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2013年12月27日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む25~社会性俳句総括③~最終回】/筑紫磐井

社会性俳句は、機会詠であることが多い。まさに前々回で掲げた句は、人が死んだり事件があったりしたことによって生まれた機会詠だ。機会詠として今もって記憶され残っている作品は昭和36年10月に日本社会党の浅沼稲次郎委員長が刺殺された時の作品、

十代の愛国とは何銀杏散る 長野 松井冬彦

ではないか。刺殺犯は山口二矢(おとや)、当時17歳(高校中退)で、今もってつかわれる浅沼刺殺の衝撃的な写真では、犯人が学生服を着ている。だからこそ「十代の愛国とは何」の言葉がよく共感を持って伝えられたのではないか。

この作品は、朝日俳壇の中村草田男選に選ばれたものであるが、この句が記録ではなく伝承によって伝えられていったがために、多くの本がこの句を中村草田男自身の句であると記述している、しかしそうではなく無名俳人の句なのである。機会詠は無名俳人にこそふさわしい。当時の朝日俳壇を眺めてみると、機会詠を選んでいるのは上の句をはじめとしてすべて中村草田男選ばかりである。「十代の愛国」ほどの句はほかにあったかどうかは別にしても、機会詠の問題は作者の問題である以上に、選者の問題であるような気がする。選者が積極的にこれを取る意欲がないところに機会詠は生まれない。

草田男は新聞での選評にあたり、「テーマそのものには恒常性があるが、ケースを通しての訴えであるだけに時間的に感銘がある程度薄まって行く可能性がある」と述べたが、草田男の予想に反して、どの機会詠よりもこの句は普遍性を保ち得たように思う。また、だからこそ草田男は現在の新聞俳壇では信じられないほどの長文の評言をこの句に寄せている。伝説が出来て当然の扱いであったのである。

それにしても「十代の愛国とは何」というフレーズは、当時の時代の憤る様な気持をよく表している言葉であると思われる、社会性俳句らしい言葉である。容易に類想が生まれそうではあるが、作者としては1回限りの思いをもっていたことは間違いない。そうした思いと表現の乖離、――むしろそこにこそ時代を語る文体があるのだと言うことである。

    *      *

以上述べて来たことで、「文体の変化」が述べられたとは思わないが、少なくとも、俳句は姿勢や態度であり、その故にそれが文体を作りだすと言うことを述べたいと思ったのである。これに形容詞をつければ多少分かりやすくなるかもしれない。社会的姿勢や態度を持つがゆえに社会的文体を作りだす、裏返せば古典的姿勢や態度を持つがゆえに古典的文体を作りだす、ということなのだ。現代の俳句が、停滞し、沈滞し、類想にあふれているとしたら、それは作者の姿勢や態度が問われるべきであろう。

例えば簡単なことがある。類想が現代俳句の最大の問題であれば、絶対類想だけは排除すると言う意志を持って俳句を詠み始めれば、それは不可能ではない。しかし、そうした動機は、作者の俳句詠出の態度に、そして文体に影響を与えずにはおかない。ことによると、文芸的には痩せてしまった、彩のない、事実報告のような俳句になるかもしれない。多分そうなるであろうと予想されるのである。そしてそれは、作者が何を大事と考えたかによるのである。俳句が姿勢や態度であると言う所以である。


2013年12月20日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む24~社会性俳句総括②~】/筑紫磐井

社会性俳句はその後の前衛俳句(兜太の造型俳句)と連続しているように思われがちだが、決定的に違うのは「難解」でないことだ。社会性俳句に難解俳句はない。難解であれば、一般大衆の共感を得られないからである。社会性俳句がとかく通俗的になりがちなのはこのような本質を持っているからである。

社会性俳句を詠んでいる作者の内面は鬱屈し、複雑な様相を帯びているかもしれないが、表現そのものは分かりやすくなければならない。複雑な思想に慣れていない作者が新しい表現を模索しているがゆえに難解のように見えるが、難解と分かりやすさのどちらを選ぶとすれば分かりやすさに決まっている。

私は俳句史が始まって以来最も分かりやすい俳句は社会性俳句であったと思っている。難解には二つの次元があると思う。①表現が難解である事例、これが今論議している難解であると知れば、②何でこんな俳句を詠んだのか分からないと言う難解がある、より根源的な難解性である。花鳥諷詠俳句とは、実はこの第2番目の難解性を持っているのである。貴重な時間を使って、17文字の表現を使って、なぜこのようなくだらない俳句を残さねばならないか、俳句を始めた人が一度は抱く疑問である。「古池や蛙とび込む水の音」「流れゆく大根の葉のはやさかな」「一月の川一月の谷の中」「冬の波冬の波止場に来て返す」等々。そうした疑問の是非はさておいて、社会性俳句は①の難解さも、②の難解さも残さない俳句なのであった。

だから社会性俳句における文体問題とは、分かりやすい文体問題に集約する。気取った、持って回った表現を排除し、より直截に作者の思想や感情をあらわす。そのためには古い伝統を排除することもいとわないのである。

    *     *

ここから社会性俳句をスタートさせると、俳句の本質が見えて来る。分かりやすい自由な文体を目指した社会性俳句が、なぜ多く「季語」を使っているのか。

おそらくだれもが戦後の社会性俳句の代表であり頂点と信じてやまない作品がこれである。

白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ 古沢太穂  

「白蓮」「白シャツ」という季語がなければこの句の魅力は生まれない。なぜ社会性俳句の理論に反するような季語が不可欠なのであろうか。それは、俳句の伝統からかけ離れた作者の思想や感情が激昂して、季語を要求したからである。

我々が俳句を作る時に季語を入れるのは約束であるからである。約束であるから、そこの季語は死にかかった季語である。死臭の漂う季語だ。しかし、この句では作者は季語など不要と思っていたにもかかわらず、自分の思想や感情を表現する際に季語を発見したのである、創造したと言ってよいかもしれない。どんな伝統派の俳句作家より、季語が恩寵としており立ったのがこの句であり、この作家であったのである。

こうした季語であればだれも文句は言うまい。真の季語は、社会性俳句作家によって発見されるのである。

もちろん、そうした季語を詠んだ社会性俳句ばかりではないことは当然である。しかし、明治以来の近代・現代俳句において、俳人が体験した初めての季語体験がここにあったと言うことは忘れてはなるまい。高浜虚子はうすうすそのことに気づいており、この作者(古沢太穂)には常に敬意を持って臨んでいたようである。山口誓子や高柳重信より太穂を余程気に入っていたのである。


2013年12月13日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む23~社会性俳句総括①~】/筑紫磐井

「揺れる日本」を読んで、社会性俳句と社会性俳句以前の戦後俳句を通覧することができた。ごく当たり前のことなのであるが、戦後有名無名の多くの俳人(ホトトギスも含めて)は花鳥諷詠以外の社会的事件を丹念に俳句に詠んでいた。社会的事件を、小説家が小説に書くように、詩人が詩に書くように、歌人が短歌に読むように、俳人も俳句に詠んでいた。そこには何のタブーもなかった。
特に俳句の場合、それ自身一種の日記のような役割を果たしているのだから、日記に書いていけないことなどはないのである(その意味で、虚子の「俳日記」は厳密な「俳句による日記」ではない。「句会(ほとんど題詠)における自詠作品の記録」である)。

例えば、もっとも典型的な例が、何年何月何日にどのような事件があったと言うことが判明する俳句がそうであろう。

現代でも多くの俳人が自分の身内や知り合いの事件(多くは逝去。時に祝賀なども)を前書きにつけて俳句を詠むが、我々読者はそんな個人的な事情にほとんど関心がない。この時代は、その前書きに相当する事件を社会的な事件にまで拡大し、かつ、前書きをつけないで詠んでいたと言うことになる。それだけ、俳人たちにとって共感性のあるものであった。

【木犀号遭難】
木星号遭難す鯖焼きをれば 青玄 27・6 日野晏子
※「木星号」は「木犀号」の誤り。

【太宰治死す】
妻と粥啜りあげつらふ太宰の死 暖流 23・8 島津次郎
【横光利一死】
死面描けるわづかの線の寒かりき 惜命 石田波郷
【久米正雄死す】
久米氏逝くと妻に告げたるあと咳こむ 青玄 27・5 日野草城
【茂吉死す】
啓蟄の蒼天のこる茂吉は亡し 寒雷 28・4 加藤楸邨
【ガンジー死す】
冬の星高さは距離かガンジー死す 寒雷23・5 秋山牧車
【近衛氏自殺】
近衛家へ悔み使僧や門時雨 ホトトギス 21・3 下村快雨
【スターリン死】
友ら護岸の岸組む午前スターリン死す 俳句研究 28・5 佐藤鬼房
【女王戴冠】
女王戴冠蛙の国のことでなし 俳句28・8 島田洋一
【松川事件】
滾る銀河よ真実獄へ想ひ馳す 俳句 29・4 佐藤鬼房
【燃ゆるバス】
火だるまのバスに鵙鳴き猛りけり 曲水 27・2 大塚鶯谷楼
それがさらに日常的な題に拡張してもそうした共感が寄りそう。社会性にあって、日常の事実は決して本質が変わることはなかった。

【新薬】
飛機が撒くD・D・Tカンカン帽を手に 鼎 青池秀二 
D・D・T乳色の空やや冷ゆる 寒雷 23・3 吉利正風 
D・D・Tの広告塔や灯取虫 ホトトギス 25・1 上田南峯 
ストマイどんどん打つてやりたいじつとり盗汗 道標 27・2/3 岩沢道子 
ペニシリンに妻よ肺炎の吾子託せ 浜 27・6 川島彷徨子 
結核に新薬土用芽吹きけり 浜 27・10 森遊亭 
ツベルクリンの反応赤く秋始じまる 氷原帯 27・11 藤島孤葉 
パスをのむ声がかすれて秋の風 雲母 28・1 山岸墨綿子 
勤めより戻りてはパスを飲みて冬 浜 28・1 森田豆子 
新薬を飲む指冷えの夕焼か 浜 28・3 沖原比沙子 
ストマイに額縮まるや雪に雨 氷原帯 27・3 関根花右門 
寒雷に飲む真白きヒドラジッド 風 29・5  細見幸子 
マイシンを射たる一叢の風ひかる 麦 29・6 山崎誠之助

だからこれらを麗々しく「社会性俳句」と呼ぶ必要もなかった。しいて彼らの共通認識に当たるものを言えば、「俳句は現代を詠むものである」ということであり、その主張に、石田波郷も、中村草田男も、加藤楸邨も、金子兜太も、能村登四郎も、飯田龍太も、草間時彦も何ら異論はなかったところである(私はこれらを、桑原武夫の「第2芸術」論に対する反応であったと考えている。実に昭和20年代は「現代俳句」の時代だったのである。石田波郷編集の戦後最初の総合誌「現代俳句」の創刊、現代俳句協会の発足、山本健吉の名著『現代俳句』の刊行等々)。戦前には「現代俳句」は使われてはいたものの余り一般的ではなかった。また、昭和40年代以降の、龍太の時代・伝統俳句の時代には「現代俳句」はくすんでいったのである)。

