2026年3月27日金曜日

【連載】攝津幸彦記念賞応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)4 「欠損の詩学―波多野爽波俳句の一解釈」  飯本真矢

  ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったと、不思議な思いにとらわれたことがある。( 中略 )失われた両腕は、ある耐え難い神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々と湛えている。つまりそこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在するべき無数の美しい腕の暗示という、不思議に心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。

 

 これは、私の高校時代の教科書に収載されていた、小説家・詩人である清岡卓行による第二評論集『手の変幻』に収録された批評テクスト『ミロのヴィーナス』からの引用である。ここで、清岡が「不思議に心象的な表現」と述べるような、〈欠損〉による心理的産物を〈欠損美〉という語で定義したい。本稿では、次の爽波の句を端緒として、俳句的視点からこの〈欠損美〉について考えていきたい。

                           

うすうすと銀河靴べら失ひし   波多野爽波

 

 「靴べら」を失ったという日常の小さな出来事。その事象が広大なるスケールの〈銀河〉に包まれ、仄かな意識の中に統合されていく。この句は、一九八一年に発表した爽波の第二句集『湯呑』所収。抽象の感覚と写生の精神が一句の中に同居しており、『ホトトギス』に新風を吹き込んだ爽波の在り方の一端をこの句に見ることができる。

 ここでの「銀河」という語の使われ方に注目すると面白い。実景としての単なる夜空の景ではなく、靴べらを失ったことによる喪失感が「銀河」という大きなイメージに昇華されている。物を失ったことによる〈欠損〉の感覚が、宇宙的な孤独感や広がりと重なる。日常卑近な景と壮大で高遠な景が一瞬で交錯する、想像力の豊饒な飛躍による美しさをこの句に見ることができる。この美しさこそが、今考えたい〈欠損美〉に通ずるものなのではないだろうか。

  次に、この句で真っ先に目を引く副詞である「うすうすと」に着目してみたい。辞書的な「うすうす」の意味を、『大辞泉第二版』で引いてみる。

 

 うすうす【薄々】

1 はっきりとではなく、いくらか意識されるさま。おぼろげに。

2 色・光・密度などが薄いさま。うっすらと。かすかに。

 

 この句での「うすうすと」は、後者の意も含まれていないとは言えないが、前者の意の方が強いと考えられる。また、「うすうす気がついていた」や「うすうす勘づいていた」という使われ方は自然だが、「うすうす思っていた」や「うすうす知っていた」という使われ方には多少の違和感がある。このことから「うすうす」は、「思う」や「知る」といった主観的な語とは相性が悪く、むしろ外界からの働きかけに対する受動的で微細な感覚を表す語だと解釈できる。存在が、私たちが意識的に把握するものではなく、むしろ向こう側から立ち現れてくるものだとするならば、「うすうす」という語は、そのような存在の立ち現れの微細な気配を繊細に捉える装置として機能していると言えるだろう。

 加えて、この句を構造から紐解いてみると「うすうすと」という副詞の選択が特筆すべき効果を生んでいることがわかる。「靴べら失ひし」と取り合わされるかたちで提示された「うすうすと」した「銀河」は、そのおぼろな輪郭でもってして〈欠損〉の感覚を包んでいる。顕然とした「銀河」では補うことのできない感覚が、むしろ漠然とした「銀河」だからこそ湧き上がる。それは「銀河」の存在自体の不確かさという揺らぎが、「靴べら」の不在と響き合うからである。爽波は、「靴べら失ひし」と喪失を直截的に描いた一方で、存在と喪失の境界が揺らぐ繊細な感覚を「うすうすと」の中に封じ込めたのである。

 

 より深くこの句においての「うすうす」という語の使われ方について考えるため、「うすうす」が使われた、もう一つの爽波の句を見ていきたい。

 

蓑虫にうすうす目鼻ありにけり   波多野爽波

 

