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2014年4月25日金曜日

【「俳句新空間No.1」を読む】 ときに劇的な /  堀下 翔


思ったことを書く。

梅咲いた。人わらはせる芸つらし 堀本吟

つらい。他人はなかなか笑ってくれない。これでもかと笑わせにかかって、ようやく笑ってくれたとしても、今度は「自分、どうしてこんなことをしているのだろう」と情けなくなって、つらい。芸をする人はみんなそうだ。この国で初めて芸をしたひともそうだった。古事記に登場する海彦のことである。永六輔の本から引く。

「海彦・山彦の話はご存じでしょう。山彦は海彦から借りた釣針を無くしてしまい、もとの釣針を返せと迫られて困りはてる。そうしたら、海の神さまが山彦に同情して釣針を探し出し、それだけじゃなくて、傲慢な海彦を懲らしめるために、山彦に不思議な力を授けるんですね。それで山彦が勝者になる。/それ以来、海彦の一族はその負けたときのありさまを、山彦の一族のまえでずっと演技しなければならなくなるんです。/神話ですが、これが「芸人」のはじまりということになっているんです。」(永六輔『芸人』岩波新書・一九九七年)

海彦、つらかったろう。人を笑わせることはもともと罰だったのか。

ところで古事記はこの海彦を「わざおぎの民」と呼んでいる。わざおぎ、「俳優」と書く。俳人としてはここで一気に彼に親近感がわく。俳優も俳句も、同じ「俳」の字を持った仲間だからである。同じ字である以上、どこかしらで繋がっているのだと思う。ただそれは、また別の話になる気がするので、置いておく。ここでは無邪気な連想ゲームにとどめておいたほうが、気楽だ。

俳優といえば、劇。俳句を読んでいるとときどき、俳句と劇は似ている、と思う。まず第一に、見せられたものしか知ることができない。

宝舟すこしはなれて宝船 堀田季何
宝舟と宝船がありました。それだけしか教えてくれない。どうしてふたつあるの。どうしてすこしはなれてるの。どうして舟は種類が違うの。明快で親切な小説なら、このあと地の文でいきさつを書いてくれるかもしれない。けれどもここでは、舟がふたつあるところを見せて、それっきり。

コミュニケーションが成り立たない。舞台上にある大道具、あるいは意味ありげに発せられた科白。舞台の構成物でありながら、その目的は、向こうが説明しない限り、分からない。この一方向性においてまず、俳句と劇は似ている。

夏芝居後姿の泣いてゐる 小沢麻結
芝居を見ていて、役者の後姿が泣いているように見えた。理由があるのかもしれないが、聞くことはできない。後姿が泣いているように見えた時点で、俳句にしてしまったから。こっちから話しかけることができないのは、ものすごく一方的で、ちょっと理不尽である。

おしぼりが正位置にある福寿草 上田信治
どうして正位置なの。どうしておしぼりなの。おしぼりが正位置にあることしか、わからない。もっと言うと、どうして福寿草なの。この問題は、取り合わせの俳句を読むときに、ずっとついて回る。どう考えてもこの季語以外にありえないのだが、なぜそうなるのか、見当がつかない。やはり、理不尽。

劇が面白いのは、劇場で見るからだろう。劇場に入ることで、仕切りが生まれる。

一時間前ははうれん草畑 依光陽子
一時間前、ほうれんそうと土の色に囲まれていた。いまはどこにもないが、あのあおあおとした感じが、まだ体のどこかに残っている。「まだ」と思うのは、ここがほうれん草畑ではないからだ。どこまでも仕切りなくほうれん草畑だったら、なんとも思わない。

鳴りやんで涼夜や耳鳴りだったのか 池田澄子
耳鳴りが止まって初めて耳鳴りだったと気づく。仕切りがあるから気づく。もちろん、耳鳴りなんてしないほうがいいけれど、それでもびっくりするのは楽しい。

劇場は仕切りだ。そしてそのなかに、舞台という仕切りがある。

我を指す人差指や師走の街 林雅樹
包丁ら青々として芒種の町 小野裕三

この仕切りは、劇作家が作る。ここから先は師走の街である、芒種の町である、そう決めました、と。一方的な仕切り。見る人間は、従う。その人々はたいがい好意的なので、従うのが楽しくて来る。小説家が、師走の街をいかに読者に歩いてもらうか、必死になるところを、劇作家は、俳人は、「師走の街」と言えば、とりあえず信じてもらえる。つくづく変な形式だと思う。