では、戦後の現代俳句と異なる「社会性俳句」とは何であったか。「社会性俳句」とは「花鳥諷詠俳句」に対抗するプロパガンダであった。ホトトギスなどの古い勢力を駆逐し、人間探究派や新興俳句を巻き込んだ国民共同戦線として意識されたのが「社会性俳句」であった。「社会性俳句」は極めて政治的な主張であったのである。

ただ私はあまりこの政治的な主張には関心がない。むしろ、延々と「揺れる日本」を読むことで確認したいと思ったのは、戦後俳句における「現代俳句」の意識である。そうした意味での社会性俳句についてここで考えてみたいと思ったのである。従って、「社会性俳句論争」はともすれば政治論争になっていたから(全部がそうだとは言わないが、現在それを峻別して論議を整理する余力も気力もないので、とりあえず社会性俳句論争は戦後の膨大な玉石混交の山の中に埋めたままにしておきたい)、ここではふれない。そうではない社会性俳句についてその特徴を考えてみたいと思うのである。



2013年12月6日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む22~住その他②~】/筑紫磐井

戦後何が変わったと言って、一番の変化は女性と天皇に対する態度ではなかろうか。まず女性から。戦後らしい女性に関する項目についてはすでにいくつか取り上げたが、取り上げ洩らしたものを見てみる。

【生理日】
生理日の妻に水仙黄一色 氷原帯 27・6 堀内信乃子 
生理日や短期は妻がならす俎板 氷原帯 29・7 鈴木芳子
【婦警――パトロール】
あごかれは刑事婦警よ卒業す ホトトギス 24・9 砂山きよ女 
バラ抱いて婦人警官我に近く 麦 25・7  尾崎新一 
整理する婦警の笛に舗道炎ゆ 石楠 26・10 大村みのり 
桃青忌婦警闊歩の天青く 曲水 27・11 荒芙容女 
散る花を目で追ひ婦警パトロール ホトトギス 26・8 宮本公彦 
パトロール時計よみよみ雪をまがる 寒雷 27・5 白石みどり 
寒灯の河岸の倉庫のパトロール 俳句 28・6 古屋孤渓
生理日を公然というのも戦後ならではであろう。また、婦警は、権力機構の中に女性が位置する物珍しさもあったであろう。これは私だけの感じかも知れないが、詠まれた句が全て生き生きしているように感じられるのは、婦警は一種の民主主義の象徴のようなものであったからではなかろうか。
アメリカ軍の進駐に伴い、台風も女性化した。

【台風<戦後的な>――台風予報】

台風に女性の名ありいよいよ来る 暖流 22・11 瀧春一 
皓太逝きアレン台風巷を過ぐ 石楠 25・2 伊勢鏡一郎 
台風予報月は嗤ふが如く澄む 石楠 26・2 角川澄水 
台風予報机上の眼鏡曇りをる 石楠 28・12 石井真
象徴と言えば、天皇という政治的な色彩の強い言葉についてはすでに触れたので、ここではそうしたどぎつさのない題を眺めてみる。

【人間天皇】
お降の中天皇帽を振り給ふ 石楠 25・5 高橋蒼々子 
麦刈に天皇の汽車辺く短かし 浜 27・9 増田達治 
芽柳や平民二重橋をわたる 曲水 27・8 江口我孫子
【国歌――君が代】

元日の野草君が代きかぬ久しき 石楠 26・5/6 安倍布秋 
綿虫や国家君が代廃れざりし 俳句苑 28・5
【返爵】

返爵して気安さよ冬籠 ホトトギス 24・3 榎本紫陽

「君が代きかぬ久しき」も「君が代廃れざりし」も真実であるところがこうしたアンソロジーの楽しさである。

2013年11月29日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む21~住その他①~】/筑紫磐井


「住」環境に近いものとして、幾つかの題を掲げておこう。

先ず【闇屋】【闇米】【闇値】などがすでに紹介されたが、そうした闇行為を行う場所として、焼け跡などに開設される闇市がある。別に仮設である必要はないが、いかにもそれらしい詠まれ方をしている。物々交換は闇市の一首であるかよく分からないのでいっしょに紹介しておく。戦後とはこうした脱法すれすれ、法律の解釈の隙間を縫った行為がふえてくる。

【闇市――マーケット】

闇市の狂躁天に夏燕 太陽系 21・9 三保鴻磁 
闇市の隅のどくだみ街暑し 風 22・11 竹村幸三 
はつらつと秋日の中の闇市場 太陽系 22・1 指宿沙丘 
雪を来てマーケットに手玩具買ふ 石楠 22・8 古屋柿陽 
何もあり彼もあり寒き闇市に  旦暮 日野草城


【物々交換】

杣下る油と替へる炭負ふて ホトトギス 21・3 有本銘仙 
鳥雲に砂糖と換へし米提げて 曲水 25・7 西山一郎 

住宅が仮設であれ確保出来れば、次は職場への交通の確保が不可欠となる。交通難とはラッシュ(現在のラッシュよりもっと激しかったろう、【殺人列車】と言う物騒な名前がついている)、切符確保の行列、社内だけでなくデッキの立ち乗りまであったようである。


【交通難】

春泥や徒歩通勤者ふえて来ぬ 浜 21・7 鈴木香雪 
七月の白きラッシュの渦に入る 石楠 23・11 石田古石 
息白く切符買ふ列にわれも入る 石楠 25・6 坂本碧水 
デッキに野分勤めの人の髪を吹く 歩行者 25・10 松崎鉄之介 
雪に発つバスは魚商の荷にて満つ 石楠 26・5/6 松下津城 
春の霜見しが車内に揉まれをり 石楠 28・3 原田種茅

【殺人列車】

骨押し合ふ社内に捻ぢれ極左の書 太陽系 21・12 船戸藪々 
混む電車で蜜柑の香り嗅いでゐる 太陽系 21・12 市川繁策 
胃が痛む殺人電車に吐き出され 太陽系 22・3 水谷砕壺 
亡国の夜汽車に捻られ人ら師走 太陽系 22・3 船戸藪々

こうした町々で見かけられる終戦特有の風景は、貴重品(当時にあっては)を拾って歩く行為である。

【煙草ひろひ】

北風走る足下の莨拾はれぬ 明日 富永寒四郎

【金物ひろひ】

けふも金屑探しの来てる栗の花 ホトトギス 24・3 金沢青陽


2013年11月15日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む20~住③~】/筑紫磐井


「住」についてはすでに「⑦~戦後風景~」で【焦土】【焼跡】【瓦礫】【廃墟】を紹介しておいたが、これらは何も残らなかった状態を詠んでいる。今回紹介する項目は、似てはいるが焼け残ったもので、なお住の用に供されることもあるだろうから、微妙ではあるがその違いを紹介しておきたい。

【焦都】

おり立つや焦都の霧を双頬に 潮騒 21 太田鴻村 
芽柳に焦都やはらぎそめんとす 俳句研究 21・12 阿波野青畝 
荒都遠しここ秋雲の母郷たり 来し方行方 22 中村草田男 
雪しまき焦都しばらく窓に消ゆ 旦暮 日野草城 
【焼ビルーー焼工場】
焼工場年逝く鳰をただよはす 雨覆 21 石田波郷 
焼工場夜雲五倍す稲妻す 雨覆 21 石田波郷 
秋の日の天に焼ビル地に破れ靴 現代俳句 21・12 藤田初己 
焼けビルの窓の親子に春の雨 ホトトギス 24・7 浅見里都子 
廃工場人は見ざれど蓮咲けり 霜林 24 水原秋桜子 
廃工場かもめ啼きつつ飛雪となる 麦 25・4/5 鈴木珠鱗子 
【焼木――焼トタン】
焼トタン鎧ひしの家の麦芽ぐむ 石楠 21・5 川口貫之 
焼トタン組まれゆく日々寒ゆるむ 浜 21・3 鈴木濤閑子 
大焚火に煽られしかたちのこす 浜 21・3 大野林火 
日向ぼこ寄りし焼木に熱こもる 歩行者 23 松崎鉄之介 
戦争における特定目的の施設は利用の仕様もないから無人の状態のまま荒れるにまかせている。
【旧軍事施設】
そのかみの要塞地帯麦を踏む 石楠 22・8 大塚梵天瓜 
不発弾掘り炎天の街となる 曲水 24・9 鈴木頑石 
青葉なほ水漬き砲塔寒波割く 石楠 25・5 稲本契月 
屋根に寒日旧軍港は海汚れ 道標 26・4 須貝北骨 
海軍は亡し冬港の浪照つて 石楠 26・10 横髪乃武子 
冬潮澄むかつて特攻艇の洞 浜 28・4 中戸川朝人 
島晩春日本海軍倉庫遺す 浜 28・6 田中灯京 
桐咲けり陣地跡にて毬つく子 浜 29・7 片岡慶三郎 
鉄兜黒き汗垂れ何堰くか 俳句 27・12 中島斌雄 
兵役のなき民となり卒業す ホトトギス 23・1 野田蘆江

※最後の2句は軍事施設と関係はないようである。
やがて、古い施設は解体され、整地され、または改修され、新しい建物に変わってゆく。このあたりになると希望が見えてくる。


【ビル建設――都市復興】
陽炎や復興都市の屋根続き 石楠 25・7 今井◆石 
冬果ての天へデパート塗りいそぐ 石楠 26・4 野中内海 
ビル建設人蟻のごと動きゐて 曲水 29・7 山崎豊女 
富士立夏ビル建つ鉄の反射音 曲水 29・8 酒井美鈴

【ビルプール】
ビルの足場雑然と夏天日本の様 浜 27・11 松崎鉄之介

2013年11月8日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む18~住②~】/筑紫磐井


今回は現在あまり見ることのない家を読んだ句がテーマである。居住しているにしろ、その住宅が現在とは全く異なる住まいであることにより、戦後の風景が浮び出してくる。

【土蔵住ひ】

花断たず土蔵住居の秋に入る 石楠21・3 佐野良太 
焼け残る雛を飾りて蔵住まひ ホトトギス 21・8 近藤いぬゐ

※土蔵は耐火施設となっているから空襲でも焼け残り、焼け跡にぽつんと土蔵が残っている風景は象徴的である。以下に述べる特殊な住居の中でも雨風の入らない土蔵住まいは上等の方と言わねばならない。しかしやはり生活のために作られた空間ではないから不自由も多い。

【壕舎】

壕天井木の根の雫あたたかき 石楠21・5 足立原斗南郎 
壕住居おもふ冷雨を炉に籠り 石楠 臼田亜浪 
壕舎出て麦の芽生えに咲捨つる 石楠 久保田俊 
訴ふるごとき壕舎の一寒燈 冬雁21 大野林火 
月上る壕舎のラヂオ楽奏づ 俳句研究 21・9 西島麦南 
猫柳芽ぶき壕舎の名札たる 石楠 22・9/10 柴田黙風子 
秋草に穴居の家族鶏飼へる 現代俳句 21・11 西島麦南 
軍港や横穴に人棲みて月下 浜 28・11 小松進一

※壕舎の壕とは防空壕の壕である。戦中防空壕として使っていた施設は避難用の空間であるから辛うじて居住できないわけではなく、家が焼けてしまったあとではそうしたところに居住している人もいたわけである。私の個人的な回想でも、東京の区部で、昭和30年代を過ぎてからそうした壕舎で暮らしている親子を見た記憶がある。学校の近くに残された壕舎に母親と娘で暮らしていたようである。穴居という言葉が出てくるように、人類の文化の始めに戻るような環境なのである。

