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2026年3月27日金曜日

【連載】攝津幸彦記念賞応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)4 「欠損の詩学―波多野爽波俳句の一解釈」  飯本真矢

  ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったと、不思議な思いにとらわれたことがある。( 中略 )失われた両腕は、ある耐え難い神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々と湛えている。つまりそこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在するべき無数の美しい腕の暗示という、不思議に心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。

 

 これは、私の高校時代の教科書に収載されていた、小説家・詩人である清岡卓行による第二評論集『手の変幻』に収録された批評テクスト『ミロのヴィーナス』からの引用である。ここで、清岡が「不思議に心象的な表現」と述べるような、〈欠損〉による心理的産物を〈欠損美〉という語で定義したい。本稿では、次の爽波の句を端緒として、俳句的視点からこの〈欠損美〉について考えていきたい。

                           

うすうすと銀河靴べら失ひし   波多野爽波

 

 「靴べら」を失ったという日常の小さな出来事。その事象が広大なるスケールの〈銀河〉に包まれ、仄かな意識の中に統合されていく。この句は、一九八一年に発表した爽波の第二句集『湯呑』所収。抽象の感覚と写生の精神が一句の中に同居しており、『ホトトギス』に新風を吹き込んだ爽波の在り方の一端をこの句に見ることができる。

 ここでの「銀河」という語の使われ方に注目すると面白い。実景としての単なる夜空の景ではなく、靴べらを失ったことによる喪失感が「銀河」という大きなイメージに昇華されている。物を失ったことによる〈欠損〉の感覚が、宇宙的な孤独感や広がりと重なる。日常卑近な景と壮大で高遠な景が一瞬で交錯する、想像力の豊饒な飛躍による美しさをこの句に見ることができる。この美しさこそが、今考えたい〈欠損美〉に通ずるものなのではないだろうか。

  次に、この句で真っ先に目を引く副詞である「うすうすと」に着目してみたい。辞書的な「うすうす」の意味を、『大辞泉第二版』で引いてみる。

 

 うすうす【薄々】

1 はっきりとではなく、いくらか意識されるさま。おぼろげに。

2 色・光・密度などが薄いさま。うっすらと。かすかに。

 

 この句での「うすうすと」は、後者の意も含まれていないとは言えないが、前者の意の方が強いと考えられる。また、「うすうす気がついていた」や「うすうす勘づいていた」という使われ方は自然だが、「うすうす思っていた」や「うすうす知っていた」という使われ方には多少の違和感がある。このことから「うすうす」は、「思う」や「知る」といった主観的な語とは相性が悪く、むしろ外界からの働きかけに対する受動的で微細な感覚を表す語だと解釈できる。存在が、私たちが意識的に把握するものではなく、むしろ向こう側から立ち現れてくるものだとするならば、「うすうす」という語は、そのような存在の立ち現れの微細な気配を繊細に捉える装置として機能していると言えるだろう。

 加えて、この句を構造から紐解いてみると「うすうすと」という副詞の選択が特筆すべき効果を生んでいることがわかる。「靴べら失ひし」と取り合わされるかたちで提示された「うすうすと」した「銀河」は、そのおぼろな輪郭でもってして〈欠損〉の感覚を包んでいる。顕然とした「銀河」では補うことのできない感覚が、むしろ漠然とした「銀河」だからこそ湧き上がる。それは「銀河」の存在自体の不確かさという揺らぎが、「靴べら」の不在と響き合うからである。爽波は、「靴べら失ひし」と喪失を直截的に描いた一方で、存在と喪失の境界が揺らぐ繊細な感覚を「うすうすと」の中に封じ込めたのである。

 

 より深くこの句においての「うすうす」という語の使われ方について考えるため、「うすうす」が使われた、もう一つの爽波の句を見ていきたい。

 

蓑虫にうすうす目鼻ありにけり   波多野爽波

 

 この句も『湯呑』所収。知っての通り、蓑虫をどれだけ観察したとしてもそこに目鼻は認められないが、そこにないはずのおぼろげな「目鼻」を蓑虫に見出した点が爽波の手柄だろう。さらにそれを「うすうす目鼻ありにけり」と言い切ったことで、その瞬間、蓑虫の小さな繭が、存在しないはずの「目鼻」の気配を帯びて揺らぎ出す。存在しないはずのものが、一瞬存在を持つかのように振る舞う。〈在る〉と〈無い〉のあわいに不思議な感覚が立ち上がってくる。ここでも「うすうす」による揺らぎの感覚を見ることができる。

 また、この句の面白さは、蓑虫を蓑虫らしく表現しないところにある。通常なら地味で目立たない虫である蓑虫に「目鼻」を見出すことで、「蓑虫」を、既知の蓑虫ではなく、見慣れない様相へと変容させて描き出している。この転換は、ロシアの文芸理論家シクロフスキーが述べる〈異化〉に通じる手法だと言える。彼によれば、芸術や文学の役割は「生の全体性を確保すること」、即ち、日常化によって鈍化した感覚を揺り動かし、対象を新鮮なものとして再発見させることにある。この句における「うすうす」は、まさに対象を既知のものから見慣れぬものへと変貌させる〈異化〉の装置であり、その微細な曖昧さによって「蓑虫」の存在感を生々しく蘇らせている。

 さらに「うすうす」の効果について考える。そこに在るはずのない「目鼻」がそこに「うすうす」と在る。したがって、蓑虫の〈欠損〉としての「目鼻」を喚起する、清岡様に言えば、蓑虫に失われている「目鼻」の代わりに存在するべき無数の不定形の「目鼻」を暗示するという機能を「うすうす」という語が果たしていると考えることができるだろう。帰する所、「うすうす」自体が〈欠損美〉を呼び起こす触媒として働いていると見做すことができるのである。

  「うすうす」のもつ効果が明らかになったところで再び本題の句へ返ってみたい。

 「うすうす」が、〈欠損〉からもたらされる〈欠損美〉を喚起する要素として機能していることは、冒頭に引用した清岡のテクストとも呼応する。ミロのヴィーナスの欠けた両腕は、失われたことによってこそ無数の「在るべき美しい腕」の可能性を暗示する。そうやって、〈欠損〉が、鑑賞者の想像力で満たされる。これと同様に、爽波の句でも、「靴べら」の喪失は単なる実用品の不在に留まらず、その喪失が意識に生む微かな空白というかたちでの〈欠損〉が、「銀河」という無限のイメージによって満たされる。靴べらの〈欠損〉は、逆説的にそれ以上の広がりと深みを句の内部に導き込む。ここに、喪失によって生まれる美、即ち〈欠損美〉の本質がある。

  「うすうすと銀河靴べら失ひし」と「蓑虫にうすうす目鼻ありにけり」の両句に共通するのは、「うすうす」という曖昧な気配を媒介に、存在と不在の境界が揺らぐ瞬間を捉えている点である。こうしてみると、両句はいずれも〈存在の不在性〉や〈不在の存在性〉といった逆説を詠み込みつつ、喪失の裡に潜む美を掬い取った句であると評価できる。

爽波は、喪失を単なる不在としてではなく、むしろ新たな感覚世界への扉として提示する。この感覚世界は、欠けているからこそ、そこに〈在ったもの〉〈在るべきもの〉の無限の可能性を湛える空間なのだ。それはちょうど、清岡がミロのヴィーナスに見た「無数の在るべき腕の暗示」と同じく、欠けたものの不在を通じて、豊かな想像力が解き放たれる過程である。

 〈欠損〉の間隙に潜む豊饒な可能性を見出して、そこに在る、私たちがまだ知らぬ〈存在〉を俳句として十七音に封じ込めた。それこそが爽波の提示した〈欠損美〉なのである。

 

【大学俳句会アンケート回答】俳句とは何なのか俳句で何をしたいか俳句に関して何を書きたいか、

飯本真矢: ➀俳都松山で育ち小学生のころから俳句というものに触れていた。子規・虚子という俳人を教えられる中で俳句は古臭く語ぐるしいものだと幼いながら感じていた。しかし中学校の国語の授業で野口るり<チョコチップクッキー世界ぢゆう淑気>を知り短い詩型である俳句の形の中でも表現の可能性が無限にあると考えて興味を持ち始めた。➁俳句の大きな特徴として人とのかかわりが必ず伴うということがあると考える。句座を囲み、句会を行うということ。結社に入るということ。互いに互いの句を読み合い、鑑賞しあうということ。これらの俳句から始まる人とのつながりを大事にしつつ、俳句に取り組んでいきたい。➂若い世代、特に自分と同世代の俳人たちの俳句をいくつか集めてピックアップして述べてみたいという気持ちがある。さらに若い世代が俳句を始める際の刺激となるよう唸物を作ってみたいと思う。

 

【筑紫磐井感想】

 清岡の欠落論を前提に波多野の「うすうす」を使った俳句を研究しているのは実証的であり説得性がある。しかし、「うすうす」は多くの俳句作家が使っており、これらと比較することが波多野の独自性を浮かび上がらせたと思う。

     *

 具体的な作品に移る前に、「うすうす」の定義を見てみよう。論者が行っている考え方に従えば、

 うすうす【薄々】

1 はっきりとではなく、いくらか意識されるさま。おぼろげに。

色・光・密度などが薄いさま。うっすらと。かすかに。

 

となるが、2は具体的な色・光・密度という物理量が少ないさまを言っていると考えられる。これに対して、1はそうした物理量を超えて、感覚を受けとる側の意識を言っているようである。

 そして「うすうす」を使った用例は伝統も前衛も問わず多くの用例があるのである。

 ただし、うすうすの意味は系譜によって少しその傾向が異なる。2の実例は客観写生派の作品に多く使用されている。

 

うすうすとあやめの水に油かな 岸本尚毅

うすうすとしかも定かに天の川 清崎敏郎

月おぼろうすうすと色置きし雲 稲畑汀子

吐く息のうすうすと枇杷咲きそむる 岡本眸

 

 これに対し1の用例は、抒情派の作品に多く見られる。典型例が、馬酔木である。いずれも、色彩の見える実体が存在しないところが特徴である。なお、最後の、私の作品を入れたのはご愛敬であるし、厳密に「うすうす」ではなく「うつすら」であるがが、この作品を詠んだ時の私は馬酔木系に連なる作者であり、どういう気分で「うつすら」という言葉を使ったかはよく分かるので例に挙げてみた。用語の使い方は自身が使ってみる側に立たないと分からないことが多いからである。

 

しゃぼん玉木の間を過ぐるうすうすと 秋櫻子

うすうすと我が春愁に飢えもあり登四郎

芦戸かげおいてきし子のうすうすと 林翔

君に会ふ常にうつすら風邪ごこち 筑紫磐井

 

 そして注目したいのは、1から更に表現の進んだ3である。これを心象俳句と呼んで見たいと思うが、比較的前衛作家に多い。

 

うすうすと稲の花咲く黄泉の道 飯島晴子

天と地の間にうすうすと口を開く 中村苑子

草の絮うすうすと死も飛んでいる 渋谷道

うすうすと天に毒あり朝桜 宗田安正

 

 これらの作品にはどこにも明らかな色彩が見えない。のみならず如何なる具象も見えてこない抽象的な心象ばかりである。

 こうした中で論者の取り上げた爽波の句を比較して見ることとしたい。

 

うすうすと銀河靴べら失ひし   波多野爽波

蓑虫にうすうす目鼻ありにけり   波多野爽波

 

 前句は1(客観写生派)の系譜にあるが、しかし全体としてみると3の系譜も混じっている。その証拠に難解である。後の句は2の系譜にあると言えよう。

 問題は論者のいう欠損感が、爽波固有のものか、「うすうす」という言葉で詠まれる俳句に共通のものかどうかである。グループ分けした「うすうす」の作品は、2と3はいずれも何らかの欠損感を与えているようである。その意味ではこうした中での爽波の個性の発見が必要である。

 その意味で、爽波の「蓑虫にうすうす目鼻ありにけり」と登四郎の「うすうすと我が春愁に飢えもあり」はともに欠損感のある句としてともに語り合うべきだと思う。

2026年2月27日金曜日

【短期連載】未来俳句宣言についてーー高山れおなの読売文学賞受賞を祝して(続)  筑紫磐井

 3.私的解説

 昨年11月24日、現代俳句協会の第50回現代俳句講座「昭和100年 俳句はどこへ向かうのか?」のテーマでシンポジウムがあり、その結びで、〈二十年後の俳句がどうなっているか〉を示してほしいと司会から求められ、私が示したのが次の句であった(「現代俳句」8年2月号)。


渾 煌く犠      筑紫磐井


 これに対し自由律俳句の人から、会場でもその後の懇談やその日以後の意見交換でも活発な意見が寄せられた。その過程で、個人的な動機ではなく、俳句の未来を考えての宣言としてまとめて見ようと考えた。俳句における宣言は、金子兜太の造型俳句論以後あまり出ていないと感じたのもある。しかし何より、前衛俳句作家は決して自句自解してはならないという信念を持っているからだ。自句自解できる俳句は前衛ではありえない。前衛俳句作家が自句自解以外できるのは宣言しかないのだ。

 掲出の句は自由律俳句ではない、少なくとも私は自由律俳句として書いたものではない、しかし自由律俳句作家が自由律俳句として見ることは拒否しない。それでは作者はいかなる俳句として書いてみたのか。自由律俳句と私の俳句の結節点は「短律」にある。もともと私は、東日本大震災直後に短律作品を発表し色々物議をかもしたことがある。阪神は衝撃と炎、東日本は津波。俳句形式はその圧倒的な破壊の映像に敗北した、誰の句もあの映像を超えることができない。映像の前に句は嘘だ。だから人は考えるべきだ、表現とは何か、俳句形式とは何かと。ここにあって諸々を捨て去るべきだ、季語も定型(律)も。従って、個人的には短律はほとんど違和感がない。こうしてできたのがこの宣言である。

 もちろん私は定型無季俳句も作れば、花鳥諷詠俳句も、分かち書き俳句、諧謔俳句(川柳に近いと非難する人もいるが別に気にしてはいない)も作っている。俳人はそれくらいの器用さは持ち合わせるべきだと思っているからだ。しかし未来には何が待っているかわからない。混沌とした国際情勢の中で、我々は20年後の末期の句を英語や中国語で書いているかもしれない。そうした私の棚の一つに短律があるのだが、短律が際立っているのは、超・刺激的であるとともに最も未来に近いかもしれないという予感があるからだ。

     *

 私の詩歌の経験は、前田夕暮の創刊した「詩歌」への投稿だった。ここで初めて自由律短歌を知ったのだが、考えてみると、自由律短歌は決して自由な短歌ではなかった。厳密な定型でこそなかったが、大半は31文字±αであった。17文字まで近づくことさえなかった。自由律俳句と区別がつかないからだ。一方自由律俳句は、限りなく短句に近づける。つまり自由律短歌は短くなると俳句になってしまう恐れがあるが、自由律俳句はどんなに短くなっても俳句である。


4.参考:GANYMEDEより(五一句)(2013年8月)【作品51句】

(すべ)る手

地震(なゐ)る日

(たぎ)水門(みと)

藻ねむり

(たま)()

()れ草

()

()

祈り火

()(をち)

(をや)去り

()(ぎん)断ち

風うそ哭け

()と無

()(まく)

()が潮

(にが)の子

()()

わつと言ふくさむら

かげろふ歴史(ふみ)

   *   *

()(のろ)

(たみ)(くた)

賄賂(まひな)ふ国

(まが)つまこと

(から)波騒ぐ

ひたち憂き

逃げれば郭公

画像()を商ふ

   *   *

遠くひぐらし

鵜となつて水と空

黄色く夢

()をあければ波!

はらいそ祈る

弥陀も微笑(みせう)

溶解(とけ)()

無垢の吏

   *   *

(むご)く雪降る

そよ花、そよ死

明日のほかこそ未来

嘔吐して萬歳

森は滴り

溝が螢の(たま)

虹真白

黒乙女

()るる(わた)

馬は波頭(なみ)

鳥の奇怪

屍の美

本当をいふ

人知無涯(はてなし)

人もすなる(あやまち)


【新連載】俳壇観測279 ユネスコ登録の進め方4 有馬氏とマーティン氏の論点[1](誰も言っていないこと)  筑紫磐井

  「豈」68号「特集・ユネスコ登録戦略の最前線」でトマス・マーティン氏は「俳句の神話」として四つの点を挙げる(そのほかに2項目もあげている)。有馬氏の主張とは齟齬がある。有馬氏は言っていない、登録派の人が一方的に言っている論理等が混じっているからである。それを厳密に区分した上で吟味してみよう。

 そこには初期の有馬宣言がユネスコ登録の絶対条件であるからそれとの齟齬を眺めて見よう。(私の抜粋であるから少し間違いがあるかもしれない)


【俳句の4つの神話】

➀俳句は誰でも簡単に詠める【有馬必須要件第1、第3にある項目】

➁俳句は誰でもすぐに理解できる【有馬になし】

➂俳句は自然との調和を象徴する文学である(自然と共生する文学)【有馬必須要件第2にある項目】

(→マティン氏は温暖化の阻止【有馬願望】に言及がないが、この項目と関連すると思われるのであげておいた方がいいだろう)

④俳句は平和の文学である【有馬願望】


【その他】

❶外国の俳句が認められないということ。【有馬になし】

❷なぜ俳句が単独で進むのか。【有馬になし】

❸俳句を無形文化遺産に登録しようとする動機【有馬氏はないも言っていない。これは内心の動機なので推測にしか過ぎないので最後にまとめて述べよう】

これについて、吟味してみよう。


 順番として、(1)有馬氏が必須要件としてあげていないこと(➁❶❷)、(2)有馬氏の必須要件(➀➂)、そして(3)有馬氏の願望事項(④それにマーチン氏が触れていない温暖化の話を加える)、と見て行くことにしよう。


(1)俳句は誰でもすぐに理解できる【有馬になし】

 マーチン氏は一例として、伝統俳人が尊重する季語は予備知識がなければ理解できないと述べている。また近代の作品についても一定の学習が必要だと述べる(これは新興俳句や人間探求派の俳句を念頭に置いているのかもしれない)。もっとものように見えるが、私は少し違和感を覚えるところがある。それは後の項目で述べることにしよう。ただ「俳句は誰でもすぐに理解できる」ものでないことだけは間違いなくマーチン氏と合意できると思う。

 そして有馬氏の必須要件・願望は、どう読んでも「俳句は誰でもすぐに理解できる」という発言につながらない。有馬氏の正確な発言は「俳句の影響で、世界的に3行詩が増えていますけれども、短いが故に今まで詩を作らなかった人も含めて俳句への関心が世界中に広まっていること。その世界に共感者が増えることによってお互いにそれぞれの民族の意志を疎通し合う事、俳句によって疎通する事が出来るようになるということなどです」である。短詩型は意志疎通に向いていると言っているだけなのだ。

 だから「俳句は誰でもすぐに理解できる」は有馬氏ではなく、その後の追従者が述べた発言なのであろう。こうした言説の普及したのがいつのことであるかはわからない。有馬氏が逝去した後の後任会長による「(有馬先生は)子供から100歳に至るお年寄りまで、幅広い人たちと創作及び鑑賞が共有できることを挙げられておられました」(俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会会長挨拶)といっている、「子供から100歳に至るお年寄りまで、・・・鑑賞が共有できる」の言葉あたりから「誰でもすぐに理解できる」は近そうである。このあたりから、こうした誤解を与え始める発言が始まったようである。

 重ねて言うが、協議会発足に当たり行った4協会の合意の中に「俳句は誰でもすぐに理解できる」等と誰も言っていない。単純にこれは間違いだと言っておけばよいだろう。


(2)外国の俳句が認められないということ。【有馬になし】

 マーチン氏は登録論者、特に協議会の文書で「外国の俳句がしばしば認められない、また受入れららないということだ」と述べる。「俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会のウェブサイト上の記載が、最近良い方向に変化したことは評価できるが、依然として「本物の俳句」や「正しい俳句」は、基本的に日本で、そして日本語でしか詠めないという考え方が感じられる。」と述べる。明言していないが、俳句は日本固有の詩であり、海外の俳句はまがいものである、という主張を批判していると思われる。

 実は私が現代俳句協会に入会したのはちょうどこの時期であり、ウエブサイトの変更は現代俳句協会が働きかけて実現したものだと担当から聞いており、いいことであると考えていた。逆に言うと変更前の記事がどのようにひどいものであったかはよく分からないし、既に電子資料は消去されてしまっており確認のしようがない。我々に今できるのは、現状を踏まえてより洗練された表現に修正することを期待するぐらいであろう。よりよい修正の意見を出せばよいのではないか。

 何れにしろUNESCO(国際連合教育科学文化機関)の名を冠した登録制度に国際を排除するなどナンセンス極まりない。

     *

 我々に確認・推測できることは、協議会発足の時に「外国の俳句を認められない、受入れららない」という考え方が存在したかどうかを知ることだ。もし存在しなかったとすれば、上の(1)と同様、つい最近の恣意的な変更であったことになる。

 興味深いのは、平成29年1月26日、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会第二回発起人会で行われた記者会見だ。この場で、俳句は有季定型以外の無季・自由律が含まれることが言明されたのだが、4協会会長により様々な議論が行われた。俳句と世界の関係については異口同音に賛意を表したのだが、その中で、記者から俳句でノーベル賞が取れるのかという質問があった。

 有馬氏の意見は後述するが、日本伝統俳句協会の稲畑会長は「俳句のノーベル賞受賞は難しいと思う、日本の俳句を伝えるのは問題が多く課題がある。日本語とドイツの俳句とどれくらい差があるかを痛感した。まだ時間が必要だ。ただ、海外の三行詩からノーベル賞が出るかもしれない」と述べた。ノーベル文学賞は海外の俳句が取れても日本の俳句は難しいと言っているようである。

 俳人協会の鷹羽会長は、「ノーベル賞を目指すのは難しい、それは自ずからなるもので意図しない方がいい、ユネスコ登録でノーベル賞の名前が出ない方がいいと思う。世界へと世界へと俳句が進むことで日本語の乱れを心配する。俳句は美しい日本語を守る最後の砦と言われた時代があった。この立場に立って俳句も伝統を守りつつ、現代性を探るという努力したい」と述べた。稲畑会長とロジックは似ているが、俳句で最優先すべきものの心配をしている。ユネスコに参加し、ノーベル賞を目指すことが目的になることにより日本語が乱れることの方が気がかりなのである。

 極めて乱暴な言い方になるが(ただ何となく一般人の意識にはそっていると思う)ノーベル文学賞受賞が一流の文学の証拠であるとすれば、国際俳句は文学であるが日本の俳句は文学ではない、文学をめざしてはいけないと言っているようにも聞こえる。

 これに対して、国際俳句交流協会の有馬会長は、「海外の詩人の詩でも俳句に近い、短いものがある。自然を詠んだ詩でノーベル賞を取っている。将来俳句でノーベル賞を取る可能性はある」と述べた。こうした有馬氏の楽観的見通しは、稲畑・鷹羽氏と違った有馬氏なりの根拠があった。

     *

 有馬氏は、ユネスコ俳句以前に国際俳句に関する関心が深かった。師の山口青邨が海外俳句を多く詠んだこともあるが、有馬氏自身が海外俳句に熱心であったからだ。物理学者としての勤務地は、昭和34年~35年、36年、38年にアルゴンヌ研究所、41年にデイトン大学・プリンストン大学・バークレー研究所・アルゴンヌ研究所・メキシコ大学、42年にラトガス大学・プリンストン大学・ブルックヘブン研究所・ニューヨーク州立大学、44年にカナダチョークリバー研究所に在籍した。一時は米国永住の決意をしたという。だから第一句集『母国』の半ばは海外の生活の中での作品であった。

 やがて50代後半から国際俳句の振興に奔走し、1989年設立した国際俳句交流協会副会長就任、1996年会長に就任(文部大臣、参議院議員就任中は辞退)、2019年亡くなるまで在任。その後1999年愛媛県で「国際俳句コンベンション」を開催し文部大臣として講演、(有馬、金子兜太、宗左近、芳賀徹らと)国際俳句に関する「松山宣言」を取りまとめる(➀国際俳句研究所の創設、➁ 国際俳句賞の創設の提言)。これを受けて2000年~2008年に正岡子規国際俳句賞(選考委員長有馬朗人)の授与を進める。国際俳句賞は、大賞(イブ・ボンヌフォア(仏)、ゲーリー・シュナイダー(米)、金子兜太(日))、俳句賞(8人)、EIJS特別賞で受賞者の大半が外国人であり、国際俳句に大きな貢献を果たした。その後最晩年には、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会の設立に尽力した。

 これを見てもわかるように、有馬氏の俳句活動は、海外俳句、国際俳句の振興であり、ユネスコは最晩年のごくわずかな時期の活動であった。国際俳句の理念の実現のためにユネスコを振興したのであって、国際俳句をないがしろにするようなユネスコ登録を進めることはあり得なかった。

 これは個人的な感想であるが、有馬氏の真意は国際俳句研究所の創設にあったと思われる。自治体の資金問題から設立できなかったが、日本の伝統的な俳句、国際俳句とは何であったのかの究明を進めることが望まれたのだ。俳句とはこうしたものだという定義は永遠にできないと考えていたのではないか。国際俳句賞の授与にそれが表れている。大賞、俳句賞の授与は圧倒的に海外作家が多かった(日本人は金子兜太と河原枇杷男の前衛作家だけであり、伝統俳句作家は一人もいなかった)が、評論・研究を対象とするEIJS特別賞・スウェーデン賞はほとんどが日本人であった(佐藤和夫、和田茂樹、筑紫磐井、内田園生、李御寧)。日本からの俳句の詩学が期待されていたというべきだろう。

     *

 「外国の俳句が認められないということ。」が当初なかったことは明らかだが、問題はユネスコ登録の日々の活動の中でそうした意識が生まれては消え、生まれては消えしていることだ。俳句は日本固有の詩であり、海外の俳句はまがいものである、という主張を常に打ち破ることが大事だ。

