2026年3月13日金曜日

【連載】攝津幸彦記念賞応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)3 「面の問題について」  蒋草馬

 一般にわれわれは、線は一次的なものであり、この一次的なものを組み合わせることで二次的なものとして面が現れると考える。あるいは、『メノン』(プラトン)でソクラテスが、

 立体の限界が図形である

として面は立体を限界づけるものと考えたように、「限界づける」という仕方で次元間を理解することもあるだろう。いずれにせよ共通するのは、非連続的段階的に線と面の問題を理解しているところである。こうした線と面の間のヒエラルキーは、対象が客体として存在することを前提しており、いわば線を「もの」として見ているために成り立っている。線というものがすでにそこにあり、面というものがすでにそこにあり、そして両者の関係に向かうというわけである。線や面の現れ、という観念はここから欠如している。しかし線をより現象として、「こと」として扱うとどうなるだろうか。ひとまず線の発見ということを考えてみる。線を発見するとき、あるいはまさに描くことによって線を発見するとき、線は順序に秩序だてられた構造物として立ちあがる。どこに立ちあがるのか。そこには線以前のふたしかな面が存在する。もちろん立体にも線は引けよう。ここでは線と面の問題に限りたいので、そうした面だか立体だかわからないものをまとめてふたしかな面と呼びたい。とはいえ我々が線を引くときというのは、多くの場合には引かれてある面というものが同定されうるようだ。するとわれわれが先ほどヒエラルキー的に理解したそれである、線によって構成されるあるいは限界づけられる面というものは、すでに線以前の面上におかれていて、面上の「線という構成観念に貫かれた構成物」にすぎないことになる。このような「こと」的世界観においてはむしろ面は線に比して基底的でさえある。「もの」的世界観との大きな差は、線をもたない面が発見されるということ、そしてその発見は線の発見とそのことの反省から起こるということ、この二点にある。ここに線と面は相互に基底に潜り合う関係へ変化し、階層秩序のパースペクティヴは崩壊する。

 線の問題は言葉の問題としても重要だ。構成的な文章は線に支配されている。視覚的な見た目に加え、今読んでもらっているように文章というのは前と後が定まっており、前から後ろへ読み下していかなければ“正確に”読むことはできない、とされている。このような決定的な意味世界からの解放は、まさに散文と自らを対置する形で、韻文によってなされてきたのではないか。散文的文法(それは一般に日本語の文法だとか正しい文法だとか言われてきた)を突き崩し独自の文法を成立させることで形成される不確かだが豊かな意味世界や、順序を絶対視しない同時多発的な言葉の現れとしての魅力が韻文にはあろう。韻文の世界は面へひらかれてきた。

 一枚のタブローのようにその詩全体を記憶の表面に浮かびあがらせて、それを眺めることもある。(アンソロジー『わが愛する詩』飯島耕一「昭和二十二・三年の詩集」)

 次のようにいう人がいるかもしれない。韻文にも言葉である以上順序がある。それを証拠に詩には始まりと終わりがある。吉野弘の「I was born」(資料一)を真ん中から遡るように読んでもまったく意味がわからないだろう、と。たしかにかの日野草城の「ミヤコホテル」連作(資料二)は明確なストーリーラインに貫かれているだろう。このような一見強烈に線的に見える韻文に対してわれわれはどのように応答できるだろうか。いくつかの指摘ができる。

