(2012年04月13日・2012年04月20日・2012年04月27日)
●―1:藤田踏青【近木圭之介】、ー「獣」を読むー
月烈烈断水ノ街。犬帰ル
掲句は平成7年の阪神淡路大震災の折に詠まれた作品である(注①)。圭之介は山口県在住であったので、この句はテレビなどの映像からイメージしたものと考えられる。その時、私も被災していたので、当時の1月の寒空下の様子は体感的に受容できる。電気、ガス、水道など全てが止まってしまった街、それを皓皓というよりは烈烈とまるで身体を刻み込むような月の光として表現。そんな月下を帰巣本能であろう、トボトボと帰って行く犬の後ろ姿が目に浮かぶ。そして犬の姿に何故か人間の姿が重なって見えてくるから不思議である。句表現としては全て漢字とカタカナ表記であり、それがこの過酷な情景を推し出すと共に、句中の句点によって分断された光景と意識さへをも窺わせている。
この時、圭之介が所属していた俳誌「層雲自由律」の平成七年の震災特集では、掲句と共に次の様な句が掲載されていた。
「父この下です」写真にペットボトル水 小川未加 注①
燃え尽きたダリの夜が明ける 藤田踏青 同
首相の眉毛ほど救援のびず尚余震 古市群青子 同
無事か無事か無事か無事だったか 中條恵行 同
なぜだなぜだと問い糾す炎の夜 伊藤完吾 同
特に前三作は被災者自身の句であり、後二作は無情への限りない問いかけのようでもあり、昨年の東北大震災へと思いを致すものがある。
月に野犬化する黒い一匹の周辺 昭和41年作 注②
夢でしかない獣が己にいて。今も 平成18年作
「獣」にはその実体と共に、人間の「獣性」というものとも考える事ができよう。前句の黒い一匹は単純に野犬と見る事も出来るが、「周辺」という社会、環境などの対比から野犬化した一個の人間の姿と見る事もできよう。その強調された黒の輪郭線はルオーのようなフォーヴィズムをも想起させてくるようである。また後句は明らかに心理的な獣性を示しており、圭之介が当時94歳にしてなお獣性を秘めていたとは驚きであり、鋭い自画像となっている。
かげ 黒猫となる 昭和39年作 注②
猫 月光の幅を跳躍する 同 同
「犬」とあれば当然「猫」も登場する。これらの句の場合の猫は、かげや月光と対峙される事によってその存在自体が強調されると共に、その存在の限界点、範囲指定のようなものを提示しているとも言えよう。そして当然それは自己と背中合わせの存在のようでもあり、転移した存在とも言えようか。
<パレットナイフ18>抜 注③
Ⅴ わたしは野良猫 港町のいっぴき
影さえ与えられない駄目な野良猫さ
いいですか向こうでは太陽が一つ素敵だ
この詩でも野良猫は自己であるが故に太陽から遠ざけられ、影さえ与えられていない存在である。愚直な思考の方向性の中で情緒は引き裂かれ、変転し、何処へ流れ出ていくのであろう。
注① 「層雲自由律90年作品史」 層雲自由律の会 平成16年刊
注② 「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊
注③ 「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊
●―2:土肥あき子【稲垣きくの】、(欠稿)
●―3:北村虻曳短詩として読む俳句【テーマ:死の風景】
あの世から物干し竿が降りてくる 石部明 バックストローク 31 2010
詩客に書き始めて数回、私用と非力で中断していたが、親しんできたテーマについて触れていないので少し述べておきたい。
Wilson Bryan
Key著・植島啓司訳・リブロポート「メディア・セックス」という本がある。広告は潜在意識への働きかけに手を尽くすという、フロイトの理論やサブリミナルという語と共に知られるようになった事柄をとても興味深い例を挙げて示している。隠されていながら露骨な表現の例示に驚くが、話は性にとどまらない。たとえば、ビートルズの「アビー・ロード」のジャケットにはポール・マッカートニーだけが死装束で登場していること、ジョニー・ウォーカーのラベルにはDEDの文字や斬首の図を読み取るなど、役に立つと言うより読み物として大変面白い。激辛から始まって、ニコチンと警告たっぷりのタバコ、70度を越えるスピリッツ、絶叫する暇も与えず首をねじ切るジェットコースター。ものそのものも、死のイメージは新奇を好む人種の無意識を惹きつけ離さない。古来、危険あるいは死も商品売り込みに際して有力なテーマとなってきた。
コピーの時代以後、広告としばしば比較された俳句においても、簡潔にして強烈な死というもののイメージは重要である。商品のためではなく表現そのものとして。しかし戦前の句にはどちらかといえば、死には生活臭が漂っていたように思う。
だが「第3回戦後俳句史を読む」で採りあげた
雪積むを見てゐる甕のゆめうつつ 齋藤玄 1975
まくなぎとなりて山河を浮上せる 齋藤玄 1978
では実生活は完全に昇華され、悲痛な聖性を帯びている。もっとパセティックに詠むと、
黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ 中村苑子 水妖詞館 1975
遠き母より灰神楽立ち木魂発つ 中村苑子 水妖詞館 1975
など、場面は演劇空間のようになり死は自己愛的・恍惚的なものとなる。これらはいずれも寂しさや、怖れと言った否定性に逆に価値をあたえている。もう少し醒めた読み方なら
死ににゆく猫に真青の薄原 加藤楸邨 まぼろしの鹿 1968
いつよりか遠見の父が立つ水際 中村苑子 水妖詞館 1975
など。暗示的には
てふてふや水に浮きたる語彙一つ 河原枇杷男 流灌頂 1975
この下の句では、水に墜ちた蝶がほどけることと、語彙・文字の繋がりが分解出来ることへの連想が働き、死の俳句に留めず別の観念の世界へ導く仕掛けも重要である。
こうして見ていると、死の幻を詠む俳句は1975年(昭和50年)前後に現れている。60年代に起こり70年代隆盛を極めた暗黒舞踏・演劇をはじめとする反リアリズム的な文化の流れの影響を受けていると考えられる。
俳句にかくも豊穣な死のイメージが噴出した時代はこの70年代を置いてないであろう。他の分野では、リアリズムを越えて死あるいはそれに近い光景を採りあげたものは、古来数多くある。特に、詩の萩原朔太郎「月に吠える」、小説は内田百閒の「冥土」、絵画で朔太郎と共同制作した田中恭吉などが活躍した大正期が目立つ。大正は後世、大正デモクラシー、大正ロマンなどと称され、モダニズム、ダダイズム、アナキズムが花咲き、社会運動に加えて文化人のスキャンダル・自死などが注目された。死のイメージの豊かさは自由の爛熟と比例するのであろうか。