 私自身は、俳句は日本語の作り出した詩であり、国際ハイクはそれぞれ独自の言語が作り出した詩だと考える。決して一方が片方を真似したものでなく、言語原理がそもそも違うのだ。だからその向こうにはいまだ形ならざる抽象的な俳句(俳句でも国際ハイクでもないもの)が想定される。これを見出すことが俳人の使命であり、有馬氏もそれに期待していたと思う。こうしたシナリオに沿い取り敢えず日本語で作られた詩の探求を行ったのが私の『定型詩学の原理』(2000年)であり、そしてこれにEIJS特別賞が与えられた。私の目論見は間違っていなかったと思っている。一昨年国際俳句協会の大会の講演で招待され、これを踏まえて『新しい俳壇をめざして』と題して講演を行ったのがその後のささやかな私の貢献であった。この時、国際俳句協会の会員から、入会していたものの従来から俳句と国際ハイクの違いが分からなかった、と告白を受けた。我々は真摯にこれらに対する回答を用意しなければならない。


(3)なぜ俳句が単独で進むのか。【有馬になし。】

[1]なぜ俳句と短歌を切り離すのか(事実関係)。

 まだ俳句を単独でユネスコ登録すると誰も決めていないし、文部科学省が登録に先立って行っている本年度の「生活文化調査研究」では、短歌、俳句、川柳、雜俳【注】を対象としているので、本当に短歌が切り離されるかどうか現在のところ誰もよく分からない。「生活文化調査研究」を踏まえて文部科学省が決定するものである。たぶんこんな状況だし、良心的な俳人が的確なパブコメを出していけばユネスコ登録はなかなか進まないに違いない。

(今後の予定では、既に決まっている書道(令和8年)の次は、神楽(令和10年)、温泉(令和12年)と続くようである。さらにその後、文部科学省の「生活文化調査研究」が既に行われているジャンルが、➀華道、➁茶道、➂煎茶道、④香道、⑤和装、⑥礼法、⑦盆栽、⑧錦鯉であり、その後⑨短歌、俳句、川柳、雜俳が入ることになる。ユネスコは2年に1回しか提案できないルールとなっているから、単純な算術計算で8ジャンル×2年=16年となり、令和30年(あと24年後)ごろ俳句・短歌などがユネスコ登録の俎上に上がることとなる可能性がある。そしてそれまでの間に何があるかーーー例えば3協会統合――全く分からないのである)。


[2]なぜ俳句はユネスコ登録に熱心なのか。(「俳句ユネスコ登録」とする理由)

 前々号に述べた態度に応じて回答は違ってくる。


➀ユネスコ登録賛成論(ユネスコ登録を進めたい)

➁ユネスコ登録反対論(ユネスコ登録を進めたくない)

➂ユネスコ登録戦略論(ユネスコ登録は便法・戦略であり、無季自由律こそ大事だ)


 ➀➁はさらにさまざまな思惑もあり(例えば➀について言えば、現代俳句協会と俳人協会ではだいぶ違いそうに思う)、それぞれの人で考えてほしい。私は➂の態度であるからこれを回答しよう。

 ➂の態度はかなり単純である。俳句のユネスコの登録運動を進める限り、限りなく俳句の定義の議論が先鋭化され、有季定型・無季・自由律の境目が崩壊するからである。これこそが「ユネスコ登録戦略論」の目的だからである。

 言っておけば短歌ではこうしたことはない。確かに複数の協会・クラブが短歌でもあるが、(伝統と前衛はあっても)前衛を許容しない協会はないと思うし、短歌全集から前衛歌集を除外せよという主張もない。教科書に前衛短歌を掲載させないという運動はないし、前衛短歌を「短歌に似たもの」と呼べという主張も見たことがない。短歌と俳句の政治状況は全く異なるのであった。

 ちなみに[1]で述べた登録までの時間については、時間がかかればかかるほど、有季定型・無季・自由律の境目の崩壊が進むから、きわめて都合がよいのである。


【注】登録のジャンルについてマーチン氏は、「絶滅の危機に瀕しており、あまり知られていない都々逸という形式もある。」としているが、私は都々逸は既に絶滅していると考える(今様や隆達小歌と同様だ)。生きている詩歌としては、新しい作品が公募され、選評され、雑誌や句集に掲載・刊行され、古典として残って行くプロセスが必要だと思っているからである。その意味では、「琉歌」こそ漏れている最大のジャンルだと思う。8・8・8・6のこの詩型は、沖縄において現在も新聞・雑誌やテレビ・ラジオで募集され、毎月膨大な作品がつくられ発表されている。

 1975年、現上皇(当時昭仁皇太子)が皇室として初めて沖縄を訪問した時に鎮魂歌として詠まれた琉歌がある。


[琉歌]

花ゆうしゃぎゅん 人ぅ知らぬたまし(8・8) 

いくさねらぬ世ゆ ちむににがてぃ(8・6)

(花をささげる 誰かわからない魂 

戦のない世を 心に願っている)。


 おそらく皇室における沖縄への贖罪の意識もあるのだろう。琉歌にはそうしたものを受け止める歴史がある(結局、昭和天皇は戦後沖縄訪問を果たせないまま崩御した)。だから現在も生きているのだ。沖縄を犠牲にして戦後の復興を遂げた日本政府、文部科学省としては、俳句や短歌に先んじてユネスコ登録してほしいものである。ちなみに文部科学省の行っている「生活文化調査研究」に琉歌は入っていない。

【連載】現代評論研究:第24回各論―テーマ:「魚」を読む・その他― 藤田踏青、飯田冬眞、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(2012年05月04日/11日/18日)

●―1:藤田踏青【近木圭之介】、

 魚を競る銀河魚臭を発す   注①

 テーマに添った句を探してみたが、数は少なかった。

 さて掲句であるが昭和53年の作であり、夜明け前の下関あたりの漁港の風景とみるのが妥当であろう。そして宇宙の生と死を象徴する銀河が発する魚臭もその超越的存在としての神意でもあり、スケールの大きな句柄となっている。渡辺白泉に「ふつつかな魚のまちがひそらを泳ぎ」という句があるが、イロニーの有無と生死への言及の有無との差異が、大空、銀河への対峙の仕方の差異となっている。

 また「魚」そのものを詠んだ詩も下記の1篇があるのみであった。


 <魚と思想>   昭和27年作   注②

 罐詰の魚には頭がない

 脚ばかりを揃えて並んでいる

 身うごきも出来やしない

 窓のない部屋は真黒だし

 思想は海に忘れて来た

 だから罐詰の魚には頭が無い


 この詩が発表された昭和27年までには、昭和23年に帝銀事件、昭和24年に下山事件・三鷹事件・松川事件が起り、昭和25年には朝鮮戦争が始まり、昭和27年には皇居前広場にてメーデー流血事件が起る等、当時の世相には不穏な気配が漂っていた。その閉塞状況が「罐詰」の状態であり、それ等を前に国民はただ黙って見つめているしかなかったのであろう。この詩の「魚」を「人間」に置き換えればそのような状況が把握されるのではないか。思想とは体系的にまとめられたものであるが故に、揃えて並んでいる脚が示すものは思想の喪失という不気味な重層感を伴なってくる。またこの詩から小林多喜二の「蟹工船」も想起されるのではないであろうか。過酷な蟹工船の中の未組織労働者の姿もそこに垣間見られる。

 他の「魚」に関連した句(既掲出句を含む)を掲げておこう。

 漁夫の手に濃い夜があるランプ     昭和30年  注①

 漁村で酒と蟹を食べ自殺論聞きながら  昭和53年   々

  戦後、不当に設定された李承晩ライン(注③)によって、日本海西部から日本漁船が締め出され、強引に拿捕されたりしていた。その様な状況を把握して前句を読めば、自ずからその「濃い夜」の奥深い何とも言えない哀しさと、チラチラと点る「ランプ」の儚さが伝わってくる。また後句は先にも取り上げたもの(第4回テーマ「死」)だが、何故か当時の漁村の風景やそこに生きる人達にはある種の冥さが感じられ、一抹の不安というか、哀しさが漂っていたように思われる。そして又漁村にはいつもと変わらぬ生活が巡ってくるだけの日々が・・・。それを圭之介は次の様な詩で捉えている。


 <漁村にて>   昭和28年作   注②

 朝になると黄色い太陽のまわりに

 魚のうろこがあった

 夜が来ると

 乾しひろげた網の目の中に 星がたくさんあった

 立ち並んだ家々の封建性が岬を突き出して波浪をさけている


今は昔ではあるが。


注① 「ケイノスケ句抄」  層雲社  昭和61年刊

注② 「近木圭之介詩抄」  私家版  昭和60年刊

注③ 李承晩ライン:昭和27年に韓国の李承晩によって一方的に、済州島付近から対馬海峡にわたる漁場での日本漁船の操業が禁止された。しかし昭和40年に日韓漁業協定の成立とともに撤廃された。


●―2:土肥あき子【稲垣きくの】、【テーマ:流転】赤坂時代(戦後編) 

 春雷や焼け残りたる土蔵に住み   『榧の実』

 土蔵には「くら」のルビが付く。赤坂福吉町には、年譜上では昭和14年(1939)から昭和34年(1959)の20年間居住していることとなっているが、戦争中は疎開し、戦後は焼失した家屋を再建するまでの間、弟家族の暮らす鵠沼に身を寄せもし、気に入りの場所さえ安住を思うにまかせることはできなかった。体調を崩したきくのは半年余り築地の病院に入院するが、看護婦と一緒に銭湯へ行ったり、買い物や歌舞伎にも出かけられる心安い場所だった。再建中の家も、病院からたびたび赤坂へと見に通っていたようだ。

 入院中のエッセイによると「焼跡へ小っぽけな家を建てた」とあるのは、きくの流の謙遜がいわせた言葉だが、のちに借家として貸し出したこの家を作家の瀬戸内寂聴が借りる前提で見に行った折りの記述が残されている。

 「大きな石垣の積まれた見るからに豪壮な邸宅の構えで、私は高い石垣の前に立っただけで、怖れをなし、とても私の住める家ではないと思った。(中略)平屋の邸宅は見るからに上品な数寄屋造りだったが、雨戸が建て廻してあるせいか、陰気な感じがした」(『孤高の人』瀬戸内寂聴)

 広大な敷地のなかに自宅と離れを建て、離れには満州から引き揚げてきた末弟一家を住まわせた。彼らが引越したのち、離れを母屋に移築したかたちで、ロシア文学者の湯浅芳子との同居がある。先に引いた『孤高の人』は、寂聴が書いた湯浅の評伝である。本書に登場するきくのは、湯浅から聞いた話しとして「女優だったが芸が下手」「男爵の囲われ者」「句集も二冊出たし、俳人協会賞ももらったのよ、でも、まあ、そこまでだった」と散々な書かれようだ。寂聴自身が実際に軽井沢できくのに会った印象も「曖昧な表情、身体のこなしに倦怠感が滲み、メランコリックな雰囲気」と決して好意的ではない。

 水泳が得意で、颯爽としたスキー姿が写真に残されているきくのが、いつのまにか「曖昧でメランコリック」な女性へと入れ替わってしまった。誰の口にものぼっていたのだろう「囲われ者」という言葉が、きくのを徐々に人嫌いにさせていったのだろうか。

 昭和32年(1957)には「さるひとの」の前書がある

 でで虫やどこまでひとのへそまがり

 昭和33年(1958)には「にくきひとの」の前書がある

 言ひ捨ててぷいと出てゆくみぞれかな

 そして、昭和34年(1959)には

 ショールしかとこの思慕そだててはならず

 愛に翻弄され、恋にときめく奔放なつぶやきにだけは、いつまでも溌剌と刺激的なきくのの横顔を見せ続ける。


●―4:飯田冬眞【齋藤玄】

 裂く鯉の目には涅槃の見ゆる筈

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 齋藤玄の晩年の三句集(『狩眼』『雁道』『無畔』)から魚の句を見つけるのはたやすい。そしてあることに気が付く。「なぜ、こんなにも鯉の句が多いのか」と。『狩眼』17句、『雁道』24句、『無畔』5句。数字を並べてみてもあまり意味はない。

 曠野より遠へ行きたき春の鯉   昭和47年作 『狩眼』

 〈春の鯉〉に自己を仮託しているのはあきらか。病床にある玄は、春の野原に遊ぶことを夢想した。池の中を泳ぐ鯉もまた、自分と同じく池の外に出ることを希求しているにちがいないと把握した。そして〈曠野より遠へ〉という空間的な範囲を示したうえで〈行きたき〉という心情をダイレクトにぶつけることで、〈春の鯉〉の閉塞感と作者の鬱勃とした心情が重なりあって、リアリティが増してゆく。こうした対象への観念的同化は齋藤玄の俳句のひとつの特徴でもある。

 寒鯉に見ゆれ光の棒に見ゆれ   昭和50年作 『狩眼』

 動かぬが修羅となるなり寒の鯉   昭和50年作 『狩眼』

 寒鯉の腹中にてもさざなみす   昭和50年作 『狩眼』

 対象を観念的に把握しているとはいえ、基底部にあるのは、対象を凝視する確かなる眼であることは疑いようがない。

 たとえば、一句目、動きのない寒鯉を見ているうちに、それが〈光の棒〉なのか〈寒鯉〉なのか、判然としなくなる。その感覚のゆらぎを〈見ゆれ〉のリフレインによって表現しているのだが、ここにも凝視のちからを読み取ることができるだろう。

 二句目、水底に魚体を沈めてじっと動かない〈寒の鯉〉を見て、そこに〈寒の鯉〉の動かないことへの執念を読み取ってしまうところが、さきほど指摘した「観念的同化」にほかならない。感覚器官を通して対象の特徴を概念的にとらえたあと、心象内で対象と自己とが同化してしまう。それを観念的同化と名付けてみた。〈寒の鯉〉もほんとうは動き回りたいのだ、しかし、動かないことに決めたから何が何でも動かない。そうだ、寒鯉は今、水と戦っているのだ。そうに違いない。動かないように水と争っているのだ。その観念的把握が、〈動かぬが修羅となるなり〉という措辞に結実して一句を構成していく。

 三句目の〈腹中にても〉がまさしく観念的把握であり、眼前にあるのは〈寒鯉〉と〈さざなみ〉でしかない。〈寒鯉〉の静と〈さざなみ〉の動を結び付けているのは、玄の心中で混ざり合い、つかみ出してきた造型のためのことば〈腹中にても〉にすぎない。そこがこの句の生命線である。水面に起きた〈さざなみ〉が水中の〈寒鯉〉にまで及び、動かない鯉の腹中に入って通り抜けてゆくまでを写生したものである。見えてはいないものを見えているように描くこと。虚実の間にひそむ真実をことばのちからでとらえようとする齋藤玄の意思のようなものが、この句からもうかがえるだろう。

 鯉喰つて目のあそびゆく冬の山   昭和50年作 『雁道』

 声持たぬ涅槃の鯉と遊びけり    昭和51年作 『雁道』

 ひるがへる遊戯を尽す秋の鯉    昭和51年作 『雁道』

 鯉と遊びをモチーフにした三句をあげてみた。

 一句目の不思議なおかしみは〈鯉喰つて〉の俗っぽさと〈冬の山〉の神々しいまでの静けさが同列に扱われている点にある。〈目のあそびゆく〉に作者の心象がよく表れている。ここで喰われているのは、筒切りにした鯉の切身を赤味噌汁でじっくり煮込んだ「鯉こく」だろうか。あつあつの鯉こくをすすりながら〈冬の山〉に目を泳がせてしまったことを鯉に言い訳しているような気分が伝わってきて楽しい。人は皆、他の生き物を喰うことでしか生きられない。この世に生きるものの哀しみのひとつである。避けて通れない哀しみであれば、生き切るしかしょうがないのである。根源的な哀しみをおかしみに包んであらわすのが俳諧のひとつの道筋でもある。二句目、三句目は、そうした玄の考えが〈声持たぬ〉、〈遊戯を尽くす〉ににじみ出ている。

 裂く鯉の目には涅槃の見ゆる筈    昭和52年作 『雁道』

 人の口腹を満たすために鯉は裂かれている。もちろん鯉の目に〈涅槃の見ゆる筈〉などない。涅槃自体が人間の生み出した観念だからだ。だが、涅槃の日に鯉を裂くという殺生を犯すことを誰がとがめられよう。誰人もとがめようがない。しかし、罪の意識は人の心に残る。だからこその〈涅槃〉なのではないか。人に裂かれて喰われていく鯉の姿に人の命を慈しみ自ら身を投げ出した仏の姿を見出したおかしみ。そして、裂かれる鯉に仏の姿を見出さざるを得ない哀しみが、この句にはある。明らかに嘘であるにもかかわらず、〈涅槃の見ゆる筈〉の〈筈〉という肉声のことばがあることで、一句にリアリティが生まれている。それが肉声であるがゆえに、読者を「そんなばかな」という観念世界から「そうかもしれない」という虚の中の実へと軽みに包み込んでいく心地よさを持つ。

 「詩は肉声であること」と書いた齋藤玄の達成を示す一句といえるだろう。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 


●―8:岡村知昭【青玄系の作家】

 木星号墜落す鯖焼きをれば   日野晏子

 掲出の一句に登場する「木星号」とは1952年(昭和27)4月9日に発生したいわゆる「もく星号墜落事故」のことを指している。出発してすぐに消息を絶った羽田発福岡行の日本航空の旅客機「もく星号」(当時はノースウェスト航空の委託運航)は、懸命な捜索も空しく、翌日に伊豆大島の三原山の山腹で墜落しているのが見つかり、乗客・乗員37人全員の死亡が確認された。事故の原因は現在に至るまでわかっていない。当時の日本では例のない旅客機事故により多くの犠牲者を出したこともさることながら、「もく星号」事故では捜索の過程においてほとんど手がかりがつかめなかったために未確認情報が錯綜し、その結果「海上に不時着」「乗客・乗員全員の生存を確認」との誤報が流れたり、九州の地方紙では亡くなった乗客に「生存者」としてのコメントを創作するなどの混乱が相次いだという(ここまでウィキペディアの記述を参照)。

 おそらく自宅のラジオを通じて大惨事の一報とその後の未確認情報の錯綜による混乱ぶりを耳にしていたであろう作者であるから、もしかしたら「乗客・乗員全員無事」の誤報を聞いてひとたびは安堵したのかもしれないし、墜落した機体が発生されて「乗客・乗員全員死亡」が確認されたとの一報には安堵から一転した最悪の結末に気の沈む思いにとらわれたのかもしれない。気の沈む思いにふけるなかにあって、ラジオは墜落事故の続報を伝え、犠牲となった乗客・乗員たちの名前を次々と読み上げてゆく。練炭コンロの上で脂の乗った鯖のバチバチと焼ける、いつもと変わらない日常の光景に響く音が、なぜかいつも以上に大きく聞こえているように思えるのは、「生存」と「死亡」の間に振り回されながら、最悪の結末を迎えてしまったやりきれなさからのものなのだろうか。整理のつかない気持ちを表すかのように、この1句で作者はただ「木星号墜落す」と鯖を自分がいま焼いているという行為とを取り合わせることのみに徹し、決して自分の感情を露わにはしていない、いや露わにはできなかったというほうが正しいのかもしれない。その間も鯖は脂をしたたらせながら焦げてゆく。この鯖を食べるであろう病床の夫もきっと大惨事に心痛めているのかもしれないが、夫婦にとってはあまりにもかけ離れた場所で事態は刻々と動いているのが、どうにもやるせなさを感じさせ、かえって1句に自分の想いを書くことを思いとどまらせたのかもしれない。

 ラヂオ啾々と濁流に人溺る    日野草城

 泣く母の声届く霜置く船に

 静臥時のラヂオ職業案内を

 妻の作品に続いては、夫である草城の最後の句集となった『銀』からラジオから伝えられる世相をモチーフに詠んだ作品を引いてみた。こちらも余分な感情の露出はできうる限り避けて、起こったニュースの核心をそのままに掴み取るような作風でまとめている。1句目は「北九州南近畿水禍相次ぐ」との前書きが付く。「人溺る」の結句にラジオの前と現場との距離感を感じさせはするが、水害のニュースを読み上げるアナウンサーの声と大きな被害をもたらす濁流の響きとを微妙に重ね合わせることで、現在進行形の水害の臨場感だけでなく、刻々と伝わるニュースに昂ぶりと恐れを抱え込んだ自分の心情も表している。2句目はこちらも「帰る興安丸」との前書き付き、引揚船「興安丸」の舞鶴港への到着を伝えるニュースからのものであろう。「泣く母」と「霜置く船」の取り合わせはシベリア抑留を背景にした有名な「岸壁の母」のエピソードにつながる面と持ち合わせているのが興味深い。3句目は「職業案内」、今でいうところの求人情報がラジオで放送されていたというところが当時の雰囲気を伝えているが、ラジオから流れる求人に耳を傾ける「静臥」を余儀なくされている自分の姿への、さまざまな思いも病と闘う身体中を駆けめぐっているのだろう。もちろん全身全霊を傾けて自分の看護に取り組んでくれる妻への感謝も大きいはずだ。看護する妻と看護される夫、ふたりの明け暮れにとって、ラジオの存在は確かに大きかったのである。病床の草城にはラジオで楽しんだ音楽に関しての作品も多いが、これはまた別の機会に。

 最後に。「もく星号」事故で亡くなった乗客のひとりだった漫談家の大辻司郎、墜落地点の伊豆大島から遠く離れた九州の地方紙に「無事生存」のコメントを創作されてしまったこのベテラン芸人は、戦前の西東三鬼に「サアカス」連作で次のように詠まれている。

 大辻司郎象の芸当見て笑ふ    西東三鬼

 戦前に新興俳句の旗手だった西東三鬼にサーカス見物を楽しんでいる様子を1句に詠まれ、戦後は自分が亡くなるきっかけとなってしまった航空機事故を、新興俳句のもう一方の旗手だった日野草城の妻である晏子によって詠まれたというのは、何かしら因縁めいたものを感じずにはいられないのだが、戦前戦後と自分が俳句のモチーフとして取り上げられていたのを芸人大辻司郎、果たして気づいていたのかどうか。


●―9:しなだしん【上田五千石】、

 鱒の陣冬の清水を聴くごとし

 第二句集『森林』所収。昭和四十八年作。

 この句の自註には〈富士永明寺に岸風三楼を招いて句会。泉水の鱒の群れは整然としずまりかえって、なにかを聴聞しているようであった〉とある。

 「永明寺」は、富士市にある曹洞宗の名刹で、富士山の湧水があるようだ。掲出句は、永明寺、富士市泉水辺りを吟行した中での作だろう。

     ◆

 自註にある岸風三楼は、明治四十三年岡山県生まれ。富安風生門で私の先師に当たる。

 五千石は著書『俳句 1983-1994』(*1)の第一稿の「一月 戦後俳句の見直し」の中で 

岸風三楼の遺句集『往来以後』(角川書店)など、まさに「戦後」の証言といっていい内容で昭和二十二年から昭和五十七年六月の「六月の夢の怖しや白づくし」「泰山木仰ぐ躬を寄せ過ぎゐたる」に終わる氏の第二句集。質量とも読みごたえがある。

 きりん草咲けども焦土かくし得ず (昭22)

 甘藷かつぐ未婚の腰のたしかさよ (昭32)

 水中花明日あるために美しく (昭42)

 魂迎ふ不死男仏をはじめとし (昭52) 

任意に抽いても時代が滲透している。風三楼作品の検証もまた忘れられまい。

と、頁を割いている。

     ◆

 さて、掲出句の「鱒」はサケ目サケ科の、「マス」あるいは「~マス」という名のついた種類の俗称。この句での「鱒」はいわゆる虹鱒のことを指しているように思われる。湧水に棲みついたものだろうか。真冬の静かな湧水にじっと動かない鱒の群れは、儚いが美しい姿をしていたに違いない。

 この句の制作年、昭和四十八年は、『畦(通信)』の第一号発行の年。さまざまな俳人との交流が深まっていた頃だったのだろう。風三楼を招いた句会もその一環で、楽しく緊張感のあるものであったと想像する。

     ◆

 ちなみに『俳句 1983-1994』は昭和五十八年から平成六年までの俳句時評で、主として読売・朝日・共同通信系の新聞に執筆したものを編んだものである。


*1) 『俳句 1983-1994』11994年邑書林刊


●―10:筑紫磐井【楠本憲吉】、【テーマ:妻と女の間】

 余寒原稿あと二時間で妻起きる

 昭和63年『方壺集』より。

 あまりにも楠本憲吉の軽薄さを述べすぎた。他の「戦後俳句を読む」ではこれほど主人公の悪口を書いている例はないであろう。それは、憲吉がそう読める俳句を書いているからであるが、逆にそうした読みが可能であることを本人も覚悟しているせいもあるであろう。小悪人ぶったスタイルを、本人も肯定しているのである。

 しかしそうした句ばかりが並んでいると、時折、そうした演技の向こうに見える憲吉の素顔も見つけることが出来そうだ。

 掲出の句など、夫は夫、妻は妻で全く別の生活をしているように見えながら、夫は妻の起き出す時間を知っているのである。最低限の関心を持っていることが伺える。それがどうしたといえるかも知れないが、憲吉にしては珍しいことであるのは間違いない。

 ほうれん草炒めつつ妻の古き唄

 昭和43年『孤客』より。

 妻が知っているのは古い唄だと言うことに作者が関心を持ち心が動かされること自体、ちょっと今まで見てきた憲吉とは違う思いがして違和感を感じるのである。今まで見てきたというのは、

 寒厨(かんぐりや)暗いシャンソン歌うな妻

 惜春や妻の寝息のアンダンテ

 終い湯の妻のハミング挽歌のごと

のような派手さのあふれた句のことである。

 そしてその時感じる違和感は決して嫌なものではない。かえって、こんな心境にほんの僅かでもなれることにほっとする感じを抱く。

 正直言って、楠本憲吉は嘘つきである。四六時中嘘をついている、俳句は上手に嘘をつくことだからそれは決して非難されることではない。しかし、こと男女関係や人間関係を俳句に持ち込んで嘘をついていると、日常生活と文芸の間の揺らぎが、人格的な嘘つきに見えてしまうことがある。憲吉はそれに近い。しかし、そうした嘘つきが洩らす僅かな溜息や眼差しを見逃してはならない。


●―12:北川美美【三橋敏雄】【テーマ:『眞神』を誤読する】38.39.40.41.