【バラック】

落葉する樹もなくバラック聚落す 石楠 21・5 和多野石丈子 
六月の女すわれる荒筵 石田波郷 雨覆 
バラックの部屋一杯に蚊帳つりぬ 万緑 21・12 古屋巴 
バラックの子らに親しき寒雀 万緑 22・1 伊藤慈風人 
木枯や俄か作りの映画館 万緑 22・2/3 清水万里子 
バラックをつぶしさうなる南瓜生る 俳句 27・12 奥村善洋 
バラックの暗さ秋刀魚の煙充つ 寒雷 27・2 鈴木恒男 
バラック枯葉戦後全く父老いて 寒雷 28・5 山崎為人 
手を延ばすバラックの屋根薔薇の箱 俳句 29・6/7 沢木欣一

※本来はスペイン語で兵隊のための天幕宿舎だったというが、兵舎、それが転じて災害や戦争被災に際してありあわせの材料で作った一時しのぎ の小屋という意味になった。だから関東大震災後にも、焼け跡に沢山のバラックが造られたという。上の句、畳がないから荒筵なのである。「(南瓜が)つぶしさう」「俄か作り」「手を延ばすと屋根」に粗末さはよく伝わる。それでも、土蔵や防空壕に比べれば生活それぞれの個性が浮かび上がってはいるようだ。

【仮住居】

小屋住居おもふ冷雨を炉に籠り 浜 21・1 臼田亜浪
※バラックよりもう少しましな家かもしれない。

【硝子のない家】

硝子なき窓に冬日や大試験 浜 22・1 谷田川正三

※ただ家の要素が欠落していると、家ともいえないようだ。

2013年11月1日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む18~住①~】/筑紫磐井

戦後の生活で切実さにおいて「食」と並んで引けを取らないのが「住」であろう。これに引き替え衣食住と言いながら「衣」は項目数も多くなく、その内容も、【戦闘帽】【軍衣等】【開襟シャツ】【モンペ】【女のズボン】【襤褸】【放出衣料】【衣服行商】【衣料高騰】とやや風俗的なものが多いようである。

⨪また、基本的に食が個人一人の命を守るためのものとすれば、住は家族の生活根拠となるものであるから、それを眺めることからは独自の社会性が生まれてくる。また、単に家を持つか否かではなく、住宅に関する社会のシステムもうかがえるところが食より深みの増してくるところである。

「住」の1回目としては、あまり細かなものではなく住宅そのものに対する絶望を掲げてみる。
「⨪⨪」は住まいだけでなく、職場さえ定まらないと言う意味を持っている。「⨪⨪⨪」に出てくる「家欲し」は、単に住宅を望んでいるものだけではない点において流離と共通する。このように、流離と飢餓は、市民の中に根付いた戦後の深い傷であった。それが消えたとき戦後は忘却されたのである。

【流離】

白き蟵縫ひて流離のおもひまた 寒雷 22・3 渡辺朔 
流転又梅雨の旅籠に病み伏しぬ ホトトギス 22・10 樫木祠狙 
虫の秋行商流弁続くなり ホトトギス 22・10 藤田美乗 
十年流離の窓の向日葵うしろむき 氷原帯 24.11 橋本斧鍼 
流離の背を向けて春の飛雪にも 氷原帯 25・5 遠藤峡川 
雁なけば流寓の天ふかきかな 青玄 25.11 安木白彦 
鬼灯をふくみて流離かなしからむ 氷原帯 26・4 齋藤紀久恵 
寒星や流離の父子へいたく降る 氷原帯 26・7 小野修二 
流離の瞳はまなすの紅砂を炊く 氷原帯 27・12 見澤一鬼 
飴なめて流離悴むこともなし 野哭 加藤楸邨 
斑猫の飛ぶに遅るる流離の荷 雪櫟 森澄雄 
向日葵は日を追ふ流離の借廂 明日 富永寒四郎

【住宅難】
火取虫家持たぬ顔ばかりかな 俳句研究 21・9 加藤楸邨 
借家なき裏町つばめしきり飛ぶ 曲水 23・7 新田三四郎 
蓬莱や下間に住むも一世帯 曲水 24・3 飯塚杏里 
かくて大阪の冬も過ぐ住む家もなく 浜 26・3 目迫秩父 
燕来るや売家札見ることに疲れ  曲水 26・7 岡雨江 
家ほしや冬天井の釘の列に 氷原帯 27・5 岸哲生 
舗道灼け溶岩のごとしや家欲しや 氷原帯 27・11 北光星 
溢れ咲くばら垣見つつ家を欲る 石楠 28・7 村田青い壺 
羽蟻の夜我家てふものいつの世に 雨覆 石田波郷

2013年10月25日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む17~食⑥~】/筑紫磐井

(6)その他

一応「食」のシリーズは前回で終わった積もりであったが、触れきれない題もあったので追加で加える。

ただしそれらの中には、すでに各回でも言い訳をしておいたが、筆者が若年ゆえ(?!)に説明が十分できない句がまだたくさん残っている。以下については、むしろ読者のご教示を得たい問題提起の句としてご覧いただきたい。その後調べた結果、多少得た不満足な知見も合わせて掲げておく。

また、「食」にかかわるものと、「食」にかかわらないものが混在している題(配給など)もある。はっきり分かるものは、前者を前に、後者を後に示すことにしよう。何が素材であるか分からないものは、そのまま列記する。

【配給】
配給の酒を余さず初胡瓜 現代俳句 21・10 沢木欣一 
魚待つ列に北風吹雪となる 太陽系 22・3 西岡美智世 
サッカリンの配給あり紅茶沸かしあればまた来し夜のしぐれ 太陽系 22・3 笠原静堂 
背に配給の甘藷主婦の糞力 天狼 24・1 田中大 
砂糖配給枯野と同色妻の鉢に 風 24・2 金子兜太 
霙るるや軽き配給米を下げ 春燈 29・2 岩淵青衣子 
歳晩へ烏賊の配給ばかり続く 鼎 田川飛旅子 
   *    * 
蔵書売り冬配給の列に入る 太陽系 22・3 長田喜代治 
配給の毛布一枚にくるまりぬ 浜 22・4 近藤一鴻 
白菊や炭の配給近しと云ふ 曲水 23・3 遠藤一男 
配給へ春雨傘をもやひつつ ホトトギス 23・4 北村須起 
寒明や糸の配給を少しばかり 曲水 23・4 森本泰陽
【供出―供米】
供出の炭重ねあり下萌ゆる ホトトギス 26・8 千納三句
※前半が食料、後半が食料品以外である。供出には米はすでに取り上げたのでそれ以外の供出の例句を掲げる。様々なものが配給されたことが分かるが、その意味では代用食の項目と比べてみるとよい。必要なものを作るというのではなく、先ず作ることの出来るものを作り、それを国が供出させ、統制的に配給するという社会主義システムが実現していたのである。

【遅配】

遅配続き十薬の花よごれたり 浜 21・11 堀江杜鵑子 
遅配十日白日の砂ただ光る 万緑 22・1 真川孤舟人 
遅配欠配の夕蝉の昂りぬ 石楠 22・4/5 杉田以山 
日々旱天遅配の日数つもりつつ 俳句研究 22・12 藤田初巳  
遅配つづく巷の声のむし暑し 曲水 23・9 橋本竹水居 
花桐やトロ押して得し遅配の銭 浜 29・8 高橋草風


【欠配】
欠配十日昼顔の花また咲きぬ 慶大俳句作品集 小川雅夫
※配給が遅れること、または中止されることであるが、食糧難と違い切迫感のある句は少ない。

【米高騰】

米価また値上か紫蘇の実やたらこき 氷原帯 28・9 大谷比呂哉 
誰が謀る米価騰貴ぞ蟇 鶴 28・9 刈谷敬一
【闇値】
屠夫清貧牛肉の闇値かかわりなし 火山系 23・12 京谷保天 
風の日に風吹きすさぶ秋刀魚の値 雨覆 石田波郷
※配給制度から外れた物資は闇物資となる。すでに闇米は取り上げたのでそれに関連する項目を挙げる。

【外食食堂】

外食食堂凍てて食ふのみの口を持つ 寒雷 28・3 金子洗三
※外食はこの時代にどのように可能であったのか。次の寿司屋については、不思議な制度があったことが知られるが、それ以外の外食は一律に禁止され、違法な状態にあったのだろうか。それとも、米などを持ち込むことによって食堂としての形態が成り立ったものであろうか。

【すしの委託加工】

妊る妻にいくばくの米寿司に替ふ 道標 26・4 相沢一羽
※昭和22年に法律により飲食業が禁止され寿司屋は表立って営業できなくなったが、1合の米と握り寿司10個を交換する方式を採用し、飲食業でなく委託加工業として営業を認めさせることができたという。

【米を借る】

米借りに渡る吊橋ホトトギス ホトトギス 27・2 中村巨花 
明日を喰う米借り帰る大夕焼 氷原帯 27・10 伊藤健志

※「米を借りる」とは単純な貸借関係だけであろうか。制度としてあったのか?、利子は?、給付は米か金か?

【ローブ菌】

批評うるさしや麺麭にはロープ菌 俳句 23・2 山口誓子
※土壌菌(納豆菌の一種)の中に「ロープ菌」があり、これがパンに入るとパンの組織を腐敗させて糸を引いた状態にする。一度ロープ菌が入ると長期にわたり施設の使用が不可能になると言う。

【放出物資】

放出の粉団子黄に灌仏会 石楠 22・11/12 細川火城
※「放出」の正確な意味はよく分からない。通常は、連合軍が意図的に提供した物資(次のララやユニセフなどからの物資も含む)であるが、旧日本軍の物資が流出したものなどもあった。

【ララ物資】

療園にララの山羊来る草青む 暖流 24・7 大橋晴風
※LARA(アジア救援公認団体)が提供した日本向けの援助物資で食糧(牛や山羊などもあったと言われる)や衣料に及んだ。

2013年10月11日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む16~食⑤~】/筑紫磐井

前回までは、何とか食も可能な状態だったが、最後に飢餓俳句を掲げることとする。今まで食のディテールを見てきた目からすると、圧巻である。飢餓を正面から歌った句、側面から歌った句と異なるが、殆どの句に心を動かされないわけにはいかない。社会性俳句の本領が出ていると言うことが出来る。社会性俳句がともすれば基地闘争とか、原爆反対とか社会的メッセージを特徴とするように思われるが、生きると言うこと、それを阻害する社会を見据えることに目を向けることが先ず第一歩としてあり、それから内灘を詠み、合掌部落を読むことが続くのだと言うことを理解しておくべきだ。ここには寒雷も、ホトトギスも、浜も、曲水も、太陽系もない人間的な共感を覚えることが出来る、波郷も楸邨も草田男も無名の作家も生き生きしている。「飢ゑと寒さ人は言葉をもてあそぶ」には、現代の俳句には決して見えない思想が存在しているだろう。それが戦争で得た俳句の唯一の財産であったと言うことだ。

今回は贅言も不要と思うので作品だけを列挙する。

【食糧難】

粗食ゆゑにあはれ風邪さへながびくや 冬雁 22 大野林火 
米櫃の底かく音す五月冷え 石楠 23・7 辛崎修羅 
まだ青き稲刈りて食ひつなぐなり 浜 28・2 増田達治 
【飢餓】

