一.〈はまなすと古い未来図だけがある〉
これは福田若之の第一句集『自生地』所収の句である。解釈の前段階として、この句に用いられた単語の意味合いと、この俳句の鑑賞に大きな意味をもたらすと思われる、掲句の入った連作の前文を参照する。まずは単語を確認する。
この句の季語は「はまなす」であり、講談社の『日本大歳時記』には「バラ科の落葉低木(略)関東以外の砂浜の砂地に自生するが、なかでも北海道の群落に咲く美しさは、真青な海を背に大胆でおおらかである。」とある。ここでは、季語の「はまなす」の背後に海の存在を認め、はまなすと海をイメージの連関として捉える認識を共有しておきたい。
「未来図」に関しては、三省堂の『大辞林』には「未来を予測、あるいは将来のあるべき姿を描いたもの。」とある。「未来図」という言葉には科学の発展に対する純粋な憧れが含まれ、こうしたイメージの作品の代表例として、『鉄腕アトム』と『ドラえもん』が挙げられる。それぞれの作品で主人公であるアトムとドラえもんの誕生日が明確に設定されている(アトムは原作では二〇〇三年四月七日生まれ、ドラえもんは二一一二年九月三日生まれ)ことを鑑みると、未来図という単語には「未来の具体的な時点を予測し描いたもの」という意味が含まれていると考えても問題はないだろう。続いて前文を参照する。
書かれたものはいつか消え去る。消え去ることは、書くことにあらかじめ織り込まれている。書くことは、書かれたものがあとかたもなくなることによって、ようやく果たされる。だからこそ、書くことを真に肯定するために、僕は、まず、この消失を肯定しなければならなかった。
この前文において大切なのは、福田が書くことを肯定するために、「古い未来図」から失われてしまった「なにか」をも肯定しているという事実である。失われてしまった「なにか」とは一体なにであるのだろうか。前置きが長くなったが鑑賞に入る。
不思議な句である。はまなすの生えている海辺を写生した句のように見えるが、その読みを濁らせるのが、この句の特徴でもある「古い未来図」と「だけ」である。
「古い未来図」から見ていく。「古い未来図」の「古い」には少しだけニュアンスの異なる二通りの解釈の方法がある。一つには、その未来図が描かれてから長い時間が経過しているという意味での「古い」である。二つには、アトムの時代設定がもう過去のものとなってしまっているように、その未来図で描かれた時点が既に過ぎ去ってしまったという意味での「古い」である。「未来図」を修飾する「古い」においては、前者が後者をも満たすことも多いであろうが、SFを一種の未来図と捉えた場合、ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』のように、前者を満たしながら後者を満たさないものも存在するため、便宜上の区別を設けた。もちろんこの二つを峻別することはできないが、この「古い」は後者のニュアンスが強いのではないかと考えたい。それは、後者の意味が唯一はたらく被修飾語の「未来図」という名詞の特殊性と、「古い」ことを断定するような限定用法にある。これらによって導かれるのは、想像で描かれた「未来図」と景色を見ている存在にとっての「現在」(俳句内世界が現実世界と異なるかもしれないという意味で、「現在」と書き表す)は異なっていたこと、すなわち「未来図」は間違っていたという客観的な事実なのである。未来への期待を図や絵として象徴する「未来図」が間違っていたと書く福田は、楽観的・理想的に「未来図」に描かれていた虚構の「現在」と、その理想像から「頽落」(前文から考えるに、福田はこのことを肯定しているため)してしまった実際の「現在」とのギャップをアイロニカルに穿つ。そして、次に語る「だけ」とはなにが含まれなにが排除されるかの議論の先走りとはなるが、「現在」の未来をも否定した上で、未来が存在しなくなることを肯定しているのではないだろうか。
続いて「だけ」について考えていきたい。「はまなすと古い未来図だけ」という言葉には、一体なにが含まれなにが含まれないのだろうか。そもそも、この俳句に詠まれた世界は現在の世界で、海辺で作中主体に把握される存在が「はまなすと古い未来図だけ」なのだろうか。それとも俳句内の世界に存在するのが「はまなすと古い未来図だけ」なのだろうか。この二択の問題を確定させる、「はまなす」以外の生物や「未来図」に代表される人工物が存在するかどうかの判断は難しい。そして、これらの生命や人工物の存在の是非の問題は最終的に一つの問題を導く。それは、果たしてこの俳句の世界には人間が存在するのかどうかという問題だ。しかし、現段階でこの問題に答えを出すことはできない。それを考えるためにもう一つの俳句を見ていく。