しかし、嗜好の傾向は時代だけで決まるものではなく、人の資質が決定的であることは言うまでもない。若い頃、先輩に君はなぜ怖い本や不気味な本を読むのだと、本当に不思議そうに聞かれたことがある。ご本人はよくシャンソン風の「お菓子の好きなパリ娘」を口ずさんでいた。私にはその方が不思議であった。chansonを聞かず、段ボールを楽器とするFlying
Lizards、苦渋と屈折に満ちた声を上げるPILなどnew wave
rockを聞くのはなぜか?頭脳にエンドルフィンを生じさせるものには個人差があるとしか言いようがない。
ところで死に対してはまた一つの処し方がある。
家蠅の一つ感動倒れしぬ 永田耕衣 人生 1988
空溝に黄金の蝶写り行く 永田耕衣 泥ん 1992
これと死とどういう関係があると言うのか。私には水草や汚泥の乾いた溝が、蝶の羽の反照に映え、明かり暗がる光景、浄土あるいは冥土である。裏木戸を押すと浄土であり、死は生と合体している。耕衣は歳と共にあらゆるものに親和力をまし、涅槃に入っていったのではないだろうか。
最後に専業俳人ではなく戦後人でもない、死の俳句の一人の先駆者を思い出しておこう。葛飾北斎の辞世とされる有名な句である。
人魂で行く気散じや夏野原 葛飾北斎 1849
強がりとあてどなさが日本人伝統の心意気である。機知は基角ばりとしても身についており、洒脱な死生は江戸の俳人の域を超えている。なお、現代ドイツで北斎に心酔しているのは、エロスと死の手に負えぬ画狂老人Horst
Janssenで、たとえば「永い旅」、ガラスの花瓶に挿されたチューリップの絵である。完全に枯れて花びらを下に散らし、腐った葉はガラスにへばりついて乾いているといった体、悽愴なチューリップにこそ安らぎがある。
●―4:飯田冬眞【齋藤玄】、ー「獣」を読むー
吹かれゐて美猫となりぬ花薄
昭和51年作。第5句集『雁道』(*1)所収。
後半生の3句集から「獣」の句を抜こうと読みはじめたが、ほとんどない。だが、驚いたのは、『雁道』の獣の句はすべて「猫」だったこと。齋藤玄は北海道の俳人である。郷土を代表するヒグマあるいはキタキツネなど「北の大地」を感じさせる獣を詠んでいないはずはない!そんな勝手な思い込みのもと、第一句集から読み直してみた。
敗れたる馬の瞳の稚なけれ 昭和14年作 『舎木』
競馬場ながき夕を汗し離る 昭和14年作 『舎木』
兵馬空を嬰児に花の風展き 昭和15年作 『舎木』
兵馬征く光に凛凛とみごもりぬ 昭和15年作 『舎木』
花ぐもり馬きて馬の影つくれり 昭和15年作 『舎木』
ごらんのとおり、期待は裏切られた。作句時期の昭和14、15年の玄は、まだ、齋藤三樹雄を名乗っており、「京大俳句」および「天香」へ投稿していた頃にあたる。その頃の獣たちは、みな「馬」だった。昭和15年に玄(三樹雄)は郷里の函館で、北海道における新興俳句運動の「指導的機関建設の埋石」(「壺」創刊号発刊の言葉)になることを念願して、俳誌「壺」を創刊している。処女句集『舎木』の馬の句はどれも、モダニズムの色が濃く表れており若々しい。
一、二句目には「函館競馬場」の前詞。俳句を初めて三年目の若書きの句だが、作者の立ち位置が見えてきて好感が持てる。ことに三句目、四句目の「兵馬」を読み込んだ作品は、馬も人間と同様に扱われていた戦時下の生活のひとこまが描かれており、興味深い。軍隊に徴用されて空路で運ばれる馬が〈嬰児に花の風〉をひろげていると詠んだ三句目は、作者の視線の柔軟さと優しさが伝わってきて心地よい。四句目の戦争に行く馬が光を放ち人間の女を身ごもらせたというとらえ方は斬新だと思う。死にゆく命が種を超えて人の胎内に宿るというのは、どこか原始仏教的な味わいがある。人も馬も同じいのちのかけらで、死はその一過程に過ぎないという晩年の玄の死生観の萌芽を感じさせる。
地吹雪や倒るる馬は眠る馬 昭和47年作 『狩眼』
牛叱る声に帆下ろす声おぼろ 昭和47年作 『狩眼』
口に乗る春歌や旱の狐立つ 昭和47年作 『狩眼』
一転して、後半生の句。一句目の〈地吹雪や〉は石川桂郎と厳寒の網走を旅行した折のもの。〈倒るる馬は眠る馬〉は、現在でもどこかの句会に出てきそうなフレーズ。戦後俳句の文体の一典型かもしれない。「○○や××する△△は◇◇する△△」今度、使ってみよう。二句目の〈牛叱る〉の句は船で牛を搬送する港での光景だろうか。この声はどちらも人間の声であるが、対象の違いによって、音に高低差があることをとらえており、聴覚で茫洋とした〈おぼろ〉の季節を描こうとしたものか。三句目には「芦別市旭丘野鳥園」の前詞。旱天の狐の緩慢な動作を見て、思わず春の歌が口からこぼれ出したということだろうが、口ずさむ作者の心象が読者に伝わらず、難解。
雪仔細犬猫とても十字切る 昭和50年作 『狩眼』
牡丹の紅の強情猫そよぐ 昭和50年作 『雁道』
年つまる人の口から猫の声 昭和50年作 『雁道』
大寒のたましひ光る猫通す 昭和53年作 『雁道』
どこか、ユーモラスで、軽みを感じさせる句が並んだ。対象が「猫」のせいもあるかもしれない。一句目の〈十字切る〉とは、犬猫が交互に前脚で顔を撫でるしぐさをとらえたものだろう。そこに不穏なものを嗅ぎ取るか、愛くるしさを見てとるかは読者の心象にゆだねられている。三句目の〈人の口から猫の声〉からは年末の多忙な日常が透けて見えてくる。私も仕事が忙しくなるとカンボジアの五輪選手になった猫ひろしではないが、思わず「にゃあ~」という声を漏らしてしまうことがあって、周囲から薄気味悪がられている。
こうして見てくると、戦後の日本人にとって、最も身近な「獣」は「猫」と「犬」のように思えてくる。現在刊行されている俳句総合誌でも「犬句」「猫句」は毎号のように見かけるし、(俳句に)「詠まれた猫」という能天気な連載も好評なのだそうだ。
戦前の「馬」の句とくらべてみると玄の「猫」の句からは、人間に使役されるような悲哀や束縛とは無縁で自由な空気が感じられる。それでいて人間の生活圏内に何気ない顔をして存在する獣。役に立っているのか、いないのか、よくわからない存在。なついてみたり、そっぽを向いてみたりする気まぐれな生き物。なんだか俳人みたいだ。人といっしょに畑を耕し、戦争に行って戦友になってくれた牛馬も尊い獣だが、猫の存在も等価に思える。
吹かれゐて美猫となりぬ花薄 昭和51年作 『雁道』
そこで、掲出句をみていこう。