信じてもらえるのは、このあと何かが起こるという、信頼関係があるからだ。「劇的な」という形容詞があるように、劇は、何かが起こる前提にある。「劇的な」という言葉の「劇」を「激しい」くらいの意味で思っている人が多いけれど(じじつ「劇」の第一義は「激しい」である)、「劇的な」というときには、劇に出てくるようなありさまを言う。

北窓を開きそのまま海のひと 近恵
窓を開けるという物理的な行動によって、春を呼ぶ。開けたら見える海に、そのまま同化してしまう。快感。そして劇的。書いた後に思った。この言葉、少し便利すぎるかもしれない。短い俳句のことだから、起承転結の「転」を持ってきたくなる。

新涼の神父三角座りだが 岡村知昭

神父が三角座りの時点で、かなりどきっとする。秋は寂しくなりやすい季節であるにしても、神父ともあろう者が、三角座り。しかも話はここで終わらない。「だが」って、まだ何かあるのか。二転三転、ドラマチック。

ドラマチックになるという信頼感は、ときに先走る。

電話機を見れば鳴りさう秋の昼 林雅樹

電話なんて一日のほとんどを沈黙しているのに、鳴りそうに見える。電話が鳴るわずかな瞬間こそが、電話の本領だから。あの電話、鳴るぞ。鳴っていないうちから思う。

幽霊の飛び出しさうな冷蔵庫 小久保佳世子
冷蔵庫は幽霊が飛び出してくるもの……ではない。死体が入っていることはあっても、幽霊が出てくるなんて話、ちょっと聞かない。「幽霊の飛び出しさうな(状況下にわたしの目の前にある)冷蔵庫」と言えば、少しは理屈で説明できそうだ。怖い話を聞いたあと、トイレに行けないのと同じ。幽霊が出るにちがいない、という期待。

盆の家みんな眼鏡をかけてゐる 仲寒蝉
そこにいる人みんな眼鏡。もしかしたら気づかないだけで、日常にそんなケースはたくさんあるかもしれないが、ここはわざわざ区切られた舞台だ。みんな眼鏡をかけていることが、意味めく。
劇に必要なものもう一つ、演技。

頬被りして笑い皺深うせり 後藤貴子
鬼灯の赤を呪ひの道具とす 中山奈々

何かを身につけたり、使ったりすることで生まれる仕切り。劇作家の平田オリザが、書いていた。「プライベートな空間では、演劇は成立しにくい」(平田オリザ『演劇入門』講談社現代新書・一九九八年)。頬被りをすること、鬼灯を道具にすること、そんな変化で、劇が始まる。

はつとして今虫売でありにけり 西村麒麟

演じている自分までびっくりするくらい、演じる。なんで自分は虫売なのだろう。何者かになる行為自体が、ドラマチックである。見る方も、見せる方も、劇の中で、だまされる。

松だよとだまされてをる小春かな 山田耕司
だまされていると知りながら、いい気分になっている。ううん、劇も俳句も、不思議な営みだなあ。




【筆者略歴】

  • 堀下翔 (ほりした・かける)

1995年北海道生まれ。「里」「群青」同人。俳句甲子園第15、16回出場。
現在、筑波大学に在学中。




2014年4月11日金曜日

【「俳句新空間No.1」を読む】 平成二十五年癸巳俳句帖より(その1) / 黄土眠兎

『俳句新空間』刊行おめでとうございます。

表紙が可愛い!お洒落ー!なのに、郷愁を誘う表紙絵、トアルコトラジャコーヒーの文字に釘付けになりました。そこで、歳旦帖より(勝手に)「トアルコトラジャチーム」なるものを作り打順を組んでみました。そして、「トアルコトラジャチーム」の対戦相手「ロイヤルコナチーム」の投手になりきって歳旦帖シリーズを振り返ってみることにします。


コナ敗戦投手の記憶。


一番 月野ぽぽな 元旦の空ていねいにやぶきます

いきなり初球から打たれた。「元旦の空もわたしにかかったらこんなものよ。ふふふふん。」と。一緒にニューヨークの元旦の空をやぶってみたい気持ちになってしまったじゃないか。でも、思いとどまった。・・・大リーガーはすごい。