二.<玫瑰や今も沖には未来あり>
これは中村草田男の第一句集「長子」所収の句だ。この句を一読すれば、福田の句はこの句を下敷きにしたものであることが見て取れるだろう。
愛媛新聞社の『中村草田男 人と作品』には、「玫瑰とその先の雄大なる海原を見て、少年時代の希望に燃えて眺めた風景をダブらせ、前途洋々たるものをかんじたのであろう。」という松本博之の句評がある。草田男が、清国領事の息子として厦門で生まれたことや、京都帝国大学で哲学を学びキルケゴール研究の第一人者とされた従兄の三土興三からの影響を受けていることも、この句評を裏付ける。それでも解釈の上での問題がある。それは「沖には今も」という表現だ。「沖には今も未来があ」るのは「なにと対比されているのか」「なにに加えてなのか」を考えていく必要がある。
東京堂出版の『現代俳句の鑑賞事典』の奥坂まやが書いた興味深い指摘がある。少し長くなるが引用する。
この「今も」は、単に一個人の思いにとどまることなく、私たちの文化の根底に流れるものにまで届いている。私たちは、北方からであろうと南方からであろうと、この島へ海を渡ってやって来た民族なのだ。(略)母郷としての海の記憶は、未だに色濃く民族の無意識のうちに宿っている。私たちは海原へ熱い思いを捧げてきた。海境という古代以来の言葉に象徴されるように、海の沖は死者と生者の世界の境、時が生れてくる母胎でもあり、還ってゆく故郷でもある。
単に生命が循環する場所としてだけでなく、時間の母胎すなわち民族の生まれた故郷としての、壮大な沖が描き出されている。この島々へやってきた人々が暮らしてきた時間の中で、民族(アイヌ民族・大和民族・琉球民族)や日本という概念が作り出されたと述べているのである。今回はこの解釈に加えて、沖の向こうに存在する外国から渡来した諸文物を考えたい。中国からは近世以前に、漢字、仏教、律令制度、漢詩、儒教などが、西洋からは近世に、火薬や鉄砲、キリスト教が伝来した。(草田男は娘の弓子からは「父はまぎれもなく洋魂和才の人であった」と、山本健吉からは「キリスト教と草田男さんの文学の発想は切り離しがたい」と評されているが、宮脇白夜の『中村草田男論:詩作と求道』では、この句ができた昭和八年の頃は「未だ〝求道以前〟」であり、句のなかにキリスト教への関心は見られないと指摘しているのでここでは論じない。)近代以降は、鉄道や電信の科学技術、洋服、近代化のための思想などが伝来してきた。これを意識した上で、「や」で切られた「玫瑰」を見てみるとどうだろう。陸=日本の存在としての、沖=海=外国と対比される存在としての「玫瑰」が浮かび上がってくるのではないだろうか。
以上の議論から、「沖には今も」という表現では、沖=外国には過去も今も未来があること、そしてその裏返しとして「玫瑰」に象徴される陸=日本には「今」は未来がないことがわかる。ここで一つの問題が生まれる。日本の「未来」は失われてしまったのか、それともこれから生まれていくのかという問題である。これについて、草田男と娘の弓子の文章、十一歳の草田男の日記を見ることで議論を進めよう。
「日清戦争の厄を凌ぎ日露戦争の厄を凌ぎ国民全体が清潔な勇気に満ちていた当時(中略)菅沼先生は単なる小学校教師であられたが、全心全身がそういう時代精神の権化であられた。」
『私の先生』 中村草田男
「政治的・社会的姿勢において父に一貫していたものは何かと言えば、それは「ナショナリズム」であったと思う。(略)それは基本的に明治の人間としてのナショナリズムだったと思う。」
『わが父 草田男』 中村弓子
「国へかへつたら身体をきたへ、(略)先生(菅沼先生 筆者注)の云つて居なさる精神のりつぱな人になり、りつぱな軍人になり、軍にてがらをして此の先生を安心させるつもりである。」
草田男の日記