飢うる街あかい氷菓に唇よごす 太陽系 21・6 水谷砕壺 
わが重きギリシャ辞典と飢ゑてゐし 太陽系 21・7 小田武雄 
百方に餓鬼うづくまる除夜の鐘 俳句研究 21・7/8 石田波郷 
ひもじさと孤独に耐えて寒燈下 ホトトギス 21・8 山下雨畦 
大き飢の妻の夏痩すさまじき 太陽系 21・9 三保鵠磁 
飢ゑかくす術なかりけり天の川 現代俳句 21・11 志摩芳次郎 
飢餓といふさへ忌々し牡丹活けぬ 現代俳句 21・11 渡辺水巴 
飢ゑしなむてふのみ霜の石また石 寒雷 22・3 加藤楸邨 
飢餓の毛穴黄色冬の陽も黄色 風 22・4 佐々木邦彦 
子等に飢餓なきごと裸婦の額かかげ 現代俳句 22・5 火渡周平 
ひもじさを夕鶯にこらへつつ ホトトギス 23・4 那須ちとせ 
飢ゑと寒さ人は言葉をもてあそぶ 曲水 23・4 吉村芝水 
飢餓ふかしこの飽食の牛を見る 太陽系 23・8 京谷保夫 
鉛筆の屑を炭火にくべて飢う 浜 24・5 中村青螺 
この飢ゑや遠くに山羊と蹴球と 風 29・7 佐藤鬼房 
冬隣芋のつぎ何を食すべきか 早桃 大野林火 
餓鬼となるわが末おもふ夕霞 旦暮 日野草城 
引き据うるわが俳諧や飢餓の前 旦暮 日野草城 
あやめ活けて萎果鶴まで飢幾度 雨覆 石田波郷 
永き日の飢ゑさへも生いくさすな 銀河依然 中村草田男 
飢餓線といふ語うべない焚きけぶらす 野哭 加藤楸邨 

2013年10月4日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む15~食④~】/筑紫磐井

(5)パン

パンについては前回で触れ、そのまとめての感想は、巻末の句に掲げておく。まず個別の状況の作品から眺めておく。

【給食】

木枯や給食のパン掌に黙し 浜 29・1 上杉艸果 
給食のバターめつきり痩せて冬 暖流 29・4 金井充
※これは代用食のイメージで読めばよいであろう。家庭では食糧がなくても、学校に行けばあると言うのは平和のありがたさであった。

しかし、給食でまず思い出されるのが脱脂粉乳で、牛乳から脂肪分、水分を除去し粉末状にしたもの。保存性がよく、栄養価が高いことから戦後学校給食に用いられたが不味かった。ララ物資、ユニセフなどの援助を受けて配給された。昭和20年代前半からは始まっていたから、俳句に詠めばパンより印象深いはずであるが・・・。

【パン食】

山羊の乳さわやかにパン食の朝 石楠 26・12 中村春葉●
【白パン配給】

白麺麭ぞ雪のごとくに白き麺麭ぞ 太陽系 21・10 日野草城●
【パン】

新涼の朝の麺麭切る妻のそれも 風 23・2 大島四月草●
※幸福感に溢れたパンは、別に戦後固有のものではない。しかし、戦後の荒廃した雰囲気の中で、わずかに感じ取れるこれらの幸福感は、ささやかなだけに印象深く鑑賞されるのである。

【パン】

若けれどパンかじる背の麦踏めく 俳句 29・5 細谷源二★ 
夜学生のパンかぢりゆく啄木忌 俳句 29・6 飯野たか志★ 
うそ寒きラヂオや麺麭を焦がしけり 雨覆 石田波郷
枯芝に一片のパン顔の隈 寒雷 28・2 清水清山 
※一方貧しさや困惑を感じさせるのはこんな句である。

【パン】

配給の粉がパンになり紅葉添へ ホトトギス 23・4 小野房子 
パン種の生きてふくらむ夜の霜 野哭 加藤楸邨 
パン種のふくるる清し冬の蜂 寒雷 28・3 山本天津夫 
パン焼器湯気を噴き上ぐ喜雨休み ホトトギス 21・11 中川古泉 
くらげ見て蒸しパン食むはかなしきや 太陽系 23・9 桂信子 
ふかしパンにぎればぬくし秋虚ろ 氷原帯 27・1 田沼露草 
パンすこしふくれすぎたる薄暑かな 春燈 26・9 瀬川あゆ子 
※パン屋で購入したパンではなくて、パンを製造している過程が句になるのもこの時代の特徴であろう。粉からパン種を混ぜ、発酵させた後、焼いたり蒸したりするのだが、こうした些事が俳句になって行くのはいかにも戦後らしい雰囲気である。

【パン食】

パン食や雨のつづける棕櫚の花 浜 21・7 北見楊一郎 
ギス近く鳴いてパン食足れりとす 石楠 25・1 山下泉 
しぐるるやパン濡らさじと抱き来たり 氷原帯 29・1 奥村比余呂
【パン】

爪はじくパン屑蟻の行く方へ 起伏 加藤楸邨 
春近しぼろぼろパンを喰みこぼし 風 22・5 細見綾子 
パンに慣れ露けさにやや遠ざかる 寒雷 22・11 田川飛旅子 
パンのあとに氷飲めば啼く夜の雁 寒雷 23・2 冨田実 
パン毟る朝はまつげのななめ翳 麦 26・11/12 栗栖ひろよし 
冬の仏像麺麭は一と日の生物にて 俳句 27・6 中村草田男 
パンの餉に祈る父子は半裸にて 氷原帯 27・8/9 出倉狗峰 
夜の霧がパンの耳をしめらせに来る 氷原帯 29・4 鈴木美枝 
春の崖に朝日黄金バタなき麺麭 俳句 29・6 西東三鬼 
稿継ぎて片手パン焼く朝ぐもり 俳句 29・8 秋元不死男

※問題はこんな生活の一齣とパンを組み合わせた句である。組み合わせたからと言って、作者の主観があらわになるわけでもない。おそらく戦後の些事はここに明らかになるものの、名句と呼ばれるようなものはないようである。これらの句の中から、「俳句」編集部が特集した「揺れる日本」が浮かび上がってくるとは思われない。「パン毟(むし)る朝はまつげのななめ翳」など、松嶋菜々子のスナップ写真のようだ。

2013年9月27日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む14~食③~】/筑紫磐井

(3)食の創意工夫

我々の聞く戦後の食事の話は辛いものが多いが、よく考えると窮乏の中で創意工夫が発揮されているものもなくはない。通常食べていたものがなくなればそれに変わるものが登場するわけで、先に述べた藷もそれに当たるが、戦後の食=窮乏という固定観念ばかりで読まれるべきではないかも知れない。

私は小学生の頃、どういう訳か、「食べられる野草」に関心があり、図書館に行っては本の中からそうした野草のリストを作ってはその味を想像していたものだ。植物図鑑には食用の是非、ことによると、灰汁抜きをして塩を付けて何と取合わせて等と料理の仕方まで詳細に書いているものもあった。妙に生々しい記述が好きだった。もちろん、実際どれ一つ食べたものはないが、路傍にそうした食料が満ちあふれていると言うことは、不思議な充実感を覚えた。多くの人々が無関心で通り過ぎている道の端にそうした食糧が無尽蔵に溢れているというのは人知れず楽しみだった。そして、一方で、純粋な科学の本にそうしたことを沢山書いてあることに感心したのだが、おおむねそれらは戦時中の、食料が窮乏したときのための実用書として書かれたものをリバイスしたものであったようだ。飢餓は戦後も続き(いやもっと激しかった)、私が野草の名前を列挙しているときもその時代からそう遠ざかっていなかったから十分実用的知識であったのだ。現在の飽食の時代に趣味のようにして食べる野草とは全く違っていた。

閑話休題。「揺れる日本」の項目では「藷」の中に含まれていたが、

馬鈴薯掘るや救世主天より現れずに地より 浜 23・9 宮津昭彦
この馬鈴薯は藷の中に含めるべきではないかも知れない。むしろ次の、「代用食」に入れた方がよさそうだ。そして、この句の救世主の出現を待つ作者の心情は、「外米」「粥」「雑炊」に比べて、どことなく不幸の度合いは薄いように思われる。

【代用食】

粉食の舌へろへろと大旱 現代俳句 21・12 中島南映 
日に二度の食の一度は麦こがし ホトトギス 22・10 岡本無漏子 
麦ばかりぼそぼそ食べて厄日来ぬ 石楠 23・1 飯森杉雨 
夏めくや主食代りのキューバ糖 曲水 23・8 後藤圭香 
すいとんつく昏き豪雨の底にゐる 石楠 23・11 浜尾緑村 
現在これらを読んだ作家たちの主観を的確に想像することはなかなか難しい。どの句も滑稽さがにじみ出ている句が多いようである。飢餓そのものが差し迫っていないからである。不満ではあるが、取りあえず経の一日の食はすませた安堵感が漂う。

実は次回あたりにパン食を紹介したいと思うのだが、これこそ充実しているのか、困惑しているのか、絶望しているのかよく分からないのである。パンは高級食であるのか、やむを得ぬ代用食であったのか、人によって全然違う感想を持ちそうである。あらかじめ、パン食の予告として、これら代用食を掲げておきたい。

【家庭菜園】

難き世を生きむと妻と大根蒔く ホトトギス 21・2 亀井糸遊 
菜園の午後の日射しが鍵穴にも 現代俳句 22・5 火渡周平 
蝶来て炎せ妻のともしき菜園を 氷原帯 27・6 園田夢蒼花 
馬鈴薯植ゑて暮れず十坪にたらぬ庭 石楠 29・5 永野鼎衣 
一畝の妻の畑も麦の秋 青玄10号 成瀬正巳

食物そのものではないが、食物の獲得方法としての自給自足の家庭菜園は決して暗い話ではないはずである。もちろん明るいわけではないが、収穫の先には充実も控えているはずである。小さな幸福のようなものが見えないわけではない。

     *     *

代用食の一種として、次のものはどうだろう。解らないといえば全く分からない。

【サッカリン】

灼くるみちに出づサッカリン舌に残り 石楠 22・4/5 一原九糸 
サッカリン時代の屋並み燕くる 寒雷 22・5/6 菊池卓夫 
奈良騒然ラムネにサッカリン混る 俳句苑 27・11 米田鉱平

サッカリンをどのように解釈すべきか。現在の我々は人工甘味料を悪と考えているが、サッカリン禍が現実にあったのかどうか、一見「奈良騒然」の句は、ラムネにサッカリンが混じっていたことが露見し奈良の地域で社会的騒動が生じたと解すべきようにも思うが、それを断定するには私にはあまりにも知識がない。

毒性の強いチクロと違い、少なくとも人類は100年以上のサッカリン使用の歴史を持ち、この間科学的根拠のないままにサッカリンの規制を行ったり、砂糖の入手困難からサッカリンの使用を奨励した、揺れつ戻りつしてきた。