風になびく尾花を見つめているうちに、尾花が、白毛のあるいは銀毛のふさふさとした猫の姿に変わっていったという幻視の句。尾花の穂が猫の尾に見えるのは当たり前のような気がするが、数千のかわいらしい猫がきれいな尾を揺らしながら小さく鳴いている姿を想像したら、これはこれでかなり壮観だろうと思う。猫好きにはたまらない絵だ。ちょっとエロティックですらある。
作者の心象が仮託されやすい獣として、戦後俳句に猫が独自の地位を確保したことを論証してみたいが、論旨から外れるので次の機会に譲ることにしよう。
*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
●―5:堺谷真人【堀葦男】
●―8:岡村知昭【青玄系の作家】、「獣」を読む ―
わが愛語猫に通ぜず霜解くる 日野晏子
猫は夫人の膝の上で小さく喉を鳴らしながら、おとなしく夫人の愛撫を受けている。頭からはじまり顔から喉、そして腹回りから足、尻尾に至るまで夫人の手は柔らかく猫の毛並みを撫で回している。そして夫人の手が猫の全身をくまなく動く間には、「ほんとうにお前はかわいいねえ」「よしよし」何度も繰り返される夫人からの感嘆が、もうひとつの愛撫として全身にくまなく注がれている。だがここが猫の猫たる所以なのか、夫人が言葉と態度のすべてを駆使して猫に注ぎ込む愛情に対して、膝の上の猫の態度ときたら喜びをあらわにするわけではなく、されど愛情をうっとうしく感じて逃げ出すというのでもなく、相も変わらず膝の上でゴロゴロ喉を鳴らしているばかり。夫人としても猫というのはそのようなものとわかってはいるけれど、だけど少しぐらいは喜びを見せてくれたっていいんじゃないの、との思いはどうしてもこみあげてくる。たかが猫されど猫、おまえはどうせわかってくれないのねえ、などと愚痴を思わず口にしたくなるのも、霜が解けていよいよ春の訪れが身近に感じられてきた頃だからなのだろうか。
ここまで書いてきてなんなのだが、この一句について「そのようなことなら題材としてありがちではないか」との声が聞こえてきそうなのは致し方なく思っている。ならば境涯詠の枠に収めて、夫である日野草城を世話を一身に引き受けている日常を背景にして「愛語」を深読みしてしまうというのも、読みとしては可能かもしれないが、あまり「草城の妻」にとらわれ過ぎるのもよろしくはないだろう。ということで、ここは「日野晏子遺句集」に登場するそのほかの猫の句を見て置こう。
猫のせて膝あたたかき十三夜
座るより猫の四つ児が膝慕ふ
猫の子に膝とられ窮屈に縫ふ
まんじゅさげ真白き猫の子を抱いて
引用したこれらの猫の句においては、猫に真向かう人物の姿もまたきちんと描かれているのが何とも興味深いところである。膝の上の猫の温もりをしみじみと感じながら秋の夜長を過ごす様子、自分が座ろうとしたとたんに膝の上にちょこんと載ってきて当たり前のように座り込む猫の自分を「慕ふ」ことへの喜び、「窮屈に縫ふ」と言いながら膝の上の猫の子を可愛がらずにはいられない自分の姿、それぞれに自分と猫の関係が成立してなければこのような楽しげな作品とはなりえないだろうことは十分にうかがえる、夫人たる晏子からの「愛語」はこのとき間違いなく猫に伝わっているはず、との確信に満ちている。「まんじゅさげ」の句においてもそれは変わらない。「まんじゅさげ」の紅は「真白き猫の子」の白をさらに引き立てるために用意されており、いま両腕で抱きかかえる白い子猫の可愛らしさを褒め称えたくてやまない自分の想いを、「愛語」を用いずに表現できている。もちろん白い子猫には自分の気持ちは伝わっているはず、との確信は揺らがない。このように「夫人と猫」の関係を見てきたとき、ならばなぜ冒頭の一句であのような意味深な書き方を、と思ってしまいそうになるのだが、やはりここは思わず口を突いて出てしまった言葉を一句へ持ち込んだ、と見るのが適当なのかもしれない。猫との時間が大切なものであるからこそ、自分の感情の微妙な部分に突き当たるというのもありえるのかもしれないから。
猫の子を妻溺愛すわれ病めば 日野草城(句集「人生の午後」より)
夫である草城も亡くなった飼い猫への追悼句を作っているほど猫を可愛がっていたのだが、この一句では猫を可愛がる妻の姿に、どこか微妙なシニカルさを与えている。それは「病めば」すなわち「自分が病気になってしまったから妻はそれこそ『猫可愛がり』するようになった」と妻の献身的な介護を必要とする夫の目線がもたらすものだろう。草城もまたこの一句を通じて、自分の中に潜む妻への感情の微妙な部分と出会ってしまっていたのかもしれない。なるほど、猫とはなかなかに油断ならない生物であることが、この夫妻の様子を見ていても大いにうかがい知れるところである。
●―9:しなだしん【上田五千石】、―「獣」を読む―
シリウスの青眼ひたと薬喰 五千石
第二句集『森林』所収。昭和五十年作。
自註には〈十枚山麓の宿は猪や鹿を喰わせる。炉端で鍋を囲んでの熱燗、身内の野性がよみがえる〉とある。
この句には今回のテーマの「獣」が表出しているわけではないが、「薬喰」から十分に獣が感じられるだろう。ましてや掲出句は「シリウス」が見える、山深い宿の一夜である。自註にある通り、炉端での薬喰は、まさに野性味がある。
◆
自註にある、十枚山とは山梨県南巨摩郡南部町と静岡県静岡市葵区にまたがる山で、標高は1719m。
同じ十枚山での作と思われるのが〈昼ともる寒の裸燈に村老くる〉〈冬菜二三行抹消の詩句に似て〉〈山小屋の骨正月を湯気ごもり〉で、三句目の「山小屋の」句について自註に〈骨正月とは二十日正月。正月料理の残りを骨にして平らげる火〉と記している。
続いて、同時かどうか微妙だが〈冬を力耕霊山のほとりにて〉があり、自註では〈霊山は七面山〉と記している。十枚山からは七面山が望めると聞く。
さらに続いて〈長氷柱杖とし突かば聖だつ〉があり、以前取り上げた〈剥落の氷衣の中に瀧自身〉につながってゆく。
これらは第十回「夏の句」でも触れたが、五千石がスランプに陥り、盛んに山歩きをしていた時期である。
この一連の山の句は、句集『森林』の収録順から、昭和五十年の一月の制作と思われる。場所や標高から言って雪が降ることはないと思うが、冬山には危険が潜んでいるような気がする。だが、それだけに一人を感じ、自身に向き合える時間なのかもしれない。
◆
さて、青眼とは、訪れた人を歓迎する気持ちを表す目つき。シリウスを眼に見立てて、自分を歓迎してくれていると、五千石は感じたのかもしれない。
