(2015年12月刊、俳句と写真集の私家版)
沖縄で最大規模の展覧会「沖展」の写真部門会員。
ニッコールクラブ沖縄支部があった頃の同志でもあった。
訃報を聞かされたのは亡くなってだいぶ経ってからだった。
沖縄戦体験者の芯の強い方だった。
末吉さんとは、俳句の話を電話越しに何度か語り合う。
同じテーマで共通の物語が多くある沖縄戦の俳句においては、とても影響を受けていた。
人生の大先輩に最後の挨拶もできないのは心苦しい。
共鳴句を俳句鑑賞しながらお別れの言葉にしたい。
「はじめに」にある文章を引いておく。
南部の悲惨な戦闘に思いを致すとき、ヤンバルの山の中で一発も撃たず沖縄戦を終えた者が戦を語るのは憚られるものがありますが、友人知人はじめ多くの人々の死を悼む意を込めて上梓することにしました。
どこからも骨が出てどこにも仏桑華
第8回沖縄忌俳句大会(主催・県現代俳句協会)の大賞に選ばれた作品。
遺骨収集の骨が今も島中の様々な場所から掘り出される。
それと同じように仏桑華が青空を泳ぎ出すようにどこにも咲いていると感じる戦争体験者の視座がある。1928年伊是名村生まれで90代まで御存命だった。
俳句も写真も1点1点の明確な視点で切り取られ作品化されていた。
この俳句に添えられた言葉「帰らぬ遺骨を思う人たちには生きている限り戦後は終らない。」と結ばれている。
大方は戦を知らぬ夏帽子
碑のナベ、カメ、ウシや蝶の昼
石ひろい骨ひろいして藷の花
一発も撃たぬ戦歴梅雨明けぬ
ああ大き母の乳房沖縄忌
ニッコールクラブ沖縄支部でも故・山田實先生らと同じく90代まで写真活動も続けていた。「挨拶をしなさい」と会釈でダメかなっと私は、思いながらも挨拶をし直す。
大方は戦を知らない夏帽子なのである。俳句や写真への自身の真摯な姿勢は、他者にも厳しい語り口でもあったが、そこが末吉さんの見所だった。
沖縄県糸満市摩文仁にある平和の礎は、戦没者の追悼と平和祈念を込めた「去る沖縄戦などで亡くなられた国内外の20万人余のすべての人々に追悼の意を表し、御霊を慰めるとともに、今日、平和を享受できる幸せと平和の尊さを再確認し、世界の恒久平和を祈念する。」(沖縄県HPより)ものである。
その碑の名前に「ナベ、カメ、ウシ」の戦没者名がある。俳句に添えられた言葉は、撮影日誌でもあり、「春の一日、あの世の使いと言われるハーベールー(蝶)が碑の上を飛んで行った。」と結ぶ。同じように平和の礎を歩くが、沖縄戦体験者の末吉發俳句には、いつも軽く持ち上げられない石のような重みがあった。
戦争体験者の話によると畑仕事に二つの笊を持っていき、骨と弾を入れていたと訊いたことがある。末吉さんとの藷(いも)の花談義が懐かしい。
一発も撃たぬ戦歴に戦友たちへの語り切れない“うむいの花”がある。
母の乳房(にゅうぼう)の句に添えられた言葉「母は四十二才、戦災で死んだ。粗末な着物の懐に乳房を揺らしながら子供の世話や家事に走り回っていた。戦時中の食糧難で大家族の明日の米をいつも心配していた。母を思い出すとき思い詰めたような暗い顔が目に浮かぶ。」がある。
これから戦争を知らない大方の私たちは、戦争体験者の俳句や言葉からどれだけの戦争に抗える思いを萌芽させていけばいいのだろう。
丁寧に読み解く言葉に込められた思いは、必ず未来の希望の光りを紡ぎだせると信じて私は、私なりのやり方で俳句と写真を紡いでいる。
共鳴句をいただきます。末吉發さんありがとうございました。
祈るより叫びたき日のでいご散る
呆気なく将軍死んでちちろ虫
夏草や勝って来るぞと魚雷錆ぶ
「デテコイ」の声や灼光浴びしこと
こばていし広がり広がり遺族老ゆ
総理来て椅子きしませて帰る夏
海焼けて戦争ごっこをはじめるか
不発弾遺骨遺品月桃垂る
歌わねば石になるべし鳳仙花
地に還るものを隠して野朝顔
あかしょうびんきておりなにからはなそうか
敗戦の記憶足裏に灼くる島