確かに1960年代にサッカリンの発ガン性が見つかったと報告され一時厳しい規制が行われたが、その後そうした危惧はないことから規制が解かれ、現在アメリカでは大量にサッカリンが使用されているという。しかしどういう訳か日本では、古い規則に基づき規制を受けるという訳の分からない状態になっている。少なくとも言えることは、人間は「甘味」がないと潤いのある生活が送れず、生活が充実しない、しかし、一方で砂糖は高価でカロリーが高い(肥満症は最も怖ろしい文明病である)、という矛盾した属性と状況の中で選ばれたのがサッカリン使用であったと言うことである。

掲出の句は、サッカリンの毒性に不安を感じている時代の句のように一見感じられるが、本当にそうだろうか。食品添加物に関する当時の認識と、その後我々が知っている発ガン性問題のサッカリン、そして日米で全然違う認識の現在のサッカリン。1句を読み解くには作者がどの状況にあったかを知る必要がある。例えば、「サッカリン舌に残り」は確かにサッカリンを大量に使うと苦みが生まれるがそれはサッカリンの属性であって、毒性を示しているわけではない。本物の砂糖を使えない貧しさを詠んだと言えば言えなくはない。「サッカリン時代」も砂糖の配給が無くなりサッカリンを使用するようになったという時代の移り変わりに感慨を持っているだけかも知れない。そして、「奈良騒然ラムネにサッカリン混る」も、「奈良騒然」としている状況(例えば青嵐でもいい)と、「ラムネに人工甘味料が混る」という無機的な配合に感慨を催しているだけなのかも知れない。

基礎知識がない状況では、俳句の解釈は全く違うものとなる。つい最近のことと思われても、「読み」を成り立たせない時間の経過があるのであり、国や文化による齟齬がある。言葉に敏感であるべき俳人にとっては注意が必要だ。


2013年9月20日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む13~食②~】/筑紫磐井


(2)いわくある米

米は当然日本人の主食であり、米さえあれば満足出来たはずである。従って、米そのものは高い価値で詠まれるがそれは戦前戦後も変わるところはない。

【新米】

新米を摺りてひとりの汗ながす 馬酔木 24・2 沢井白柳子 
れいらふと新米ひとつ爪の上 石楠 25・1 山田句浪 
薬代は新米二升それでよし ホトトギス 26・3 高橋吉隆 
米は貴重品であるというのは当然だから、今回は曰くのある米をあげてみよう。曰くとはいろいろ瑕疵のある米である。


【粥】

今朝秋や粥を食うべて恙なし ホトトギス 21・3 皿井旭川 
すさまじや大小の口粥すする 太陽系 22・6 島田洋一 
恐ろしき世にながらへて干葉粥 ホトトギス 22・10 山口美和女 
遅日の吾を妻は粥煮て待つやあらむ 石楠 22・11/12 近藤麦月 
粥水の如くうすくて紅葉濃し ホトトギス 24・5 高野素十 
粥すする浅漬の歯にこたゆ冷え 石楠 25・5 平宮広水 
虹まどか妻子は切に粥をふく 雨覆 石田波郷

 
【雑炊】

共に雑炊喰するキリスト生れよかし 来し方行方 21 中村草田男 
賢治の詩となへ雑炊を子も我も 太陽系 21・9 北垣一柿 
雑炊やどの子も妻も皆いとし ホトトギス 25・4 鳥越掬水女 
【藷】

藷粥をすすりて夜なべつづけけり ホトトギス 26・4 梅田こんも 
もがり笛粥のなかなる芋あつし 浜 23・1 目迫秩父 
甘藷粥に落ちし涙は粥となる 石楠 26・7 油布五線

※米を薄めた粥や、藷や野菜、草、諸々を混雑されて作られた雑炊が登場する。

【外米】

カリフルニヤ米のびやく光めしひさすよ 太陽系 21・10 浅海明龍 
爆音暑し外米の石歯に挟まり 浜 27・11 北原利郎 
外米に次ぐ麦飯や金魚玉 鶴 28・9 刈谷敬一 
梅雨に耐えて噛むやテキサス米と云ふ 寒雷 29・7 加賀谷一雄

※食ってうまい日本の米ではないということは分かるであろう。

【闇米】

白き米もらうて夏暁汽車を待つ 現代俳句 21・12 瀧春一 
闇米を挙げられ背の子ゆりあげる 青玄 26・11 田中史郎 
駅近く春夜の女米分け負ふ 石楠28・4 原田種茅 
かなかなや負ひ来し米を道路に買ふ 石楠 28・7 夏目操 
雪かかる背の荷闇米らしと見る 石楠 29・5 郡司野◆ 
去年今年金齧るよな米買ひぬ 石楠 29・4 高橋蒼々子 
藤散るや三鬼がわたす米袋 雨覆 29・4 石田波郷

※先の粥や外米が物質的欠陥のある米であるとすれば、これらは精神的な欠陥のある米と言えようか。配給でない限り闇売買になるのであり、それは統制法違反の違法な状態にある米である。公然であり、国民の誰もが行っていたとはいえ違法は違法だ。だから、こうした闇米(米ばかりではあるまいが)を拒否して栄養失調の中で死亡した判事もいた。

※問題はこれからである。次の米はどのような属性を持つのであろうか。生活実感がよく分からないのである。これらの「米」の前につくキーワード(「保有」など)に何を感じろと言うのか。言葉で難解であるとは言わないが、それに対する感情が分からない。論理的には見当がつかなくはないが、感情の問題として解けないのである。救護米、相場米は嬉しいのか悲しいのか、憤激すべきなのかが不明なのである。年配の方にご教示願えればありがたい。

【保有米】

保有米さきて冬越す衣を得たり 浜 28・3 若林可
【供出米】

供出米積みて暗さのいよいよ濃し 万緑 22・1 中村一衛
【供出―供米】

完納の目鼻もつきて炉酒もり ホトトギス 22・6 片田石城 
供米のつづき雪山あらはなる 石楠 25・4 浅野清水 
南国の供米おそし冬かすみ 曲水 26・2 後藤圭秀 
明日供出新米の俵庭に光る 曲水 28・2 保々秋生

【配給米】

待春や壜にて米を搗くことも 俳句研究 22・4 安住敦 
寒の雨鞄に入るる加配米 道標 28・7 大橋登子 
沈丁は咲きあふれをり米は来ず 野哭 加藤楸邨

【相場米】

相場米運ぶ車を押しやりぬ 石楠 25・1 渡辺敬里 
相場米割当票を貼りし納屋 ホトトギス 27・2 本間一萍 
【救護米】

さむざむといただく救護米尊と 浜 29・1 川合華光

※少しだけ補足すれば、戦前から始まった、生産者(農家)が米麦等について自家保有量以外を公定価格で供出し、政府が消費者へ配給する食糧管理法に基づく制度で出て来る米の種類。生産者から見れば自家用に残されるのが「保有米」、供出されるのが「供出米」「供米」、消費者からみれば配給されるので「配給米」。

2013年9月6日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む12~食①~】/筑紫磐井

少し趣味に走りすぎたようだ。もっとも痛烈な敗戦の感覚は「食」を持って極まるはずだ。だからこんな風俗の中に社会性がにじみ出るとすればそれは「食」をおいてはほかにない。現代の食生活の環境からは考えられない句を少し引いてみよう。

特にどんな名句より、コンテクストが読み切れないために意味が不明である句が多い。実はこの時代は、社会性俳句、前衛俳句に先立つ時代であるために難解俳句はほとんどないはずなのだが、キーワードそのものに社会的な感じがどのようにこめられているか分からないための難解俳句は結構あるのである。

まず、理解しやすい句から見てゆこう。

(1)食の充実

【藷】

食ひあますてふ藷とても食ひ尽し 風 22・11 杉山岳陽 
甘藷食ひしあとの放心一茶の忌 浜 23・1 猿山統流子 
父と子の甘藷腹榾火音も無し ◆ 23・2 石川桂郎 
月十三夜芋腹すかす漫歩といふ 石楠 25・2 宮川虎獅猿 
甘藷を掘る一家の端に吾も掘る 天狼 27・12 西東三鬼 
ハイキング藷負ひし日の径辿る 石楠 27・12 水野草雨 
稲妻へ歩を向けしかば藷重たし 野哭 加藤楸邨 
夜更けて芋食ひ肝胆相照らす 鼎 青池秀二 
生きて会ひぬ彼のリュックも甘藷の形 径 原田種茅 
藷あまし生計もひとのなさけにて 人生の午後 日野草城 

【南瓜】

古妻の南瓜料理もあきにけり ホトトギス 21・3 小島草火 
南瓜負ひしあゆみとぼとぼ人は見む 浜 21・12 坂口波路 
南瓜持つて御礼などとそんなこと ホトトギス 22・1 本田泊青 
日々名曲南瓜ばかりを食はさるる 雨覆 石田波郷 
※戦後の食生活は、貧しく、飢餓に襲われると言いながら、こと「藷」(サツマイモ)に関しては飽食感に満ちている。藷を恋うという句もなければ、僅かな藷という句もない、大量で、持て余すほどの量を感じるのである。掲出の句はいずれも例外なくそうした物質的充実の句である(逆に言えば精神的な不足感が対比的に歌われているところが面白い)。「芋」とあるのも、サツマイモと解釈して良いであろう。もともと救荒食物の一種として作付が奨励され、荒れた土地にもでき、戦後の代用食の代表例である。

「藷」の句で最もよく知られているのは、「揺れる日本」には選ばれていないが、

さつまいもあなめでたさや飽くまでは 馬酔木 23・11 林翔 
である。戦後の藷の句としては必ず選ばれる作品である。これも文字通り飽食感に溢れている。
戦前の代表的歳時記である改造社の『俳諧歳時記』では、「芋」(サトイモ・ヤマイモ)の例句は芭蕉以来たくさん掲げられているが、「甘藷」(サツマイモ)は、項目があるが例句は1句もない。いうなれば、終戦期に代用食・飽食・精神的な不足感がないまぜになった本意の生まれた季語であったのである。そして、飢餓の時代が終わるとともにその本意も忘れ去られているようだ。

並べておいたが、南瓜も「藷」に準じて詠まれる。南瓜は江戸時代の古句が見られるが、終戦期には古い本意は忘れられ、甘藷と同じ本意が生まれているようである。これは南瓜の伝統ではなくて、南瓜の有りようが甘藷に似ているのである。その意味では写生の句に近いかも知れない。

そしてどういう訳か、藷の中に、馬鈴薯(ジャガイモ)が混じっていた。編集者の間違いであろう、全然違った内容の句となっている。

馬鈴薯掘るや救世主天より現れずに地より 浜 23・9 宮津昭彦

2013年8月30日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む11~年中行事その⑥~】/筑紫磐井

【母の日―5月第2日曜】

※アメリカでアンナ・ジャービスという婦人が亡き母親を偲び、日曜学校で白いカーネーションを贈ることを始め、これが最初の「母の日」となった。この会合が普及し、「母の日」はアメリカの記念日として5月の第2日曜日と定められたという。日本で始まったのは戦後と言うがはっきりしない。
この季語の味噌は何故「日曜」であるか、ということ。ジャービスの母親が熱心なキリスト教徒であり、日曜学校の教師であったため、娘が母を偲ぶ会を日曜学校の後に開いたためである。これを季語として用いるなら、その本意は「日曜学校」にあると思わねばならない。まして5月はマリアの月(聖5月は聖マリアの月)でもあり、マリアの純潔を白い百合が象徴している。だから白いカーネーションこそ母の日の象徴だ。