ちなみに「青眼の構え」というのがある。「青眼の構え」とは剣術の基本的な構えのひとつ。流派によって微妙に違うようだが、中段の構えの一種のようで、一般に中段の構えは、切っ先を相手の喉もとのあたりに向ける構えのことだが、これをやや斜め上に少し上げて、相手の眉間から左目のあたりに切っ先を向けるのが、青眼の構えらしい。
掲出句の「ひた」という言葉からそんな武道の構えのことを考えたりもした。
●―10:筑紫磐井【楠本憲吉】、【テーマ:妻と女の間】
さくらんぼかたみに摘まみ失語夫婦
まさに倦怠期の絶頂にある夫婦である。かたみとは互いにであり、盛ってあるサクランボを交互に一粒づつ摘み食するのだが、その間沈黙が流れる。実に長い沈黙である。語るべき言葉を持ち合わせないのだ、それくらい夫婦の間で時間が経ってしまっている。
男女の間と言葉の関係は、3つの時期があるという。初期は饒舌に語り合っていた二人が突然黙りあう段階、中期は言葉がもどかしくも伝わらなくなる段階、終期は何をしゃべったらよいか、お互いに言葉を探し合う段階だという。だから大概の歌謡曲は、この3つの段階を歌い上げるのだという。そうした最終段階に入った夫婦をこの句は描いている。
しかし最終段階に入ったからと言って夫婦の生活が終了してしまうわけではない。永遠に近い長い時間をかけてこの失語の状態が続いていくこともある。この生活を破綻させて、新しい状況を作ることに二人が意欲を持つかどうか、そんなことをするエネルギーがあるかどうか、その先に希望に満ちた新しい生活が待っているかどうか、経験もない無知な若い時代ならともかくも、10年も20年もの時間の経過は、情熱を持つ対象などあるはずもないことを知ってしまうかもしれない。
冬苺いまさら夫婦とは愛とはなど
サクランボが冬苺に化けているが、露骨に言えばこうしたことであろう。いまさら、なのである。これは人生の普遍の原理といえなくもなさそうだが、不思議なのは、憲吉の場合あっという間にこうした状況になっていることである。結婚直後からこうした雰囲気を漂わせている。だからこれは時間の経過がこうした感情を生みだしているのではなく、持って生まれた性分であり、憲吉の本質なのである。これらの句を読んで若い人たちも愛情に絶望すべきではない、ただ憲吉のような人物を選ばない賢明な分別を持つべきである。そしてこうした感情からそろそろ卒業しかかっている我々の世代は、十分おもしろがってよいのである。人生の機微に触れている、と無責任に言いながら。
●―12:北川美美【三橋敏雄】【テーマ:『眞神』を誤読する】
26. 己が尾を見てもどる鯉寒に入る
実景写生句にみえるが、果たしてそうだろうか。
小寒(1月6日頃)から節分(立春の前日)までを「寒(かん。寒中・寒の内とも)」と言い、小寒以降を「寒の入り」「寒に入る」という。冬場の鯉は動きが鈍いはず。集団で池の底のようにじっとしていることが多い。しかし、尾をみて戻る体がやわらかそうな鯉が描かれている。「己が尾」という措辞が集団から外れ自己顕示欲の強い鯉に思える。戻ったのは仲間のところだろうか。
体がやわらかい鯉は、大きくならない鯉らしい。大きな鯉をよい鯉とするならば、いわゆる落ちこぼれ、またはアウトローな鯉である。
「登竜門」あるいは「鯉幟(こいのぼり)」の所以のある鯉は、鯉が滝を昇るという逸話である。一旦滝をみつめながら、滝を登らず、川底に戻る鯉もいる。滝を登らない鯉は、鯉幟になれない、これも落ちこぼれ的な鯉かもしれない。
落ちこぼれも鯉であり、本当は、池底にいる鯉こそが底力のある鯉ということもある。人間世界に置き換えて読んでしまうのは、やはり「己」という文字の誘惑だろう。「個」を重視する意味にとれる。
「もどる」と「入る」の動詞が同時使用されている。四句前の「蛇捕の脇みちに入る頭かな」の「入る」も頭をよぎる。
もどるも別の道なりき。
27. 玉霰ふたつならびにふゆるなり
前句の「寒に入る」の小寒の次は冬になった句である。
「ふゆる」というのは「冬」の古語。「増える」が転じて「冬」になっている。それも「魂(たま)が増える」という説があるようだ。敏雄の言葉に対する厳選はどの角度から検証してもゆるぎない。それを直観的に駆使できる天性に磨きがかかった秀才といわれる所以だろう。「霰」は春の可能性もある。春なのに「冬」に逆戻り。前句の鯉がUターンする句からそう思えてくる。
「ならんでふゆる」とは雅である。助詞の「に」にその巧妙さがある。
玉霰ふたつならびてふゆるなり
玉霰ふたつならびにふゆるなり
を比較してみる。
並んでからそして冬になったなぁ
並びながら冬になったなぁ
というニュアンスの違いが感じられる。「に」に比重がかかる句に思える。
また「玉霰ふたつ/ならびにふゆるなり」と切れの位置をずらしてみる。「並びに」という接続使用があるのは「A及びB並びにC」という法的表現があるが、「並びに冬るなり!」と俄然強くなってくる。あらゆる試行し読み方の違いを味わう。
一句で何度でも美味しい。
ひきつづき『眞神』を読むなり。
28. 春山を越えて土減る故郷かな
春の山を越えて辿りついた故郷の土は減っていた。「故郷」という言葉に読者それぞれの郷愁が思い描かれる。
「土減る」の措辞が心の減りようを表しているように読める。「成功をおさめたものが到達できる春なれど、置き去りにした自分の原点があったものだな。」
やわらかさを感じる自然界の「土」という物質層が減っていく。土が減ったということで考えられるということはなんだろうか。
「除染地域のため除染土として土表面3cmを削った」
「宅地造成で土の表土面積が減った」
「アダムを土で作ったため土が減った(旧約聖書)」
「土偶を作ったため土が減った」
「金の発掘のために土を採掘した」
「三匹の子豚の1匹が土の家をつくったので土が減った」
コンテナの中で植物が育つからといって土が減るということはないらしい。土が減るというのは人的なことが加わり起こることではないか。やはり心の磨り減りだろう。
五行(木・火・土・金・水)相生では、木は燃えて火になり、火が燃えたあとには灰(=土)が生じ、土が集まって山となった場所からは鉱物(金)が産出し、金は腐食して水に帰り、水は木を生長させる。
春山の「山」は土が集まった場所であり、そこには山の営み、四季を通しての山の姿がある。山を巨大な土の塊としてとらえてみると、人が棲みつく里は、山からの土がその昔火山灰として流れ込み、やわらかくそしてあたたかく人を迎え、人の営みがあった。
掲句の「故郷」は、帰り処のない心のさまよい、春の憂いを表しているように思える。
