五十嵐秀彦句集『無量』(2013年、書肆アルス)を何度も読み返す。
どの俳句からも五十嵐秀彦の北方俳句の味がする。
選ぶ俳句の多さに内心の嬉しい悲鳴であった。
黒田杏子先生による五十嵐秀彦第一句集『無量』に寄せてあたたかな賞賛がある。
「日本中に句友を持ち、老若男女に愛されるゆたかな人間性と作家性」の持ち主である五十嵐秀彦の句集に序文を寄せる機会を得たことを、心から光栄に思う。」(黒田杏子)
帯文の裏面の文も記しておきたい。
「おお、しばれるわ」と、五十嵐さんは襟をたてながら小樽の街角へ紛れた。天に無言の銀河が冴えわたるばかり。「毛虫焼く記憶の器官ちりちりと」(銀河)繊細な少年時代の記憶に相違ない。今は、「一代の咎あれば言へ沙羅の花」(一代の咎)と禅問答のような境地に至るも、「魂ひとつ青野に還す血曼荼羅」(無神論)と凍土の闇をのぞかせる。毛細血管に包まれたような五十嵐秀彦の宇宙。さ迷ってもいいだろう。そう、「うららかに行方知れずとなりにけり」(鰐を飼ふ)だからだ。(吉田類)
「刻降り積もる」(深谷雄大)においても俳句の五十嵐秀彦俳句鑑賞を丁寧に鑑賞されている。
「僅か十七音・十三字を以って、これだけのことが言える、俳句という詩形のリゴリズムを示す作である。」(深谷雄大)
五十嵐秀彦氏による「あとがき」において「無量」について言及があるので記す。
「無量」といえば仏教用語で「無限」というのとほぼ同じ意味のようですが、しかし私は特に仏教哲学に詳しいわけではありませんので、このふたつの句以上のものを知っているわけでも、言いたいわけでもありません。体の中から生まれてくる言葉たちをなんとか十七音に変換するだけで精一杯でした。一読してわかりにくい、イメージが彷徨うような句ばかりです。しかし、ああ、こんなにも私は「古代」と「現代」を往来したがっているのだ、こんなにも私は「この世」と「あの世」を往来したいのだ、今回そのことに気づかされたのであった。千年、二千年を遡っていくと、そこに未来があるのではないか。「この世」を見つめ続けると、そこに「あの世」の穴が見えるのではないか。言ってしまえば私の俳句はそんな具合に両界を往来しているように思うのでした。そして、言葉を使って何かを構築しようとするような句を作ってみたり、言葉それ自体を壊そうとしてみたり、なかなか定まらない十五年でありましたが、あえてそれはそのまま収載することとしました。
ひとひらは春の月面まで届く
花のひとひらは、春の月面まで届きますよと解す。
モノの本質を鷲掴みした俳句が随所に見受けられる。
うしろ手に菫隠してゐたりけり
物語をうしろ手にクローズ・アップしたことで読み手に無量の物語を拡げている。
氷湖厚くみなぎるもののありけり
氷湖の厚みより何かみなぎるものを感受する作者のあるがままの鷲掴み方は、ここで選びきれなかった全ての俳句にも感じた。
夕焚火やがて溶けゆく妻の餓ゑ
ほんたうのことは言はぬよ牡蠣啜る
折合ひのつかぬ暗部の四温光
約束のありかに芽吹くふきのたう
茄子漬の昨日に染まる箸の先
面倒なをとことをんな栗を剝く
夕焼ける焚火の燻る中で妻の声にならない餓えも溶けてゆく。
本当のことは言わないで牡蠣を啜り合う。
人間にも自然にも折り合いの付かない暗部の四温光があるらしい。
約束の在り処に芽吹く蕗の薹。
茄子漬の「昨日」に染まるが効いた箸の先だ。
面倒な男と女だけれどもその違いが豊かさなのかもしれない。
早急に言葉に落とし込もうとするのは、野暮なもんだ。
この日本列島のどの立ち位置に居てもそれぞれの折々の季節感や個々が感受するあるがままの生き様で詠めるように多様な豊かさを私は夢みてしまう。だから私たちは、もっともっともっと言葉にしがみついて生きていくのかもしれない。
共鳴句もいただきます。
うららかに行方知れずとなりにけり
クレヨンの青だけが無い大西日
夏の蝶地下水脈を知つてゐる
子の尾花われの尾花と歩みゆく
流星の砕けてふきのたうばかり
すがりつくいのちのかたち雪螢
豊饒の雪のほむらとなりにけり
白に白重ぬる雪の音を聴く
かなしみにふれんと雪の穴を掘る
なあ友よこの世だつて存外寒い
指切りをするたび失せし雪をんな
白シャツにくるむ鷗の屍かな
いたしかたなき夕凪をおくりけり