母の日の花つけられて農婦羞づ 馬酔木年刊句集 菊池明石 
母の日の花つけ(ら脱カ)るる妻を待つ 馬酔木年刊句集 河野柳泉
※母の日のカーネーションは、上の由来からしても白が本来の色である。それがいつの間にか、色のついたカーネーションを生きている母に贈ることになった。

母の日の母なく小さき善をなす 石楠 27・7 井上◆子 
母の日の母無き者等寮へ帰る 俳句 29・8 真那智富助
※母の有無でカーネーションの色が変わる風習は残酷なところもあると我々は思うが、これこそが本来の母の日なのである。我々の日常ではそれが逆転しているから残酷に見えるのだ、奇妙なことだ。そして一度逆転すると、日本独特の常識がまとわりつき日本的、小芝居的なドラマを作るようだ。

母の日の母にして厨出でずあり 俳句研究 25・8 軽部烏頭子 
母の日子を負ふ紐が乳房を十文字 風 25・8 何村馬酔木 
母の日の母に買ひきし蝿たたき ホトトギス 26・10 植村抱芽 
母の日の妻の昼寝や唇ゆるび 馬酔木 27・7 中村金鈴 
母の日のやはり馴れたる厨下駄 曲水 28・7 渡辺晃城 
母の日の母のこまかき柄を選る 青玄 28・9 桂信子 
母の日やなにしても母よろこべり 青玄 28・11 富山よしお 
寝息しづけき母の日の灯を消しにけり 俳句 29・8 宮村美代 
母の日は家に居らむと今日出づる 馬酔木年刊句集 児玉典子 
母の日の母に来し子の耳朶の垢 明日 富永寒四郎

※いかがであろう、ここにいたって母の日の母のディテール淡々とを描いている句が大半である。微妙な感情の揺れを小さな条件を描くことによって感じさせる。こうした小さな世界を描くのが俳句では得意である。その意味ではうってつけの季語が生まれたというべきであろう。

前の2つの季語(文化の日、赤い羽根共同募金)と異なり、文化の衝撃というものは余程少なく思える(実は以上述べたようにやはり大きいのだが)。誰も母を愛する句をよろこばないものはいない(と思う)からだ。5月となったら母の日の句を詠むのが無難である(母の日の句に難解も前衛もありっこないからである)。しかし、文学としてはどうでもいい句がたくさん並んでいる。

考えてみると、上にたくさん掲げた実際の母の日の句は、「母の日」が題というより、「母」が題となっていると言うべきではないか。しかも、なまじ「母の日」と言う共感を持ちやすい熟語にしてしまったために、次のような一句に永遠に及ばない状態を作ってしまったのである。

朝顔や百たび訪はば母死なむ 永田耕衣
母の日を作るくらいなら母の句を作るべきではないか。そうして日本的本意を多少脱却した、――多少足掻いている、母の日の句を眺めてみよう。

母の日の母のほくろよ悪い子です 氷原帯 28・7 浜田陽子
※前の2つの季語(文化の日、赤い羽根共同募金)のように発展する中で次第に詠まれていった露悪的な句というものは「母の日」では少ない。妙な倫理感が働いてしまうからである、そうした句としては上の句ぐらいが限度であろうか。

ところで、これらの話と全く関係ないが、

母の日の来ておとろへし牡丹かな 曲水 21・12 飯塚杏里 
母の日は薔薇の匂ひに明けにけり 曲水 24・9 三宅一正

※どうだろう、母の日に花を配したのだが、ここにいたって「母の日」は5月の上旬という季節感を表すためだけのものになってしまっている。

2013年8月23日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む11~年中行事その⑥~】/筑紫磐井

【赤い羽根共同募金―11月1日より1カ月】

※昭和22年に第1回共同募金運動が41県で実施(11月25日~12月25日。翌年第2回から10月1日から開始)された。募金をすると赤く着色した羽根がもらえる(寄付済みの印)ことからの命名で20世紀初頭からアメリカで行われていたコミューニティチェスト運動を導入したもの。街頭募金や町内会を通じて募金される。これもアメリカの文化運動の一つがGHQ関係者によって導入されたものであろう(サンマータイム同様GHQはアメリカで行われている行事が無条件で正しいものと思っていたし、昭和20年代の敗戦国の日本人もそれらが無条件に正しいものと思っていたのだった)。

落穂拾ひ愛の募金の補ひに 石楠 25・2 大沢芳禾 
台風の募金病者ら鳴る金を 浜 29・1 渡辺白桃子

※赤い羽根共同募金と言いながらそのまま「募金」が詠まれている句はそう多いわけではない。むしろ、①「赤い羽根を挿す」こととその②「街頭」での募金という従来日本にはなかった風習に注目する句の方が圧倒的に多い。

赤い羽根コートに挿しぬ秋の雨 春燈 26・1 藤巻志津 
赤い羽根挿せる子のパンの餡が見ゆ 俳句 27・12 下村槐太 
赤い羽けふ着おろせし袷かな  春燈 28・2 長谷川湖代 
胸に赤い羽根秋刀魚のおくび空へ抜く 俳句研究 28・4 山口六兵 
愛の羽根透視を了へて失へる 馬酔木年刊句集 児玉典子 
愛の羽根胸に四隣も共に貧し 馬酔木年刊句集 副島花愁 
吾子の胸に誰ぞさしくれし愛の羽根 馬酔木年刊句集 田尻稚稔 
愛の羽根朝の銀座の動きそめ 馬酔木年刊句集 秋元草日居 
愛の羽根胸に受けゐて秋暑し 慶大俳句作品集 槫沼 けい一 
つつましく立つ故愛の羽根もとむ 馬酔木年刊句集 大網信行

※胸に羽根が挿されている状態、むしろ一種の秋のファッション、衣装のような扱いをされているところが目立つ。最後の句のように、募金の印として受け取った羽根がいつの間にか購うものとなってしまっているのだ。快適なファッションはやがて、「愛の羽根」と言う言葉で題詠のように一斉に使われ始めるのも特徴だ。耳ざわりのよい言葉は季語として残りやすいのである。

ビルを背に募金の生徒らにも雪 石楠 25・3 西田紅外 
春塵はげし募金の子等のかすれ声 氷原帯 26・7 山木比呂志 
群衆は背高し赤羽根募金の子ら 天狼 27・1 堀内小花 
共同募金青年大股に素通りす 道標 27・1 三好奈津緒 
五月の街ゆきて募金に取りまかる 石楠 28・7 大場思草花 
※それにもまして、児童たちが学校の活動の一環として、学外に出て募金活動をする独特の風物としてとらえられている。おまけにそれらをシニカルに眺めている句が詠まれるようになっている。このように季語は発展することにより、普遍的な季語になってゆくのであろう。

※ちなみに例句を見てみると現在の歳時記の季節とは違う時期が詠まれているようだ。雪が降っていたり、5月であったり、春塵が舞ったり、秋暑であったり。季節がダイナミックに混乱しているこのような季語こそ、俳人の季節感覚が生き生きしている証拠だ。激動の時代に生まれた俳人の至福といわねばならない。


2013年8月16日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む10~年中行事その⑤~】/筑紫磐井

間に余計なサマータイムが入ってしまったが、また年中行事に戻ってみる。以下祝日等で当時最もよく詠まれたものをあげて、その詠み方を点検してみよう。初めて生まれる季語がどのように本意を獲得していくかが分かるであろう。

【文化の日―11月3日】★

※国民の祝日に関する法律によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」とされ、この日は戦前の明治節(明治天皇の誕生日)、祝日法の審議の過程で明らかなように、戦後の日本国憲法の公布日となっている。

文化祭戦盲の将老静か 雲母 24・3 三浦甫舟 
文化の日後の月夜となりにけり 曲水 25・1 佐野青陽人 
天皇は篤学にまし文化の日 ホトトギス 25・3 川田信生 
文化の日ひとの復活うつくしく 曲水 26・4 潤月 
菊活けて文化まつりの事了る 曲水 28・2 遠野闘夢 
吾子の画の選ばれ並ぶ文化の日 馬酔木年刊句集 希代一閑子 
文化の日一冊の書を妻にも買ふ 馬酔木年刊句集 鈴木青洋

※戦後の日本人にとって文化は羨望であったからそれらが率直に詠み込まれた句が多い。従って俳句の特質と言うよりは、戦後日本の羨望と見てよいであろう。後述するようにこの季語は広がりを持って行くのだが、その前に、先ず多くの人が使いたくなるような俳句らしい、新しくて時代性のある季語であることが必要であった。

火鉢に火入れて文化の日をひとり 春燈 28・2 山澤雉子亭 
文化の日吾に悔なく麦を蒔く 雲母 29・1 向井老樵 
職工として父老い給ふ文化の日 馬酔木年刊句集 石井博
※特に従来、文化とは縁のなかった人々や生活が文化に照らされるというしみじみとした感慨は如何にも俳句にふさわしいものである。前回も述べた境涯性とかかわり合うものである。「文化」を俳句で詠むのは難しいが、「文化の日」が俳句の受容度を高めているのである。

文化の日無為に果てたることを悔ゆ 石楠 28・1 佐久間敏雨 
ジェット機の爆音高く文化の日 雲母 28・1 大関馬骨 
文化の日ほろほろ黒き飯食らふ 暖流 29・1 中島南映 
※一方で、文化と対照的な現実があることも事実であり、文化の日と配合することによりそうした矛盾を摘出する役にも立つ。これはむしろもう一つの流れ、社会性俳句につながるものである。

文化の日人は眼鏡を飾とし 俳句研究 25・2 佐野青陽人 
パチンコの玉流れ出て文化の日 俳句苑 27・5 林屋清次郎

※こうした視点が一層深まると、諧謔味にあふれた俳句が登場することとなる。戦後俳句と言っても、普遍性を帯びた句となってゆくのである。

※以上眺めたように、季語の中自身に発展する契機があることが必要なのである。

ちなみに、11月3日、新憲法公布の日を詠んだ句が「揺れる日本」のなかで別に掲げられている。現在の憲法記念日(5月3日)ではなく、文化の日(11月3日)=新憲法公布の日と思って読むと別種の本意が生まれてくるようである。ちなみに青邨は「新憲法公布の日」を季語と思って詠んでいたようである。

【新憲法公布】

秋陽満つ日本歴史の曲り角 太陽系 22・1 日野草城 
教授達髪白く憲法祭典の日 花宰相 21 山口青邨

文化の日と合わせて鑑賞することによりとりわけ面白さが増すのではなかろうか。

2013年8月9日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む9~年中行事番外~】/筑紫磐井

今回は年中行事の連載を1回飛ばして特別な題を紹介する。夏にふさわしい題であり、かつ昭和20年代ならではの題であり、その前にもあとにもぴったりした時代はないという意味でここら辺で紹介しておいた方がいいと思うからである。よく政治家の趣味でこの制度が時々提案されるが、その時はどんな事態になるかはこのわずかな期間の実験しかないのである。例句を見て想像していただきたい。

(今回取り上げたのは、24節気が一年の枠組みであるのに対して、サンマータイムは一日の枠組みであり、絶対的に見える一年や一日の枠組みが、恣意的にこのように変わってしまうと言う例を見て貰いたかったからである。結局は、サンマータイムを採用している米軍が、その方が日本で生活するのに暮らしやすかったからであり、日本人の内的必然性ではなかった。だからサンマータイムは、サンフランシスコ条約締結と共に去っていったのである。占領時代を代表する最もよき風景である)