38. うぶすなの藁がちの香よ疲れ勃つ

 「ガチ」という言葉が2000年後半から20-30代世代で使われるようになったようだ。「本気/本当」の意味だが、現在ではそれを飛び越えて「超」や「激」と同様の「程度が激しい、出来がいい」という意味合いも持っている。接頭語として使う。しかし、収録作家の年代が30-40代だからか『超新撰』は「ガチ新撰」とは呼ばれていないようだ。接尾語としての「がち」。「勝ち(がち)」であれば、「その傾向が目立つようになるさま」(『三省堂古語辞典』)ということ。

 産土神(うぶすながみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ)は生まれた土地を領有、守護する神。あるいは本貫(先祖の発祥地)に祀られている神。

 では、「うぶすな(産土神)の藁がちの香」とは、私たちの祖先が土地に根付いて生きてきた証のような香り、家畜糞とともに藁などの副資材を混合した堆肥の匂いの中から藁の香りに傾いて薫ってくるということを想像する。いわゆる土の第一印象の香り、トップノートが「藁がち」であるという中でトランス状態となり「疲れ勃つ」。肉体を酷使した男、田園の男、再びミレーの『種まく人』である。伽羅、栴檀などの源氏物語の王朝の香りとは異なる農耕民族の香りである。

 そして「疲れ勃つ」っている作者敏雄の目線はあまりに遠い。自己の姿でありながら醒めすぎる目で望遠していると思える。別の「われ」を観察しているように映ってくる。

 33句目から38句目までの句を配列順に記す。

 行雁や港港に大地ありき

 捨乳や戦死ざかりの男たち

 然(さ)る春の藁人形と木の火筒(ほづつ)

 正午過ぎなほ鶯をきく男

 共色の青山草に放(ひ)る子種

 うぶすなの藁がちの香よ疲れ勃つ

 ただ寡黙に生きることに従い、流されて港へ行き、死にゆく男達を葬り、呪術ともなる道具を回顧し、耳の奥にいつまでも鶯の声がし、野に出て肉体が性的に反応し、脳裏に蘇るさまざまな出来事が反転しているネガフィルムのように、われの中で螺旋を描いている。全ては事実でありながらもうそれは過去という夢に変わったのか。全ては何も無かったということに等しい。ただ、ここにわれが生きるというだけの現在の生という命があるのみである。出会った人も、見たものも、聴いたことも全てはまぼろしだったのではないか。事実と事実の間、瞬間と瞬間の間にただわれがいたというだけなのだろうか。

 産土神に導かれるように自分の肉体は興奮し、子種を放出する健康な肉体を持つ。われは孤独な塵でありミトコンドリアと同じ生命体をただ老いていくだけなのである。そして命ある以上、いつかは死ぬのである。今ある個の命を生きている、ただの「われ」が存在することが感じ取れる。


39. 真綿ぐるみのほぞの緒や燃えてなし

 桐の箱に入った臍の緒を母から渡された。確かに真綿にくるまっていた。ミイラのような臍の緒がただそこにあった。生体から水がなくなると繊維質だけになる。母と自分を結ぶものであった証、己が人の腹から生れて来たという証である。しかし母と己の関係は今は別の人間として別の時間を生き、生まれたときから別のことを考えている。いつから自分は自分というひとりの人間であることに目覚めたのだろうか。真綿で大切にくるまれたように赤ん坊は祝福され大切な宝のように育てられる。このミイラのような臍の緒がなくなったとしても何の影響もない。戸籍も年金番号も電話番号も今まで通りである。自分が死んだらこの桐の箱は誰が始末しなければならない。燃えてしまえばなくなって何もなかったかのようだ。母と自分がこの管で結ばれていたという事実も過去もなかったことと思うこともできる。

 措辞「燃えてなし」ということは、今まではあったものが存在して今、ここにないこと。けれど関係とは目に見えないものである。管は切られてなくなって、それでも縁は切れないもの、母子以外の縁もそうなのだろうか。


40. 夕より白き捨蚕を飼ひにける

 「捨乳(すてぢち)」が出てきたが、ここでは「捨蚕(すてご)」である。病気あるいは発育不良の蚕は、野原や川に捨てられる。「捨蚕」と「捨て子」同じ響きであることがどこまでも悲しい。蚕は家畜化された昆虫であり野生に生息しない。またカイコは、野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、人間による管理なしでは生育することができない。人の手により育てられる蚕は人間の赤子のようでもある。

 生きながら捨てられているものを飼う。臍の緒が燃えてなくなり、捨て子となったわれのように。生きているものはいつか死ぬ。生きているものだけがこの世にいる。今、生きているものは、この作者と蚕だけのような錯覚にも陥る。他に生きているものはいないのか、という問いでもあるように。

 「夕より~飼いにける」という時間経過は何なのだろう。夕べから現在までの時間経過が妙な想像をも働かせる。正確に時制を考えると、夕から現在まで捨蚕を飼い続けているということだが、ではこの先をどうするのかは、何も言っていない。捨蚕を飼うことがはたして慣れない人にできるのか。蚕は野生回帰能力のない動物であり、蚕を桑の葉にとまらせても、ほぼ一昼夜のうちに捕食されるか、地面に落ち、全滅してしまう。幼虫は腹脚が退化しているため樹木に自力で付着し続けることができず、風が吹いたりすると容易に落下してしまうからだ。加えて病気あるいは、発育不良の捨蚕である。

 過去から現在進行形で捨蚕を飼っていることがわかるが、この先おそらく長くは生きていられない命であることが伝わってくる。


41. あまたたび絹繭あまた死にゆけり

 真綿、捨蚕の次は、絹繭である。敏雄の生れた八王子は絹織物の産地として名高い。蚕の一生はわずか57日ほどで幼虫は桑の葉だけを食べつづけ4回の脱皮を繰り返す。やがて蚕は1,500mほどの糸をおよそ2昼夜吐きつづけ、頭を8字形またはS字形にふりながら、美しい一粒の繭をつくりあげる。蚕は繭の中でサナギとなり、蛾になって繭殻を破って飛び立つ。蛾になる前に殺蛹し、かたちのよい正繭が絹となる。これが「絹繭」ということになる。それが死んでいく状態とは、繭玉の数だけ殺蛹が何度も繰り返えされることを詠んでいるのだと解釈する。

 蚕の養蚕は中国で発生し5000年以上の歴史がある。日本では『古事記』『日本書記』にも登場する。幼虫が吐き出したもので生糸ができるということはまさしく不思議な発見だ。絹繭になる蛹は死ぬことが決定づけられることになる。 

知らず、生まれ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて何方(いづかた)へか去る(『方丈記』)

 「死にゆけり」という直接的な命の終りを詠うことにより命の行く末を正視しているといえよう。前句「夕より白き捨蚕を飼ひにける」の「飼いにける」と同様、「けり」が過去を抱えた形をとっている。過去も沢山の絹繭が死んでいったが、今も沢山の死んでいく・・・過去を抱えた死であることがわかる。前句の「生」と掲句の「死」の配列であるともに二句にわたり「けり」を使用し、生きていることも死ぬことも過去から現在、そしてその先へ繋がる普遍なき輪廻であることを言わんとしていると読みたい。


42.父母や青杉の幹かくれあふ

 「隠れあふ」というのは、青杉が重なり合い、青杉が青杉に隠れているということなのか。杉の木と木の間に父と母の幻影をみたというのだろうか。

 ルネ・マグリットの絵画『白紙委任状』(原題- Le Blanc-Seing )を思い浮かべる。まさしく敏雄の俳句の投影のようである。

「目に見えるものはいつも別の見えるものを隠している」

「馬上の女性は木を隠し、木は馬上の女性を隠す。しかし私たちの思考は見えるものと見えないものの両方があることを知覚している。思考を目に見えるものにするために私は絵を利用する」-ルネ・マグリット

 見えているようで見えていない世界、思考が螺旋のようになっていく敏雄の俳句。思考は17文字の中から広がり読者の脳裏に絵を描きだす。

 父母。42句目にして同時に出て来る父と母。われよりはるか遠いところにいる。そして見えるような見えないような。われの中にあるチチハハ。

 ちーちーはーはー。杉林の中で遭難したような気になる。新緑の山に足を踏み入れると杉の香りに誘われて自分のルーツがそこにあるようだ。村はすでに消えた。眞神の山の杉の木は青くそして昏く、奈落という死の淵がいつもその脇にある。鳥の声がする。


43.きなくさき蛾を野霞へ追い落す

 2012年3月某日。快晴。

 それは北関東、狼信仰の名残りある山。狼の狛犬、カラス天狗を確かめたく車を走らせた。途中には庚申塚や道祖神が山の懐のように路肩から手を伸ばすと届く位置にあった。川の流れる音だけがする。民家が幾つかあり茶畑の手入れをしている人が不思議そうに車を見送っていた。山道は意外にも奥の奥まで舗装され、「熊出没」の立て看板を幾つも通り過ぎた。この先に民家が無いという印のようにとうとう舗装が途切れた。ところどころに落石が散乱する道に突入し、山側には伐採された杉の木がばらばらに横たわり崩れてきそうだった。突然とうっそうとした杉林が道幅を暗くしている。右は谷。奈落は深く明るく落ちて行くにはあまりに晴れていた。その時点で町に引き戻ろうと足をすくめ出直すことにした。あの時、蛾を見なかったことが幸いしたのだろうか。

     ◆

 「きなくさき」という措辞により、物騒なことが起こりそうな気配をもつ蛾である。

 日本では、古来、蝶と蛾の区別はなく、かつては、かはひらこ、ひひる、ひむしなどと大和言葉で呼ばれていた。蝶と蛾の区別は、英語圏の博物学の導入によ”butterfly”と”moth”の分類法が日本語に導入されたらしいことに依るらしい。蛾類学会の生物学上の分類は、昼間の環境に特化して飛翔力の鋭敏な一群を蝶と呼び、それ以外のものを蛾と呼んでいる。

 蝶や蛾は、蛹(さなぎ)から飛び出してくるので、人間の体から抜け出る霊魂と同じように考え、あの世(常世)とこの世(現世)を行き来する吉と不吉との両面から意識されていた。「日本書紀」には虫神として祭られ「常世(とこよ)の神」と表現されている。蛾は特に嫌われ者という扱いではない。

 この句で意識するのは、「常世」そして、追い落とすという措辞から「奈落」の世界が考えられる。40句目の「夕より白き捨蚕を飼ひにける」41句目の「あまたたび絹繭あまた死にゆけり」の繋がりを考えると、養蚕の神として「おしら様」と崇められもする蚕が、今度は、蛾となって野霞の奈落へ追いやられ、嫌われもの扱いのように読める。小さな共同体の中のいじめのようにも思える。いわゆる村社会である。

 馴染みの人々も老いて死に、かつての家族は都会へ移り住み、村から人が消え廃屋となった家々が残る。どこか時間が止ったような世界は、時間軸のない常世の世界という映り方。再び、阿部公房の『砂の女』の世界へ入ったような、主人公の男も昆虫採集の途中で穴に落ちた。人は、時間軸のない世界へ興味をもつ。

 この句の常世と思える世界は、奈落なのである。時間軸のない奈落。

 39句目「真綿ぐるみのほぞの緒や燃えてなし」から時間軸が停まったような句が多くなる。

 しばらく、読者はその停滞した時空を読者は浮遊していく。


44. 箸の木や伐り倒されて横たはる

 「横たはる」と言っているだけで何も主張していない句。しかし読者は何故か、その先に眼をむける。それは書かれていないものを読もうとする俳句だからだろうか。

 「伐り倒されて」の受動する措辞。倒されるのは箸の意志ではなく、人の意志がそこにあるということだろう。そして「横たはる」という人を想像させる擬人化に近い表現からだろう。殺されて横たわっている箸の木という生き物。死者が横たわるように描かれているのではないかと読む。

 掲句が収録された『眞神』上梓の時代は「エコロジー」という言葉が定着していない時代である。「箸の木」は消費されるために倒される。『眞神』上梓の頃にインドネシアで日本の割り箸の木となる木が伐採されて山が枯れている写真をみた。おそらくその頃から箸をとりまく環境問題が論議されてきたのだと振り返る。現在『眞神』上梓から38年経過した。箸の木の伐採が本当に環境破壊を引き起こしているのかどうかは、論議が繰り広げられる難しい問題となっている。


割り箸から見た環境問題

 日本に箸が入ってきたのは、弥生時代の末期。その当時の箸は、「折箸」という、細く削った一本の竹をピンセットのように折り曲げた形であり、一般人の用途ではなく、神様が使う神器、または天皇だけが使うことを許されたものだった。7世紀の初め、中国での箸の使用について遣隋使から報告を受けた聖徳太子が朝廷の人々に箸の食事作法を習わせ日本での食事に箸を使う風習が始まったらしい。「古事記」にも箸が登場する。敏雄の生れ育った八王子・高尾山の飯盛杉は地面に刺された箸が根付いて大木や神木になったとする箸立伝説が残っている。

 切り倒され横たわっている箸の木を想像し、お箸の国について考える。いただきますとごちそうさまが言えることに感謝し、箸をもつ指先から箸の木たちの魂を感じ取りたいと思う句だ。


45. さかしまにとまる蝉なし天動く

 確かに蝉は逆様には留まらない。コペルニクスは、地球が動くとし、敏雄は天が動くと詠んだ。

 ここで俳句の躍動を感じるのは、「なし」といって「動く」となることだろう。このような当たり前の事実に基づく句が好きだ。事実は動かない。けれど、天が動くのである。このような技を身に着けたい。「俳道」という言葉があるのならば、その道に精進したい。

 ここでの天動というのはピタと木にとまった蝉を中心に天が動いていく風景が見えてくる。天動説(全ての天体が地球の周りを公転しているとする説)の意味に少し近いようなことも考えるけれど、それはジコチューの世のことも言っているのかとも推察したりする。

 「さかしまにとまる蝉」がもしあったとしたら、どうなっているのだろうか。そしたら、「地」が動くのかもしれない。確かに「地」が動いたら、「ビックリハウス」(遊園地にあるアトラクション)になるのかもしれない。そんなことを考える句。地動説(地球が動いている、という学説。)は確かに正しいが、さかしまにとまる蝉は、間違えていると脳が考える。

 事実は動かないのである。それは江戸俳諧を身に着けた敏雄ならではの俳技だ。

 今迄の鑑賞句を振り返り、三橋敏雄は秀才にして多作。ありとあらゆる方法、全く意外な取り合わせに遭遇するばかりだ。

 江戸に花咲き、今も生き残る俳句、現代の俳句として引き継いだ三橋敏雄の功績が賞されることに同意する。


46. 油屋にむかしの油買ひにゆく

 油を買いにゆく、それも「むかしの油」。

 「むかし」とは「油屋」という名称が日常にあった江戸の頃を想像する。

 江戸の風情を買にいく。

 油のリフレインの中に人との繋がりが潜む。

 江戸のむかし、油は行商人が売りに来た。

 そう「油を売る」とは「油売ってんじゃねぇ。」と言われるように「無駄話をして時間を潰し、仕事を怠けること」の意味を持つ。熊さん八っつぁんの江戸情緒、江戸しぐさ(江戸の商人哲学)が伺える。「油売る」のその意味は、「風が吹けば桶屋が儲かる」ほどのかけ離れた因果関係はないが江戸の人の営みが見えてくる。

 髪の油、行灯油は当時、粘性が高く、柄杓を使って桶から客の器に移すにも雫が途切れず時間がかかる。商人が、婦女を相手に長々と世間話をしながら、油を売っていたところからその意味に転じ「油を売る」といわれるようになった。

 あえて「油屋」が示すことは、すなわち、ゆっくりとした時間を共有していることである。人と人とのコミュニケーションが成立していた時代。「ありがとウサギ/まほうのことばで/たのしい仲間が/ポポポポ~ン」という歌詞が繰り返し流れた2011年のあの時も時間の共有であるが、地球の大きさも時間の長さも当時と微妙な差があるとしても、流れる物事の早さが異なる。その感覚が「むかし」という言葉に因り引き出されているのではないか。それを敢て「買ひにゆく」ことにある。

 読者を個々の郷愁に連れ出そうとする『眞神』の時空がそこにある。


47. みぎききのひだりてやすし人さらひ

 利き手は何をするにもまず先に出る。

 利き手の握力は強い。握力の弱い利き手ではない手で、危険と思うことができない。

 人は誰でも弱い部分を持つ。「人さらひ」という鬼畜のような存在がふと見せる人間の穏やかさとしての「やすし」。そこに「人さらひ」の人となりがみえてくる。

 左、右を示す表現は多義である。「人」を除く表記がひらがなであることも人のやさしさに対する配慮であると思える。

 下五の「人さらひ」の取り合わせが読者の想像力を働かせる。けれど、ヒトサライが右利きであることなど、誘拐に遭遇して気が付くのだろうか。それは、ヒトサライを観察してそこにコミュニケーションが生まれなければ利き手などわからないだろう。「わたしを奪って・・・!!」と懇願されて仕方なくヒトサライになった男狼だろうか。それもひらがなが醸し出す淫靡なマジックだ。

 人について考える、人の手について考える。その手には温度があるということだろう。


●―13:深谷義紀成田千空の句

 鯉ほどの唐黍をもぎ故郷なり

 今回のテーマは「魚」である。そのため千空の句集をめくり、魚を対象とした作品を読んでみたが、これと思える作品に出会えなかった。というのも、ずっと頭の中に掲出句が鎮座していて、この句と比較すると「魚」そのものを対象とした、どの作品も物足りない思いがしたからである。というわけで今回は、ストライクゾーンから外れていくチェンジアップ気味に、この句を採り上げてみたい。

 掲出句は第3句集『天門』所収の作品である。津軽の唐黍(玉蜀黍。津軽ではその実の色(黄色)から“きみ“と呼ばれる)といえば「嶽(だけ)きみ」が名高い。千空がいつも眺めていた岩木山の南麓、嶽高原で採れる玉蜀黍だが、小ぶりの品種であることから、この作品の対象となったものではなく、千空が詠んだのはもっと一般的な玉蜀黍だったと思われる。

 さて玉蜀黍と鯉。両者に共通点は乏しく、直喩としてはかなり斬新だ。もいだばかりの玉蜀黍を胸に抱えた時、不意に千空の脳裏にそんなイメージが浮かんだのであろう。少なくとも書斎で作れる句ではない。そうしたイメージが浮かぶほどの量感を持った玉蜀黍であり、抱え込んだ両腕の中で暴れ出しそうなほどの野趣を感じたということだろう。

 そして、下五に投げ込まれた「故郷なり」という措辞。ふるさと自慢というよりも、思わず口をついて出た作者の実感だろう。その意味で、津軽に生まれ、生涯その土地に執した千空ならではの作品だと思うし、飾り気のない詠みぶりもかつて師草田男が「素手で対象を捕まえたような」と評したこの作者らしい作品だと思う。


2026年2月13日金曜日

【短期連載】未来俳句宣言についてーー高山れおなの読売文学賞受賞を祝して  筑紫磐井

 一.宣言に至る経緯

(1)俳句史の認識

 俳句の歴史とは、子規の「新俳句」→新傾向→ホトトギス→新興俳句・人間探求派→社会性俳句→前衛俳句・心象俳句→閉塞の時代(前衛と伝統の固定化)であった。新しい時代の精神は常に前の時代の否定から生まれてきた。今や「閉塞の時代」から「新しい自由な俳句」に進むべきだ。


(2)新しい俳句をどう模索するか

 我々の望む「伝統」とは、ルールではなく、作品――過去の名作(自由律の名作も含む)という文学的財産である。そして過去の俳句で掬いきれなかったものにこそ「未来」(新しい自由な俳句)がある。

 既存の俳句――それがどんな名作であってもそれを操作するだけでは決して「新しい自由な俳句」は生まれない。我々は、過去に見たことのない風景を見たいのだ。


ある日快晴黒い真珠に比喩を磨き  金子兜太

 *ほとんど知られることのない傑作。メタファーを否定した真の「前衛」である。

木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど 阿部完市

 *詩は音楽である。

牡丹ていっくに蕪村ずること二三片 加藤郁乎

 *この句のどこに文法があるのだろうか。

幾千代も散るは美し明日は三越 攝津幸彦 

 *文芸から広告ができるのはない、広告から文芸ができる。

麿、変?  高山れおな

 *自由律俳句を追い抜いた諧謔という天才的思想。

ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ  なかはられいこ

 *川柳作家の傑作。9・11の衝撃が形式を破壊した。

去年今年貫く棒の如きもの  高濱虚子

 *自ら築き上げたホトトギス俳句・花鳥諷詠を全否定した世界観。

                              [注:後日修正]

(3)宣言

 そうした未来の作品としてのありかたは作家各人が提案すべきものである。それを「宣言」と呼んでみる。

 かつてアバンギャルドは宣言であった。イタリア未来派宣言、ダダ宣言、シュルレアリスム宣言、形而上派の言説(キリコ『エブドメロス』)・・・。

 前衛俳句に自句自解はできない。できるのは宣言だけである。まず宣言があり、それを踏まえた俳句作品が生まれるべきだ。宣言と作品を含めて談論風発が起こる。

 言っておくが、宣言しても、我々は連帯しない。個々の作家であるからだ。しかし、共感はしたいと思う。

     *

 まず、新しい宣言を作ろうではないか。次章に私だけの宣言を書いた。これに呼応する作家に呼びかけたい。これらは伝統派から狂気扱いされるだろうが、我々はそれを恐れない。我々は、過去に見たことのない風景を見たいのだ。

【参考】「豈」では攝津幸彦記念賞を募集発表してきたが、本年の第11回は評論を募集している。新しい評論(宣言)に応募してほしいと思う。


(4)世界へ

 1999年松山で開かれた国際俳句フォーラムで、有馬朗人を中心に国際俳句の「松山宣言」が発出された。これを受けて、2000年に正岡子規国際俳句賞(2000~8年)が創設され、4協会会長の有馬朗人・金子兜太・稲畑汀子・鷹羽狩行を選考委員に、第1回大賞がフランスの詩人イヴ・ボヌフォアに授与された(第2回はアメリカのゲーリー・シュナイダー、第3回は金子兜太)。この時の受賞講演でボヌフォアは、「俳句の命は極端な短さによる凝縮と省略、余白の暗示性にある。」と述べている。この時、彼に力を与えたのは、芭蕉ではない、フランス中世詩の断片だ。


Hélas,Olivier Bachelin 

(ああ悲しいかな、オリヴィエ・バシュラン)


 新しい自由な俳句として短律に限りない魅力を感じる。


二.宣言集(以後続くことを期待する)

➀【筑紫磐井の宣言】

〈設計〉

詩、とりわけ俳句は――

 ①一行があまりにも長い。四文字、ないし三文字で十分だ。

 文法は要らぬ、名詞・動詞だけで辛うじて伝達はできる。

 文語・詩語、誤字・誤用の駆使も一行を更に短くする。

 ②一行の中でたやすく(部分的)類想が発生する。

 だから全体の模倣だけでなく極微の模倣も否定せよ。

 ③隣る二行は連想を結合する。

 行の谷間を極大にせよ、隣人は背くべきである。

 ④一行ですべてを述べ、全体の構想を断ち切ろう。

 偶然がいつか全体を語るはずだ。

〈総括〉

 律(形式)を自由に。


〈作品例〉

●(GANYMEDE 51句より 2013.8)

吾(あ)と無

逃げれば郭公

●(第50回現代俳句講座より/2025.11)

渾 煌く犠

●(GANYMEDE2/豈68号2025.11)      

前頭葉にさわさわ湧いて明易


【新連載】俳壇観測278 ユネスコ登録の進め方3 有馬朗人氏の3つの要件・2つの願望  筑紫磐井

  ユネスコ登録論の従来の最大の課題である俳句の定義問題は上述の経緯でほぼ解決したので、ユネスコ登録についての別の登録的論拠について眺めて見よう。俳句の定義についてと同様、かなり有馬発言と齟齬した内容で伝えられている。ここで有馬氏が俳句ユネスコ協議会発起人会の公開記者会見で述べた論拠をおさらいしておこう。これがすべてのはじまりであり、かつユネスコ登録問題の全てだからである。

 ここでユネスコ登録論者とマーチン氏の対比で眺めて見たいと思うのだが、その前に、ユネスコ登録論を最初に提唱し、協議会を発足させ、登録運動を推進した有馬氏と、それに便乗しているその後のユネスコ登録論者の違いをはっきり眺めておくことが必要である。有馬氏が根拠に挙げていない主張(つまり、有馬氏に便乗した偽ユネスコ登録論者の主張)にマーチン氏の反論を組み合わせても徒労に近いからである。我々は真のユネスコ登録論者には真摯に対峙すべきであるが、偽登録論者は無視してもよいのである。

