これは2021年1月8日金曜日の第152号に載せた記事だが、後半は省略していた。しかし今回「俳壇」11月号で『畑打って俳諧国を拓くべし』の書評をかなり詳細に行ったので、参考までにその削った部分を紹介したい。興味がおありの人は、「俳壇」の記事をご覧いただきたい。
『畑打って俳諧国を拓くべし』
次に紹介したいのは、ブラジルの俳句王国を実現した佐藤念腹(明治三一年~昭和五四年)の評伝である。蒲原宏が主宰する雑誌「雪」に連載した評伝をまとめたもので七百頁に及ぶ大冊である(大創パブリッシング令和二年六月刊)。念腹は新潟の出身で、高浜虚子に師事し、中田みづほ、高野素十(いずれも新潟医専の教授)らの指導を受けたこともあり、新潟俳壇との関係が深い。昭和二年にブラジルに移植し、開拓と同時にホトトギス俳句の指導に当たった。入植に当り、虚子からは〈畑打つて俳諧国を拓くべし〉を頂き蒲原はそれを書名とした。入植後は〈雷や四方の樹海の子雷〉〈ブラジルは世界の田舎むかご飯〉などでホトトギスで五回の巻頭を得ている。
念腹がほトトギスの支援を受けて順調であったかと言えば必ずしもそうではなかったようであり。当時すでに新興俳句はホトトギスを敵として活動していた。領事館の支援を受けて俳誌「南十字星」が創刊されたのだが、ホトトギスと新興俳句の対立から念腹は不参加の態度を決める。本土の虚子・素十と新興俳句の代理戦争の趣があったようだ。
戦争が始まると、念腹はさらに大きな影響を受ける。ブラジルは日本を敵国と見なし、昭和一六年から移民中止、一七年からは国交断絶、日本語禁止(家庭内教育ですら!)、日本人の集会禁止の措置を受けることとなる。日本語で笑ったといって検挙されたという。とても俳句どころの状況ではなかった。念腹も、収監はされなかったものの書物の押収を受けた時の句を残している。
やがて敗戦を迎えた。戦後の勝ち組・負け組の争いは殺し合いにまでなり熾烈であったようであるが、意外に俳句の復興は早く、昭和二〇年から念腹は次々と句会を起こし、新聞俳壇選者となり、ブラジルでは本国に先がけて俳句ブームを招来したようである。
やがて昭和二三年に俳句雑誌「木蔭」を創刊し多くの俳人を育てた。「木蔭」のピーク時会員は八百人という。念腹は昭和五四年に八〇歳でなくなったが、弟の牛童子が「木蔭」を承継した「朝蔭」を創刊した。大冊を駈足で通り過ぎてしまったので著者には申し訳ないが、実に波瀾万丈の生涯であった。
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前の田中桂香『征馬』といい、念腹の「木蔭」といい、戦争の影響は大きかったようである。そしてこれらの記事を読むと、歴史の中に埋もれてしまっているこうした事実の発掘こそ大事なのではないかと思われる。またこの二冊の本を読むと、阿部も蒲原も、決して華々しくはないこうした本の刊行に、資金的にも苦労したことがさりげなく書かれている。しかし資料も散逸し関係者も死去して行く現在にあって、この時期にまとめなければならないという二人の使命感はひしひしと伝わる本である。是非とも残して欲しい本に出会えたと思う。
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