【サンマータイム】

サンマータイム野良にせがれて刻しらず 石楠 23・8 山口止耕 
サンマータイムうしほの如く朝来る 曲水 23・8 田中一荷水 
夏時間に入るやえにしだ黄に団る 暖流 23・8 瀧春一 
夏季タイム歯磨粉浮く水を捨つ 寒雷 23・10 齋藤道草 
サンマータイム王者のごとく時計の針 曲水 23・11 遠山純 
夏季時間はてたる朝の潮みてり 雲母 23・12 岩津元三 
夕ながく樺太に似て夏時間 ホトトギス 24・8 伊藤雪女 
サンマータイムてふもの長し松の心 曲水 24・7 佐野青陽人 
サンマータイム病躯守らんとして眠る 同 二見ひろし 
憂ひありサンマ―タイムいつまで昼 天狼 24・11 塚原巨夫 
夏時刻針を戻してまた読みぬ 曲水 25・12 森田月亮 
夏時間十指洗ふを始めとす 麦 26・4/5 豊島年魚 
サンマ―タイム牛癇強き眼を上げる 石楠 26・9青木彩夫 
夏時間芝の青さに飽きにけり 春燈 26・11 龍岡 晋 
夏時間日だかき風呂を溢れしむ 青玄 同 榊年明 
サンマ―タイム南瓜抱へし妻と会ふ 天狼 27・11 藤墳泉城 
九月蚊帳サンマ―タイム終りけり ■■集 日野草城


※日本の夏時間は、昭和23年から26年まで採用された制度で、5月初め(24年は4月初め)から9月初めまでの間、中央標準時より一時間進めた時刻(夏時刻)を用いるものとする制度である。従ってサラリーマンや学生には、出勤・登校時間が1時間早まることになる。退社も1時間ずれるので、帰宅後の明るい時間が続くわけである。

結局この題では朝を詠むか、夕方を詠むかしかない。昼はサマータイムの特色は何もないからである。その意味では、夜の時刻なのに昼の風景というのが俳諧的で面白いようで、例句にもそうした句が多い。

ちなみにどの句もサマータイムを夏の季語として使っているが、実際は旧暦の歳時記に合わせれば、晩春から仲秋に該当する。季語ではないのである。しかしどの作者もそんなことを無視して夏の題として使っているようである。

驚くべき事実がある。サンマータイムは、通常の標準時よりずれるわけであるから、その差がある一点で矛盾を来す。サンマータイムの初日は深夜零時がずれこむから一日23時間となるのである。逆に最後の日はずれこんでいた深夜零時が戻るから一日25時間となるのである。昔より今の方が人はあくせく生きているから、初日と最終日で意外な金儲けの機会が生まれるかも知れない。



2013年8月2日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む8~年中行事その④~】/筑紫磐井

(4)勤労感謝の日

さてここで紹介するのは不思議な勤労感謝の日である。憲法記念日が文化の日に化けてしまった(前回参照)以上にこの勤労感謝は不思議である。

○鈴木(里)委員 ただいま佐藤委員から御発言がございましたが、この勤労感謝の日であります。そもそも衆議院案といたしましては、勤労感謝の日という十一月二十三日は、新穀祭、新穀に対する感謝の日ということが原案であつたのであります。それが感謝の日になりまして、はからずも六月十五日の衆参合同打合会におきまして、私はおりませんでしたが、勤労という字を羽仁君の動議によってつけたというお話であります。私といたしましては、これは国民全般が、新穀並びにすべてのことに感謝する意味合のもとに感謝の日を設けるのが至当でありまして、単に一階級である勤労者に対して感謝をするということは、いたずらに階級意識を助長するような感を深くしますので、どこまでもこの「勤労」という字を削除することを主張するものであります。 
○佐藤(観)委員 鈴木君から大分誤解された点があると思います。勤労ということは、何も労働者だけが勤労者ではないので、われわれも勤労しているのであります。遊んでいる人に対して勤労というだけで、私らは勤労ということをどうしても入れなければならないというのではなかつたけれども、あなたの言われたようないろいろな意見が出て、これに対して佐々木君あたりからも大分議論が出、そんならどうだろうというわけで勤労感謝の日としたのでありまして、皆さんの了解がつけば原案がいいし、これが絶対にいけないというならば、これについてはそうこだわらなくてもいいと思います。 
○玉井委員 私は今の鈴木さんの御意見には反対なので、「勤労」という字自体が、あってもなくてもいいというのではなくて、新穀に感謝するということは、むしろ私どもよりは、かえつて鈴木さんあたりの方が専門でいらっしやるのでありまして、日本の国の食糧という問題を非常に深く買っておった時代からの意味であって、つまり日本の国の中における一番大切な点は、農業の点における労働に対する感謝の日であつたはずだと思う。單に抽象的に米に感謝するというのじゃないと私は考えておるのであります。 
むしろそういう意味からやはり「勤労」という言葉があることの方が正しく理解されるのじゃないかと考えております。「勤労」という文字があるから勤労階級であるというふうにお考えになるのは、むしろ私は思い過しでいらしやるのではないかと思う。一体勤労しないで文化生活というものがあり得るかということになって来る。今佐藤委員からお話もありましたように、勤労自体にわれわれの価値を認めなければいけないと考えておるのであります。ぜひともこの点についてはむしろ「勤労」という文字を、階級的な意味ではなくて、勤労の価値自体における認識を得させるという意味においても入れたい。 
それで先ほどお話のありましたように、メーデー自体がはいっていないという意味から言っても、メーデーはどちらかといえばああいう形の出方をしておりますが、これはむしろ農民における勤労というような意味と解されても、なお一応理解はできるし、あった方が正しいというふうに考えております。 
○山名委員 私はやはり「感謝の日」にしたい。というのは、鈴木委員も言われたように、大体十一月二十三日がどうして新穀祭であったかということの根本原則から申しますと、これは物に感謝するというのが建前でありまして、大体今日までの日本人の一番欠けておることは、物に対する感謝の念が少い。そういう意味で精神面の一般勤労という感謝ではなしに、この日である限りは、少くとも物に対する愛とか感謝ということが建前でありますから、その本則に則って「感謝の日」とし「勤労」という字を削除したい、こういう趣旨で鈴木委員に全面的に賛成いたします。 
○馬場委員 私は原案に賛成するものであります。私先ほどちょっと席をはずしましたので、その間論議されたかと思うのでありますが、すでに十一月二十三日を前に祝祭日で体驗した方々の頭で判断すれば、これは新嘗祭、新穀に対するお祭りの日、こういうことはすぐ印象づけられるのであります。しかしこれから先、若く育ってくる、新しく日本を背負って立つ人のために、先の先を見て、今考案されておるこの祝日に対しまして、ただ「感謝の日」というだけではわからない。この日を特に選んだということは、それだけで一應今の頭からいえば新穀に感謝し、農民に感謝し、また農民の勤労意欲を向上させていくというような国民的な運動によって、この日が選ばれておるということになりますが、これは日本の今後を見ましても、ただ農民の分野だけに感謝をするというばかりでなく、国民の勤労結集によって国家の再建が成り立つということになりますれば、やはりこの日を新穀の感謝と同時に、一般の勤労者に対しての感謝の意を含めた方が、より明確であり、より意義が広義に解される、こういう意味でこれに私は賛成すると同時に、先ほど佐藤委員からも発言がありましたが、この日がここにまとまつたことは、最近における二回の衆参両院文化委員の合同打合会において一応成案を得た結果でありまして、そのときに各党の方々が集まって、ここまで話合いがついたのであります。従って御列席の各委員から御説明をいただくならば、よりうなずいていただける点があるじやないか、かように実は私考えておったのであります。 
 それからもう一つ国民の祝日ないし国民の日という名称のことが出ておりましたが、これは衆参両文化委員の委員長と専門調査員に一任するということになっておりまして、その打合せの結果が発表されておらない。従ってそれがどういう打合せになったということを聴いてからにしたい、かように考えております。 
○高橋(長)委員 本問題につきましては、皆さん方のたいへん御熱心な御意見の発表がございましたが、元來われわれ文化委員会の過去を考えますと、他の委員会と違って、すべての議案が笑って和やかなうちに解決されておるという特色をもつておりました本委員会において、たまたまこの祭日の一項のために、お互いに採決とか、あるいはまた表決によって、相爭ってきめるということは避けたいと私は思うのであります。つい最近、観光小委員長をきめる場合の前例もあります通り、これは理事会にお任せして、平和裡に笑って解決したいと思っておりますが、いかがでありましよう。 
○佐々木(盛)委員 しかし、もともと衆議院案は「勤労」という字がはいらない「感謝の日」ということで満場一致賛成したのです。しかも十一月二十三日という日の起源が新穀祭につながっておることは御承知の通りであります。しかるに今のお話を伺いますと勤労ということのみ強調され、もとの祝祭日を設けようとした十一月二十三日の起源に対しては、何ら重要視されていないようになっておると思うのであります。そこで佐藤君も「勤労」という文字にさほど固執するものでないとおっしゃっておられますし、また従来の衆議院文化委員会のいきさつから考えて、これにさほど拘泥すべきものではないと思います。また「勤労」という文字があっても差支えないことは、私ももとより認めます。お説はごもっともであると思います。しかし、なくて済むことであり、しかもないことによって満場一致で解決するなら、なくて済ました方がいいと思います。 
○原田委員 動議を提出したいと思いますが、その前に、私は意見を述べます。佐々木君の言った通り、「感謝の日」というのは、六月十二日の衆議院案でありまして、われわれは「感謝の日」でいいということになっておった。たまたま六月十五日の衆議院との合同打合会において、私はそのとき中座しましたが「勤労感謝の日」ということが初めて浮び上ってきた。今佐藤さん、あるいは馬場さん、玉井さんなどからいろいろ意見が出ておりますけれども、私はかえつてそれが狭義の意味であると思う。馬場さんは、それは広義であると言われるが、私は反対だと思う。これはただ勤労ということでなしに、あらゆる森羅万象に感謝する意味だ、それでいいと思う。それで今ここで採決されて、その採決が多数であつた場合には、少数の者は欣然これに同調する、こういうことで採決されることを望みます。 
○高橋(長)委員 文化委員会の本旨に鑑みて、平和裡にこれがきまるならば、私の動議を撤回しても差支えないと思います。それがかえって本委員会に今までと逆行するような行き方では、撤回することはどうかと思うのですが、どうせ採決できまることならば、代表者同士で話をつけた方がりっぱであり、お互いに気持がいい。同時に国の祝祭日をきめるのに、多数少数を争ってきめるのは、ほかの問題と違って国の祝祭日の決定のために惜しむので、そこで私は申し上げるのです。 
○小川委員長 休憩前に引続きまして会議を開きます。 
 各党代表の理事で円満裡に事を進めたいといろいろ諮りましたが、各党には党の立場があるので、結局その立場を固執されまして、円満な結論を見出すことができなかったので、先ほど原田委員から動議のありましたように、表決でもってこれを定める。但し敗れた方も多数の意見に欣然同調するということにして、あとに何らの濁りも残さないということにこの委員会を運びたいと思います。(拍手) 
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕 
○小川委員長 それではさようにいたします。 
 原案通り六月十五日案の「第九、勤労感謝の日」ということに御賛成の方の御起立を願います。 
    〔賛成者起立〕 
○小川委員長 起立多数。よって原案通り決定されました。 