二番 山田耕司  信仰やいやいやをしてせんぷうき

扇風機の首振り機能に「信仰の自由」を発見してしまった!ボタンひとつで寝返る(信仰)こともあるけど、押しっぱなしだと電源を喪失するまでいやいやしたままじゃないか。いや、信仰は電源を喪失してもいやいやしたままなのだ。下五までねばられ、また打たれてしまった。


三番 西村麒麟  流星を見てトラックは次の街

何のトラックかどんな街なのかはわからない。サーカスかしら?ひと仕事終えたトラックが次の街に行く様子が、「流星」を出してきたところでぐっと胸に迫ってきた。油断した私のグラブを弾いてヒット。満塁になってしまった。


四番 筑紫磐井  初雛の隣家にスタア誕生す

四番かあ・・2ストライクから・・この少子化の時代、「初雛」で「スタア誕生」ってプリンセス誕生じゃないか!ドヤ顔の満塁ホームラン。やられた。


五番 下坂速穂  瓜の馬寄り道をして帰られよ

さ、気を取り直して・・と思っていたら、お盆に帰って来られた親しい人(ご両親だろうか?)の魂に、もっと長く居てほしいという気持ちがひしひしと伝わってくるじゃないか。その優しさに打たれてしまった。

六番 福永法弘  不器用を武器とし愛の四月馬鹿
「不器用を武器」にするなんてどこの馬鹿?と思ったんだけど、四月馬鹿なのね。しかも「愛の四月馬鹿」なんて・・・もうそのフォームでまいっちゃった。身を張って(デッドボール)出塁。


七番 藤田踏青  宵山の汗汗汗の人柱

人柱の意味がちょっと違うかな?とも思ったんだけど、祇園祭の宵山を知っているものにとって、この絵画的表現には大きく頷くしかないんだよね。手がすべって汗をもう一つ投げてしまった!フォアボール(四汗)になっちまった。


八番 小久保佳世子 人だつたかしら月夜の交差点

「人だつたかしら」なんてとぼけたことを・・・と、なめてかかって変化球を投げたのに、「月夜の交差点」とあっさり打たれてしまった。それは、人じゃなかったような気がします。参りました。


九番 仲寒蝉   春の闇人のかたちになれば抱く

春の闇にはいろんなものがいそうだなあ。人のかたちになったら抱くって?元は何でもいいの?河童でも?その金本兄貴並みの器量の大きさに負けました。

監督 高山れおな  秋風や無学哲学みなあはれ

虚子もびっっくり。無学は「あはれ」なのかなー?と、考えこんでいるうちに・・私のシーズンは終わった。今はもう秋風が吹いている。あはれ。




選抜された作者のみなさんごめんなさい。ビビっと響いた好きな句を並べた勝手な解釈でのオールスターでした。

今年も始まっている歳旦帖。トアルコトラジャチームの四番を越える打者が登場するのを甲子園でお待ちいたしております。

トアルコトラジャチームに栄光あれ!


<続く>


【筆者紹介】
  • 黄土眠兎(きづち・みんと)
1960年兵庫県生まれ、兵庫県在住。「鷹」同人、「里」人。




2014年4月4日金曜日

【俳句新空間No.1を読む】 平成二十五年癸巳俳句帖・中山奈々の句を読む /小鳥遊栄樹

私が尊敬する俳人の一人、中山奈々さんの俳句を鑑賞させていただきます。

【春興帖】

季語が春いろはで統一されている三句でした。歳時記で調べてみたところ、春いろはという季語は見付からなかったので、いろは→色葉→秋の季語、紅葉の傍題→春の色葉は桜?と個人的な解釈で読ませていただきました。作者の視点としては、保育園や幼稚園の先生が児童を見ているような視点の句のように思えました。

包装紙切つて花びら春いろは
包装紙を切って花びらを作っている。花びらが貼られている画用紙はきっと春で溢れているのでしょう。

春いろは最後に抱きしむる遊び
おままごとをしている景でしょうか。最後は抱きしめて「おやすみ」で終わる優しい雰囲気の句に思えました。

母を見るための眼や春いろは
子から見る母はやはり偉大だなと思わせてくれる句でした。

【花鳥篇】


葉桜や臨機応変にも限度
私が中山奈々さんの俳句の中でも好きな句の内の一句です。桜から葉桜に変われるけれど、臨機応変にも限度がある。滑稽味があるようにも思えました。