 まず韻文という形式において、線はたちまちに瓦解しやすい。視覚的に連作や自由詩に特有のこととして、第一の直感として面がもたらされることは大きい。しかし面的世界はそこにとどまらない。一度線が発見されたのちも、面への移行は絶えず行われる。線と面の間におかれる経路は非対称に造形されたものではない。そして面的に、一枚のタブローとして目前の詩を眺めるとなると、前段落における表現はいくつか覆る。〝意味〟はすでに散文的意味、線的意味を前提とした表現となっている。めちゃくちゃな順番で詩を読んだとて、そこには面的な意味が立ち上がるだろう。面的な意味とはなにか。線は決定的な中心性、軸を要する。いやむしろ、線は幅を持たないから、周縁を意識した表現である「中心」「軸」という表現では不十分で、強いていうなれば軸そのものといった方が良い。対して面は、動いている。写真を何度か眺めるうちに先ほど全く気にならなかった奥の木陰が唐突に気になりだすことがある。ある一定の構成力に貫かれ、軸を置かれたように見える面は、しかし偶発的にその軸を突如失い、別の軸が浮かびあがったりする。周縁が絶えず中心へ転倒し続けていくこと。さまざまな情報の同時多発性。この諸要素が線的にはあり得なかった言葉の世界を開く。そして詩のおかれる面が限界を持たぬ面だとすれば、「始まりと終わり」という表現も不正確になる。詩は無限の余白の草原に突如現れた、ひとつの中心性にすぎない。ゆえに詩へは余白が倒れこみ続ける。

 こうした面的価値を認めたとき、連作における構成的な諸要素は批判の対象になるだろう。特に俳句において大きな問題となるのは時間だ。一般に俳句連作を並べる際、その順番は季節順というのが定石だ。それも基本的には歳時記の題の分配に従う。ここでは時間は激しい統制を受ける。それが近代的な直線的時間であろうと、前近代的円環的時間であろうと、線的であることには変わりはない。しかし、われわれの生きる時間はそのように統制された時間ばかりであったろうか。春のそよ風に唐突に冬の図書館の入り口を思い出すことも、夏の森林から紅葉する未来が焼きつくように見えることもある。われわれには過去も未来も見える。私の中では今言ったこととさほど変わらぬことだが、季節そのものが交錯することもある。冬の特別あたたかい日に降る長い雨が、どうして春雨と言えないだろうか。時間もまた動いているタブローのごときもので、線を見出そうとして統制しようとしてもしきれない部分が出てくる。小春日という題はその現れだ。飯田龍太が生涯魅せられた芭蕉の次の句にもよくわかる。

 此秋は何で年よる雲に鳥   松尾芭蕉

 ここで無季俳句が重要な問題として登場する。連作の中の無季俳句は、連作の時間における軸の外側、統制しきれない部分を描き出すのに役立つ。新興俳句における連作と、その中から生まれ出た無季派は俳句に対してこのような面的世界を切開した、と私は考える。

 季語は第一句は成るべく之を在らしめたいが、第二句以下には必ずしも之を要しない。同一の季語の繰り返しは、多くの場合反効果的である。

 尚一歩を進めて、全然季語を缺くことも一概には却けまいとする自由な立場も考へ得られる。然しこの場合には表題を連作各個の公約数たらしめ之に季節の特徴を持たしめる必要があらう。(『俳句文学全集(日野草城篇)』「連作是非」)

 しかし無季派のほとんどがそう考えたように日野草城はあくまで、季節の統制の内に無季俳句を置くことを求めた。たしかに完全な無秩序(この方向性はこの方向性として超季、ロマンチシズムの問題とともに試みられたようだし草城は結局そうした超季派を受容していくが)でない限り、なんらかの中心性を面は帯びる。そのような面上で周縁はひとまず中心に従うが、しかし同時に中心を欺いてもいる。あくる日にその連作を見直した時には、人が唐突にフェルメール「真珠の耳飾りの少女」(資料3)の暗闇が気になって仕方がなくなることがあるように、周縁に思われた句群が突如気になりはじめ、むしろそうした句のほうがその連作の本質めいた部分に触れる心地がしてくるのである。