娘の弓子が「明治のナショナリズム」と呼んだものと草田男が「清潔な勇気」と呼んだものは似た種類の観念であるだろう。それは漱石の研究者であった江藤淳が『明治の一知識人』というエッセイのなかで「明治文学の特質は作家の国家への献身だつた」と記したものであり、その本質は草田男の日記にも表出した、欧米列強の帝国主義に遅れまいとする富国強兵への理想であった。関東軍が満州事変を起こした二年後の昭和八年(一九三三年)に掲句が詠まれていることも印象深い。これらのことから判断するに、日本の「未来」はこれから獲得されていくものだという認識が掲句にあったと考えることが適切であろう。
三.「はまなす」と「未来」
福田の句の世界はいつのどこで、そこに人間は存在するのかどうか、なにが失われたのかという問題を解決するために、草田男の句を見てきたのであった。福田の句が草田男の句から作られたと仮定すれば、この二つの句は空隙があったとしても時間的には連続していると考えてよいだろう。ここで現在の日本や世界に「はまなすと古い未来図だけ」しかないわけではないことを踏まえたうえで、この「だけ」という言葉に忠実になるならば、福田の句の世界は現在よりも遥か未来ということになるだろう。以上のことをまとめると、この世界には四つの時代があり、それは ①奥坂まやの指摘した時代:人がやってきて日本という概念が生まれた ②草田男の句の時代:外国には「未来」が存在するが、日本には「未来」が存在しない(これから獲得される) ③二人の句の間の時代:外国にも日本にも「未来」が存在する ④福田の句の時代:どこにも「未来」は存在しない と分けられる。また、④の時代の未来が存在しないということを、草田男の句に引き付けて考えれば、それは国家や文明といった概念が消滅し人類の未来が存在しなくなった世界、すなわち人間の存在しなくなった後の世界だと言うことができるのではないか。前文を鑑みれば、福田は書かれたものが消えることを肯定するのであり、日本の「未来」がなくなることも肯定するのである。これはナショナリズムによる軍国主義や戦争でもたらされるような「未来」を選び取るくらいならば、「未来」などいらないという態度を示しているのではないか。戦争や虐殺の起こり続けている③の時代に生きる我々がこの前文とこの句を読むとき、福田の言葉は未来への警鐘として鳴り響くのである。
【大学俳句会アンケート回答】➀俳句とは何なのか➁俳句で何をしたいか➂俳句に関して何を書きたいか、
野上翠葉:➀短すぎて何も書けないし、すべてを書くことのできる詩。誰も見ていない世界の細部に自分だけが気づきたい。どんなにささやかであっても、世界の美しくない部分に抵抗したい。➁自分と世界の変革。口語俳句による俳句の可能性、小説のような立ち位置に俳句を持ち上げる。作家=池田澄子、正木ゆう子。➂社会性を持った俳句の与える影響。俳句が持つ可能性について。
【筑紫磐井感想】
福田若之と中村草田男の「はまなす」「未来」の句は、福田、中村の二人の作家の対比が浮かび上がって興味深い。ただそれだけでは一般印象風の感想になってしまうだろうから、少し考察を加えてみたい。
令和5年に『昭和俳句史 前衛俳句~昭和の終焉』(川名大・角川書店)と『戦後俳句史nouveau 1945-202 三協会統合論』(筑紫磐井・ウエップ)が出た。両者は全く違う史観を以て叙述されたものだが、これに対し福田は、両者のいずれの価値判断も<意志>のイデオロギーに支えられていると見て、新しいもう一つの道筋の可能性を示し、「双方を一気に乗り越えなければならなくなる」、「古いものをばらして組み替えたりするほうに心血を注ぐ書き手が現れたりしたら、すべてが覆るだろう」と述べている(「二冊の《俳句史》から」WEP俳句通信139号2024年4月)。こうした考え方は、総合誌で言えばもう少し以前に俳句2022年1月号新春座談会「俳句の宿題」(筑紫磐井・対馬康子・阪西敦子・高柳克弘・生駒大祐)で生駒大祐が「参照性」として問題提起をしている。
こうした文脈から考えると、福田、中村の対比は参照派の福田、言志派の中村と理解することが出来るわけで、現代的にもきわめて面白い話題を提供しており、その点に着目したとすれば論者の選択眼の良さを示している。
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こうした中で、本論前半では福田の次の句を紹介している。
はまなすと古い未来図だけがある 福田