 これは、すでに決着済みの、先に述べた俳句の定義問題で明らかであろう。それではまず真のユネスコ登録論、有馬氏の登録の考えを眺めて見る。


(1)有馬氏のユネスコ登録する3つの必須要件

 「何故、俳句を無形文化遺産にしたいか、というと私が考えていることは

第1に短いということ。

第2に自然を中心に自然の中で共生している人間の生活を詠むということ。つまり、自然と共生する文学であるということです。

そして第3に短くて自然と共生することの文学で誰にでも書けるということ。」


 これが有馬氏のユネスコ登録必須要件である。

     *

(2)有馬氏の2つの願望

 有季定型か無季容認かは文学的な対立であるが、ユネスコ登録は政治的課題である。そうした政治家とのつながりから補足したものが2つある。それについて有馬氏は要件として断言しておらず、願望として述べているだけである。


➀そして又、自然を愛好することによって自然を大切にする、それが地球の温暖化を防ぐのに大変重要な役割を演ずるだろうということ。

➁そしてやがてはそれが世界の平和につながることを私は考えて、この登録推進運動を進めている次第です。


 有馬氏の言説をこのように分けることは不満の人もいるかもしれないが、有馬氏の発言ぶり(それが…演ずる、それが・・・つながる)は自ずからこうした解釈を要請する。

 大分古いこととなるが、愛媛県で開かれた「国際俳句コンベンション」(1999年9月)で有馬氏は、「俳句よりハイクへ」という基調講演を行っている。これが敷衍されて国際俳句の「松山宣言」となる。有馬朗人氏はこのとき文部大臣であったから、文部大臣講演として慎重な話しぶりをしている。言っておくが、20年前の有馬氏はユネスコ登録の話は全く顧慮していない。なぜならユネスコ登録の根拠となる「無形文化遺産の保護に関する条約」(無形文化遺産保護条約)は、2003年10月のユネスコ総会において採択され、日本は2004年6月に締約国となったから、この講演の時(1999年)、有馬氏はユネスコ無形文化遺産のことも知らず、俳句がこの登録を受けることなどおくびにも考えていなかったからだ。有馬氏は、もっぱら「俳句」と「国際ハイク」についてのみ関心を払っていた。とはいえその方が俳句の本質を的確にとらえていたということができる。


 「俳句の特徴をもう一度考え直してみようということです。きわめて簡単に考えてみると短いこと、定型であること、叙景詩が中心であること、そしてキーワードがあることです。我々は伝統としてキーワードとして季語を用いますし、無季語を容認する方は別なキーワードを持っている。そういう意味で短い、定型、叙景、キーワードがあることで俳句が一番はっきり定義されると思います。」


 20年間の間に有馬氏は俳句の本質を考究した中で表現はいろいろ変わらざるを得なかったが、中核そのものが変わることはなかったと思う。例えば、上の講演とユネスコ協議会の俳句の要件を比較してみると、「定型があること」は「短小な詩であること」「誰にでもかけること」、「叙景詩であること」「キーワードを要すること」は「自然と共生する文学であること」と対応しており、この間の表現における試行錯誤であろう。

 だから微妙な表現の違いはあるが、俳句に関する本質的な点は変わらない。例えば有馬氏はここで、俳句には季語を用いるものと季語を用いないものがあると明確に述べている。この対立軸は揺らぐことがない。ちなみに講演でこのような表現になったのは、このイベントが国際俳句を振興する大会であり、聴衆にも多くの外国人ハイク作家が参加していたからである(有馬氏は講演冒頭で「本来なら英語で話すことが礼儀だがお許しいただきたい」と語っている)。外国人ハイク作家は無季作家だからである。こうした状況認識は、ユネスコ登録に当たっても代わることはなかった。

 だからユネスコ協議会のそれ以外の要件(上述した「要望」)は、あとから追加されたものにほかならない。例えば地球温暖化も世界平和も「松山宣言」の講演では述べてはいない。俳句にとっても、国際俳句にとっても、地球温暖化や世界平和は本質的に関係なかったのだ。言っておくが、地球温暖化も、平和の探求も悪いと言っているわけではない、人類の一員としてそうした願望があっても悪くはない。しかし俳句の本質そのものは、それらと全く関係ない。論理的整合性がないのである。

 地球温暖化や、平和が登場したのは、有馬氏が政治家であったためであろう。ユネスコ登録を政治的に進めようとすれば(言っておくがユネスコ登録は文学的活動ではなくて政治的活動である)こうした願望を添えておくことは、充分あり得た話である。ただそれにしても必須条件ではなく、有馬氏の願望であったのである。

【連載】攝津幸彦記念賞応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)1

(解説)攝津幸彦記念賞(第11回)の募集

(1)「豈」における例年の攝津幸彦記念賞は本年(第11回)は評論賞の募集を行うこととした。募集に当たっては、全国学生俳句会(合宿二〇二五)で提供された評論を応募作に加えて、その他にいつもの通り募集も行った(募集はメールによることとし ani-writing@e-primex.co.jp で受け付ける。詳細は「豈」68号138頁)

(2)対象は、特に若い世代の評論家を発掘することを目的とし、新作の評論のほか、既に他の媒体で発表した評論、まだ未完のダイジェストも含めて対象とすることとした。この他に通常評論賞では扱われない「宣言」も含めることとした。

(3)締め切りまでに提出された応募作を逐次BLOG俳句新空間で紹介しつつ、予備選考を加え評論奨励賞を最終決定することとする。

 以下今回から応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)を紹介する[コールサック124号120~123頁で概要が紹介されている](原稿はたて書であるが、BLOG記事に併せて横書きとした)。


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 文人俳句の俳諧性―紅葉・鏡花を中心に―/辻村栗栖(東大俳句会)


序論


  浮世の月見過ごしにけり末二年  井原西鶴

  死なば秋露のひぬ間ぞ面白き   尾崎紅葉

  露草や赤のまんまもなつかしき  泉鏡花

 

 それぞれの辞世の句である。日本文学を語る上で欠かせない作家は数多くいるが、その中でも特に外しがたいこの三人には強い関係性がある。即ち、泉鏡花は尾崎紅葉に強く影響を受け、尾崎紅葉は井原西鶴に強く影響を受けているという縦のつながりである。確かに前掲の三句を解釈してみると、全て秋の句であることは偶然であろうが、鏡花の「なつかしき」は紅葉の「面白き」と、紅葉のからりとした死への書きぶりと西鶴の一歩引いたようなまなざしはそれぞれ類似が指摘できよう。

 さて、井原西鶴は、近世前期に現在の大阪で活躍した俳諧師、浮世草子作家、人形浄瑠璃作家である。矢数俳諧を行ったことや『好色一代男』『日本永代蔵』などを著したことで有名で、芭蕉以前の江戸時代の俳諧の代表的人物でもある。

 本稿では、この西鶴の俳諧に注目し、そこから西鶴の思想や技術などを抽出する。その上で、近現代の作家のうち最も西鶴の影響を強く受けていると言える尾崎紅葉とその弟子の泉鏡花の俳句にどのような西鶴の精神が受け継がれているのか考察した後、現代において文人俳句を読む意義を求める。


二、西鶴の精神

二―一 西鶴の理解へ向けて

 西鶴の思想や技術を理解するためには、まず西鶴が生きていた時代の歴史的背景とその時代の文壇について理解する必要がある。

 序章でも軽く述べたが、西鶴は寛永十九年(一六四二年)に生まれ、元禄六年(一六九三年)に没した。一般的な歴史理解で言えば、この時代は三代将軍家光の元で鎖国と参勤交代が既に確立した後であり、それに伴って町人文化が花開いたころである。同時代人には池田光政や新井白石などの戦乱が終わった世間で政治的手腕を発揮した人物がいる一方で、由井正雪の乱や明暦の大火などの人々を揺るがせる混乱も発生していた。

 そういった中において、町人文化に付随して文学も隆盛し、そのテーマとして政治や混乱などへの揶揄が用いられることも時折あった。その代表格が諧謔を主題とする俳諧である。そもそも「俳諧」の語源が「俳優の諧謔」、即ち人気な人や物を滑稽に詠むことにあることからも、その解釈が可能である。あくまでも俳諧における諧謔とは、和歌や連歌で用いられてきた言葉同士のイメージの連鎖を切ることであったり、新しく縁語を生み出したりすることであると言われているが、これもある種人気なものを滑稽に扱っていると表すことができるだろう。

 さて、しかしその俳諧にも様々な論理があった。芭蕉以前の主な派閥として挙げられるのは、松永貞徳を中心とした貞門派と西山宗因を中心とした談林派の二つである。この違いについて詳述することはしないが、西鶴はクリシェとも表せる和歌や連歌の予定調和を貞門派よりもさらに裏切ろうとして発展した一派である談林派に属していた。

 その宗因は次のような句を残している。

  

お閑かに御坐れいまだ残んの雪

きつたり此つゝけりかな蘭秀る花


 〈お閑かに〉の句は談林俳諧に見られる大胆な破調の句である。即吟句であると伝わる。また、〈きつたり〉の句は、き・つ・たり・つつ・けり・かな・らんの七つの助動詞を詠みこんでいる。

 貞門派が和歌から引き継いだ縁語や掛詞などの技法をまだ用いていたのに対し、その自縛を解いて発展したのが談林風と呼ばれる談林派の特徴である。これが右の二句にも表れている。


二―二 俳諧師西鶴

 序章でも述べたとおり、俳諧師としての西鶴の最も知られた業績として矢数俳諧が挙げられる。一晩で二万句以上詠んだとされるが、その具体的な句数の信憑性はそこまで高いものではない。しかし一方である程度多い数の句を詠んだのは事実であるとされており、これについて加藤楸邨は談林風の流れと絡めて次のように述べる。


 貞門に於けるかかる詞の制限をとり去ったものが、談林の自由性であった。商人の伸びる力のあらわれとしての町人性が俳諧に於て徹底し、心に於ても自由となろうとするのが談林性であり、町人の社会の題材の上を、町人的な見方で伸びて行ったのが談林俳諧であった。西鶴に於てあらわれた談林性もこういう町人性、こういう自由性であり、これが西鶴の対他的優越意識と結びついたところに矢数俳諧があらわれたものであると思う。


 楸邨は談林風を構成する要素を「町人性」「自由性」であるとした上で、その表れが矢数俳諧であるとする。また、当時矢数俳諧を行っていたのは西鶴だけではなく、むしろ西鶴の句数を超える者も数人かいたという。それらに対抗して西鶴が二万句以上作ったとすると、西鶴には「対他的優越意識」があったのではないか、というのが楸邨の意見である。

 このような西鶴のスタンスは「阿蘭陀西鶴」とも呼ばれ、周囲とは一線を画していた。


 三、文人俳句

 三―一 尾崎紅葉

 近現代の作家で、最も西鶴の影響を受けていると言われているのは尾崎紅葉である。国文学者の安藤宏は紅葉の『伽羅枕』と西鶴の『好色一代女』の冒頭部分を比較した上で次のように述べる。


 文章のリズムも含め、かなり意識的な模倣であることがわかる。(中略)紅葉を貫いていたのは徹底した美文意識で、筋立ての妙と文章の技巧によって登場人物の「情」を照らし出していくことをめざす彼らの小説観は、近代人の日常的な内面心理をえぐっていくことをめざした二葉亭四迷のそれにまさに逆行するものであった。


 つまり、明治期の文壇の流れとしてあった二葉亭四迷にはじまる言文一致の運動の揺り戻しとも言うべきこの「西鶴復興」に最も寄与したのが尾崎紅葉なのである。

 紅葉が西鶴に影響を受けたのは小説だけでない。この時代の文豪は教養として俳句を作ることも多く、紅葉もその例に漏れない。現代俳句は、そのほとんどが正岡子規や高浜虚子から始まるホトトギスにその源流を持つが、明治期にはホトトギス以外の一派として文豪の俳句があったのである。詩人の大岡信は次のように述べる。


 僕は、正岡子規がいる一方で尾崎紅葉がいると思う。尾崎紅葉の俳句というのは、今日ほとんどまったく知られていない、といってもいい。『尾崎紅葉全集』の編集に関わった関係で、紅葉の俳諧ならびに紅葉の短詩型文学とその理論を並べた巻に携わりました。その結果、正岡子規の側から近代俳句を見るだけでは、事態の一方しか言っていないことになると感じたのです。


 もっとも、やはり本業でなく俳句を作る潮流は絶えやすく、現代俳壇において紅葉の系譜を自称する俳人は皆無といってもよい。

 具体的に紅葉の俳句を読むと、次のような句に西鶴らしさを感じることができる。


天渺々海漫々ひよつこり一ツ松漁船

稲妻や二尺三寸そりやこそぬいた


 それぞれ談林俳諧の気配を感じることができる。「天渺々海漫々」の句はその破調に西山宗因の作風を感じることができる。俳人の小澤實は、この句を「最初に『天渺々海漫々』と漢語を連ねるが、『中にひよつくり』と途中で俗語に転調する」(小澤、二〇二五)ところに西鶴よりの俳諧の流れを見出している。また、「稲妻や」の句は高山れおなの解説によると硯友社という文芸サークルの場で言語遊戯的に作られた句であるとしていて、これも談林俳諧の即吟の精神を受け継いでいる。

 また、絶筆の句とされる〈寒詣翔るちん〳〵千鳥かな〉の句も、岸本尚毅によれば「『ちん〳〵』は千鳥の声の形容ですが、男女の深い仲も意味し」、直接岸本は述べていないものの、掛詞を用いながら男女の深い仲という卑俗なところを詠んでいるさまに俳諧らしさを感じることができる。

 このように、尾崎紅葉は従来言われてきたように西鶴の影響を色濃く受けているが、それは小説だけに留まるものではなく、俳句にも通じていたのである。

※「ちん〳〵」はくりかえしで「ちんちん」


三―二 泉鏡花

 泉鏡花は尾崎紅葉と師弟関係にあった文人で、句作も行っていた。鏡花が紅葉から受けた影響はとても大きく、文体等において多くの指摘がなされている。しかし、鏡花自身が近世の蕉門俳諧などから直接受けた影響に関する研究はいくつか見受けられるものの、鏡花が紅葉を通して西鶴から受けた影響について書かれた文献はほとんどないと言ってよい。また、そもそも鏡花の俳句について書かれた書籍や先行研究は、秋山稔編の『泉鏡花俳句集』と前述の岸本尚毅による『文豪と俳句』のみと言ってよいほど少なく、今後の研究が俟たれる。

 さて、泉鏡花の句風の特徴として秋山は「①『色彩の配合』を多用し、『理想美とロマン』を追究した『華やかな句』、②『写生に抒情・感傷をこめたやさしい艶のある句』であり、③『芭蕉・蕪村その他の古句』の影響、④『小説の延長』とみられる句」と述べている。今回着目したいのは③である。なぜ鏡花が紅葉を通して西鶴から受けた影響について論じられてきていないかと言えば、仮に鏡花に俳諧の影響を感じる句があったとして、それが鏡花自身が芭蕉・蕪村から受け継いだものなのか、紅葉越しに西鶴から受け継いだものなのか判別することが難しいからであると考えられる。しかし本稿では既に談林俳諧の特徴と、さらにその中における西鶴俳諧の特徴について明らかにしており、これを用いることで鏡花の俳諧様の句について判別することができると考える。

 

礫打ツへく打破ルへく胡桃に石の手頃なる

とうからしあいつからさが過ぎるてな


 いずれも『泉鏡花俳句集』より。このように、破調と即吟性といった談林俳諧の作り方を想起させながら、口調の砕け方や内容に「町人性」を感じる句が鏡花には時折みられる。もっとも、この作り方が鏡花のメインではないことは確かであり、西鶴の影響を受けた紅葉の影響をさらに受けた鏡花俳句にとっては、既に西鶴要素がかなり薄れていることを示唆している。


四、結論

 本稿では、談林俳諧とその中の西鶴の位置や作風を確認したのちに、近現代において西鶴の影響を受けている作家である尾崎紅葉とその門下の泉鏡花の俳句を西鶴の俳諧と比較し、その影響の度合いについて考察した。談林俳諧の特徴は和歌や連歌のクリシェから脱出しようとしたことにあり、その手段として破調や即吟、雅俗の接続が用いられることがあった。その中でも西鶴は対他的優越意識を持ちながらも町人性、自由性を忘れずに当時の俳壇で大きな存在感を放っていたことがわかっている。

 そして、紅葉はそういった西鶴を再発見し、その写生法などを学びながら自らの俳句にも談林風を取り込んだ。しかし鏡花にまで至ると、西鶴の影響は薄まり、わずかに数句談林風の俳句が見られるだけになった。

 このように、子規の系譜に属さない文人の俳句は、近世の俳諧の特質を独自に受け継いでいるケースがある。現代において子規や虚子などの伝統からの解放を訴えるならば、その枠組みの外側に位置していた文人の俳句を読み直すことも重要なのではないだろうか。


【大学俳句会アンケート回答】➀俳句とは何なのか➁俳句で何をしたいか➂俳句に関して何を書きたいか、

辻村栗栖 「➀俳句とは何なのか:日常の過ぎ去って行く目の前の景色を書き留めたい。➁俳句で何をしたいか:馬酔木の作家に興味がある。かなり血は薄いが馬酔木の作家の系譜に連なる作家としてどのように新興俳句が発展して現代の俳壇で覇権を握ったのか調べたい。➂俳句に関して何を書きたいか:俳句史、特に戦後。もしくは江戸俳諧について。」


【筑紫磐井感想】

 子規、虚子が中心となっている現代俳句の系譜の中で、紅葉・鏡花らを取り上げたのは見識である。ただ、論者は二人を、西鶴の系譜ととらえているがこれは小説であってはそうかもしれないが、俳句にあってはどうだろうか。

 さてこの論では、岸本尚毅『文豪と俳句』、高山れおな『尾崎紅葉の100句』、小澤實共著『近現代詩歌』を使っているが、単著としては高山が圧巻である。高山は『尾崎紅葉の100句』以後、「『尾崎紅葉の100句』補遺」「翻車魚」第6号(2021年11月号)に掲載(『尾崎紅葉の100句』刊行以前に補遺が出るのもすごい)、さらに雑誌「オリジナリ」に「はれのち句もり」と題して紅葉・鏡花のみならず、巌谷小波、徳田秋声、江見水蔭、川上眉山、小栗風葉、柳川春葉の紅葉の門葉、太田南岳、谷活東、石倉翆葉らの晩年の弟子、星野麦人、角田竹冷らの周辺作家を取り上げており、いわば「紅葉山脈」の鳥観図を示している。これを見ると確かに子規一派に対し紅葉一派は見劣りするようだし、紅葉一派が何をめざしたかは子規一派程明確ではないようである。『尾崎紅葉の100句』で示されたように、直線志向の子規と違って得体のしれない紅葉の俳句を知るには、周辺まで視野を広げることは意味があるかもしれない。

 紅葉・鏡花の批評で興味深いのは、この中に三島由紀夫が出てくるのだが、それは、中央公論社『日本の文学』で紅葉・鏡花の巻の解説をしているからだという。力作だそうである。紅葉については、その他の評者として日夏耿之介(意外である!)、荻原井泉水、島田青峰、村山古郷の名も挙がっている。せっかく紅葉・鏡花を取り上げたのだからこれらを踏まえて現代最高峰の紅葉・鏡花論を書いてみてはどうか。俳人で紅葉・鏡花を研究する人は極めてまれだからこれは決して夢ではない。

 この論でもう一つの山となっている西鶴の影響であるが、通説での小説における西鶴の影響は間違いないであろうが、俳諧についての影響はあまり論じている人がいない。現代俳人では、高橋睦郎が紅葉は西鶴の談林でなく、其角の江戸座に近いと言っているのは銘記してよい。高山も同感している。論者独自の論があってもいいが一応参考にしておくべきだろう。

 参考までに、明治時代の子規の日本派の有力なライバルであった紅葉派・秋声会が以後忘れられてゆく過程には、高濱虚子のキャンペーンの影響があったようである。ホトトギスで虚子による「読本中にある俳句」(大正9年1月~大正12年10月)があり、その教科書俳句批判の中でホトトギス以外の俳句を排除された結果と見てよいかもしれない。

      *

 以上、私が論者を批判できるほど深い見識を持っているわけではないが、私が気づいた紅葉・鏡花論の周辺を掲げてみた。これらを批判できればほぼ完璧な紅葉・鏡花論が完成するだろう。感想と題した理由である。

【連載】現代評論研究:第23回各論―テーマ:「獣」を読む・その他― 藤田踏青、北村虻曳、飯田冬眞、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(2012年04月13日・2012年04月20日・2012年04月27日)

●―1:藤田踏青【近木圭之介】、ー「獣」を読むー 

 月烈烈断水ノ街。犬帰ル

 掲句は平成7年の阪神淡路大震災の折に詠まれた作品である(注①)。圭之介は山口県在住であったので、この句はテレビなどの映像からイメージしたものと考えられる。その時、私も被災していたので、当時の1月の寒空下の様子は体感的に受容できる。電気、ガス、水道など全てが止まってしまった街、それを皓皓というよりは烈烈とまるで身体を刻み込むような月の光として表現。そんな月下を帰巣本能であろう、トボトボと帰って行く犬の後ろ姿が目に浮かぶ。そして犬の姿に何故か人間の姿が重なって見えてくるから不思議である。句表現としては全て漢字とカタカナ表記であり、それがこの過酷な情景を推し出すと共に、句中の句点によって分断された光景と意識さへをも窺わせている。

 この時、圭之介が所属していた俳誌「層雲自由律」の平成七年の震災特集では、掲句と共に次の様な句が掲載されていた。


 「父この下です」写真にペットボトル水   小川未加   注①

 燃え尽きたダリの夜が明ける       藤田踏青    同

 首相の眉毛ほど救援のびず尚余震     古市群青子   同

 無事か無事か無事か無事だったか     中條恵行    同

 なぜだなぜだと問い糾す炎の夜      伊藤完吾    同


 特に前三作は被災者自身の句であり、後二作は無情への限りない問いかけのようでもあり、昨年の東北大震災へと思いを致すものがある。


 月に野犬化する黒い一匹の周辺    昭和41年作    注②

 夢でしかない獣が己にいて。今も   平成18年作


 「獣」にはその実体と共に、人間の「獣性」というものとも考える事ができよう。前句の黒い一匹は単純に野犬と見る事も出来るが、「周辺」という社会、環境などの対比から野犬化した一個の人間の姿と見る事もできよう。その強調された黒の輪郭線はルオーのようなフォーヴィズムをも想起させてくるようである。また後句は明らかに心理的な獣性を示しており、圭之介が当時94歳にしてなお獣性を秘めていたとは驚きであり、鋭い自画像となっている。


 かげ 黒猫となる    昭和39年作    注②

 猫 月光の幅を跳躍する   同        同


 「犬」とあれば当然「猫」も登場する。これらの句の場合の猫は、かげや月光と対峙される事によってその存在自体が強調されると共に、その存在の限界点、範囲指定のようなものを提示しているとも言えよう。そして当然それは自己と背中合わせの存在のようでもあり、転移した存在とも言えようか。


   <パレットナイフ18>抜         注③

 Ⅴ わたしは野良猫 港町のいっぴき

   影さえ与えられない駄目な野良猫(ノラ)

   いいですか向こうでは太陽が一つ素敵だ


 この詩でも野良猫は自己であるが故に太陽から遠ざけられ、影さえ与えられていない存在である。愚直な思考の方向性の中で情緒は引き裂かれ、変転し、何処へ流れ出ていくのであろう。


注① 「層雲自由律90年作品史」 層雲自由律の会  平成16年刊

注② 「ケイノスケ句抄」  層雲社  昭和61年刊

注③ 「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会  平成17年刊


●―2:土肥あき子【稲垣きくの】、(欠稿)

●―3:北村虻曳短詩として読む俳句【テーマ:死の風景】

 あの世から物干し竿が降りてくる   石部明 バックストローク 31 2010

 詩客に書き始めて数回、私用と非力で中断していたが、親しんできたテーマについて触れていないので少し述べておきたい。

 Wilson Bryan Key著・植島啓司訳・リブロポート「メディア・セックス」という本がある。広告は潜在意識への働きかけに手を尽くすという、フロイトの理論やサブリミナルという語と共に知られるようになった事柄をとても興味深い例を挙げて示している。隠されていながら露骨な表現の例示に驚くが、話は性にとどまらない。たとえば、ビートルズの「アビー・ロード」のジャケットにはポール・マッカートニーだけが死装束で登場していること、ジョニー・ウォーカーのラベルにはDEDの文字や斬首の図を読み取るなど、役に立つと言うより読み物として大変面白い。激辛から始まって、ニコチンと警告たっぷりのタバコ、70度を越えるスピリッツ、絶叫する暇も与えず首をねじ切るジェットコースター。ものそのものも、死のイメージは新奇を好む人種の無意識を惹きつけ離さない。古来、危険あるいは死も商品売り込みに際して有力なテーマとなってきた。

 コピーの時代以後、広告としばしば比較された俳句においても、簡潔にして強烈な死というもののイメージは重要である。商品のためではなく表現そのものとして。しかし戦前の句にはどちらかといえば、死には生活臭が漂っていたように思う。

 だが「第3回戦後俳句史を読む」で採りあげた

 雪積むを見てゐる甕のゆめうつつ  齋藤玄 1975

 まくなぎとなりて山河を浮上せる  齋藤玄 1978

では実生活は完全に昇華され、悲痛な聖性を帯びている。もっとパセティックに詠むと、

 黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ  中村苑子 水妖詞館 1975

 遠き母より灰神楽立ち木魂発つ  中村苑子 水妖詞館 1975

など、場面は演劇空間のようになり死は自己愛的・恍惚的なものとなる。これらはいずれも寂しさや、怖れと言った否定性に逆に価値をあたえている。もう少し醒めた読み方なら

 死ににゆく猫に真青の薄原  加藤楸邨 まぼろしの鹿 1968

 いつよりか遠見の父が立つ水際  中村苑子 水妖詞館 1975

など。暗示的には

 てふてふや水に浮きたる語彙一つ  河原枇杷男 流灌頂 1975

 この下の句では、水に墜ちた蝶がほどけることと、語彙・文字の繋がりが分解出来ることへの連想が働き、死の俳句に留めず別の観念の世界へ導く仕掛けも重要である。

こうして見ていると、死の幻を詠む俳句は1975年(昭和50年)前後に現れている。60年代に起こり70年代隆盛を極めた暗黒舞踏・演劇をはじめとする反リアリズム的な文化の流れの影響を受けていると考えられる。