 この句も『湯呑』所収。知っての通り、蓑虫をどれだけ観察したとしてもそこに目鼻は認められないが、そこにないはずのおぼろげな「目鼻」を蓑虫に見出した点が爽波の手柄だろう。さらにそれを「うすうす目鼻ありにけり」と言い切ったことで、その瞬間、蓑虫の小さな繭が、存在しないはずの「目鼻」の気配を帯びて揺らぎ出す。存在しないはずのものが、一瞬存在を持つかのように振る舞う。〈在る〉と〈無い〉のあわいに不思議な感覚が立ち上がってくる。ここでも「うすうす」による揺らぎの感覚を見ることができる。

 また、この句の面白さは、蓑虫を蓑虫らしく表現しないところにある。通常なら地味で目立たない虫である蓑虫に「目鼻」を見出すことで、「蓑虫」を、既知の蓑虫ではなく、見慣れない様相へと変容させて描き出している。この転換は、ロシアの文芸理論家シクロフスキーが述べる〈異化〉に通じる手法だと言える。彼によれば、芸術や文学の役割は「生の全体性を確保すること」、即ち、日常化によって鈍化した感覚を揺り動かし、対象を新鮮なものとして再発見させることにある。この句における「うすうす」は、まさに対象を既知のものから見慣れぬものへと変貌させる〈異化〉の装置であり、その微細な曖昧さによって「蓑虫」の存在感を生々しく蘇らせている。

 さらに「うすうす」の効果について考える。そこに在るはずのない「目鼻」がそこに「うすうす」と在る。したがって、蓑虫の〈欠損〉としての「目鼻」を喚起する、清岡様に言えば、蓑虫に失われている「目鼻」の代わりに存在するべき無数の不定形の「目鼻」を暗示するという機能を「うすうす」という語が果たしていると考えることができるだろう。帰する所、「うすうす」自体が〈欠損美〉を呼び起こす触媒として働いていると見做すことができるのである。

  「うすうす」のもつ効果が明らかになったところで再び本題の句へ返ってみたい。

 「うすうす」が、〈欠損〉からもたらされる〈欠損美〉を喚起する要素として機能していることは、冒頭に引用した清岡のテクストとも呼応する。ミロのヴィーナスの欠けた両腕は、失われたことによってこそ無数の「在るべき美しい腕」の可能性を暗示する。そうやって、〈欠損〉が、鑑賞者の想像力で満たされる。これと同様に、爽波の句でも、「靴べら」の喪失は単なる実用品の不在に留まらず、その喪失が意識に生む微かな空白というかたちでの〈欠損〉が、「銀河」という無限のイメージによって満たされる。靴べらの〈欠損〉は、逆説的にそれ以上の広がりと深みを句の内部に導き込む。ここに、喪失によって生まれる美、即ち〈欠損美〉の本質がある。

  「うすうすと銀河靴べら失ひし」と「蓑虫にうすうす目鼻ありにけり」の両句に共通するのは、「うすうす」という曖昧な気配を媒介に、存在と不在の境界が揺らぐ瞬間を捉えている点である。こうしてみると、両句はいずれも〈存在の不在性〉や〈不在の存在性〉といった逆説を詠み込みつつ、喪失の裡に潜む美を掬い取った句であると評価できる。

爽波は、喪失を単なる不在としてではなく、むしろ新たな感覚世界への扉として提示する。この感覚世界は、欠けているからこそ、そこに〈在ったもの〉〈在るべきもの〉の無限の可能性を湛える空間なのだ。それはちょうど、清岡がミロのヴィーナスに見た「無数の在るべき腕の暗示」と同じく、欠けたものの不在を通じて、豊かな想像力が解き放たれる過程である。

 〈欠損〉の間隙に潜む豊饒な可能性を見出して、そこに在る、私たちがまだ知らぬ〈存在〉を俳句として十七音に封じ込めた。それこそが爽波の提示した〈欠損美〉なのである。

 