 一句単位の形式を考えても韻文であるからには面の問題を免れることはできない。「俳句一行のこの棒は、私には目玉の直径となり得るギリギリの長さのように思われてならない(「言葉が現れるとき」)」と言った飯島晴子や「線的要素が削りとられて点的な非連続になる(『省略の文学』)」という外山滋比古の指摘にも似るが、この世界という無限の余白──それは同時に非常に騒がしい余白ならざる余白でもある──のなかにぽつねんと浮かびあがるこの短詩のことを思えば、面の問題を考えることのほうが適切に思える。さらに言えば、外山滋比古はあくまで点を線の構成要素として次元間のヒエラルキーの世界から抜け出ていないので話は余計に異なる。ここで多くは触れないが、一句単位にしても連作の時と同じようにホトトギス的題詠、無季、季重なりなど面を示唆する議題は尽きないだろう。

 以前にかなり句数の多い連作を募集する賞の選考委員と話したことがある。その彼は、連作全体の統一感や詩的味わいはほとんど考慮に入れておらず、一句一句のクオリティばかりを見ていると言った。新人の登竜門でもある連作を募集する各賞の様子を見てもそのような状況がある。俳句連作は死んだのか。面が損なわれれば俳句自体における詩性の重要な部分も死んでいく。まさに連作を通して俳句形式自体に迫っていく必要がある。


引用文献

・岡田正三訳『プラトン全集 第2巻』、全国書房、1946

・山本太郎、大岡信ほか『わが愛する詩:わたしのアンソロジイ』、思潮社、1968

・松尾芭蕉『芭蕉俳句紀行全集』、緑蔭社、1927

・日野草城『俳句文学全集 第8(日野草城篇)』、第一書房、1937

・飯島晴子『俳句発見』、永田書房、1980

・外山滋比古『省略の文学』、中央公論社、1979


参考資料

資料一 吉野弘「I was born」全編


I was born

確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。

──やっぱり I was born なんだね──

父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。

── I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね──

 そのとき どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。

──蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね──

 僕は父を見た。父は続けた。

──友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。つめたい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは──。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。

──ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体──。


資料二 日野草城「ミヤコホテル」全編

ミヤコホテル


けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春

夜半の春なほ処女(おとめ)なる妻と居りぬ

枕辺の春の灯は妻が消し

をみなとはかゝるものかも春の闇

薔薇にほふはじめての夜のしらみつつ

妻の額(ぬか)に春の曙はやかりき

麗らかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく

湯あがりの素顔したしく春の昼

永き日や相触れし手はふれしまゝ

失ひしものを憶へリ花曇


資料三 ヨハネス・フェルメール「真珠の耳飾りの少女」(図版省略)


【大学俳句会アンケート回答】➀俳句とは何なのか➁俳句で何をしたいか➂俳句に関して何を書きたいか

蒋草馬:➀俳句とは=幽霊。他と比較して=圧倒的抑制。俳句とどこで=高校。なぜ関心が=時間論的可能性を見込んでいるから。➁露悪的に言うのであれば思想しかしたくない。➂時間論とそこから延長される存在論、特に未来と平面について。



【筑紫磐井感想】

 冒頭は、「面」と「線」の難解な哲学論で始まるが、私は連作論の序論として読んだ。様々な連作方法論があるが、蒋は連作俳句にストーリーがあることを前提としているが、緻密な前段から連作に論理を展開するのは難しい。連作は、現象であり風俗まで含まれるからだ。膨大な連作からの実証が不可欠だ。特に連作論は自らの実作との照合が必要だ。

   *

 この論を読んだとき、ちょうど大塚凱の連作論を読んで興味深かった(「Noi」第5号特集「連作と一回性――句集『或』を巡って」・大塚論考「少し暇そうにしている君を連れ出したい」)。大塚凱の句集『或』が連作として読まれるべきだという(ちなみにこの句集は本年度の芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞している)。

 生れ落ちてゼリーを作る真顔かな 大塚凱

 僕ら残像白シャツを脱ぐ脱がす

 大塚の論考では、通説としての秋櫻子の「現代俳句論」を引き、誓子の大正15年6月号の雑詠巻頭作品(熊祭をテーマとしたもの)・秋櫻子の昭和3年1月号の次席作品(『葛飾』の「筑波山縁起」として構成)から連作を解き始めている。