ほととぎす薬の殻の角曲げる
錠剤が入ってる銀色のシートの角を曲げている無機物感とほととぎすの取り合わせは新鮮だなと感じました。

ほととぎす泰淳著書はみんな書庫
武田泰淳は日本の小説家。第一次戦後派作家として活躍。主な作品に『司馬遷』『蝮のすゑ』『風媒花』『ひかりごけ』『富士』『快楽』など。 (Wikipedia参照)和風な一句ですね。著書が書庫にしまわれている静かさとほととぎすの取り合わせは綺麗だなと思いました。

【秋興帖】

ホラーチックな三句でした。色をテーマに詠まれているのかなと思いました。

鬼灯の赤を呪ひの道具とす
言われてみたら呪いの道具として使われていそうな赤色をしているなと思いました。

心臓の色のチークや雁渡し
凍星や臓器それぞれ違う色(ローストビーフさん)をふと思い出しました。チークを心臓独特の色(個人的には赤くくすんだ肌色を想像しました。)と表現したのが面白いなと感じました。

禰宜のあを巫女の赤銀杏踏みぬ
禰宜(ねぎ)とは、神職の職称(職名)の一つである。「祢宜」とも書く。今日では、一般神社では宮司の下位、権禰宜の上位に置かれ、宮司を補佐する者の職称となっている。(Wikipedia参照)巫女さんが銀杏を踏んだ景でしょうか。不思議な雰囲気の句だなと思いました。

【冬興帖】

季語が冬帽で統一されている六句でした。家族的な暖かさが感じられる六句でした。

冬帽を二つ挟んで妻の顔
夫(父)目線の句でしょうか。冬帽をかぶってる子供二人を抱き締めてるような景が浮かびました。

冬帽の二人とも貴方の子ども
やはり夫か妻目線の句なのでしょう。一句目があったので夫目線ということで読ませていただきます。この句は一句目の続きでしょうか。妻が子供を抱き締めてるのを見て夫がふと言った言葉のようにも思えます。

冬帽の色か黒子で見分けたる
この子供はよほどそっくりな兄弟か双子かのどちらかなのでしょう。私の友達にも目が怖そうか優しそうかでしか見分けられない双子の友達がいます。

冬帽のよく笑ふ歯抜けで笑ふ
笑顔が可愛いお子さんですね。歯抜けってことは、結構小さなお子さんなのでしょうか。

冬帽は悪童冬帽は双子
冬帽=悪童、冬帽=双子、つまり双子=悪童なのでしょう。いたずら盛りの可愛いお子さんですね。

【歳旦帖】

ボス猿がテーマの五句でした。ベンツは、大分県大分市高崎山の高崎山自然動物園のニホンザル(Wikipedia参照)

去年今年ボス猿二回目の家出
この場合の家出は猿の群れを離れるという意味での家出でしょうか。家出の使い方が面白いなと思いました。

新月の新年ボスの名はベンツ
新月、新年と来て、このボスは新しいボスなのかなと思ったりもしました。

ボス猿のなき山姫始めのびのび
ボス猿がいたら姫始めものびのびできませんよね。クスッとくる一句でした。

猿人気ランキングあり福寿草
動物園の猿でしょうか。私は動物を見分けるのが苦手ですが、やはり一匹一匹名前があって違いがあり、好感度も違う。ランキングがあるのが人間味もあって面白いなと思いました。

歯固めのクッキーやボス猿模して

ボス猿が歯固めのクッキーを噛んでいるのを見て、雄猿がそれを模しているのでしょうか。個人的に月夜を想像しました。

以上、小鳥遊 栄樹による中山奈々さんの俳句鑑賞でした。

拙い文章でしたが、最後まで読んでいただけたらとても嬉しいです。



【筆者略歴】

  • 小鳥遊 栄樹 (たかなし・えいき)

沖縄俳句会「若太陽」所属、関西俳句会「ふらここ」所属、俳句誌「里」同人、俳句誌「群青」同人、メール句会「立体交差」参加、インターネット句会「週活句会」参加





※編集部注:上記の歳旦帖の中山奈々さんの句は平成二十六年歳旦帖第二のブログ掲載作品であり、「俳句新空間」の冊子収録句ではありません。原稿のまま掲載させていただきました。