これは中村の「玫瑰や今も沖には未来あり」を本歌取りしているわけであり、前述の福田の発言、「古いものをばらして組み替えたりするほうに心血を注ぐ書き手」である福田の特色を如実に示していると思われる。
論者は福田と近い世代であるところからその意味でも説得力があるのだが、福田の句が中村の句と微妙に違っている点が評論的には掘り下げが必要であるように思う。
まず、俳句を構成する要素ごとに眺めて見よう。
➀本歌取りを構成する要素・・・「はまなす(玫瑰)」、「未来」
➁対比的な要素・・・「今」⇔「古い」、「(沖に・・)あり」⇔「だけがある」
各要素の、➀については単純な比較だから説明の必要がないだろう。本歌取りのアリバイのためには不可欠なようそだ。➁については、揶揄や批評が強く、本歌取りの特色はここに見なければならないと思う。様々な鑑賞の仕方があるだろうが、草田男をイデオロギーに支配された作家と見れば、古い要素(「今」などということ自身が古い)や、明治の高等教育を受けたインテリの断言がシニカルに浮かび上がるような気もする。
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しかしこれだけでは済まない関係が実はこの2句にはある。これは論者が全く触れていない点であり、かつ作者(福田)自身が気づいているかどうかよく分からない点でもある。それは、「未来」が「未来図」に置換されている点だ。「未来」=「未来図」と言えるであろうか。もちろんこの句を含む句集の福田の前文の雰囲気をどのように読み取るかは論者の解釈によることでそれを否定する理由はない。しかし「未来図」から単純に「鉄腕アトム」や「どらえもん」を連想してよいものかどうか。
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少しエピソードを語ってみたい。まず、草田男の頭の中には「未来図」の言葉はなかったように思う。それが登場するのは、弟子の鍵和田秞子の句集『未来図』(昭和51年)によるものである。この句集名は、集中の
未来図は直線多し稲の花(47年11月万緑)
によるものである。一見、弟子への祝福や俳壇的評価(福田の頭の中ではそう考えたかもしれない)として草田男が題選したようにも思える。しかし草田男はこの句についての選評で「未来への計画想定の基本プランの図面」(48年3月万緑)と述べている。この表現には、明瞭な意思・懐疑のなさへの不満(いかにも思想家らしい草田男)がにじんでいるように思える。それもあろうか草田男は、句集序文でもこの句について全く触れていない。私は、句集題名に草田男は積極的に関与せず、秞子の意向で決まったものではないかとさえ思っている。
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草田男の「未来」には政治があるだろう。そして戦前の草田男の言説は慎重な分析が必要であるように思われる。戦前の草田男の言説は語られた言説は分かりやすいが、語られない言説はなんであったかは相当推理を要する。その中には、俳句だから語られた言説・俳句以外で語られない言説があるはずである。「物いえぬ文芸」だからこそ言えた言説もある。
だから本論の後半は、まさにそこに肉薄すべき部分に当たる。戦後書かれた言説にはよほど慎重に臨まなければならないと思う。これは論者が間違っているという訳ではない。ただこれらの発言を並べたからと言って直ちに結論が出てくるわけでもない。私もこれを批判する論拠があるわけではないが、「玫瑰や」のような句には情緒の流されない冷酷な解釈が必要なように思うのである。その意味では中村弓子の断片的な発言は肯定できる点が多い。
草田男は戦争をどう考えていたか。反戦か戦争協力かという単純な問題ではなく、最高学府を出て国家や社会を考える余地のあった作家(金子兜太もそういう立場にあった)にとって、国の運命をどう考えていたのか、はこの句の解釈と無関係ではないように思うのである。
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これらを踏まえた上で、最後の結論は私が最も興味を持つところである。冒頭に述べたような参照派の福田と言志派の中村は、永遠に交差することのない方向ではないかと思うのである。中村草田男に対して永遠に共感し得ない立場に立つとき、はじめて福田の評価がよく分かるように思うのである。