会は正岡子規から始まります。句会の方式は10題10句と1題10句の方式がありますが、後者が中心となりました。句会で集まると1つの題で10句を皆が持ち寄り互選するという方式です。例えば、


  鶏頭の十四五本もありぬべし      正岡子規


は子規庵で開かれた句会で、「鶏頭」の題で10句(実際この時は9句しか提出していません。体調のせいでしょうか)提出して選句されたものです。

 虚子の時代になると、1題10句では時間的にも長くなるせいか、1題4~5句が多くなります。東大俳句会の句会には次のような句を虚子は出しています。


  帚草露のある間の無かりけり

  帚草おのづからなる形かな

  其まゝの影がありけり帚草

  帚木に影といふものありにけり


 このように一つの題に集中した作句法を取るとどうしても、複数の季題が入る余地がなくなります。これは忌避しているというより題詠という方法をとるための免れがたい傾向だと思います。

 これに対して、題の出題のない、当季雑詠の句会が生まれると、季節を描くために自由に季語を駆使するようになり、ことによると2つ、3つの季語が入るようになります。馬酔木系の俳人や句会、雑詠になると季重なりが盛んにおこなわれるようになります。講演で上げた、


  郭公や瑠璃沼蕗の中に見ゆ  水原秋櫻子

  白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ   古沢太穂


がそうです。

 ただ最近のマニュアル化した俳句入門の教え方では季重なりを忌避することが多いようです。これは題詠のような信念のある忌避でもなく、季感尊重のような自由な表現でもない、俳句制作沈滞のようにも思えます。 


――いわゆる超季の方向性は、有季との対立というよりは統合や総合であると思いますが、いかがでしょうか

【筑紫】「超季」という概念はよくわかりません。世の中には、有季の俳句と無季の俳句しかないので、あえて超季と言わず、有季・無季で考えていいのではないかと思います。そのうえで有季・無季の総合を考えてみると、それぞれの流儀を駆使して名句を作ることに尽きると思います。

有季・無季の差よりは、題詠と季感季語のほうが差は大きいと思います。しかし言っておきますが、題詠で生まれる名句は決して季感季語で生まれる俳句にはなりませんし、季感派の人は題詠の名句を作ることが出来ません。それぞれの舞台で名作を作り、それを合わせて現代の名句が出来上がると思います。競い合うべきでしょう。


――国際俳句いわゆるHAIKUが俳句に与える影響は今後どうなっていくでしょうか

【筑紫】それぞれの言語が独自の短詩型を生みます。これはまことに結構なことだと思います。正岡子規俳句大賞を取ったフランスの詩人ボンヌフォアは、欧米では詩は思想を詠むものでありしたがって長編でなければならないという固定感観念があった。自分は詩の断片にきらめきを見つけたと言っており、これが授賞の理由となっています。

ただ、英語のHAIKU、ドイツ語のHAIKU、フランス語のHAIKU、中国語のHAIKU、韓国語のHAIKUをHAIKUでくくってもなかなか生産的な原理は生まれないように思います。英語の言語構造が英語圏の短詩型(HAIKU)を生み、中国語の言語構造が中国語圏の短詩型(HAIKU)を生みます。当然日本語の言語構造が日本語圏の短詩型(HAIKU)を生みます。それぞれの言語構造は特殊ですから、特殊な短詩型を生みでしょう。特に日本語はいわゆる助辞(助詞や助動詞)という特殊が言語構造を持っていますから、比較は難しいです。

 この点を考えると翻訳の問題が大きくなります。翻訳の可能な短詩型同士は多少影響しあうことはあるかもしれません。

例えば、名詞と動詞の塊でできている


  七月の青嶺まぢかく熔鑛炉       山口誓子

  朝はじまる海へ突込む鷗の死      金子兜太


は他国のHAIKUと影響しあうことがあるかもしれません。翻訳がしやすいからです。兜太がノーベル文学賞を受賞できるかもしれないと言われた根拠です。しかし、助詞・助動詞が重きをなす句や言語構造を持つ


  鶏頭の十四五本もありぬべし      正岡子規

  白牡丹といふといへども紅ほのか    高浜虚子


は適確な翻訳はほとんど不可能でしょう。ノーベル文学賞を受賞する可能性はないと思います。


――題詠というのは連句や付句からあるもので、どちらかというと先祖がえり的なのではないか。

【筑紫】連句や付句は題詠と関係ないように思います。むしろ、和歌(特に100の題を詠む百首歌)、さらには歌合せから題詠は誕生していると思います。中国では楽府詩集、沖縄歌謡はこれに近いものと思います。

先祖がえりというと悪い意味にも受け取れますが、むしろ題詠はあらゆる文学の母胎であり、それがなかりせば文学(特に短詩型)が生まれないほど貴重であり、王道であるといえると思います。ただ近代人にとって王道(伝統)は我慢のならない桎梏であるところから、常にそれに対する反攻を繰り返しています。現代俳句は常に反乱の連続であり、完成してはならないものだと思います。

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