※文中の(wikipedia 参照)は記事内容に従いリンクしました。

2013年5月24日金曜日

平成二十五年 花鳥篇  第四

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   山崎祐子(「りいの」「絵空」同人)
カチカチ山の遅桜見にゆかれしよ
桜蘂降つて谷底赤くする
みどりの夜マイクロシーベルトの呪文


   三宅やよい
ワイシャツの父が舟漕ぐこどもの日
式服の母がしとめる油虫
ところてんのような女に横恋慕


   池田瑠那(「澤」同人)
初花の蕊の黄金【くがね】を愛【お】しむべし
珈琲豆あらく挽きたり朝桜
ポタージュの缶に刃立つる桜かな



   松尾清隆
移植即満開となる桜かな
つばくろや線路をまたぐ歩道橋
両岸に舟だまりある桜時



   小早川忠義 (「童子」会員)
蓋のなき冷蔵庫越し影ありき
揚羽蝶お釣り欲しがる手にも見え
雲行きに早々しまふ氷旗


   北川美美(「豈」「面」同人)
白牡丹奥にひそめる丹の色
垂れてくる南無阿弥陀仏と藤の花
さざなみのかがやけるとき鳥の恋
うつつ無しいよいよ花鳥になるか




2013年5月17日金曜日

【俳句作品】平成二十五年 花鳥篇 第三

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内田麻衣子(「野の会」同人)
葬頭川の花守頬掻く癖のひと
茎立や野田琺瑯にオランダ煮
標的がいない直立独子蒜


吉村毬子(「Lotus」同人)
切り株愛す遊僧へ飛花落花
目眩以降は椿の道を行きなさい
鳥影を授かりてより皐月音

中山奈々(「百鳥」「里」所属)
葉桜や臨機応変にも限度
ほととぎす薬の殻の角曲げる
ほととぎす泰淳著書はみんな書庫

太田うさぎ(「雷魚」「豆の木」「蒐」所属)
日の当る廊下は春の蠅も好き
鳥じしん首傾げをる巣箱かな
春雨を待つかに万太郎旧居

藤田るりこ(「秋麗」所属)
朧夜の闇へ降りゆくエレベーター
茉莉花や母へ手を振る初老の子
汐干狩進化の果ての白き脚


堀田季何(「澤」「吟遊」「中部短歌」)
卯月なり影深くして象の皺
象の尻攀ぢのぼる蟻わが事か
昼寝てふ(かたち)もたざる(ざう)に乗る

小林千史(「翔臨」会員)
まだ聞かず花盗人となる理由
青麦をつんのめり出て空へ行く
ほとときす樹の貧相な絵を眺め


仲寒蝉
 まくれても剥がれぬ切手鳥雲に
菜の花や川を下れば日本海
看板のどれもみな美女桜の夜

堀本 吟
卵黄に箸をぶすりと夏はじめ
石段をやっとこ登る若葉かな
葉桜やむかしむかしといはばこそ

筑紫磐井
蝙蝠がゐて鳥類のかまびすし
花も鳥も古澤太穂は木っ端微塵
   なんとなく春~夏2句
大概の女が嫌ふ君の名は?
男女には越えてはならぬ深みどり

2013年5月10日金曜日

平成二十五年 花鳥篇 第二

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   中西夕紀(「都市」主宰)
蛙にも涙のありて瞬く
内科三番声の良き医師朝桜
パソコンときゆつと消えけり春の闇


