戦後俳人の人気を調べれば、金子兜太と双璧をなすのが三橋敏雄であろう。この二人は対照的である。金子は、戦後俳句運動を体現した作家であり、社会性俳句、前衛俳句といった戦後俳句の中でその足跡をしるし、「海程」主宰、現代俳句協会名誉会長という組織の頂点にも立った作家であるが、三橋はこうした「長」と名の付く肩書は持っておらず、その出発は戦前の戦火想望俳句であるが、戦後はほとんど俳句界から抜け出し、空白期間をおいて復活している。いかにも新興俳句作家らしい生き様であった。
人気作家らしく、三橋敏雄の全句集としては、生前の『三橋敏雄全句集(増補版)』(一九九〇年立風書房刊)、没後の『定本三橋敏雄全句集』(二〇一六年鬣の会刊)がありその研究のための資料は比較的恵まれている。
一方、三橋敏雄論としては、すでに遠山陽子氏の『三橋敏雄 したたかなダンディズム』(二〇一二年沖積舎刊)がある。きわめて評価の高い本であるが、基本的には評伝であり、三橋敏雄の生涯とその間にちりばめられた著名な句が紹介されている。しかし、人気作家でありながら三橋の関係書はこの本以外決して多くはない。例えば、右に上げた金子兜太に比較するとどうしても少ないと言わざるを得ない。
こうした中でつい最近、北川美美による三橋敏雄句集『眞神』(一九七三年刊)の鑑賞書である『『眞神』考――三橋敏雄句集を読む』(二〇二一年九月ウエップ刊)が出された。句集『眞神』一三〇句の鑑賞であるから作品数は決して多いとは言えないが、『眞神』が三橋の代表句集であること、『眞神』の中に人口に膾炙した多くの句が含まれていることから、三橋敏雄研究としては適確手ごろな鑑賞書と言える。手頃と言っても、三六〇頁の大冊だから世の常の入門書とは違う。手ごろというのは、世の中の多くの雑誌には三橋敏雄論がおびただしく発表されている(これが三橋の人気作家である証拠なのだが)が、代表句を連ねた鑑賞をすることでやや上滑りで類型的になりやすいのに比べ、『『眞神』考』のように三橋の句集を集中的に読むことにより、ある時代の三橋の俳句に対する考え方を集中的に浮かび上がらせるからなのである。
『『眞神』考』は二部に分かれ、前半第一部鑑賞編は一三〇句を淡々と鑑賞し、技法や思想における『眞神』の各句相互の関係、あるいは『眞神』以外の句集の作品との関係を考察する。淡々と言っても、ツボにははまった句は数ページにわたり小見出しを多くつけて論じるから著者の思い入れに圧倒される。
一方、後半第二部研究編は三橋のキーワードとなる問題を横断的に比較し、深層に踏み込もうとする。冒頭、三橋にとって決定的な意味を持つ戦火想望俳句を取り上げ、動詞の多用、父母の関係、色彩、連句と連作、戦火想望俳句の結論である無季問題について取り上げる。せっかくなので著者の生の言葉を一部紹介しよう。
〇戦火想望俳句が受けた非難、そして新興俳句弾圧、壊滅の経験が以降の敏雄の作風転換の原動力だった。
〇戦火想望俳句の制作は敏雄の〈想望の門出〉でもあった。
〇人間探求派と呼ばれる師系と新興俳句を継承する師系の微妙なる過去の対立が残っているように感じられる。
〇新興俳句最年少であった敏雄は、終生想望による無季句、反戦を込めた戦争詠をつくり続ける。戦火想望俳句は敏雄にとり想望の礎なのである。
これらを見ることにより研究編の大筋を理解できるであろう。戦火想望俳句、戦争俳句と無季俳句は密接につながっているのであった。もちろんこの考えは人によってさまざまな評価があるが、「詩美よりも詩心を深く読みとる」が北川の本書の根幹なのであった。
*
さて著者の北川美美についてはぜひ言っておかなければならないことがある。実は北川美美は「『真神』考」を準備中の本年一月十四日に亡くなったことだ。享年五七であった。三雄は最晩年は「面」に所属していたが、三橋没後北川は「面」に入り、当時「面」の同人であった山本紫黄、高橋龍、池田澄子などから三橋に対する伝説を聞いていたのであろう。三橋の没後弟子という不思議な関係でこの本がまとめられたのであった。何回か断続連載されたBLOGでの「『真神』論」、総合誌「WEP俳句通信」での二一回に連載を経て最終稿にたどりついたが、亡くなる寸前まで原稿に手を加え、親しい人には「『真神考』は絶対完成させたい。それが終わるまでは、絶命したくない」と言っていたそうだ。
(以下略)
※詳しくは「俳句四季」11月号をお読み下さい
0 件のコメント:
コメントを投稿