【大学俳句会アンケート回答】俳句とは何なのか俳句で何をしたいか俳句に関して何を書きたいか、

飯本真矢: ➀俳都松山で育ち小学生のころから俳句というものに触れていた。子規・虚子という俳人を教えられる中で俳句は古臭く語ぐるしいものだと幼いながら感じていた。しかし中学校の国語の授業で野口るり<チョコチップクッキー世界ぢゆう淑気>を知り短い詩型である俳句の形の中でも表現の可能性が無限にあると考えて興味を持ち始めた。➁俳句の大きな特徴として人とのかかわりが必ず伴うということがあると考える。句座を囲み、句会を行うということ。結社に入るということ。互いに互いの句を読み合い、鑑賞しあうということ。これらの俳句から始まる人とのつながりを大事にしつつ、俳句に取り組んでいきたい。➂若い世代、特に自分と同世代の俳人たちの俳句をいくつか集めてピックアップして述べてみたいという気持ちがある。さらに若い世代が俳句を始める際の刺激となるよう唸物を作ってみたいと思う。

 

【筑紫磐井感想】

 清岡の欠落論を前提に波多野の「うすうす」を使った俳句を研究しているのは実証的であり説得性がある。しかし、「うすうす」は多くの俳句作家が使っており、これらと比較することが波多野の独自性を浮かび上がらせたと思う。

     *

 具体的な作品に移る前に、「うすうす」の定義を見てみよう。論者が行っている考え方に従えば、

 うすうす【薄々】

1 はっきりとではなく、いくらか意識されるさま。おぼろげに。

色・光・密度などが薄いさま。うっすらと。かすかに。

 

となるが、2は具体的な色・光・密度という物理量が少ないさまを言っていると考えられる。これに対して、1はそうした物理量を超えて、感覚を受けとる側の意識を言っているようである。

 そして「うすうす」を使った用例は伝統も前衛も問わず多くの用例があるのである。

 ただし、うすうすの意味は系譜によって少しその傾向が異なる。2の実例は客観写生派の作品に多く使用されている。

 

うすうすとあやめの水に油かな 岸本尚毅

うすうすとしかも定かに天の川 清崎敏郎

月おぼろうすうすと色置きし雲 稲畑汀子

吐く息のうすうすと枇杷咲きそむる 岡本眸

 

 これに対し1の用例は、抒情派の作品に多く見られる。典型例が、馬酔木である。いずれも、色彩の見える実体が存在しないところが特徴である。なお、最後の、私の作品を入れたのはご愛敬であるし、厳密に「うすうす」ではなく「うつすら」であるがが、この作品を詠んだ時の私は馬酔木系に連なる作者であり、どういう気分で「うつすら」という言葉を使ったかはよく分かるので例に挙げてみた。用語の使い方は自身が使ってみる側に立たないと分からないことが多いからである。

 

しゃぼん玉木の間を過ぐるうすうすと 秋櫻子

うすうすと我が春愁に飢えもあり登四郎

芦戸かげおいてきし子のうすうすと 林翔

君に会ふ常にうつすら風邪ごこち 筑紫磐井

 

 そして注目したいのは、1から更に表現の進んだ3である。これを心象俳句と呼んで見たいと思うが、比較的前衛作家に多い。

 

うすうすと稲の花咲く黄泉の道 飯島晴子

天と地の間にうすうすと口を開く 中村苑子

草の絮うすうすと死も飛んでいる 渋谷道

うすうすと天に毒あり朝桜 宗田安正

 

 これらの作品にはどこにも明らかな色彩が見えない。のみならず如何なる具象も見えてこない抽象的な心象ばかりである。

 こうした中で論者の取り上げた爽波の句を比較して見ることとしたい。

 

うすうすと銀河靴べら失ひし   波多野爽波

蓑虫にうすうす目鼻ありにけり   波多野爽波

 

 前句は1(客観写生派)の系譜にあるが、しかし全体としてみると3の系譜も混じっている。その証拠に難解である。後の句は2の系譜にあると言えよう。

 問題は論者のいう欠損感が、爽波固有のものか、「うすうす」という言葉で詠まれる俳句に共通のものかどうかである。グループ分けした「うすうす」の作品は、2と3はいずれも何らかの欠損感を与えているようである。その意味ではこうした中での爽波の個性の発見が必要である。

 その意味で、爽波の「蓑虫にうすうす目鼻ありにけり」と登四郎の「うすうすと我が春愁に飢えもあり」はともに欠損感のある句としてともに語り合うべきだと思う。