29. 雹噛んで臼歯なほ在り故郷かな
前句を受けて「故郷かな」がつづく。掲句の「故郷」は唐突でありながら、「故郷」という言葉に抱く人々の郷愁を再び呼び覚ます。
気象学上で「雹(ひょう)」は5㎜以上、「霰(あられ)」は5㎜以下で区別される。よって雹は激しい自然状況下であることを想像させる。それは、「故郷」の自然環境が厳しいことを含蓄するだろう。雨がふれば槍(やり)のように激しく叩きつけ、雪が降れば猛烈な吹雪となり、夏の太陽は痛く刺すほどに照り付ける。人にはそれぞれの故郷、自己の原点がある。自然の中で人の営みがあり、家族が生まれ、里の暮らしがある。
そして「臼歯」は犬歯よりも奥にある歯のことで、人間は犬歯も臼歯も平均的に発達している。「臼歯なほ在り」の措辞から考えると「犬歯だけでなく臼歯がまだある」という意味にもなろう。肉食動物的、攻撃的な野心だけでなくゆったりとした草食動物の守りの体制を感じる解釈が考えられる。ライオン(ネコ科)やオオカミ(イヌ科)などの肉食動物の歯は、犬歯が発達し、一旦口の中に入れた肉はあまり噛まずに飲み込む。牙というのは犬歯が発達したものだ。
「蛇捕のわき道に入る頭かな」の項の蛇脳に同じく、「臼歯なほ在り」は、人間が狼のような鋭利な狼脳をも兼ね備える能力を暗喩しているように思えてくる。「絶滅のかの狼を連れ歩く」の句が登場するのはまだまだ先だが、狼の存在をすでにここで掲示している、というのは考えすぎでもないのかもしれない。
故郷とはゆっくりとすり潰して呑み込むもの、その感覚を理解するものだけがこの句を味わえばよいだろう。
五木寛之の『青春の門』の中で主人公・信介が筑豊を去る時に養母タエの遺骨を噛む場面が思い出される。骨は「カリカリと爽やかに」砕けた。掲句から思い出される場面である。
「故郷かな」の同じ下五句がつづいた。
五木寛之もそうだが、「故郷」を背負った作家として寺山修司が挙げられるだろう。
わが夏帽どこまで転べども故郷 寺山修司
寺山修司が俳句に熱中していたのは昭和28年頃なので、『眞神』が上梓される20年程前ということになるが、修司は中学の頃より三鬼、そして三鬼指導の同人誌『断崖』に傾倒し俳句が出発点であることが知られている。敏雄の句を意識したいたことも確かだ。
修司の句に「母」「父」「故郷」が多く登場し、それぞれが呪物的存在を示し、『眞神』登場物との共通点も多い。修司は亡くなる直前まで、敏雄と交流があった。俳句に戻りたい想いを募らせ、三橋敏雄、齋藤慎爾らと同人誌『雷帝』を構想し誌名が決まったその十日後に修司は昇天している。
『眞神』上梓の後に修司は没している(1983年)が、「雹噛んで」の句が五木寛之、寺山修司をはじめとする「故郷を葬るものたち」への鎮魂と言えるだろう。
30. 寄港地をいくつ去るべしセロリ抱き
船上従事者としての敏雄の視線が伺える句が4句つづく。
敏雄は戦後、運輸省の練習船事務局長の職に就いていた。幾つもの港に寄ったことだろう。そして数えきれない港を去ったことだろう。
セロリは戦後の食卓で西洋料理が一般化してから普及しはじめた。戦後の日本ではまだ目新しかったころのセロリを寄港地で見たというように受け取れる。
敏雄が清酒「八海山」が好みだったということをよく紫黄から聞いたが、外航生活が長いとはいえ、食べ物、料理の句に遭遇しない。食べることが精一杯だった世代でもある。食を礼賛することは、敏雄の趣味ではなかったようだ。
セロリを抱く。「抱き」の自動詞からセロリを抱いているのは敏雄自身と読める。港に訪れた地元の行商からセロリを買い、甲板から離れていく港の船着場を眺めているように思える。戦前の新興俳句の表現ならば「セルリー」だったかもしれない。戦後の西洋という意味で「セロリ」という表記なのか。山崎まさよし作詞作曲『セロリ』があるくらいなので苦手な食物として挙げる人も多いだろう。女性との苦い思い出を「セロリ」に掛けているのかもしれない。
大阪のガスビル食堂のコース料理につく生セロリは、昭和8年創業当時から続く名物らしい。当時の大阪ガス会長片岡直方は、「本物の西洋料理にセルリー(セロリ)は欠かせない」と種子をカリフォルニアから取り寄せ、栽培したそうだ。秋山徳蔵氏(昭和天皇の料理番)も、その著書『味の散歩』(産経新聞出版局/三樹書房1993年再刊)の中で、ガスビル食堂の生セロリを絶賛している。
やはり「セロリ」は西洋を意識的に表現するものとして捉えるべきだろう。
腿高きグレコは女白き雷 『まぼろしの鱶』
グレコが西洋の女性であればセロリも手足が長い西洋の女性のこととも思える。「セロリ」は碇泊中の女性を示す「隠語」という見方もできるが、敏雄の抱く西洋というものが「セロリ」だったのだろう。
「去るべし」の措辞は、推量・意志・当然・適当・命令・可能と多義であるが、作者自身の一人称と読み、「いくつもの寄港地を去るべきである」という意に読める。やはりセロリを抱いているのは作者本人と解釈する。
新興俳句の特徴でもあった、モダニズムの表現は、敏雄の中で当初より厳選されている。
例えば、
少年ありピカソの靑のなかに病む 『靑の中』
この句の「ピカソ」と掲句の「セロリ」の捉え方は何ら変わっていない。「セロリ」に抱(いだ)くわれわれのモダニズム、西洋への憧れ、ピアスとしての「セロリ」が、俳句の中で如何に融合するのか、それを当初より敏雄は理解していたとしか言いようがない。
敏雄は、俳句として「セロリを抱(だ)いた」ことになるのだろう。
31. 日にいちど入る日は沈み信天翁
「戦後俳句を読む」テーマ:私の戦後感銘句3句をご参照ください。
日にいちど入る日は沈み信天翁
人は一生を通じて、「こころ」という不思議な作用に左右される。時代、環境に翻弄されながら「こころ」を持つ「人」として成長していく。経過する時の中で肉体、脳が老いていく。記憶の中にとどめたくない事象に遭遇し、年齢とともに「こころ」が磨り減っていく。それでも日(陽)は昇り、日(陽)は沈み、一日が展開する。生きる者に、朝が来て、昼が来て、夜がくる。そして、春が来て、夏が来て、秋が来て冬になり一年が終わる。人も動物も植物も営みを繰り返えす
掲句は、三橋敏雄 句集『眞神』(ま(・)かみ ※注)31句目に収められている。昭和44年、敏雄49歳の時の作である
『眞神』には全体を通し不思議な時間軸が流れる。浮遊した時の中で、身体的といえる言葉を通しタイムスリップしたような世界に引き込まれていく。現代詩とも、絵画とも、映像とも共通する、それまでになかった17文字の世界が展開し、次の句へと連鎖するような錯覚をし、不思議な迷宮を体験する。『眞神』は生生流転の人間世界、自然界を背景にしている