 しかし大塚は通説から一気に新興俳句の連作へ議論を展開しているのではなく、誓子・秋櫻子の作品がホトトギスの雑詠に登場しているところから、雑詠の「連作的」作品をたどっている。これは極めて賢明な考察だ。

 大塚は例として島村元大正6年8月巻頭作品をあげ、島村の「連作的」作品の無造作な同時性や偶然性は秋櫻子・誓子の連作とは異なると述べ、秋櫻子・誓子の連作の性格を指摘する。これを踏まえ、秋櫻子・誓子から窓秋・草城への新興俳句の展開、天の川における独自な方向性をたどり、連作形式こそが新興俳句の熱源になったものと位置付ける。連作に至る例句が豊富に取り上げられ、的確な解説が施されている

 その上で、高屋窓秋、日野草城、西東三鬼、吉岡前禅師洞とたどり、新興俳句における連作の位置づけを確認している。この点、蒋の論よりは一見緻密な分析を進めているように見える。

 しかし、木村の論から本当に連作の本質が浮かび上がっているのだろうか。結果的には連作と新興俳句を結びつける性急さも感じた。

    *

 新興俳句の草城の連作を批判した中村草田男であるが、草田男自身も連作(群作)俳句を多くつくっていた。

「青露変」(「俳句研究」16年10月号)

花に露十字架に数珠煌と掛かり

汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか

 ちなみに、青露は茅舎の戒名だ。以後、「騎士」、「無絃の楽」、「影踏遊」、「保名」、「木賊刈」、「直侍」、「メランコリア」と多くの連作俳句を発表しているという。さて新興俳句の連作と草田男の連作はどのような違いがあったのだろうか。

     *

 連作俳句は戦前のものばかりではない。戦後生まれ世代も多くの連作俳句を作った。代表的作家は攝津幸彦である。「皇国前衛歌」(俳句研究49年2月)は戦後世代のこの連作俳句の金字塔となっている。

送る万歳死ぬる万歳夜も円舞曲(ワルツ)

幾千代も散るは美し明日は三越

南国に死して御恩のみなみかぜ

 「皇国前衛歌」には皇国と前衛の同居するアナクロニズムを感じるが、実は皇国は攝津の本職である広告に叶っている。戦争にプロパガンダは不可欠だ。この諧謔性は戦前の連作とは少し違うものがある。それにしても美しい。

 攝津の直接的影響と言えるかどうかは一概に言えないが、高柳重信は地霊を詠んだ『山海集』(51年)を経て、海軍の艦名を詠んだ『日本海軍』(54年)を刊行している。これも明らかに連作だ。

松島を/逃げる/重たい/鸚鵡かな

一夜/二夜と/三笠やさしき/魂しづめ

海彦も/畳を泳ぐ/嗚呼/高千穂

     *

かくいう私も作品はすべて連作句集だ。


➀『野干』平成元年(王朝俳句)

みちのくに恋ゆゑ細る瀧もがな

風薫る伊勢へまゐれとみことのり

➁『筑紫磐井集(花鳥諷詠)』15年(虚子一族)

もりソバのおつゆが足りぬ高濱家

俳諧はほとんどことばすこし虚子

➂『我が時代』26年(震災俳句)

酷く雪降る

明日のほかこそ未来

吾(あ)と無


こうした連作につながる系譜としてこの度読売文学賞を受賞した高山れおながいる。


➀『荒東雜詩』17年

麿、変?

お湯入れて5分の麿と死なないか?