 俳句にかくも豊穣な死のイメージが噴出した時代はこの70年代を置いてないであろう。他の分野では、リアリズムを越えて死あるいはそれに近い光景を採りあげたものは、古来数多くある。特に、詩の萩原朔太郎「月に吠える」、小説は内田百閒の「冥土」、絵画で朔太郎と共同制作した田中恭吉などが活躍した大正期が目立つ。大正は後世、大正デモクラシー、大正ロマンなどと称され、モダニズム、ダダイズム、アナキズムが花咲き、社会運動に加えて文化人のスキャンダル・自死などが注目された。死のイメージの豊かさは自由の爛熟と比例するのであろうか。

 しかし、嗜好の傾向は時代だけで決まるものではなく、人の資質が決定的であることは言うまでもない。若い頃、先輩に君はなぜ怖い本や不気味な本を読むのだと、本当に不思議そうに聞かれたことがある。ご本人はよくシャンソン風の「お菓子の好きなパリ娘」を口ずさんでいた。私にはその方が不思議であった。chansonを聞かず、段ボールを楽器とするFlying Lizards、苦渋と屈折に満ちた声を上げるPILなどnew wave rockを聞くのはなぜか?頭脳にエンドルフィンを生じさせるものには個人差があるとしか言いようがない。

 ところで死に対してはまた一つの処し方がある。

 家蠅の一つ感動倒れしぬ  永田耕衣 人生 1988

 空溝に黄金の蝶写り行く  永田耕衣 泥ん 1992

 これと死とどういう関係があると言うのか。私には水草や汚泥の乾いた溝が、蝶の羽の反照に映え、明かり暗がる光景、浄土あるいは冥土である。裏木戸を押すと浄土であり、死は生と合体している。耕衣は歳と共にあらゆるものに親和力をまし、涅槃に入っていったのではないだろうか。

 最後に専業俳人ではなく戦後人でもない、死の俳句の一人の先駆者を思い出しておこう。葛飾北斎の辞世とされる有名な句である。

 人魂で行く気散じや夏野原  葛飾北斎 1849

 強がりとあてどなさが日本人伝統の心意気である。機知は基角ばりとしても身についており、洒脱な死生は江戸の俳人の域を超えている。なお、現代ドイツで北斎に心酔しているのは、エロスと死の手に負えぬ画狂老人Horst Janssenで、たとえば「永い旅」、ガラスの花瓶に挿されたチューリップの絵である。完全に枯れて花びらを下に散らし、腐った葉はガラスにへばりついて乾いているといった体、悽愴なチューリップにこそ安らぎがある。


●―4:飯田冬眞【齋藤玄】、ー「獣」を読むー 

 吹かれゐて美猫となりぬ花薄

 昭和51年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 後半生の3句集から「獣」の句を抜こうと読みはじめたが、ほとんどない。だが、驚いたのは、『雁道』の獣の句はすべて「猫」だったこと。齋藤玄は北海道の俳人である。郷土を代表するヒグマあるいはキタキツネなど「北の大地」を感じさせる獣を詠んでいないはずはない!そんな勝手な思い込みのもと、第一句集から読み直してみた。

 敗れたる馬の瞳の稚なけれ   昭和14年作 『舎木』

 競馬場ながき夕を汗し離る   昭和14年作 『舎木』

 兵馬(くう)を嬰児に花の風展き   昭和15年作 『舎木』

 兵馬征く光に凛凛(りり)とみごもりぬ   昭和15年作 『舎木』

 花ぐもり馬きて馬の影つくれり   昭和15年作 『舎木』

 ごらんのとおり、期待は裏切られた。作句時期の昭和14、15年の玄は、まだ、齋藤三樹雄を名乗っており、「京大俳句」および「天香」へ投稿していた頃にあたる。その頃の獣たちは、みな「馬」だった。昭和15年に玄(三樹雄)は郷里の函館で、北海道における新興俳句運動の「指導的機関建設の埋石」(「壺」創刊号発刊の言葉)になることを念願して、俳誌「壺」を創刊している。処女句集『舎木』の馬の句はどれも、モダニズムの色が濃く表れており若々しい。

 一、二句目には「函館競馬場」の前詞。俳句を初めて三年目の若書きの句だが、作者の立ち位置が見えてきて好感が持てる。ことに三句目、四句目の「兵馬」を読み込んだ作品は、馬も人間と同様に扱われていた戦時下の生活のひとこまが描かれており、興味深い。軍隊に徴用されて空路で運ばれる馬が〈嬰児に花の風〉をひろげていると詠んだ三句目は、作者の視線の柔軟さと優しさが伝わってきて心地よい。四句目の戦争に行く馬が光を放ち人間の女を身ごもらせたというとらえ方は斬新だと思う。死にゆく命が種を超えて人の胎内に宿るというのは、どこか原始仏教的な味わいがある。人も馬も同じいのちのかけらで、死はその一過程に過ぎないという晩年の玄の死生観の萌芽を感じさせる。

 地吹雪や倒るる馬は眠る馬    昭和47年作 『狩眼』

 牛叱る声に帆下ろす声おぼろ    昭和47年作 『狩眼』

 口に乗る春歌や旱の狐立つ    昭和47年作 『狩眼』

 一転して、後半生の句。一句目の〈地吹雪や〉は石川桂郎と厳寒の網走を旅行した折のもの。〈倒るる馬は眠る馬〉は、現在でもどこかの句会に出てきそうなフレーズ。戦後俳句の文体の一典型かもしれない。「○○や××する△△は◇◇する△△」今度、使ってみよう。二句目の〈牛叱る〉の句は船で牛を搬送する港での光景だろうか。この声はどちらも人間の声であるが、対象の違いによって、音に高低差があることをとらえており、聴覚で茫洋とした〈おぼろ〉の季節を描こうとしたものか。三句目には「芦別市旭丘野鳥園」の前詞。旱天の狐の緩慢な動作を見て、思わず春の歌が口からこぼれ出したということだろうが、口ずさむ作者の心象が読者に伝わらず、難解。

 雪仔細犬猫とても十字切る   昭和50年作 『狩眼』

 牡丹の紅の強情猫そよぐ    昭和50年作 『雁道』

 年つまる人の口から猫の声    昭和50年作 『雁道』

 大寒のたましひ光る猫通す    昭和53年作 『雁道』

 どこか、ユーモラスで、軽みを感じさせる句が並んだ。対象が「猫」のせいもあるかもしれない。一句目の〈十字切る〉とは、犬猫が交互に前脚で顔を撫でるしぐさをとらえたものだろう。そこに不穏なものを嗅ぎ取るか、愛くるしさを見てとるかは読者の心象にゆだねられている。三句目の〈人の口から猫の声〉からは年末の多忙な日常が透けて見えてくる。私も仕事が忙しくなるとカンボジアの五輪選手になった猫ひろしではないが、思わず「にゃあ~」という声を漏らしてしまうことがあって、周囲から薄気味悪がられている。

 こうして見てくると、戦後の日本人にとって、最も身近な「獣」は「猫」と「犬」のように思えてくる。現在刊行されている俳句総合誌でも「犬句」「猫句」は毎号のように見かけるし、(俳句に)「詠まれた猫」という能天気な連載も好評なのだそうだ。

 戦前の「馬」の句とくらべてみると玄の「猫」の句からは、人間に使役されるような悲哀や束縛とは無縁で自由な空気が感じられる。それでいて人間の生活圏内に何気ない顔をして存在する獣。役に立っているのか、いないのか、よくわからない存在。なついてみたり、そっぽを向いてみたりする気まぐれな生き物。なんだか俳人みたいだ。人といっしょに畑を耕し、戦争に行って戦友になってくれた牛馬も尊い獣だが、猫の存在も等価に思える。

 吹かれゐて美猫となりぬ花薄    昭和51年作 『雁道』

 そこで、掲出句をみていこう。

 風になびく尾花を見つめているうちに、尾花が、白毛のあるいは銀毛のふさふさとした猫の姿に変わっていったという幻視の句。尾花の穂が猫の尾に見えるのは当たり前のような気がするが、数千のかわいらしい猫がきれいな尾を揺らしながら小さく鳴いている姿を想像したら、これはこれでかなり壮観だろうと思う。猫好きにはたまらない絵だ。ちょっとエロティックですらある。

 作者の心象が仮託されやすい獣として、戦後俳句に猫が独自の地位を確保したことを論証してみたいが、論旨から外れるので次の機会に譲ることにしよう。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 


●―5:堺谷真人【堀葦男】

●―8:岡村知昭【青玄系の作家】、「獣」を読む ― 

 わが愛語猫に通ぜず霜解くる    日野晏子

 猫は夫人の膝の上で小さく喉を鳴らしながら、おとなしく夫人の愛撫を受けている。頭からはじまり顔から喉、そして腹回りから足、尻尾に至るまで夫人の手は柔らかく猫の毛並みを撫で回している。そして夫人の手が猫の全身をくまなく動く間には、「ほんとうにお前はかわいいねえ」「よしよし」何度も繰り返される夫人からの感嘆が、もうひとつの愛撫として全身にくまなく注がれている。だがここが猫の猫たる所以なのか、夫人が言葉と態度のすべてを駆使して猫に注ぎ込む愛情に対して、膝の上の猫の態度ときたら喜びをあらわにするわけではなく、されど愛情をうっとうしく感じて逃げ出すというのでもなく、相も変わらず膝の上でゴロゴロ喉を鳴らしているばかり。夫人としても猫というのはそのようなものとわかってはいるけれど、だけど少しぐらいは喜びを見せてくれたっていいんじゃないの、との思いはどうしてもこみあげてくる。たかが猫されど猫、おまえはどうせわかってくれないのねえ、などと愚痴を思わず口にしたくなるのも、霜が解けていよいよ春の訪れが身近に感じられてきた頃だからなのだろうか。

 ここまで書いてきてなんなのだが、この一句について「そのようなことなら題材としてありがちではないか」との声が聞こえてきそうなのは致し方なく思っている。ならば境涯詠の枠に収めて、夫である日野草城を世話を一身に引き受けている日常を背景にして「愛語」を深読みしてしまうというのも、読みとしては可能かもしれないが、あまり「草城の妻」にとらわれ過ぎるのもよろしくはないだろう。ということで、ここは「日野晏子遺句集」に登場するそのほかの猫の句を見て置こう。

 猫のせて膝あたたかき十三夜

 座るより猫の四つ児が膝慕ふ

 猫の子に膝とられ窮屈に縫ふ

 まんじゅさげ真白き猫の子を抱いて

 引用したこれらの猫の句においては、猫に真向かう人物の姿もまたきちんと描かれているのが何とも興味深いところである。膝の上の猫の温もりをしみじみと感じながら秋の夜長を過ごす様子、自分が座ろうとしたとたんに膝の上にちょこんと載ってきて当たり前のように座り込む猫の自分を「慕ふ」ことへの喜び、「窮屈に縫ふ」と言いながら膝の上の猫の子を可愛がらずにはいられない自分の姿、それぞれに自分と猫の関係が成立してなければこのような楽しげな作品とはなりえないだろうことは十分にうかがえる、夫人たる晏子からの「愛語」はこのとき間違いなく猫に伝わっているはず、との確信に満ちている。「まんじゅさげ」の句においてもそれは変わらない。「まんじゅさげ」の紅は「真白き猫の子」の白をさらに引き立てるために用意されており、いま両腕で抱きかかえる白い子猫の可愛らしさを褒め称えたくてやまない自分の想いを、「愛語」を用いずに表現できている。もちろん白い子猫には自分の気持ちは伝わっているはず、との確信は揺らがない。このように「夫人と猫」の関係を見てきたとき、ならばなぜ冒頭の一句であのような意味深な書き方を、と思ってしまいそうになるのだが、やはりここは思わず口を突いて出てしまった言葉を一句へ持ち込んだ、と見るのが適当なのかもしれない。猫との時間が大切なものであるからこそ、自分の感情の微妙な部分に突き当たるというのもありえるのかもしれないから。

猫の子を妻溺愛すわれ病めば    日野草城(句集「人生の午後」より)

 夫である草城も亡くなった飼い猫への追悼句を作っているほど猫を可愛がっていたのだが、この一句では猫を可愛がる妻の姿に、どこか微妙なシニカルさを与えている。それは「病めば」すなわち「自分が病気になってしまったから妻はそれこそ『猫可愛がり』するようになった」と妻の献身的な介護を必要とする夫の目線がもたらすものだろう。草城もまたこの一句を通じて、自分の中に潜む妻への感情の微妙な部分と出会ってしまっていたのかもしれない。なるほど、猫とはなかなかに油断ならない生物であることが、この夫妻の様子を見ていても大いにうかがい知れるところである。


●―9:しなだしん【上田五千石】、―「獣」を読む― 

 シリウスの青眼ひたと薬喰   五千石

 第二句集『森林』所収。昭和五十年作。

 自註には〈十枚山麓の宿は猪や鹿を喰わせる。炉端で鍋を囲んでの熱燗、身内の野性がよみがえる〉とある。

 この句には今回のテーマの「獣」が表出しているわけではないが、「薬喰」から十分に獣が感じられるだろう。ましてや掲出句は「シリウス」が見える、山深い宿の一夜である。自註にある通り、炉端での薬喰は、まさに野性味がある。

     ◆

 自註にある、十枚山とは山梨県南巨摩郡南部町と静岡県静岡市葵区にまたがる山で、標高は1719m。

 同じ十枚山での作と思われるのが〈昼ともる寒の裸燈に村老くる〉〈冬菜二三行抹消の詩句に似て〉〈山小屋の骨正月を湯気ごもり〉で、三句目の「山小屋の」句について自註に〈骨正月とは二十日正月。正月料理の残りを骨にして平らげる火〉と記している。

 続いて、同時かどうか微妙だが〈冬を力耕霊山のほとりにて〉があり、自註では〈霊山は七面山〉と記している。十枚山からは七面山が望めると聞く。

 さらに続いて〈長氷柱杖とし突かば聖だつ〉があり、以前取り上げた〈剥落の氷衣の中に瀧自身〉につながってゆく。

 これらは第十回「夏の句」でも触れたが、五千石がスランプに陥り、盛んに山歩きをしていた時期である。

 この一連の山の句は、句集『森林』の収録順から、昭和五十年の一月の制作と思われる。場所や標高から言って雪が降ることはないと思うが、冬山には危険が潜んでいるような気がする。だが、それだけに一人を感じ、自身に向き合える時間なのかもしれない。

     ◆

 さて、青眼とは、訪れた人を歓迎する気持ちを表す目つき。シリウスを眼に見立てて、自分を歓迎してくれていると、五千石は感じたのかもしれない。

 ちなみに「青眼の構え」というのがある。「青眼の構え」とは剣術の基本的な構えのひとつ。流派によって微妙に違うようだが、中段の構えの一種のようで、一般に中段の構えは、切っ先を相手の喉もとのあたりに向ける構えのことだが、これをやや斜め上に少し上げて、相手の眉間から左目のあたりに切っ先を向けるのが、青眼の構えらしい。

 掲出句の「ひた」という言葉からそんな武道の構えのことを考えたりもした。


●―10:筑紫磐井【楠本憲吉】、【テーマ:妻と女の間】 

 さくらんぼかたみに摘まみ失語夫婦

 まさに倦怠期の絶頂にある夫婦である。かたみとは互いにであり、盛ってあるサクランボを交互に一粒づつ摘み食するのだが、その間沈黙が流れる。実に長い沈黙である。語るべき言葉を持ち合わせないのだ、それくらい夫婦の間で時間が経ってしまっている。

 男女の間と言葉の関係は、3つの時期があるという。初期は饒舌に語り合っていた二人が突然黙りあう段階、中期は言葉がもどかしくも伝わらなくなる段階、終期は何をしゃべったらよいか、お互いに言葉を探し合う段階だという。だから大概の歌謡曲は、この3つの段階を歌い上げるのだという。そうした最終段階に入った夫婦をこの句は描いている。

 しかし最終段階に入ったからと言って夫婦の生活が終了してしまうわけではない。永遠に近い長い時間をかけてこの失語の状態が続いていくこともある。この生活を破綻させて、新しい状況を作ることに二人が意欲を持つかどうか、そんなことをするエネルギーがあるかどうか、その先に希望に満ちた新しい生活が待っているかどうか、経験もない無知な若い時代ならともかくも、10年も20年もの時間の経過は、情熱を持つ対象などあるはずもないことを知ってしまうかもしれない。


 冬苺いまさら夫婦とは愛とはなど

 サクランボが冬苺に化けているが、露骨に言えばこうしたことであろう。いまさら、なのである。これは人生の普遍の原理といえなくもなさそうだが、不思議なのは、憲吉の場合あっという間にこうした状況になっていることである。結婚直後からこうした雰囲気を漂わせている。だからこれは時間の経過がこうした感情を生みだしているのではなく、持って生まれた性分であり、憲吉の本質なのである。これらの句を読んで若い人たちも愛情に絶望すべきではない、ただ憲吉のような人物を選ばない賢明な分別を持つべきである。そしてこうした感情からそろそろ卒業しかかっている我々の世代は、十分おもしろがってよいのである。人生の機微に触れている、と無責任に言いながら。


●―12:北川美美【三橋敏雄】【テーマ:『眞神』を誤読する】

 26.  己が尾を見てもどる鯉寒に入る

 実景写生句にみえるが、果たしてそうだろうか。

 小寒(1月6日頃)から節分(立春の前日)までを「寒(かん。寒中・寒の内とも)」と言い、小寒以降を「寒の入り」「寒に入る」という。冬場の鯉は動きが鈍いはず。集団で池の底のようにじっとしていることが多い。しかし、尾をみて戻る体がやわらかそうな鯉が描かれている。「己が尾」という措辞が集団から外れ自己顕示欲の強い鯉に思える。戻ったのは仲間のところだろうか。

 体がやわらかい鯉は、大きくならない鯉らしい。大きな鯉をよい鯉とするならば、いわゆる落ちこぼれ、またはアウトローな鯉である。

 「登竜門」あるいは「鯉幟(こいのぼり)」の所以のある鯉は、鯉が滝を昇るという逸話である。一旦滝をみつめながら、滝を登らず、川底に戻る鯉もいる。滝を登らない鯉は、鯉幟になれない、これも落ちこぼれ的な鯉かもしれない。

 落ちこぼれも鯉であり、本当は、池底にいる鯉こそが底力のある鯉ということもある。人間世界に置き換えて読んでしまうのは、やはり「己」という文字の誘惑だろう。「個」を重視する意味にとれる。

 「もどる」と「入る」の動詞が同時使用されている。四句前の「蛇捕の脇みちに入る頭かな」の「入る」も頭をよぎる。

 もどるも別の道なりき。


27.  玉霰ふたつならびにふゆるなり

 前句の「寒に入る」の小寒の次は冬になった句である。

 「ふゆる」というのは「冬」の古語。「増える」が転じて「冬」になっている。それも「魂(たま)が増える」という説があるようだ。敏雄の言葉に対する厳選はどの角度から検証してもゆるぎない。それを直観的に駆使できる天性に磨きがかかった秀才といわれる所以だろう。「霰」は春の可能性もある。春なのに「冬」に逆戻り。前句の鯉がUターンする句からそう思えてくる。

 「ならんでふゆる」とは雅である。助詞の「に」にその巧妙さがある。

 玉霰ふたつならびてふゆるなり

 玉霰ふたつならびにふゆるなり

を比較してみる。

並んでからそして冬になったなぁ

並びながら冬になったなぁ

というニュアンスの違いが感じられる。「に」に比重がかかる句に思える。

 また「玉霰ふたつ/ならびにふゆるなり」と切れの位置をずらしてみる。「並びに」という接続使用があるのは「A及びB並びにC」という法的表現があるが、「並びに冬るなり!」と俄然強くなってくる。あらゆる試行し読み方の違いを味わう。

 一句で何度でも美味しい。

 ひきつづき『眞神』を読むなり。


28.  春山を越えて土減る故郷かな

 春の山を越えて辿りついた故郷の土は減っていた。「故郷」という言葉に読者それぞれの郷愁が思い描かれる。

 「土減る」の措辞が心の減りようを表しているように読める。「成功をおさめたものが到達できる春なれど、置き去りにした自分の原点があったものだな。」

 やわらかさを感じる自然界の「土」という物質層が減っていく。土が減ったということで考えられるということはなんだろうか。


「除染地域のため除染土として土表面3cmを削った」

「宅地造成で土の表土面積が減った」

「アダムを土で作ったため土が減った(旧約聖書)」

「土偶を作ったため土が減った」

「金の発掘のために土を採掘した」

「三匹の子豚の1匹が土の家をつくったので土が減った」


 コンテナの中で植物が育つからといって土が減るということはないらしい。土が減るというのは人的なことが加わり起こることではないか。やはり心の磨り減りだろう。

 五行(木・火・土・金・水)相生では、木は燃えて火になり、火が燃えたあとには灰(=土)が生じ、土が集まって山となった場所からは鉱物(金)が産出し、金は腐食して水に帰り、水は木を生長させる。

 春山の「山」は土が集まった場所であり、そこには山の営み、四季を通しての山の姿がある。山を巨大な土の塊としてとらえてみると、人が棲みつく里は、山からの土がその昔火山灰として流れ込み、やわらかくそしてあたたかく人を迎え、人の営みがあった。

 掲句の「故郷」は、帰り処のない心のさまよい、春の憂いを表しているように思える。


29.  雹噛んで臼歯なほ在り故郷かな

 前句を受けて「故郷かな」がつづく。掲句の「故郷」は唐突でありながら、「故郷」という言葉に抱く人々の郷愁を再び呼び覚ます。

 気象学上で「雹(ひょう)」は5㎜以上、「霰(あられ)」は5㎜以下で区別される。よって雹は激しい自然状況下であることを想像させる。それは、「故郷」の自然環境が厳しいことを含蓄するだろう。雨がふれば槍(やり)のように激しく叩きつけ、雪が降れば猛烈な吹雪となり、夏の太陽は痛く刺すほどに照り付ける。人にはそれぞれの故郷、自己の原点がある。自然の中で人の営みがあり、家族が生まれ、里の暮らしがある。

 そして「臼歯」は犬歯よりも奥にある歯のことで、人間は犬歯も臼歯も平均的に発達している。「臼歯なほ在り」の措辞から考えると「犬歯だけでなく臼歯がまだある」という意味にもなろう。肉食動物的、攻撃的な野心だけでなくゆったりとした草食動物の守りの体制を感じる解釈が考えられる。ライオン(ネコ科)やオオカミ(イヌ科)などの肉食動物の歯は、犬歯が発達し、一旦口の中に入れた肉はあまり噛まずに飲み込む。牙というのは犬歯が発達したものだ。

 「蛇捕のわき道に入る頭かな」の項の蛇脳に同じく、「臼歯なほ在り」は、人間が狼のような鋭利な狼脳をも兼ね備える能力を暗喩しているように思えてくる。「絶滅のかの狼を連れ歩く」の句が登場するのはまだまだ先だが、狼の存在をすでにここで掲示している、というのは考えすぎでもないのかもしれない。

 故郷とはゆっくりとすり潰して呑み込むもの、その感覚を理解するものだけがこの句を味わえばよいだろう。 五木寛之の『青春の門』の中で主人公・信介が筑豊を去る時に養母タエの遺骨を噛む場面が思い出される。骨は「カリカリと爽やかに」砕けた。掲句から思い出される場面である。

 「故郷かな」の同じ下五句がつづいた。

 五木寛之もそうだが、「故郷」を背負った作家として寺山修司が挙げられるだろう。

 わが夏帽どこまで転べども故郷   寺山修司

 寺山修司が俳句に熱中していたのは昭和28年頃なので、『眞神』が上梓される20年程前ということになるが、修司は中学の頃より三鬼、そして三鬼指導の同人誌『断崖』に傾倒し俳句が出発点であることが知られている。敏雄の句を意識したいたことも確かだ。

修司の句に「母」「父」「故郷」が多く登場し、それぞれが呪物的存在を示し、『眞神』登場物との共通点も多い。修司は亡くなる直前まで、敏雄と交流があった。俳句に戻りたい想いを募らせ、三橋敏雄、齋藤慎爾らと同人誌『雷帝』を構想し誌名が決まったその十日後に修司は昇天している。

 『眞神』上梓の後に修司は没している(1983年)が、「雹噛んで」の句が五木寛之、寺山修司をはじめとする「故郷を葬るものたち」への鎮魂と言えるだろう。


30.   寄港地をいくつ去るべしセロリ抱き

 船上従事者としての敏雄の視線が伺える句が4句つづく。

 敏雄は戦後、運輸省の練習船事務局長の職に就いていた。幾つもの港に寄ったことだろう。そして数えきれない港を去ったことだろう。

 セロリは戦後の食卓で西洋料理が一般化してから普及しはじめた。戦後の日本ではまだ目新しかったころのセロリを寄港地で見たというように受け取れる。

 敏雄が清酒「八海山」が好みだったということをよく紫黄から聞いたが、外航生活が長いとはいえ、食べ物、料理の句に遭遇しない。食べることが精一杯だった世代でもある。食を礼賛することは、敏雄の趣味ではなかったようだ。

 セロリを抱く。「抱き」の自動詞からセロリを抱いているのは敏雄自身と読める。港に訪れた地元の行商からセロリを買い、甲板から離れていく港の船着場を眺めているように思える。戦前の新興俳句の表現ならば「セルリー」だったかもしれない。戦後の西洋という意味で「セロリ」という表記なのか。山崎まさよし作詞作曲『セロリ』があるくらいなので苦手な食物として挙げる人も多いだろう。女性との苦い思い出を「セロリ」に掛けているのかもしれない。