上五中七のたった十二音節「日にいちど入る日は沈み」において、地球の自転を潜ませ日没から日昇までの時間経過を暗示している。繰り返しながら、日々失っていく何か。「日」という陽に対し、「沈む」という陰。全滅の危機に瀕する「信天翁」(あほうどり)の、「天」を「信」ずる「翁」という表記。使徒のような鳥が重く沈む日(陽)をみている。鳥からの視点が感じられる。読者が鳥になったような錯覚を起こす。読者は、自分の人生や時代を思いつつ、ただこの句を前に自分を投げ入れるのではないだろうか
アメリカの「失われた世代」(ロスト・ジェネレーション)とは、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの小説家に代表されるような20代に第一次世界大戦中に遭遇し、従来の価値観に懐疑的になった世代をいう。『日はまた昇る』(原題:The
Sun Also
Rises)は、ヘミングウェイの出世作として有名だ。その序文に記された言葉を引く
傳道之書(アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』谷口陸男訳
「世は去さり世は来きたる地は永久とこしなへに長存たもつなり 日は出いで日は入いりまたその出いでし處に喘あえぎゆくなり(略)」
上記の言葉は、旧約聖書 第一章であるが、これには省略されている冒頭箇所がある。「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
これを掲句に結びつけると、神の使徒「信天翁」は、いっさいの空にいる自由な阿呆(あほう)。崇高でありユニーク。『眞神』には所々にシャーマン的な存在が登場するが、注意しなければならないのは、『眞神』は物語ではない。俳句集である。読者が慣れ親しんできた言葉を使用しながら、俳句形式の中で読者を別の世界へ連れて行く三橋の冷静で巧みな術がある
戦争という体験は、三橋に多くを語らせず、しずかに、海から陸をみるという視点をもたせた。大人は泣き叫ばず日常を淡々と生活できる。大人は考えることができる。大人は時間を操作できる。掲句は、大人であること、人生の時間について改めて想いをめぐらす一句である
※注)『眞神』の読み方は、様々あるようだが、筆者は「ま(・)かみ」と読む。]
32. 帆をあげて優しく使ふ帆縫針
帆船の美しさに心酔する。「順風に帆を上げる」という諺がある。追い風のときに帆をあげて出帆する。万事好都合にいくことをいうが、日本の帆船の数奇な歴史に改めて「帆をあげて」という措辞が希望の言葉として読み取れ、胸を打たれる。
敏雄は昭和21年より同47年まで帆船練習船「日本丸」「海王丸」ほかに事務長として歴乗した。どちらも戦争という数奇な運命を辿った帆船である。現在「日本丸」はみなとみならい21に展示保存、「海王丸」は富山新港海王丸パークに一般公開されている。どちらの帆船も太平洋を中心に訓練航海に従事していたが、太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)に帆装が取り外され、石炭などの輸送任務に従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として引揚者を輸送。帆装が再取付けされたのは、1952年(昭和27年)であった。数奇な運命を辿った二隻に再び帆が取付けられたということは敏雄のみならず国民にとって感慨ひとしおであったことだろう。
満州北部の佳木(ジャムス)という地で19歳の医学生として終戦を迎え、抑留14か月後の昭和20年10月に引揚船(病院船)にて帰国した五味誠氏(満州国立佳木医科大学第4期生、現・馬込医院医院長)に話を伺った。
「僕は、新京駅から多くの患者たちに付添い、コロ島から引揚船に乗った。米国貸与のリバティ型貨物船だった。引揚者の患者が蚕の寝床のように板状に釣られて横たわっていた。医学生として船中で患者に付添うことが目的だった。蔓延していた結核、発疹チフスの患者たちだ。助からない患者を看取り、水葬するため遺体を海に沈めなければならなかった。辛かった。一学年下の同郷の友人が結核であったため、彼を故郷に連れて帰るという大目的があったが、1週間船に揺られ、さらに博多港の検疫所で1週間。彼は日本の地を踏む事なく息絶えた。あの引揚船でのさまざまな光景は、今もはっきりと憶えている。しかし、思い出すのは嫌だ。いつまでも辛い想いで忘れることはない。」
すでに敗戦後67年が経過してようとしている。壮絶な人の死を見てきた人の心は癒えることがない。敏雄と同世代、生きていくことが精一杯だった人々の底力を感じる。
あえて「やさしく使ふ」と表現しているが、帆縫針を帆を縫うために「やさしく使ふ」のであれば、敏雄の心の中に刻まれた人の死を一針一針鎮魂しているように思えるのだ。
敏雄の辿った多くの航路、昭和の歴史考えながら掲句をみると心が熱くなる。本当は「やさしく」なれない状況だったのだろう。
【図解】針のサンプル(広島県針工業協同組合)
https://www.aeras.jp/hari/kind/allkind1.html
33. 行雁や港港に大地ありき
雁の股旅物語。港港に女あり。渡る世間に未練はねぇ。山本紫黄の十八番だった「名月 赤城山」の歌詞(作詞:矢島寵児/歌:東海林太郎)には、「渡る雁がね」と入っている。やはりマドロスも股旅である。港も大地も女性を思わせる。
雁が港にやってくる。そこには、母なる大地が出迎える。命を育む大地があるからこそ、雁は命をつなぎ翼を休ませることができる。大地の恵みを受け取りながら、鋭気を養い、生きながらえて再び目的の地へ向けて北上するのである。
戦後、敏雄が海に逃れていた昭和30年代、日本人船員黄金時代でもあった。船乗りの給与は陸地の平均給与の約3倍といわれる時代であり、当時のドラマやアニメのパパ役は大抵が豪華客船の船長かパイロットという設定。海外航路に従事することは当時の憧れの職業であった。1ドル360円、為替が固定相場だった時代である。
現在は外国人就労者が8割になり、海運国である筈の日本にとっては、深刻な問題でもある。当時の寄港停泊は1週間が当たり前だったらしく、その時間を利用して敏雄は神戸の三鬼館を尋ねたりしている。長期航路の敏雄を三鬼との三鬼門の仲間(大高弘達・葩瑠子、大高敏子・淑子姉妹、山口澄子、山本紫黄)が横浜港に迎え、事務長私室にてオールドパーの封を切り、その後、新橋で宴という私上でも華やかなパーサー時代であったと想像する。