   前北かおる(「夏潮」)
さゆらぎの収まるときの雪柳
アネモネや青山フラワーマーケット
軽暖のかたかたと道築く音


   関悦史(「豈」同人)
紳士下着売場に春はTバック
P・K・ディックのレプリカ話すディックの忌
暗黒の平成にして花見人


   田代夏緒
九割の夢は叶はずしやぼん玉
臆病の寄り添ひ合ひて雪柳
花嫁の花はなずなの花のこと


  小野裕三(「海程」「豆の木」所属)
観音堂跡の生活百千鳥
春塵捲く白日に棲む八咫烏
花いくさ宝石商に奇策あり


   三木基史(1974年生まれ。「樫」森田智子に師事。現代俳句協会会員。)
忍音や大杯を裏返す
陵の花橘を持て余す
全山を枕としたり時鳥


   網野月を(「水明」同人)
初花よきっとはじめに散るものよ
背景が気になって仕方無いさくら花
桜散るあなたの返事待ちわびて


   林雅樹(「澤」同人)
狂ひたるヘルダーリンに若葉眩し
新樹精を放つ夜道を行く女
山に逃げ下着泥棒時鳥


       堀本裕樹
海鳥にのみつつぬけや春の宵
首すぢに蛭のやうなる落花かな
惜春の地をひた這へる草鞋虫


    下坂速穂(「クンツァイト」「屋根」)
つかまへて花盗人はおばあさん
犬が尾で笑うてくれし春の宵
ララララと木五倍子の花の咲いてゐる


    依光正樹(「クンツァイト」主宰、「屋根」会員)
新しき匂ひの雨に巣鳥かな
春水や音のなき炉が家の中
こでまりに隠れてゐたる雨の蜂
案じたる人も戻りし蓬餅


    依光陽子(「クンツァイト」「屋根」)
道に出て道ををかしむ暮春かな
山桜桃蕩児と呼ばれながら逝く
ひこばえのいづれ真萩の一叢に



    小沢麻結(「知音」)
春の朝友呼ぶ如く女神の名
時止める術のひとつに花の雨
葉桜やその言葉今よみがへる


    飯田冬眞(「豈」同人、「未来図」所属)
リラの花ポニーテールの声ひびく
三鬼忌や懲りずにブーケつかみ取る
花筵夜のほてりを紡ぎあふ
亀鳴くや湯舟に浮かぶ蒙古斑
真夜中に歯を磨くごと春惜しむ


    茅根知子 (「絵空」同人)
夏至の日の空より船の戻りけり
コップから水のあふるる明易し
真昼なり金魚と白い洗面器

    佐川盟子
うすうすと花粉の乾く雨のあと
墜ち昇り墜ち昇りして鳥の恋
夏兆す瑠璃沼にわが影落ちて


    月野ぽぽな(「海程」同人)
白蝶のとても静かな大騒ぎ
またもテロ桜すみずみまで慄え
桜散る犀の眠りの中ほどを


    小久保佳世子(「街」同人)
チューリップムスカリ戸口に松葉杖
鶯や枕の中に耳ひとつ
燕の巣整体院まで三つほど


2013年5月3日金曜日

花鳥篇論/筑紫磐井

歳旦帖・春興帖をまとめた後、春・夏の間の季節で第3回目の俳諧帖を興行しようという趣旨で花鳥篇と名付けたのは、これも春興帖の先人蕪村にちなんだものである。

   *    *

『花鳥篇』(天明2年(1782)刊)は、「春風馬堤曲」で有名な蕪村の春興帖『夜半楽』(安永6年(1777)刊)につぐ、春・夏興帖となっている(春興帖、夏興帖についてはすでに述べた通りである)。『夜半楽』同様蕪村自ら企画して、文と絵の版下を書き、蕪村趣味が濃厚に発揮されている。特に『花鳥篇』ではその成立に俳諧の門人だけでなく、妓女、歌舞伎役者がかかわり、遊興の雰囲気を際立たせている。『夜半楽』が独立して版行されたのに対して、『花鳥篇』は蕪村七部集を構成しているため普及も著しかった。

その内容は次のとおりである。

目次

①蕪村自序
②花桜帖(妓女、歌舞伎役者、地友、門人などの花・桜発句85)
③蕪村の俳文
④大阪うめ女の前書き付き発句「いとによるものならにくし凧」を立句にした連句12句
⑤蕪村の句文と蕪村の「檜笠」の絵
⑥宗因発句「ほととぎすいかに鬼神もたしかに聞け」を立句にした歌仙
⑦中村慶子(歌舞伎役者)の「月にホトトギス」の絵

経緯は、天明2年の春興帖を作成するため蕪村は門人知友に働きかけたのだ(②)が、吉野へ花見に出かけたため出版の機会を逸し、同時に「ほととぎす」にかかわる宗因発句を立句にした歌仙を巻いた(⑥)ところから、これらを併せて体裁を作り、『花鳥篇』を刊行したというのである。花・鳥(時鳥)からなる春・夏興帖となった理由はこれで説明できる。

この間、大阪うめ女が小いと(蕪村の老いらくの恋の相手)にあてつけた発句と、当の小いと・蕪村をふくめた連衆による連句12句(それも大半が恋の句で式目違反でもある)を付している(④)。あるいはこれは「春風馬堤曲」同様蕪村の創作であるかもしれない。