 大阪のガスビル食堂のコース料理につく生セロリは、昭和8年創業当時から続く名物らしい。当時の大阪ガス会長片岡直方は、「本物の西洋料理にセルリー(セロリ)は欠かせない」と種子をカリフォルニアから取り寄せ、栽培したそうだ。秋山徳蔵氏(昭和天皇の料理番)も、その著書『味の散歩』(産経新聞出版局/三樹書房1993年再刊)の中で、ガスビル食堂の生セロリを絶賛している。

 やはり「セロリ」は西洋を意識的に表現するものとして捉えるべきだろう。

 腿高きグレコは女白き雷   『まぼろしの鱶』

 グレコが西洋の女性であればセロリも手足が長い西洋の女性のこととも思える。「セロリ」は碇泊中の女性を示す「隠語」という見方もできるが、敏雄の抱く西洋というものが「セロリ」だったのだろう。

 「去るべし」の措辞は、推量・意志・当然・適当・命令・可能と多義であるが、作者自身の一人称と読み、「いくつもの寄港地を去るべきである」という意に読める。やはりセロリを抱いているのは作者本人と解釈する。

 新興俳句の特徴でもあった、モダニズムの表現は、敏雄の中で当初より厳選されている。

例えば、

 少年ありピカソの靑のなかに病む   『靑の中』

この句の「ピカソ」と掲句の「セロリ」の捉え方は何ら変わっていない。「セロリ」に抱(いだ)くわれわれのモダニズム、西洋への憧れ、ピアスとしての「セロリ」が、俳句の中で如何に融合するのか、それを当初より敏雄は理解していたとしか言いようがない。

 敏雄は、俳句として「セロリを抱(だ)いた」ことになるのだろう。


31.  日にいちど入る日は沈み信天翁

「戦後俳句を読む」テーマ:私の戦後感銘句3句をご参照ください。

 日にいちど入る日は沈み信天翁

 人は一生を通じて、「こころ」という不思議な作用に左右される。時代、環境に翻弄されながら「こころ」を持つ「人」として成長していく。経過する時の中で肉体、脳が老いていく。記憶の中にとどめたくない事象に遭遇し、年齢とともに「こころ」が磨り減っていく。それでも日(陽)は昇り、日(陽)は沈み、一日が展開する。生きる者に、朝が来て、昼が来て、夜がくる。そして、春が来て、夏が来て、秋が来て冬になり一年が終わる。人も動物も植物も営みを繰り返えす

 掲句は、三橋敏雄 句集『眞神』(ま(・)かみ ※注)31句目に収められている。昭和44年、敏雄49歳の時の作である

 『眞神』には全体を通し不思議な時間軸が流れる。浮遊した時の中で、身体的といえる言葉を通しタイムスリップしたような世界に引き込まれていく。現代詩とも、絵画とも、映像とも共通する、それまでになかった17文字の世界が展開し、次の句へと連鎖するような錯覚をし、不思議な迷宮を体験する。『眞神』は生生流転の人間世界、自然界を背景にしている

 上五中七のたった十二音節「日にいちど入る日は沈み」において、地球の自転を潜ませ日没から日昇までの時間経過を暗示している。繰り返しながら、日々失っていく何か。「日」という陽に対し、「沈む」という陰。全滅の危機に瀕する「信天翁」(あほうどり)の、「天」を「信」ずる「翁」という表記。使徒のような鳥が重く沈む日(陽)をみている。鳥からの視点が感じられる。読者が鳥になったような錯覚を起こす。読者は、自分の人生や時代を思いつつ、ただこの句を前に自分を投げ入れるのではないだろうか

 アメリカの「失われた世代」(ロスト・ジェネレーション)とは、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの小説家に代表されるような20代に第一次世界大戦中に遭遇し、従来の価値観に懐疑的になった世代をいう。『日はまた昇る』(原題:The Sun Also Rises)は、ヘミングウェイの出世作として有名だ。その序文に記された言葉を引く

傳道之書(アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』谷口陸男訳

「世は去さり世は来きたる地は永久とこしなへに長存たもつなり 日は出いで日は入いりまたその出いでし處に喘あえぎゆくなり(略)」

 上記の言葉は、旧約聖書 第一章であるが、これには省略されている冒頭箇所がある。「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

 これを掲句に結びつけると、神の使徒「信天翁」は、いっさいの空にいる自由な阿呆(あほう)。崇高でありユニーク。『眞神』には所々にシャーマン的な存在が登場するが、注意しなければならないのは、『眞神』は物語ではない。俳句集である。読者が慣れ親しんできた言葉を使用しながら、俳句形式の中で読者を別の世界へ連れて行く三橋の冷静で巧みな術がある

 戦争という体験は、三橋に多くを語らせず、しずかに、海から陸をみるという視点をもたせた。大人は泣き叫ばず日常を淡々と生活できる。大人は考えることができる。大人は時間を操作できる。掲句は、大人であること、人生の時間について改めて想いをめぐらす一句である

※注)『眞神』の読み方は、様々あるようだが、筆者は「ま(・)かみ」と読む。]


32.   帆をあげて優しく使ふ帆縫針

 帆船の美しさに心酔する。「順風に帆を上げる」という諺がある。追い風のときに帆をあげて出帆する。万事好都合にいくことをいうが、日本の帆船の数奇な歴史に改めて「帆をあげて」という措辞が希望の言葉として読み取れ、胸を打たれる。

 敏雄は昭和21年より同47年まで帆船練習船「日本丸」「海王丸」ほかに事務長として歴乗した。どちらも戦争という数奇な運命を辿った帆船である。現在「日本丸」はみなとみならい21に展示保存、「海王丸」は富山新港海王丸パークに一般公開されている。どちらの帆船も太平洋を中心に訓練航海に従事していたが、太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)に帆装が取り外され、石炭などの輸送任務に従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として引揚者を輸送。帆装が再取付けされたのは、1952年(昭和27年)であった。数奇な運命を辿った二隻に再び帆が取付けられたということは敏雄のみならず国民にとって感慨ひとしおであったことだろう。

 満州北部の佳木(ジャムス)という地で19歳の医学生として終戦を迎え、抑留14か月後の昭和20年10月に引揚船(病院船)にて帰国した五味誠氏(満州国立佳木医科大学第4期生、現・馬込医院医院長)に話を伺った。

「僕は、新京駅から多くの患者たちに付添い、コロ島から引揚船に乗った。米国貸与のリバティ型貨物船だった。引揚者の患者が蚕の寝床のように板状に釣られて横たわっていた。医学生として船中で患者に付添うことが目的だった。蔓延していた結核、発疹チフスの患者たちだ。助からない患者を看取り、水葬するため遺体を海に沈めなければならなかった。辛かった。一学年下の同郷の友人が結核であったため、彼を故郷に連れて帰るという大目的があったが、1週間船に揺られ、さらに博多港の検疫所で1週間。彼は日本の地を踏む事なく息絶えた。あの引揚船でのさまざまな光景は、今もはっきりと憶えている。しかし、思い出すのは嫌だ。いつまでも辛い想いで忘れることはない。」

 すでに敗戦後67年が経過してようとしている。壮絶な人の死を見てきた人の心は癒えることがない。敏雄と同世代、生きていくことが精一杯だった人々の底力を感じる。

 あえて「やさしく使ふ」と表現しているが、帆縫針を帆を縫うために「やさしく使ふ」のであれば、敏雄の心の中に刻まれた人の死を一針一針鎮魂しているように思えるのだ。

 敏雄の辿った多くの航路、昭和の歴史考えながら掲句をみると心が熱くなる。本当は「やさしく」なれない状況だったのだろう。

【図解】針のサンプル(広島県針工業協同組合)

https://www.aeras.jp/hari/kind/allkind1.html


33.   行雁や港港に大地ありき

 雁の股旅物語。港港に女あり。渡る世間に未練はねぇ。山本紫黄の十八番だった「名月 赤城山」の歌詞(作詞:矢島寵児/歌:東海林太郎)には、「渡る雁がね」と入っている。やはりマドロスも股旅である。港も大地も女性を思わせる。

 雁が港にやってくる。そこには、母なる大地が出迎える。命を育む大地があるからこそ、雁は命をつなぎ翼を休ませることができる。大地の恵みを受け取りながら、鋭気を養い、生きながらえて再び目的の地へ向けて北上するのである。

 戦後、敏雄が海に逃れていた昭和30年代、日本人船員黄金時代でもあった。船乗りの給与は陸地の平均給与の約3倍といわれる時代であり、当時のドラマやアニメのパパ役は大抵が豪華客船の船長かパイロットという設定。海外航路に従事することは当時の憧れの職業であった。1ドル360円、為替が固定相場だった時代である。

 現在は外国人就労者が8割になり、海運国である筈の日本にとっては、深刻な問題でもある。当時の寄港停泊は1週間が当たり前だったらしく、その時間を利用して敏雄は神戸の三鬼館を尋ねたりしている。長期航路の敏雄を三鬼との三鬼門の仲間(大高弘達・葩瑠子、大高敏子・淑子姉妹、山口澄子、山本紫黄)が横浜港に迎え、事務長私室にてオールドパーの封を切り、その後、新橋で宴という私上でも華やかなパーサー時代であったと想像する。

「まだ国際航海は許されていない頃であった。凡そ近海を廻り尽くすうち数年で日本中に知らぬ港はなくなった。港々は荒れていた。沖から見る日本列島は美しかったが、常に波浪に隠れ易く、あわれであった。時に復員船に仕立てられ、中国大陸や台湾にも幾度か在来した。朝鮮戦争では、米軍命令で彼の国の難民輸送にも当たらされた。句材には事欠かぬ筈であったが、志衰え、占領下激動するあらゆる社会現象に対しても、敢えて興味を持とうとはしなかった。幸い私の乗っていた船は航海練習船であったから、航海そのものが目的で、行方には、特に目的地はなかった。全く私は海に逃れていたのである。」

『まぼろしの鱶』後記

 「大地ありき」とは、「大地がはじめからあった」「大地がもともとあった」という意味になる。港、船、車が「愛しい人」というニュアンスを含め女性名詞として表現されることがあるが、「大地」も愛しい人である。

 大地の愛しい人を期待した旅の絵葉書が敏雄から紫黄へ届く。絵葉書は、南の島の女性が大らかに椰子の実のジュースを飲みほしている写真だ。

「途中ジョンストン島で核爆発(*1)のオレンジ色の余光を1000マイルはなれたところから望見したほか何も見ることなくタヒチに着きました。地上最後の楽園の呼称もいまは地に落ち単なる観光地の様相です。(中略)シコウのためにようやくこのエハガキを入手したので早速送ります。日本が地上最後の楽園かも知れません。オッパイに関する限り」

『弦』23号より(2008.10.1 遠山陽子刊)

絵葉書の文面から港港の字面がオッパイに見えてきた。


34. 捨乳や戦死ざかりの男たち

 「チチ」である「捨乳(「すてぢち」…と読むと推測)」。

 前回鑑賞句「行雁や港港に大地ありき」の「港港」の字面がオッパイに見えてきたのはそう間違ってはいない。ハワイで生まれたココナッツ酒のカクテル「チチ」は、「粋な」という意味を持つらしいが、「すてぢち」にはお国のために死ぬことが美徳だった時代に対するシニカルな嘆きが感じられる。

 「戦死ざかり」の「さかり」の用法は肯定的な事象に対して使われ、物事が一番勢いのよい状態にあること、盛んな時期のことである。しかし「戦死」に「さかり」を組み合わせ、さながら「戦死」が男ざかりの祭のようだ。「戦死ざかり」という「戦死」に花の季節があったかのようだ。死にゆく男たちへ白く濁った酒のように乳を振り撒いているようである。それも「捨乳」。やぶれかぶれの「捨て鉢」と掛けているのか、とんでもない句に思える。

 「戦死」という死の祭りということから考えて、今までの『眞神』鑑賞句から生死に対する祭のイメージがある関連句を拾ってみる。

 母ぐるみ胎児多しや擬砲音(4句目)

 晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ(6句目)

 上記に母、父をよみつつ、胎児に響く「擬砲音」、空にばら撒かれる「晩鴉」が祭祀の音響、映像として浮かんでくる。

 『眞神』には忘れられた日本の風習、つまりは日本の風土に根差す民俗学的視点で鑑賞することもできるのだが、それは敏雄が読者とのある一つ約束事、季語に替わるものとして、読者との同認識の結果にすぎない。例えば掲句でいえば、どこか郷愁の「祭」である。

 本来の「祭」は、超自然的存在への様式化された行為である。祈願、感謝、謝罪、崇敬、帰依、服従の意思を伝え、意義を確認するために行われた。日常と深く関わっていた。村という共同体の中での儀式、儀礼として機能していた。「ハレとケ」のハレの部分である。死ぬことは、超自然的存在への帰依なのである。だから乳をふるまうのだ。それも捨乳で。

 「戦死」は軍人が戦争や戦闘により死亡すること。婉曲表現として第二次世界大戦終結まで、仏教用語の「散華」が、また戦死者を美化して「英霊」とも呼んだ。ここに敏雄が、直接的な、「戦死」を選んだことには、「戦死」=国家の為に死ぬということに対しての痛烈な疑問が込められていると受け取る。

 そして戦死という無惨な死の祭は、タイトルにもなっている句、

 草荒す眞神の祭絶えてなし

へと繋がっていくようだ。

 生まれることも死ぬことも選べないということを改めて考える。人の生死は自然の中に必然のようにある。だが戦死は必然とは違う。死んでいった男たちを残されたものが忘れない限り人は生き続ける。敏雄の戦後そのものだったのだろう。

 どこか自暴自棄の、残されたものの暴力的な心理を感じる。

 『望郷―山口晃展』(2012.02.11-05.13 銀座・メゾンエルメス)に於いて「正しい、しかし間違えている/2012」という床の傾いた部屋様の作品があった。

「通常私たちは、建物の垂直軸と重力方向が等しい環境に居る訳ですが、この二つがズレると目眩や、甚だしい場合は転倒を引きおこします。これは経験による体力維持が、知覚に依る体力維持を阻害する為におこるもので、経験上の正しさが不適合につながった訳です。ー山口晃」

 わたしたちの経験、知識の何が正しいかなど当てにならないときがある。掲句は、読者の経験上の「俳句」とのズレを敢て生じさせているのだろうか。不思議な魅力がある。


35. ()る春の藁人形と木の火筒(ほづつ)

 犬神と眞神。はじめて『眞神』の存在を知ったとき、どこかおどろおどろしいタイトル名は死国のイメージがあり『犬神家の一族』(横溝正史)を彷彿した。『犬神家・・・』も昭和の傑作であるし、村、復員兵、戦争、言い伝え、血族、などの共通項目は多い。

 藁人形が「菊人形」である方がより近いけれど、掲句は特に『犬神家・・・』のイメージに近い。鉄砲を意味する「木の火筒」は猿蔵(犬神家の下男)が護衛のために持っていてもおかしくない。犬神佐清(すけきよ)、青沼静馬がビルマ出征前の軍事訓練ということも考えられるし、藁人形が佐清と静馬の運命を入れ替えた呪術のものとして登場していることも想像できる。

 犬神と眞神・・・確かに一文字違い。犬神から点をとって大神(オオカミ)、山の神聖な神であるオオカミとなる。「大口眞神」のオオカミである。『犬神家の一族』はオオカミを意識しての犬神という姓なのだろうか。

 作者の手を離れた後の作品は読者に懸ってくる。

 「然る春の」が、漠然としすぎている。それが尚更、「藁人形」と「木の火筒」に物語を与えているように思える。


36. 正午過ぎなほ鶯をきく男


 戦後俳句を読む (7 – 1)―「音」を読む―  三橋敏雄の句をご参照ください。


 正午過ぎなほ鶯をきく男

 掲句、至る所で鶯が鳴いている光景が浮かぶ。けれど、この男、鶯を本当に聞いているのであろうか。「正午過ぎなほ」これは、小原庄助さんを兼ね備えつつマニアックでマイペースな男である。午前中からずっと鶯の声を聞き、午後になってもまだ聞いている。「きく」と書いてあるが、この男、実は「聞いていない」と解釈する。それは、「なほ」からくるもので、尋常ではないことを想わせ、想像力が働く。男に焦点を当て、この男が別の事、言うなれば人生について思い巡らしていると想像する。往々にして三橋作品から音が聞こえない気がする。

 凩や耳の中なる石の粒 (*1)  『しだらでん』

 梟や男はキャーと叫ばざる

 すさまじい凩の音よりも耳に入った石粒が気になる。男はキャーと叫ばない。やはり筆者に「音」は聞こえてこない。白泉は、「玉音を理解せし者前に出よ」「マンボでも何でも踊れ豊の秋」「オルガンが響く地上に猫を懲す」「鶯や製茶會社のホッチキス」などの音から起因する句、それも一拍ずれているような音が聞こえる気がするが、敏雄の「音」は消えている。極め付けなのは、下記の句。

 長濤を以て音なし夏の海  『長濤』

 映画の中でミュートをかけたように意図的に数秒間「音」が消え、映像だけが流れる効果に似ている。敏雄は、唯一、音楽が苦手だったようだ。「やはり」と思ってしまう。それが俳句の上で効果となっている。「音」を読者に届けるのではなく「言葉」による音の想起を促している。ひとつの物音も俳句を通し読者に想像させる力を持つのである。欲しいのは言葉、そして俳句ということか。

 「鶯をきく男」、ウィスキーグラスを片手にただ遠く流れた時間そして人生を想っている気がしてならない。

 李白の詩がある。


 『春日醉起言志(春日 酔より起きて志を言ふ)』(*2)

 處世若大夢  世に()ること 大夢の若し

 胡爲勞其生  胡爲(なんすれ)ぞ 其の生を勞する

 所以終日醉  所以(ゆゑ)に終日醉ひ

 頽然臥前楹  頽然として前楹に臥す

 覺來眄庭前  覺め來りて庭前を(なが)むれば

 一鳥花間鳴  一鳥 花間に鳴く

 借問此何時  借問す (いま)は何の時ぞと

 春風語流鶯  春風 流鶯に語る

 感之欲歎息  之に感じて歎息せんと欲し

 對酒還自傾  酒に對して()た自ずから傾く

 浩歌待明月  浩歌して明月を待ち

 曲盡已忘情  曲尽きて已に情を忘る


 「鶯をきく男」の句は李白の詩そのものである。マーラー(*3)はこの李白の詩を原作とし連作歌曲『大地の歌(Das Lied von der Erde)』を1902年48歳のとき作曲している(*4)。そして敏雄は、1969 (昭和44)年49歳のときに掲句を得た。俳句形式となった17音は読者の脳波に変換され響き渡るのである。李白をもとにマーラー、敏雄と古典は永遠に人を酔わせ新たな名作を生む力がある。

 敏雄は、永い船上勤務で、ひとり、遠く陸を想う時間を過ごしたであろう。「なほ鶯をきく男」はやはり酒を呑みながら世をながめている男であったか。鶯の鳴声(「なお鳴く鶯」すなわち「老鶯」であろう)は、敏雄の中で静かに消されている気がする。


*1)ちなみに白泉に「木枯や目より取出す石の粒」がある。

*2)李白(701-762年)『李白詩選』(松浦知久訳/岩波文庫)

*3)マーラー(Gustav Mahler, 1860 – 1911)

*4) 1986年サントリー・ローヤルのCM

http://www.youtube.com/watch?v=NSlVsnMbZ48)に『大地の歌Mov. 3』(http://www.youtube.com/watch?v=lb9KnrrvDc8)が使われた。)


37. 共色の青山草に()る子種

 「青山草」とは、東京・青山墓地あたりに生えている草、青山・草月会館の隣りの高橋是清公園に生えている草、青山という地に生えている草ということも考えられるが、「青/山草」という切り方で青い山草と読むのがよろしいように思う。山草とは山に生えている草、あるいは裏白(ウラジロ)というシダ科植物の別名である。このウラジロが名前からして妙な雰囲気である。そもそもウラジロとは、正月飾りに使うもので、注連縄、ミカンの下に垂れ下げるのはウラジロと決まっている。その由来は、「裏が白い=共に白髪が生えるまで」という意味だという。そこに子種を放出する。これは、日野草城『ミヤコホテル』に対抗する解釈ができてしまう。いいのだろうか。

 驚くことに、後の敏雄夫人の句に

 帯どめと同色の草春の園  庄野孝子 (「断崖」昭和36年6月号)

があることを発見した。似ている。巨匠、大いに初学の子女の句と似ている。 いいのだろうか。

 労働者の句とも読める。ミレーの『種まく人』のように大地に放出する力強い労働する男の姿。「放る」というだけでとても力強いのだが、それを「共色の青山草」として、「萌え」な柔らかい雰囲気にするところなど、本来、バーのコースターの裏にでも書いてポケットに忍ばせるような句だという気がするのだが、『眞神』に収録されているのだ。

 チチハハへのセレモニーだけでなく、野を駆けて放出し、老いていく敏雄がいる。それが次回の句である。


★―13深谷義紀【成田千空】― 「獣」を読む ―  

 雄の馬のかぐろき股間わらび萌ゆ

 今回のテーマは「獣」である。しかしながら千空の句集をめくっても、獣を真正面から捉えた作品はほとんど見当たらない。

 例えば、獣たちの代表的行為である「冬眠」の作例でも、

 遠山とまだ冬眠の猿田彦   『白光』

といった詠みぶりであり、リアルな獣の姿からはおよそ程遠い。

 けれども、もう少し広く「動物」(但し虫・鳥・魚などを除く)という視点で眺めてみると、次のような作品が目に付く。

 耕牛の底びかりして戻りくる    『地霊』

 秋風の羊ごつごつ闘へる      『人日』

 三尺は跳ぶ闘鶏の始めかな     『人日』

 いずれも農耕のため、趣味のために飼われている動物たちである(2句目は小岩井農場での吟行句)。千空にとっては、野生の動物たちよりもこれらの動物たちの方がずっと親しみ易い対象だったのだろう。

 なかでも着目したのは掲出句である。第4句集『白光』所収。千空らしい骨太で、剛直な詠みぶりである。作品の焦点は、生殖器が存在する牡馬の股間に当てられているが、野卑な印象は全くなく、感じるのは原始的な生命力である。それを支えているのは、下五の「わらび萌ゆ」だろう。

 話がやや脇道に逸れるが、この句を読んで想起したのは、青森出身の版画家棟方志巧の作品だった。共通するのは、おおらかな生命賛歌となっていることだ。

 結局、獣という言葉に込められた野性や凶暴性は千空の作品世界に発見することは難しく、むしろ動物たちが人間の傍で懸命に生きている、その姿にこそ感動を覚えていたのだろう。


2026年1月30日金曜日

【新連載】俳壇観測277 ユネスコ登録の進め方2ーーユネスコ登録への3つの態度  筑紫磐井

  前回述べた理論闘争するためには、それぞれの論者の立場をはっきりさせておくことが必要である。現在までのところ、ユネスコ登録に対する俳壇における態度は3つに分けられる。


➀ユネスコ登録賛成論(ユネスコ登録を進めたい)

 ここには無季自由律容認派(現代俳句協会)と有季定型限定派(少し前の俳人協会の本音)が混在して、各々勝手なことを言っているのでその理由が分かりにくい。

➁ユネスコ登録反対論(ユネスコ登録を進めたくない)

 これには当面、「鬣」のような脱退派(協議会から脱退することが目的)と坪内稔典のような反登録派(日本政府が登録すること自身に反対する)がいる。

この2つの立場から、主要な俳句雑誌におけるユネスコ登録論が掲載されて来た【注】。


 しかし令和7年夏から新しい立場が提案された。


➂ユネスコ登録戦略論(ユネスコ登録自身に関心がなく、無季自由律容認が目的であり、この目的のためだけに当面ユネスコ登録の議論に参加する必要があると考えている)

     *

 第3の立場である➂ユネスコ登録戦略論は以前からあるものではなく、令和7年に突然登場した主張である。なぜならユネスコ登録の発端は国際俳句交流協会会長である有馬朗人の提案であり、その理由も有馬氏が発起人会で発言した言葉が唯一の根拠となっている。ところが有馬氏がユネスコ登録しようとした動機は文書化されてはおらず、登録という総会の決議だけが独り歩きすることとなった。それでも有馬氏の生前には問題が少なかった(有馬氏はユネスコ登録協議会の初代会長に就任した)が、有馬氏がなくなり、後任が就任するとともに「俳句は有季定型である」という合意で協議会は発足したという発言が相次いだ。協議会のHPにもそうした記事がしばしば掲載されたと聞いている。無季自由律容認派を擁する現代俳句協会は毎年総会で会員からこのような協議会に参加した責任をとれという抗議を受け、担当者はかなり難渋していたようである(私は未だ現代俳句協会に入会していなかったのでよく知らなかったが)。

 あまりにも不毛な論争が続いているようなので、私は令和7年になってから平成27年の俳句ユネスコ協議会の公開記者会見の記録を確認してみると、有馬氏は俳句に無季・自由律が含まれることを明言しており、これに他の3協会の会長である稲畑汀子、鷹羽狩行、宮坂静生氏も異論を唱えなかった。現代俳句協会が協議会に参加したことは問題なかった。しかしこれだけではこの合意が現在も有効であるかは確信できなかったので、令和7年8月に協議会及び3協会の現会長である、能村研三、片山由美子、星野高士、高野ムツオの4氏に有馬発言の有効性を確認したところ、この通りであると確認された。この趣旨は、現代俳句協会の機関誌「現代俳句」10月号、国際俳句協会(ユネスコ登録の実質的事務局。保持団体と想定されている)の機関誌「HI」11月号に掲載されており初めて文書化されることとなった。