➁『俳諧曾我』〈附録原発前衛歌〉24年

げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も

しろく て ぷよぷよ えだのゆきを も たかやまれおな も

ざの ざこ の ぶんがく なのだ それ で いい のだ

➂『百題稽古』令和7年(堀河百首・永久百首題・六百番歌合)7年

懐旧:ふらここのあのこ消えにし桜かな

初恋:命とは白シャツに透く君なりき

別恋:君の眼が向かうに消えて冬の金魚


 連作を論ずるに当たってはこれらを視野に入れることも必要だ。戦後連作俳句の特色は、連作であっても戦前の悲壮な文学としての新興俳句と違って諧謔が強いことであろう。時として俳句を馬鹿にしているところがある。

     *

 ちなみに戦後の連作俳句と言えば、実は社会性俳句が真っ先に思い浮かぶのである。岸田稚魚「演習水域」、沢木欣一「能登塩田」、能村登四郎「合掌部落」、榎本冬一郎「尻無河畔」、鈴木六林男「吹田操車場」、藤田湘子「砂川にて」等が代表的作品である。いずれも膨大な作品の連作であるとはいえる。しかしここで気になるのは、すべて個別の「地名」がモチーフとなっていることではある。戦後の俳句雑誌を振り返ってみると、昭和20年代後半となり、俳句雑誌が続々と創刊・復刊し、大家が作品を精力的に発表し始めるとき、大作の旅吟作品を発表し始めることが流行する。少しく経済的に恵まれ、移動の制約が解き放たれ日本全国に旅行することが可能となり、大家たちの制作意欲を満たすためには旅吟がうってつけだったのである。そして大家たちの次には、中堅・若手作家にも大作を発表する機会が与えられることになった。そしてちょうどその時、昭和28年頃から社会性俳句、地方の基地闘争や貧困闘争をテーマとした社会性俳句が噴出するのである。

 だから社会性俳句は旅吟俳句の一種だったのである。これに対して、前に挙げた新興俳句や中村草田男の連作、そして戦後の攝津幸彦らの連作は具体的な地名を持たない観念的な俳句であった。つまり社会性俳句のリアリズムに対し、これら連作俳句は構成的・思想的であったのである。

 最後に連作俳句との違いを、震災俳句を例に取って考えてみたい(これも属地的である)。日本最初の震災俳句はホトトギス大正13年2月号に発表した永田青嵐(当時民選の東京市長であった)の「震災雑詠(34句)」であった。あれほど時事を詠むことを嫌った虚子であったが、青嵐にはこの大作を詠むことを許したのだ。つまり関東大震災のような壊滅的な社会的事件については、どんなに抑制しようと俳句は生まれざるを得ない。これは、戦後の阪神・淡路大震災、東日本大震災についても言うことができた。特に、東日本大震災については、長谷川櫂『震災句集』、角川春樹『白い戦場』、小原啄葉『黒い浪』、永瀬十悟『橋朧』、照井翠『龍宮』、高野ムツオ『萬の翅』、渡辺誠一郎『地祇』等が知られるが、しかしこれらは連作と呼ぶべきなのだろうか。社会性俳句と発想は極めて近いものがあると思われる。

     *

 連作は新興俳句の表現形式であるという思い込みから、連作の豊饒性を見逃すことは残念なことである。木村の論がせっかくの雑詠問題に触れながら結論が新興俳句に一瀉千里に進み始めるのに比べると、蒋が哲学的な総論に多くの頁を使い、膨大な連作俳句の世界への言及が進まなかったことは怪我の功名を成しているように思える。もちろん膨大な連作俳句との関係の整理がこれから必要であるが、蒋の「面の認識」は壮大な連作俳句論の第一章としてならば期待ができるのである。

 なお本論については、BLOGで連載を始めている「未来俳句宣言」と比較して読んで頂くとよいかもしれない。

 以上、本当は客観的な鑑賞を書くべきであったが、レポート冊子の総評で書いたように「実は、私が手を加えたい論文も多くあった。」の思いに駆られた評論も多くあった。本論などはその筆頭に上がるものだ(『WEP俳句年鑑2026』(2026年1月ウエップ刊)で「現代連作論の繚乱」として一部紹介した)。乱文ご容赦いただきたい。