前回(8)で、「病雁」の読み方(「やむかり」か「びょうがん」か)についての誓子の考証を取り上げたが、漢字の読み方はいろいろである。山口誓子記念館と銘打っている以上、たまに読み方、振り仮名の付け方の問い合わせがくる。大概の読み方は句集や全集・著作物に載っているが、そうでない場合正直困ってしまう。しかし、神戸大学には奥の手がある。それは句帖を見ることである。句帖から読みを類推できる場合がある。でも、慎重の上に慎重を期すことは言うまでもない。
ところで、「実作者の言葉」に「蘇山人」という美少年の名が『天狼』昭和24年4月号に出て来る(「(北大路)魯山人」と間違えないように)。誓子は、すでに昭和21年6月号の『文藝春秋』に「蘇山人」について書いている。どうして「蘇山人」について書こうと思ったのか、その理由は書いていないが、推測するに、その文中にあるのだが明治32年の蕪村忌の大きな写真を見たとあるので、これがきっかけではないかと思う。明治32年12月24日の写真である。これはネットでも見ることができる。中央に正岡子規が少し横を向いて座り、その後方に支那服で辮髪の、いかにも清国の留学生という少年が蘇山人である。
『天狼』に出てきたのは、昭和23年8・9月号から始まった東京勢による「子規俳句研究」の(五)(昭和24年4月号)に「蝶飛ぶや」の例句の1つとして蘇山人に関係した句が挙げられている。その句は、子規が22歳でなくなった蘇山人を追悼した「蝶飛ぶや蘇山人の魂遊ぶらん」という句である。
誓子はすでに蘇山人について昭和21年に書いているため、不十分だったところを補おうと、例の考証好きの性格が出てきたようだ。次の6月号、さらに7・8月号においては、川田順からの葉書きに、川田順が高等学校時代に小山内薫の家で蘇山人に会ったとあり、そこから尾崎紅葉が出てきたりと、調べは広がっていく。9月号では、蘇山人の句が載っているという俳句誌『小天地』を示した人がいて、蘇山人の10句が載っている。誓子はこの10句を「砂中の金の如く」と珍重した。ただし句がいいと言うのでなく得難いところを手に入れたと言う意味であるということであった。しかし、池上浩山人から手紙で、浩山人は蘇山人の俳句を百句ばかり見つけ、これを機会に伝記を書いてどこかに発表しようかと書いてあったという。誓子は「あつと驚いた。僅かに十粒の砂金を一つ一つ掌に載せて珍重してゐる私に、浩山人は百粒の砂金を手掴みにして示されたからである」と述べる。きっと、ああ先を越されたという気持ちであろう。
そうして、11月号には、池上浩山人が『現代俳句』8月号に「清國の俳人蘇山人」を発表した。誓子は「貴重の文章であつた」「氏 (池上浩山人)が、蘇山人の遺句を百十句獲られたことは瞠目に値する」と再び褒める。ただ、負け惜しみというのは言い過ぎかもしれないが、蘇山人の出生地については不明な点があると述べる。
そこで、誓子は『明治百人十句』(昭文堂、明治43年)を調べると、蘇山人も明治の百人中の一人に数えられ、写真と作品が載っていたと言う。その写真は明治32年の蕪村忌の写真よりもずっと美しかったと誓子は書く。今この『明治百人十句』を誓子は所蔵しているかと書庫を調べると、な、なんと、所蔵していた。その写真を見ると、美少年というよりきりりと引き締まった青年の顔であった。誓子の蔵書は、三重県鈴鹿市で昭和28年9月の台風による高潮の被害でほとんどの蔵書を流されたというが、意外に多くの書籍が苦楽園に運ばれていることが分かる。それだけ、伊勢湾岸に住んでいたときの蔵書も神戸大学にあるということだ。
ここで、また、私は誓子の蔵書の豊かさと誓子のその考証精神に驚かされるのである。