 したがって令和7年をもって俳句の定義問題は解決することとなった。これに伴いユネスコ登録問題は新しいステージに入ることとなったのである。ユネスコ登録戦略論はこうした中で登場したものであり、「豈」68号の特集が「特集・ユネスコ登録戦略の最前線」となったのはこのような理由である。その意味で本論は、ユネスコ登録戦略論の立場で書かれていることをご承知戴きたい。

 こうした立場からすると、➂のユネスコ登録戦略論は特別な意味を持つことになる。➀と➁はユネスコ登録が登録の是か非かを主張しているものだが、➂はユネスコ登録を契機として俳句は有季定型だけではなく無季・自由律であることが明らかなって以降の俳句の新展開を進めようという行動だからである。

 実は戦後俳句とは俳句が有季定型か無季容認かをめぐる血みどろの戦いであった。マーチン氏の卓抜な論を読ませていただきながらも、日本における一種の文化的弾圧にあたる無季俳句排除の切実さはなかなか分かっていただけないのではないかと危惧した。それは戦前の新興俳句弾圧に匹敵する作者生命にかかわる問題である。繰り返しになるが、昭和36年に俳人協会分裂以後、俳人協会は無季自由律を排除する諸活動を行って来た。当時俳人協会の立場に立つ角川書店は昭和俳句の集成として『現代俳句大系』を刊行するに当たって無季俳句集を削除した(当初俳人協会事務局は角川書店内に設置されていた)。さらにその後平成11年に俳人協会は「教科書に掲載する俳句は有季定型を厳守せよ」という「教科書出版会社への要請」を会長名で送付している。平成22年に岡田日郎副会長が俳人協会において「学校教育においては「俳句」(有季・定型・文語)と「俳句に似たもの」(無季・自由律俳句など)と区別する必要がある」と講演していることなどからも基本的イデオロギーは変わらないと考えられる。

 有季定型を主義とする俳人協会と無季を容認する現代俳句協会の規模比較すると15,000対4,000、すべての協会が会員減少に悩んでいるのだが、協会の存亡はしばらく措く、問題なのは無季俳句・自由律俳句を詠み、是認する俳人の割合が落ちていることだ。こうした中で、現代俳句協会における最大かつ緊急の問題は、有季定型を死守する勢力に対して無季・自由律を認知させることである。有馬氏が、ユネスコ登録に当たり有季定型だけでなく無季・自由律を容認したことは戦後俳句史において千載一遇の好機である(逆にこれを受け入れたことは俳人協会にとって致命的失敗であった)。これを逃してはならない。これを逃すことは、俳句有季定型論に塩を送ることになる。その意味では、無季・自由律が容認されればユネスコ登録などどうでもよいことなのである。

 ただ令和7年にユネスコ登録の中で無季自由律は文書化されたものの、見えないかたちで無季自由律を排除しようとする底流が常に流れている。これを少しでも顕在化させる必要がある。ユネスコ登録を使って、俳句は無季自由律が含まれるのだという認識を進めることが大事だ。これが➂ユネスコ登録戦略論の趣旨なのである。


【注目!】「豈」68号の特集についてYOUTUBEで反応が寄せられています。

秘密の俳句ちゃんねる(田島健一)

https://www.youtube.com/watch?v=A2kgNFImj2A


【注】主要な俳句雑誌におけるユネスコ登録論(2025年11月まで)

●「鬣」64号・2017年8月

特集「俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進を巡って」11編 林桂、川名大、岸本尚毅、木村聡雄、坪内稔典、野村喜和夫、平敷武蕉、外山一機、中里夏彦、西躰かずよし、堀込学

●「俳壇」2024年「俳壇時評」

大井恒行「建前に雪崩れる4協会」(5月)、

大井恒行「現代俳句協会は、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会から離脱せよ」(11月)

●「鬣」93号(2024年11月)

特集「「俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進」の現在」3編 林桂、大井恒行、堀田季何

●「俳句四季」2025年1月号「俳壇観測264」

筑紫磐井「ユネスコ無形文化遺産登録問題――大井恒行対現代俳句協会か?」

●「現代俳句」2025年1月号

後藤章専務理事「俳句のユネスコ登録の現状と現代俳句協会の立場」

●「俳句四季」2025年2月号「俳壇観測265」

筑紫磐井「有馬朗人氏の遺志――国際俳句の創始」

●「鬣」94号(2025年2月)

林「提言しなおします」

特集「「俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進の現在」を読んで」2編 福田若之、堀込学

●「現代俳句」2025年3月号

筑紫磐井「有馬朗人氏の言いたかったこと」

●「毎日新聞」2025年4月30日

オピニオン論点「俳句の「文化遺産」登録」(能村研三vs大井恒行)

●「鬣」95号(2025年5月)

特集「「俳句ユネスコ無形文化遺産登録」推進の現在を読んで」2編 九里順子、外山一機

●「俳句四季」2025年6月号「俳壇観測269」

筑紫磐井「俳句4協会の近況――特に、ユネスコ登録の大論争始まる」

●「俳句四季」2025年7月号「俳壇観測270」(6月刊行予定)

筑紫磐井「毎日新聞のユネスコ登録論争――ユネスコ登録と無季俳句の問題」

●「鬣」96号(2025年8月)

特集「「俳句ユネスコ無形文化遺産登録」推進の現在を読んで」2編 西躰かずよし、林桂

●「俳壇」2025年「俳壇時評」

鴇田智哉「ユネスコ登録のこと」(9月)

● 「豈」68号(2025年11月)

特集「ユネスコ登録戦略の最前線」6編 筑紫磐井、堺谷真人、大井恒行、トマス・マーティン、中島進、干場達矢


【連載】現代評論研究:第22回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 仲寒蟬編

 (2012年01月06日)

9.遷子が当時の俳壇から受けた影響、逆に遷子が及ぼした影響について

 筑紫は特に開業医俳句について誰も遷子の先人となる人はおらず〈遷子は自らの良心に基づいて開業医俳句を開拓した〉と述べる。一方で〈遷子の句業を引き継いだ人もいなかったのではないか。35年後の今、わずかに5人の作家たちだけが自らの良心に基づいて遷子を発見したのかもしれない〉と言う。


 原、中西は無回答。


 深谷は晩年の角川源義とのやり取りからも分るように〈どちらかと言えば、自己に対する俳壇での評価など気にも留めず、俳壇とは距離を置いていた〉と述べる。逆に〈俳壇への影響もあまり大きなものとは言えず、今日まで余り鑑みられることがなかった〉と言う。


 は影響を受けた作家として水原秋桜子と石田波郷を挙げる。波郷については年下ながら尊敬の対象だったようだが俳句の上での影響は強くないと言いつつ〈境涯俳句を詠むという行き方は波郷から学んだのかもしれない〉と述べる。また〈『惜命』と遷子の闘病俳句との関係については今後の比較研究が必要だ〉と考える。

 飯田龍太について〈遷子に対する評価が意外に低いのには驚いた、同じように中央俳壇を遠く離れて自然の中の暮らしを詠む者同士もっと共感するところがあってもよいのではないかと思った、遷子の方は龍太に親しみを感じていた〉とコメントする。

 最後に遷子の俳句は同時代の人々に評価されなかったと締め括る。


9のまとめ

 回答者に共通していたのは遷子の前に遷子なく、遷子の後に遷子なしということ。理解者と言う意味でも同時代の、馬酔木の人達にすらあまり理解されていなかった。筑紫の言うように当時見過ごしてきたものが現代だからこそ見えてくるようになったのかもしれない。


(2012年01月13日)

10.あなた自身は遷子から何を学んだか?

 筑紫は次の2点を挙げる。

①戦後俳句史をどのように構築したら良いのかということ。既存の戦後俳句史に対する新しい戦後俳句史観、すなわち「社会的意識俳句」時代のあとに伝統俳句の時代が新生したという流れ。――ここで詳細を述べるのは適当ではないが、はしょっていえば〈角川源義などの前衛俳句・現代俳句協会と対立した政治的な「伝統派」の主張者に対し、この時期そうした政治的な動きから疎外されていた草間時彦・能村登四郎・飯田龍太などが実践していった伝統俳句の新しい運動(「新・伝統俳句」といえようか)〉が起こったと考えられるが、それは〈「社会的意識俳句」のそれを精神的・内面的に深化させたものであったといえるかも知れない〉と言う。

②我々が死ぬときは残るものは何か。視覚も薄れ、論理さえおぼつかなくなっても意味など失った「ことば」だけが残る。〈だから俳人は死ぬ最後まで言葉にこだわる、亡くなる人で最後まで活動できるのは俳人ばかりだ〉と述べ子規と遷子の最期に触れる。

 さらに〈こう言っておきながらも不思議なのは、風景俳句、生活詠、行軍俳句、開業医俳句、そして療養俳句を離れて遷子の作品は不思議な魅力をたたえている〉と述べる。

例として


雛の眼のいづこを見つつ流さるる


を挙げる。ユニークな画家である智内兄助(ちないきょうすけ)氏はこの句に触発され、作品「雛の眼のいづこをみつつ流さるる」を発表した(少し仮名遣いが違うが)。

 そこに描かれたおどろおどろしい少女の姿は、遷子の心の深淵をのぞきこむような不気味さをたたえている。さらにこの絵が坂東眞砂子のホラーノベルの傑作『死国』(四国高知のある村で起こる死者の怨念とよみがえりの物語)の表紙絵となっているのはさらに驚きだ。端正な遷子の像からは思い及ばない結末である。


 は〈いまだに捉えきれずに〉いると言う。


 中西は〈死の直前まで俳句を続ける精神力〉、〈自己の生き方の思想的部分を扱っていること、特に無宗教の身の処し方を描いているところ〉に感心し、真似はできないと述べる。


 深谷は遷子研究を始めて〈自分の想いを作品にしたいという気持ちが強くなった〉ことから〈自分の俳句の作り方が変わった〉と述べる。


 は遷子の冷徹な目が〈科学者と文学者という一見正反対の立場を結び付け〉、焦点がぶれることのない一貫性を以て医業と俳句の両方に接したと言う。その〈真摯に、ほとんど求道と言ってよいストイックさで対象に向かう姿勢は羨ましい程〉と述べる。〈学んだもの、自分も身につけたいものとしてこの「冷徹な目」を挙げたい〉と言う。


10のまとめ

 筑紫は戦後俳句史の構築に関する示唆、俳人として死んだ後に何を残すかということを学んだと言い作者の思いもよらぬ所で後世の人間がその作品からインスピレーションを得るという幸福もあると画家智内兄助の事例を紹介する。


 は遷子をまだ捉えきれない存在と感じている。


 中西は俳句を死に至るまで続ける精神力、無宗教の身の処し方に注目する。


 深谷は作者の思いを俳句に表現するという作句態度に共感する。


 は医療にも俳句にも同じ「冷徹な目」を持って臨んだ生き方を学びたいと述べる。


おわりに

 所属する俳句グループも住居や職場などの環境も全く異なる5人が遷子という一俳人を研究し、その作品と生き様に感動し、『相馬遷子―佐久の星』が生まれた。今回その5人が再び集い、「遷子を通して戦後俳句史を読む」という試みを行った。

 遷子を読み込んだ人達ばかりなので遷子俳句の特徴や魅力については各人の主張を持ちながら、全員が殊に医師としての生活を詠んだ句(医師俳句)と晩年の療養俳句についてもっと高く評価されてしかるべきと考えていた。

 戦後俳句史を読むというテーマに即して言えば、遷子は孤高の作家でありその俳句世界は独特であるとの認識が大勢を占めたが、一方で「社会性俳句」の潮流とは別の実生活に根を下ろした「社会的意識俳句」とでも呼ぶべき傾向の句(医師俳句も含まれる)を遷子が多く残したことは同時代、またその後の同傾向の俳句を見直すことにつながるとの見方もあった。

 この座談会が従来の戦後俳句史からほとんど抜け落ちていた相馬遷子という清澄な星を星図の中に位置付けるのに多少なりとも貢献できていればと思うばかりである。

(終了)

【連載】現代評論研究:第22回各論―テーマ:「幼」を読む・その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀 

(投稿日:2012年03月23日)

●―1:藤田踏青【近木圭之介】

 ひかり再び閉じ 少年よぎる   平成10年作

 今回のテーマ「幼」の「幺」とは糸の上半分の形であり、糸は絲の半分、幺は糸の更に半分で、細く小さい意であり、それに添えられた「力」は弱く小さい意を示している。それ故、満ち足りない意を含む「少年」もその範疇に入ると考えた。

 この句の「ひかり」とはいったい何を指しているのであろうか。単なる光であるのか、又は希望や光明であるのか。「少年」とは対象であるのか、または作者の内なる存在であるのか。それは作者の視点、立ち位置に関わるのであるが、「再び閉じ」とあるので希望と内なる存在としての少年と考えると、この句の時間の幅が拡がってくると思われる。特にこの句の前後には次の句が置かれている事もその理由となる。

 列島悪の構図 体の穴みな怒り噴く   平成10年作

 ひと夏すぎ 隅の埋まらぬ図残し    々

 社会悪、それへの憤り、自己への不満の残滓、そして失われた希望。それらを全てひっくるめた総称として、かつての「少年」が一瞬心の中をよぎったのではないであろうか。またその「ひかり」には少年が内に秘めたナイフの凶のようなものも含んでいるようだ。それを想起させるのが次の句と詩である。

 銃持った少年青い夏へ引き金を引く   昭和16年作  注①


パレットナイフ 2 抜    注②

Ⅲ 少年は性の倒錯を宿し数年経た 

  どこにも通り抜ける道を持たずに 

  ――いらだちのサラダ私に青い 

Ⅳ 刃のごとく窓に映る河 

  内なる凶 

  沈黙と溶暗


 これらの詩、句を読んでいたらいつしか稲垣足穂の「少年愛の美学」を思い浮べていた。足穂はA感覚(アヌス)の主導性とV感覚(ヴァギナ)、P感覚(ペニス)の補助的存在を指摘する事によって、性の倒錯を包含した少年への感覚を謳いあげていた。

 「V」とは水増ししたAであって、女性とは「万人向きの少年」を云い、V感覚とは「実用化されたA感覚」に他ならない。   (稲垣足穂)

 ここには同性愛とはまた違った「少年」という両性具有的な存在を見ろ事が出来るのだが。掲句の少年もそういった作者の奥底に秘められたデジャビュの様な存在ではなかったのではなかろうか。


注①「ケイノスケ句抄」  層雲社     昭和61年刊

注②「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊


●―2:土肥あき子【稲垣きくの】、【テーマ:流転】赤坂時代(戦中編) 

 新しき婢が気に入らず春の風邪

 昭和16年(1941)の俳句手帳より2月24日、女主人もすっかり堂に入った暮らしぶりがうかがえる句である。きくのは「春蘭」昭和13年3月号のエッセイでも女中難を嘆いている。戦前の家庭では、家族が多いこともあり、住み込みの女中がいるのは特別ではないとはいえ、その多くは10代の地方から出てきた少女であることを思うと、茶の湯に通じ、都会暮らしの煤煙で足の裏がざらつくことをなにより嫌う潔癖なきくのを満足させるのは至難であったかと思われる。

 句会に吟行にと熱心に続けていた「春蘭」は、昭和15年(1940)戦争のため6月号で廃刊し、10月には東京在住の岡田八千代などとともに、大場白水郎を選者に「縷紅」を創刊する。

 「ホトトギス」虚子選を叶え、「縷紅」にも投句を続け、きくの調を勢力的に模索するなか、昭和16年(1941)1月から昭和17年(1942)4月までが記された俳句手帳には6月1日、大連へと旅立つとある。旅吟は機上から始まり、大連、特急アジア、奉天、北陵、ハルピンと、異国を詠みつくす勢いで手帳に書き記している。この旅行を終え、俳句手帳のきくの作品は数も質も高まりを見せる。

 昭和17年(1942)には生涯のライバルとなる鈴木真砂女と初対面し、翌年には「縷紅」幹事として名を連ね、投句先には赤坂福吉町の住所が記された。

 夏蝶のあるひは低く草の中 「縷紅」昭和17年8月号

 羅やまたその癖の腕まくり   〃

 額の花の上にも道のあるらしく 「縷紅」昭和18年8月号

 俳句への情熱が年ごとに高まるきくのであるが、昭和19年(1944)、用紙の入手困難となり「縷紅」は休刊となる。

 東京では昭和19年(1944)に学童疎開が始まり、日本の敗色も深まりつつあったが、福吉町の屋敷のなかできくのは割合のんきに構え、疎開についても鷹揚だった。しかし、昭和20年(1945)3月10日以降のある事件によって、疎開の覚悟を決めた。それは、隣の黒田邸の森から早朝夥しい数の鴉の群れが一斉に下町方面へと飛び立ち、夕方また一斉に戻ってくる光景を不思議に思っていたところ、大空襲に襲われた下町へ餌をあさりにいくと知り、その餌となっているもののおぞましさに居ても立ってもいられなくなったのだ。

 4月にきくのは信州の小諸から6キロほど入った平原という浅間山麓の農村へ疎開する。農家の一隅にある離れを借りていたということだが、この間の俳句はどこを探しても出てこない。随筆集『古日傘』で一編だけ疎開時代の思い出を書いた文章があり、所用で隣村への一里あまりの道すがら、雑木紅葉が見事であったとあるから、いたって気楽な生活を送っていたかと思われる。

 赤坂福吉町の家は昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲であっけなく焼失した。


●―4:飯田冬眞【齋藤玄】

 みどりごをつつみに来るよかげろふは

 昭和50年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 「男」の項でも少し触れたのだが、昭和25年を境に斎藤玄は子供の句を作らなくなった。そして、昭和28年には、主宰誌である「壺」の結社活動から離れ、俳句を作ること自体を中断してしまうのである。その原因として玄本人は結社の同人たちが作句精進を怠り、互いに足の引っ張り合いや陰口をたたきあう浅ましさに嫌気がさしたことをあげている(*2)が、それは建前に過ぎないだろう。もちろん、昭和20年の終戦直後に「壺」誌を復刊、文字通り家財をなげうって俳句の革新に精魂をこめ、結社制度の改革にも心血を注いできた玄にとってみれば、新しい俳句を作ることもよりも結社内の地位と権力を得ることに明け暮れる弟子たちに幻滅したのは事実だろう。しかし、昭和26年に北海道銀行に入行し、主宰誌の発行所であった函館の自宅を引き払ったのは、すくなからず、経済的な理由もあったに違いない。その遠因と思われるのが、小児麻痺となった長男の治療費を稼ぎ、家計を支える父親の役割を果すためではなかったかと仮説を述べた。

 齋藤玄の長男は昭和21年に生まれたらしい。語尾を濁すのは、玄は最初の妻節子との間に二女一男を儲けており、長女や次女誕生の際にはそれぞれ前書付きでその喜びの句を連作として残しているのだが、長男誕生の際にはそれらしい前書は見当たらないからだ。句の内容から推察できるのは次の一句だけである。

 俳諧に霰飛び散り長子得し 昭和21年作 『玄』

 作句時の昭和21年は俳句史に残る大事件が起こった年である。上五中七の〈俳諧に霰飛び散り〉は、おそらく桑原武夫が昭和21年に雑誌『世界』の9月号に発表した「第二芸術」論を受けて、俳壇が受けた衝撃を象徴的に把握した表現だと思われる。そこに下五〈長子得し〉をつけたのは、齋藤玄一流のエスプリに思われてならない。この〈長子得し〉は字義通りに長男が生まれたという意味だろうが、桑原の論に激烈に反論した中村草田男の代表句〈蟾蜍長子家去る由もなし〉の「長子」を俳味として響かせているようにも思う。俳人たちが大騒ぎしている一方で、自身は長男を得たということを俳風仕立てにしただけのもので、感情は抑制されている。長男を得た喜びを読み取ることはできない。

 落雲雀子は雑草にもつれを    昭和25年作 『玄』

 麻痺の子の矢車夜半を鳴り出づる   昭和25年作 『玄』

 梅天や麻痺の子持ちしわが惨事  昭和25年作 『玄』

 麻痺の子を眠りに落す木下闇  昭和25年作 『玄』

 麻痺の子の行水あはれ水多し  昭和25年作 『玄』

 一句目は昭和25年に発表された「麻痺童子 わが長男左膊小児麻痺にて不随 十三句」の冒頭の句。〈落雲雀〉が空から垂直に降下するさまと雑草に足をとられて転ぶ幼子の姿をうまく重ね合わせており、長男を取り巻く家族の人生が急降下してゆくことまでも暗示させている。

 二句目は自註の記述から見て行くことにする。 

四歳の長男が小児麻痺で左膊を不随にした。不治と聞き悲しみは深く、男の節句が来ても僕は悶々とした。夜の矢車の音にいっそう悲しみは深い。(*2)

 この自註の記述によって、ようやく昭和25年当時の長男の年齢が判明し、生年が昭和21年であることがわかる。全句集の年譜にも長男のことはいっさい記述がない。〈矢車〉は鯉のぼりの竿の先端に取り付けられた矢の形をした輻(や)を放射状に取り付けたもの。端午の節句を迎えても不治の病に取りつかれた長男の将来のことを思うと悶々として喜べなかったという玄の深い悲しみが〈矢車夜半を鳴り出づる〉ににじみ出ている。矢車のカラカラという音が長男の宿命の重さを感じさせて切ない。深い哀感が伝わってくる。

 三句目は、玄にしては珍しく自己の内面を吐露した句。しかも〈わが惨事〉などという自己憐憫にまみれた言辞は抑制もなく、子を慈しむ気持ちの片鱗すら見えず、詩として成立していない。

 四句目は障害を持った子を介護する苦労がしのばれる句。〈木下闇〉の涼しさで〈麻痺の子〉のあどけない寝顔が見えてきて救われる。

 五句目は〈あはれ〉に父親になりきれていない作者の独善性が露骨に表われており不快である。幼子が不如意なからだで行水にはしゃいでいるならば、なぜ一緒に裸になって幼子を抱きしめて水まみれになれないのか。

 みどりごをつつみに来るよかげろふは

 そして25年間詠むことのなかった子供の句である掲句を見てゆくことにする。

 飯田龍太はこの句について次のように誤読する。 

眺める側のよろこびが不安を上廻つて微笑にかわり、そのこころをかげろう包む。それなら対象に自他の区別をつける必要はあるまい。(*4)

 みどりごを眺めていた玄の心中に龍太が言うような「不安を上廻」る「よろこび」など、ほんとうに湧き上がっていたのだろうか。〈かげろふ〉に包まれる〈みどりご〉に麻痺童子の長男の姿を幻視したからこそ、「かげろうが魔女の手のように思えて、しきりに不安だった」(*5)と記したのではないか。幸せは一瞬に過ぎず、苦痛は永続する。玄は長男の人生を通して、その苦さを知り尽くしていたはずだ。

 幸せなものを見ても過去の経験に引きずられて不安に取り込まれてしまう人間の愚かさを描いた句であると私は思う。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2  齋藤玄年譜 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*3、5  自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊

*4  飯田龍太 『雁道』の秀句 『俳句』昭和55年6月号所収 角川書店刊


●―5:堺谷真人【堀葦男】

 鉄のけものら橋ゆすり過ぎ酢を抱く子

 『機械』(1980年)所収の句。

 『機械』は第一句集『火づくり』に続く第二句集。1962年夏から1967年秋に至る約5年間の作品から444句を収録している。「機械」「太陽」「渦潮」「蝶宇宙」「母」「赤道草原」「修羅」「水辺」という8章構成の劈頭に置かれた「機械」のこの句およびその前後の作品には、「海程」草創期の葦男俳句の特徴がよく出ている。すなわち大阪から神戸にかけての工場、倉庫、港湾、建設現場などに取材したとおぼしき、産業俳句ともいうべき作品群がそれである。当時の葦男作品は重量感に富むメタリックな形象に満ち、行間には高度経済成長を牽引した様々な機械たちの稼動音や軋みが通奏低音のように鳴り響いているのだ。

 燃える冬霧機械ぞくぞく被覆脱ぎ

 機械焦げるにおい夕空薔薇を溶かし

 ルビーにまさる夜の起重機の灯を動かす

 重い上げ潮 動くものみな装甲され

 さて、本稿冒頭の句である。

 積荷を満載したトラックや建設用重機が陸続として渡る橋。可載重量ぎりぎりの荷重を受けて揺れる橋梁。ふと視線を移すと、騒音と土埃が立ちこめる橋のたもとには、お遣いの帰りなのであろう、酢の壜を抱いて立つ子どもの姿があった。

 荒々しい車列の傍らにぽつんと点描された子どもは一見、寄るべなく痛々しい。しかし、彼もしくは彼女は単に無力な、庇護すべき弱者なのであろうか。否、そうではあるまい。酢の入った壜を両の手にしかと抱く子どもは、れっきとした家事労働の一翼の担い手なのであり、「酢を抱く」という構えはその子の責任感の表れに他ならないからである。

 そういえば、赤塚不二夫の代表作「天才バカボン」にこんなギャグがあった。ママから豆腐を買って来るよう頼まれたパパが用件を忘れないよう「トーフー、トーフー、トーフー・・・」と口ずさみながら道を急ぐ。が、いつしか逆転して「フートー、フートー、・・・」となり、最後は文具店に飛び込んで「封筒ください!」と叫ぶのである。

 恐らくこのギャグの背景にあるのは「お遣いという役割を通じて社会化してゆく子ども」という一種の成長モデルである。幼児は大人や年長者の庇護を片務的に必要とする存在であり、原則的にお遣いを任されることはない。一方、幼児期を脱した子どもはお遣いを頼まれるようになる。いや、初めてお遣いを頼まれたときに人は幼児期を卒業するのだともいえよう。年齢や体格、IQ検査で測られる精神年齢などはなるほど子どもの成長のメルクマールとして重要であるが、親や年長者の側が子どもに何を任せるかという観点も実は同じくらい重要なのである。