「まだ国際航海は許されていない頃であった。凡そ近海を廻り尽くすうち数年で日本中に知らぬ港はなくなった。港々は荒れていた。沖から見る日本列島は美しかったが、常に波浪に隠れ易く、あわれであった。時に復員船に仕立てられ、中国大陸や台湾にも幾度か在来した。朝鮮戦争では、米軍命令で彼の国の難民輸送にも当たらされた。句材には事欠かぬ筈であったが、志衰え、占領下激動するあらゆる社会現象に対しても、敢えて興味を持とうとはしなかった。幸い私の乗っていた船は航海練習船であったから、航海そのものが目的で、行方には、特に目的地はなかった。全く私は海に逃れていたのである。」
『まぼろしの鱶』後記
「大地ありき」とは、「大地がはじめからあった」「大地がもともとあった」という意味になる。港、船、車が「愛しい人」というニュアンスを含め女性名詞として表現されることがあるが、「大地」も愛しい人である。
大地の愛しい人を期待した旅の絵葉書が敏雄から紫黄へ届く。絵葉書は、南の島の女性が大らかに椰子の実のジュースを飲みほしている写真だ。
「途中ジョンストン島で核爆発(*1)のオレンジ色の余光を1000マイルはなれたところから望見したほか何も見ることなくタヒチに着きました。地上最後の楽園の呼称もいまは地に落ち単なる観光地の様相です。(中略)シコウのためにようやくこのエハガキを入手したので早速送ります。日本が地上最後の楽園かも知れません。オッパイに関する限り」
『弦』23号より(2008.10.1 遠山陽子刊)
絵葉書の文面から港港の字面がオッパイに見えてきた。
34. 捨乳や戦死ざかりの男たち
「チチ」である「捨乳(「すてぢち」…と読むと推測)」。
前回鑑賞句「行雁や港港に大地ありき」の「港港」の字面がオッパイに見えてきたのはそう間違ってはいない。ハワイで生まれたココナッツ酒のカクテル「チチ」は、「粋な」という意味を持つらしいが、「すてぢち」にはお国のために死ぬことが美徳だった時代に対するシニカルな嘆きが感じられる。
「戦死ざかり」の「さかり」の用法は肯定的な事象に対して使われ、物事が一番勢いのよい状態にあること、盛んな時期のことである。しかし「戦死」に「さかり」を組み合わせ、さながら「戦死」が男ざかりの祭のようだ。「戦死ざかり」という「戦死」に花の季節があったかのようだ。死にゆく男たちへ白く濁った酒のように乳を振り撒いているようである。それも「捨乳」。やぶれかぶれの「捨て鉢」と掛けているのか、とんでもない句に思える。
「戦死」という死の祭りということから考えて、今までの『眞神』鑑賞句から生死に対する祭のイメージがある関連句を拾ってみる。
母ぐるみ胎児多しや擬砲音(4句目)
晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ(6句目)
上記に母、父をよみつつ、胎児に響く「擬砲音」、空にばら撒かれる「晩鴉」が祭祀の音響、映像として浮かんでくる。
『眞神』には忘れられた日本の風習、つまりは日本の風土に根差す民俗学的視点で鑑賞することもできるのだが、それは敏雄が読者とのある一つ約束事、季語に替わるものとして、読者との同認識の結果にすぎない。例えば掲句でいえば、どこか郷愁の「祭」である。
本来の「祭」は、超自然的存在への様式化された行為である。祈願、感謝、謝罪、崇敬、帰依、服従の意思を伝え、意義を確認するために行われた。日常と深く関わっていた。村という共同体の中での儀式、儀礼として機能していた。「ハレとケ」のハレの部分である。死ぬことは、超自然的存在への帰依なのである。だから乳をふるまうのだ。それも捨乳で。
「戦死」は軍人が戦争や戦闘により死亡すること。婉曲表現として第二次世界大戦終結まで、仏教用語の「散華」が、また戦死者を美化して「英霊」とも呼んだ。ここに敏雄が、直接的な、「戦死」を選んだことには、「戦死」=国家の為に死ぬということに対しての痛烈な疑問が込められていると受け取る。
そして戦死という無惨な死の祭は、タイトルにもなっている句、
草荒す眞神の祭絶えてなし
へと繋がっていくようだ。
生まれることも死ぬことも選べないということを改めて考える。人の生死は自然の中に必然のようにある。だが戦死は必然とは違う。死んでいった男たちを残されたものが忘れない限り人は生き続ける。敏雄の戦後そのものだったのだろう。
どこか自暴自棄の、残されたものの暴力的な心理を感じる。
『望郷―山口晃展』(2012.02.11-05.13 銀座・メゾンエルメス)に於いて「正しい、しかし間違えている/2012」という床の傾いた部屋様の作品があった。
「通常私たちは、建物の垂直軸と重力方向が等しい環境に居る訳ですが、この二つがズレると目眩や、甚だしい場合は転倒を引きおこします。これは経験による体力維持が、知覚に依る体力維持を阻害する為におこるもので、経験上の正しさが不適合につながった訳です。ー山口晃」
わたしたちの経験、知識の何が正しいかなど当てにならないときがある。掲句は、読者の経験上の「俳句」とのズレを敢て生じさせているのだろうか。不思議な魅力がある。
35. 然る春の藁人形と木の火筒
犬神と眞神。はじめて『眞神』の存在を知ったとき、どこかおどろおどろしいタイトル名は死国のイメージがあり『犬神家の一族』(横溝正史)を彷彿した。『犬神家・・・』も昭和の傑作であるし、村、復員兵、戦争、言い伝え、血族、などの共通項目は多い。
藁人形が「菊人形」である方がより近いけれど、掲句は特に『犬神家・・・』のイメージに近い。鉄砲を意味する「木の火筒」は猿蔵(犬神家の下男)が護衛のために持っていてもおかしくない。犬神佐清(すけきよ)、青沼静馬がビルマ出征前の軍事訓練ということも考えられるし、藁人形が佐清と静馬の運命を入れ替えた呪術のものとして登場していることも想像できる。
犬神と眞神・・・確かに一文字違い。犬神から点をとって大神(オオカミ)、山の神聖な神であるオオカミとなる。「大口眞神」のオオカミである。『犬神家の一族』はオオカミを意識しての犬神という姓なのだろうか。
作者の手を離れた後の作品は読者に懸ってくる。
「然る春の」が、漠然としすぎている。それが尚更、「藁人形」と「木の火筒」に物語を与えているように思える。
36. 正午過ぎなほ鶯をきく男
戦後俳句を読む (7 – 1)―「音」を読む― 三橋敏雄の句をご参照ください。
正午過ぎなほ鶯をきく男