また、さらに、一休(愛人のいた名僧として有名である)の小唄を引用して芭蕉の寂びを揶揄し壮麗を讃えた句文(③)、吉野の花見を言い訳する(実は老いらくの恋を言い訳する)句文を配した(⑤)。これに序文(①)、絵(⑥)を添えて風雅な1巻が成り立っている。

このように『花鳥篇』は蕪村の想像力・妄想力の作りだした新しい形式であったのである。江戸時代の俳諧は、芭蕉のような求道者ばかりだったとゆめゆめ思ってはならない。平成の花鳥篇もこうした奔放な詩を作りだしたいものである。

末筆ながら、こうした趣旨に賛同していただいた、多くの平成の風狂の士に感謝する。








【俳句作品】平成二十五年 花鳥篇 第一

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  池田澄子(「豈」「船団」所属。句集『たましいの話』『拝復』他)
初潮以降春は桜が咲いて散る
見下ろしの染井吉野が誘うのよ
鶯に沼明りして空虚空虚
日輪のぼーっと渡る八重桜
花ふぶき家で夫が待っている


  福永法弘(「天為」同人、「石童庵」庵主、「豈」むかし同人、俳人協会理事)
老嬢の手を取り申す花の昼
不器用を武器とし愛の四月馬鹿
待たざるに来し朗報や時鳥


   曾根 毅(「LOTUS」同人)
花の雨ことにやさしき地の窪み
地に憩う花びらのあり雨の後
散る桜この世に土の色残し



  もてきまり(「らん」同人)
空の青盗みてをんな藍を蒔く
肉体の真中みごとや春の滝
手廂で眺む大過去さくらばな
  

  小林かんな
壇密の留守に似ている海雲かな
鳥の影下唇に軽くふれ
小走りに葉桜の下戻りけり



  杉山久子(「藍生」「いつき組」)
金星の冷えをはるかに山桜
ものの芽に日の痕猫に突然死
土筆摘む人類最後のひとり



  内村恭子(「天為」同人)
花見舟来るたびに手を振り合つて
あらがひて潮の形の花筏
花屑と思へば幣でありにけり




  藤田踏青(「層雲自由律」「豈」同人、短詩型交流会「でんでん虫の会」代表)
処々に山桜の押しボタン
抜き去られる時の快感 桜花賞
桜の精 落し所を心得て
ヘラヒルル自画像ならぬ豆の花



   しなだしん(「青山」)
五月来て鏡のなかにある痛み
望遠鏡伸ばし海賊めく五月
運び屋のごとく五月に紛れ込む



   原雅子(「梟」同人)
このごろの雨つづきなる杉菜かな
帰りたき鴨ややたらの胴震ひ
畦を焼くそちこち爆ぜてゐたるなり



後藤貴子(「鬣」)
茴香の妻をのがれて闘技場(コロッセオ)
ひるがおに貌現れて腐りけり
犬と壺とわれの蹠の青黴よ



関根誠子(「寒雷」「炎環」「や」「つうの会」所属)
丸山町抜けて松濤(しょうとう)庭ざくら
引鶴や新歌舞伎座へお練り衆
花の宴一本締めの声揃ふ



   仙田洋子
 亡き友へ
花束を投げて春潮またしづか
スニーカーてんでんばらばらに脱いで春
Tシャツの脱ぎ捨ててあるはこべかな



   羽村 美和子(「豈」「WA」「連衆」同人、近著・句集『堕天使の羽』)
夜桜の取り囲んでる化学室
『宇治拾遺』横切る蝶の翳がない
交渉の真っ只中です花ざくろ


           早瀬恵子(「豈」 同人)
花花花早花咲(はなさき)(つき)花花花
光りつつにんげんぬけるさくら花
妙齢やタクトみだれてほととぎす



   陽 美保子(「泉」同人)
体内に知れぬ闇あり花曇
春雨の音もこの世の音といふ
目に映るものをまぶしみ春惜しむ



   西村麒麟 (「古志」) 
亀鳴くや手鞠をつかばもう一度
驕る時平家が楽し桜貝
念仏や春には少し春らしく
ことごとく平家を逃す桜かな
頼朝の箸やや長し桜烏賊