もともと11月23日は、皇室の行事であった新嘗祭であったが、これを皇室の色を除いた新穀祭と提案したのである。それを「感謝の日」(新穀に感謝し、農民に感謝し、また農民の勤労意欲を向上させていく)としたところから勤労感謝の言葉が生まれたのである。一方で、国民の祝日から労働祭、メーデーが除外されたことからここに勤労の言葉が入ってもよいという意見が出始めたのであろう。「敗れた方も多数の意見に欣然同調する」「平和裡に笑って解決したい」という委員長らの発言は面白い。俳句の賞の選考委員会でよく見られる風景だからである。

 ただ、「勤労感謝の日」という季語を使う場合になぜこれが秋であるのかを考えれば、新穀に感謝し、農民に感謝し、また農民の勤労意欲を向上させていくという発想は「本意」に適っていることは間違いない。

(5)花祭り

没になった面白い祝日候補を挙げておこう。これほど宗教色がはっきりしている祝日がなぜ候補にあがったのかはよく分からない。


○佐々木(盛)委員 「花まつり」を祝祭日に指定の請願であります。 
 聞くところによれば近く国祝日が更新される模様でありますが、われわれ仏教徒はこの際ぜひとも四月八日花まつりを祝祭日に設定されますよう念願してやみません。仏教が渡来以後千数百年にわたり、宗教としては言うまでもなく、文学に、美術に、教育に、その他種々なる方面に寄与するところの多かつたことは、何人も否定するを得ない事実であります。しかるに仏教は釈迦に始まったのでありますから、仏教の影響と称するものは、ことごとくこれ釈迦その人の感化といっても誤りがないのであります。実に釈迦はわれわれ人類にとつて世界的聖者の一人でありまして、その感化は誕生地の印度を越えて広く洋の東西に及んでおります。従って釈迦の誕生を祝う行事が後世永く伝わってきたのもけだし偶然ではないと思います。 
 つきましては、この趣旨を御賢察くださいまして、何とぞ花まつりを祝祭日に御指定ありますよう、長野県仏教会長半田孝海氏を代表者として請願を申し上げる次第であります。何とぞ御審議の上、御採択あらんことをお願い申し上げます。

2013年7月19日金曜日

文体の変化【テーマ:昭和20年代を読む7~年中行事その③~】/筑紫磐井


(1)紀元節

前回から無味乾燥な国会の議事を取り上げている。しかし、読んでみると今日とは違う血沸き肉躍るやり取りもあったようである。

紀元節は散々議論の末当初の祝日からは除外された。その後復活したのだが、どのような理由で排除されたのかは知っておいて悪くはないであろう。羽仁五郎(懐かしい!)のような主張が強く受け入れられた時代だったのである。

○徳川頼貞君 私はこの際、我々委員会の中で、その外に議せられた紀元節の問題について、一言述べさして頂きたいと思うのであります。これは、この中に紀元節が入れられなかつたという点は、誠に遺憾に堪えん次第であります。我々は紀元節というものが、是非残して頂きたいということを述べたゆえんのものは、紀元節の起原が、いわゆる非科学的であるというような考え方も行われていたのでありますが、私共といたしましては、どこの國と雖も、その歴史を遡つて行くならば、必ずや神話に発生しないところはないと思うのでありまして、今日までその神話を歴史と、青史と見ていたという点に問題が存するのではないかと思います。従って神話を神話としてこれを伝え、そうして神話として新らしい国民にこれを伝えるのには、差支えないのじやないかと考えたいのであります。又同時に、神話の中には、その国の国民感情というものが現われておる。従ってその点も考慮して、我々の祖国の始まりを考えるということは、我々国民の非常な熱望であり、又感情であると当然思つたのであります。併しながらその点は種々な事情によりまして、その方面に容れられない結果となりましたことは、誠に遺憾に堪えんのでありますが、この際我々が、如何に紀元節というものを考えていたかということを一言附け加えさして頂きたいと存じます。 
○羽仁五郎君 今の問題ですが、二月十一日、紀元節が、この新しい国民の日に入れられなかつたことについて、私共は、これは全く我々の自主的な判断によつて、これを除くべきものであると考えたのであります。この点は明らかにして置きたいと思います。今も御披瀝がありましたが、紀元節が神話であるという考え方も、学問的には成立し難いように考えます。それで神話には、御承知のように、自然に発生した民族の神話と、それから後に政治的な意図を以て製作された製作神話とが、学問上分けられなければならんわけでありますが、紀元節などを含みます日本のいわゆる神話というものは、そういう意味で自然に生れた神話でなく、後世になって一定の政治的意図を以て製作された神話であるということは、学界において大体定説になっておるものであります。従ってこの紀元節を作ります日本の神話に、当時の日本の国民の感情が含まれていたものでないということも明らかであります。これは当時のそういう政治的な意図が含まれていたのであつて、国民の意図が含まれていないもので、紀元節が行われていたのも、明治五年に始まり、明治七年に俄かにそれが制定されて、その後暫くの間行われ、且つ強力にそれが強制されておつたために、現在国民の感情には滲み込んでいるわけでありますが、併しこれは本来の感情でもなく、又非常に長い間の国民感情でない。我々が今日以後、新憲法によつて、そうして新らしい国民の日によつて、啓蒙の努力を怠らないならば、新らしい国民感情が必ず起って来るものであることを確信しております。
徳川は「種々な事情によりまして、その方面に容れられない結果となりました」といい、羽仁は「私共は、これは全く我々の自主的な判断によつて、これを除くべきものであると考えたのであります。

この点は明らかにして置きたい」と言っている。この間に介在したの(その方面)は誰であるか、興味深いものがある。

(2)子供の日

子供の日は、はじめ政府の案にも入っていなかった祝日だが、国民の声に押されて登場した。内容そのものより経緯の方が面白い。

○松澤兼人君 「こどもの日」を祝祭日に指定していただきたいという請願でございます。同じような趣旨の請願が多数出ておりますが、特に御考慮をお願いしたいというわけであります。祝祭日が改正されまして、新しく別個の観点からこれが考慮されるということになりましてから、從來児童文化運動の活発な神戸市の方面におきまして、児童並びに児童に接しております人々の中に、ぜひ「こどもの日」を設けてほしいという声が、だんだんと起つてまいりまして、神戸児童文化連盟におきまして、これを正式に取上げることになつたのであります。ぜひ祝祭日の中に「こどもの日」を制定されたいていう請願であります。請願者は神戸児童文化連歴で委員長坂本勝君でありますが、神戸市内の児童約二万七千名の者が署名をいたしまして、請願の趣旨のことをお願いしておるわけであります。 
 従来日本の子供が家庭的には一応愛せられておりながら、社会的には、まだ十分に尊敬されておらないというような状態にありまして、子供の状態が社会的に多少の関心をもたれるようになりましたのは、明治以後のことといつてよろしいのであります。それ以後子供の社会的地位ということにつきまして、だんだんとその関心が高まりつつあるのでありますが、特に新しい憲法が実施せられるこの機会に、さらに子供の社会的な位置というものを明確にするとともに、国民全体が子供の社会的地位につきまして常に考え、その幸福を助たる機会をもち、児童の福祉増進に役立たせるために、祝祭日の中に「こどもの日」の制定を希望するわけであります。それでは「こどもの日」をいつにするかということにつきまて、神戸児童文化連盟において神戸市内の学識経験者約百名にアンケートを発しましたところ、多数が五月五日を希望するという回答であつたのであります。五月五日は端午の節句として男のものと考えられておりますが、男女平等の観念からすれば、これが必ずしも男だけに限るわけでもなく。またこの日が尚武の節句として面白くないという印象を与えておりますが、これを切りかえて五月五日を平和な国家を建設するという意味におきまして新しく子供を中心とした平和的な日として考えていくことが適当でないかというふうに考えられるのであります。以上の理由によりまして、五月五日を「こどもの日」として祭祝日の中に制定くださいますよう、神戸市内児童約二万七千名の署名をもちましてお願いする次第であります。 
○羽仁五郎君 今の五月五日については、それは五月五日の日が、やはり現在日本の国民の中に武を尚ぶ日として残つておるので、私は五月五日という日に対しては、やはり反対しなければならないと考えておるのでありますけれども、併しそれに対してこの新らしい意味を、今三島委員の言われたように与えられる。そういう意味で、子供の人格を重んずるという趣旨が新しく出て来るならば、第一條に述べられておるような、新らしい美しい風習を育てるという意味で、この五月五日を、今までのいわゆる端午の節句という意味で、いわゆる尚武の節句という意味でなく、男の子も女の子も、この日に人格を認められるという、新らしい日ができるものとして賛成をいたします。そういう意味で、この子供の人格を重んずるという、人格のことが制定の趣旨において最後まで守られるようにお願いいたしたいと考えるのであります。

子供に陳情権があるなんて画期的な解釈である。大人にもの申したい子供は多いことと思うが、よろしく陳情すべきである。この経緯を見れば、世の中に不可能なことはないはずだ。

(3)文化の日

文化の日は前に述べた通り意外な経緯で生まれた。11月3日を祝うことは支持されていたが、その理由が意外な経緯をたどることは忘れられている。文化の日は祝日の中でもっとも俳人に好かれている季語だけにその選ばれた理由は知っておいてよい雑学だ。

○徳川頼貞君 只今来馬さんからお話がありまして、十一月三日を今度「文化の日」にいたすということにつきまして、元来十一月三日は、我々の間におきましては、只今もお話のございましたように、日本国憲法の発布された日であるので、その意味において、十一月三日を記念したいというような気持を我々は持つていたのでありまするが、衆議院の方で十一月三日を「文化の日」にして、そうして五月の三日を「憲法記念日」にしたいという話もありまして、我々の方としては、十一月三日を「文化の日」ということに、衆議院の意向を尊重しまして、そのことは延いて、結局ここにもございますように、憲法の精神たる自由と平和を愛することになる。又それによって文化を進めることになるから、この際これを「文化の日」にするというわけでありまして、勿論これに対して異議はないのでありますが、一応我々がどういうふうに考えていたかということを、この際申述べて置きます。 
○委員長(山本勇造君) この日が憲法記念日だというのは、ピンと誰にでも分るのでありますけれども、「文化の日」と言いますと、どういうわけで「文化の日」だかという疑念があるようであります。併しこの日は、憲法において、如何なる国もまだやつたことのない戦争放棄ということを宣言した重大な日でありまして、日本としては、この日は忘れ難い日なので、是非ともこの日は残したい。そうして戦争放棄をしたということは、全く軍国主義でなくなり、又本当に平和を愛する建前から、あの宣言をしておるのでありますから、この日をそういう意味で、「自由と平和を愛し、文化をすすめる。」、そういう「文化の日」ということに我々は決めたわけなのです。併し心持からすると、本当は我々は今もなお実際憲法記念日にして置きたいのでありますけれども……それでは次に移りまして「勤労感謝の日、十一月二十三日。」。


戦後の祝日で最も紛糾した「勤労感謝の日」は次回に紹介する。