 橋のたもとの「酢を抱く子」は無事に家に帰り着いたであろうか。


●―8:岡村知昭【青玄系の作家】(欠稿)


●―9:しなだしん【上田五千石】

 涅槃会や誰が乗り捨ての茜雲   五千石

 第四句集『琥珀』所収。昭和五十八年作。

 五千石はこの句の制作年で五十歳。中年も終りの時期で、俳句の面でも成熟期にあたり、今回のテーマ「幼」とは無縁にも思える。

     ◆

 この句の季語である「涅槃会」は、釈迦入滅の忌日の陰暦2月15日に行う法会。寺によっては月遅れの3月15日に行なわれているところもある。だが実は、釈尊が入滅した月日は実際には不明で、2月15日は中国で決められた日付であるようだ。

 掲出句は一見美しい茜雲の句で、詩情もあるように感じる。読者によっては渋い句、と感じる向きもあるだろう。「誰が乗り捨ての」は、季語の「涅槃会」から釈迦を思い浮かべるかもしれない。ひいては亡くなった人をイメージする人もいるだろう。

     ◆

 ところで、掲出句には“もの”として認識できるのは「雲」と、空間としての「涅槃会」である。物質的な“もの”はない。ものに拠らない詩は、どこか幼さがあるように思う。

 だが、この句の幼さはそれだけではない。「乗り捨ての」の部分だけに着目してみると、「乗り捨て」ということは、乗っていた誰かが去った、ということになる。掲出に幼さを感じるのはこの「雲に乗る」という発想かもしれない。この発想は古典的なもので、雲に乗る、というのは男がずっと持ち続ける詩心とも言えるのではないだろうか。

 そういう意味でも季語である「涅槃絵」が、単なる古典的な男の詩に陥るのを防ぐ役割を果たしている。

     ◆

 娘の日差子氏によれば「俳句をやると幸せになれるよ」が五千石の口癖だったという。俳句を信じていた五千石であろう。母に全幅の信頼を寄せる子のように、俳句を信じる。「信じること」はどこか無邪気だ。幼さは大の男にも、男の作る詩にも潜んでいる。


●―10:筑紫磐井【楠本憲吉】、【テーマ:妻と女の間】 

 鳴らすコップが妻の弔鐘虹這う窓

 逆さに伏せたコップと鐘---コップに触れる響きと鐘の音、特に弔鐘という限り悲しい音色であるはずだが、むしろその配合を楽しんでいる節がある。「弔鐘」は憲吉自得のことばであろう。

 くりやごと(台所の仕事)が家庭の平安の象徴であるとすれば、楠本家におけるそれは、夫婦の間の修羅により地獄と化している日常の一齣である。妻にとっては日々の浮気の絶えない夫を持って、黒いベールを纏った未亡人の心境であったろう。虹すら、蜈蚣のように窓硝子に貼り付いている(昔、虹は貝の一種の吐く気だと思われていたからさほど間違っているわけではないが)。

 けしからぬのは、ことの責任はすべて夫にあるのにもかかわらず、苦々しく思いながら楽しんでいる点である。明るいリズムでこんなに詠まれたらたまったものではない。

 そこで無言の妻に戴冠カンツォーネ

 これもかなり妻を侮った句。妻が無言となるには理由があるのだが、---そしてそれは夫の行為に帰責するのだが、そうした反省はない。「戴冠」とは「乾杯」に通じる趣がある。だから「お前さんは女王様だよ」と言わんばかり。カンツォーネはイタリアの歌曲であるが、そうした小芝居の背景に朗々と歌われるのにふさわしい俗曲だ。

 このような倫理的欠陥があるにも関わらず、リズミカルな詠みぶりは魅力的である。どんな困難があろうと、積極的、肯定的な態度で望めるところが憲吉の持ち味であろう。必ずしも575にこだわらず、特に上5に字余りを盛んに用い、日常のディテールをゴタゴタと盛りこむ。にもかかわらず独自のリズム感があるから不快ではない。「そこで」などという詩歌の冒頭にはあり得ない言葉を盛りこんで憲吉の世界に導入する。お前は何ものだ、と言いたいが、きっと俺は本物だ、と答えるにちがいない。

 憲吉の句を読むには憲吉になりきらないといけない。共感しないといけない。そして憲吉になりきると---心地よい。ちょっとしたピカレスクロマンであり、誉められたことではない。誉められないが止められない。これが憲吉の秘密である。


●―12:北川美美【三橋敏雄】【テーマ:『眞神』を誤読する】⑱―㉕

⑱顔古き夏ゆふぐれの人さらひ

 「人攫い(ヒトサライ)」という言葉を聞かなくなって久しい。「ヒトサライが来る」と言われていた頃、それは本当のモノノケであると信じていた。それは誘拐犯でもあり、鬼のような形相で私を抱え、別の世界(恐らく黄泉)へ連れて行くのだと思っていた。そうでなくても暗闇と夜のトイレ(御手水、御不浄という方がふさわしい)が怖くて仕方がなかった。その怖さが最高潮になるのは、自宅までの商店街から路地50メートルほどの夜道だ。外灯付の電柱が3本あるが、いまだに心細い灯りである。路地の入口に御稲荷様と庚申塔を備えた機織工場がある。夕方になると小柄で健脚な男性が袈裟と頭巾を着装し太鼓を鳴らながら足早にやってくる。今から思うとそれは日蓮宗(あるいは新宗教)の唱題行脚修行だったようだが、それは別世界の入口でもあった。ソロバン塾の帰りにその闇を通らねばならない。目を固く閉じたまま、ひた走る、ただただ怖くて走る。ヒトサライという神隠し、モノノケが本当に出ると信じていた。

 最近になり、シャッター街となった通りから同じ路地を日没後に歩いた。庚申塔は今もあるが、機屋の工場からは何の音も聞こえず、道沿いの子沢山だった牛乳屋さんも顔なじみだったファスナー職人のおじさんも亡くなり、空地になっている土地もある。向こうから外套着の男性らしき人が歩いてくる。街燈の下ですれ違っているのに顔だけが見えない。姿は見えるが、本当に顔だけが何も見えないのだ。暗がりでは人の顔が見えない。都心では考えられない光景だった。この道にはやはりモノノケが潜んでいると改めて確信した。

 「ヒトサライ」について調べてみると、人が忽然と消えるような事象を「神隠し」と片付けていたが、戦後、身代金請求や誘拐報道が生々しくテレビ放送されるようになり、具体的に「ヒトサライ」という表現が定着していったという説があるようだ。過疎地域の子供、若者は船乗りや鉱山労働者、農奴、売春婦などに実際に身売りされたという事実もあり、いわゆる人柱といわれた社会問題があった。平成になり一気に表面化した深刻な「ヒトサライ」は、1970年頃から80年頃にかけての北朝鮮による日本人拉致多発だろう。今も未解決問題であることが報道されている。実際に「新潟の海に行くと、ヒトサライに逢う。」と本当に言われていた。モノノケは本当に私たちの生活の中に実在し、『眞神』が生まれた時代には恐ろしい事件が多発していた。そして現代にもある「ヒトサライ」は、社会の暗闇のような恐ろしい事件であることが多い。

 人が忽然と姿を消すことは、敏雄の中にある、自分自身のリセット願望とともに敏雄自身の何かの消失からきている言葉なのかもしれない。

 ここでキーワードとなるのは「顔古き」という措辞である。顔が古いというのは「年老いている」という意味合いと「顔なじみである」という解釈があるかと思う。幼少経験から解釈すると、「顔古き」は「顔なじみ、知っている人」ということかと解釈できるのだが。「顔新しき」としてみると、「ヒトサライのくせに新顔じゃないか」と攫われる側が想うということになる。

 掲句を見ていると、彼の世にいる牛乳屋のおじさん、ファフナー作りのおじさん、そして日蓮修行僧が蘇る。今も暗い路地を通ると、そういうおじさんたちが、今、どこか別の異界へ連れていこうとする姿をふと想像する。怖さの中にどこかファンタジーがある。

 『眞神』には当時の事実に裏付けされた事象がありながら、時代に読みづがれてきた神話、童話の世界がある。逆に神話、童話は、歴史の事実を元に語り継がれてきたことであることにも気が付くのである。


⑲鬼やんま長途のはじめ日当れり

 前句の「ゆふぐれ」から「鬼やんま」へと句が移る。トンボである。

 大方の読者が「負われて(背負われて)見たのはいつの日か」と想像するのが容易いだろう。ヤンマは、大形のトンボの総称で、羽の美しい意で「笑羽(エバ)」からとする説、四枚ある羽が重なっていることから「八重羽(ヤエバ)」が転じた説などの諸説がある。「鬼」がついて「鬼やんま」。巨大トンボの別称だが、鬼のような厳めしい顔つきが特徴であり、黒と黄色の段だら模様を、鬼が履いているトラのパンツに見立てたことに由来している。

 三句切れとなっているが、中七の措辞「長途のはじめ」とはなんだろうか。「長途」とは長旅、遠路のことであるが、明治時代にはじまった修学旅行は、「長途遠足」なんていっていたらしい。「鬼やんま」の生体を調べてみると、成虫になるまでの期間が約5年。まさに長旅である。旅のはじまりが、めでたいような、祝福されているような感じだろうか。鬼やんまは、共食いまでもするような肉食(ガ、ハエ、アブ、ハチなどを空中で捕食)であることも、練習船の事務局長として数えきれない長旅を経験した敏雄の船内の経験をふと想像してしまう。

 さてここからが本筋の深読みの世界だ。「途」から「冥途の世界」という連想もあるだろう。三途の川の入口に「鬼やんま」が出迎えているのである。冥途には流れの速度が異なる三つの瀬があり、生前の業(ごう)によって「善人は橋」「軽罪の者は浅瀬」「重罪の者は流れの速い深み」を渡ると考えられており、「三瀬川」と呼ばれている。そこに肉食の鬼やんまが日に当たる石にしがみついている光景は、ありえる世界だ。

 だいたいタイトルが『眞神』というのが、『里見八犬伝』のような大スペクタクル伝奇をも思わせる。けれど、敏雄はそれを俳句という最短の文芸に収め、総句数130句でまとめている。加えてこれは小説でも連載でもなく、句集というのが畏れ入るのである。

 「空想の世界を詠む」ことは俳句の禁じ手であるといわれている。『眞神』は、事実に基づいた景を見せながら人の心にある異世界を引き出すという手法が見える。


⑳蒼白き蝉の子を掘りあてにける

 「鬼やんま」の虎の子パンツ柄から一気に「蒼白き蝉の子」へと生のあわいを感じさせる。

 蝉の穴の句(7句目)から実際に、蝉穴の幼虫そのものを掘り当てたのである。

 数年を地中で過ごした蝉の幼虫はこの世の風景をまだ知らない、蒼白い、無垢な命である。まるで、男子が赤子をはじめて抱き、生命の尊さ驚いたかのようだ。下五の措辞「掘り当てにける」から、井戸を掘り当てたように、幸運な出来事だったのである。

 この句以降(21句目~24句目)の言葉に「動き」「運動」がある句が配列される。

 蒼白き蝉の子を掘りあてにける (掘る)

 草刈に杉苗刈られ薫るなり (刈る)

 蛇捕の脇みちに入る頭かな (入る)

 蒼然と晩夏のひばりあがりけり (あがる)

参考までに、蝉の子(幼虫)が Youtube で見られる。


㉑  草刈に杉苗刈られ薫るなり

 すがすがしい句。

 「刈る」のリフレインと「ka」音(「草刈」「刈られ」「薫る」)が韻を踏んでいる。古い句にみえながら、「刈る」という行為、字面が殺伐とした荒涼感をもたらしている気がする。

 「刈られ」ているのだから作者が刈ったのではなく、草刈作業で誰かが刈った草が山になり、その草山を通り過ぎた光景を思い浮かべる。杉苗と言っているので街中ではなく、多少なりとも山が控えている地域だろう。アレルゲンの要素が沢山ともいえる草山だけれど、掲句をみているだけでマイナスイオンの山の香りとともにストレスから解放された気持ちになる。春から夏にかけての漂う山の香りというのは、杉の香りなのかもしれない。山に囲まれた八王子に暮らした敏雄ならではの郷愁をも感じられる。

 『眞神』の中にはリフレイン、言葉の重なりがある句が多い。以下『眞神』のリフレインの句を挙げてみる。

 鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中

 蝉の穴蟻の穴よりしづかなる

 雪国に雪よみがへり急ぎ降る

 針を灼く裸火久し久しの夏

 帆をあげて優しく使ふ帆縫針

 行雁や港港に天地ありき

 油屋にむかしの油買ひにゆく

 山ちかく山の雹降る石の音

 海ながれ流れて海のあめんぼう

 水の江に催す水子逆映り

 思ひ負けの秋や秋やと石の川

 130句中で10句。リフレイン(重畳法)の句は詩情を高め、リズムを強める効果があるが、理屈っぽさ、滑稽さ、しつこさに陥り、俳句という短詩型の中でのリスクも大きい。『眞神』ではリスクのある手法が多く収録されているのも確かだ。

 以下はリフレイン句として引用される歴代の代表句。

 春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな   蕪村

 梅の花あかいは赤いあかいはの   惟然

 露の世は露の世ながらさりながら   一茶

 下々も下々下々の下国の涼しさよ   一茶

 山又山山桜又山桜     波野青畝

 ちるさくら海あおければ海へちる   高屋窓秋

 いなびかり北よりすれば北を見る   橋本多佳子

 一月の川一月の谷の中   飯田龍太

 西国の畦曼珠沙華曼珠沙華  森澄雄

 飯田龍太の「一月の」の句は1969年制作となっていたので、『眞神』よりも数年早いことになる。

 『眞神』の中のリフレイン句は、使用する動詞、形容詞に意外性があり型に則しながら無駄がない。また、『眞神』の収録句は、三鬼没後の制作句が多く含まれると思えるが、そこには、新興俳句にみられるコスモポリタン的な詩情とは異なる、俳句形式の中での詩性の型を追及しようとする姿勢も、リフレイン句が多く含まれる要因であったのではないだろうか。俳句の型を超えた交流(吉岡実、高橋睦郎など)が始まるのは『眞神』発表以降頻繁になる。他詩型が敏雄に気づき始めたのである。

 掲句は、リフレインの中で、さりげない日常を詠っている。なんでもないこと、当たり前の日常であることが、とても高貴で豊かなことであることに気付かせてくれる句である。


㉒  蛇捕の脇みちに入る頭かな

 伝統俳句的である。確実に「俳句」形式だが、句意がいまひとつわからない。何故「蛇捕」が出て来るのか、なぜ脇道に「頭」が入ってしまうのか。俳句の致命的な短さから、想像の世界へ引きずり込まれる。畦道で車が脱輪し、さらに車体の頭を畑に入れてしまったような思いがする。

 ことわざの「蛇の道は蛇(じゃのみちはへび)」の由来は、「蛇の通る道は小蛇がよく知っている」という説と、「蛇の通る道は他の蛇もよくわかる」という説がある。いずれも同類のすることは同類の者が一番よく知っているということ。蛇捕は蛇の通る道ならばわかるが蛇が通らない道、人の道はわからない。だから道に頭を突っ込んでわけがわからなくなってしまう。というような人生訓のようにも思えてしまうのだが・・・。

 飛んで脳の話。人間の脳の一番根っこには、ヘビの脳(脳幹)といわれる動物の機能中枢がある。爬虫類、鳥類と同じ機能と考えられ、食べる、呼吸をする、排泄をするなど、生きていく上で大切なことを指示する脳。その上に、ネコの脳(大脳辺縁系)と呼ばれる部分があり、喜んだり、怒ったり、悲しんだりといった感情を出す。さらに上に、ヒトの脳(大脳新皮質)が覆うようにある。ヒトの脳(大脳新皮質)は、覚えたり、考えたり、話したりする部分で不完全な部分。生後どのような情報をインプットするかによって、その精度が決められるとされている。ヘビの脳(脳幹)は、動物が生存を続けるのに不可欠な脳であり、自己防衛本能や快感・美意識などの司令塔。すなわち人間は蛇の行動と同じ能力をも備わっているということだ。

 蛇脳を持つ人間である蛇捕が、蛇の通らない脇道(蛇以外は通る)に入ったとき、熊とか、鴨とか、ペンギンに遭遇したとして蛇脳ではなく、ヒトの脳で考えてしまい、熊、鴨、ペンギンの立ち話に頭を突っ込んでしまい、熊は熊の、鴨は鴨の、ペンギンはペンギンの苦しみを知る。しかし、話を聞いてばかりでは、蛇はおろか、何の獲物も得られなかった・・・。蛇捕のプライドが最短で蛇を捕獲することならば滑稽なことである。しかし、そういう「脇みち」も 悪くない一日だ。

 別訳で、精神分析の始祖であるフロイトは夢分析において、ヘビを男根の象徴であるとした。これに対してユングは、男性の夢に登場するヘビは女性であると説いた。蛇捕が蛇を捕獲しにいって、脇道で性的対象を物色して男根を突っ込んでいる姿とも思える。敏雄句は色事的解釈がされることが多い。それは、俳句が大人の遊びであり、面白いと思えるところでもある。

 蛇といえば、タロットカードである。『三橋敏雄俳句かるた』(ナムーラミチヨ画/書肆まひまひ)をようやく購入した(在庫わずか)。あいにく、掲句の蛇捕の句は絵札、読み札に入っていないが、次は蛇捕の句を入れて『眞神タロットカード』をナムーラさんと構想してみたい。その日を占う眞神カード。 脇みちに頭を突っ込むのも悪くないのだ。

 素頭のわれは秀才夏霞   敏雄『靑の中』

 素頭の句から約30年を経て敏雄は脇みちに頭を突っ込んだのだろうか。大人はあえて脇道に頭を入れる時があるのだ。


㉓  蒼然と晩夏のひばりあがりけり

 「ひばり」は、留鳥で、春の繁殖期に空高く鳴く。「ひばり」は繁殖期以外は地上に生活する習性がある。掲句の季節は晩夏。草むらに溶け込み、隠れて地上生活をする「ひばり」が「蒼然と」あがる。荒涼感がただよい、万葉の春の歌とは別のもの悲しさを想う句である。

 ポイントとなる措辞、「蒼然と」というのは、色として蒼いという意味。そして暮れ方を表現する場合に使用される例がある。「蒼然として死人に等しき我面色/舞姫(鴎外)」「蒼然として暮れ行く街の方/あめりか物語(荷風)」などの文学的使用例がある。夏の終りの疲れとともに、青みがかった空にあがる「ひばり」の姿は、命の小さな点を示唆しているように感じる。

 21句目~24句目の言葉に「動き」「運動」がある句の配列について触れたが、それらの句にはどれも「命」が宿る。点のような命が言葉をもって動き出す。

 『眞神』収録順にその動きを記号で示してみたい。

鬼やんま長途のはじめ日当れり 

――― 冥途かもしれない長途という長い道の端に停まる「鬼やんま」という棒状の命。(→)


蒼白き蝉の子を掘りあてにける 

――― 土に開いた蝉の穴を垂直方向に下に指を伸ばし蒼い命がそこにある。(↓)


草刈に杉苗刈られ薫るなり

――― 垂直に伸びる草という生命を水平に刈る。(↑→)


蛇捕の脇みちに入る頭かな 

――― 脇みちは、正道よりも曲がりくねり距離があるように思える。蛇行する命を追いかける蛇捕。(~~~)


蒼然と晩夏のひばりあがりけり

――― 地上からひばりという迷彩のようにして生きる命が上へあがる(↑)


 敏雄の句は俳句であることは間違いなく、さらに、あらゆる角度から検証にも成り立つ確固たる「純粋俳句」であることを実感する。

 西東三鬼門として敏雄と同門である白石哲氏が去る二月二十七日鬼籍に入られた(享年87歳)。カルチャーセンターという当時新しい分野(産経学園と聞いている)に高柳重信、三橋敏雄を講師として招き、美作時代の阿部青鞋との交流、津山出身の三鬼の墓守、「西東三鬼賞」の創設、三鬼の顕彰にご尽力された。敏雄も三鬼賞の選者として参加していた。白石氏はおそらく三鬼門を名乗る最後の方かと思う。幾度となくやりとりをしたが、「三橋敏雄を超える俳人は今後も出てこないだろう」と敏雄の名前が真っ先に出ていた。敏雄が三鬼門であるならば、弟子は師の教えを受け継ぎ発展させることが使命とされるが、敏雄は、純粋に俳句を追い求めることに翻弄した。上記の句をみてあらためて痛感するばかりだ。

 三鬼門として敏雄と親交のあった白石哲氏のご冥福を心からお祈り申し上げる。


㉔   霧しづく体内暗く赤くして

 確かに内視鏡で見たことのある体の中は赤くて暗い。けれども、ここではあえて、「して」という表現である。「暗く」「赤く」しているのだ。

 前句「蒼然と晩夏のひばりあがりけり」からの繋がりをみてみると、蒼然という「ぼんやり」と暗くなっていくような夕暮が想像できるが、それが掲句により「どっぷり」と暗く、そして夕焼の赤がもっともっと「赤々」としてくる。グラデーションが濃くなっていくイメージだ。

 戦後の敏雄句のイメージには「赤」がつきまとう。

 敏雄句の「赤」について、戦後俳句を読む(第6回の1)テーマ:「色」参照。

 少年ありピカソの靑の中に病む 『靑の中』

を詠んだ敏雄が、戦後とともに赤にこだわっていく。

 掲句で気になるのは、「胎内」とは書いていなく「体内」である。この句では、霧のような小さな命の粒となった我の胎内巡りのように見える。しかし「体内」となれば、その読みは、いくつかの別の見方がでてくる。

 暗く赤くなる。もしそれが作者敏雄自身のことであれば、体の中が充血する、ということでもある。『眞神』冒頭では鬼が赤くなった。暗く赤くなったのは怒っているあるいは興奮しているからだろうか。そして体内が赤く充血したために霧がしづいた、という読みであれば、精子を放出したとも読めてくる。

 敏雄の表現として、「赤い」のではなく「赤く」なるのが特徴である。

 鬼赤く戦争はまだつづくなり   『眞神』

 霧しづく體内暗く赤くして

 産みどめの母より赤く流れ出む

 またの夜を東京赤く赤くなる   『鷓鴣』

 父、母がいて自分という命をもらう。生まれたことも死ぬことも選ぶことはできない。自分はただ霧がしづくような小さな命であり、体内を暗く赤くしながら生きる物体なのである、というようにも思える。

 グラデーションが濃くなっていくように戦後の昭和がどす黒い赤になっていき、霧というものが油のように思えてくるのである。


㉕   生みの母を揉む長あそび長夜かな

 母から生れた命が成長し「母を揉む」という「長あそび」をしている長夜である。

 あえて「生みの母」としている。乳母、あるいは継母ではない、直系の母である。「長あそび」をするのであれば、やわらかいからこそ揉むのだろうか。「生みの母」はやわらかい、乳母、継母ではなく、「生みの母」だからこそできる「長あそび」。何もかも許してもらえる夜長なのだ。女ではややこしくなり「長あそび」ができない、いや、「生みの母」としながら、あえて女のことなのかもしれない。敏雄句にとっての女性はすべて母なる体をもつ聖母のような存在であったのかもしれない。

 『眞神』の中の母とは何であろうか。

 母ぐるみ胎児多しや擬砲音

 生みの母を揉む長あそび長夜かな

 母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき

 産みどめの母より赤く流れ出む

 秋色や母のみならず前を解く

 ははそはの母に歯はなく桃の花

 大正の母者は傾ぐ片手桶

 夏百夜はだけて白き母の恩

 母を女性としてとらえた句、正しくは、女性を母として捉えているという方が的確かもしれない。母の句に対しての考察はまだ時間がかかりそうだ。

 ようやく『眞神』村に春が来た。敏雄句と真剣に向き合って1年になる。振りだし戻っているような気がしないでもない。狼信仰のある『眞神』山(仮称)。登山道の入口にある神社の宮司は水没した村の学校に住んだ校長家族の長男にあたる。烏天狗を参拝し改めて『眞神』考を続けよう。


●―13: 深谷義紀 【成田千空】

 をのこ子の小さきあぐら年新た

 句集「地霊」所収。

 この句について、千空は自ら次のように語っている。

 「当時の田舎の正月は旧正月で、新暦では二月に入ってからですから、立春も近く、新しい年は即ち春、という気分がありました。戦後の乏しい食生活でも、正月だけは膳にあふれるほどの食べものがつくられて、祝いました。濁り酒も豊かで、有難く楽しい一日でした。(中略)戦後のすこやかな情景です。親類の男の幼な子が囲炉裏の横座にすわって、あぐらをかいていました。いかにもたのしくめでたく、新しい年を迎える焦点となりました。」(「俳句は歓びの文学」(角川学芸出版)より)

 終戦後間もない時期の、津軽の旧正月の光景が、余すところなく描かれている。雪深い青森の農村生活はただでさえ厳しく、加えて戦後の混乱がまだ収まりきらない時分である。日常はギリギリの暮らしを余儀なくされていた筈だ。しかし(旧)正月は特別である。文字通りハレの祭事を寿ぐ気分が横溢している。集った親類縁者たちの明るい笑い声が聞こえてくるようである。余談になるが、「濁り酒も豊か」と書いたところは、いかにも酒を好んだ千空らしいと思い、微笑を禁じえなかった(ちなみに青森では自家用に濁り酒、即ちどぶろくを作ることが盛んに行われた)。

 話が脇道に逸れた。掲出句に戻ろう。句の対象は親類の幼児である。その子のあどけなさと大人びた仕草の胡坐座りというギャップが千空の目を引いたのである。上記において千空はそこに旧正月の一層のめでたさを感得したと述べているが、それだけではなく、その子が生き抜いていくであろう未来、或いは少しずつ確かなものになりつつあった戦後復興への期待もその背景にあるように思えてならない。だからこそ、正月のめでたさもひとしおなのである。