掲句、至る所で鶯が鳴いている光景が浮かぶ。けれど、この男、鶯を本当に聞いているのであろうか。「正午過ぎなほ」これは、小原庄助さんを兼ね備えつつマニアックでマイペースな男である。午前中からずっと鶯の声を聞き、午後になってもまだ聞いている。「きく」と書いてあるが、この男、実は「聞いていない」と解釈する。それは、「なほ」からくるもので、尋常ではないことを想わせ、想像力が働く。男に焦点を当て、この男が別の事、言うなれば人生について思い巡らしていると想像する。往々にして三橋作品から音が聞こえない気がする。
凩や耳の中なる石の粒 (*1) 『しだらでん』
梟や男はキャーと叫ばざる
すさまじい凩の音よりも耳に入った石粒が気になる。男はキャーと叫ばない。やはり筆者に「音」は聞こえてこない。白泉は、「玉音を理解せし者前に出よ」「マンボでも何でも踊れ豊の秋」「オルガンが響く地上に猫を懲す」「鶯や製茶會社のホッチキス」などの音から起因する句、それも一拍ずれているような音が聞こえる気がするが、敏雄の「音」は消えている。極め付けなのは、下記の句。
長濤を以て音なし夏の海 『長濤』
映画の中でミュートをかけたように意図的に数秒間「音」が消え、映像だけが流れる効果に似ている。敏雄は、唯一、音楽が苦手だったようだ。「やはり」と思ってしまう。それが俳句の上で効果となっている。「音」を読者に届けるのではなく「言葉」による音の想起を促している。ひとつの物音も俳句を通し読者に想像させる力を持つのである。欲しいのは言葉、そして俳句ということか。
「鶯をきく男」、ウィスキーグラスを片手にただ遠く流れた時間そして人生を想っている気がしてならない。
李白の詩がある。
『春日醉起言志(春日 酔より起きて志を言ふ)』(*2)
處世若大夢 世に處ること 大夢の若し
胡爲勞其生 胡爲ぞ 其の生を勞する
所以終日醉 所以に終日醉ひ
頽然臥前楹 頽然として前楹に臥す
覺來眄庭前 覺め來りて庭前を眄 むれば
一鳥花間鳴 一鳥 花間に鳴く
借問此何時 借問す 此は何の時ぞと
春風語流鶯 春風 流鶯に語る
感之欲歎息 之に感じて歎息せんと欲し
對酒還自傾 酒に對して還た自ずから傾く
浩歌待明月 浩歌して明月を待ち
曲盡已忘情 曲尽きて已に情を忘る
「鶯をきく男」の句は李白の詩そのものである。マーラー(*3)はこの李白の詩を原作とし連作歌曲『大地の歌(Das
Lied von der Erde)』を1902年48歳のとき作曲している(*4)。そして敏雄は、1969
(昭和44)年49歳のときに掲句を得た。俳句形式となった17音は読者の脳波に変換され響き渡るのである。李白をもとにマーラー、敏雄と古典は永遠に人を酔わせ新たな名作を生む力がある。
敏雄は、永い船上勤務で、ひとり、遠く陸を想う時間を過ごしたであろう。「なほ鶯をきく男」はやはり酒を呑みながら世をながめている男であったか。鶯の鳴声(「なお鳴く鶯」すなわち「老鶯」であろう)は、敏雄の中で静かに消されている気がする。
*1)ちなみに白泉に「木枯や目より取出す石の粒」がある。
*2)李白(701-762年)『李白詩選』(松浦知久訳/岩波文庫)
*3)マーラー(Gustav Mahler, 1860 – 1911)
*4) 1986年サントリー・ローヤルのCM
(http://www.youtube.com/watch?v=NSlVsnMbZ48)に『大地の歌Mov.
3』(http://www.youtube.com/watch?v=lb9KnrrvDc8)が使われた。)
37. 共色の青山草に放る子種
「青山草」とは、東京・青山墓地あたりに生えている草、青山・草月会館の隣りの高橋是清公園に生えている草、青山という地に生えている草ということも考えられるが、「青/山草」という切り方で青い山草と読むのがよろしいように思う。山草とは山に生えている草、あるいは裏白(ウラジロ)というシダ科植物の別名である。このウラジロが名前からして妙な雰囲気である。そもそもウラジロとは、正月飾りに使うもので、注連縄、ミカンの下に垂れ下げるのはウラジロと決まっている。その由来は、「裏が白い=共に白髪が生えるまで」という意味だという。そこに子種を放出する。これは、日野草城『ミヤコホテル』に対抗する解釈ができてしまう。いいのだろうか。
驚くことに、後の敏雄夫人の句に
帯どめと同色の草春の園 庄野孝子 (「断崖」昭和36年6月号)
があることを発見した。似ている。巨匠、大いに初学の子女の句と似ている。
いいのだろうか。
労働者の句とも読める。ミレーの『種まく人』のように大地に放出する力強い労働する男の姿。「放る」というだけでとても力強いのだが、それを「共色の青山草」として、「萌え」な柔らかい雰囲気にするところなど、本来、バーのコースターの裏にでも書いてポケットに忍ばせるような句だという気がするのだが、『眞神』に収録されているのだ。
チチハハへのセレモニーだけでなく、野を駆けて放出し、老いていく敏雄がいる。それが次回の句である。
★―13深谷義紀【成田千空】― 「獣」を読む ―
雄の馬のかぐろき股間わらび萌ゆ
今回のテーマは「獣」である。しかしながら千空の句集をめくっても、獣を真正面から捉えた作品はほとんど見当たらない。
例えば、獣たちの代表的行為である「冬眠」の作例でも、
遠山とまだ冬眠の猿田彦 『白光』
といった詠みぶりであり、リアルな獣の姿からはおよそ程遠い。
けれども、もう少し広く「動物」(但し虫・鳥・魚などを除く)という視点で眺めてみると、次のような作品が目に付く。
耕牛の底びかりして戻りくる 『地霊』
秋風の羊ごつごつ闘へる 『人日』
三尺は跳ぶ闘鶏の始めかな 『人日』
いずれも農耕のため、趣味のために飼われている動物たちである(2句目は小岩井農場での吟行句)。千空にとっては、野生の動物たちよりもこれらの動物たちの方がずっと親しみ易い対象だったのだろう。
なかでも着目したのは掲出句である。第4句集『白光』所収。千空らしい骨太で、剛直な詠みぶりである。作品の焦点は、生殖器が存在する牡馬の股間に当てられているが、野卑な印象は全くなく、感じるのは原始的な生命力である。それを支えているのは、下五の「わらび萌ゆ」だろう。
話がやや脇道に逸れるが、この句を読んで想起したのは、青森出身の版画家棟方志巧の作品だった。共通するのは、おおらかな生命賛歌となっていることだ。
結局、獣という言葉に込められた野性や凶暴性は千空の作品世界に発見することは難しく、むしろ動物たちが人間の傍で懸命に生きている、その姿にこそ感動を覚えていたのだろう。